2004年04月11日(日)
私のイースター
|
今日はイースター礼拝だった。
イースターとは、イエス様が十字架にかかり、墓に葬ら
れ、3日目に復活された事を、記念してお祝いする日。
私はイエス様を救い主と信じて、救われて、3年後献身
した。その献身した時からが、目が開かれて、本当の意
味での信仰生活が始まった。
それまで、自分のプランや自分の生涯など、絶対に献げ
られないと、ずっと神様に抵抗していたので。
しかし、神様に追い込まれて、自分の計画も自分の夢も、
自分の将来も何もかも、いいです、献げますと決心した。
その後、自分で聖書を読み、祈っていた時に、「ここに
はおられません。前から言っておられたように、よみが
えられたからです」マタイ28:6
の御言葉が、突然、まさしく心に臨んで来た。霊の喜び
が心の内側から湧き出て、溢れ出て、満ち溢れた。その
場に神様の臨在を感じた。神様がおられた。
「ここにはおられません」 死人のおるべき墓にはおら
れない。罪も死も打ち破られた。私の古きも過ぎ去った。
私の生まれながらの価値観の中にもおられない。私の肉
の思い、私の力の中にもおられない。
まとわりついて来る罪、足を引っ張る肉の欲、それらも
打ち破られた。
それらすべてを打ち破って、よみがえられた。
霊の喜びで、充ち満ち溢れた。よみがえられたイエス様
に出会った気がした。
自分が委ねた度合いでしか、イエス様はわからない事を
知る。
自分が握りしめて、放せない間は、救われてはいるのだ
けれど、全くわからなかった。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すの
ですか」ルカ24:5
ちょくちょく語りかけられる。充ち満ちた、全能の力の
ある主は、死をも打ち破られ、よみがえられ、生き生き
と今働いておられる。
その主を、なぜ、頭の中で、理屈で、教理で、肉の力の
中で、捜すのか。
「自分の力」、そこにはおられない。領域が違う。
瞬間、瞬間、生き生きとした交わりの中で、今、生きて
おられるイエス様に触れていたい。
教会では、昔は早天野外礼拝をしていた。6時に桜の素
晴らしい山頂で、イースター礼拝!!
まだ、少し寒さの残る中で、心身きりっと、御言葉に聞
き入り、これがなかなか良かった。
人が増えると、皆が皆、6時集合は無理になって、普通
の礼拝時刻で、野外礼拝になった。これが、ちょうどイ
ースターって、桜の季節なので、見事な桜の下での礼拝
と食事会。
それで、なぜか、うちの教会では、イースター=「教会
のお花見」になってしまった。
礼拝と共に、兄弟姉妹の和やかな交わりが、いつも素晴
らしき祝福!!
by 多恵子
|
|