2003年11月17日(月)
  サタンの誘惑

昨日の礼拝メッセージ。誘惑について、とても教え
られた。
創世記3章の、アダムとエバが罪を犯した箇所から。
神は、溢れるほど沢山ある木から、1本だけ、食べ
てはいけないと禁止された。

エバが蛇の誘惑を受けた時、その木のそばにいた。
その木のそばにいて、誘惑を受けた。

数えきれないほど多くの木がある中で、なぜその指定
された木、善悪の知識の木のそばにいたのか。

例えば、広島に多くの家があって、神が一つだけ指定
され、広島市南区仁保南1丁目15−27の家へだけ
は行ってはいけない、と言われたとする。

そう指定されて、その家にいたとしたら、どういうこ
とか。
意志して、そこへ行ったとしか考えられない。うかっと、
気がついたら、その家にいたなどと、あり得ない。

エバは、取りも直さず、まさに神の禁止された、その
木を意志して、目指していたのだ。禁止されたその木
の実が、食べたかった。

誘惑される、そのところに、ピッタリの欲望が内にすで
にあって、罪への強い関心がある。関心の無い
ところは、誘惑にならない。
誘惑される以前に、すでに、折りあらばしようとしてい
たりする、潜在的な強い思いがある。

内にある欲望が、一番の問題であることを見せられて
感謝だった。どこまでも罪深い。

木の実を食べた、そのことの底にあった神への反逆心、
神なしでやって行けるという高慢、内にある罪の性質、
肉の性質は神への反逆心そのもの。

アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせたが、
それではだめで、神は、羊を裂いて皮の衣を作り、
彼らに着せてくださった。
そして、神は、「新しい衣」でなく、「新しい人」を
着せて下さった。

「あなたがたは古い人をその行ないといっしょに
脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。」コロサイ3:9

「新しい人」は、イエス様。
自分の力で、神なしで生きようとする「古い人」、肉は
どこまでも自分の栄光であり、自分の力を誇り、自分の
評価を求める。その誘惑がいつでも来るということ。

新しい人、イエス様をを着せて下さった、ここに救い
があり、何という神の恵み。

「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます
新しくされ、真の知識に至るのです」3:10
 by  多恵子