2003年07月25日(金)
  「さばいてはならない」

「さばいてはいけません。さばかれないため
です。」

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがも
さばかれ、あなたがたが量るとおりに、あな
たがも量られるからです」(マタイ7:1)

なぜ、さばいてはいけないか。さばくと、必
ず自分にさばきが返るから。
つまり、人をさばいているのが、実は神から
のさばきをしっかり自分が、自分に向けること
になる。

人の欠点は見える。細部までよーく見える。
でも、自分の欠点は見えない。自己中心という
大きな大きな梁があるから。

<自分の欠点は見えていない者><自分には大
きな梁がある>と、見えていたらいいが、それ
が見えないから、最悪。

聖書の御言葉を知ると、御言葉は真理だから、
頭で理解したとしても、一応真理を知ることに
なる。
その真理は恐い。両刃の剣。それを人に向けて
振り下ろした場合に、恐ろしいことになる。
その真理を使って、ばっさ、ばっさと人を斬っ
て、平然、平気、正しいから罪意識すら無い、
ということに。

真理を知り、肉の手がそれを使うと、神様と、
全く正反対の方向へ。
ものさしを持ってるゆえに、細部にまで人の
欠点は見えてしまう。(自分の欠点は盲目。)

そして、それをもって相手をさばく、まさに
その基準で、今度は、神が私をさばかれること
になる。

「あなたがたが量るとおりに、あなたがも量ら
れるからです」

より欠点が見えて、高い基準で人をさばくなら、
その同じ高い基準を、自動的に自分に向けてい
るのだと。

さばけば、さばくほど、自分にさばきを招くこと
になる。その高い基準で、神が自分がさばかれた
なら、立ち行けない。
だから、さばかないなら、さばかれない。

「あわれみを示したことのない者に対するさばき
は、あわれみのないさばきです。あわれみは、さ
ばきに向かって勝ち誇るのです」ヤコブ2:15

御言葉は決して人に向けてはならない、自分だけ
に向けて、自分の心を探られ、矯正され、新しく
され、生かされるためのもの。

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の
人であるあなたがたは、柔和な心でその人を
正してあげなさい」ガラテヤ6:1

さばかれて、見下されて、攻撃され、責めら
れて、自分は悪かった、良くなりたいと思う人
などあったためしがない。

御霊に導かれて、へりくだって、自分も同じ者、
同じ過ちを犯しても不思議はない者との立場に
立って、相手への同情と愛に満たされ、愛をも
って真理を語る時、相手の心に届き、御霊が間
違いを教え、正して下さる。

さばきからは、さばき合いしか生まれない。
さばく時、必ず返る言葉は、「あんたはどうな
ん?」「なら、言わしてもらうけどね!」。
10倍になって返ること必至。
by 多恵子