2025年07月06日(日) 「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう・・それは 主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」詩篇38:13
「しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう・・それは 主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」詩篇38:13
ある時、ふっと心が暗くなるだろうか。そんな時、他者の 態度や言葉に傷ついているだろうか。恐れや動揺が来て、 思い煩い、不安に、又、イラ立ち、怒りにさいなまれてしま うだろうか。人の言葉に振り回されてしまう。あの言葉、こ のひと言で、プライドが傷ついたり、猜疑心で落ち込んだり ・・。 人の言葉が、心を占めている状態だ。大切な主と御言葉 が飛んで、人の言葉に飲み込まれ、支配されてしまう。無 意識にも心の奥に、人にどう思われるか、人の評価、賞賛 を求めていないだろうか。人に受け入れて欲しい、良く思わ れたい。そのため、人の目が気になって仕方がない。 そんな時は、人の言葉でなく、主の言葉に耳を傾け、御言 葉を求めて、心を満たして頂こう。ペテロも、隣のヨハネが 気になって仕方が無いが、主から「それがあなたに何の関 わりがありますか。あなたはわたしに従いなさい」と。「わた しに従え」と横でなく、上を仰ぐようにと。 又、理不尽な言葉に対しては「人の語る言葉にいちいち心 を留めてはならない。あなたのしもべが、あなたを呪うのを 聞かないためだ」「しかし私には聞こえません。私は耳しい のよう」耳しいになる必要がある。 人を恐れる心の奧に「わたしは人からの栄誉は受けませ ん」と主が言われたが、人からの栄誉を求める心があるか も知れない。心の内を照らし出される時、主を信頼する新 しい歩みへと導かれる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 心には、サタンから投げ込まれる「思い」、沸々とわく肉の 思い、又、御霊の思いが絶えず飛び交い、混線する。サタ ンからの思いに引き込まれないよう、祈っていよう。祈りと 御言葉が力だ。御言葉を思う時、心が守られる。
2025年07月05日(土) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに 人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに 人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
新生した誰もが、生まれつきの古い人、肉がまだある。その肉は、 自我であり、それは「自己中心」と「虚栄」だと。その「自己中心」 と「虚栄」が、教会の一致を妨げるとある。つまり、トラブルが起き、 交わりが損なわれ、混乱がある時、そこに「自己中心と虚栄」があ ると言っている。「自己中心」とは自分の事しかなく、自分の利益を 求め、他人の事を顧みないことだ。自分勝手でわがままだ。 「虚栄」とは、実質が無いのに、見せかけを誇ることであり、自分 は、他人よりも優れているとうぬぼれることだ。そのためパウロは 「自己中心」や「虚栄」でなく、「へりくだること」「真の謙遜さ」を身 につけて成長することを言う。教会の中に、又、対人関係の中に、 波風、仲たがい、トラブルが起きる時、その自己中心と虚栄の問 題に目を向けよう。 各々が、自分の利得を求め、自己主張して行くと確執が起きる。 その時に、自分は正しく、相手が間違っていると思うので、批判、 非難となる。相手も、同じように自分が正しいと思うので、衝突す る。この時に、相手を自分よりもすぐれた者と思う、へりくだりが 必要になる。この場合、意見が同じという事でなく、その心の態度 のことだ。 異なった意見を自由に言えて、各々が、相手の立場にも立って考 えられることだ。そこに祈りがある時、御霊が働いて、調和が与え られる。主の御心を求めて行く時、そこに一致が与えられる。それ は、主の栄光を求め、相手の立場にもなって考える。相手の賜物 を認め、主の栄光のために用いられる事を喜んで行く。争いが起 きたなら、祈り、もしや自らに自己中心と虚栄が無いかを。御霊に 探って頂こう。 ・・・・・・・・・・・・・・ サタンが、絶えず自己中心へ〃と誘惑して来る。肉と合致するので、 肉はそれを喜び、誘惑に乗ってしまう。自分第一だ。しかし御霊は そうではない。へりくだりを求められる。自分に死ぬこと。しかし豊 かな実を結ぶ。御霊の方に従い、一歩一歩歩もう。
2025年07月04日(金) 「こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、 王の食卓で食事をすることになった」Uサムエル9:11
「こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、 王の食卓で食事をすることになった」Uサムエル9:11
メフィボシェテはヨナタンの息子で、サウル王の孫だった。当時は、 王が代わる時に、前王の一族は皆殺しにされた。いつ反乱を起こす かわからないからだった。まして、サウル王はダビデ殺害に燃えて、 絶えず命をつけ狙われ、追い回され、実際殺されかけた。メフィボ シェテは、それもわかっており、ダビデに殺されて当然で、身を潜 めていた。 しかし彼の父ヨナタンは、サウルの息子でありながら、親身にダビ デを守り、命を助けてくれた、ダビデの命の恩人だった。その親友 ヨナタンとの約束を果たしたいと、メフィボシェテを王宮に招き入 れた。サウルの土地をすべて返し、王宮で生活し、他の王子と同様 に、自分と共に食事をするよう告げた。「私の食卓で食事をしてよ い」とは家族の一員とするという事だ。 サウルの子孫であり、更に両足が不自由で、王のために何の役にも 立たないメフィボシェテは、なぜ自分が、そんな待遇を?殺されて 当然の身であり、非常に戸惑い驚いた。このメフィボシェテは、私 たちの姿だ。御父に敵対し、罪を犯し、永遠に滅んで当然の者だ。 その私たちが、ただ御子の十字架の贖いゆえに無罪放免とされ、永 遠に神の子とされる。そして主の食卓で食事ができ、豊かな交わり の中に入れられた。何という待遇で、恵みだろう。彼は「いつも王 の食卓で食事をした」通り、私たちもいつも主の食卓で、溢れる恵 みと祝福を味わおう。 -------------- ただ、主の恵みによって罪が赦されて、考えも及ばないような主と 共に歩む人生を与えられた。主のご愛に感謝し、恵みを無にしない よう、味わいながら生きたい。
2025年07月03日(木) 「ヤロブアムの奧さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしている のですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません」 T列王14:6
「ヤロブアムの奧さん。なぜ、ほかの女のようなふりをしている のですか。私はあなたにきびしいことを伝えなければなりません」 T列王14:6
ヤロブアム王の子どもが、病気になった。そこで王は妻を変装させ て、預言者アヒヤのもとに、子どもがどうなるかを聞きに行かせた。 だが、主は、アヒヤに前もって、その妻が来る事、変装の事を知ら せておられた。だが、なぜ、王は妻を変装させる必要があったのだ ろうか。それは王が、主により高くされ、君主とされたのに、従わ ず、偶像礼拝をしていたからであった。 自分のために鋳物の像を造り、主を捨て去った。それで自分を隠す ために、変装する必要があった。都合が悪いからだ。私たちも、本 当の自分を隠すだろうか。弱さをひた隠し、変装する。弱みを知ら れたくない。だが、弱く無い振りをする事は、自分でない他人のよ うになり、変装する事になる。「なぜ、ほかの女のようなふりをし ているのか」。 主の御前に自分を隠さず、正直に自分の本当の姿を認めることが、 大きな祝福の始まりだ。弱さをありのまま認めて行く時に、自分で ない、他人の振りをする必要がないので、自由にされる。プライド の重い荷が肩から落ちて、楽になり、あるがままでおれる。信仰生 活が生き生きと喜びとなる。 あなたはプライドゆえに、自分でない振りをし、窮屈な喜びのない 日々だろうか。まず変装し、良い人の振りをしている事を認め、あ るがままの姿を主に告げよう。その時、全面的に受け止められてい て、どんなに愛されているかを知って行ける。 -------------- 何が生き生きとした信仰生活を妨げているのだろう。様々な取扱い を通して気づかされる。主の前に、本音の自分になり、弱さのまま で愛してくださるその恵みに感謝し、喜んでいよう。
2025年07月02日(水) 「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことが できようか。神はこころの欲するところを行なわれる」 ヨブ記23:13
「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことが できようか。神はこころの欲するところを行なわれる」 ヨブ記23:13
ヨブは、ある日突如、10人の子どもたちを亡くし、しもべたちや家 財、家畜等、すべての財産を失った。更にヨブ自身も、全身に悪性 の腫物ができ、極度の苦痛に襲われた。だがヨブは、御心は一つで あり、主が欲する事をされると信じていた。主の欲するところは、 しばしば私たちの思いと大きく異なる。時に理解できず、納得が行 かない。 しかし主は、私たちが理解できなくとも、従う者と造り変えるため に、ある時、理解を越えた事柄を送られる。「前へ進んでも、神は おられず、後ろに行っても神を認める事ができない」右に行っても、 左に行っても主がおられないと。余りにも厳しい試練の中で、時に 、何がどうなっているのか、どうしてこんな事がと、わけがわから ない。 本当に主がおられ、主は愛なのかと、思うかもしれない。そのよう な状況の中で、信仰により「神は最善をされる」「神にはご計画が ある」「益とされる」「愛されている」と、尚も信じ従う者と造り 変えられて行く。疑いや不安、恐れや思い煩いが来る。悪魔の火矢 が飛び交う。 「しかし、神は、私の行く道を知っておられる」。私たちには見え ないが、主は先をもご存じだ。それを信じる者へと少しづつ成長さ せて下さる。時に厳しい試練だが、テストであり、心の内にあるも のが、調べられ、自分で自分を知る時とされる。そして金のように 出て来る。練られて一段階成長させられる。 ------------- 試練の中で、何度も主に問いかけ、答えを求めて祈り続ける。そし て、どちらに行っても最善だとの平安を得る。主は応えてくださる。 どんな時にも、まっすぐに主を仰いでいたい。
2025年07月01日(火) 「信仰の試練は、火を通して精練されつつなお朽ちて行く金よりも 尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至る こと・・」Tペテロ 1:7
「信仰の試練は、火を通して精練されつつなお朽ちて行く金よりも 尊く、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至る こと・・」Tペテロ 1:7
人生には、順境があり、逆境がある。そしてそのどちらも主がなさ ることだ。しかし、この世の価値観は、順境だけが欲しい。家内安 全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、受験は合格・・、順境が善で、 逆境が悪との思いが無いだろうか。しかし、逆境も主のなさること であり、主から来ている。順境は祝福されていて、逆境は祝福され ていないとの思いが無いだろうか。 受験合格は祝福で、不合格は祝福されていないと。心寂しくなり、 愛されていないのではと。しかしそうではない。逆境の時こそ、む しろ沢山の霊的学びを得て、成長へと導かれる。愛されている。順 境も逆境も、神のなさることであれば、無意味なものは一つも無い。 逆境に意味があり、目的がある。そして、「それは後の事をわから せないため」とあり、主は、後の事を伏せておられる。 いついつ病気になる、経済的困窮が来る等、先の事は告げられない 。私たちに、将来の事はいっさい見えず、わからない。それは主に 信頼させるためだ。一足一足、信頼を学ばせられるためだ。先の事 が見えたなら、信仰は必要ない。見えない中で、主を信頼する事が 信仰だ。 逆境の時には、早く解決したい、悩みから逃れたい思いで一杯にな る。その背後にある主のみ思いに、なかなか思いが至らない。しか し今、逆境にあれば、主がなさっている事であり、主のみ思いに思 いを向け、教えて下さっている事を悟れるよう、祈ろう。 -------------- 主が順境もつくり、逆境もつくられる。主を中心に見る時、闇もま た光になる。送られてくるものは全て主からと信仰で見ていたい。 必ず、意味があり恵みだ。主を信じていよう。