2007年01月10日(水)
  「よくなりたい」

ベテスダの池の箇所を話し合っていた。

38年病気の男性がベテスダの池に伏せっていて、
イエス様が目を留められて「よくなりたいか」と
問われる。

Aさん「あ、私、全然良くなりたいと思っていな
い。よくなりたくないと思っている。
良くなったら、嫌いな人を愛さないといけない、
神様に祈れば、そうして下さる事もわかっている。
だから祈りたくない。よくなりたくない。嫌いな
人を愛したくないんだ」

「よくなりたいと思っていない自分がわかった。
新しい年、前進したい。よくなりたいです」

よくなりたくない自分の姿を、照らし出すために、
自分自身の本当の姿を、認識させるために、イエ
ス様は「よくなりたいか」と聞いて下さる。
心が探られて、自分の心を自分で知る。

Bさん、対人関係で目の前に、どうしても受け入れ
られない相手がいる。でも、自分への神様の取り扱
いであり、そこから逃げたとしても、次の「あいつ」
が必ず次々と備えられていることがよくわかる。

相手の問題でなく、自分の問題なのだ。強烈な自我
に触れるのがわかる。つい相手へも態度が悪くなっ
てしまい、平安が全くなく、苦しくて仕方がない。

悶々の内なる葛藤の日々の後、ついに「よくなりた
い。苦しい。私を変えて下さい」の祈りへと導かれた。

自分が良くなりたいと思わない限り、良くなる事は
不可能だ。「良くなりたくない」自分を知る事から
始まる。その自分を認める時、神がみわざをして下
さる。