2020年03月06日(金)
  「試煉を受け止める」

主に在る友に、大きな試練があった。

試煉は信仰生活で、何度も経験するが、嬉しくなく、必ず痛いし、
苦しく、悲しい。御言葉にある通りだ。

“すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって
悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された
人々に平安な義の実を結ばせます”ヘブル12:11

喜ばしくなく、悲しい。

しかし、やはり、試煉を、試煉として受け止める時に、神様に
焦点が合い、神様が見えて来る。

逃げて避けようとすると、痛いばかりで、辛いだけだ。
神様も見えない中、余りに痛いと、無意識にも自分を無感覚に
してしまう。

いつか試煉は無くなるが、神様を知ることもなく、霊の喜びもなく、
何の成長もないことになってしまう。

苦しい中で、祈り、神様を求めて行く時に、御声が聞こえ、
御言葉が臨んで来る。


主には一つも無駄はなく、ご計画の中にある。

“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに
将来と希望を与えるためのものだ”エレミヤ29:11

今、先が何も見えず、トンネルの中だが、ご計画の中だ。

一見災いにしか見えないが、わざわいではないと。
この事態が、平安の落とし所に必ず導かれる。

目に見えるところは、全くどうしてよいかわからないが、見えるところ
は不安と恐れしかないが、御言葉を受け止めて行くと、光が来る。
希望がある。

思いもよらない、想定外の事が目の前に、起きるが、「万事益」
を信じる。

“あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて
くださる”詩篇37:5

主に信頼して行こう。

御言葉を語られ、主を見上げて祈って行った時に、主は解決の
糸口へと導いて下さった。