2003年01月14日(火) 潤ちゃんコーヒポット事件!
職場で、一番年下の若い潤ちゃん。日毎に神様からの訓練 を受けている。職場では一番下っ端で上司の命令は絶対的。 ある時、先輩がコーヒーポットを割った。しかし、先輩は 知らん顔をしている。 周囲は何となく、潤ちゃんが割ったと思っている。 「あら?ポットどうしたの?」と聞かれた時、「すみま せん」との言葉が自然に口から出て来た。全く先輩に腹も 立たず心も静かで平安で、自分でも驚いた。神様を感じた。 ところが、段々と肉の思い、古い性質が頭をもたげて来て 怒りが沸き上がる。自分の名誉を傷つけられた、許せない 思いに、怒り沸騰。でも、人を裁くと、その後を自分の 罪が追いかけて、堂々巡りで、いつまでも平安が無い。 職場で、ふっと鏡を見た時、じゃあ自分は一体なんぼの もんよ、と思った時、今度は猛烈に自分に腹が立って来た。 何の罪も無いイエス様が、こんな自分のために、罪をかぶ って死なれた事が迫って来た。 家でも泣いた潤ちゃん、でも、翌日「解決しました!」と メールが来た。 帰宅して、御言葉に向かっていた時、「ののしられても、 ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、 正しくさばかれる方にお任せになりました」 Tペテロ2:23 「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会って いる人々は、善を行なうにあたって、真実であられる 創造者に自分のたましいをお任せしなさい」4:19 イエス様のことを思うと、自分の事など何でもないこと に思えた。イエス様、感謝です!!の思いに変えられた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 潤ちゃんのことを祈っていた時、御言葉が迫って来た。 「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前に おける良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは 喜ばれる事です。善を行なっていて苦しみを受け、 それを耐え忍ぶとしたらそれは、神に喜ばれることで す。あなたがたが召されたのは、実にそのためです」 Tペテロ2:11 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は 多くの罪をおおうからです」 同時進行で、神様ご自身から教えられて、すっかり 平安になっていた潤ちゃん、全く同じ事を示され 聖霊様の導きを感じる。 「自分は正しい」を追求して行くと、不思議だけど 正しくなくなってしまう。潤ちゃんはコーヒーポット を割っていなのだから、正しい。 しかし、もっと満ち満ちた、全く別の領域、世界が あることが私達はそれを知っていることが素晴らしい。 イエス様は正しさだけに立たれていたら、十字架に かかられる必要は無かった。なぜなら、罪が一つも 無く、絶対的に正しかったのだから。 十字架を拒まれても当然だった。そして、救いも無 かった。 もっと素晴らしい領域があり、それが十字架を負う ことだと。自分に死ぬこと、みこころに従うこと、 それが十字架を負う意味だと教えられる。 単に「正しい」に立つのは、普通のこと、何も感じ ない。しかし、十字架を負う人を見る時、心に深 く訴えるもの、心動かされるものが迫り来て、 「何か」を感じる。 先日、学び会で学んだ。「聖霊を悲しませては いけません」エペソ4:30 良心でもない、善悪でもない、正、不正でもない、 聖霊の領域があると。 良心も、善悪も、正、不正も何の問題も無いのに、 聖霊様は違うと言われる。心がすっきりしない、 合法的で問題は無いはずなのに、何か平安が無い。 聖霊のお心にそってはいない。 私達は、良心でも、善悪でもなく、聖霊様の御声 に従って生きる時、きよめられて行く、ますます 聖い者にされて行くと。 潤ちゃんはコーヒーポットを割っていないの だから、正しかった。しかし、聖霊様はそれ以上 のことを潤ちゃんに求められた。自分は悪くない と主張するだけより、遥かに高い道があると。 それが聖霊様の思いであり、キリストの歩まれた 道だと。 潤ちゃん事件を通して、「すべてのはあなたがた のためであり、それは、恵みがますます多くの人 に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われ るようになるためです」Uコリント4:16 コーヒーポット事件を通して、周囲の人達が恵まれ 教えられた。 「すべてのことは」私達のためであり、本当に 御言葉の通りだと。 今年起こる「すべてのこと」に神様を見れます ように、砕かれ、自分に死んで行けますように。 by多恵子