2007年12月09日(土) 「この上もない喜び」
学びの集会で、集った人々の共通点が興味 深かった。 Bさん、Cさん、Dさん、Fさん、丁度集 ったお一人お一人が皆、今年、試練によって、 神様にぐっと近づけて、神様にはっきり焦点 が合った!! Bさんは、今年、奇跡のごとく、ググーッと 神さまに近づけられた! すごい!!神様のみわざ。 10数年、年に何回か、集会に来て下さって いたが、御言葉を聞くが、ずっと右から左だ ったと。 「必要」がないんだなあ。逆に言えば、この 世的には恵まれていて、深刻な悩みがない。 「必要」がないと、御言葉がとどまらない。 入らない。 良いお話、ためになるお話しで、終わってしまう。 結局何も心にとどまらず、サタンが来て、御言葉 を取っていってしまう。 種まきの例えの、「道ばたに蒔かれた種」だ 「まさにそうだった」とBさん。 御言葉を聞くのも、集会に来るのも、全然嫌では なくて、来るんだけど、種がとどまらないから、 結実しない。 Bさんも、ずうっと御言葉を聞くんだけど、自分の 思いが強くて、御言葉を抑え込んでしまっていたと。 「罪と言っても、誰でもしてるし」「ここは〜〜して おいた方がうまく行く」御言葉を薄めたり、自分の 都合のようように取ったり、曲げたり。 御言葉で判断し、御言葉に従うのでなく、自分の思いと 自分の判断に従っていた。 試練の中で、苦しくて、神さまに真剣に向かって行 った時、その自分の姿がわかった。 その時、変えられて行った。 自分の思いや判断でなく、御言葉に従おうと思えた。 そうやって行くと、本当に自分が変わって行くのが わかった。 以前は漠然として、よくわからなかった神さまが 少しづつ少しづつわかって行った。 Cさんも、Dさんも、痛い厳しいところを通して、 神さまが近くなった。 「試練」が何とも感謝だ。 試練の時が一番神さまに近い。 自我は強いし、内なる肉の性質は神に敵対して いるし、自分の欲望を求めるばかりで、何か痛 い事がない限り、なかなか神様を求めない。 目に見えるところの影響力は凄まじく、目に見 える世界にどんどん限りなく流されてしまう。 試練は感謝だと改めて、しみじみと思わされる。 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、 それをこの上もない喜びと思いなさい」 ヤコブ1:2 「試練により、忍耐が生じ、忍耐を働かせると、 成長を遂げた、完全な者となります」 試練により、神さまが必ず良くして下さると、信 じようとするので、信仰を働かせて行くので、一 段階づつ成長して行く。