2017年11月14日(火)
  「なぜ?なぜ?」

「やはり、そこが、信仰上の一番の試みです」と
いろんな方々が。

試練や、困難に行き詰まった時に、

“神様に不可能は一つもない”、“神様は何でも
できる”
“神に出来ない事は何一つない”
“神は全能であるお方”

それはよくわかる。神が全能で、何でも出来る。
それなら、なぜ自分の目の前のこの困難に、何も
してくれないのか。

何でも出来るのになぜ??
こんなに苦しいのに。こんなに辛いのに、なぜ
何もしてくれないのか?ほんとに愛してくれてるのか?

そこが試練の中で、非常な試みとなる。

Aさん「今、自分はそのまっただ中にいます。
ほんとにその事が一番大きいです。サタンもいつも
やって来て、なぜ?なぜ?を投げかけて来る。

でも、これこそが信仰の試しなんだと、教えられて
います。この中で、神は必ず良くして下さることを
信じて行くこと、これが信仰なんだなと」

Bさん「私も試練があって、試練自体はしんどくて
辛くて、どうしても環境が変わって欲しいし、早く
解決して欲しいし、試練が無くなることを望んで
します。

でも、「患難さえも喜んでいます。患難が忍耐を
生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す・・」
とあって、

試練が品性を生み出すと。私は品性が欲しい。
御霊の実を与えられたい、実を結ぶ者とされたい。
そのために試練が必要なんだと、教えられていて。
忍耐も無い者で、試練が忍耐を生み出すんです
よね。
自分が変えられて行きたいから、試練が必要
なんだと」

Cさん「ひえ〜〜、品性!!偉いねえ。
試練が来ると、早く去って欲しいばかりで、品性どうこう
など、考えられんわ(大笑)

でも、自分も試練は嫌だけれど、数々の試練通って来て、
信仰の成長のために、与えて下さってるんだなと、思え
ます。

実際、信じてはいるんだけれど、よくわからなかった神様が、
苦しい事、辛い事、しんどい事を通って、もうどうにも出来ず、
その中で叫び祈って、神様に近づけてられた。
今、以前とは全然違う。
痛くて、辛いけれど、感謝だとわかるし、そう思える」

委ねて行った時に、自分自身も事態も導かれて行った。

“霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さ
にあずからせようとして、懲らしめるのです”
ヘブル12:10