2007年04月12日(木)
  「もし、そうでなくても」

神は最善をされる。

カンボジア出発に、第二子の出産が間に合うかどうか、
ギリギリのところだった。
「子供の顔を見れて、出発できたら感謝。でも、見れなく
てもそれも感謝。神は常に最善をして下さる。」

「もしそうでなくても」ダニエル3:18
シャデラク、メシャク、アベデ・デゴがネブカデネザル
の作った金の像を拝まなかったので、燃える火の中に
投げ込まれようとした時、彼らが言った。

「私達の仕える神は火の燃える炉から、私達を救い
出すことができる。神は私達を救い出す。
しかし、“もしそうでなくても”・・金の像を拝まない」

「もしそうでなくても」は、とても心試される。
でも、「もし、そうでなくても」でなければ、御利益
宗教になってしまう。
自分に都合が良いから、何かがもらえるから、神に従っ
ているのではなく、神が神であられるから、従っている
わけで。

「もし、そうでなくても」はとても大切なキイワード
のようだ。

Aさんが「新学期になって、あれがああなり、これが
こうなりますようにと祈ってたんですよぉ。

でも、気がついたんです。自分のしたい事、自分の願い
だけで、そこに神様が全く無い。
これって違いますよねえ。神様に喜ばれるように、神
様の御心は何かという発想が全く無い。
神様のお心を求めて行くことを、教えられました。

結局、私の願いを叶えて下さって、願い通りのことを
与えて下さったんですけど、自分の生涯について、神
様のお心を求めて行きたいと思いました。

“もし、そうでなくても”私の願いが願い通りに叶えら
れなくても、感謝なんだと、何となくわかります。
更に良いものが備えられていることも。
でないと、自分の願いだけなら、ほんと御利益宗教です
よねえ。

自分の願い通りでなくても、神は最善をして下さる、
それを信じるのが、聖書の信仰だ。