2011年11月04日(金)
  「受け入れる」

「受け入れる」こと・・
信仰生活においても、これがなかなか出来ない。
難しい。

Aさん「『受け入れる』って、出来ないですねえ。
結局、自分が死ぬことですよねえ。受け入れ
られたら、楽になると頭ではわかるが、できない
ですよねえ」

Bさん「うん。自我が邪魔をして、出来ない」

Cさん「受け入れられたら、事態は『解決』ですよねえ。
受け入れられないから、ずうっと引きずり、悶々とする。
事態も人も、そうですねえ」

Dさんの知り合いの方々が、お子さんの障がい
を受け入れられずに、ずうっと苦しんでおられる
事を聞く。

受け入れられない事による、苦悶だなあと感じる。
親御さんの方も、いや親御さんの方が苦しくて、
苦しくてたまらない、辛さの中におられることが
伝わって来る。

知り合いのEさんが、お子さんに障がいが
わかった時に、泣いて、泣いて、もう涙の日々
だったと。
「何で?」「なぜ?」「どうして?」が渦巻き、
特に、同じ年頃の子供さんが、普通に元気な姿
を見るのが一番辛く、見ては涙、涙だったと。

しかし、Eさんには、避け所である神様がいる。
泣いて、祈って祈って、又泣いて、祈りに祈って
「受け入れることができました!!」と。

会いに行った時は、笑顔で、笑い声と共に、
ほんとに芯から受け入れていることが伝わって来た。
受け入れられるって、神様のみわざで、奇跡
だと感じる。

受け入れると、本人自身がどんなに楽になるかを
目の当たりに見せられる。


対人関係で、受け入れられない相手がいると、
牢獄にいるような状況になる。
自分から牢獄に入り、そこは真っ暗闇で、四六時中
拘束され、自由が全く無い。
苦しくて、辛くてたまらない。相手でなく、苦しいのは
自分だ。

受け入れる事ができると、牢獄から出る、解放される。
自由になって、喜びが来る。

神様のみわざで奇跡だ。求めて行くなら、与えられる。