2018年03月02日(金) 「鳥が来て食べてしまった」
種まきのたとえで、道ばたに落ちた種があった。 鳥が来て、食べてしまった。 地が固くて、中に種が入らず、サタンが種を 取って行ってしまった。 心が固くて、御言葉が全く入らず、サタンが御言葉 を奪ってしまう。 つまり、聞かなかった事と同じだ。 だが、御言葉を聞いているつもりなので、気づかない。 御言葉に拒否反応を示しているなら、わかりやすいが、 自分としては、聞いているので、わからない。 「それすごくわかる!!」 「その通りだ!!」 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝を もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの 願い事を神に知っていただきなさい」 ピリピ4:6 「何も思い煩うな」と神様は言っておられて。 でも、「何も思い煩うな」と聞く時に、この世界では 有り得ないし、この世の価値観でも有り得ない。 だから、同時に「そんな事言われても・・」と思っている。 そして生まれつきの価値観の方を選択して、 そんな事言われても、何も思い煩わないで済むなど 有り得ない・・と、思っている。 結局、御言葉を捨てている。 だから、根づくことがなく、結実がなく、いつも思い煩 っていることになる。 御言葉を聞く時に、必ず、肉の思い、世の価値観が 同時に聞こえる。 「そんなこと、信じられない」「現実には有り得ない」 「信じられたらいいんだけど・・」 「見たところ、助けなど、有り得ない、望めない」 御言葉を捨ててしまっている。 サタンに持って行かれている。 気づかないので、自分は御言葉を聞いていると 思っている。 御霊の気づきに感謝です。