2009年08月15日(土)
  「栄光」

イエス様は、十字架にかかられる前に、
“父よ、時が来ました。子の栄光をあらわしてください”
と祈られた。

残虐で、辱めであり、無惨で、釘づけられた無力の極みで、
ぼろぼろになって、死んで行かれる。
どこが神の子なのかと、顔をそむけたくなるような死に様、
それが栄光だと言われた。

「栄光」と聞くと、輝かしいこと、素晴らしいこと、何も
かもがうまく行くこと、マイナスではなく、プラス的
イメージがある。

とにかく順調であること、商売は繁盛、誰も病気にかか
らず健康であり、畑は豊作、受験はすべて合格、対人
関係すべて円満、順風満帆が栄光のように思う。

しかし、主は無惨な十字架、御父からも見捨てられた
十字架が栄光だと言われ、

私たちも、順調とは逆の状況の中で、主の栄光を現わし
て下さるし、又、栄光を見る。

Aさんは、子供がつまずいてしまい、不登校になって
しまった証しをされた。
その様々な関わりの中で、子供でなく、自らの内側を
照らされ、内にある人目を気にするプライド、虚栄、
自我に気づかされ、自分が砕かれたと。

Bさんは、思うように育児が出来なかった、親はよかれ
と思い、子供のためと思っていたが、結果的に子供を
損なってしまった。
辛く、痛い、苦しい中を通ったが、神様を信じて、祈り
委ね、取り扱われる中で、良かったと思える状態に
主がして下さった。あわれみに、感謝するばかりと。

その痛み、悲しみ、苦しみに、主のご愛、慰め、
慈しみ、あわれみが溢れるばかりに豊かであり、
神の栄光を見る。

十字架により、悪魔は滅ぼされ、私たちには完璧な
救いが与えられた。

マイナスの事に、失敗に、ぐじゃぐじゃの中で、そこで、
そのところで、御霊の導きに従って行くなら、
どんな状況であれ、栄光が現れるようにして下さる。