2003年09月12日(金)
  伝えたいこと

先日久しぶりに叔母の家に行った。
あれこれ話しに花がさき、楽しい一時をもったが、
さあ、帰ろうとして立ち上がった時、叔母が
「ちょっと食器もらってよ」と言う。

使わないのなら、ありがたく・・と思ったが、
叔母が「もう、いつお迎えが来てもいいように、
食器や服を整理してて、あちこちに貰ってもらって
る」と言うので驚いてしまった。

「死ぬのはぜんぜん恐くないよ。あっちには、お父
さんもお母さんも、妙ちゃんもいるからね」と言う。

妙ちゃんというのは、八年前に亡くなった私の母だ。
それからは弟、妹と共にこの叔母を母親代わりに思っ
て頼ってきた。

母には、生前になんどか福音を話す機会があったが、
「死んだ先のことなんか、今は聞く気にならん、死
ぬまでに聞くわ」とはねつけられて来たが、亡くな
る前に病室でイエス様を心に受け入れてくれた。

「お金も、徳を積むこともできん病人の自分には、
信じるだけで罪が 赦されるというのはありがたい」
そして「私も、あんたや孫と同じ所に行きたい」と
言った。

残される親族にとって肉親との別れは本当に辛い。
しかし、私は、一時的な肉親の別れの悲しみも確か
に辛かったが、やはり心の底には、母がイエス様
のところに行っているという喜びがしっかりあった。

晩年は悪性リンパ腫とその治療の副作用の苦しみ、
また最後は癌とその手術など大きな病気や痛い思い
ばかりで逝ってしまった母が、完全な身体になって、
私達との再会を待っていてくれる。

クリスチャンにとっての毎日はこの世との別れが近
くなる反面、天にいる家族、友人との再会の時は近
づいている。

どこにいるかわからないが、死んだら会えるだろう、
といった漠然とした希望ではなくイエス様が十字架
の上で死をもって与えてくれた確かな希望だ。

信じられない人には、おとぎ話や幻想に聞こえるだ
ろうが。

安定した老後…という言葉をよく聞くが、私はこの
十字架の信仰を持たずにいる人がなぜ心穏やかに死を
向かえることができるのかわからない。
それがわからずなぜ安定しているのだろう。
自分の目に見えるものだけをなぜ信じておれるのだろ
う。

また安定していないなら、なぜ不安定な自分の力であ
がくのだろう。
神様を知らなかった、以前の自分のことを思い起こす
たびにもう絶対にあの時には帰りたくないと思うのだ。

高齢になっている親族達への証しと救いを今、せつに
祈っている。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとし
て滅びることなく永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16      
                  by 富士子