2003年08月08日(金)
  寂しいところへ行って

「さあ・・寂しい所へ行って、しばらく
休みなさい」(マルコ6:31)

遠方の友人からのメール。
「ばたばたしている自分が透けて見えて、
そのような時は何が必要か、何でもない
ことですよね、ちょっと今の生活から、
ほんの少し距離をおき、ほんの少しの間
でも、”寂しい”ところに行ってみる。
寂しいところに自分をおいて、見えてく
るものがあるというのはつくづく真実だ
と思いました。」

主が「“寂しい”ところへ行って」と言
われる。行くことが必要だ。
主の御声は、小さな小さな、細い声。
静かでないと聞こえない。

一人の姉妹が「いつもテレビをつけっ放し
にしているんですよぉ。別に見てるわけじゃ
なくて、何か、もの寂しくて、つけておく。
でも、つけていると、何となく見てしまった
りして、何時間も無駄になってしまうんですよ
ねえ。

そのテレビが壊れて、修理に出さないと
いけないんですが、まあ、いいかと放って
いたら、何だか感謝で、それが、テレビが
ないと、聖書を開くんですよ!御言葉に
心恵まれて、感謝でした!!」

街の中も、店々も、家も、常に大きな音で溢
れている。テレビ、ラジオ、CD、BGM・・

そして、心の中も、自分の思いがやかましい。
自己主張、自己顕示、自己防御、自己憐憫・・

それらを降ろして、主の御声に耳を傾ける時、
主のお心が見えて来る。そして、自分の姿が
見えて来る。主の指針が見えて来る。

主と一対一の「寂しい所」がどうしても必要。

目まぐるしい日々、時間に追われ、目の前の事
をこなすのに精一杯、そして、これでもか、
これでもかと攻撃してくる、世の価値観、肉の
欲望にさらされている。サタンの凄まじい勢力だ。

これらに抵抗し、対抗し、戦うには、どうして
も主との交わりが必要。そうしなければ、人生、
どこまでも上っ面で、流されて行ってしまう。
by 多恵子