2007年01月16日(火)
  「気づかされる」

肉の思い(理性、常識、知識)が、聞いている御言葉
を心に受け取る事を、妨げること話し合っていたら、

Aさん「何かわかる。御言葉は一応御言葉として頭に
は入るんだけど、心に入れてないんだと思う。『そ
んな事できんわ』御言葉はまず出来ないと思って
る。何かきれい事として、頭で受け取ってる。
だって、敵を愛するとか、自分を捨ててなんて、はな
から出来んとして、聞いてる。それって、肉の思いで
御言葉が心に入ることを、シャットアウトしてますよね」

理性、常識、この世の価値観て、一見、ストレートな
罪、酔酒、酩酊、憎しみ、妬みのような・・でないので、
妨げられていながら、わからない。

Bさんは「神の、あなたを愛しているとの言葉を聞く
時、同時に『私みたいな者が愛されるわけがない』と
の思いが来て、愛しているのメッセージを受け取れ
ない。どうしてもダメ」
御言葉と同時に来る“愛されるわけがない”との
思いが問題なんだ。御言葉をさえぎってしまう。
でも、何より、気づきが与えられる事が感謝だ。

あのエマオ途上のクレオパ達も、常識と理性と知識で、
イエス様がよみがえるなど、信じられなかったんだろう
な。そんなバカな事があるか。
十字架上で、イエス様ははっきり死んだ、明確に死んだ、
完全に死んだ。そりゃ、よみがえったら嬉しいだろう
けど、そんな事あるわけない。そんな荒唐無稽な話。

“ところが使徒たちにはこの話は、たわごとと思われ
たので、彼らは女たちを信用しなかった”ルカ24:11

常識と理性と知識で判断したなら、まさに、たわごとだ。
あり得ん!!

失意で、する事もなくなって、とぼとぼと郷里に帰る
クレオパ達に、イエス様が現れて下さった。
御言葉を説き明かして下さったら、心が燃えて来た。
喜びが来て、生き生きとして来た。

これって、今、私達が御言葉を読む時に、御霊によって
語られる事なんだろうな。
御霊に語られる時って、心に喜びが来て、平安が来て、
生き生きと、心が生きて来る。求めていた答えが来て、
神がまさにここにおられる、実感が来る。

“肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと
平安です”ローマ8:9

“神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです”

御霊が導いていて下さる。