2012年08月18日(土) 「涙とともに蒔く種」
キャンプで、 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら 刈り取ろう。 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、 束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」 詩篇126:5,6 からのメッセージがあった。 救霊の種を蒔く現実は、決して楽な事はない。 チラシを蒔いても、蒔いても、なかなか人は 来ない。 A先生は開拓伝道を始めて、最初は、神学校 で聞いた、開拓の初期は壁に向かってメッセ ージをするを、実践していた。 そのように聞いていたので、最初はそんなもの だと思い、毎回違うメッセージを用意し、誰も 来ない中、壁に向かってメッセージをした。 だが、幾らたっても誰も来ず、壁にメッセージ するのも空しくなり、聖書朗読をしようと、声 を上げて、聖書を読んでいた。 そんな時、管理人の人がのぞき、不審気な顔で見て 行った。一人だけがいて、何やら声を上げていて、 変に思われてもと、声を出さないで黙読しようと、 黙読していた。 それが、数ヶ月も、何年も続くと、疲れ果てて、 辛くなり、嫌になり、しんどくなって行った。 それで最後の方は、もう寝っ転がったりした。 でも、そんな中で、神様は一人でも、礼拝を献 げるということが、どういう事かを教えて行って 下さった。 一人であろうと、神様を礼拝しに行っていると 教えられて行った時、心が新たにされた。 救霊の現実は厳しい。涙と共に蒔いたら刈り取る でなく、種を蒔くには必ず「涙」が伴うという ことだと。でも、必ず刈り取りがあると。 バビロン捕囚から帰還した人々は、夢を見ている ようで、口は笑いで満たされ、喜びの叫びで満た された。 しかし、帰還したものの、厳しい現実が待って いた。これから荒れた土地に種を蒔いて、作物 を育てなければならない。 種は、それ自体加工してパンにして、食べる事 ができた。しかし、いっときの空腹を、ひもじさを 我慢して、その種を蒔かなれば、刈り取りは絶対 に無い。 種を蒔くのは犠牲が伴う。痛みが伴う。涙がある。 しかし、喜び叫びながら刈り取ると言われている。 救霊の種、祈りの種、献げることの種、涙と共に であり、犠牲が伴うが、必ず刈り取りがある。