2011年04月13日(水)
  「死は勝利にのまれた」

教会で、ご高齢のAさんの葬儀式が執り行われた。

連絡を受けて、駆け付けた時には、もうすでに召されて
おられた。
この世での、神様からの使命を全うされ、眠るような、
安らかな〃お顔であられた。

今は、天で、喜びと平安と幸せの中におられること、
また会えること、本当に感謝でならない。

葬儀式で、御言葉を聞きつつ、改めて救われて
いる事の恵みの大きさを思う。

人は死を恐れる。死が怖い。死は何もかもを、決定的
に断ち切り、奪い去ってしまうからだ。
死と共に、何もかもが失せてしまうなら、人生に
意味が無い。すべてが虚しいものになってしまう。

人生に答えが無い。死んだらどうなるのか、
どこへ行くのか、わからないとは、不安と恐怖の
真っ暗闇だ。

主イエス様の十字架によって、人生に解決を、
「死」に、「永遠のいのち」という答えを与えて下さった。

主に在って、永遠に繋がっているので、今している事
に意味が生まれる。

「死」に対して、明確な「答え」があるとは、何という事
だろう。それが、よみがえりであり、いのちそのものであり、
この生けるまことの神様だけに出来る奇跡だ。



ずっと以前に、小さな子供さんが亡くなるという、悲しい、
辛い出来事があった。

その葬儀式で、宣教師の先生が開口一番、大声を
張り上げて言われた。
「リジョイス!!喜ぼうじゃないか!!」

びっくりしたが、「この小さな命は今天国にいる、
その死を通して、父親が救われ、おばあちゃんが
救われた!!その事を喜ぼうではないか!!」
はっきりと信仰に立った葬儀式だった。

その死を通して、父親とおばあちゃんがイエス様を
はっきりと救い主として受け入れられたのだった。

そして「ビクトリィ イン ジーザス」(イエスにある勝利)
の会衆賛美になった。
会堂に、イエスにある勝利の大賛美が響き渡った。

自分の中で、天国が地に降りて来たかのようであった。
涙が溢れて、溢れて、流れ出て、それが悲しみの涙
と共に、恵みの涙だった。
悲しいのだけれど、しかし、ただただ神様への賛美が
心に溢れ出る経験をした。御霊の支配を感じた。

その葬儀を通して、二人の方がイエス様を信じられた。

人間のものではない、神様のいのちの中に、すっぽり
入れられたような、時空間だった。

「死は勝利にのまれた」Jコリント15:54


しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが
不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている
みことばが実現します。

「ですから、堅く立って、動かされることなく、いつも主の
わざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、
主にあってむだでないことを知っているのですから」
Jコリント15:58