2005年02月20日(日)
  「証し・・種まき」

Bさん、学生時代は証しが出来なかったと思っ
ていた。
ところが、先日、同窓会に出席。卒業してから、
9,10年。意外なことに、あの時は・・と、同
級生達が次々話し出した。

「Bが聖書をくれただろう」(え?覚えてない・
・)「年とって行くと、仕事や家庭で色々な事が
あってなあ、今、あの時もらった聖書を読んでる
よ」(え!そうなんだ・・)

「俺が人生の中で一番悩んでいた時、お前と話す
と、お前は聖書のことをずうっと話した」(え?
全然覚えてない・・)
「学生時代のことも、人の事ももう忘れてしまっ
たが、あの時の聖書の内容だけを覚えてるんだ。
今も鮮明に残ってるんだ」(えー!@@@〜)

「Bは聖書のこと、真剣に話してたなあ。覚えて
るよ」(え?覚えてない・・話してたんだっけ?」

自分は全然証しできなかったと思っていたが、友
人達が悩みの時、問題のある時、お前は聖書のこ
とをいつも話してたと、思い出話をした。

話した聖書の言葉は残っていると、自分ではだめ
だ、出来てないと思っても、どこでどう用いられ
ているかわからない。クリスチャンがいるという
事は素晴らしい証しだ。
神様のなさることは、奇しく、不思議だ。

証しは種だ。種を蒔いておけば、いつか人生の悩
みの時、苦難の時、思い出して神を求めるかも知
れない。

以前、教会に来られた、D婦人がとても印象深か
った。ずっと心に残っている。
アメリカ人を夫に持ち、自分は未信者だと。アメ
リカで、舅さんが素晴らしいクリスチャンで、いつ
も親切で暖かく、自分達家族を心から愛してくれた。

教会へも誘ってくれた。神様の事も話してくれた。
だが、舅さんは大好きだが、自分はどうしても神を
信じる事が出来ない。聖書が神話だとしか思えない。
どうしてもだめだ。舅さんは喜ばせたいが、信じる
振りも出来ないと。

ちょうどD婦人が、母子で日本へ帰省中に、突然舅
さんの訃報を受けた。留守中に亡くなられたのだ。小
さな子供抱えてすぐに動けず、葬儀も間に合わない。

日本にいて、何もどうも出来ない。自分に舅さんの
ために、何が出来るかを考えた。大好きな舅さんが、
一番喜ぶことをしたいと願った。

自分は神の事はわからないが、舅さんが一番愛した
教会へ自分も葬儀の時間行こうと思った。その時間
自分も教会にいたいと思った。
舅さんの今まで示してくれた真実に、自分も真実で
応えたい。それで、今日、日本の教会に来させても
らったんですと。

D婦人と話した。既成概念、今までの経験、今まで
の知識、それが聖書と反するから、読んでるが、全
然納得行かないし、混乱してわからないと。

神がわからない事は全然構わない。自分の思いや今
までの知識や経験、それも全然構わない。

ただ、一つ、自分の思いや過去の経験、知識、全然
構わないが、とにかく、一旦それは横において、聖
書が言っていることを、言っている事として聞いて
みられませんか。そういう聞き方をしてみられませ
んか。

すると、表情が一瞬変わり目が輝いた。それは出来
ます。いや、そうしたい!そうします!と言われた。
アメリカに帰って、教会へ行きます。そして、そう
いうふうに御言葉を学んでみますと。
本当は自分も信じたいのですと、心の内を話して下
さった。

これって、凄い証しだと思った。舅さんの死がDさん
に真剣に神を求めさせた。舅さんは生涯の証しと死を
もって、一人の魂を導かれたんだと。

by 多恵子