2019年03月01日(金) 「何を教えて下さりたいのか」
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものでは ありません。 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできない ような試練に会わせるようなことはなさいません。 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も 備えてくださいます」Tコリント10:13 誰しも、皆、試練が与えられる。 渦中では、こんなに苦しいのは、自分だけと思ってしまうが、 そうではないと言っている。 人の知らないようなものではないと。 自分だけが苦しいと思い込むが、皆、それぞれ試練はあると。 Aさん「不思議ですが、人の試練は見ていてよくわかる。 神様はこういう事を教えたくて、こういう風に取り扱っておられる。 何を教えたいのかもわかる。全部言って上げられる。 でも、自分の試練の時は、真っ暗なトンネルの中にいるようで、 自分の事は全くわからない」 Bさん「ワンクッションあって、冷静に見れるからですかね。 人に起きている事はよくわかる。その言い方はまずい。 それは、そうしないで、こうした方がよい。 人が試練に会っている時、神様が教えようとしておられる事 がよくわかる。見えるんですよね。 でも、下手に助言も出来ないですよね。聞く耳が無ければ、 言われて嫌でしょうしね。 それで、逆に自分が試練の時も、自分は見えないが、周囲の 人にはしっかり見えているんだなと。 それで、人からのアドバイスや忠告に耳を傾ける事が大事だな と思わせられました」 問題は次から次へと起きる。 目の前の問題が無くなったり、解決したりする事は嬉しいが、 それより、大事な事は、その出来事を通して、問題を通して、 主は、何を教えて下さりたかったのか。 主からのメッセージは何か。 それを受け取る事が、御霊による喜びで、問題が無駄でなく、 豊かな祝福に変わる。 一つ一つの試練を通して、成長すると言っている。 その時に、何を教えようとして下さっているのかを、祈れと。 祈るなら、教えて下さると。 「知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、 とがめることなくお与えになる神に願いなさい。 そうすればきっと与えられます」ヤコブ1:5