2008年09月14日(日)
  「カンボジア訪問D実は惨めで裸」

カンボジア3日目は聖日だった。

カンボジアからパソコンのスカイプで、牧師
がメッセージを語り、映像を流し、カンボジ
ア、広島の合同礼拝をした。

声も充分よく聞こえたそうだ。
何とも便利な時代になったものだ・・。

そこでのメッセージが、黙示録3:17
「あなたは、自分は富んでいる、豊かにな
った、乏しいものは何もないと言って、実は
自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目
で、裸の者であることを知らない」

Aさんが話してくれた。「自分の根底は人と
の比較で成り立っていて、それが自分の今ま
での生き方、価値観であり、そこから劣等感
にさいなまれていた。
幾ら、神様が『あなたは高価で尊い』と言わ
れても信じられない。そんな自分が嫌いで、
劣等感のかたまりだった。

カンボジアの国は貧しくて、人々は生きるの
に精一杯なのに、一生懸命生きてて、貧しく
てもキラキラしている。
小さな事は気にせずに、大らかに生きている
ふうに見える。
子供は汚れた泥だらけの身体で、物乞いをし
ているのに、たくましく生きている。

日本の現状は、経済的には豊かだが、子供が
自殺をし、競争社会で、優越感と劣等感にさい
なまれ、不法がはびこり、愛が冷えている。
病んでいるのは、実は日本だと気づく。

そして、よく考えると自分自身も病んでいる。
豊かだと思っている自分が、実はみじめで、
哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者だとわか
った。

神様の愛をそのまま信じられなくて、ごめんな
さいと悔い改めた。その言葉を信じて、生きて
行きたいです、もう比較の辛さに生きるのは嫌
です、助けて下さいと祈った。
自分の根底の弱さを認めて、祈ることができた。

その後、変えられて、初めて自分は本当にこの
ままで愛されてると信じれた。そう思えるよう
にされている、自分を発見した。」

自己満足の盲目の中にいると、何も見えない。
万事問題なく、OKであり、真の自分が何も
見えていない。
だから、変わることもない。成長もない。

みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸だと
認めることは、それこそ惨めで、誰もしたくない。

でもそこからしか始まらない。そして、そこか
ら始まる。
しかし、御霊によらなければ、実は惨めである
事すら決してわからない。