2011年07月10日(日)
  「神の思いと自分の思い」

「天にいます私たちの父よ・・」
主の祈りから、祈りに二つの部分があることを
学んでいた。

「御名があがめられますように」
「御国が来ますように」
「みこころが天で行われるように地でも
行われますように」

「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」
「私たちの負い目をお赦し下さい」
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い
下さい」

「神の御名が崇められ、神の栄光が現れるように」
&「私たちの必要」を求める、二つの部分から成ると。

学びを通して、自分たちの必要ばかり祈っているの
では、と話し合った。それは必要だが、二本立てで
あるので、主の御名が崇められること、主の栄光を
求める事がまず大切だ。


Aさん「最初はそういう事も全くわからなかったが、
信仰生活を送り、御言葉を学ぶにつれて、段々、
神様の思いと、自分の思いが違うということに、
気づいて来た。

御心がなりますようにという事は、自分の思い通りに
ならない事だと、わかって来ると、『御心が成りますよう
にでなく、自分の思いが成りますように』との思いを、
心の底ではしっかり持っている事に気づく。

全然わからない内は、自分の願いのみだったが、段々
わかって来ると、『御心がなりますように』が祈れない。
一応口先だけで祈る、上っ面だけの祈りだった。

自分の思い通りになる事は心地良い。自分に都合良くて、
肉にフィットしていて、肉には快適そのものだ。
だから本音は、『御心が成って欲しくない、自分の思いが
成って欲しい』
御心が成るって、自我が砕かれて行くことで、自分には
痛いことと、薄々わかるので、ずっと避けていた。

自分が変わるのは、痛みを伴い、エネルギーが要る。
だから、自分は変わりたくない。
ずっと今まで、自分でなく、人を変えようとして来た。
それだと自分は楽で、それが平安と勘違いしていた。

でも、自己中心な祈りは、幾ら祈っても叶えられない。
今、自分を明け渡して行くことを、祈って行きたい。
御心が成りますようにと、心底祈れるように、自分が
変えられたいと思う。」



「御心成りますように」が祈れないと、わかっている
ところがすごい。
御心が成りますようにと、自分も御心を求めている
「つもり」だと、本当は違うのに、それにも気づか
ない。