2026年02月03日(火) 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでに なりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝み にまいりました」マタイ2:2
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでに なりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝み にまいりました」マタイ2:2
主が、ベツレヘムで誕生された時、東方の博士たちが、星に導かれ て、エルサレムにやって来た。そして「ユダヤ人の王はどこに」と 聞いた時に、ヘロデ王は恐れ惑った。新しい王が誕生するなら、ヘ ロデ王は、自らの地位が危うくなる、恐れ惑うのはわかる。しかし 「エルサレム中の人も王と同様であった」。なぜ人々も、恐れ惑う のか。 彼らは、一応の生活が安定し、成り立っている。今の安定を乱され たくない。別にヘロデなど、どうという事なく、王として認めてい ない。逆らうと身に危険が及ぶから、表面上従っている。脅威でも 何でも無かった。しかし新しい王の誕生は、実に脅威だった。非常 な恐れと不安を抱いた。神からの王なら、真の王であり、真実に従 わなくてはならない。大変な動揺と不安を覚えた。 私たちは、アダムからの古い罪の性質が宿っている。それは自分が 王であり、主人だ。自分の思い通りに生きる。誰にも干渉されたく ない。自分の上に「主」を置くのは嫌だ。ヘロデになら、形だけで あり、自分が王だ。しかし真の王は違う。そして今の生活を乱され たくない。私たちはどうだろう。 命を捨てられた主を前に、自分は決して変わりたくない、王であり 続けるだろうか。主に、心の王座に来て頂くだろうか。心の奥の本 心はどうだろう。あるがままを主に告げて、主に祈ってみよう。主 は受け止め、愛し、導いて下さる。 -------------- 明け渡すことに強く抵抗するのは、自分自身が王であろうとするか らだ。認めていきたい。ただ支配するだけの方ではなく、身をもっ て私たち救い、いのちを与える事のできる王に明け渡していきたい。
2026年02月02日(月) 「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何も することはできません」ヨハネ14:30
「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何も することはできません」ヨハネ14:30
悪魔は、私たちを罪に誘い、攻撃する事ができる。しかし主に許さ れた限界内でしか出来ない。ヨブ記にあるように「持ち物はいいが、 身はいけない」と。次に悪魔が襲って来た時には「身はいいが、命 には触れるな」と。主は、悪魔の、私たちへの攻撃に限度を定めて おられる。それ以上は不可能だ。ユダは主イエスを裏切り、銀貨30 枚で売ってしまった。 主は、無実の罪で捕らえられた。悪魔が、ユダの心に思いを入れた とある。「悪魔は・・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れ ていた」。悪魔のしわざだった。イエスは十字架にかかられ、死な れた。主は悪魔を阻止出来たが、悪魔が働く事を許容され、その悪 魔すら、決定的な御旨成就のために用いられた。 主は全知全能で、全主権を握っておられる。悪魔は、主を十字架の 無残な死に追いやったが、結果的に、人類の贖いという金字塔を打 ち建ててしまった。もう引き戻せない。誰も悪魔も、どうする事も 出来ない。ペテロも、悪魔にやられた。主が捕らえられた時、保身 に走り、主を否定し裏切ってしまった。 しかし、主は、予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられ た。「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられ た」サタンのふるいだと。ユダは悔い改める事なく、そこで主に頼 る事なく、自害した。しかしペテロは悔い改めた。粉々に砕かれ、 自らの弱さを徹底的に思い知らされた。悪魔は働くが、尚も主が、 その上におられ、その事を、勝利へと導かれる。 ------------- 日々、様々に平安を奪ってくるものの背後には、この世の支配者、 悪魔の働きがあるが、全ては神を通してくることを覚えるとき、 心は守られる。主に頼っていよう。
2026年02月01日(日) 「・・その木は、いかにも好ましかった。それで女はその実 を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べ た」創世記3:6
「・・その木は、いかにも好ましかった。それで女はその実 を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べ た」創世記3:6
エデンの園で、悪魔に誘惑され罪を犯したエバは、アダム も罪に引き込んだ。罪を犯したアダムに、主は悔い改めの 機会を与えようとされ、「あなたは・・食べたのか」と問われ た。「食べた」か「食べていない」の「はい」か「いいえ」の答 えになる。しかし、エバに責任転嫁し、言い訳をした。「この 女がくれたので、私は食べた」と。 つまり「私は悪くない。この女がくれなかったら、食べなかっ た。だから、くれた女が悪い」その上「あなたが置いたあの 女」と主のせいにした。あなたが女を置いた、だからあなた が悪い。自分は被害者となる。しかし、主が食べてはいけ ないと命じられた。それを食べたのだから、どう弁解しようと、 自分の罪だ。「食べました。ごめんなさい」と悔い改める事 ができた。 しかし、認めない。私たちもどうだろう。罪を犯した時に、言 い訳をし出すなら、数限りなく出て来る。驚くばかりだ。人の せいにするという、根深い肉の性質がある事をわきまえて いよう。「女のせい」「主のせい」「相手のせい」「あの人、こ の人のせい」「状況のせい」と。「私は悪くない」「私は疲れ ていたのだ」のだと。しかし、それは紛れもなく「私の罪」だと 認めよう。 誰かがくれたとしても、食べたのは私だ。主の言葉に従い、 食べない選択もできた。拒否する事ができた。「私の罪」と 認める時に「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよ めます」赦しを受け取れる。「しかし、あなたが赦してくださる からこそあなたは人に恐れられます」。主の血潮による 豊かな赦しを受け取れる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 不都合が起きると、人のせい、状況のせいにしたくなる。自 分の罪だと認める事が難しい。しかし主を仰ぎ、とにかくあり のままを祈ろう。弱さもご存じで、主のあわれみは尽きず、 御心へと導いて下さる。まず祈ろう。