2025年08月30日(土) 「身を慎み、目をさましていなさい・・悪魔が、ほえたけるししのよ うに、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩きまわっています」 Tペテロ5:8
「身を慎み、目をさましていなさい・・悪魔が、ほえたけるししのよ うに、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩きまわっています」 Tペテロ5:8
悪魔は、私たちより賢く、狡猾だ。霊的な事もよく知っている。又、 私たち一人〃の弱点を熟知し、どこに攻撃をしかけると、倒せる かを的確に知っている。まず、戦場は、私たちの「心」だ。思いを 吹き込む。主を裏切ったユダは、悪魔が「思いを入れた」。「悪魔 は・・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」。自分 が思ったのでなく、悪魔が入れた思いだった。 私たちにも、朝起きた時から、夜寝るまで、悪魔は思いを吹き込 んでいる。しかし、悪魔は見えず、自分が思っているとしか見えな い。自由自在に、思いを吹き込む。それは止められないが、同意 せず、無視し、取り込まない事はできる。そして悪魔が最も威力を 振るうのが、私たちが成功した時、又、働きを成し遂げた後だ。 試練の時は、苦しみの中は、逆に主にすがりつき、拠り頼んでいる。 働きに着手する時も、プロセス中も、主に祈り、主を求め、頼んで いる。しかし成し遂げた途端、解放感で、力を抜いてしまい、油断 してしまう。そこが狙われ、やられてしまうと。勝利の後こそ、更に 気を引き締め、主を仰いでいる必要がある。 そして、一人でなく、信仰者と共にいることが大切だ。「主を呼び 求める人たちとともに・・」とあり、一人でいる時に、悪魔の標的に なりやすい。信仰者との交わりの中にいる時に守られる。敵を よく知り、いつも祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 悪魔は、自在に、「思い」を吹き入れて来る。朝起きた時から、一 日中、ずっとだ。思いが来る。サタンが来る時には、主を呼ぼう。 でなければ、すぐに引き込まれてしまう。心で祈っていよう。ネガ ティブな思いを入れて来るので、見張っていよう。
2025年08月29日(金) 「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに 刈り取ります」Uコリント9:5
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに 刈り取ります」Uコリント9:5
「神は喜んで与える人を愛してくださる」と、献げる事の祝福が言 われている。豊かに刈り取り、主を新たに知る時とされる。だが、 この祝福を阻止しようと、悪魔は妨害する。肉は、富への強い執 着心がある。所有欲貪欲があり、握りしめて、献げられない。富と 神には仕えられないとあり、富は、偶像になってしまう。 富が、将来を保障してくれ、自分の夢を叶えてくれ、幸せをくれる と錯覚する。悪魔は執ように攻撃する。「受けるよりも与えるほ うが幸い」が、肉には、「受ける方が、与えるよりも、幸い」になる。 だが、新しい性質は、損得でなく、主の御心を求める。損になって も御心を行なおうとする。その時、溢れる祝福を受ける。 ある人が、友人に慶び事があり、贈り物をしたく、一応予算を決め、 買い物に出た。ふさわしい品を祈りつつ、幾つかの店を回った。す ると、友人に贈るのにピッタリの品があり、これだ!と思えた。役に 立ててもらえ、長く使えるし、きっと喜んでくれると。祈りの答えだと、 確信できた。予算オーバーだったが、金額でなく、心が喜びで満ちた。 ちょっとした買い物だったが、主の御心を行なう事の、霊的な平安と 喜びを経験した。 ある人は、教会で、大きな物品購入のため特別献金があり、祈って 示され、献げる決心をした。自分にとっては大きな額であり、ドキドキ して献げた。すると必要額が満たされ、一同で、喜び溢れ感謝した。 自分の献げ物が必要とされ、用いられて、必要が満たされた事に 喜びが満ちた。神は喜んで与える人を、特別に愛して下さるのだと 知らされた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人には、肉があり、そこに絶えずサタンが付けこんで来る。献げる 事において、サタンの誘惑と攻撃が来る。心していよう。サタンが 来るからには、献げる事には、豊かな祝福があるという事だ。御 霊の導きがあるなら、従おう。
2025年08月28日(木) 「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が 見えるようになった」使徒9:1
「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が 見えるようになった」使徒9:1
「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が 見えるようになった」使徒9:18 当時、激しい迫害で、クリスチャンはエルサレムを離れ、方々に散 った。ユダヤ人たちは執ように、彼らを追跡した。中でも、サウロは 強い殺害の意に燃え、大祭司に諸会堂宛の手紙を頼み、見つけ次 第に捕縛する権限を得た。すべての信者を捕らえるためであった。 だがその途上で、突然天からの光を受け、主に出会い、目が見えな くなる。 信徒アナニヤが、ダマスコに住んでいた。激しい迫害の危機に、真 剣に祈っていた。その時に「アナニヤよ」と主の御声が臨んだ。どん なに心強かったろう。しかし、それは驚くべきものだった。迫害者サ ウロに会いに行き、彼の目が見えるよう祈れと。アナニヤは驚き、 どういう事か理解できず、彼はひどい迫害者で・・と問うて行く。 するとサウロは、異邦人たちに宣教する選びの器だと告げられる。 アナニヤはどんな思いだったろう。多くの愛する同胞を殺害した相 手だ。それを助けるために、祈るなどと。それに、あのサウロが本当 に回心したのか?そんな事があるのか?即、殺されるのでは。だい たい本当にこれは主の御声なのか?だが、アナニヤは主との深い 交わりに生きて、従い続けて来た人物だ。 間違いなく親しく知る主の御声だ。アナニヤは献げて従った。主は アナニヤをこのために選ばれ、彼が従う事を知っておられた。そして アナニヤは、主の尊いみわざのために用いられた。私たちも主に呼 ばれた時は、「主よ、ここにおります」と応えて行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・ サウロの目が見えるために、主は、アナニヤを選ばれ、用いられた。 アナニヤには大きな試みだった。しかしアナニヤは従って、素晴らし い主の栄光を拝した。主に、用いられる事は光栄な事だ。従えるよう 祈ろう。用いて下さる。
2025年08月27日(水) 「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあ ずからせようとして、懲らしめるのです」へブル12:10
「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあ ずからせようとして、懲らしめるのです」へブル12:10
信仰人生には順境と逆境がある。喜びと楽しみがあり、又、苦 しみ悲しみがある。どちらか一方でなく、どちらもやって来る。人 は誰しも、苦しみは望まない。だが、主に無駄は一つもなく、私 たちに必要だから、一つ〃と送られて来る。量って与えられて いる。順境は喜び、感謝すればよいが、しかし苦しみこそが、多 くの学びを与えてくれる。 試練の時に、本当の姿が出ると言われるが、問題に会う時 に、普段気づかない、心の底の価値観、本音が現われ出る。突 如、苦しみに会うと、落ち込み、イラ立つ。なぜ、そう感じるのか と心を探ると、実は「問題の無い人生が良い人生」「平穏無事が 善」との思いが底にある。イラ立つのは、「思い通りになる人生が 善」との価値観だ。 又、「何で?こんな事が起きる?」とイラ立ち、戸惑う裏には、「信 仰すれば、人生スムーズに行くはず」との思いがある。その時に、 どうしても自分の思い通りにしたいとの、強烈な自我にぶつかる。 だから悶々とし、怒りがわく。自我が取り扱われ、いかに自我が 強いかを思い知らされる。 自らの姿を照らし出され、霊的成長へと導かれて行く。主は、私た ちを聖くしたいと願っておられる。ぶどうの実に養分が届き、たわ わな実とするため、余分な葉を剪定する。患難により、自我が砕か れ、忍耐へ、そして練られた品性へと、成長させて行って下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 誰しも、試練は受け入れ難い。苦しく、痛いからだ。頭では、試練が 人格を形造ってくれると、わかる。経験によっても、理解できる。しか し、受け入れる事が難しい。自分の力では出来ないので、試練を受け 入れられるよう、祈ろう。助けて下さる。
2025年08月26日(火) 「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこ そ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるので す」詩篇25:5
「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこ そ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるので す」詩篇25:5
ある人に子どもが生まれたが、障がいと難病が発覚した。もう パニックで、涙、涙で「なぜ?」「私に?」「受け止められない」 「どうしてよいかわからない」の悶々の日々だった。主に叫び祈 った。祈りにより、時を経る中で、少しづつ現実を受け止めら れるようになった。主の働きだった。 そして、子どもとの関わりで、自分の方が励まされ、力づけられ、 喜びが与えられている事に気づかされた。「不幸」「かわいそう」が、 世の価値観だ。だが、主からどんなに愛され、慈しまれているか を感じつつ、状況ではなく、主がどう見ておられるかに、目が向い た。 この世では不自由で、実際、様々な苦しみや辛さ、悲しみがある。 しかし主は公平な方、総決算は天にあり、その永遠に目を向けて、 今を生きるように導かれて行った。主に間違いはなく、特別なご計 画があると、受け入れて行けた。そうできた事は、自分の力でなく、 主の恵みであり、みわざだった。 私たちもどうだろう。進路の選択にも、一つ〃の指針、導きを与え られ、後に振り返ると、良かったのだと、確信と平安を与えられる。 思い煩う必要が無かったのだと、何度も経験させられ、今回も、守 り導いて下さると、信じる事ができる。何より自分自身が主に愛され ている事、絶えず目を留めて下さり、成長させて下さっている事に気 づける。喜びが与えられ、感謝があふれる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 様々な事が起きて、時には厳しい試練がある。又、人生で、進路の 導きを、切に求める時がある。切に主を求め、導きを求めて歩む時に、 時に、自分の思い通りではない。自分の思いと大きく異なる事がある。 しかし、振り返って、良かったと思える。そこに後悔が無い。
2025年08月25日(月) 「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこ そ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるので す」詩篇25:5
2025年08月24日(日) 「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わ りに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」ルカ11:10
「あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わ りに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか」ルカ11:10
ある人の友人が、真夜中に訪れた。ところが、パンを夕食で食べ 切って、切らしていた。それで隣家に行き、パンを三つ貸して欲し いと頼んだ。しかし、こんな時間に迷惑この上なく、一つのフロア であり、自分が動けば、せっかく寝た子どもが起きてしまうと、断 られた。しかし空手で帰れず、借りるしか無く、引き下がれない。 尚も、執ように求め続けた。その結果、隣人はパン三つを与え てくれた。しかしその動機は、うるさくて、早く立ち去って欲しいか らであって、愛や親切からではない。だが神は違う。御言葉は そこを強調している。御父は、うるさいからではなく、愛ゆえに与 えて下さる。動機は、愛だ。アウグスチヌスの母モニカの祈りは 有名だ。放蕩息子のために、モニカは何年も祈り続けた。ところ が、祈れば祈るほどますます息子は堕落して行く。 見えるところは正反対だ。状況はどんどん悪くなる。だが「涙の子 は滅びない」と励まされ、更に涙と共に祈り続けた。そんな中、息 子がローマへ行くと言う。大変な歓楽街、取り返しがつかぬほど 堕落してしまうのでは。思い留まるよう切に祈った。が、ローマへ 行ってしまった。だが、まさにそのローマで、彼は悔い改め、神に 立ち返ったのだ。 祈りは見事に答えられた。祈りの答えに「神の時」がある。時が 満ちると実現する。失望せずに祈り続けよう。事態が、更に悪く なって行くように見えたとしても、時が来ると、必ず結実する。長 い祈りの答えを見る。御心に適った祈りは、必ず叶えられる。祈 り続けよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は、ガンガンと、時間をかけ執拗に祈るから、与えて下さるので はない。世の宗教がそうなので、勘違いするが、私たちが子であ り、御父が愛して下さっているから、与えて下さる。だから、祈れと。 愛されている、信頼のもとで祈れるとは、何と幸いだろう。
2025年08月23日(土) 「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから です。この二つは互いに対立していて・・自分のしたいと思うことを することができない・・」ガラテヤ5:17
「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうから です。この二つは互いに対立していて・・自分のしたいと思うことを することができない・・」ガラテヤ5:17
人が一番言いたくない言葉が、「ごめんなさい」だと言われ、自分の 非を認めたくない。プライドに触れるだろうか。心の内に、二人の 自分がいて、あらがう。一人は「人は関係ない。罪を犯したのは自 分であり、自分の罪だ」と言う。もう一人の自分は言い訳をし、理屈 をつける。「相手のせいで、自分はこのようにした。相手が悪い、自 分は悪くない」と自分を正当化し、罪を認めない。 罪を認める自分と、認めない自分がいる。しかし、根に、主に従お うとする思いがある時、主は、頑なな思いを砕き、悔い改めへと 導いて下さる。心では、罪がわかっている。しかし自我が妨げ、 素直に認められない。人に注意されたなら、どうだろう。頭でわか っているが、ムッとし、感情的になってしまう。 人に言われるとプライドが傷つき、心を頑なにする。自分の古い 性質であり、自我による事だ。しかし一方、それではいけないとの 思いもある。新しい性質だ。肉が改良されて、霊になるのではな い。肉は、どこまでも肉、霊は、霊だ。相容れるところが無い、別 ものだ。「肉によって生まれた者は肉。御霊によって生まれた者 は霊」の通りに。 私たちは、この二つの間にあって選択する。肉を選ぶか、御霊を 選ぶか、御霊を選ぶなら、御霊の実を結ぶ。選べるよう助けを 求めて祈ろう。失敗した時は、悔い改めよう。主は「ごめんなさ い」を喜ばれ、血潮のゆえに、完全に赦して下さる。何度でも赦し 続けて下さり、その度に主の愛の深さを知る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日常生活で、絶えず、二つの思いが来る。主に喜ばれたい、 従いたい思いと、自我から来る、自己中心の思いだ。自我が強 く、自然体なら、楽な方へと、肉に流されてしまう。自分では選べ ない。助けを求めて、その場で祈ろう。御霊は選択を助けて下さる。
2025年08月22日(金) 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって 収穫は多くなる」箴言14:4
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって 収穫は多くなる」箴言14:4
牛や馬を使って、耕作をするなら、牛や馬を飼育しなければなら ない。牛舎や馬小屋は汚れる。飼葉おけをきれいにし、糞を片 付け、毎日掃除し、世話は大変だ。来る日も、〃、重労働であり、 骨が折れる。だが牛や馬は、作物の収穫のためには、どうしても 必要だ。豊かな収穫を見込める。しばしば余りの大変さに、牛や 馬さえいなければと思う。そうすれば、きれいなままだ。 飼葉おけを汚したくなければ、牛はいない方が楽だ。だが収穫は、 牛の力によって多くなる。多くの収穫を得たければ、牛や馬は重 要な存在だ。同様に私たちは、何かを達成しようとするなら、犠牲 を払い、労苦が必要だ。手間ひまかかり、面倒で、煩雑な事があり、様々な関わりが出て来る。 すると、そこには、まさつやトラブルも起きてくる。しかし牛がいなけ れば、面倒な事もないが、豊かな収穫は期待できない。同様に、私 たちも喜びや感動を経験する事も無く、成長も無い。人生、ひたす ら安穏無事だけを願うなら、飼葉おけはきれいなままだが、成し遂 げる喜びを、達成感を味わう事もない。今、何かすべき事が示され ているだろうか。 骨が折れ、煩雑で、手間がかかるだろうか。あるいは、対人関係 の関わりだろうか。困難があるかも知れないが、しかし素晴らしい 収穫が、祝福が備えられている。必ず豊かな実を結んで行く。もし 何もしなければ、収穫は無い。祈って、助けられて、目の前の御心 に従おう。その時、喜びと祝福を経験して行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 新生すると、赤ん坊、幼児、少年と、成長させよう〃として下さる。ミルク、離乳食、普通食、堅い食物へと。例えば対人関係を避けると、トラブルは無いが、喜びや祝福も味わえない。リスクもあるが、それを超えた豊かな学びを得る。成長して行ける。
2025年08月21日(木) 「復讐と報いとは、わたしのもの・・」申命記32:35
「復讐と報いとは、わたしのもの・・」申命記32:35
人は、生きて行く上で、対人関係は避けて取れない。人と関わ ると、喜びと楽しみがあり、又、傷を受け、痛み、悲しみ、辛さ も経験する。相手から中傷、非難され、攻撃を受けたなら、ど うだろう。ひどく落ち込むだろうか。又、怒りで、反撃するだろう か。肉は、何倍にもして報復したい。そして何か言わないと、相 手が、つけ上がると思う。 しかし主は、動かずに、まず、すぐ祈れと言われる。言い返した 瞬間は、肉はスカッとして、気持ち良いのだが、平安が失せてし まう。そして、害毒を流してしまう。肉の感情で動くと、証しを壊し てしまった事に後悔する。主は、どう言われているのか。「自分 で復讐するな。神の怒りに任せよ」と。 「わたしが復讐する」と。やられっ放しでなく、主が報復すると。 だから、あなたは動くなと。主が相手に報いをすると、はっきり 言われている。ある時は、理不尽な攻撃を受ける。こちらに非 は無いのにと思う。しかし、主にゆだね、任せよと。よく、主は、 自分が受けた、理不尽な同じ状況を、相手に与えられる。相手 に報いをすると言われている。 その状況で、相手は痛みを思い知ることになる。又、敵が飢え たなら、食べさせよ。敵に善を行なう時、彼の頭に燃える炭火 を積むことになるからと。相手は良心の強いかしゃくに、恥じ入 る事になる。つまり善をもって、悪に打ち勝てと。主にゆだね、 明け渡して、御心に従おう。主は正しい事をして下さる。 ・・・・・・・・・・・・・ 対人関係がこじれる時、御霊に探って頂き、自分に非があれ ば謝るべきだ。しかし理不尽な攻撃や中傷を受ける時、自分 で報復するな、主ご自身が復讐すると言われる。主にゆだね る事が、自分のすることだ。
2025年08月20日(水) 「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩編39:7
「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩編39:7
ダビデは、非常なる苦しみの中で「なぜ、自分はこんな目に会うのか」 との思いでいっぱいだった。だが、口で、言葉で、罪を犯してはいけな いと、口には口輪をはめた。しかし、口には出さないが、心に抑え込ん でいるだけで、その苦しみは無くなるのでなく、そこにあり続ける。それ で痛みは更に激しくなり、今にも爆発しそうだった。そこで、人にではな く、主に思いの丈を吐き出した。気持ちを洗いざらい告げた。 人生は、いかにはかなく虚しいかと。どんなに盛んでも、結局は虚しい ではないかと。そんな虚しい人生で、自分は、何を待ち望めがばよい のか。窮地の祈りで、見上げた時に、主を見い出した。「私は何を待ち 望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。私の望みは、主ご自 身だと。何もかもを祈った後、「私は黙し口を開きません」と言った。 今度は、罪を犯すから口を閉じたのでなく「あなたがそうなさったから」 と、主を認めたからだ。前と違い、信仰に立った。すべての事に主の 主権を認め、ご計画を認め、それらを受け入れた。人からの苦しみも、 主からのものと、信仰で受け止めた。苦しみの中も、そこに主を認め る時、「あなたのむち」「あなたの手に打たれ」と、信仰で、受け止めて 行ける。 するとそこには無為、無駄はなく、意味があり、むちも、打たれる事も、 祝福へと導かれて行く。今、起きている事を、「あなたがそうなさった から」と受け止めて行こう。その時、「私の望み、それはあなたです」と、 信仰により主に向いて行ける。そして一歩〃信仰の成長へと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 証しに悪くなってはいけないと、不満を、言いたい事を押し黙り、口に 口輪をはめる。しかし抑え込んでいるだけだ。そうでなく、その思いを ありのまま主に告げよう。そうする時、「私の望み、それはあなたです」 に導かれる。そして状況に主を認める時、見方が変えられて行く。
2025年08月19日(火) 「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される」 Tサムエル17:47
「この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される」 Tサムエル17:47
数々の信仰の偉人が、信仰による戦いを戦ったが、その方法は、人 間的に見るなら、意味をなさないような仕方だった。当時、無敵の大男 であるゴリアテがいた。兵士も、民も、誰も歯が立たず、お手上げで、 意気息消沈し、非常に恐れた。ダビデは、主により、信仰により、その ゴリアテに立ち向かった。そしてその時、剣や槍の武器ではなく、いつ も使い慣れた石投げで、石を打ち、見事に巨人を打ち倒した。 ダビデの力でなく、主の戦いであった。又、モーセは出エジプト後、すぐ にエジプトの精鋭部隊の追っ手が迫り、前は紅海だ。武器を持った事 もない民が戦えるわけもなく、前進も後退も出来ず、絶体絶命だ。何 もどうにも出来ない。しかし主はモーセに、「前進せよ」と。そして主を 信じ、従うと、目の前で紅海が二つに分かれて、何と道が現われた。 主が造られた道を、民は無事に通過した。又、ヨシュアに導かれた民が、 主の奇跡でヨルダン川を渡り、カナンに到達した時に、エリコの城壁に 直面した。眼前にそびえ立つ城壁は、難攻不落だ。何の手立ても無い。 どうすれば良いのか。しかし主には方策があり、「エリコと王、勇士たち をあなたの手に渡した」と。主はその方法を具体的に示された。 その指示通りに従った時に、目の前で、エリコの城壁が見事に崩れ落 ちた。自分たちの力では無い。私たちにも、絶体絶命、行き詰まる時が ある。しかし、主が道無き所に、道を造られる。主の戦いだからだ。主の 愛による奇跡だ。主を信じ、主に拠り頼んでいよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 主の戦いを何度も経験して来た。主が戦って下さる。幾度も奇跡をもって 必要が満たされた。難題に、解決策が導かれて行った。何の方策も無い、 絶体絶命の時こそ、すべての主権を握る主を体験する機会だ。立ち返っ て静かにし、落ち着いて、信頼を向けよう。
2025年08月18日(月) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下 さる」詩篇37:5
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下 さる」詩篇37:5
重荷に直面すると、心がずっしり重苦しく、思い煩いと不安に支配 されてしまう。心は、どんどんネガティブな方へ向かう。経験あるだ ろうか。心が苦しく、辛くなり、落ち込むばかりだ。そればかりを考 えている。目の前に不安な事があると、一日中重く、暗い気持ちだ ろうか。主に出会う前は、ただただ思い煩うばかりだった。しかし主 は「何も思い煩うな」と。「何も」とは、一切思い煩うなと。 思い煩わなくて良いと。何という恵みで、救いだろう。感謝と共に、 祈りにより、その心配事を一つ一つ、主に知っていただけと。御言 葉通りに、心の内の不安、思い煩い、心配、恐れ、嘆き、苦しみ、 何もかもを、主に告げて行く時に、心がふっと軽くなり、違ってくる。 落ち着くからとても不思議だ。御言葉に従う時に、初めて身をもっ て経験して行ける。 愚痴や不平ざんまいの中にいるなら、何一つ変わらず、同じ所を ぐるぐる回るばかりだ。その不満を、主のもとに持って行く時に、そ こに確かに主が働かれるので、心が変えられて、何かの変化が 起きて行く。心に不思議な落ち着きが来るし、不安しか無かった その問題を、実際に導いて下さる。思い煩いが起きた時に、すぐ 主のもとへ行くためにも、普段から主との交わりが大切だ。 困難の時だけでなく、平常の日々に、地道に主との交わりを積み 重ねて行こう。日々に主との交わりを大切にし、関係を築き、深め て行く時に、信頼が生まれて行く。その時に、主に委ねたり、任せ たり、明け渡す事が導かれて行く。そして主が最善をして下さると、 信頼が少しづつ〃培われて行く。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主はどんな小さな祈りも聞いていて下さる。突如の事態にパニックに なるが、胸の内をことごとく告げて行く時に、不思議が起きて、「ああ、 大丈夫だ」と思えて来る。あの時も、この時も必ず助けられて、今が ある。肉は、問題を握って放さない中、ゆだねるように助けて下さる。
2025年08月17日(日) 「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、その ことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈 った」Tサムエル8:6
「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、その ことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈 った」Tサムエル8:6
イスラエルは、神によって直接統治されていた。しかし民は、他国 のように、人間の王が欲しいと強く求めた。サムエルは老齢になり、 息子たちは主から離れている。敵の攻撃が来た時に、人間の王 が戦ってくれる、そのために自分たちにも王が欲しいと。サムエル は、その提案が気に入らなかったが、まず主のもとに行き祈った。 私たちもどうだろう。自分の思いと違う事態に直面する時は、どう こうせず、まず祈る事が大切だ。主は、民が、人間の王を欲した 時に、「彼らを治めているこのわたしを退けた」と言われた。それ は神を退ける事だと。そして王の権利を知らせよと。サムエルは、 民にどんな犠牲が生じるかを知らせた。息子は戦いに取られ、娘 たちは働かされ、畑は取られ、自分の家来たちに与える。 ・・そして自分たちの王のゆえに主に求めても、その時には、主は 答えて下さらないと。大変な事態になるが、それでも、民は、どう しても王が欲しいと強く言い張った。人が、主の警告を聞かずに、 どうしても欲しいと主張するなら、主は与えられる。主は、彼らに 一人の王を立てよと答えられた。しかし願いが叶えられた結果、や せ衰えると。 「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送って やせ衰えさせた」自分の欲望を押し通すのでなく、私たちを愛し、 最善をされる主に従い、主の警告に聞く事が、自分にとって平安 の道だ。それは危険から守られ、主の愛から出た警告だ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主の警告や忠告に聞く耳を持たず、自らの肉の強い願望、欲望を 遂げて行こうとする時に、主は願うところを与えられる。しかし心は やせ衰える。喜び無く、虚無感におおわれる。主に従う道は喜びと 平安の道だ。御心に歩めるよう、助けを求めて祈ろう。
2025年08月16日(土) 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが 成る」箴言19:21
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが 成る」箴言19:21
私たちは皆、主を知る以前は、肉の性質のみだったので、自分 の思い通りに生きて来た。思い通であれば喜び、そうでなけれ ば、挫折し失望を味わった。しかし救われた時に、新しい性質 が与えられた。今まで無かった、主を喜び、主に従おうとする性 質だ。一方、肉の思いもそのまま有り、非常に強いので、信仰 者だが、肉の欲望と思いで、生きてしまう。 ある人が、自分の願いを祈り、叶わないなら、ガッカリ落胆した。 尚も祈るのだが、聞かれなかったのだ。「なぜ?」の悶々を通り つつ、「なぜですか」と問うて行った。その祈りの中で初めて、祈 りが自分中心である事を気づかされ、教えられた。主が願われ、 望まれる事柄に思いが無く、どこまでも自分の欲望、願いでしか なかった。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごと だけが成る」。 人の心に多くの計画があると言うが、自分の思いと自分のプラン のみだった。「主の計り事は成就し、主の望む事をすべて成し遂 げる」とあり、主の計り事、主の望む事が成就するのであれば、 自分への主のプランを知りたいとの願いが生まれ、祈りを変えた。 その時に、自分の思いのみであった、自分が変えられて行った。 自分に対する主の計り事が成るのであれば、自分の思い通りで なくとも、それがベストなので、受け入れて行けるように祈った。 その時、初めて平安を経験した。自分が握りしめていた思いを、 主に渡した時に、悶々が消えた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ あれこれと、自分の頭にプランが上る。多くの計画がある。しかし 主からの計画か、自分の肉の計画かを祈る必要がある、肉のプラ ンなら、主の栄光を現わす事がないからだ。主からのものが、自分 に喜び平安があり、周囲にも祝福が及び、主の栄光が現われる。
2025年08月15日(金) 「この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日、 『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた」使徒3:2
「この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日、 『美しの門』という名の宮の門に置いてもらっていた」使徒3:2
ペテロとヨハネが、祈ろうとして宮に上った時に、足のきかな い男性がいて、彼らに施しを求めた。この男性は、うまれつき 足が悪く、人々に施してもらうために、宮の門に置いてもらって いた。彼は、人に運んでもらわなければ動けず、施してもらわ なければ生きて行けない。それは人依存の人生だった。自分 では、何も、どうにも出来ず、無力だった。 そんな身の上を嘆き、諦めていたかもしれない。その日も、ペ テロたちに施しを求めた。するとペテロは、彼を見つめて「金 銀は私にはない」と言った。彼は落胆しただろうか。しかし、 その次に、想定外の言葉を受けた「しかし私にあるものを上 げよう。イエス・キリストの名によって歩け」と。つまりキリストを 信じて生きよと。彼はキリストを信じた。 徹底的に無力だからこそ、信じる事が出来た。ペテロたちに 手を取られ、助けられた時に、立とうとしたので、足とくるぶし が強くなり、踊り上がり真っ直ぐに立てた。跳ねて歩き出した。 信じなければ、はなから立とうとなどしない。主を賛美し、ペテ ロたちと一緒に、祈るために宮に入った。彼は、足のいやしだけ でなく、主を信じ、罪が赦され、救いに入れられた。 たましいのいやしも与えられた。私たちも、どのような状態でも、 主を信じる時に、主の名により立ち上がらせて下さる。主によ り生きて行ける。そしてパウロとヨハネは忠実に祈っていた。 祈りには大きな力がある。祈りにより、みわざを見る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 彼は、人に置いてもらい、自分で歩くことができなかった。どう やっても歩けない、不可能だった。人はあらゆる手を尽くして、 どうしてもだめだと知る時、どん底だ。しかしその時にこそ、主 に頼ることができる。恵みの時だ。喜びへと導かれる。
2025年08月14日(木) 「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの 民イスラエル人をエジプトがら連れ出せ」出エジプト3:10
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの 民イスラエル人をエジプトがら連れ出せ」出エジプト3:10
主は、必要な時に、人が高慢から守られるように、その計画を 阻止される。モーセは、エジプトの王子であった40歳の時に、 虐げられる同胞を見て、救出を計画した。だがそれは肉の思い であり、肉の計画だった。主から発した事では無かった。その時 に看守を殺してしまい、計画は失敗した。それでミデヤンの地に 逃れる事になった。 何も無い荒涼とした荒野で、40年間、羊飼いの日々を送った。以 前は栄華、地位、富を持っていた。能力があり、脚光を浴び、何 の不自由もなく、輝かしい将来も約束されていた。一転、何も無い 荒野だ。スポットライトを浴びる事も、かつての栄光も皆無だ。来 る日も〃、羊を追い、刺激も無い平凡な日々が、40年だ。その中 で妻を持ち、子どもが生まれ、それなりの幸せの中にいたかも知 れない。 しかしこの荒野こそが、実は主のご計画であり、主のモーセへの 訓練、整えの学校であった。自信に満ちたモーセは砕かれた。も はや自分の計画でなく、主の計画に従えるように。主のわざは確 実に、着実に進められ、荒野の舞台でモーセを造り変えられた。 80歳になった時、主の時が満ちた。 今更、自分に何を、何ができようと思ったモーセこそが、主には ふさわしい器だった。出エジプトの指導者として、召し出された。 もし今、こんなはずではない場に、置かれているなら、主はあな たを取り扱い、砕き、整えておられる。主の御手の中だ。今、置 かれている場で、忠実であり続けよう。主のご計画がある。主の 時に、主のために用いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は時間をかけて、私たちを砕き、練り、訓練される。でなけれ ば、成功すると、容易に高慢になってしまう。高慢はいけないと わかっても、肉は抑えられない。肉は甘くない。訓練は恵みで、 私たちをへりくだらせてくれ、主のかたちへと変えてくれる。
2025年08月13日(水) 「弟子たちを呼び寄せ・・『まことに、あなたがたに告げます。こ の貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりも たくさん投げ入れました』」マルコ12:43
「弟子たちを呼び寄せ・・『まことに、あなたがたに告げます。こ の貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりも たくさん投げ入れました』」マルコ12:43
主が人々が献金を入れる様子をじっと見ておられた。金持ちた ちが、次々と大金を入れた。そこに貧しいやもめが来て、レプタ 二つを献げた。極めて僅かな額だ。しかし主は、この女性がどの 金持ちよりも多く献げたと言われた。なぜなら皆は有り余る中か ら献げたが、彼女は持てる全部を献げたからと。彼女の全財産 がレプタを二つだった。 一つを献げて、もう一つを明日の糧にできた。しかし彼女の、主 への愛と感謝は、全部を献げる行為となって、溢れ出た。献金と は献身だ。それは自分自身を明け渡す事だ。彼女は、主が、 明日の糧を必ず与えて下さると、信じたからそうした。主は、彼女 のその信仰を見られ、受け取られた。肉は、主を信頼するのでなく、 み心を問うのでなく、まず自分を守ろうとしてしまう。 自分の分を確保し、金持ちのように有り余る中から、少しは 献げるだろうか。私たちにも、絶えず背後の悪魔から、富への 誘惑が来る。悪魔は、富が、将来を保障してくれると錯覚させる。 富が夢を叶え、幸せを与えてくれると思い、富が偶像に、神に なってしまう。そのため、固く握り締めて、放せなくなる。 頭では、神第一が大切、それが祝福とわかるのだが非常に 難しい。全部を献げよということではなく、彼女は彼女への み心を行なった。それぞれ、できる事をさせて下さる。富が 偶像になってしまい、それに支配され、囚われる事が問題だ。 富への執着は思う以上に強く深い。主は愛していて下さる。 そこから解放し、主の喜ばれるように富を用いるようにして 下さる。 .・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は、彼女の財産がレプタ2つだと知っておられた。その心を、 信仰を喜ばれた。私たちの所有物もすべてご存じで、愛して いて下さる。主のお心に従い用いる時、どんなに平安で喜び だろう。生活を秩序立てて、祝福して下さる。
2025年08月12日(火) 「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けを なくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう」ルカ14:34
「ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けを なくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょう」ルカ14:34
塩は良いもので、料理に美味しく味をつけてくれる。しかし 塩けの無い食物は、まずくて食べられない。「塩が塩けを なくしたら、何よって塩けをつけるだろうか」と言われるが、 塩けが無い歩みはどうだろう。この世と妥協して行く歩みだ ろうか。「御言葉はこう言ってるが、この状況では引っ込め ておこう」と。都合が悪いと、御言葉の方を出し入れしてしま う。 それで摩擦は起きないが、まさに主が言われた「塩が塩け をなくしたら、何によって塩けをつけるのか」になってしまう。 信仰と実生活が、「それはそれ、これはこれ」とリンクしなく なる。別ものになっているだろうか。主は、私たちは塩だと 言われる。「あなたがたは地の塩」と。御言葉に従い、御言 葉を優先するのでなく、状況や、人に合わせて、御言葉を退 いてしまう。 それなら「何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏み つけられる」と言っている。何の役にも立たないし、捨てられ てしまうと。「ここは妥協しておいた方が、関係がうまく行く。信 仰に立って、波風立てるな」と、悪魔の誘惑が来ているだろうか。 塩は、腐敗を防ぐ。防腐剤の役目がある。漬物や保存食は塩 漬けにするように。 私たちは、この悪魔の支配するこの世にあって、闇の中にあ って、腐敗を防ぐために置かれている。主に従うなら、そのた めに用いて下さる。自分では出来ないが、「いのちのことばを しっかり握」る時に、主が「世の光として輝」かせて下さる。間に 合う者として用いて下さる。御言葉を信じ、主に用いて頂ける よう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 膨大な圧倒的多数の世で、主は、世の光として塩として、立て て下さった。その意味をよく考えてみたい。自分は無力で、自 分では何も出来ないが、主には可能だ。「ここに、私がおりま す」と祈れますように。
2025年08月11日(月) 「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりし てはなりません。神はいのちを救うために、あなたがた より先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5
「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりし てはなりません。神はいのちを救うために、あなたがた より先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5
ヨセフは、波瀾万丈の苦難の人生だった。どんなに苦し い歩みだったろう。兄たちの妬みにより、隊商に売られ、 家族から引き離され、見知らぬ異国の地へ。どんな思い だったろう。しかし「主がともにおられ」たので、エジプトで 主人の信頼を得、大きく祝福された。 しかし主人の妻に陥れられ、無実の罪で監獄に。異国の 地で、投獄の身となり、それも濡れ衣であり、ヨセフの心 は、いかばりだったろう。しかし、尚も「主はともにおられ」 恵みを施され、ヨセフは模範囚となり、監獄長の心にかな い重んじられた。絶望的な状況の中で、「共におられる主」 を信じ、ヨセフはその場〃で、自分にできるベストを尽くし 生きた。 すべてが主の主権と支配の中にある事を信じたから、主に 委ねる事ができた。結果的に、大いなる主の摂理のゆえに、 先にヨセフがエジプトに遣わされ、世界的飢饉の中、ヤコブ と一族を救うことになる。何という事だろう。こういう事だった のかと、パズルが埋まる時、主の素晴らしいご計画が見え、 主の栄光が現れる。 ヨセフは、兄たちへの憎しみでなく、「私をここに遣わしたの は、神」と信仰により捕らえる事ができた。兄たちの悪巧み でなく、それも摂理のもとに用いられた背後の神を見ていた。 人生に起きる出来事を、神視点で見る時、今までわけがわ からなかった事柄に光が差して、神と神のご計画が見えて来る。 ・・・・・・・・・・・・ 目の前の事態は、神。この状況に、出くわしたのは、神。 ここに私を置かれたのは、神。信仰により、神視点に立つ時、 見え方が全く違って来る。祈りが、違ってくる。信仰により 受け取り直せるように。
2025年08月10日(日) 「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである」へブル12:4
「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである」へブル12:4
ある人が証しした。「教会へ行くのは嫌でなく、聖書の学びも 抵抗なく、学んでいたが、長い間、なかなかわかりませんでし た。やっと信じることが出来て、でもその後も、神様を知るのに、 又、長い時間がかかりました。砕かれないと、神様はわからな いですねえ。大きな試練が来て、砕かれました。 でも感謝で、初めて神様を、頭でなく、霊的に知れました。今は、 心から喜びが湧いて来て、感謝でならないです」と。救われてか らも、自分は何だか変わらない、神様が漠然としている、という のは、砕かれていないところにあるだろうか。強固な私たちの 自我を砕くために、主は試練や困難を通される。この人さえい なければと思う、嫌な相手が目の前に送られる。 対人関係で悩み、苦しくて、職場を変えるのだが、又、同じよう な相手がいる。どうして、この人なのかという相手を、職場に、 近隣に、周囲に置かれる。この相手以外なら、上手くやって行 けるのに、と自己正当化するのだが、辛く苦しいばかりだ。同じ 事が、繰り返される事により、もしかして、これは自分の問題か? と考え始める。 そして状況ではなく、相手ではなく、「主よ、教えて下さい。私を 変えたいのなら、変えて下さい」の祈りへと展開して行く。その 時に、微動だにしなかった事態が、動いて行く。主は成長させ ようと、砕いて下さる。その時、悶々が、喜びと平安に変えられ て行く。今、目の前の出来事は、取り扱いだろうか。祈ろう。必 ず平安の落とし所へと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は思い通りにならない事態を、目の前に置かれる。自我は思 い通りにしたくて、あらがう。自我は強烈く、自分でどうにもなら ない。主が砕いて下さる。主のあわれみだ。砕かれる時に、霊 の目が開かれて行く。
2025年08月09日(土) 「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来 たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは 彼を信じたからです」マタイ21:32
「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来 たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは 彼を信じたからです」マタイ21:32
主は、二人の兄弟のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園 に行き、働け」と言われ、兄は「行きます」と言った。が、行 かなかった。弟は「行きたくない」と断ったが、後で悪かった と思い、行った。「どちらが父の願い通りにしたか」と祭司長 や律法学者たちに問われた。 彼らは「後の者です」と答えた。主を拒否している彼らだが、 そのように答えた。すると主は、弟息子は、取税人や遊女 のようだと言われた。彼らは律法に背いて、罪を犯してい たが、ヨハネの悔い改めの教えを聞き、ヨハネがメシアだと 指し示した、主を受け入れた。 逆に、行くと言ったが、実際は行かなかった兄息子は、表 向きは道徳的、品行方正で、立派な人々に見える。が、ヨ ハネを拒み、彼の教えも拒み、主を認めず、受け入れない、 彼らの姿であると言われた。私たちもどうだろう。主を信じ、 年数経ると、外側、信仰者的な立派な振る舞いになる。が、 主を拒み、入って欲しくない心の部屋、主を認めない心の 領域があるだろうか。 主に従う事の妨げになっているだろうか。自分の思いが、 自分が中心で、王座を占めているだろうか。そうであれば、 主が見えなくなってしまう。主に入られたくない心の部屋は どうだろう。御霊に心を探って頂こう。一つ一つと主の領域 が広がり、喜びが増し加えられて行く。
2025年08月08日(金) 「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は 彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らも この世のものでないからです」ヨハネ17:14
「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は 彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らも この世のものでないからです」ヨハネ17:14
私たちはこの世で生活しているが、この世のものではない。天国人 だ。だがこの世と断絶するのではない。又、逆に、この世にどっぷ り浸かり、流されるのでもない。この世で、人々と同じように生活 するが、根本的な生き方が違う。「神の言葉」が自分を動かす根本 原理だ。御言葉が基準で、御言葉の価値観で生きている。だからこ の世にいるが、世とは全く違う。 私たちは天を見て、天での報いを目指して生きる。天に繋げて、今 日を生きる。だが、この世は地を目指し、この世での栄華、賞賛、 豊かさを目指す。全く逆方向だ。主が祈られた「真理によって彼ら を聖め別って下さい。あなたの御言葉は真理です」。御言葉が真理 だ。この世の考え方、価値観では断じてない。常に、自分の内に根 本的原則が必要だ。 確かなものが無いと、簡単に周囲に流されてしまう。特に日本人で ある私たちは、周りと同じである事が善で、同じだと安心する。周 りに合わせてしまう。御言葉に基づいて思考し、判断し、行動しな ければ、すぐに世の価値観に影響される。悪魔による、目に見える ものの影響力は凄まじい。日本には米軍基地がある。日本だが、そ こは米国の法律が支配する。 同様に、私たちはこの世にいるが、御言葉が支配するところの、神 の国の領域にいる。人々に仕え、交わり、証しをして行く。が、飲 み込まれてはならない。真理の言葉に従って行く時、御霊が助け、 守り、御心を教え、導いて下さる。 ---------------- 周囲との同調をいつも心掛けてきた古い価値観がある。簡単に影響 されてしまうが、主に知恵や力を祈りたい。神に属する者とされて 事実を覚えて、御言葉に従おう。
2025年08月07日(木) 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、 世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、 世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27
ある人が言った。「罪を犯してしまって、悔いて〃、主に悔い改め て、赦していただいた。そして自分は主のために、お献げしたいと、 教会で自分にできる様々な奉仕を申し出た。しばらくして、動機が 違うと気づかされました。罪の赦しは、「それはそれ」になってい て、「これはこれ」とばかりに、償いをするために、奉仕をしてい る自分に気づきました。 主の赦しに、更に償いを加えて、赦してもらおうと、自分の行ない を、プラスしている事になると。全く違う方向に向かってしまう、 大きな間違いに気づせられ感謝でした。主の十字架の血潮で、罪が 完全に赦されたことを見せられ、嬉しくて、嬉しくてならず、平安 が心に広がりました」別の人が「私も、大きな罪を犯してしまい、 悩み、苦しんでいました。 そんな中、教会に導かれ、神の愛、イエス・キリストの十字架の救 いを知り、主を信じました。罪が赦されたこと、どんなに〃嬉しか ったか知れません。私は、何もできる事がなく、ただただ主にすが るのみでした。赦された感謝でいっぱいで、あんなに苦しかったの に、平安が臨みました。 その主の平安は、心の奥底にずっと与えられています。信仰人生、 試練は様々あって、苦しみも悲しみも通るのですが、底に平安が流 れているというか、あるんです」。主は、「人のすべての考えにま さる神の平安」を与えて下さる。 ---------------- 神の赦しは主の十字架のあがないによって完全で、何の交換条件も いらない。主の赦しの中に安らぐことが出来る。何と感謝だろう。 救いの喜びのなかに留まっていたい。
2025年08月06日(水) 「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくこ とを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」 コロサイ3:24
「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくこ とを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」 コロサイ3:24
私たちはどうだろう。時に、日常生活に、うみ疲れてしまうだろう か。同じ事の繰り返しと感じるだろうか。会社員は、毎日同じ時刻 の電車に乗り、同じ机に座り、同じ仕事をする。職場において「人 のごきげんとりのような、うわべの仕え方」とあるが、人が見てい る時は、懸命に働き、誰も見ていない所では、どうだろう。 又、小さな子どもを抱える主婦は大変だ。育児に家事に日々追われ る。家事は際限なくあり、目が回る忙しさに、自分の時間も持てな い。時に疲れ果ててしまう。学生は、勉強〃に追われるだろうか。 そんな時「主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい」「何をす るにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしな さい」とある。 職場でも、家庭の主婦も、学生も、主に仕えていて、それは主のた めにしているのだと。主が受け取って下さっている。そして「主か ら報いとして、御国を相続させていただく」のだと。何という恵み だろう。「あなたがたは、主キリストに仕えているのです」と。主 が飛んでしまうと、マルタ状態になってしまう。 イライラ、不平不満、怒り、「何で自分ばかりが」と自己憐憫。心 は虚しく、喜びは無い。そのまま主のもとに行き、ありのままを祈 ろう。不平不満で一杯だと。主は愛し、受け止め、主ご自身に仕え ている事を思い起させて下さり、新しい力を与えて下さる。 ---------------- 何をするにも、主に対してとの思いを持って今日を生きてみたい。 もし主が来られるならと思えば、誰も通らない道も掃き清められる。 些細なことにも新しい喜びや力を受けとれる。
2025年08月05日(火) 「この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解 をもって豊かな全き確信に達し、神の奧義であるキリストを真に知 るように・・」コロサイ2:2
「この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解 をもって豊かな全き確信に達し、神の奧義であるキリストを真に知 るように・・」コロサイ2:2
ある人の証しだ。集会後、帰宅前に何げ無い話から、議論になって 行った。各々意見が異なり、ぶつかり合った。議論になると自分の 正しさを主張したい。皆が、自分が正しく、相手は間違っていると 思っている。むきになり、相手を打ち負かそうとし、更に感情的に なってしまう。何やら険悪な空気になり、気まずく別れた。 帰宅して、心重くもやもやする。全く平安が無い。若げの至りだと 思うが、どうでもよい話題で、何でこんな事になったのか。主と交 わろうと、御前に行き、あるがままを祈った。そして聖書を読んで 行った。すると「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない 信仰とから出て来る愛を、目標としています」の箇所で、心を刺さ れ、「愛」など全く無かった事に気づかされた。 相手に勝ち、やり込めたい一心で、何という自己中心。そして「愛 に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが・・」「この人たちが 心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな 全き確信に達し・・キリストを真に知る」と。自分と真逆ではないか。 自我から出る議論が、どんなに空虚で不毛なものか、思い知らされ た。 「心に励ましを受け」とあり、交わりが互いの励ましのためのもの であるように、愛によって結び合わされて行く時、交わりの中で、 キリストを真に知って行けると。主が愛して下さった愛の中に、と どまっておれるよう祈ろう。失敗により学ばされたことに心から 感謝した。 ---------------- 主と共に歩む中で、いかに主に愛されているかを知り、自己主張よ りも大切なものがあると学ぶ。何と感謝だろう。主に結びついてい る者同士、主の愛を実践していきたい。
2025年08月04日(月) 「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。 わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。 わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10
出エジプトを導いたモーセは、地上の誰よりも謙遜だったと記され ている。謙遜とは、人前で、腰を低くする事ではない。口では「い えいえ私などは」と下座に座るが、心では自分こそがふさわしいと 思っていたりする。謙遜とは、自分が無力であると知り、何も出来 ない事を認め、主に拠りすがる事だ。モーセはそのような人物だと。 しかし以前のモーセは違った。パロの娘に拾われ、王宮の王子であ るモーセは、地位、名誉、財、力、人脈の何もかもを所有していた。 ちやほやされ、文武両道で有能だった。そのため自信満々で、自分 こそ同胞を救うと、40歳で行動を起こすが、同胞の理解は得られず、 荒野に逃亡する事に。 荒野で、モーセは一介の羊飼いとなった。華麗な王家から荒野の羊 飼い、この落差にモーセはどうだったろう。称賛、栄誉、栄光の将 来、何もかも失った。その荒野こそで、モーセは主により、砕かれ、 練られ、へりくだった柔和な者へと造り変えられた。主は、モーセ を間に合う器と整えるために、下へ下へとへりくだらされた。 モーセは、40年後、民の救出という偉大な働きのために用いられた。 主は、私たちを用いるために、砕かれる。今、もし荒野なら、主の 訓練の時だ。砕き、整えられ、主のために用いられる。へりくだっ て、今の場で、主に従って行こう。 ---------------- 主は試練を通して、用いようとする者を整えてくださる。主を信じ て、一つ、一つ祈りながら試練を通ろう。小さく、低く、主に頼る 者にされてトンネルを抜けたい。
2025年08月03日(日) 「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサ タンに欺かれないためです」Uコリント2:10
「私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたの ために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサ タンに欺かれないためです」Uコリント2:10
ある人の証しだ。学生時代、友人たちと口論が、喧嘩となり、 中傷され、悪口を言いふらされ、ひどく傷ついた。悔しく赦せな い思いでいっぱいで、憎んでいた。卒業後、彼らとは会う事も 無くなった。自分は努力し、頑張って〃生きて来た。だがその 動機は、絶対に彼らを見返したい、勝ちたい。その一念だった。 執念深く恨んでいた。懸命に努力したが、そこに喜びは無か った。相手が目の前におらずとも、恨みが残るなら、距離は関 係無く、ずっと囚われの身だ。自分も、自分の人生も、その相 手にコントロールされている。思いに上っては、心に影を落とす。 やがて時を経て、教会に通うようになった。 御言葉を学び、祈って行く中で、確かに相手はひどいし、悪いが、 だが自分にも非があった事に、初めて気づかされた。今までの 頑張りの動機が間違っていたことも照らされ、自分の憎しみや 恨みが、自分自身を苦しめている事、がんじがらめにされている 事も知らされた。 そしてそれらは罪であり、自我から来ていることを教えられた。絶 対に赦さない強固な自我だった。自分の姿が見せられた。この悶 々状態、苦しみから自由にされたいと思った。自分が相手を赦す ことが、自分の解放だった。感情はどうであれ、意志で赦すことを 選択したいと思えた。もう終わりにしたい。心から悔い改めて、赦 しますと意志を主に向けた。人を赦せない思いは、サタンのわな であり、策略だと言っている。主の助を仰ごう。自由にして下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 人を赦すことは困難だ。人間の力では出来ない。肉で何とかし ようと悪戦苦闘する。しかし出来ない。主にありのまま「出来ませ ん」と認め、主に拠り頼む時、御霊の力によって、可能にされる。 「人にできない事が、神にはできる」。
2025年08月02日(土) 「この着物も、はきものも、非常に長い旅のために古びて しまいました。そこで人々は・・食料のいくらかを取ったが、 主の指示をあおがなかった」ヨシュア9:13
「この着物も、はきものも、非常に長い旅のために古びて しまいました。そこで人々は・・食料のいくらかを取ったが、 主の指示をあおがなかった」ヨシュア9:13
主に祈らず、自分の思いで始めてしまい、失敗した経験が あるだろうか。ある時、ギブオンの住民たちは、自分たち が滅ぼされるのを恐れ、ヨシュアをだまして、盟約を結ぼう と計略した。古びた着物に古いはき物、乾き切ったパン、破 れた皮袋と、遠方からと偽装した。 あなたのしもべであり、盟約を結んで欲しいと。それでヨシュ アたちは、だまされて彼らと和を講じ、生かしておくとの盟約 を結んだ。その3日後、彼らが近くの者で、自分たちの中に 住む者だと知った。結果、滅ぼされるべき民が、ずっとイスラ エルの中に居続ける事となった。失敗した。 その原因が「主の指示を仰がなかった」と。これが間違いだ った。祈らずに事に当たると、肉の判断で、手痛い失敗をし てしまう。ある人は、高額バイトに飛びついた。夏休み中だけ であり、少々ハードでも、高額報酬が非常に魅力だった。だが 早朝から夜遅くまできつく、心身消耗で、考えが甘かった。 幾ら高額でも、祈りの時も持てない毎日に、平安も全く無く、 心身疲れ果ててしまい、辞めた。祈らずに始めた結果だった。 まず主の指示を仰ぐ事が大切で、祝福だ。祈って、主に相談 し、事を始めよう。その時、もしその中で試練が来ても、主か ら発した事なので、信仰に立てる。そして苦しい中も、心の底 に平安がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 祈らずに行動してしまい、失敗した事は沢山ある。祈って 行動したが、負の出来事にぶち当たる事もある。しかし祈 って、そうなっているので、心は平安に守られる。主の御手 の中にある事の確信がある。
2025年08月01日(金) 「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのを ご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行 かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」 マルコ6:48
「イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのを ご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行 かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった」 マルコ6:48
私たちは、信仰人生で、突然の向かい風を経験する。弟子たちは、 平穏に湖に舟をこぎ出したが、途上で、波風逆巻く、突如の大嵐に 見舞われた。想定外の出来事だ。思いもよらぬ事なので、心の準備 など無く、驚き慌て、パニックになる。まして弟子たちは、湖の真 中まで出ていて、戻ることもできず、先へも進めず、真夜中の真っ 暗な中で、どんなに恐怖だったろう。 同様に私たちも、突如の試練を経験する。突然の経済的困窮、リス トラや倒産、悩み深い対人関係、仕事上の問題、突然の病気発覚・・ パニックになり、問題に振り回され、飲み込まれそうになる。そん な時、主が飛んでしまっている。そのため、もう右往左往だ。そも そも「弟子たちを強いて舟に乗り込ませ」たのは、主で、強制的に 湖に出された。 嵐が来ることをご存じで、主は弟子たちを嵐に会わせられた。その 間、主は祈るために、山に登られた。そこで、弟子たちのために執 り成しておられた。彼らが焦って、恐怖で、どうにもならず、パニ ックのところへ、主は出向かれた。「そのままそばを通り過ぎよう とのおつもり」とあり、主は、弟子たちへの試みとして、この試練 を与えられた。 しかし、主は、5千人の給食のピリポを試されたように、「ご自分 ではしようとしていることを知っておられ」ご計画の内だった。弟 子たちが自らの弱さを知り、主に拠り頼むため、主を求めるためで あった。すぐに、主を叫び求めよう。「しっかりしなさい。わたし だ」とご自身を現わして下さる。 ------------- 問題に直面すると、主に頼らなければ必ず思いはネガティブに傾い てしまう。主に助けを求め、主の支えを受けよう。主はご存じだ。 問題の解決の前に、しっかりしなさいとの主の御声を聞こう。