2019年05月10日(水)
  「主の平安」

「わたしは、あなたがたに平安を残します。
あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに
与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27

年配の婦人が、語られた。
教会へのきっかけは、主人が亡くなったことでした。悲しみ、落ち込み、もう、どうにもならず、ただ支えが欲しかったです。

イエス様を信じ、救われました。罪が赦され、天国に行けること感謝です。救いを受け、それが、心が本当に救われました。

あれほど辛くて、苦しくて、痛くてどうしようも無かった心に、平安が来たのです。ほんとに全く自分でなく、神様のみわざでした。驚きでした。

長い間の偶像のことで、神様に従った時に、喜びが満ちたんです。喜びが溢れる経験をしました。

今、一人暮らしなのですが、心は平安と喜びが与えられています。嬉しいです。主がいつも一緒にいて下さるので、寂しくないんですよ。
平安に過ごさせてもらっています。神様に出会わなければ、どうなってたかと思います。喜び与えられて、感謝で、感謝しかありません。


真に心に救いを与えて下さること、悲しみと痛み、辛さのどん底にあるたましいに、慰め、いやしを与え、生きる力を与えて下さることを見せられた。

自分の内からではない。自分では完全に何もどうにも出来ないところ、真に外部から、主から来る。


問題が起きて、試練に会う時、不思議を経験する。
目の前の苦しい状況に、心も苦しくてたまらない。
ずっしり重い鉛を抱えたように、心は重苦しくふさがれたようになる。
それが、主に、心にある事をこととごとく何もかも告げて、交わって行く時に、心が落ち着いて来て、主が受け取って下さった、主が思われる最善をして下さると思えて来る。

すると苦しい状況はそのままなのだが、心が平安になるから不思議だ。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:6

「そうすれば」の通り、神の平安に守られる。


「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のため指し通され、
私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし・・」イザヤ53:5

「私たちに平安をもたらし」
平安をもたらして下さるための十字架であった。


どんな時にも、「平安を与えて」、生かして下さることに
感謝でならない。