2009年08月06日(土)
  「あいまい」

よく人が言う。
同じ罪ばかり繰り返して、あ!また同じ失敗を
してしまった!
余りに懲りないので、いい加減、神様だって、
呆れ果てている。

本当に気があるのか。自分で自分が嫌になり、
深い自己嫌悪に陥る。
イエス様の血潮があるのに、余りの自分の不甲斐
なさに、何だか段々受け取れなくなってしまう。

十字架から遠ざかり、ちょっときれいになって
から、ましになってから、良い行ないを積んで
から、主のもとへ行こうとする。

余りに、ひど過ぎて、聖い神様の前に
出れない。時々、こういう状態に陥る。

「どうしても、きれいになって、神様のもと
に行こうとしますねえ。でも、それだと、十字架
を不必要、無意味にしてることですよねえ」

しかし、「御子イエス血はすべての罪から私たち
をきよめるのです」Tヨハネ1:7
感覚でも、感情でもない。感覚や感情に頼って
も何も感じない。

御言葉を心から受け入れ、信じる時に、罪
赦された平安が心に満ちる。

そんな事を話し合っていると、Aさんが

「そんなに殊勝ならいいんですが、私は
罪を犯しても、どうせ赦してもらえるから、大丈夫
という心がある。もっとひどいですよねえ。
すごい高慢ですよねえ。神様に対する
畏れが無いですよねえ。心の中、探る時
そうです」

Bさん「何か、わかる。心を探ると、底の方は『こんな
事ぐらい誰だってしている』。罪に対する恐れが
無いんよね。
『いけない』との思いと裏腹に『いや少しぐらい
大丈夫』『これぐらいいいんじゃない』」
『赦されるよ』と、自分を許してしまっている。」

心の底に、罪に対してあいまいな、流される、
むしろ流されたい、なあなあの、自分がいる。
好きなようにしたいから、あいまいにしておきたい。

ここに気づく事から始まる。