2003年12月09日(火)
喜びのクリスマス
|
昨日は、今年最初のクリスマス。
教会にいると、12月は何度もクリスマスを祝う。
イエス様が、この私のために、はるか2000年前に十字架
にかかられた。はじめてこの話しを聞いた時神様の存在を簡
単に信じることができたので、十字架という意味、罪に本当
に鈍感だった。
神様がいるから、イエス・キリストが私の罪のために十字架
にかかられたことも本当だろう。
なんの訓練も教習もなしに天国にいけるなんて、そんなうま
い話あるんだろうか。
まぁ、でも神様が言っておられるからそうなんだ。
今は深く考えまい…
こんな感じで信仰生活が始まったがただ、ただ、神様から愛
されて、ここまで来ることができた。
信仰を持って16年たったが、今言えることは、やはり神様
を信じ、イエス様の導きに素直についていけば、間違いはな
かったということだ。
いや、もっと最初から素直に歩んでいれば、どんな実りがあ
ったんだろうと後悔することばかりだ。
イエス様を信じた時、自分の中で価値観が逆転するとよく聞
くが、神様の価値観とこの世の価値観を使い分け、二束のわ
らじを履いているからその逆転のスピードはなかなか進まな
かった。
今、御言葉に心を満たされたと喜んでいても
また明日になれば、環境次第でどうなるかわからない自分が
いる。ねたみやひがみ、競争心にゆれてしまう心。
また神様の他に頼りにしてしまうものを持っていたい自分。
見えるたびに、イエス様の十字架がありがたく思われる。
転ぶたびに、私の中で十字架は大きく輝きを増していく。
「そして男の子を産む。その名はインマヌエル・・」
(神様は私達と共におられる、という意味である)
*マタイ1:23
神様の愛は、私に注がれ、イエス様は私とともにおられる。
世の中は、年々、暗く息を呑むような事件の連続だ。
この暗い世にあって、この世のクリスマスの賑わいは今を
盛りにあだ花のように咲き誇るが、私達には共に生きて下
さるイエス様がいる。
また今年も、イエス様の御降誕の意味をかみしめて心から
喜び感謝する。
by富士子
|
|