2003年08月02日(土)
御父の心
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学びで、放蕩息子の箇所から、神様の無条件の愛を
学んでいた。
弟息子は、父親のもとが窮屈で、好き放題をしたい
と思っていた。父親が死んだら貰う財産を、今くれ
と申し出た。生きている父親に、失礼な話だ。
父親は何もかもわかっていて、あえてしたいように
させてやる。
よく親子の確執を聞く。親が子供に失敗をさせない
ため、子供の人生に道をつけ、転ばせない。安全な
道を行かせる。
子供にどうしても行きたい道があった場合、そちら
へ行ったからと言って、成功したかどうかもわから
ないが、それは一生引きずる事になる。
子供は納得が行かず、反発心を人生の最後まで親に
向ける。
しかし、これは親の愛情というより過保護、愛情の
形をとった支配では。子供自身の人生であり、親の
ものではない。
息子は喜び勇んで、遠国へ行き、放蕩三昧。
どん底になって、何もかも失って初めて、本当のも
のが見えてくる。父のもとへ帰りたいと思う。
父に謝ろう、子の資格は無いから、雇い人にして
もらおうと、立ちあがって、父のもとへ向かう。
ヨレヨレで、ボロボロになった息子を責めずとがめ
ず抱きしめた。すると、いっさい責められず、抱き
しめられた息子は、すでに悔い改めていたが、心の
底から悔いた。
私達の肉の性質には、この世で培われた「神様に喜
ばれることをしなければ、愛されない」との根強い
価値観がある。ゆえに、頑張って、頑張って、受け
入れて貰おうと頑張り続けて、力尽きる。
しんどいばかりで、そこには喜びも安らぎもない。
しかし、神様の愛は無条件、今のままで受け入れ、愛
して抱いて下さっている。だから、愛されているから、
神様に喜ばれることをしたいと思う。
この学びの時に、Y子ちゃんが「ダメ!主人にも子供
にも言いたい!!家に入る前に、一言あるだろ!言って
入れよ。一言断りを入れろ。よう、入れるな!」
はー!(大笑)「ダメ〜!できん。神様の愛はすご
すぎる。」
S子ちゃん「雇い人にしてくれというなら、『ほいじ
ゃあ、そう言うなら、雇い人から始めてもらおうか。
してきた事考えたら、当然じゃろ。』と、思いますよ
ねえ。」(笑)
肉の思いは、自業自得。あんたが自分で招いた結果。
そうすりゃあ、こうなるだろう。
でも、神様はそうじゃなくて、まず「かわいそうに
思い」ルカ15:20 だ。何という慈しみ。憐れみ。
待っていないで、自分から「走り寄って彼を抱き、
口づけした」15:20
Y子ちゃん、S子ちゃん「ああん〜〜!!もう神様の
愛は大きくて、深くて、測り知れない。なんていう
愛だ〜!!」
弟息子と兄息子の事は、聖書に出てくるけれど、
私は父のことを思うんだけど。息子は好き放題して、
立ち返っていいけれど、父の心はどんなだったんだ
ろう。
どんなに傷ついた事だろう。息子に裏切られて、
勝手に出て行かれて、心を踏みにじられ、踏み荒ら
され、ズタズタに傷ついたに違いない。
愛しているゆえに、尚さら。
それでも、尚且つ、帰って来た息子を、大喜びで
抱きしめる、これが<愛>ということ。
この愛で、今、このままで抱きしめられて、愛され
ている〜!!!
by 多恵子
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