2009年07月25日(土)
  「自我」

Aさんに突然の厳しい試練が臨んだ。
大変なショックで、苦しみ、悲しみ、痛み、
心は混乱し、余りの衝撃に、激しく揺れた。

「なぜ?」「どうして?」失望や怒りや、様々な
思いが千々に乱れる。

しかし、神様に焦点を合わせ、神様を見続けて、
祈り続けた。日にちの経過と共に、心が少しづつ
落ち着いてくる。
尚も、祈りに祈り続けていると、心が段々冷静に
なって来る。神様の力を感じた。

心に大きな変化が生まれていた。事態を受け
入れ、受け止めよう。
そのように変えられた心で、尚も祈り続けている
と、色々な事を御霊は示された。

状況や事態そのものでなく、それに至っている
原因に目を向けさせられ、それが突然のもので
はなく、根深く培われたものであり、又、弱さで
あること、自分自身が根底から変えられねば
ならないこと。

そして、この試練があって良かった、苦しいけれど、
あった方が良かったと、今、心から思えること。

もし、時間が試練前に戻り、どちらでも選択できる
としたら、自分は、迷わず、ここを通ることを選択
すると。

もし、この事が無ければ、平穏無事に、何もなく
進んで行っていたであろうが、形ばかりの、実質の
何も無い信仰人生になっていた事がわかる。
絶対にそうでありたくない。

痛いけれど、辛いけれど、自我が砕かれ、自分自身
を根底から変えようとして下さっている、神様の取り
扱いであること、それがわかるから感謝だと。
取り扱いにあずかって行きたいと。

平穏無事が、この世の宗教だ。悪い事が何も無い
ようにと信心する。自分にとって都合の悪い事で
あるが。

自分に都合の良いように、無病息災、家内安全、
商売繁盛、交通安全、平穏無事に人生を送り、
自我がそのままなら、本当に心底虚しい。

Aさんに深く共感する。


Bさんが、自分はご利益宗教だったと気づかされたと。

自分にとって都合の良い事が、善であり、自分に
とって都合の悪い事が悪、自分があるだけで、
そこに神様の御心など何も無い。

人生が自分の思い通りに、都合の良いように行って
欲しい。しかし、神様はそうではない。
それを自分は受け入れられない。神様の最善が常に
成っているのに、自分の思う最善と全く違うので、
受け入れない。反発し、反抗し、拒んでいる。

それは、自分を神の上に置いて、自分が神になって
いる。
自我であり、自己中心であり、だから、神様の愛が
わからない。平安も喜びもない。

その事に、御霊様が気づかせて下さって感謝だった。
やっぱり、自分は神様に従って行きたいと。


信仰人生、結局、「自我」に行き着く。
自我に死ぬのが嫌で、中途半端に歩むのか。
肉は、自我になど死にたくない、どこまでも自分中心
に歩みたい。

痛いけれど、しんどいけれど、砕かれることを
選んで、真の喜びと平安に満ちるのか。



「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、
それは、一つのままです。しかし、もし死ねば、
豊かな実を結びます」

「自分のいのちを愛する者はそれを失い、
この世でそのいのちを憎む者はそれを保って
永遠のいのちに至るのです」
ヨハネ12:24