2012年01月17日(火)
  「平安のありか」

若いAちゃんの職場で。

Bさんの係であり、Bさんが責任もって対応すべき仕事
だったが、Bさんに、指示された通りに対処した。
事情も何もわからないままだった。

すると、相手客から対応についてクレームが来た。
それは本来Bさんの仕事であり、対応もBさんが
すべきものであった。

しかし、Bさんは知らん顔だった。
若いAちゃんは、事実をすべて、言おうかと思ったが、
でも「きちんと確認しなかった自分が悪い。ごめんなさい」
と謝った。

その場が良いようにおさまった。

親のCさんが「正しいか、正しくないかで判断しなかった
事がえらいね」と言った。


同じく若いCちゃん

職場で、先輩がミスをした。
しかし、それがDちゃんのミスだと、皆に勘違いされた。
責められるわけではないが、「まあ、そそかっしいん
だから」と、皆に笑われた。

その場に、その先輩もいたが、何も言ってくれなかった。
先輩だし、自分が言うわけにも行かず、心は悶々とし、
不満と怒りで、いっぱいになった。

家に帰って、自分は悪くないのに、悔しくて、悔しくて
たまらず、我慢できない怒りを、神様にぶつけて祈った。

その時に、御霊はイエス様の十字架を思い起こさせて
下さった。
自分は悪くないと言うが、イエス様は全く悪くないのに、
何の罪も無いのに十字架にかかられた。


「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を
卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも
従われたのです」ピリピ2:8

イエス様の十字架を前にすると、自分は何なのかと
思った。
自分は悪くない、自分は正しいと主張している自分。

イエス様が自分は悪くない、正しいと主張されたなら、
十字架はあり得ず、私たちの救いは無かった。

自分の正しさを主張することでなく、イエス様に従う
ことが御心であり、そう思った時に、心がすっかり
平安になった。