2008年02月13日(水)
  「有難み」

宣教師の先生方がデプテーションやファロー
で教会に来て下さる。
新しい風を、教会の中に吹き込まれるように、
恵まれる。
宣教地の様子、国内外の対外の魂への思い、
宣教師の先生方の、熱い救霊のスピリット
にとても教えられ、新たにされる。

ある所では、今も、迫害があり、捕まれば刑務
所行きで、名誉、地位は剥奪、財産没収、
自身も何年投獄されるかわからない。

これが最後の集会行きになるかも知れない。
捕まればそれで終わりだ。今日は行かないで、
家で礼拝を守ろうかと、凄まじい誘惑が来る
そうだ。

しかし、主は何をして下さったのか。自分の
ために命まで捨てて下さったお方ではないか。
では、自分も命を献げて従おうと。

信仰が命がけだ。この瞬間にも命が生きるか
死ぬかの命がかかっている。白か黒になり、
中途半端が無くなるのでしょうね。中途半端
でおれないから、クリアになる。

物質的に豊かでない、人権も認められていな
い、何も無い所では、信仰も神様もクリアに
なる。
あなたは高価で尊いと、存在そのものを認め
て下さるお方、身代わりに死んで下さるほど
愛して下さったお方、御子のいのちがかかって
いるほどに、それほどに尊いと言って下さるお方。

豊かな日本では、何も困ることが無くて、
別に神様が必要無くて、神無しでも物質で目
がくらまされて生きて行けると思ってしまう。
何もかもが当然で、何の有り難みもわからない。

求める必要がない。物質って、単に物質だけ
ど、霊の目をくらませる。
鈍くするというか、見えなくさせる。

神様に人が立ち返るって、厳しい痛い試練、困窮
しか無いのかも知れない。

困窮があって初めて、必要が与えられた時に
しみじみと、心の底からの感謝が湧き上がる。