人は自分の功績を誇るようになることが多いですね。
弟子たちは「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるのですか。」
と聞きました。その時にキリストは天国や永遠のいのちを受けることができると答えました。
この時に、キリストは弟子たちが、天国に入ることが出来たのは、自分たちの功績の故であるとの思想から守るために、上記のことばを述べられたのです。
そのための例話が20:1〜16に話されています。ここの例えでは主人は神です。労務者は神の恵みと愛によって救われた者たちです。主人から報酬を受けるのですが、みなが一様に同じ額の報酬を受けるのです。
労働の大小にはよらないのです。朝早くから働いている人は12時間働いたのです。午後5時に雇われた人は1時間働いたのです。特に言っておきたいのは、午後5時に雇われた人とは、どんな人かと言いますと、全く働きが十分に出来ない人です。身体が丈夫で良く働きのできる人から雇い人は農園に連れて行きます。
だれにも雇われなかった余った人、すなわち、働きが十分にできない人なのです。それでも、主人は雇われたのです。
それは主人の憐れみです。このような人こそ、神の憐れみと恵みの深さを知ることが出来ます。
天国に入るのは、自分たちの功績ではなく、神の憐れみと恵みの故であることを教えたのです。
キリスト者になって、時間とともに多くのことを学び、多くの奉仕をするようになるでしょう。
しかし、それによって、天国に入ることができるようになったと考えるなら、その人は後になってしますのです。
いつも、神の恵みの救いに感謝していたいですね。他の人と比較しないようでありたいですね。