2026年10月18日(日)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその 家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。 岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べるこ とができます」マタイ7:25



主は、山上の説教の最後で、二種類の土台が
あると言われた。二つの家がある。外側は全く
同じだ。だが土台が違う。一方は「岩」で、もう
一方は「砂」だ。そして岩の上に建てるのが、賢
い人で、砂の上が愚かな人だと言う。順境の時は、
外側は同じなので、見た目には変わりは無い。
しかし、嵐の逆境の時に、違いが明らかになる。

私たちには、必ず試練が来る。経済的、苦境、
病気、対人関係、離別・・突如として臨む。
その時に、違いが明らかになる。岩の上の家
は絶対に倒れず、嵐の中も立ち続け、乗り越
える。だが砂の上の家は、立ち行けず倒壊し
てしまう。それもひどい倒壊だと。悩み問題
が起きた時、岩の上なら必ず導かれ乗り越え
るが、砂の上なら、立ち行けず倒れてしまう。

岩の上に家を建てるとは、主の言葉を聞いて、
行なう事だ。砂の上に建てるとは、御言葉を聞
くが従わず、実行しない。山上の垂訓の最後
に、この箇所が出て来る。「あなたの敵を愛せ
よ」など、自分の力、人の頑張りでは不可能だ。
しかし自力で行なうのではない。主にとどまる
時に、御霊が成し遂げて下さる。

助けるために絶えず共にいて下さる。自分には
できない、だが祈って行く時に、取り扱いを受け、
一つ一つと成し遂げられて行くのを経験する。主
に従い、御言葉を行なって行く事が、主を愛する
ことだ。そして、主を愛する人のためには、すべ
ての事を益として導いて下さる。何と感謝な事だ
ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
嵐は、すべての人に必ず来る。大、中、小の試
練は何度も来る。嵐でなく、土台が問題だと。
語られた御言葉を行なっているかどうか、御霊
が探って下さるように。


2026年10月17日(土)

「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思 いで、ステパノに向かって歯ぎしりした」使徒7:54



人は、本当の事を指摘されると、痛くて聞きたく
ない。耳をふさぐ。ステパノが議会で弁明をした
時、真実を述べた。その時「人々は、耳をおおい、
いっせいにステパノに殺到した」。ステパノは、神
は人の手で造った神殿には住まないと言い、い
つでもどこにでもおられる。

あなたがたはいつも聖霊に逆らっている、そし
てモーセの律法を守ったことがないと、真っ直ぐ
に語った。それは人々を激怒させた。はらわた
が煮え返る思いで、ステパノに向かい歯ぎしり
したとある。ステパノの語った言葉が、正しく真
実であったので、人々は怒り狂った。そして「天
が開けて、人の子が神の右に立っているのが
見える」と、イエスがメシヤである事を大胆に、
証しした。

その時に、迫害者たちは耳をおおって、拒否し、
ステパノに殺到した。町の外に追い出し、石打
ちで殺害してしまった。それはステパノを迫害
する者たちが、彼らの隠れた姿をあらわにされ
たからだった。何と、ステパノを抹殺してしまっ
た。人は、本当のこと指摘される時、耳をふさぐ。
聞きたくない。真実と向き合おうとしないからだ。

真実を見ようとしない人、又、真の自分と向き
合おうとしない人は、真実の言葉を恐れる。聞
きたくない。避けて、受け止めない。あいまいに
してしまう。聞く耳を持たない人は、自分をごま
かしている。主は「耳のある者は聞け」と言われ、
御言葉に真正面から向く時に、痛いが、取り扱
われ、解決へと導かれる。真に平安にされる。

・・・・・・・・・・・・・・・
平安に満ちたステパノと、歯ぎしりするほどの
敵意憎しみの群衆を見せられる。真実に向き
合い、心砕かれて、主の平安に導かれるよう
祈りたい。


2026年10月16日(金)

「あなたが神のみこころを行なって、約束のものを手 に入れるために必要なのは忍耐です」へブル10:36



信仰生活で、しばしば「時」に関して取り扱われる。
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての
営みには時がある」と、すべての事に「神の時」がある。
そして「時を待つ」ことは、誰しも厳しい試練に感じる。
すぐに結果が欲しくて、なかなか待てない。しかし待つ
ことによって、信仰が試され、練られ、培われて行く。

待つこと無しには不可能だ。忍耐が試される。アブラハ
ムは、子どもを授けるとの約束を受けたが、待つ事がで
きず、自分の力で女奴隷により、イシマエルを、もうけ
てしまった。しかしその後に、アブラハムが100歳の時
に、とうとう神の約束は成就した。息子イサクが与えら
れたのだ。しかしその時は、「自分のからだは死んだも
同然」であり、サラの胎は死んでいた。

だが「それを認めても、信仰は弱らなかった」。反対に
信仰がますます強くなって、神は必ず約束を成就される
と堅く信じた。アブラハムは以前に失敗した後、神を信
じ、神に信頼し、望みを置いた。その時、神は、奇跡の
みわざをされた。同様に、神を待ち望む時に、私たちを
通して、みわざを成して下さる。

自販機にお金を入れると、即、飲み物が出て来るように、
即、結果が出て来るなら、私たちは信じる必要が無くな
る。信仰によって歩まない。待つ期間を通して、信仰が
試され、忍耐が与えられ、神に委ねることを学んで行く。
信仰が鍛えられて行く。神に委ね、信頼する時、時間は
問題で無くなって来る。神への信頼と、待ち望み、忍耐
を与えて下さる。
----------------
思いは、あれこれ次々に移り変わるが、それに引っ張ら
れていく自分に気づきたい。主の御心を求め、その時を
、その実現を祈りたい。自分の思いを主に委ねよう。


2026年10月15日(木)

「・・なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すから です」ルカ6:45



こんな御言葉がある。死と生は舌に支配され、どちらか
を愛して、その実を食べる。私たちは単純に善を愛して、
悪を憎んでいると思っている。悪を憎んでいるのだが、
まだ罪の性質があるゆえ、罪にはまってしまう事で悩ん
でいると。しかし御言葉によると、死を愛する心がある
と言っている。罪を本当は憎んでいるのではなく、愛し
ていると。

例えば、自分を傷けた相手、又、自分に敵対し、中傷す
る相手を憎んでしまう。憎むのは、自分が苦しいし辛い。
だけれども憎しみが募る。だが心の底の底を探られると、
憎みたくないのでなく、強烈に憎んでいたい。赦せない
のでなく、赦したくない自分がいる。どうしようもない
自分に、自我に行き着く。

古い罪の性質がある。だがそんな時こそ、主の十字架、
主の流された血潮が、頭ではなく、現実味をもって迫っ
て来る。まさにこのために、この自分のために、主はみ
身体が裂かれ、血を流されて苦しまれたのだと。自分の
罪が見えて、十字架の赦しがわかる。そして舌は死と生
を支配すると。言葉は種であり、蒔いた結果「その実を
食べる」。良い言葉は良い実を、悪い言葉は悪い実を結
ぶ。

死か命の実を結んでしまう。否定的、批判的、懐疑的な
言葉の種を蒔くか、肯定的、建設的、信仰的な言葉の種
を蒔くか、日常で語る言葉は非常に重要だ。日々どんな
言葉を、口から出しているだろう。内側が御霊に支配さ
れる事を求め、発する言葉が御霊に導かれるよう祈って
いよう。良い実を結ばせて下さるように。
-------------
心の中のものが外に出て行く。死の実を結ぶ言葉なら、
周囲も自分も損なっていく。罪を愛している自分を認め、
主の十字架に持って行きたい。内側を御霊に支配してい
ただこう。


2026年10月14日(水)

「主は、ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」 ヨハネ4:4



主は、ガリラヤへ向かわれる時に、あえてサマリアを
通られた。普通はサマリヤを通らなかった。なぜならユ
ダヤ人とサマリヤ人は交流しなかったからだった。しか
しこの時サマリヤを通られたのは、心が渇いて救いを求
めている、女性に会うためだった。そのままにできなか
った。主は「旅の疲れで」井戸のかたわらに座られた。

非常に疲れておられた。主も私たちと同じように、身体
の疲れを覚えられる、私たちの理解者だ。ここでサマリ
ヤの女性は偶然、主に出会ったのではない。主の方が彼
女を求められたのだ。「わたしに水を飲ませてください」
と彼女に話しかけ、会話の糸口を作られた。そしてそこ
で個人伝道をされた。彼女の心は満たされず渇いていた。

その心を満たすために男性を求め、次々と5回の結婚離
婚を繰り返し、今は同棲していた。決して男性によって
は、心は満たされなかった。女性たちが井戸水を汲み、
お喋りを楽しむ夕方には姿を見せず、人目を避けてカン
カン照りの昼間に水を汲んだ。噂の的で、人に会いたく
なかった。そんな心が渇いている彼女に、主が近づき、
罪を示し、救いを与えられた。

すると今まで人と顔を合わさず、隠れていた彼女が、大
切な水がめを置いて、町へ出た。そして人々の前に出て、
言った。「来て、見て下さい」と主イエスを指した。彼
女は変えられた。同様に私たち一人一人をも、主は目を
留めて下さったので、救いに導かれた。何という主のご
愛だろう。
-------------
自分が求めたようでも、主の方から目を留めて、取り扱
っておられたのだ。主のあわれみは尽きない。主に愛さ
れ、主が近づいてくださった。何という感謝だろう。


2026年10月13日(火)

「・・供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨 まれていることをそこで思い出したなら・・出て行って、 まず兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供 え物をささげなさい」マタイ5:24


ある人が、友人と議論から争いになってしまい、嫌な空
気になり、わだかまりを持ったまま別れた。帰宅するが、
心が重苦しい。しかし、教会学校の奉仕をしていたので、
準備の必要があった。御言葉の準備をしようとするが、
心に平安が無くてできない。何とかしようとするが、出
来ない。

どうにもならず、争いの件を祈りに持って行った。自分
は間違っていない、相手を責める思いしか無かったが、
心の思いをことごとく告げて、祈った。長く祈り、主と
交わっていると、自分の態度と言葉にも非がある事に気
づかされた。相手を傷つけてしまった。このままでは、
奉仕の準備など出来ない。「供え物はそこに・・置いたま
まにして・・まず兄弟と仲直りをしなさい」と示された。

御前に悔い改めて、すぐに相手に電話した。自らの非を
心から詫びたところ、相手も「いや、こちらこそ悪かっ
た」と謝ってくれて、和解とされた。心すっきり平安が
広がった。そして仕切り直して、準備しようと祈ったと
ころ、どうしても次の日曜は新しい子たちが来ると思え
て仕方なかった。

きっと新来者が来る。御霊の導きだった。喜び持って準
備できて、すると、本当に次の日曜に新しい子たちが来
た。主に感謝し、御名を崇めた。主に従った祝福だと思
えた。御霊が示される時には、同時に従う力も与えられ、
みわざが現わされる。目の前の示しに一歩従おう。
--------------
和解しなさいは、主の御心だ。示されたなら祈り、悔い
改めて、御霊に従いたい。主は根にあるもの解決し、祝
福に変えてくださる。祈って従おう。


2026年10月12日(月)

「むしろ、あなたがたがはこう言うべきでのす。『主の みこころなら、私たちは生きていて、このことを、また は、あのことをしよう』」ヤコブ4:15



信仰生活で、いつも「主の御心なら」という意識は大切
だ。人生のあらゆる事に、へりくだって、主を認めて行
く事は幸いだ。何かをしようとする時に、自分の意志と
主の意志はどうだろう。又、その動機はどうだろう。あ
る人が、ボランティアをしようと思った。

しかしその時「主の御心なら、このことを、または、あ
のことをしよう」との言葉があり、主のみこころはどう
なのだろうと、心探られた。単に自分が善行をしたいと
いう「自分の思い」なのか。自分のプライド、見栄なの
か。自己満足なのか。人の目を意識し、人の賞賛のため
だろうか。又、もっと別に本当にやるべき事があるのか。

何かをしようとする時に、まず祈る事は大切だ。主の御
心を求めてみよう。人には、自己実現という欲もあるの
で、良い事だとしても、神の栄光でなく、自分の欲望を
満たすためにしてしまう。自分の計画が「主の御心なら」
それをしようとの姿勢が大切だ。箴言19:21"人の心に
は多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る"
とある。

自分の計画をまずは祈りに持って行こう。そして「主の
みこころなら、私たちは生きていて」とあり、「明日〜
しよう」と言っても、明日の事はいっさいわからず、
生きているかどうかも、私たちにはわからない。主の御
前にへりくだって、主を求めて生きることの、大切さを
覚えさせられる。
-------------
主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを・・
との姿勢でいたい。自分のプランが先立ち、そのようにと
祈りがちだが、主に尋ね、また主を求めて生きていこう。


2026年10月11日(日)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父 の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」創 世記12:1



主はアブラハムに「生まれ故郷、父の家を出て、
わたしの示す地へ行け」と語られた。「生まれ故
郷、父の家」とは、長く慣れ親しんだ、居心地の
良い場、保護のある場所だ。自分の拠り所だ。
そこにいれば安心でき、助けも受けられ、生活
の基盤があり、心配の無い場所だ。一つ所に
とどまれば、経済的基盤もできる。逆に言えば、
そこにいると、物心共に主に頼らなくても生きて
行ける。

そこを出るという事は、主のみに拠り頼む、一歩
を踏み出す事だ。未知の土地へ出るわけで、先
には何があり、何が起きるかも全くわからない。身
の危険もある。持ち物にも、人にも頼れず、自分
の知恵も判断も頼れない。ただ主だけが頼りであり、
御言葉だけが行く道を示し、足もとを照らす。御
言葉に導かれて歩む人生だ。

ある人が突如、重要なポストへの抜てきを受け
た。様々な思いが巡った。高度な仕事が自分に
出来るのか」「部下を持つなど不安だ」「人目が
気になる」思いをすべて主に打ち明け、御心が
成るようにと祈りに祈った。その時「あなたの父
の家を出て、わたしが示す地に行け」との御声
を聞いて、決心ができた。私たちもどうだろう。

「故郷を出て」「親族を離れて」、主以外に強く依
存しているものがあるだろうか。それから離れて、
主にのみ頼る。次の領域に、信仰の前進に、進
めと言われているだろうか。信仰をもって一歩を
踏み出せと。その時、主ご自身があなたの故郷
となり、家となって下さる。あなたも、行けと語ら
れているだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・
アブラハムは、先が見えたから、環境が整ったから
ではなく、ただ御言葉を頼りに踏み出した。今、目
の前に示された導きに従おう。その時、次の一歩
が見えて来る。豊かな祝福が備えられている。


2026年10月10日(土)

「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただく りかえしてはいけません。彼らはことば数が多け れば聞かれると思っているのです」マタイ6:7



生まれた時から偶像に囲まれて、育って来た私
たちは、くどくどと、とにかく時間をかけ、量を多く
拝めば、聞かれると勘違いする。数珠を繰りなが
ら唱えたり、何時間もかけて拝む姿を見聞きする
ので、同じ言葉の繰り返しでも、熱心に祈るなら
聞かれるのでは、と思ったりする。

そして、自分軸の信心なので「神よ、ああして、こ
うして、あっちへ行って、こっちへ来て」式の祈り
をする。願いが聞かれないなら、そんな神は必要
無いのだ。欲しいのは、自分に都合のよい神だ。
とにかく自分に良いように、人生が回って欲しい。
人生途上で、主に出会ったクリスチャンも、長年
培われた価値観が潜んでいて、自分のための神
になってしまったりする。

ところが、そうではなく、「お願いする先に必要を
知っておられる」神だ。神が知らないから、必要を
くどくどと、知らせるのではない。では祈りは何の
ためだろう。神が状況に無知かのごとく、一部始終
を説明する必要はない。熱心に祈って、祈りを手
段として、祝福を得るのではない。あなたよりも、
本当のあなたをご存じの主が、目の前におられ、
その方は御子を殺すほどに愛して下さった。

親は子が心配する先に、子の必要を整える。私
達は自分に何が真に必要で、最善かがわかって
いない。祈りの中で、それを教えられる。祈りの
中で、自分が変えられて行く。御心がわかり、そ
れを求めて行く。必要をご存じだから、祈らなくて
よいのでなく、「だから、祈りなさい」だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
主とは雇用関係ではない。気持ちの無い祈りの
の量と数の問題ではない。主とは信頼関係に
ある。主が、何もかもご存じでいて下さるから、
気持ちも告げて、ゆだねて行ける。


2026年10月09日(金)

「また立って祈っているいるとき、だれかに対して恨み 事があったなら、赦してやりなさい」マルコ11:25




「神を信じなさい」と言われる主は、祈りに関して、素
晴らしい約束を与えられた。信じるなら、その通りにな
ると。「すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その
とおりになります」と。何と恵みの言葉だろう。しかし
次に続いている。「誰かに対して恨み事があったら、赦
してやりなさい」と。ここで赦す事が言われていて、赦
さない心は、祈りを妨げてしまうと。

それは、まず主があなたを赦して下さったのだから、相
手を赦しなさいと。私たちは、しばしば失敗する。しか
し主は、常に豊かに赦し続けて下さる。罪を犯さないの
ではなく、弱さのゆえに犯してしまうが、赦されて、赦
されて生きている。まず恨みや赦さない心があると、祈
れなくなってしまう。平安が無く、心は重く、主と自分
の間に、距離ができてしまう。

ある働き人が、大きな大会の説教奉仕のために、切に祈
り求めた。しかし幾ら祈っても語るべき言葉が与えられ
ない。期日は迫り、尚も与えられず、徹夜祈祷の覚悟を
決めた。祈りの中で心の奥底にあり、自分でも気づかな
かったが、ある人々に傷つけられた赦せない心、苦々し
い思い、恨みが潜んでいた。

以前の事なので、普段は意識にも上らない。しかし決し
て赦していない。恨んでいる。御前に心から悔い改め、
その人々を赦した。その時、平安が心に広がり、祈りは
見事に答えを得た。赦さない心は、祈りをさえぎってし
まう。もし赦せない思いがそのままなら、ありのまま、
主に持って行こう。
-------------
恨みや憎しみは主に打ち明けながら、明け渡していきた
い。憎しみをそのままにしている事に慣れてしまわない
よう、御前に近く、正直でいたい。


2026年10月08日(木)

「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘た ちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の 咎のために滅ぼし尽くされてしまおう」創世記19:15



ソドムの町は不道徳、堕落、余りの罪深さのために、主
により滅ぼされようとしていた。「彼らの罪はきわめて
重い」と。しかしアブラハムの執り成しがあり、主はそ
の祈りに答え、二人の御使いをロトに送り、家族を連れ
出すよう言った。もう一刻を争う、ギリギリの状況だ。

そこでロトは娘婿たちに、滅びを伝えるが、彼らは、
罪?滅び?などと、冗談、戯れごとだと思った。彼らは
ロトの生活や価値観を目の当たりにしていた。神と世を
二股かけて、世を愛し、世を楽しんでいる人物に、突然、
神の裁き、罪、滅び、などと言われても、「何を冗談を」
と。

そして何とロト自身すら、滅びが迫っているのに、逃げ
る事を「ためらった」のだ。今まで得たものへの強い執
着で、財産、名誉、地位、評判を失いたくなかっただろ
うか。もう間に合わないと、御使いが彼と彼の妻と二人
の娘の手をつかんで連れ出した。「命がけで逃げよ。後
ろを振り返るな」と言われたのに、ロトの妻は世への執
着で、後ろ髪を引かれ振り返ったため、塩の柱になって
しまった。

二人の娘は父親と近親相姦を犯した。ソドムの罪の影響
を娘たちも受けていた。ロトは最初、ソドムの「近くに」
住み、次にソドムの町に「入り込み」、地位を求め「町
の名士」になった。世に少しづつ引き込まれた。あなた
にも「ためらい」があるだろうか。御霊に心を探って頂
き、御心へと導いて頂こう。
-------------------
主との交わりもなく、救いの恵みもわからないなら、後
ろの世界がすべてとなってしまう。ロトから学ぼう。ふ
り返りながら進みたくない。今一度、吟味したい。


2026年10月07日(水)

「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、 私の道を知っておられる方です」詩篇142:3


ダビデは、詩篇で嘆きに嘆いている。涙は止まらず、い
ら立ちで衰え、敵のために弱っていると。ボロボロで、
疲れ果て、弱り果てた姿をありのまま言い表している。
クリスチャンとは、いつも笑顔でニコニコしていると思
っていたら、ほど遠い姿だ。

しかしダビデは率直に、自分の感情や思いを言い表して
いる。何の問題も無い振りをせず、大丈夫な振りをして
いない。「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、
主は私の声を聞いてくださる」「私は御前に自分の嘆き
を注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします」と。

焦り、思い煩い、不安、不満、悲しみ、苦しみ、嘆きの
すべてを隠さずに、気持ちを抑え込まず、無い振りをせ
ずに、主に告げている。その後「主は私の泣く声を聞か
れた」「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈り
を受け入れられた」と確信に変わって行く。そして「嘆
きを踊りに変えて下さった。喜びを着せて下さった」と
変えられている。

ダビデは、主への深い信頼があるからこそ、何でも言え
た。信頼していない相手に、気持ちを打ち明けることは
ない。受け入れられるとわかるから、訴え、告げ、願っ
て行く。心の底の思いを主に告げて行く時、辛い心が落
ち着いて行き、主が受け止めて下さり、平安に変えられ
る。

状況は変わらない中も、主に知っていただいた事で、平
安にされる。そして主との交わりが強められ、信頼関係
がますます深められて行く。今、心が苦しい状態なら、
そのまま主に、ことごとく告げよう。心が平安にされ、
導かれて行く、不思議を経験する。
-------------
心がふさがり不安や怒りに襲われる時、主に祈ることも
忘れているように思う。いつも主を仰いでいたい。今、
平安がありませんと助けを祈れる。弱いままで支えても
らおう。


2026年10月06日(火)

「ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの 名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾 けてください」ネヘミヤ1:11



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門
は火で焼き払われた状態である事を聞いた。深い悲しみ
で、断食して主に祈った。祈りの中で重荷が増し加わる
中、4ヶ月後、王の前に出た。しおれた悲しい顔つきで
あり、それを見た王は、王の方からネヘミヤに尋ねた。

心に何か悲しみがあるに違いないと。この時、ネヘミヤ
は王に率直に心の内を告げた。すると、王の方から「何
を願うのか」と問うて来た。王はネヘミヤの心の重荷を
察したのだった。そこで、ネヘミヤはユダの地へ送り、
再建させて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ、快く
送り出してくれた。

ここで学ぶ事ができる。ネヘミヤはまずエルサレムの現
状を聞いて知った。私たちの信仰生活も同様だ。現状を、
目の前の問題を正しく知る事によって、重荷が与えられ
る。まず現実を知らない限り、重荷の持ちようがない。
そしてそれを具体的に祈りに持って行く時、更に重荷が
増し加えられる。ネヘミヤは重荷が増し、何かをしたい
と思った。

その願いは答えられ、その時、主により目の前の門が、
次々と、するすると開かれて行った。すべての必要が備
えられた。私達もまず現状を正しく認識するところから
重荷が生じ、祈りによって、更にその重荷が深められ、
そして具体的に行動するよう導かれる。その時、環境が
整えられ、ひとりでに門が開いて行く。
-------------
大切な家族のように、意識を持って教会や周囲の兄弟姉
妹のことも祈っていきたい。重荷や必要を知ることがで
きると、主が次へと導いてくださる。


2026年10月05日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは 律法の下にはいません」ガラテヤ5:18



御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは
自由で、喜びがあり、感謝がある。しかし律法の下で、
肉に従って生きるなら、信仰生活は、非常に窮屈になる。
重い荷をずっしり背負うように苦しい。心に自由がなく、
ふさがれた感じだ。そして常に主に要求されていると感
じる。

一タラントを預かったしもべのように、主が過酷な方で、
蒔かないところから刈り取る、厳しい、ひどい方だと思
う。主が奪い、要求するばかりの、恐い方になり、主に
従う事が非常に辛い事になる。そこに喜びなど全く無い。
今、あなたはどうだろう。辛い信仰生活だろうか。重荷
で苦しいなら、主は軌道修正して下さる。

絶えず自力で頑張っているだろうか。妬みや憎しみ、怒
りが湧き上がる時、これは良くない事と、心に抑え込む。
抑え込んだものは、無くならず、ずっとそこにある。そ
して許容量を越えると、いつか必ず爆発する。

そうでなく、これは良くない思いだと、抑え込むのでな
く、「怒っています、妬んでいます、憎んでいます。誰
にも言えないこの思いを、あなたはご存じです」と一つ
一つ、主に告げる事が大切だ。隠さず、ごまかさず、無
いことにせず、主に言い表して行く。

その時、主が、助けて下さる。絶えず主を呼び、言い表
わし、悔い改め、助けを求めて行く時に、その思いが消
えて行く。思いが来た時、まず「主よ」と、自分で何と
かするのではなく、主を呼び求めよう。御霊の歩みへと
導いて下さる。
-------------
主への感謝が無くなる時は気づきたい。意地やプライド
で頑張っていないか。心の中を主に祈り、御霊に導かれ
て悔い改めたい。主にあって喜んで歩みたい。


2026年10月04日(金)

「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたな くななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしな さい。』と言われた」マルコ3:5



主の周囲には、パリサイ人がいて、主の振る舞
いをじっと見ていた。安息日に弟子達が、麦畑
を通りがけに、穂を摘んだ。するとその事で、パ
リサイ人は主を非難した。その後、主が会堂に入
られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサ
イ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。

しかし、それは主を陥れようとするためであり、
安息日にその人をいやすなら、主を訴えるためだ
った。手のなえた人をも利用しようとする、何と
冷ややかな心だろう。自分達を正当化するため
の手段であり、一片の憐れみも、同情もない。
そして、その手のなえた人がいやされた、素晴ら
しいみわざを見ても、何の感動もなく、主を葬り
去る相談を始めるのだった。

私たちも気をつけなければ、形は違うが、「自分
は正しい」視点のみに立つ時、パリサイ人にな
ってしまう。主は、彼らのそんな態度の原因を
「その心の頑ななのを嘆き」と、心の頑なさによ
ると言われた。彼らの心は固くなり感覚を失って
いた。愛や憐れみに無感覚だった。主を抹殺す
計画にまで及んで行く。

頑なになるのは、心に生える「苦い根」を引き抜かず、
はびこらせ、熟するまで育て上げてしまう。引き抜くと
は悔い改める事だ。あなたの心にも「苦い根」が巣くっ
ていないだろうか。憎しみ、妬みの根はどんどん育ち、
殺意になって行く。実際、彼らは妬みで主を十字架に
つけた。一方、主は、愛と憐れみの心で一杯であった。
同じ「じっと見る」目が何と対極にある事だろう。

・・・・・・・・・・・・・
主は、その人に「手を伸べよ」と言われた。私た
ちも、弱さ、不安、恐れ、痛みで、出せない、引
っ込めたままの手があるだろうか。主は回復と
いやしを与えて下さる。


2026年10月03日(土)

「あの人は盛んになり私は衰えなければなりま せん」ヨハネ3:30



主イエスの登場により、バプテスマのヨハネへの、
人々の人気や賞賛が、どんどん主の方へと移っ
て行った。そんな中、ヨハネの弟子たちは「みな
あの方のほうへ行きます」と、自分の師をひいき
に思うがゆえに、いらだち、妬み、寂しさを感じて
いた。しかしヨハネは、いっさい動じる事なく、立
派だった。自分はキリストではないと言明した。

主が花婿で、自分は花婿の友人であり、花婿の
声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、
自分と主との間で、喜びをもって主に仕えてい
た。そこに人がどうのこうのは無かった。真っ直
ぐに主を仰ぎ、主に仕える者は、喜びに満たさ
れる。そして、ヨハネは謙遜だった。人と比較す
るなら、必ず優越感と劣等感に陥る。同期の同
僚の昇進はどうだろう。

又、ライバルの成功は?学生間の成績や人気
はどうだろう、心がざわついてしまう。プライドが
傷つくのだ。人の成功は、自分の失敗のように
感じ、認められない。人がほめられると、自分
がけなされたように感じる。シーソーで、相手が
高められると、自分が低くなる。それらは心に
ある高慢から来る。

ヨハネはへりくだっていた。人の誉れも成功も、
天からのものであり、そこに神を認め、主権を
認めた。そして神が下さるものに感謝し、満足
していた。そこに不満はない。すべての事柄に、
人ではなく、主の主権と支配を認める時、心に
揺るぎない平安が与えられる。へりくだった人
に与えられる恵みだ。

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心のざらつき、落ち込み、重苦しさ、様々な負
の思いと感情が、比較によるプライドや高慢から
来る。御霊によるへりくだりはどんなに自由と
平安で、解放だろう。まず祈ろう。導かれる。


2026年10月02日(金)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、 それはあなたです」詩篇39:7


ここの詩篇記者は、病気であり、苦しみの中で「なぜで
すか、なぜこんな目に会うのか」との不満がうっ積して
いた。しかし、「私は舌で罪を犯さないために」「私の
口に口輪をはめておこう」と。ひたすら沈黙を守った。
しかし黙していると、ストレスがどんどん内攻し、悶々
状態になり、煮詰まり、爆発しそうだった。

それを彼は、人にでなく、主にぶつけた。心の中の本音
を吐き出し、気持ちをことごとく告げた。人生は、はか
なく虚しいと。私の一生は無いも同然であり、人はみな、
盛んな時にも全く虚しいと、心の内を吐き出した時に、
信仰が戻って来た。この虚しい人生で、望みをかけられ
るのは、何かと。そして見上げた時に、主を見い出した。

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、そ
れはあなたです」と。そして本音を、主に余すところな
く告げた後、「私は黙し、口を開きません」と言ってい
る。同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、スト
レスに陥ったのとは異なる。「あなたがそうなさった」
と、主がこの身の上に起こされたと、ご計画がある事を
認め、それを受け入れ、服した。

目の前の事態や状況、境遇を、主から出たものと、御手
によることと、受け入れることが、「私は黙し、口を開
きません」ということになる。神のご計画を信じるから
だ。必ず自分のために益とされる。周囲は皆、幸せそう、
自分だけどうして?と、自己憐憫に陥るのでなく、「あ
なたがそうなさった」と信仰に立ち、受け止めて行こう。
その時に、主の愛を知ることになる。
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私たちは日々に失望しやすいが「あなたがそうなさった」
と信仰で受け止めていく時、同じ状況の中にも備えられ
ている恵みに気づけるのではないか。主を認めていよう。



2026年10月01日(木)

「アラム王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、 尊敬されていた・・この人は勇士であったが、ツァラア トに冒されていた」�U列王5:1


将軍ナアマンは、次々と戦いに勝利する勇者であり、王
から地位と名誉を受け、特別待遇を受けて来た。しかし、
どうにもならない悩みがあった。らい病に冒されていた。
神はナアマンをあわれまれ、一人の捕虜の少女を備えら
れた。その少女により預言者エリシャの存在を伝えられ
る。

そしてナアマンはエリシャのもとを訪れることになる。
しかしエリシャは、使いの者に救いの方法を伝言しただ
けだった。ナアマンは、挨拶にも出て来ないエリシャに
プライドがひどく傷ついた。自分が軽く扱われたことが
怒りの原因だった。

神の目から見れば、らい病よりも、自分の惨めな状態を
認められない、このプライドの方が問題であった。主は
このプライドを砕こうとされた。私たちもどうだろう。
プライドゆえに、素直に、主に聞き従えない問題がある
だろうか。すでに導きを与えられているのに、へりくだ
る事ができない。

ナアマンは、しもべの進言に耳を傾け、主より示された
一歩に、へりくだって従った時に、全きいやしが与えら
れた。この事を通して、ナアマンは「イスラエルのほか、
世界のどこにも神はおられないことを」知った。測り知
れない恵みにあずかった。

あなたも今、プライドが問題だろうか。妨げとなってい
るだろうか。へりくだって、一歩を踏み出すよう導かれ
ているだろうか。プライドを脱ぎ捨て、主に従えるよう
祈ろう。大きな祝福が備えられている。
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辛いですと人に言えない弱さを抱えていても、主には言
える。主の前にはいつも真っすぐに向かっていたい。へ
りくだり、主の祝福を受け取ろう。