2004年03月17日(水) 真摯な証しのゆえに父が・・
私は、16才の時、親友に教会に誘われて、特別 集会に始めて出席した。 その時、ビックリしたが、語られる言葉が、自分 の心にピッタリで、求めていたものに出会った感 じがした。 わかりやすいお話で、初めて聞いたキリストの十 字架の意味が、はっきりと理解できた。その場で、 主イエス・キリストを信じた。 その日、新約聖書と小冊子をプレゼントされて、帰 宅した。 夜更けて、一人でその小冊子を読んでいた時、今思 えば、ルカ15:の放蕩息子のメッセージだったが、 ビンビン心に入り、迫り、放蕩息子が自分で、父が 神様であることが、よくわかり、涙が溢れて仕方が なかった。 その日、本当に救われて、神様のもとへ帰ったのだ と思う。 父は、私の信仰や、私が、教会へ行くことに全然反 対しなかった。むしろ、好意的だった。 ある時、こんな話をしてくれた。 父がまだ子供の頃、戦時中で、物もない頃に、田舎 の山奥に、クリスチャンのおじいさんがいた。それ は暖かい優しい人だった。いつも子供達を集めては、 聖書の話をしてくれた。 物のない貧しい時代に、大変な犠牲を払って、いつ もいつも、集まる子供達に、お菓子を振舞ってくれ ていた。どんなにか大変だったろうに。それが強烈 なインパクトだったと。 父も、あんな昔に神様の恵みをしっかり受けていた。 結婚して、開拓伝道を始めて、初めてのクリスマス。 父がお金を送ってきてくれた。子供達へのプレゼン トのために、使って欲しいと。 その時、父の心に、生涯消える事のない深い印象を 残した、そのクリスチャンの真実な証しを思った。 私の信仰に反対せず、好意的だったのは、その真実 な生きた証しがあったゆえ。その真摯な証しのゆえ に、私が恩恵をこうむったと。 そんな時代に、そんな山奥に、クリスチャンがいた こと。たった一人で立ち、真実な証しがなされ、御 言葉の種が蒔かれていたことに、驚き、深く感動し た。 一人でも証しを続けること・・、必ず実を結ぶこと ・・。 あの時の、子供であった父が救われ、天でいかばか りの喜びの再会がなされている事だろう。 by 多恵子