2017年12月05日(火)
  「ゆだねられない」

ゆだねる事ほど、難しい事はないとの話になる。

頭ではわかるし、理解できるし、ゆだねたら良い
し、委ねたいと思う。

そうするのだが、しかし、すぐに口先だけのお委ね
であった事がわかる。不安と恐れも思い煩いもその
ままだ。

委ねますと言うのだが、全く委ねていない。
自我がしっかり握り締めて放さない。

もうこれはどうにもならない。自分は委ねますと言って
いるし、委ねてるつもりだが、決して明け渡していない。

「そうそう!」「わかる、わかる」「それ!それ!その通り」
と皆で。

だから試練があるのですよね。苦しみを通らないと、委ね
られない。苦しみを通っても、尚かつ、強固な自我は
握って放さない。

「委ねるって、死ぬことですね」自分に死ぬこと。

Aさん「自分は絶対に神様に渡せないものがあった。
自分にとって命なんでしょうね。
委ねられない。自分で何とかしようと、ずっとする。自分が、
自分が、と思ってる。どうしても渡せない」

「神様に委ねると、つまり自分が放すと、すべてがだめに
なるように思える。崩壊してしまうように思ってしまう」

「そう!そう!」

「つまり、神様を全然信じていない」

「そう、そう!!信じていない。だから自分でしようとする。
自分がしないで、どうなると思う。更に固く握り締める」

Aさん
「自分も自我が握り締めているものがあって、もうなかなか
委ねられなかった。委ねないと、とわかるが、放せない。
どうしても自我が放さない。

だからいつも思い煩いと、不安、恐れでいっぱいだった。
委ねないから。でも渡せない。

まさにその事で、苦しい、辛い試練が続き、もうどうにも
ならず、委ねることができた。神様のあわれみ。
すると、全く思い煩いが無くなり、不安も恐れも無くなって
平安になった。今はほんとに平安で、感謝です」

Bさん
「よくわかる!一緒だ。私も自我がめちゃくちゃ強くて、
放さない。握り締めて委ねられない。
でも、やはり苦しい、しんどい試練を通って、委ねること
ができた。すると、ほんとに自由になって、平安になった。

すると、また次、別のものを握っていることを示され。
次々と取り扱いなんですね」



“イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできる
のです」”ルカ18:27

委ねることは、人にはできないが、神にはおできになる。