2008年07月09日(水)
  「問題は自分」

「赦し」について学んで、何やかやと語り合う。

一番の落とし穴というか、ネックは、自分が
被害者になってしまって、自分が見えなくな
ってしまう。

悪いのは相手であって、自分は被害者、だから
自分は悪くない、自分は正しい。
でも、その心に、赦せない思い、恨み、裁く思い
がある。それは罪であり、自らの罪だ。
相手は関係無い。

信仰は、自分と神様の関係がすべてだ。
自分と神様の関係が正しければ、どんな状況
であれ、心は全き平安だ。
人は誰も、その平安を奪うことはできない。
例え、加害者でも、神にある平安を奪う事は
できない。

平安が無く、心が苦しく、辛いのは、相手のせい
でなく、相手を裁いている自分の罪のゆえだ。

するとAさんが「私、それだ!今日初めてわかった。
色々な対人関係があるが、相手がどう見ても変な
場合、自分はまるっきりの被害者に思ってしまっ
てて、相手が悪いとしか見えない。

どう見てもそうしか見えない。でも、自分が全く見
えていなくて、結局、自分は正しくて、正しいから
赦される必要がない。
十字架が要らないと言っているわけですよね。

罪は無いというから、真理も無いし、神を偽り者と
することになって、神の言葉も自分の内に無いと
いうことになりますよね。」

Aさんが、祈りの中で悔い改めた。
「自分の罪を認めます。自分の方が弱者だという
陰に隠れて、実は赦さない頑なな心があり、裁いて
います。この罪を赦して下さい。」

“もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いて
おり、真理は私たちのうちにありません”

“もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神
を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうち
にありません”

“もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実
で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から
私たちをきよめてくださいます”Tヨハネ1:9

以前、友人宅に遊びに行った時に、丁度友人の知り
合いも来て、一緒に色々語り合い交わった。

その中で、その知り合いの方が証しをして下さった。
夫がギャンブルにのめり込んで、お金をそちらにつぎ
込んでしまう。
生活費がどうにもならず、生活が成り立たない。
夫婦喧嘩が絶えず、家にいると喧嘩になる。
やがて給料をそっくり使うようになり、離婚を考えた。
悩み苦しんで、心悶々の日々で、藁にもすがりたかった。
教会に誘われたので、心の支えが欲しくて、行った。

聖書の学びをしていた時、突然、心に光りが射し込んだ。
明らかに、どう見ても、誰が見てもギャンブル狂の夫が
悪い。

しかし、夫を裁き、見下し、軽蔑する自分の恐るべき高慢
の罪が、初めて見えた。
夫を責めるだけの自分、喧嘩の絶えない日々、それが
又、夫を更にギャンブルに追いやっていたと、初めて思い
が至った。
涙ながらに悔い改め、夫にも謝罪した。
もういいと思えたのに、不思議に、夫のギャンブルが止んだ。

御霊の光に照らされた時、初めて自分の姿が見える。