2007年07月13日(金)
  「神のみこころは、愛」

Aさんが「バイト先で、上の人が口をきいてくれない。
何か自分が失敗をして、迷惑をかけたんだと思うが、
自分は全くわからない。
自分も辛いが、でも、相手の方がもっとしんどいだろう
なと思えた。そう思える自分に驚いた。イエス様に
よって変えられている事を思った。

その人に以前の自分を見るようだった。しんどい
歩みをしていた。神様に出会って、そこから救われ、
恵みの中に入れられた、その恵みの大きさを思った。

祈っていたら、何をしたかもわからないが、自分から
謝ろうと思えた。世の価値観なら、自分の正当性を
主張するばかりだ。自分は正しい、間違っていない、
相手が悪いと。

自分が正しいのに、謝るなどと、世の価値観の辞書に
は無い。
でも、神様の価値観は全く違う。へりくだりなさい
と言われる。祈ると、いろんな場合に、御霊はへり
くだれと示される。

Cさんも経験した「自分が入ったばかりに、元から
いた人の部署が変わる事になり、自分のために、相手
が不本意な位置になった。勿論相手は嫌だろう、口を
きいて貰えず、無視された。

しかし、こちらは無視されても、欠かす事なくきちん
と挨拶をし続けた。ある時、余りにも嫌味な態度で
来たので、もうカチン!と来てしまって、もう我慢な
らず、一言言ってやろうと、言いかけた。

その時、自我!と気づき、神様!と心の中で助けを求
めて叫んだ。一瞬だったが、神様を呼び求めた時、口
から勝手に言葉が出て来た。
それは「ごめんなさい」だった。自分でも唖然とした。
「ごめんなさい。私が来たばっかりに位置が変わって
しまって」と。

すると、その人は明らかに良心の呵責を感じている表
情がもろに出て、「いえいえ、そんな事ないわよ」と、
非常なとがめを感じている顔だった。
そして、それ以後、全くわだかまりが無くなり、普通
に気持ち良く交流できるようにされた。

「正しい」だけで進むと、御心を誤る。自分は正しい
のだから、と突き進んで行くと、時に、正反対の方向
へ行ってしまう。
神の御心は「正しさ」でなく「愛」だ。愛はへりくだりだ。

「正しい」だけが御心なら、イエス様は十字架にかか
る必要は無かった。完全に正しいお方なのだから。
でも、十字架にかかられたのは、愛ゆえだった。十字架
が基準である事をいつも教えられる。