2025年11月12日(水) 「『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます』・・ おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」 ヨハネ21:6
「『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます』・・ おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」 ヨハネ21:6
主が捕らえられた時、ペテロは主を否み、裏切り、弟子たちは主を 捨てて、一目散に逃げた。そして復活の主から、ガリラヤに行くよ うに告げられた。故郷に戻ったペテロや弟子たちの心はどんなもの だったろう。どの顔で会えばよいのか。合わせる顔が無い。もう弟 子の資格は無い。 後悔で暗く、心重く、喜びなく、空虚だったろうか。取返しのつか ない罪を犯してしまい、この時の心情はどんなものであったろう。 なすすべなく、ペテロが唯一自信のある漁に出ると、他の弟子たち も一緒に出る。しかし魚は一匹も捕れない。ペテロの心は重く、暗 かったろう。 自分の人生の消せない汚点、大失敗が脳裏から離れない。主を裏切 り、主を捨てた自分。しかしそんな彼らに「夜が明けそめた時、イ エスは岸べに立たれた」。虚しい心で、心身疲労しきった弟子たち に「右側に網をおろせ」と。それを主とは知らないが、言われる通 りにすると、何と驚くべき大漁だった。 ヨハネが、以前の同じ光景が重なり「主です!」と気づいた。ペテ ロが主の召しを受けた、あの原点だ。ペテロは一刻も早く主のもと へ行きたくて、湖に飛び込んだ。主は、三度否んだペテロ、そして 主を捨てて逃げ去った弟子たち、その心の傷み、悲しみ、苦しみ 、後悔をご存じであった。 主が朝食を用意し、ペテロを回復させられた。もう一度立ち上がら せられた。私たちの信仰人生のどんなに暗黒の局面でも、「夜が明 けそめた時、イエスは岸べに」立っておられる。 -------------- 失敗ばかり、欠けばかりを認めさせられる。その度に、主に頼らな ければ何もできない事も経験する。弱さのまま支えてくださる主が 常に傍らにいてくださる。何と感謝な事だろう。
2025年11月11日(火) 「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴え ている者・・」黙示録12:10
「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴え ている者・・」黙示録12:10
日常で、対人関係の問題に悩まされる事がある。人からの態度や言 葉で傷つくだろうか。人々のあの一言、この態度で、振り回される だろうか。なぜ、こんなに嫌な思いになるのか。突き詰めると、そ の奥に主の言葉でなく、人の言葉や態度に、重きを置いている姿が あるだろうか。又、人にどう思われるか、人の評価が気になって仕 方がない、良い人だと思われたい、嫌われたくない、そんな心があ るだろうか。 又、プライドや虚栄心・・に気づくだろうか、心を探らせて下さり、 御霊が、普段考える事のない、気づきを与えて下さる。人の言葉に 振り回されるのでなく、まず主の言葉に聞き、主の言葉で心を満た して頂こう。又、対人関係にサタンが働く事を覚えよう。ある人が、 近くに引っ越して来た女性の、手助けをしたいし、近づきになりた いと、お茶に誘った。 しかし全く返事が無かった。幾日経ても無く、心が騒ぎ出した。も しや嫌なのか、自分が嫌われているのか、段々、疑心暗鬼になって 来る。祈っていた時に、サタン!と気づかされた。サタンがネガテ ィブな思いで、心を暗くし重くする。もう一度、声をかけようと思 えて、翌日、声をかけると、笑顔で「是非!」と具体的に段取りが できた。 サタンは「私たちの兄弟の告発者」とあり、サタンは、対人関係に 疑心暗鬼を持ち込む。壊そうとする。サタンの攻撃をわきまえてい よう。主はいろんな出来事の中で、成長に導いて下さる。 -------------- 対人関係を壊すように働いてくるサタンに乗せられてはいけない。 祈り、人の言葉や態度ではなく、主の御言葉を想っていよう。主が 助けてくださる。御霊の導きによって、人間関係を建てあげていこ う。
2025年11月10日(月) 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11
私たちの人生に、順境だけでなく、逆境だけでもない。必ず順境と 逆境がある。そのどちらも、神がなさることだ。この世は、順境だ けが欲しい。そのため家内安全、商売繁盛と、パンパンと柏手を打ち、 拝む。私たちもどうだろう。順境が善で、逆境が惡との思いが無い だろうか。しかし逆境も、神のなさる事であり、神から来ている。 順境が祝福で、逆境は祝福されていない、との思いが無いだろうか。 受験合格は祝福で、不合格は祝福されていないと。そのため、寂し く感じる。しかし逆境の時は、むしろ沢山の霊的学びを得て、成長 へと導かれる。よく人は、人生で一番苦しかった時が、一番神に近 かったと言う。順境も逆境も、神のなさる事なら、無意味なものは 一つも無い。 そして、「後の事をわからせない」とあり、主は、先の事を伏せて おられる。何月何日に病気になる、倒産する等、将来の事は告げら れない。私たちに、先の事はいっさいわからない。明日の事もわか らない。それは主に信頼させるためだ。一足一足主への信頼を、学 ばせられるためだ。先が見えたなら信仰は必要ない。見えない中で、 主を信頼する事が信仰だ。 逆境では、問題を早く解決したい、とにかく早く、早く、苦しみが 終わって欲しい、そんな思いで一杯になる。その背後にある、主の み思いに、なかなか思いが行かない。しかし今、もし逆境にあれば、 主がなさった事であり、主のみ思いに、心を向けよう。教えて下さ いと祈ろう。御心を悟れるよう祈ろう。それこそが祝福だ。 -------------- 突然の問題を前に、どうして!祈っていたのにと力を落としてしま う経験をする。すぐに逆境を祝福と思えない不信仰があるが、全て は、主を通しってやって来ると信仰に立ちたい。必ず学びがある。
2025年11月09日(日) 「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖ま でが言うことをきくとは、いったいこの方はどいういう方なの だろう』」マルコ4:41
「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。『風や湖ま でが言うことをきくとは、いったいこの方はどいういう方なの だろう』」マルコ4:41
主が「向こう岸へ渡ろう」と言われた。弟子たちは、主の言 葉に従い、舟に乗ると、途上で大嵐に会った。大変な嵐で、 このままなら転覆だ。普段、嵐も経験しているプロ漁師が 「溺れて死にそう」との恐怖だった。しかし主は、と見ると熟 睡しておられる。弟子たちは、死にそうな状況に、大パニッ クだ。しかし主は、嵐を、ひと言葉でしずめられ、「信仰がな いのは、どうしたことです」と言われた。 嵐が問題なのではなく、不信仰の問題だと。どう考えても、 主が同船の舟が、沈むはずがない。100%有り得ない。沈 む事の方が不可能だ。しかし、気が動転した弟子たちは、 主は飛んでしまっていた。私たちの姿だろうか。突如の事 態が起きた時に、主が飛んで、もう恐れと不安しかなく、頭は、 混乱状態だ。 だが主は、死にそうな大嵐の中で、熟睡しておられた。「向 こう岸へ渡る」事が御心なので、その御言葉は100%成就 する。天地がひっくり返っても、何がどうなっても、向こう岸 へ渡れるのだ。主は全き平安の中におられた。私たちもパ ニックになると、主が飛んでしまい、全部が自分の肩にかか るので、負いきれない。その結果、不安と恐怖でしかなくなる。 しかし、この経験を通して、弟子たちは、初めて、主が自然 界をも支配されている事を、目の当たりに見た。どんなに驚 いた事だろう。私たちも不信仰で、失敗してしまうが、主は、 尚も、あわれみ深く、一つ〃を益として、更に教え導いて行っ て下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 嵐を見ていると、不安しかない。思い煩いでいっぱいだ。し かし、主を仰ぐと、御言葉が臨む。「何も思い煩うな」「重荷 を主にゆだねよ」「祈れ」。主に目を向ける時に、不思議に 心が落ち着いて来る。
2025年11月08日(土) 「わたしの枝で・・実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶ ために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15:2
「わたしの枝で・・実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶ ために、刈り込みをなさいます」ヨハネ15:2
信仰生活で悩みや問題が起きる。その時、どう捉えたら良 いだろう。ある人は、職場に嫌な相手がいた。嫌でたまらず、 職場を移った。しかしそこにも、どうしても嫌な相手がいて、 又、職場をかえた。すると何とそこにもいた。ついに、もしや これは主の取り扱い?と見方が変えられた。主は時に、苦 手な相手を前に置かれる。又、対応が困難な状況に置か れる。 嫌な相手と状況を変えて欲しい。祈るのだが、相手も、状況 も何も変わらず、逆に悪くなって行くばかりだ。疲れ果てて主 のもとへ行く時に、自分への取り扱いだと悟る。その時、主 に焦点が合うので、主が教えられたい事が見えて来る。主が 備えた相手だと、受け取り直して行ける。自分を砕くため、足 りない所を与えるため、プライド、虚栄心、罪・・様々示される。 悔い改めが与えられ、気づかされ、教えられ、そして平安 にされる。自我は強く、自分の思いを通したい。その時、 主は、思い通りにならない事柄を、目の前に置いて、教え られる。自我に気づかされる。「主はその愛する者を懲ら しめ」とあり、懲らしめは主の愛だ。 そして、もっと実を結ぶために、刈り込みをされる。刈り込 みは、はさみで切られるので、痛い、血が流れる。しかし 間に合う器へと、キリストの似姿へと、砕き、訓練し、練り、 聖めて下さる。今、目の前が、思い通りにならないなら、主 のみ思いを尋ね求めよう。必ず成長へと導いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 目の前の状況と、相手しか見えていない時、苦しいばかり だ。目の前の状況も、自分も、何も変わらない。主に焦点 を合わせる時、自我に気づかせられる。それを認めて行く 時、変えられて行く。
2025年11月07日(金) 「彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて・・最後の連中は 一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました ・・一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」 マタイ20:11
「彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて・・最後の連中は 一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました ・・一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」 マタイ20:11
一人暮らしの熟年女性が、クリスマスで華やかににぎわい、街がキ ラキラし出すと、寂しくてたまらなくなった。特に家族団らんが溢 れる、年末年始はとても孤独に感じた。周囲の楽しげな様子を見て は、主は不公平だと不満が募った。主に、思いをぶつけていた時に、 ぶどう園の箇所で気づかされた。 早朝からの労務者は、契約賃金で満足だった。一日の労働を終える なら、相当な糧を得て帰宅できる。妻子の喜ぶ顔を思い、励みとな った。日当が保障され、何と有難い事だろう。だが隣と比較した途 端、満足が消えて、不満と怒りで一杯になった。もし比較が無けれ ば、自分の報酬に満足できた。彼女は、状況ではなく、自分の心の 態度の問題だと気づいた。 人との比較でなく、また自分が描く理想との比較でもなく、あるが ままの自分を認め、上を仰ぎ、主に従って行くなら、来る日も〃平 安で、幸せでおれるのではないかと。比較を止めて、主と自分の関 係の中で、歩む事が救いなのでは。主に出会う前は、自分を量るの に、人との差異で量って来た。それしか量るすべが無かった。 人より出来たら安心し、出来なかったら不安になり、その間をいつ もグルグル行ったり来たり。人が基準だ。比較は、誰しもに根深く 培われている、世の価値観だ。主は、少しづつ〃変えて下さる。ま ず比較に気づく事から始まる。気づけた時に感謝しよう。御霊の気 づきだ。それが積み重ねられて行き、自由にして行って下さる。 ------------ 最後に来た者から賃金が支払われたのはなぜだろう。人との比較で 簡単に平安が失われていく。主を仰ごう。最後の者で、弱く小さな 者だが、主はたくさんの愛を注いでくださる。感謝だ。
2025年11月06日(木) 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」 マタイ7:24
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」 マタイ7:24
賢い人と愚かな人が家を建てた。賢い人は岩の上に、愚かな人は 砂の上に建てた。家の外観は全く同じで、土台が違った。岩の上 に建てるためには、地面を掘り、掘削し、手間のかかる大変な作 業だ。砂の上なら楽で手っ取り早い。何も無い順風の時は、変わ りなく、二つの家は、同じように見える。だが試練が来て、暴風 雨で、大洪水になった時に、大きな違いが出た。 岩の上の家はびくともせず、砂の上の家は倒壊してしまった。そ れもひどい壊れ方だった。岩の上に建てる=御言葉を聞いてそれ を行なう事。片や、砂の上=御言葉を聞いて、行なわない事だと。 この場合、岩の上も砂の上も、双方共、御言葉を聞いている。岩 の上が聞いていて、砂の上が聞いていないなら、わかりやすいが、 どちらも聞いている。 毎週、礼拝で説教を聞き、学び会で御言葉を聞き、個人的な主と の交わりで聖書に聞く。違いは、その聞いた御言葉を実行するか、 しないかだ。一つ一つと御霊に示された御言葉を、実行して行く 事が大切だ。その中で信仰と人格が、練られ培われて行き、どん なに厳しい試練が臨んでも決して倒れない。自分には出来ないの で、目の前の導きに従えるよう祈ろう。御霊の助けが臨む。 又、岩の上とは、御言葉に従う事で、砂の上とは、自分の思い、 感情、判断、この世に調子を合わせて歩む事だ。それなら、試練 の時に立ち行けない。今、御言葉が示されているだろうか。祈っ て、その御言葉に従うために、一歩を踏み出そう。 -------------- せっかく与えられた御言葉だ。出来ますようにと祈り、心に留め て一日を歩もう。御言葉から顔を上げるとすぐに世の生活が押し 寄せるが、実生活の中で御言葉を選び、実行しよう。
2025年11月05日(水) 「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば を受け取りなさい」エペソ6:17
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば を受け取りなさい」エペソ6:17
エデンでの、エバの誘惑の箇所で「蛇が一番狡猾」と出て来るが、 悪魔は非常に狡猾だ。誘惑の際に、光の御使いに変装する、とある。 「サタンさえ光の御使いに変装する」と。つまり、神やクリスチャ ンに見せかけ、正しい、麗しい事に偽り、変装する。例えば相手が 無神論者、共産主義者ならどうだろう。それなりに構えるが、クリ スチャンですと接して来たら、警戒を解き、心を許してしまうだろ うか。 悪魔は、エバを欺くために「神は」「言われたのか」と、神を認め、 御言葉を認めている。エバは警戒なく会話を始めてしまった。ここ が間違いだった。巧妙に会話へと引き込まれると、敵は賢く、説得 されてしまう。エバは「本当に〜言われたのか」との悪魔の問いか けに、正しく教えようとしたが、御言葉でなく、自分の思いで応答 した。 御言葉でないので、悪魔に対して、何の力も無かった。「あなたが たは決して死にません」と御言葉と正反対、真逆の事を断定されて も、もはや、もう気づけない。この悪魔が、私たちにも同様に、朝 起きた時から、語りかけて来る。「思い」=「火矢」を飛ばしまく って来る。気づかないまま、引き込まれてしまう。 自分の思いで悪魔に向かうと、太刀打ちできず、思うがままに持っ て行かれてしまう。「御言葉」だけが、打ち勝てる。悪魔は退かざ るを得ない。「神に従え。そして悪魔に立ち向かえ。そうすれば、 悪魔はあなたがたから逃げ去る」。主の言葉に立とう。 ------------- 正しそうでも、しっかりと間違いを混ぜてくるサタン。策略をもっ て近づくサタンに立ち向かうには、正しい御言葉に立つことが必要 だ。人間的な知恵は役に立たないと覚えたい。御言葉を蓄えよう。
2025年11月04日(火) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて くださる」詩篇37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて くださる」詩篇37:5
信仰生活の中で、しばしば自分のプランと主のプランが、異なる事 に気づかせられる。主のご計画がある事はわかるのだが、自我は強 く、自分の強い思いがどうにもならない。自分のプランこそが、ベ ストだと思ってしまう。主のご計画が最善であり、御心が成ります ようにと、委ねて行くことが良いと、頭ではよくわかる。だが、自 分の思いを手放せない。強固な肉の性質がある。 ある人が証しした。専門的な才能があり、他社からスカウトされた。 才能が認められた事は嬉しかった。だが丁度、夫婦で救われ、喜ん で教会に通っていた時だった。学びと良い交わりがあり、教会生活 は非常に楽しかった。教会は離れたくない、しかし仕事は魅力的だ、 どうすれば良いのか。悩み、牧師にも相談し祈ってもらった。 すると牧師は転職に反対し、今はとどまり、ここでまず信仰の土台 を築かれるのがよいと。しかし高給と才能が発揮できるという、誘 惑に負けてしまったと。自分たちの思いで進んでしまい、結果、仕 事は高度で、ハードさに心身消耗し、いつしか教会から足が遠のい てしまった。平安の無いまま生活し、痛い刈り取りだった。 しかし主のあわれみは尽きず、後に立ち返らせて下さった。まず自 分の思いを明け渡して、主のプランに従えるよう祈ろう。それが真 の喜びと平安、祝福の道だ。そうできるよう、助けを求めて祈ろう。 ------------- 自分の思いが先にあり、祝福を祈って動いてしまう。まず自己都合 ありきではないか、立ち止まり祈ってみよう。主に委ねていこう。 主が何をしてくださったかを、日々知っていきたい。
2025年11月03日(月) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではあり ません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではあり ません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」 ガラテヤ6:7
議官アヒトフェルが、ダビデを裏切って来た。しかしダビデが親友 だと言った、信頼を置いていた相手だった。「私をそしる者が敵で は無い。それなら私は忍べた。私に向かって高ぶる者が、私を憎む 者では無い。それなら私は、彼から身を隠した。そうでなく、お前 が。私の同輩、私の友、私の親友のお前が」と。 一緒に仲良く語り合い、神の家に群れと一緒に歩いて行ったのにと。 敵の攻撃は、まだ対処できるが、同志、親友の裏切り、敵対は非常 に耐え難い。これほど辛いものは無い。だがダビデは、起きる様々 な出来事が、バテシバと姦淫し、ウリヤを殺害した罪の刈り取りだ とわかっていた。ダビデは、逃げずに真正面から受け入れ、主と共 に刈り取って行った。ダビデの信仰だった。 親友の裏切りである事態も「アヒトフェルの助言を愚かなものにし て下さい」と主を信じ、主に委ねた。自分で立ち向かわず、主に信 頼し、祈った。そして息子アブシャロムが謀反を起こし、ダビデに 敵対し、戦いの準備をしていると耳に入る。息子とは戦えない。ダ ビデは逃げる事を決意をする。「ダビデはオリーブ山の坂を登った。 彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっ しょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った」ダビデは泣 いた。どんなに辛く、苦しく、痛んだ事だろう。オリーブ山は、主 を礼拝する場所だった。主の御心と受け止めたダビデは、苦難によ り、更に主に拠りすがり、更に主に近く歩む者とされた。 ------------- 刈り取りも主からのものと受け取るなら、主は必ず共にいて助けて くださる。何処までも主に信頼して生きていこう。失敗をしても、 悔い改め、赦しを受け取ったなら、主に頼り歩もう。
2025年11月02日(日) 「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟っ た」詩篇73:17
「私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟っ た」詩篇73:17
詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、ひどく落ち込んだ。 彼らは楽しげで、肥え太り、何の苦しみの無く、安らかで、 富を増している。それに引き換え、自分は惨めで、苦しみ ばかりで、何の良い事もない。この足はたわみそうで、歩 みはすべるばかりだと。どういう事なのか。なぜ、神を信 じる自分が惨めで、神を信じない者が栄えるのか。 私たちも、あるだろうか。未信者の方が罪の悩みもなく、 「ねばならない」重荷も無く、窮屈でなく、楽そうで、世を自 由に楽しみ、自分より良いではないか。不満だらけだ。そ の彼が、神の聖所に入り、光を得た。実は、彼の不満、妬 み、愚痴、様々なうつ々悶々の原因は、神の近くにいない 事によると悟った。「私にとって、神の近くにいることが幸 せ」なのだと。 真の問題は、外側の事でなく、自分と神との関係にあった。 自分が神から離れていて、神を見ずに、神以外のものを見 ているから、又、神以外のものを求めているから、喜びも平 安も無い。妬みと不満で一杯だった。信仰にとって根本的 なことだ。私たちもどうだろう。不満が募る時、イライラする 時、真の問題はその状況でなく、自分と神との関係にある。 神から離れているので、心がすさんでいる。 逆に、神と親しい交わりの中にいるなら、状況がどんなに悲 惨でも、大嵐の中でも、心は不思議な、主の平安を経験する。 問題が、問題でなくなるのだ。今、主との関係はどうだろう。 もし距離があって空しいなら、今すぐ立ち返ろう。全きいこい に戻れと言われる。主との交わりの中でのみ、世には無い 幸せを感じることができる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ あらゆる事が、主と自分の関係の問題だと、見せられる。 主に近く歩むと、喜びがあり、問題が問題で無くなるが、 主から目が離れると、肉で歩み、不満、満たされない思い、 イライラとなる。主のもとへ行こう。
2025年11月01日(土) 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意に と、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マ ルコ14:8
「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意に と、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マ ルコ14:8
マリヤの行ないを通して、「時」と「機会」について教えられ る。信仰生活で、時と機会は大切だ。マリヤは、食卓の主 に、石膏のつぼを割り、香油を主の頭に注いだ。300万と も言われる、非常に高価なものだ。よく女性は、結婚の時 のためにと、少しづつ貯えると言われる。マリヤは、今まで 少し、〃と蓄えたであろう、彼女にとって非常に大切な、高 価な香油を、惜しげもなく主に注ぎ尽くした。 主への感謝と愛が溢れ出たゆえだった。今から十字架へ と向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろう。何も知ら ない弟子たちは、マリヤを責め、無駄な事だと憤慨した。貧 乏な人達に施せるのにと。しかし主は、マリヤをかばわれた。 わたしのために、自分にできる事をしたのだと。主はその愛 の行為を受け取られた。肉は利得で動くが、愛は打算が無 い。 肉は、自分に利得が無い事を何もしたくない。する意味がな い。だが愛には損得勘定が無い。「しかし、上からの知恵は、 第一に純真であり・・」とあり、御霊の支配にある時、主をお喜 ばせしたい一心だ。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒に いるが・・」とのように、いつでも出来る事と、今しか出来ない 事がある。 この時と機会を逸したなら、マリヤは香油を塗る事が不可能 だった。この後、主は十字架へと向かわれた。主の墓に行 った女性たちは、香油を塗れなかった。御霊の示される貴 重な「時」と「機会」がある。、もし今、何かを示されていたな ら、従おう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は「自分にできることを」と言われる。それぞれ異なるが、 自分に出来ることだ。平安にされる。そして、時と機会が 与えられる。時と機会を逃さないように、祈りながら、主の 導きを悟れますように。