2013年04月03日(水)
  「恵みの下」

「できない自分が、神様から愛されていることが、
どうしてもわからない。
信じられない。信じていない。

わかるようされたい。どうしてもそこを知りたい。
御霊様が教えて下さるよう祈ります。

自分は律法で歩んでいて、自分の力でやって
いるから、出来ないと落ち込み、出来ると優越感
に浸る。

そして、しんどいのに自分は頑張っているから、
頑張っていない、していない人を見ると、腹が
立って、必ず裁く。

恵みの下でなく、律法の下にいるんですよねえ。
だから、神様の愛が頭でしか、理屈でしかわからない
祈って行きます」

「祈り始めて、同じパタンで落ち込んだ時に、
自分がダメ人間で、真っ暗で、すべてがネガティブ
にしか捕らえられなくなった中で、
『いやそうじゃない、自分は愛されてるんだ』と
初めて思えた。
実感伴ってではないが、初めてその思いが来て、
奇跡だと思った」


「良くなったら、霊的になったら愛して下さるんじゃ
なくて、このままの醜い、自己中心な自分を愛
して下さってると思う時、ものすごく嬉しくなる。
心に灯がともって、あったかくなる」

聖書を読んで、祈ったら、愛して下さるんじゃ
なくて、聖書読めない、祈れない自分、祈れない
じゃなくて、祈ろうとしない自分。

でも、そんな自分を、今、このままで愛して下
さってると思うと、心があったくなって、喜びが来て、
ああ、聖書読みたいな、祈りたいなと思う。
ここに恵みがある」


「Bちゃんがいつも言っていて。
昼間のちょっと空いた時間に、聖書読もうと
思うけど、すぐウトウト眠ってしまう。
又、読もうと思うのに、寝る」

でも、大きな大きな愛で、愛して下さっている。
神様のご性質が愛なのだから、この愛は不変だ。

こんな自分を変わらずに愛して下さっていると思う時、
じゃあ、もっと好き勝手しようなどと、決して思わない。

神様の愛に応えて、生きて行きたいと、自由意志で、
自発的に思う。御霊が働かれている。喜びがあり、
生き生きと生きることができる。

良い行ないをして、受け入れてもらおう、愛して
もらおうとするなら、律法だ。

そしてそれなら、キリストの十字架が無意味になって
しまうことであり、キリストはいたずらに死なれた
ことに自分がしてしまう。


“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法
によって得られるとしたら、それこそキリストの
死は無意味です”ガラテヤ2:21