2016年06月01日(水)
  「網をおろす」

ペテロが「深みにこぎ出すよう」言われた箇所を
学んでいた。

その日、漁に出たが、一匹も魚がとれなかった。
それで、朝になり、引き揚げて来た。

丁度、岸に群衆が押し迫り、イエス様の御言葉を
聞いていた。
群衆が聞いているのに、ペテロは、御言葉を聞いて
おらず、背を向けて網を洗っていた。
疲労こんぱいで、一刻も早く帰って眠りたかったろう。

そこに主が、ペテロに「少し」舟を出すよう頼まれた。
ペテロは、その前に姑の高熱をいやしてもらっている
恩義もあり、まあ先生の言うことだからと、舟を出した。

岸から少し離れ、舟の中から、主が岸に向かって話すと、
押し合いへし合いだったのが、皆も秩序もってよい具合に
聞けた。

そして、ペテロはいやがおうでも、自分の舟なので、主の
御言葉を聞かざるを得なかった。

御言葉を聞いた事により、ペテロの内で変化が生じた。
話が終わると、主が「深みに漕ぎ出して、網をおろして
魚をとりなさい」と言われた。

漁は夜から未明にするので、朝に魚はいない。
常識的にも、物理的にも、自分の経験値でもあり
得ない。自分の思い、経験では、やっても無駄だ。

「でも」と思えた。「おことばどおり、網をおろして
みましょう」と。
主の御言葉を聞いたので、従おうと思えた。
そして、「少し」出てしまっていたので、そのまま
沖へ出れば良かった。

網を洗っている時に、「沖へ出よ」と言われたなら
無理ですと、お断りしていただろう。

従えるように、一歩一歩と、手取り足取り、主の
配慮がある。


Aさんが、イエス様を信じた後、主から祈る事を教え
られ、悩みや問題の中で、祈って行くと、確かに、
祈りに答えられ、心が落ち着いて行くことを経験して
行った。

確かに、神様がおられる。しかし、なかなか神様に
愛されているという実感を持てなかった。
頭ではわかるのだが、実感が無かった。

ある時、自分は神様の愛を受け入れていない事
に気づかされた。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」との御言葉も
いいえ、私が高価で尊いはずがない。
他の人はそうでも、自分は違うと。全く受け入れず、
拒否していることに、初めて気づかされた。

つまり、御言葉を否定して、捨てていることになると。
自分は絶対にそう思えない。

「でも」と初めて思えた。自分はそう思わないけれど、
「おことばどおり」受け入れようと。決心した。

「神様、愛して下さって有難うございます」と応答した。
網をおろした。
すると、そこから、変えられた。神様の愛がわかり、
目が開かれて行った。

信仰の網をおろすことを、見せられる。