2009年07月07日(火)
  「五時の者」

病を持っておられるAさんが、

「自分は、ぶどう園のたとえの、5時の者です。自分は何もでき
ない。でも、何か自分にも出来ることで、神様に仕えたい」
と言われた。

ぶどう園のたとえとは、マタイ20:にあって、猫の手も借りたい、
ぶどうの収穫期に、主人が、労働者を雇う。

早朝に雇いに出て、労働者達と1日「1デナリ」の契約をし、雇う。
次に9時に出かけ、彼らには1デナリとは言わず「相当のもの」
と言って雇った。
12時と3時にも、出かけ、同じようにした。
5時にも出かけ、「誰にも雇ってもらえない」労働者たちを雇う。

そして、その日の仕事は終了し、賃金は最後の5時の者から
支払われた。その報酬は、1デナリ。

それを見て、早くから労働した者たちは、もっと多く貰えると
思った。しかし、全員等しく、1デナリだった。

すると、早朝の者が怒った。「何でなのか!」不平不満爆発だ。
自分達は暑い中、苦しい仕事をしたのに、同額とは納得が
行かない!怒りと不服。


だいたいこの箇所を読むと、不公平だと思う。
「何でなん!!」「おかしいじゃん!」

そう思うこと自体が、自分が早朝の者であるから。
無意識に、早朝の者に自分を重ねている。

もし、自分が5時の者であれば、どんなに有難くて、嬉しい事
だろう。1時間しか働けなかったのに、1デナリも貰えた。

今日の糧を待っているであろう家族、しかし、雇ってもらえ
ないまま、もう夕刻。このまま空手で、どうやって帰ろう。
そこに、こんな時間に雇ってくれる人が現われ、しかも、
丸1日分の賃金が貰えた。
何という恵みで、有難いことだろう。そこに、感謝しかない。


こんな事を話していたら、

Aさん「私、早朝の者じゃわ!!」
Bさん「私も、早朝の者!!」

Cさん「私、今、わかった。不平不満タラタラで、心の内で、
人を裁き、見下げ、腹を立て、自分が早朝の者なんじゃ」

Dさん「ものすごい肉の力があるんですよねえ。本当は何も
出来ないのに、できると思っているし、自分でしている」

自分が5時の者なら、すべてが恵みで、すべてが与えられた
もので、神様が満ち満ちておられるんだろうなあ。

これも、神様の砕きしかない。砕かれるしかない。