芝山先生、こんにちは!
私は東京で一人暮らしをしている学生です。
教会には高校生のときに熱心に通ってバプテスマを受けました。
その時は、とにかく教会の人々とクリスチャンの友達に
あこがれて、私もクリスチャンになりたい、というのが
第一の動機だったように思います。聖書も熱心に読んでお祈りもしていました。
ただ、神様を信じている、と自分で信じ込ませているような気がして
無理しているなーと感じていました。
洗礼を受けたとはいえ、お祈りも、言葉だけ立派なことを言って心からそう
祈ってるのかもわからない状態、聖書も読んでいる最中は「すごいな〜
イエス様は」と思っても日常生活に入ると今日読んだ個所も思い出せない
ような、神様のことはすっかり頭から抜けているような状態でした。
今考えると、それは本当の信仰ではなく、うわべだけの信仰、周りの人の
目を気にした信仰だったと思います。本当は救われてないと思います。
それから東京に出て一人暮らしが始まりました。教会の場所を調べて、一ヶ月
通いました。でも教会の人との交わりはありませんでした。
新しくできた友達に自分がクリスチャンであることを知られたくない、と
思うようになりました。偏見の目で見られたり、友達ができなくなるのが
怖かったのです。「男友達が欲しい」と祈った次の日、今の彼氏と
知り合い、急速に仲良くなりました。楽しい日々が続くにつれ、
本当は神様なんていないんだ、どうせ本物の信仰じゃなかったんだ、
聖書には良いことが書いてあってクリスチャンの生き方は素晴らしいと
思うけど、天国とか最後の日とかが本当にあるとは思えない、
と思うようになったのです。
聖書を読むのをやめ、お祈りもしなくなりました。
そんな状態が2年強続きました。
彼氏とつきあって1年経ったぐらいでしょうか、ケンカの度に暴力を
振るわれるようになりました。彼はその度に反省するのですが
時が経つとまた繰り返します。その状態がずっと続いている内に
本当に最近ですが、私は神様のことを考えるようになりました。
「神様なんて信じなくても自分だけで立派に生きていける」と
思った結果がこの日々だったのです。聖書をまた読み始め、
信仰を与えて下さい、と祈り始めました。
先日、彼に殴られて頭から血が出て病院行きになったのですが
(今までこんなにひどくなかったのでびっくりでした。ついに
ここまできたか、という感じですが。)
自然に(無理矢理ひねり出した言葉ではなく)、「この時が、
神様への信仰に導かれる良い機会となりますように。
このことで神様の栄光が現れますように。」
と祈っていました。神様の御心は本当に計り知れない、と
思いました。相談というのはここなのですが、
ドメスティック・バイオレンス(夫・恋人による暴力)の
専門家の本を読んだりすると、暴力に対する最善の解決策は、
「逃げなさい」「別れなさい」だそうです。私も、別れようと
考えました。でも、最近読んだ三浦綾子さんの本に
「人生で一度でも関わった人に対しては責任を全うしなさい」
という感じの言葉があったりしたことや、病院でCTスキャンを
撮られているとき「神様は彼も愛して下さってるんだよなー」
とふと思ったことを思うと、彼が暴力を克服する道のりを
一緒に歩きたい、と思うようになりました。彼のことが
まだ好き、という気持ちもあります。
芝山先生はこのことについてどう感じられますか?
何かアドバイスがあればお願いします。
長文を読んで頂いてありがとうございました。