2010年04月01日(木) 「霊の目が開かれるため」
Aさん「私、20数年たって、やっと神様が、真の福音の意味 が、わかりました。今まで、同じような人々の証しを聞いてたん ですよぉ 10数年前にも、Bさんから、自分の力で頑張っていて、苦しい、 苦しい信仰生活を送っていた。「ねばならない」で、縛られて、 本当の喜びなど無く、でも、従わねばならないで、しんどくて たまらなかった。 極限の試練を通して、自分の力で、ほんとにどうにもならなくて、 ギブアップした時に、解放された。自由にされた、喜びを知れた。 Cさんは、信仰生活は修業だと思っていた。修業は苦しいのは 当たり前で、苦しい方が良いとさえ思っていた。しかし、試練を 通して、限界や瀬戸際を通り、砕かれて、解放されて行った。 そんな証しを幾つも幾つも聞いているのに、頭でしかわかって なかった。ふんふんと聞いているが、全然わかってなかった です。 いろんな試練通り、失敗も通り、今、以前と全然違う。本当に 喜びがある。以前は無かった。神様は正しい方だから、これ は絶対的な真理だから、従って行かなくてはならない、従っ て行こうとの思いだった。 「神様を愛して〜する」など、全然わからなかった。「??」 「愛して??」ハテナハテナの世界で、恐いから、絶対的な方 だから従うという感じだった。 それが色々な所を通り、砕かれ、もう粉々に砕かれ、今、 ほんとに自由にされた(^^) 解放された(^^) やっと真の福音の意味が知れた。」 幾ら、頭で聞いても、わからないという事がわかる(^^;) そして、荒野のイスラエルのように、神様の祝福を奇跡 を幾ら見ても、わかるものでもない。外側の奇跡を幾ら 見ても、自分は変わらない。自我は強固だ。 いろんな苦しい所を通りながら、自分が砕かれて、変え られて行く。苦しい中で、神様が見せて下さった時、 初めて、霊的なことや、神様が見える。 本人が通るしかない。神様のことは、霊的なことは、 本人が様々な局面を通って、砕かれて、神様が見せて 下さる以外に、知りようがない。 だから、人生、様々起こる事は、一つの無駄もなく、 一つ一つの出来事が、神様を知るためであり、霊の目が 開かれるためだ。 だとすれば、苦しい事も、辛い事も、神様を知るためなら 嬉しいかも知れない。