2010年11月05日(金)
「自我」
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Aさん「信仰人生、もう数十年経て、やっと今、本当の
歩みが始まった気がする。
自我って、物凄いよねえ。どうにもならないほど、強い
よねえ。
クリスチャンなのに、今までずっと、自分のためにだけ
生きて来たのがわかる。聖霊様から見せられる。
私、昔に、献身したんだよ。
でも、全然、全く献身などしていなかったよ。」
「それがわかるのも、一旦献げたからだよ。
それすらわからないよ」
Bさん「形は夫婦なんだけど、自分の事だけで、夫の事
なんてまるで無い。それすら気づかなかった。
自己満足、自己実現、自己貫徹、ただただ自分がある
だけだった。そんな事もわからなかった。」
「“つもり”が邪魔をして、現実の本当の姿が見えないように
なるよね。委ねている“つもり”、献げている“つもり”・・。
神様のためにしている“つもり”だったけど、自分は
自分のためだった。
全然神様のためなどではなく、自己満足のためだった」
よく婦人方が言う。子供を愛しているつもりで、
“押しつけ”をやって来た。
親が良かれと思うので、子供の幸せと思うので、
その道を行かせる。
転ばないように、親が石を取り除き、障害の無い
ストレートな道を行かせる。
子供のためと信じて疑わなかったが、御霊様の
光に照らされる時、初めてわかった。
それは子供のためじゃない。自分のためだった。
子供が転ぶのは、自分が痛いので、見たくない。
それで、親が道をつける。
「すごくわかる。よくわかる。それは自我なんだよね」
聖霊に照らされた時、はっきりわかる、自分の
自我だと。
「どうしようもなく、根深く、強固で、ほんとにどう
しようもないよね」
このために、イエス様が十字架で死んで下さった。
ここにすでに解決があり、見上げるばかり。
“私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが
私のうちに生きておられるのです”
ガラテヤ2:20
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