2010年08月03日(火)
  「つもり」

Aさんの職場の仕事で、クレームの多い顧客がいた。
次々とスタッフが替わりながら対応するが、
クレームは絶えない。

とうとうAさんに順番が回って来て、対応しなければ
ならなくなり、不安で、憂鬱で、嫌な思いに襲われる。

祈るのだが、又、考え出しては、ネガティブになる。
心が沈んでしまう。暗い、重い思いで心が塞がれていた。

そんな時、御言葉に触れて、自分の心が探られた。
祈っているのに、不安や思い煩いは消えない。

思い煩いや心配を委ねるなら、人知では測り知れ
ない平安が支配するはず。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝
をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの
願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安
が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって
守ってくれます」ピリピ4:6

祈っているが、恐れと不安は全然無くならない。
委ねている「つもり」、信じている「つもり」で
実は、自分は全く御言葉を信じていないし、神様を
信じていないことに気づかされた。

御言葉がそれはそれでと、御言葉と現実がリンク
していない。それぞれ別々なのだ。

「あ!わかりました!自分の姿が見えました。
自分の問題が『不信仰』だとわかりました。
悔い改めます。

御言葉信じたいです。でも、何だか心が平安に
なってきました!」


Bさん「よ〜くわかる!私も、なかなか委ねられない。
心配事、不安な事、思い煩いが来た時に、頭では
信じて、委ねてとわかるんだけど、頭だけで、
しっかり自分が固く握りしめていて、明け渡せない。

だから、Aさんと同じ状態で、祈ってはいるだけど、
不安でいっぱい、恐れでいっぱい、祈っている時も、
祈った後も、何も変わらず、同じ状態(笑)
自分が渡さないから、そのままですよね。

自我が妨げているとすごくわかる。信じないから
明け渡せない。ほんとに不信仰だとわかる。でも、
不信仰でいたくない。
信じることを選び取って行きたいです。」


信じている「つもり」で、実は全然信じていない。
状況や、自分の思いのほうを信じている。

明け渡さない根に、固い自我がある。問題は、自分の
不信仰にあることを、よく教えられる。
悔い改めて、信仰を選び取って行きたい。