2024年11月10日(日)
  「受け入れること」

信仰人生の中で、試練は必ず来るし、大きい試練や
些細な問題や、次々と来る。

やっかい事、もめ事、面倒な事、痛い事、心配な事、
不安案件・・が起きて来る。

聖書は、試練があると、言っている。


その試練の時に、二つの方向に分かれてしまう。

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一つは、試練を試練として受け入れない。
自我が妨げる。

すると、問題がそこにあり、そのやっかい事が
次々と起きる。
愚痴と不満で、いっぱいになる。

問題しか見えなくて、神が見えない。「何で!何で!」
にしかならない。

痛いばかりで、目に見える状況や、目に見える人に、
更に不満と怒りが募る。

平安が全く無く、心は沈み、落ち込むばかりだ。

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もう一方は、目の前の事を、神からの試練と受け
とめる。神からのものだと。

“あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ”

“そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる”
箴言3:6

“わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。へブル12:5

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべて
の子に、むちを加えられるからである”

“だれでも、受ける懲らしめを受けていないとすれば、
私生子であって、ほんとうの子ではない”

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目の前の悩み、問題が、神が与えている試練だと、
受け止めた時に、見方が変わる。

祝福が見えて来る。

教えようとされている事が、見えて来る。

問題に、主を認めることをしない間は、絶対に見え
ない祝福だ。

沢山のことに気づかせ、教え導いて下さる。

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“苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした、

私はそれであなたのおきてを学びました”詩篇119:72



後の日に、しあわせだったと、言えるようにされる。

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「受け入れること」が自我があらがい、非常に難しい
ので、そうできるよう祈ろう。