2020年10月28日(水)

「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」ローマ8:39



私たちが試練に会う時、どうしてもすぐに目の前の問題を何とかし
たい、苦しみが無くなって欲しい一心となる。これをこうして、あ
れをああしてと、自分の様々な思いがあり、そのように祈る。願い
を主に持って行くのは良いが、しかし目の前に来る問題は、主の目
的と意図がある。「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」と
ある。

そのためこの問題を通して、主ご自身を知れるよう、教えようとさ
れている事を悟れるように祈ろう。実際、主の愛を知る時に、どん
なに苦しい中でも乗り越えて行ける。ある人は、対人関係の悩みの
時に、深く取り扱われたと証しした。

この問題は主から来ていて、自分のための取り扱いだと、うわべで
は模範的クリスチャンのように言いながらも、心では、怒りがおさ
まらず、受け入れられずに反抗している自分。自分には間違いが無
い、自分は正しいと思っている。そのため心では相手を責めて、裁
いている。自分を正当化し、相手のせいにしている自分。

しかしその事に全く気づかなかった。だが祈り続ける中で、主は自
らの本当の姿を見せられた。何と罪深い自分。その時、彼らは何を
しているのかわからないのですからとの言葉が、実感を持って迫り、
主の赦しの愛に触れた。主の十字架がまさに自分のためである事が、
新たに迫り来た。

一つ一つの目の前の悩み、問題、苦しみは、主の愛を新たに知れる
機会だ。今、目の前に悩みがあるなら、その事を通して、主を愛を
新たに知れるよう祈ろう。
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病気が癒えます様にと、癒えるまで癒ししか祈らない自分に気づく。
主のご意思はそこではないと、どんな中でも主に頼る平安を学ばさ
れた。どんな問題も主の愛から引き離すことできない。


2020年10月27日(火)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36



アブラハムは、自分の子が与えられ、そして子孫は天の星のように
なるとの、約束を与えられ、それを信じていた。しかし長い歳月が
経ても、目に見えるところはなかなか実現しなかった。当時は、夫
婦に子供が無い場合、女奴隷に子供を産ませ、その子を跡継ぎにす
ることが、通常であった。それで妻サラが夫に提案した。

主がこのようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を得よ
うと。アブラハムは自分の提案ではなく、サラの申し出であったの
で受け入れた。そして女奴隷ハガルの所へ入った。しかし重大な事
は、この時アブラハムは祈らず、主の御心を求めなかった事だった。
自分の思い、習慣、目に見えるところに流されてしまった。まさに
肉で動いてしまった。肉は、良い考えに思えるから、やっかいだ。

私たちも、なかなか実現しないと、主を待つ事を止めてしまい、自
分の考えで動いてしまうだろうか。しかし肉は、必ず悩みと問題を
引き起こす。奴隷ハガルは、妊娠すると高ぶり、子のないサラを見
下すようになった。ハガルはイシマエルを産んだ。イシマエルはア
ラブ人の先祖となり、今日のパレスチナ紛争に至っている。

見た目に良かれとの肉の判断は、後々まで大変なトラブルとなる。
アブラハムが100歳となり、人間的な力が完全に尽きた時に、イサ
クが天から与えられた。今、あなたの状況はどうか。主を信じ、約
束を待てずに、肉で動くなら、イシマエルを産み出す事を覚えよう。
忍耐して主を待とう。時満ちて、主ご自身が動かれ、約束のものを
手にする。
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御約束をはやく確認したいという肉の思いをその都度、主に告げて
いきたい。一見、良い方法と思えるものに本当に弱い者だ。主から
来ているものか、忍耐を持って待つべきなのか主に聞いていこう。


2020年10月26日(月)

「隣人の家に、足しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないようにせよ」箴言25:17



この句の前に「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎ
て吐き出すことがないように」とあり、密は甘く大変美味しいが、
食べ過ぎると身体に悪い。過ぎると返って害になってしまう。美味
しい蜜を見つけた事と、楽しい隣人の事が記されている。食べ過ぎ
る事が害と同様に、隣人に足しげく通う事が害になると。

どんなに仲が良くても、足しげく通うと、飽きられて、相手に憎ま
れるようになると、言っている。親しい喜びを与えるはずの交わり
が、重荷になり拒否反応になってしまう。隣人と依存関係になると
害になる。対人関係で、適切なふさわしい距離を保つ事は大切だ。
余りに近づき過ぎると息苦しくなる。

ある人が失敗してしまったと証しした。意気投合し、楽しく交われ
る友人に出会えた喜びで、足しげく通ってしまった。最初は仲良く
楽しかったのだが、日を重ねる内に、余りにも近づき過ぎた結果、
互いの欠点や嫌な所が鼻について、それが重く苦しくなって、離れ
る事になってしまった。

足しげくにならず、食べ過ぎず、適度のバランスをわきまえる事は
大切だ。距離があり過ぎても、親しく交われず、近くなり過ぎても
苦しくなる、ふさわしい、健全な良い距離がある。又、一番大切な
事は、慰めや励ましの心の必要を、人に求め、人に依存するのでな
く、あくまでもまず主に求め、主に拠り頼むことだ。

心の奥底の必要は決して、人が満たす事はできない。まず主との交
わりを第一にし、次に人との関係を持つ時に、正しく秩序立って、
その交わりは、主により豊かな祝福とされる。
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主との交わりで霊的な満たしがないと自分自身が平安を失ってしま
う。主から知恵をいただき、人との関わりが長く良い関係で続けら
れるよう、わきまえていたい。


2020年10月25日(日)

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はや みの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」ヨハネ1:4


この世で凶悪事件が起きると、しばしば犯人の「心の闇」とニュー
スで報道されている。しかよくよく自分の心も探ってみると、気づ
かないままに闇があることを知る。決して認めたくない、認めよう
としない、見ようともしない自分の罪はどうだろう。絶対に認めな
い、近しい人への妬み、傷つけられた相手への憎しみ、赦せない思
い、心の引き出しに押し込めたままだろうか。

しかしうすうすは気づいている。ある人が、親しい友人がほめられ
ると、何か心がざわつき、平常心でおれなかった。しかし仲は良い
し親友だと思っていた。ところが段々と自分でも、心が乱れ、きし
む事をはっきりと意識し、主の御前に静まり、心の状態を打ち明け
祈った。

じっと御前にいると、御霊により、実は最初から妬みが心の奥にあ
った事を示された。妬んでいたが、絶対に認めず、その事に向き合
わずに避けて、自分で自分をごまかしていた。主の御前に心から悔
い改め、平安にされた。又、誰にも言えない心の傷みがあるかも知
れない。どうすればよいのか。

闇は、何をもってしても無くす事ができない。ただ一つだけ、闇を
消す事ができるものがある。それは光だ。一筋でも光があるなら闇
は消える。すでに闇で無くなる。主は十字架の死と復活により、罪
と死の闇に打ち勝たれた。罪の赦しがなされた。どんな心の闇であ
っても、光に照らされると、光となる。闇は決して打ち勝てず、そ
こに主の救いがある。

・・・・・・・・・・
「人々は光よりもやみを愛した」と言っている。肉は、暗闇を愛し、
闇が心地良い。しかしすべての人を照らすまことの光が世に来て下
さった。この光に照らされる時に、闇の中では見えなかった、罪が
見える。悔い改めが与えられ、変えられて行く。光の中を歩んで行
ける。


2020年10月24日(土)

「激しい大風が山々を裂き・・しかし風の中に主はおられなかった。 ・・地震の中にも・・火の中にも、主はおられなかった。火のあとに、 かすかな細い声があった」T列王19:11


エリヤと言えば、スーパーマンのような、豪快な信仰の偉人と思い
がちだ。カルメル山で、一人でバアルの預言者450人と戦って大勝
利をした勇者だからだ。だがその後イゼベルの殺害命令を知るや、
怯えて恐れて逃げ出した。「自分の命を救うために」と。

主にお委ねし、主に拠り頼むのではなく、自分で自分を救おうとす
る時に、何もかもがずっしりと自分の肩にかかる。そのため不安と
恐れの重圧で、身動きがとれなくなり、絶望的に思えてしまう。あ
のエリヤが何と死を願う。燃え尽き症候群のごとくに。

しかし主の手厚いフォローにより、十分な休息を与えられ、心身回
復して行く。そして主に示されホレブの山へ向かう。ほら穴にいた
時に、「ここで何をしているのか」と主の御声が。「主に熱心に仕
えたが、彼らに命を狙われている」と答える。するとほら穴から出
て、山の上で主の前に立てと。

その時に岩を砕く激しい大風、地震、火と、劇的な事が次々と起き
るが、そこに主はおられず、その後にかすかな細い声があった。私
たちも、主のわざは、大々的で激的な事と想定しがちだ。だがそう
でなく、主はよく耳をそば立てなければ、聞こえない「かすかな細
い声」で語られる。

自分の思いが強いと聞こえない。周囲の喧噪に、雑音に気を取られ
ていると聞き逃してしまう。主に心と思いを向けて、集中して、こ
のかすかな細い御声に耳を傾けよう。慰め励ましを下さり、御心を
示し、新しい力を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主のみ声は、かすかな細い声とある。日々、喧噪の中に生きている。
街に様々な音は溢れ返り、人の声もあり、頭の中も絶えず雑念で溢
れ返っている。雑念は更なる雑念を生んで行く。かすかな細い御声
を聞けるように、助けを求めて祈ろう。祈りに答えて下さる。


2020年10月23日(金)

「なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩編102:17



時に、私たちは窮地に陥る。方策尽きて、何の手立ても無くなって
しまう。万事休すだ。だがすべての門が閉じられても、上を見上げ
ると、天の門は開かれている。私たちは何も「できない」が、祈る
事が「できる」。あわれみ深い主は、窮地に陥った者の祈りを聞い
て下さり、そしてその祈りをないがしろにされないと。決して無視
されず、放っておかれない。

つまり祈りを、大事に受け止めて下さる。だから窮地に陥っている、
目の前の問題を祈りに持って行こう。ある婦人が、都合で引っ越し
になった。転職せねばならないが、引っ越し先で、仕事は何かある
だろうと思っていた。特に選びさえしなければ、何でもあるだろう
と。住まいも落ち着き、職探しを始めた。

不合格が続くが、次々と応募して行った。ところが受けても受けて
も、不採用で、段々焦りが出て来る。今度こそと応募するが、尚も
叶わず、最初の余裕はきれいに消え、不安と思い煩いでいっぱいに
なった。職が無ければ、生活は成り立たない。段々恐れがやって来
る。祈っていたつもりだが、涙も出て、主にすがりついた。必死に
祈った。

そして何もかも主に委ねて、次の面接に向かった。その時、「私も、
昔、あなたと同じ経験をした。ここで頑張りなさい」と社長が言い、
その場で即、採用となった。主が働かれた。祈りの答えだった。主
は、切なる祈りをないがしろにされない。主のもとへ行こう。
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主にはご計画があるとわかっていても目の前の現実に動揺してしま
う。こんな弱い私たちを主は支えてくださる。顧み、耳を傾けてく
ださる主を見上げ祈ろう。


2020年10月22日(木)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:16




神は、私たちに御声をかけて導かれる。そしてサタンも神と同じ事
をし、私たちに語りかけて誘惑して来る。しかしそれは、神から私
たちを離すためだ。主は、荒野でサタンの誘惑に会われた。サタン
は御父から離そうと攻撃して来る。主は荒野で二つの声を聞かれた。
御父の声とサタンの声だ。

私たちも御心を求めようとする時、主の御声とサタンの声がある事
に要注意だ。よく心していよう。でなければ二つの声を間違ってし
まい、サタンの声を神の声と思ってしまう。特に御心を求める時に、
まず大切な事は、よく心を静めて、御霊に心を探って頂いて、罪が
あれば必ず悔い改めることが必要だ。

特に、妬みや憎しみ、敵対心があり、心に苦みをそのままにしてい
ると、罪や肉が混じって、自分の思いやサタンの吹き込む思いを、
御心と間違ってしまう。自分の都合の良いように御言葉を解釈して
しまう。心に苦みがあると、正しい判断が出来ない。それでは御心
から離れてしまう。あなたの心に、今、苦い根はないか、妬みや憎
しみや赦せない思いは無いだろうか。よく御霊に探って頂こう。

一つ一つ言い表わすなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめて
下さる。きよめられて、御心を求める時、主の御声がさやかに聞こ
えて来る。上からのものは純真、平和、寛容、温順・・あわれみと
良い実に満ちている。苦いものは、上からのものではない。いつで
も悔い改める事ができる。御霊の導きに従う時に、動機も守られ、
御霊の判断にあずかって行ける。
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妬みや憎しみの苦い思いは心の奥底に隠していたい。その闇でサタ
ンに煽られてしまう。苦い思いを主に悔い改め、主に喜ばれる動機
で動いていこう。


2020年10月21日(水)

「ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロは、非常に辛く苦しいとげが与えられた。とげは、容赦無く
突き刺し、どんなに激しい痛みに悩まされた事だろう。私たちにも、
今、とげが与えられているだろうか。対人関係の苦しみ、親子関係
や夫婦関係の深い悩み、厳しい経済的苦境、仕事上の困難、病気の
痛み・・様々なとげがある。パウロは、自身のとげを去らせて欲し
いと、真剣に必死に祈った。

このとげが無ければ、どんなに楽になり、もっと宣教活動に専念で
きて、スムーズに働けるのではと。私たちも何とか悩みから、とげ
から解放されたい。苦痛でたまらない、この問題を、とげを、取り
去って欲しい。何とか解決しようとするのだが、どうにもならない。
苦しい対人関係を何とかしようとするが、ますます感情的にもつれ、
問題は絡み合い、溝は深まり悪化するばかりだ。

経済的問題を何とか乗り越えようとするが、尚も想定外の出費がか
さみ、どうなっているのか。祈りの中で、パウロは主の御心を知っ
た。「高ぶらないために」と。サタンからのとげであったが、主が
サタンをも利用され、へりくだらせて下さるためだった。そして主
の恵みは十分で、主の力は、弱さの内に完全に現われると。

私たちは強さの中だと勘違いするが、そうでなく弱さの中だと。弱
さの中に主の臨在があり、主が現われて下さる。だからこそ大いに
喜んで弱さを誇ればよいのだと。とげは、へりくだって主に拠り頼
むためであり、そこに主の力が現されるためだ。自分自身を明け渡
し、主に働いて頂こう。その時に自分も周囲も、素晴らしい主の栄
光を拝する。
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祈っても祈っても改善されない問題に心が折れてしまう。主は最善
しかされないのだからこの小さく弱くされた事が主の御思いではな
いだろうか。主の力で守られ、おおわれる時だ。


2020年10月20日(火)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21



どうだろう。日常生活で、思い通りにならない事が多々あるだろう
か。人生は決して、自分の思い通りではない。又、試練は必ずやっ
て来る。クリスチャン人生で試練が無ければ、私生児だと言ってい
る。自分の子供だからこそ、しつけて訓練すると。試練は好きでは
ないが、試練こそが大きく成長させて行ってくれる。

しかし、突如の試練が起きると、必ず「何で?どうして?」となっ
てしまう。「主を信じているのに、何でこんな事が?」「何で、自
分に?」「何で、今?」「自分は祝福されていないのか?」「神は
愛だと言うが、愛されていないのか?」大きく動揺してしまう。目
に見える所に飲み込まれてしまうと、どんどん落ち込んで行くばか
りだ。何が、どうなっているのかわからない。

思い煩いに襲われ、不安に飲み込まれて行く。こういう時は、目の
前の状況、見える所、自分の思い、自分の感情から目を離して、御
言葉に向くことだ。御言葉に方向転換をする。御言葉はどう言って
るのか。「何も思い煩うな」「明日のための心配無用」「主はしよ
うとしている事を知っておられる」「あなたのために立てている計
画」「「災いではなく平安を与える計画、将来と希望のため」

「患艱が忍耐生み出し、品性を生み」「耐えられない試練はなく、
脱出の道がある」・・祈り、御声を聞き、御言葉に立って行く時、
思いが変えられる。信仰が与えられ、希望が見えて来る。今、目と
心を、見えるところでなく、御言葉に向ける時だろうか。
-------------
心配事でふさがれてしまうと何も見えなくなってしまう。今までに
植えつけられた多くの御言葉が、困難の中で支えてくれる。御言葉
をくり返し思っていよう。御言葉はたましいを救ってくれる。


2020年10月19日(月)

「エリヤが民全体に、『私のそばに近寄りなさい』と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した」T列王18:30



ここはカルメル山に、エリヤとバアルとアシェラの預言者、計850
人が集まった箇所だ。雌牛を切り裂き、たきぎの上に載せ、神の名
を呼ぶ。火をもって答える神が、まことの神だと、エリヤと偶像の
預言者たちが対決した。まずバアルの預言者たちが、朝から真昼ま
でバアルの名を「バアルよ。答えて下さい」と呼び続けた。しかし
何の声もなく、答えも無かった。

踊り回り、ますます大声で呼ばわり、剣や槍で自分たちの身体を傷
つけ、血を流して叫んだ。しかし何の応答もいっさい無かった。そ
して次はエリヤの番になった。エリヤは主に呼ばわる前に、何をし
たかというと、まず壊れていた祭壇を建て直した。主の祭壇が壊れ
たまま、放置されていたからだ。バアルの預言者たちは自分たちの
力で、火を下すよう求めたが、エリヤは、そうではなく主に拠り頼
んだ。

自分の力でなく、自分の頑張りでなく、主の力により、戦おうとし
た。そのためにまず祭壇を建て直した。そして12の石を取り、その
石で一つの祭壇を築いた。現状は南北に分裂しているイスラエル12
部族だ。そして見事に主の火が天から降り、エリヤは大勝利した。

私たちもどうだろう。祭壇は今、壊れていないだろうか。礼拝の祭
壇、祈りの祭壇、御言葉を聞く祭壇、信仰の祭壇、主を第一に生活
する祭壇・・今一度、建て直すように言われている祭壇があるだろ
うか。主に一歩従う時に、豊かな実を刈り取って行く。
------------
自分の力、人の力を頼っているといつも不安だ。祈る力も聖書を開
く時間もなくなっていると気づいたら、そこから建て直そう。主が
助けてくださる。主の力によって力強く歩もう。


2020年10月18日(日)

「『あなたがたは、いつまでどっちつかずでよろめいているのか。 もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、 それに従え』しかし、民は一言も彼に答えなかった」T列王18:21



エリヤはアハブに、カルメル山に、全イスラエルと、450人のバア
ル預言者と400人のアシェラ預言者とを集めるようにと告げた。ア
ハブはその通りに集めた。ここに今、3種類の人々がいた。@まこ
との神に従うエリヤA450人のバアル預言者と400人のアシェラ預言
者B一般のイスラエル人、群衆だった。

エリヤはこのBの人々に向けて叫んだ。「いつまでどっちつかずに
よろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、
バアルが神であれば、それに従え」と。心に定まりが無く、その場
〃で、カメレオンようにころころ変わり、自分に都合の良い方に従
う。

イスラエルは、元々神の選びの民として、先祖アブラハム、イサク、
ヤコブの神であるヤーウェを知っていた。だが同時に、皆がアハブ
に従い、バアルやアシェラへの偶像礼拝も現実に行なっていた。そ
こで状況により都合の良いように態度を変えた。「冷たくも、熱く
もない。むしろ、冷たいか、熱いかであって欲しい。なまぬるく、
口からあなたを吐き出そう」との人々だった。

主を拝み、バアルも拝む、このどっちつかずにより、イスラエルに
偶像礼拝が大きくはびこってしまい、国家を堕落させ、滅びへと向
かわせてしまった。主に従うのでなく、肉は自分の欲、体面、都合
と、主ではなく自分中心に向かう。まず、どっちつかずである事を
認め、助けを求める時、主は従う者へと変えて下さる。主の愛を知
り、主ご自身を知る幸せは何にも代えられない。

・・・・・・・・・・
弱い者ですと、主のもとにありのまま行こう。主は、正直な心を愛
して受け止めて下さる。助けて下さいと祈って行こう。自分が強く、
砕かれなければ従って行けない。主は取り扱って下さり、一歩一
歩成長へと導いて下さる。






2020年10月17日(土)

「『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません』すると イエスは言われた『それを、ここに持って来なさい』」マタイ14:1 7

ケリテ川においては、主は烏を用いられた。当時、烏は忌み嫌われ
ていた。しかし主はその烏を用いて、エリヤを養われた。そしてツ
ァレファテの貧しいやもめを用い、その一握りの粉と僅かな油を用
いられた。エリヤが「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作
り、私のところに」と言ったが、彼女は主の言葉を信じて、まず自
分たちでなく、まずエリヤに持って行った。すると粉と油は尽きる
事なく、饑饉の間中満たされた。

五千人の給食で、少年は五つのパンと二匹の魚を、主のもとに持っ
て来た。小さな子供用の弁当だった。しかし主は少年の献げ物を用
いられ、男だけで五千人、女子供で一万人以上の人々を満腹させら
れた。少年が自分で所持していれば、パン五つと魚二匹を自分が食
して、それで終わった。しかし主に献げた時に、大勢の人々の祝福
のために用いられた。そして主の栄光が現わされた。

八十歳の老齢になったモーセも、主がお入り用なのですと召し出さ
れた。「あなたの手にあるそれは何か」と問われ「杖です」と答え
た。主はモーセの羊飼いの杖を、神の杖として、民の出エジプトの
ために用いられた。

どうだろう。有能で力があるから主の役に立ち、用いられると思い
がちだが、そうではなく、貧しく、小さく、弱く、無力な者を用い
られる。力は自分からでなく、主から来る。あなたも、主にお献げ
するなら、豊かに用いて下さる。主に自分自身をお献げしよう。

・・・・・・・・・・・・
弱さの中に、主の力が完全に現われる。強さの中にではない。主は
取るに足りない者、無に等しい者を選ばれる。自分は足らない者で
あるが、「ここに持って来なさい」主のもとへ自分自身を持って行
く時に、主の御手の中に置かれて、主の栄光のために用いて下さる。




2020年10月16日(金)

「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた」T列王17:15



エリヤは主の言葉の通りに従い、饑饉の間、ケリテ川の水を飲み、
カラスが運んで来る食物で養われた。エリヤは主の言葉に従ったの
だが、ここでやもめもまた、エリヤを通して語られた主の言葉に従
っている。エリヤは、やもめにより養うとの主の示しを受けて、町
で出会ったやもめに、水を頼む。その時に一口のパンもと。

非常に厚かましい申し出だ。そのやもめは、饑饉のまっただ中で、
食糧も底をつき、最後に子供に美味しい食事をさせてやって、死の
うとしている状況だった。極めて厳しい辛い現実だ。やもめにとっ
て、もう万事休すだった。何もどうする事も出来ず、死を待つだけ
の絶体絶命の事態だった。そんな状況で、最後の粉をくれとはとて
も言えない。

しかしエリヤは、状況でなく信仰に立った。「恐れてはいけませ
ん」と語った。まず「恐れるな」と。そして「私のために、それで
小さなパン菓子を」と。そうするなら「雨が降るまで、粉は尽きず、
油は無くならない」と。やもめはその言葉を信じ、エリヤの言う通
りに従った。最後の粉をエリヤに献げた。すると粉は尽きず、油は
無くならなかった。

主の言葉はその通りに成就した。主はエリヤを通して、やもめと家
族を救われた。エリヤが主に従う事によって、彼らも救われた。大
きな祝福を受けた。状況でなく、主の言葉を聞き、主の言葉に従お
う。すべてのものは、添えて与えられる。
-------------
貧しい自分の尺度で主のご計画の邪魔をしないよう、御言葉と御霊
の導きに従おう。主は満たしてくださる。主に従って、そして養わ
れる豊かな経験をひとつでも重ねていこう。


2020年10月15日(木)

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ・・」ヤコブ5:17



エリヤはアハブ王のもとへ行き、2、3年雨が降らないと告げた。
つまり饑饉になると。アハブは極悪王であり、機嫌を損ねるなら、
即、打ち首だ。殺されるかも知れない中、エリヤは主に従った。ど
んなに勇気が要ったろう。そしてエリヤも雨が降らないよう祈った
とある。

主はエリヤをアハブから隠すために、次にケリテ川へ行くようにと
指示された。カラスにより養うと。レビ記によるとカラスは汚れた
鳥であり、叉、饑饉の中、カラスが食べずに、食物を運ぶなど有り
得るのだろうか。しかし彼は「主の言葉の通りにした」。カラスで
はなく主を信じた。川が涸れると、次に「シドンのツァレファテへ
行け、やもめに養わせる」と。

シドンはイゼベルの出身地で、バアル信仰のはびこる異邦の地だ。
やもめとは、当時社会的にも非常に貧しい人々だった。大丈夫なの
だろうか。しかしエリヤは主を信じ、主の言葉に従い「出て行った
」。エリヤの信仰だった。そして町の門で、やもめに出会い、水を
飲ませてもらうよう頼み、一口のパンも頼んだ。

すると彼女は一握りの粉だけが残っていて、最後の食事をして死の
うとしていると。何という驚くべき悲惨な状況だろう。しかしエリ
ヤは状況ではなく、見える所ではなく、主を見て、信仰に立って主
に従った。「まず私にパンを下さい」と。そうするなら粉と油は無
くならないと。

主の言葉の通りに従うという、エリヤへの主の訓練だった。エリヤ
はスーパーマンでも超人でもなく、「私たちと同じ」普通の人だと
言っている。目の前の御言葉に従えるよう、主に助けを求めて祈ろ
う。大きな素晴らしい祝福にあずかる。
-------------
カラスや川や、やもめを見ず背後におられる主をしっかりと見て、
従っていく信仰を学びたい。いつもの平凡な日々にも来る信仰の訓
練の時を悟り主に頼みつつ歩もう。




2020年10月14日(水)

「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ」出エ14:16



モーセが民を導いて出エジプトを果たし、海辺で宿営していた時、
パロの軍隊が追跡して来た。みるみる内にそのパロの軍勢は追いつ
いて来た。前は海で、後ろからは追っ手という、絶体絶命の危機だ。
イスラエルの民は恐怖で、神に叫び、モーセに文句を言った。奴隷
の苦難から救い出されたにかかわらず、エジプトから連れ出したり
して、一体何という事をしてくれたのかと。不平不満、怒りをぶち
まけた。

その時、神は奇跡をされ、海の中に道を造られた。そして、安全に
無事に民は紅海を渡った。あなたは今、断崖絶壁にいるだろうか、
絶体絶命だろうか、神は必ずあなたのために、道の無い所に道を造
って下さる。「あなたの道は海の中にあり、大水の中にありました。
そのため、あなたの足跡を見た者はない」と。その道は隠されてい
て見えない。

しかし、信仰持って前進する時、道が目の前に現れて来る。海が分
かたれ、道が備えられていたように。ある人は進路において経験し
た。受験が全部失敗し、すべての希望が断たれ、真っ暗闇だ。どう
すれば良いのか、主にすがり、祈りに祈った。その時に、道が海の
中にあった。目の前に突然道ができて、留学の道が開かれた。思い
を越えた恵みだった。

ある人は経済的苦境で、進学を断念しようとした時、ある方面から
突然の援助が与えられた。あなたも振り返る時、海の中に道があっ
た事だろう。これからも主は、道無き所に道を造り、私たちを安全
に導いて下さる。主により私たちは前進して行ける。
------------
海を前にしていったい何処に道があるのかと、不信仰な本音を示さ
れる。恐れと不安の中でしっかりと信仰に立っていられるよう祈ろ
う。主は必ず救いの道を備え、開いてくださる。


2020年10月13日(火)

「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」ルカ7:47



主がシモンの家で、食卓に着いておられた時に、一人の罪深い女性
が来た。「不道徳な女、罪深い女」と言われていた。確かにそのよ
うな生活をしていたが、その女性は主に出会い、罪赦され大きく変
わった。だが、人々の偏見の目は、そのような彼女を認めなかった。

彼女は主のもとに、香油のつぼを持って来て、泣きながら主の後ろ
で、御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、
御足に口づけして香油を塗った。主への尽きない感謝が溢れ出たゆ
えだった。客人の足を、まずきれいに洗うのが普通の事なのだが、
シモンの家ではそれは無く、主の足はほこりで汚れたままだった。

その汚れをきれいにぬぐったのだが、彼女に対する皆の対応冷やや
かで、軽蔑の目だった。罪深い女が、と見下し、眉をしかめていた。
しかし主は全く違った。彼女の心を、愛を受け取られ、「この女の
多くの罪は赦されている」と言われ、「あなたの罪は赦されている」
と罪の赦しを宣言された。そして尚も「あなたの信仰があなたを救
ったのだ」と。彼女の主への信仰を認められ、「安心して行きなさ
い」と。

「安心して」とは、何という恵みの言葉だろう。恐れも不安も心配
もいっさい必要無いと。罪を持ったままなら、傷があり、罪のとが
めがあるなら、安心などほど遠いし、痛みや恐れで安心など不可能
だ。主だけが、罪を赦し、傷を癒し、心底の平安、安堵、安心を与
えて下さる。何と感謝な事だろう。
-------------
誰に赦されるかが大切だ。人を愛せないのに主にはこのように愛さ
れ赦されている。何というあわれみだろう。主の十字架の救いの恵
みを受けとり安心して生きていこう。



2020年10月12日(月)

「彼らは、善にかえて悪を、私の愛にかえて憎しみを、私に報いました」詩篇109:5



ここでダビデは、邪悪な口、欺きの口を向けられ、理由もなく攻撃
され、憎まれ、なじられ・・と言っている。自らの愛情と真実な心
を向けた相手に、立ち向かわれ、憎まれ攻撃されるという辛い経験
をした。サウル王やアブシャロムによる迫害かと言われている。ど
んなに苦しみであったろう。愛や真心は必ず通じると思いたいが、
そうでない現実もあるようだ。

そんな時はどうすれば良いのかを、ダビデを通して学ぶ事ができる。
愛し、誠実に接した相手が、敵対し、歯向かって来る。邪悪な、偽
りの、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来る。非常に辛い
状況だ。しかしそれはまさに、神に対する人間の態度そのものだ。
だが、神は、敵対する者を更に追いかけ、愛し続け、たった一人の
御子まで殺して下さった。

その御子を私達はどう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、
罪人である人間同士の愛が通じなくとも不思議はない。主は十字架
上で、人々の罵りに対してどうされたか。御父に執り成し、その人
々の赦しを祈られた。ダビデも同じだ。キイワードが、「私は祈る
ばかりです」だ。相手を攻撃し、復讐するのでなく、主に、何もか
もを赤裸々に打ち明け、知って頂ける。

主に心の内を吐き出し、叫んだダビデは、この後、「大いに主に感
謝します。賛美します」と変えられている。今、もし苦しみの中な
ら、「私は祈るばかりです」。主に何もかもを吐き出し、聞いて頂
こう。感謝へと変えられて行く。
-------------
全てを主の前に持っていき、主との交わりの中に逃げ込もう。辛い、
悔しいと爆発しそうな感情は、くり返し沸き起こり気づけばサタン
と会話してしまう。主の愛を覚えこの試練に勝利しよう。


2020年10月11日(日)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば 見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」マタイ6:7


主は私たちに「祈れ」と言われている。「求めよ。そうすれば与え
られる」と。そして私たちが祈る時、よく信号に例えられるが、三
つの答えが来る。一つ目は青信号で、ゴーサインで、祈った祈りが
その通りに答えられる。二つ目は、赤信号でストップだ。「ノー」
という答えだ。答えられていないのでなく、答えが「ノー」という
事だ。

パウロが「とげ」が与えられた時に、「去らせて下さるように」と
真剣に懸命に祈った。このとげが無い方が、よりスムーズに主に仕
える事ができ、宣教活動が出来る。しかし切なる願いに対する、主
からの答えは「ノー」だった。「わたしの力は、弱さのうちに完全
に現われる」からと。それがある方が、高ぶりから守られ、主の臨
在がずっと共にあると。そして主に拠りすがれると。

ダビデが、主に神殿建設を祈った時も、答えは「ノー」だった。ダ
ビデは戦いで多くの血を地に流して来たので、息子のソロモンが建
設すると。ダビデは「ノー」の答えを受け入れ、自分に出来る事を
した。多大なる金、銀、青銅、鉄、石材、木材・・石切工、様々な職
工、仕様書き・・あらゆる用意をし整えた。ダビデの信仰だった。

黄信号は「待ち望め」「祈り続けよ」のサインだ。私たちは待つ事
が非常に苦手で難しい。今すぐに結果が欲しい。しかし忍耐を学ば
せ、培うために、時に延々と祈り続ける課題が与えられる。何年か
かろうと、祈りを積み上げて行こう。主の時が来たなら、速やかに、
見事に答えて下さる。

・・・・・・・・・・・
沢山の祈りが答えられ、沢山の「ノー」も経験して来た。はっきり
と「ノー」の答えもあり、ノーを通して、主のお心を知れる。叉、
祈り続けるが、微動だにしなかったものが、神の時が来ると、突然に
動き出し、成就するのを見る。とにかく祈りを続けて行こう。


2020年10月10日(土)

「ダビデは言った『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタン のために、あなたに恵みを施したい。あなたの父祖サウルの地所を 全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事してよい』」 Uサムエル9:7



メフィボシェテはサウル王の息子であるヨナタンの息子で、サウル
王の孫だった。当時、王が代わる時には、前王の一族は皆殺しにさ
れた。いつ反乱を起こされるかわからない危惧のためだった。まし
て、サウルはダビデ殺害に燃えて、ダビデは命をつけ狙われ、実際
何度も殺されかけた。

メフィボシェテはそれもわかっていて、ダビデに殺されても当然で
あり、身を潜めていた。しかしダビデはサウル王の息子で、王子で
ありながら、ダビデの身を守り、命を助けてくれた親友ヨナタンと
の約束を果たしたいと、メフィボシェテを王宮に招き入れた。サウ
ルの土地をすべて返し、王宮で生活し、他の王子と同様に、自分と
共に食事をするよう言った。

「私の食卓で食事をしてよい」とは家族の一員とするという事だ。
サウルの子孫であり、更に両足が不自由で、王のために何の役にも
立たないメフィボシェテは、なぜ自分が?そんな待遇を?殺されて
当然の身であり、非常に戸惑い驚いた。このメフィボシェテは、私
たちの姿だ。御父に敵対し、罪を犯し、「罪の支払う報酬は死」で
あり、永遠に滅んで当然の者だ。

その私たちが、ただ御子の十字架の贖いのゆえに、無罪放免とされ、
永遠に神の子供とされる。そして主の食卓で食事ができる者とされ、
豊かな交わりの中に入れられた。何という待遇であり恵みだろう。
彼は「いつも王の食卓で食事をした」通り、私たちもいつも主の食
卓で溢れる恵みと祝福を味わおう。

・・・・・・・・・・・・
ダビデはメフィボシェテへの殺害が通常だった。それが真逆の「あ
なたに恵みを施したい」は、主の私たちに対するお心だ。何と有難
い事だろう。「なぜ、それほどまでして下さるのか」を思う時、感
謝が湧き上がる。主の食卓につける、法外な恵みをしっかり覚えよ
う。




2020年10月09日(金)

「入って来るときには、彼女は、ほかの女のようなふりをしている」T列王14:5



ヤラベアム王は、子供が病気になった。そこで妻を変装させて、預
言者アヒヤのもとに、子供がどうなるかを聞いてくるようにと遣わ
した。だが主は前もってアヒヤに、その妻が来る事、変装の事を告
げておられた。しかしなぜ、王は妻を変装させる必要があったのか。
それは、王が神に従わずに、偶像礼拝をしていたからだった。

自分のために鋳物の像を造り、神の怒りを引き起こし、神を捨て去
っていた。それで自分を隠すために変装する必要があった。私たち
も都合の悪い時には、本当の自分を隠すだろうか。弱さを隠し、変
装してしまう。弱みを絶対に知られたくない。しかし弱く無い振り
をする事は、自分でない他人のようになり、変装する事になる。

「なぜ、ほかの女のようなふりをしているのか」。主の前に、正直
に自分の本当の姿を認めることが、大きな祝福の始まりだ。弱さを
ありのまま認めて行く時に、自分でない他人の振りをする必要がな
いので、解き放たれる。プライドの重い荷が落ちて、楽になり、あ
るがままでおれる。信仰生活が生き生きと喜びとなる。

あなたはプライドゆえに、自分でない振りをして、窮屈な喜びのな
い信仰生活だろうか。まず変装し、良い人の振りをしている事を認
め、あるがままの姿を主に告げよう。その時、全面的に受け止めら
れていて、どんなに愛されているかを知り、経験して行ける。
----------
出来るふり、良い人のふりで疲れていると気づけたら感謝だ。困窮
していると認めて主を仰げる。本当に出来ません、困っていますと
主に祈り求めていける。


2020年10月08日(木)

「ナボテはアハブに言った。『主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは』」T列王21:3



アハブ王がナボテに、彼のぶどう畑を譲るよう言った。もっと良い
ぶどう畑を与えるし、代価を支払ってもよいと。しかしナボテは断
った。これは正当な事であった。先祖から継いだ土地を売ってはな
らないと、定められていたからだ。もし貧しさで土地を売った場合
も細かい定めがあり、買い戻しの権利のある親族が買い戻す事に。

神の定めであり、ナボテは正しい事をした。するとアハブはすねて、
不機嫌になり激怒した。寝台に横になり、顔をそむけ、食事もしよ
うとしなかった。自分の要求が通らず、思い通りにならないので、
ふてくされて何もしたくない。アハブは自分が正しくない事はわか
っていた。間違いだとわかっていても、要求が通らない事にいら立
ち、腹を立てる。

どこまでも欲望を押し通そうとする。間違いを認めない時、更に罪
に進み、罪を重ねて行く。結局、妻のイゼベルのそそのかしと策略
により、畑を手に入れるために、ナボテを殺害してしまう。私達も、
自分の間違いは、はっきり間違いとして認めよう。でなければ、罪
に更に罪を重ねてしまう事になる。

又、自分の思い通りにならない時、そこに門を閉じておられる主を
認めて、へりくだって、主の御心を受け入れよう。別の、更に良い
門を開いて下さる。最善の道が用意されている。自分の欲望本位で
なく、主の喜ばれること、主のお心を求めよう。主と主の御心を第
一にする時にこそ、自分自身にも真の満足と御霊の喜びを得る。そ
の平安と安堵感は、何にも代えられない。
--------------
無理を通そうとして戦うよりも、主のご意志を認めて、思いを通そ
うとする自分と戦っていこう。固執しようとする気持ちを主に祈ろ
う。御心に意志を向けるなら主は必ず助けてくださる。


2020年10月07日(水)

「彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。 それで、そこはマラと呼ばれた・・モーセは主に叫んだ。すると主は 彼に一本の木を示された」出エジプト15:23


モーセとイスラエルの民は、エジプトを出て、荒野を3日歩いたが、
炎天下で一滴の水も無かった。民はのどが渇いて死にそうだった。
人々の心は、嘆き、挫折、絶望にあった。そんな時、マラで水を見
つけて大喜びしたが、しかしその水は苦くて飲めなかった。それで
「マラ」=「苦いもの」と言った。

人々は失望し不満爆発し、モーセに怒りをぶつけた。3日前、紅海
で偉大な奇跡を見た、主への賛美と感謝はきれいに吹っ飛んでいた。
まさに手の平返しだ。そこでモーセが主に叫ぶと、一本の木を示さ
れた。それを投げ入れると苦い水が甘くなった。私たちも何かが起
きると、不満、怒り、失望となる。それが心で苦い水となり、渦巻
き溜まる。

一本の木が備えられたように、私たちにも十字架を備えて下さった。
苦い水はどうやっても、甘くできない。十字架のみが成し遂げてく
れる。いろんな人々が、理不尽な目に会った時に経験した。上司は
自分の失敗にだんまりで、周囲から自分のせいにされた。又、自分
のミスではないのに、上司から決めつけられた。怒りと悔しさを主
にぶつけると、目の前に十字架が示される。

完全に正しい方が、黙って十字架にかかられている。自分は正しい、
絶対に正しいと激高している。そんな自分の姿を見せられる。十字
架から赦しと癒しが流れ来て、心が変えられ、平安にされる。御霊
に触れ、苦い水が甘い水に変えられる。

・・・・・・・・・・・・
十字架によって、苦い水が甘い水に変えられる。不平不満、いら立
ち、怒りが、神のあり方を捨てて、仕える者の姿を取られ、自分を
卑しくされ、十字架の死にまで従われた方をじっと見つめる時に、
心が変わって来る。視点が転じ、恵みへと目が向いて行く。


2020年10月06日(火)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」 箴言29:25



心が辛くなる時、重苦しくなる時があるだろうか。その時、心を探
ってみると、人から言われた言葉に傷ついていたりするだろうか。
人の態度や言葉で、恐れや動揺が来て、思い煩いや不安にさいなま
れてしまう。人の言葉に左右され、振り回されていないだろうか。

あの言葉、このひと言。それでプライドが傷ついたり、不安になり
落ち込んだり・・。人の言葉が、心の中で重きを占めてしまっている
状態だ。主と御言葉が飛んで、人の言葉に支配されてしまっている。
無意識にも心の奥に、人にどう思われるか、人の評価、人の称賛を
求めていたりする。

人に受け入れられたいし、人に良く思われたい。それで人の目が気
になってる仕方がない。そんな時は、人の言葉でなく、主の言葉に
耳を傾け、御言葉で心を満たして頂こう。ペテロも隣のヨハネが気
になって仕方が無かったが、「それがあなたに何の関わりがありま
すか。あなたはわたしに従いなさい」と。「わたしに従え」と、横
でなく上を仰ぐようにと。

又、理不尽な言葉に対しては「人の語ることばにいちいち心を留め
てはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないため
だ」「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう」。耳しいに
なる必要がある。人を恐れる心の奧に「わたしは人からの栄誉は受
けません」と主が言われたが、人からの栄誉を求める心があるため
かも知れない。心の内を照らし出される時、主を信頼する新しい歩
みへと導かれる。

・・・・・・・・・・・・
人を恐れると罠にかかるとあり、サタンにやられてしまう。人に振
り回されてしまい、確信も平安も失せて、恐れや不安思い煩いに飲
み込まれてしまう。どの言葉に聞いているだろう。人の言葉か、サ
タンの言葉か。御言葉に向き、そこに立つ時に平安が戻り、安堵す
る。


2020年10月05日(月)

「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから」ヨシュア3:5



モーセに率いられたイスラエルの民は、主エジプトを果たし、試練
の荒野を通り、とうとう約束の地カナンを目前にした。指導者も、
モーセから後継者のヨシュアに代わっていた。カナンの目の前にし
て、ヨルダン川が横たわる。そのヨルダン川は、春先で雪解けの水
が岸いっぱいに溢れ、とうとうと流れていた。そこに橋も大型船も
無い。どうすればよいのか。大きな難題が立ちはだかった。

ヨシュアは密かに二人の斥候を遣わした。斥候が戻り「主は、あの
地を渡されました。住民は私たちの事で震えおののいています」と
報告した。その翌日、ヨシュアは民全員とヨルダン川の川岸まで行
った。そして「あなた方の身をきよめよ」と。「明日、主が不思議
を行なわれる」と。

主はヨシュアに「民全体の見ている前で、あなたを大いなる者とす
る。モーセと共にいたように、あなたと共にいる事を民が知るため」
にと言われた。そして主の指示通りに、契約の箱をかつぐ祭司がま
ず水に足を入れ、とどまると、水が完全にせき止められた、せきを
なして立ち、民は全員ヨルダン川を渡った。大きな奇跡が起きた。

私たちも信仰人生で、どうにも出来ない問題、苦しみに直面する。
そんな時はどうすれば良いのか。主はまず「あなたがたの身をきよ
めよ」と言われる。主の御前に静まり、御霊に心を探って頂き、主
とよく交わろう。その中で気づかされる罪をことごとく悔い改めよ
う。その時、御言葉を与えつつ、なすべき事を示し、解決策へと導
いて下さる。
--------------
水の溢れる春先のヨルダン川へと導かれる主は、全く無力の中で奇
跡の栄光を現してくださる。試練を前に、主に全く信頼する者へと
整えていただこう。そして常に前を行く主を見つめて進もう。


2020年10月04日(日)

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられ る。私は金のように、出て来る」ヨブ23:10




ヨブは、ある日突如として、10人の子供たちを失い、しもべたちや
家財や家畜、すべての財産を失った。そして次にはヨブ自身も、全
身を悪性の腫物でおおわれ、極度の苦しみに会った。しかしヨブは、
御心は一つであり、神が、ご自身が欲するをされ、誰もそれを翻す
ことができないと信じていた。

神の欲するところは、しばしば私たちの思いと大きく異なっている。
ある時は理解できず、納得が行かない事もある。神は、私たちがた
とえ理解できなくても、従って行く者と訓練されるために、理解を
越えた事態を通される。

「前へ進んでも、神はおられず、後ろに行っても神を認める事がで
きない」右に行っても、左に行っても神がおられないと。余りにも
深い試練の中で、時に、何がどうなっているのか、どうしてこんな
事がと、神がおられ、神は愛なのかと、思ってしまう。

そのような状況の中で、信仰により「神は最善をされる」「神には
ご計画がある」「益とされる」「希望がある」と、尚も信じ従う者
と変えられて行く。疑いや不安、恐れや思い煩いに襲われるだろう。
サタンの火矢が飛び交う。

「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」。私たちには見え
ないが、主はご存じだ。そしてそれを信じる事ができる者へと成長
させて行って下さる。時に厳しい試練だが、テストであり、心の内
にあるものが、調べられ、自分で自分を知る時とされる。そして金
のように出て来る。練られて一段階成長させられる。

・・・・・・・・・・・
主のみ思いは人の理解を越えている。人の思いとは異なると、はっ
きり言われているし、遙かに高く、深いと。時に理解出来ない事を
経験する。しかし長い歳月を経た後、わかる事がある事も経験す
る。主に間違いは無いと信頼して行く時に、世には決して無い平
安も体験する。


2020年10月03日(土)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のな さること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7: 14                      

         
人生には、順境と逆境がある。そしてそのどちらも神がなさること、
と言っている。この世の価値観は順境だけを求める。家内安全、商
売繁盛、無病息災、受験は合格・・、順境が善で、逆境が惡との思い
が無いだろうか。しかし、逆境も神のなさることであり、神から来
ていると言う。

順境が祝福されていて、逆境は祝福されていないとの思いが無いだ
ろうか。受験合格は祝福で、不合格は祝福されていないと。しかし
逆境の時は、むしろ沢山の霊的学びを得て、成長へと導かれる。順
境も逆境も、神のなさることであれば、無意味なものは一つも無い。
逆境も意味があり、目的がある。

そして、「後の事をわからせないため」とあり、主は、先の事をふ
せておられる。これから病気になる、今年リストラになる、来年は
合格する等、将来の事は告げられない。私たちに、先の事はいっさ
いわからない。それは主に信頼させるためだ。一歩一歩信頼を学ば
せられて行くためだ。先が見えたなら、信仰は必要ない。見えない
中で主を信頼するのが信仰だ。

逆境時には、早く何とかしたい、早く解決したい、苦しみをすぐに
逃れたい、そんな思いで一杯になる。その背後にある主の思いに、
神のなさる事に、なかなか思いが行かない。しかし今、もし逆境に
あれば、神がなさった事であり、神のみ思いに思いを向けよう。教
えて下さっている事を悟れるよう、祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
逆境、試練、悩みの時、物事が思うように行かない時、自分は祝福
されていないと思う誘惑が来ないだろうか。心が沈んでしまう。し
かしそうでなく、主により必ず意味がある。今の試練に意味があり、
苦境に意味がある。主と交わり、祈り、主に教えて頂こう。


2020年10月02日(金)

「イエスは彼らに言われた『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです』」マルコ4:40




「向こう岸へ渡ろう」と言われた主の御言葉に従って、舟に乗った
なら、弟子たちは大嵐に会った。舟は波をかぶり、このままなら転
覆だ。普段、嵐も経験しているベテラン漁師たちが「溺れて死にそ
う」なほどの恐怖であった。しかし、主は熟睡しておられる。弟子
たちは状況に動揺し、パニックになった。しかし主は「信仰がない
のは、どうしたことです」と言われた。

ここでの問題は、嵐ではなく、不信仰だった。どう考えても、主が
乗っておられる舟が転覆するはずがない。あり得ない。沈む事の方
が不可能だ。しかし、弟子たちの頭には、主は飛んでしまっていた。
私たちの姿だろうか。不意の事態に襲われた時に、頭真っ白で、主
も、御言葉も飛んで、もう恐れと不安しかなく、混乱状態だ。

しかし、主は大嵐の中で、熟睡しておられた。「向こう岸へ渡る」
事が御心であり、その御言葉は100%成就する。天地がひっくり
返っても、何がどうなっても、向こう岸へ渡れるのだ。主は平安と
安堵のまっただ中におられた。不安と恐れが来た時、主が同船して
おられる事を覚えよう。そして安心しきって、熟睡しておられる姿
を覚えよう。

どんな状況が来ても動じられない。今、どこを見ているのだろう。
嵐、舟、波、自分だろうか。主と御言葉から、安堵と全き平安が臨
む。100%成就するので、安んじていよう。
------------
風が吹くと、すぐに状況に反応して慌ててしまい、信仰がないのは
どうしたことですと主を悲しませてしまうが、揺れる中に主がおら
れることを覚えよう。そして主と共に揺れていよう。


2020年10月01日(木)

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24



ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、ヤコブを剣で殺
害した。それがユダヤ人に気に入られたのを見て、次にペテロを捕
らえにかかった。ペテロを捕らえ、投獄し、民の前に引き出そうと
していた。しかしペテロは、何と引き出される日の前夜に、突然、
主の御使いによって、牢から救い出されたのだ。

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会
ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。その結
果、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。これらは何が違う
のか?なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、
主のご計画であり、それぞれへの召しだ。その違いだ。ヤコブは殉
教によって、神の栄光を現わし、ペテロ更に宣教の任務が与えられ
ていて、それによって神の栄光を現わす。

ヘブル11章に、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」とあ
り、奇跡に次ぐ奇跡により前進して行った。そして同時にある人々
は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺さ
れ、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。

見えるところは、全く違うが、どちらもが「信仰によって」歩んだ
と記されている。一人一人に備えられた主のご計画があり、それは
一人一人全く違う。隣との比較でなく、主から自分に与えられた人
生、自分に委ねられた行程を全うする事が、一番の喜びと平安の道
だ。
---------
ヤコブは死んでペテロは助かっても、どちらも命が助かることだけ
を祈ってはいなかっただろう。自分だけに与えられている道をしっ
かりと受け止め、主に信頼し平安に満たされて歩みたい。