2013年05月01日(水)
  「まず神が愛して下さった」

教会に来た方から「愛とは何ですか」と
質問があった。

牧師が、Tヨハネ4:10「私たちが
神を愛したのではなく、神が私たちを
愛し、私たちの罪のために、なだめの
供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです」
の箇所から説明した。

愛とは、私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛して下さった。
そして、御子を十字架につけて下さった
ことですと。

信仰生活が長くなっても、培われた「行ない
による救い」の価値観は根深い。

「私たちが神を愛したのではなく」が
「私たちが神を愛した」になっていて気づ
かない。

聖書を読んで、祈って、きちんとデボーション
したから、愛される。
朝から、デボーションしたから、今日は
晴れ晴れとする。

逆に、デボーションできないと、とがめが
来て、何か心が落ち込む。

「そうなんです。例えば時間が少しあって、
聖書読めるのに、読まない自分に、すごく
とがめが来る。
だから、自分はダメだ、ダメだと落ち込む。
心が沈む」

「でも、そうじゃなくて、行ないで受け入れ
られるのではない、行ないで愛されるので
はないから、何もできない私を、まず愛して
下さっているですよね。

デボーションが出来ない私を、愛して下
さっている。
そう思う時、すごく嬉しくなって、心に
自由な喜びが来て、デボーションをしたいな
と思う。これが恵みなんですよね。

『ねばならない』から解放して下さって、
愛されて嬉しいから、主の愛に応えて行き
たい、これが本当なんですよね」


律法は罪を教えてくれる。
「〜せよ」と言われた途端、したくなくなる。
「〜してはならない」と言われると、したくなる。
罪の性質だ。

律法のはまって行くと、泥沼だ。幾ら頑張って
も出来ない。すると、ますます頑張ろうとする。
自分が足らないから出来ないので、更に頑張る。
しかし、出来ない。すべてが自分の力だ。

ギブアップした時に、自分の力を止めた時に、
御霊の力を経験する。
頑張るのでなく、ギブアップすることが
御霊に導かれる道だ。