2009年01月12日(月)
  「どんな時も」

Aさん「どうしても受け入れられない人がいて、祈って欲
しい。嫌でたまらず、自分が苦しい。

これは逃げるのでなく、主によって、乗り越えなければ
ならないことだとわかる。

こういうのって、逃げても、次にまた、別の「あいつ」が
現れるんだよね。
自分が変わっていないから、その場は逃げても、結局
同じ事を繰り返すことがよくわかる。

相手の問題でなく、自分の問題だとよくわかる。
自我の強い、頑なな自分が砕かれないといけないと
よくわかる。主の取り扱いだと、わかる。
自分を変えようとしておられる。」

以前にも、Aさん、受け入れられない相手がいて、悩んで
祈って祈って、主に導きを求めた。
相手はどうであれ、自分自身の愛の無い、悪い態度を
示されて、謝った時に、自分自身が解放された。
平安が戻った。

相手がどうであれ、相手でなく、自分の問題だと教え
られる。
相手が何か問題があり、相手が悪い態度なら、それは
相手と神様との問題であって、自分の問題ではない。

自分の心の有様は、自分の問題であり、自分の責任だ。
結局は、神様と自分の関係がすべてだ。

神と自分の関係が正しければ、人がどうであれ平安だし、
正しくなければ、自分は平安が無い。
悔い改めて、悔い改めて行く時、平安が戻り、新たに
される。

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Bさん「自分の罪が目の前にある時、もうはなから
神様のもとへ行けない。
罪があったら祈りが聞かれないから、どうせ聞かれ
ない、ダメと、神様を避けてしまう。」

「だからイエス様がおられる。イエス様によって、
御父のもとへ行ける。私が道だと。そのために十字架
があるから、どんな時でも行ける」

「そうなんだよね。何でなのか、イエス様が飛んで、
どうしても、罪があるから神に受け入れられない、
というのが目の前にバーンと来る」

ほんとに、「わたしが道だ」と言われるイエス様が
おられる事が感謝。御父への道がある。

光の中におられ、聖であられ、栄光と尊厳に満ち満ち
ておられる御父のもとへ、とてもじゃないが行けない。

人にさげすまれ、のけ者にされ、誰からも尊ばれず、
悲しみの人で、果ては十字架で、血まみれで、身体も
心も裂かれて、ぼろぼろになられた。

そんなイエス様だから、近づくことができる。

十字架で、息を引き取られた時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」
マルコ15:38

「イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいること
ができるのです。

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たち
のためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」

「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ・・
たのですから、真心から神に近づこうではありませんか」
ヘブル10:2

どんな時も、どんなに罪深い状態であれ、この
イエス様によって、近づくことができる。
何と有難い。