2016年07月11日(月)
  「愛がない」

「主を信じて、初めの頃は、自分に愛が無い
とは全然思ってないです。
愛深いとは思わないが、普通に愛情あると
思っていました。
普通に良い人間だと。

でも、クリスチャン生活が進んで行くと、神様
が取り扱って下さって、いろんな人を目の前に
置いて、愛が無いことを、シビアに教えられる。

でも、でも、確かに愛は無いのだが、しかし
僅かでもあると思っていた。
全面否定はしたくないんでしょうね。
そんなにひどい人間ではないと思いたい。

でも、難しい相手を目の前に置かれて、自分
に、僅かの愛もなく、全く愛がないことを教えられ
ました。
そこが、なかなかわからないんですよね。
絶対にそんな事、認めたくないですしね。

全く愛が無い。でも、祝福なんですよね。

御言葉は、罪がわかるために、自分では
出来ないことがわかるために、あるんですよね。

出来ないことを認める時、イエス様が成し遂げ
て下さる。


自分に愛が無いことを知れて感謝です。

愛が無いことを知ることは痛いですが、この事も
ですが、またいろんな痛い事も、避けて通ると
、神様がわからないんだなあと。

痛みは避けられても、神様を知って行く恵みを
捨てることになりますよね。
自分の自我が砕かれることもない。

でも、痛いから、避けて、逃げてしまいそうに
なるが、でも神様は愛で、もう逃げられないように
ドカン!と、目の前に置かれますね。

避けないで、逃げないで、向き合って行くと、
神様を知れて、自分も成長させて下さって
祝福されるんだと、教えられます。

避けたら、自分は何も変わらないし、神様を
知る喜びも無いですね」。