2026年07月04日(土) 「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・ 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを 見て、施しを求めた」使徒3:2
「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・ 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを 見て、施しを求めた」使徒3:2
ペテロは彼に、「金銀は私にはない」と言った。富 は快く、欲望のままに物を手に入れる事ができて、 快適だろうか。しかしどれほど所有しても、心に決 して満足は無い。幾ら得ても、更に欲する。「十分」 という事が無い。「貪欲」の罪だ。これは底無しで あり、哀れで悲惨だ。 箴言に「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』 と言う。もう十分だ」と言わない」と。ペテロとヨハネ に、施しを求める男に、ペテロは「金銀は私には無 い」と答えた。「しかし、私にあるものを上げよう」と。 私たちはどうだろう。何を求めているのだろう。何を 求めて、主のもとにいるのだろう。 実は、自分の欲しいもの、都合良いものを求めて いるのだろうか。金銭でなくとも、「自己実現」「自分 が成功すること」「人に人格者と思われたい」「生き がい、充足感が欲しい」無形の金銀だろうか。しば しば自分が求めているものと、主が意図し、与えて 下さるものとが異なっている。方向違いに求めてい る。 「しかし私にあるものを上げよう」。私たちが欲しい ものでなく、主が、必要と思われるもの、最も良い ものを下さる。「イエス・キリストの名によって歩き なさい」これを与えて下さるのであり、これこそが 彼にとって、又、私たちにとって、最も必要で、素 晴らしいものだ。主の御心と、自分の心が合って いるだろうか。主は愛ゆえに、いつも軌道修正し、 主の御心へと導いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・ しばしば御霊の導きでなく、方向違いに求めてし まう。しかし「わたしにあるものを上げよう」と、主 が良いと思われるものを下さるとは、何と感謝な 事だろう。主の下さるものに、あずかりたい。
2026年07月03日(金) 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、 この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろも ろの悪霊に対するものです」エペソ6:12
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、 この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろも ろの悪霊に対するものです」エペソ6:12
悪魔は「策略」をもって攻撃して来る。練りに練られた 策略だ。決して考え無しではなく、場当たり的なもので ない。計画的犯行だ。「落とし穴がある」と知れば、人 は身を引き締め、警戒し、見破ろうとする。通常、罠に かけるなら、口外する者はいない。しかし「悪魔の策略」 とあり、綿密な作戦があるという事だ。 警告にかかわらず、気にも留めていないだろうか。悪魔 は私達の「感情」に働いて来る。人に腹の立つ言動や態 度をされた時、「言い返せ!報復せよ!」と言う。悪魔 にあおられ、感情がエスカレートし、犯罪にまで至る。 私達は、感情は荒れ狂うが、意志はコントロール出来る。 そのように造られている。 悪魔は私達の「感情」に働き、対人関係が、好き嫌いで 振り回される。人をさばき、憎むと、苦しく平安が失せ る。背後に悪魔の攻撃が、来ているだろうか。感情はコ ントロールできないが、意志はできる。意志を向けて、 赦し、愛する事ができるようにされている。 意志を向け、選択する時、主から必要な力が来る。悪魔 が働き、目に見えるのは相手だが、実は、相手への裁き、 憎悪、妬みを起こさせ、罪を犯すよう、悪魔が仕向けて いる。血肉とは戦っていない。背後の悪魔に気づける ように。祈っていよう。 ------------- 行為の前に、感情に働いてくるサタンを識別していたい。 平安が失せ、苦い気持ちに気づいたら警戒し、御心を主 に祈ろう。主にありのままを告げ助けを求めよう。
2026年07月02日(木) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ るのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこ ろには自由があります」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ るのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこ ろには自由があります」Uコリント3:16
私たちは新生し、新しい性質が与えられた。だが古い性 質、肉も残っている。日常で、容易に肉に流されてしま う。嫌な相手がいるなら、肉は嫌っていたいし、憎しみ が湧く。人の言動にカチンと来ると、まず祈るよりも、 一言、言い返したい。スッキリすると思う。 傷つけられると、何倍にもして報復したい。又、主に従 うよりも、好きな事をしたい、楽な方へ流されてしまう。 祈るよりもテレビを観、趣味をし、お喋りをしたい。一 日の終わりには、肉の思いで、いっぱいだ。そのまま眠 りにつき、又、朝になり、その繰り返しだと、どんどん 肉へ流されてしまう。 気づかないまま、知らず〃、主を離れてさまよってしま う。それをくい止めるのが、主との交わりであり、祈り と御言葉だ。多忙な中、少しでも主との交わりを持つ時 に、御霊は働かれ、悔い改めが与えられ、赦されて、新 しい力が与えられる。非常に多忙の中も、主に向く時、 霊が新たにされ、生き生きと歩んで行ける。 ある人が、仕事の難題に心身すり減らし、続く深夜帰宅 で睡眠もとれず、疲労はピークに達していた。イラ立ち が抑えられず、時間も無く、祈りの時も持てていない。 もう限界で、昼休みに屋上の隅で、主との交わりを持っ た。あるがままを祈り、求めは、叫びとなった。主に触 れて、新たにされたのがわかった。平安が戻り、喜びと 共に、午後の仕事に戻れた。 ------------- 忙しい日常でいつも直面する。気づくと自力で走り、肉 の思いにふさがれ、平安がなくなる。主と向き合い交わ る時間を守ろう。そして生き生きと歩んでいこう。
2026年07月01日(水) 「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめ なさい。そうすれば、外側もきよくなります」 マタイ23:26
「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめ なさい。そうすれば、外側もきよくなります」 マタイ23:26
主は、パリサイ人に対して、極めて厳しい言葉を語られ ている。「忌まわしいパリサイ人」「偽善の律法学者パ リサイ人」「目の見えぬ手引きども」「白く塗った墓、 死人の骨や汚れたものでいっぱい」「内側は偽善と不法」 「中は強奪と放縦」「蛇ども、まむしのすえども」と。 主は、彼らを憎まれたのではなく、悔い改めることを望 んでおられた。主が見られるのは内側なので、幾ら外側 ばかりをきよめても、何にもならない。主が喜ばれるの は、外側をきれいにする事でなく、内側の罪深さ、醜さ、 憎しみ、妬み、高ぶり、偽りを悔い改めることだ。 パリサイ人は内側は関係なく、外側だけを、行ないだけ を問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外部から見 ることができるが、しかし、自分自身もまた、容易にパ リサイ人なってしまう。人からどう見られるか、外見が 気になって仕方がない。嫌われたくはなく、良い人に見 られたい。 そのため無意識にも、良い人に振る舞ってしまう。人の 目を気にして、外側を繕ってしまう。それを続けている と、良い人でも何でもない自分を、良い人だと勘違いし てしまう。そして、高慢に陥ってしまう。本当の自分は 、妬みや憎しみ、裁き、怒り、イライラでいっぱいだ。 これならパリサイ人と同じだ。主は、私たちを愛して下 さっているので、本当の姿を教えたい。説教や学び、デ ボーションの御言葉を通して、照らし出して下さる。悔 い改めて、赦し、きよめるためだ。偽善に陥る事から守 って下さるためだ。 ------------- 外側を整えることで安心している事を認めたい。本当の 姿が見えなくなってしまう。内側の信仰をいつも新しく され、主によって生きていこう。