2026年01月27日(火) 「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしの ところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:11
「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしの ところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、 わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:11
私たちはどうだろう。祈ろうと思うし、聖書を読もうと思うのだが、 なかなか難しい。意志が強ければ、祈り続けられるだろうに、意志 が弱いから、だめなのだと思う。だが人間の意志力が、物事を実現 させるのではない。主の意志が物事を実現させる。だから信仰人生 において、主の御心が重要だ。 しばしば、主が望んでおられるのではと、「自分が」思う事を主の 御心と勘違いする。しかし成就して行かないので、けげんに思う。 ある人が、これこそ御心と思うが、決してうまく行かなかったと証 しした。後にそれは、「主が」望む事ではなく、「自分が」主のた めにしたいと思う事だった、と。自分が欲しい、都合の良い主の言 葉でなく、主の口から出たことばが成就する。 どうすればよいのか。まず自分自身の意志をゆだねよう。妨げるの は、自分の思いだ。祈りの中で、主の言葉が与えられたなら、その 御言葉から目を離さず、握りしめていよう。そのプロセスの中で、 時間がかかり、なかなか実現して行かない。どこが、どうなってい るのか、これが一体どのように展開して行くのか、わけがわからな い。 一見、遠回りに見えて、時間が、かかるかも知れない。しかしわか る事は、主の言葉は必ず成就する。その言葉の通りに実現する。だ から願った事は、すでに得ていることになる。アブラハムはイサク 誕生を25年待った。主の時に、目に見える形で実現する。待ち望 もう。 -------------- 自分の思いは強く、主の御心を選べるように祈っていなければ、何 処に向かっているのかわからなくなる。自分の思いに囚われないよ う、御言葉に照らし、主の導きを悟れるように祈ろう。
2026年01月26日(月) 「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむき の罪を赦してくださいます」詩篇65:3
「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむき の罪を赦してくださいます」詩篇65:3
人は皆、失敗する。どんなに気をつけていても、失敗してしまう。 機械でなく、人間であるからだ。自分が、こんなミスをするなどと は、信じられない。しかし人間ゆえだ。ショックを受け後悔するが、 大事な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。これが重要であり、失敗 したら、学べば良い。もう一度やり直せば良い。やり直す事ができ る。 幸せな結婚生活は、何と喜びに満ちたものだろう。しかし幸せな家 庭は、努力無しに有り得ない。人は皆、肉の性質を抱えている。そ れは、わがままで、自己中心であり、放っておくと自分勝手な道に 行く。「私たちはみなさまよい、おのおの自分勝手な道へ向かって 行った」と。各々が自分の思い通りに、好きな事だけをしていたい。 双方がそうであれば、和合や一致でなく、分裂、無関心、又、けん かになって当然だ。肉の思いのままになる。双方で「自分の利益を 求めず」「自分にしてもらいたいことをし」互いに調整し合う必要 がある。それは自分を捨て、自分に死んで行く歩みだ。ペテロも大 失敗をした。主を裏切ってしまった。もう取り返しがつかないと思 った事だろう。 しかし、それで終わったのではなかった。ペテロは砕かれた。主の 豊かな赦しを受け取り、再び主によって回復させられ、建て直され た。失敗をも益として、砕き、成長させて下さる。私たちも失敗す る。その時、落胆して主を離れるのでなく、すぐ主のもとへ行こう。 豊かに赦して下さる。そして、その失敗をも益として、兄弟のため に用いて下さる。何とあわれみの主だろう。 -------------- 肉のままに動くと必ず失敗してしまう。その度に後悔し、主に悔い 改めて立ち上がる。何という主のあわれみだろう。失敗から学び、 少しずつ砕かれ、小さくされて主に従おう。
2026年01月25日(日) 「彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに 言った『・・どうか、私の妹だと言ってくれ・・私は生きのびるだろう』」 創世12:12
「彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに 言った『・・どうか、私の妹だと言ってくれ・・私は生きのびるだろう』」 創世12:12
アブラハムは、主から示しを受け、カランを出発し、カナンの地に 入った。尚も進み、ネゲブへ旅を続けていた時、激しい飢饉に会 った。そのためエジプトに下った。飢饉が余りにひどく、命の危険 を感じただろうか。エジプトに下って、アブラハムは罪を犯してしま った。自分の命を守るために、サラを妹だと偽り、サラにも偽りを 強要した。 そのためサラは、パロの宮廷に、召し入れられる事となった。間 一髪のところで主の介入があり、助け出された。アブラハムの失 敗は、激しい飢饉に臨んだ時、主を仰がず、主の御心を求めず、 自分の思いと判断で、動いた事だった。それがエジプト行きであ り、そこが間違いだった。まず主に祈り、頼り、指示を仰ぐべきで あった。 私たちもどうだろう。信仰をもって踏み出した途端、厳しい飢饉が 臨む。その時に驚き慌ててしまい、主が吹っ飛んで、自分で何と かしなければと、立ち騒ぎ、とにかく自分を守ろうとする。右往左 往し、肉の策を考え、行動する。その結果、失敗してしまい、刈り 取りをする事になる。自分で動かずにいよう。 まず「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。どんなひどい飢饉で あっても、主は手立てを持っておられ、必ず脱出の道も備えられ ている。「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれ ば、力を得る」、御声に耳を傾け、導きを待とう。そして従おう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 時に苦しみに会う。しかし主は、耐えられない試練には会わせら れず、脱出の道も備えられている。主を信じよう。自分の思いで 動かずに、祈り、主の示しに従おう。まずありのままを告げ、祈 ろう。
2026年01月24日(土) 「私が断食して泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子 どもが生き返るかもしれない、と思ったからだ・・私はあの子のとこ ろに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサム エル12:22
「私が断食して泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子 どもが生き返るかもしれない、と思ったからだ・・私はあの子のとこ ろに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサム エル12:22
ダビデは姦淫に殺人の罪を重ねてしまった。バテシバと姦淫を犯 し、夫ウリヤを殺害した。しかし彼は、ダビデの忠実な大変良い部 下であった。自分が蒔いたものは必ず刈り取る。罪には刈り取り がある。ダビデは悔い改めたので、罪は完全に赦されたが、刈り 取らねばならなかった。 ナタンから「あなたはこの事によって、主の敵に大いに侮りの心を 起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ」と宣告を受け た。そして子どもが病気になった。ダビデは、その子のいやしのた めに断食し、引きこもり、地に伏して、切なる思いで祈り続けた。結 果、愛する子どもは7日目に死んだ。家来たちは、どうして言えよ うと伝えるのを恐れた。 しかし、死んだ事がわかると、ダビデは体を洗い、着物を着替え、 主を礼拝し、そして食事をした。ダビデは、これが、主が与えて下 さった「最善」だと、信仰により受け止めた。ダビデが、子どもが 死ぬ事が決まっていたのに祈ったのは、もしかすると、主が憐れ んで、この子を生かして下さるかもしれない、と思ったからだった。 しかし死んだ時には、これが主の御心であり、最善なのだと受け 入れた。私たちはどうだろう。あなたは、今、目の前の結果が、願 いとは違うだろうか。受け入れ難い時は、助けを求めて祈ろう。主 が受け入れられるよう、助けて下さる。御心に適っ祈りは、必ず答 えられるのだから。
2026年01月23日(金) 「・・ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、 門からはいる者は、その羊の牧者です・・羊はその声を聞き分け ます」ヨハネ10:1
「・・ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、 門からはいる者は、その羊の牧者です・・羊はその声を聞き分け ます」ヨハネ10:1
信仰の日常はどうだろう。心には、様々な「声」が聞こえて来る。 それらは、すべてが神の声ではないので、よくよく注意が必要だ。 神の声、悪魔の声、自分の肉の思いからの声がある。それらが混線 している。間違わないように、どこからの声なのかを、よく確かめ る必要がある。間違った声に従って行くと、御心と正反対の方向へ 向かってしまう。 確かめるためには、まず、その声が御言葉と合致しているか。御言 葉に反する導きは決して無い。そして目的は良いが、手段が不正な ら、それは主からのものではない。又、主の御声には静かな平安が ある。サタンの声は反応すると、怒り、焦り、不安、落ち込み、裁 きが湧く。否定的、破壊的なものは悪魔の声だ。主の御声には愛、 平安、落ち着き、明るさがあり、信仰的、建設的なものだ。 又、主の御声と同時に環境をよく見ていると、状況が御心に沿って 動くのがわかる。神の御声に合致して行く。状況とよく照らし合わ せてみると良い。確認して行ける。又、人生で重大な決断は、牧師 や指導者に相談し、一緒に祈ってもらうと良い。そのために、主は 霊的指導者を置いておられる。 主の御心なら、そこに必ず一致がある。そして、その声は御言葉と 一致するか、平安をもたらすか、状況と合致して行くか。羊は、羊 飼いの声を聞き分けることができる。私たちは、主の御声に従い歩 んで行ける。 ------------- 外から内からいつも騒がしい声を聞く。迷いやすいからこそ、焦っ て道を選ぼうとせず、指導者に相談したり、主の御声に従えるよう に祈りたい。主の御声を選べるよう悟れるよう祈っていよう。
2026年01月22日(木) 「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いこと のための計らいとなさいました」創世記50:20
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いこと のための計らいとなさいました」創世記50:20
ヨセフの苦難に満ちた人生はよく知られている。兄たちにひどく妬 まれ憎まれ、隊商に売られた。家族から引き離され、全く見知らぬ 異国の地エジプトへ。ヨセフはどんな思いだったろう。しかし「主 がともにおられたので」それゆえ現地で、主人の好意を得、大きく 祝福された。 しかし主人の妻の悪意により、無実の罪に陥れられ監獄に。異国の 地で、投獄の身になり、それも無実であり、ヨセフの心はいかばり だったろう。しかし尚も「主はともにおられ」恵みを施され、ヨセ フは監獄長の心にかない重んじられた。絶望的な状況の中で、「共 におられる主」を信じて、ヨセフは失望せず、腐らず、投げ出さず、 主を見上げ、その場〃で、自分にできるベストを尽くして行った。 すべてが、主の主権と御手の中にある事を信じたから、主に委ねる 事ができた。結果的に、大いなる神の摂理のゆえ、先にヨセフがエ ジプトに遣わされ、世界的飢饉の中、ヤコブと一族を救うことにな る。こういう事だったのかと、パズルが埋まる時、神の壮大なご計 画が見えて、神の栄光が現れる。 ヨセフは、兄たちへの憎しみや責めはなく、「私をここに遣わした のは、神」と信仰に立って捉える事ができた。「あなたがたは、私 に悪を計りました」と、はっきりと兄たちの悪だと言い、しかし神 はそれを益とされたと。ヨセフの信仰だった。人生に起きる出来事 を、神のメガネで見てみよう。今までわけがわからなかった事柄に 光が差し、神と、そのご計画が見えて来る。 ----------- 明日を知ることが出来ない者だからこそ、主に信頼できる恵みを感 謝しよう。なぜ、どうしてと不安になるが、時が経つと全てが主の 摂理であったとわかる日が来る。主に視点を合わせていよう。
2026年01月21日(水) 「わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、 心に慕うもの・・を取り去る日」エゼキエル24:25
「わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するもの、 心に慕うもの・・を取り去る日」エゼキエル24:25
こんな経験があるだろうか。「主の御心が成りますように」と祈る が、自分の願いで一杯で、建前は主の御心だが、本音は自分の心が 成りますようにだろうか。だが反抗する気など無く、頭では御心が 成るようにと思っているので、気づかない。後で振り返ると、委ね るという意味もわかっておらず、主を信頼する事もしていなかった と知る。 説教で、学びで、主に委ねる事の大切さを教えられ、頭では、そう している「つもり」だ。しかし、実は自分の思いをしっかり握りし めて放さない。しばしば、自分がそうあればいいと思っている事を、 実際そうだと勘違いする。反抗していれば、明らかにわかるが、逆 らうつもりはないので、逆に気づかない。何かがぼんやりし、漠然 とし、混沌としている。幕が張られているようだ。 心に確信と満たしが無い。心底の平安が無い。自分でも、何かが足 りないと感じている。握りしめて、明け渡せないところを祈ってみ よう。心の内を御霊で照らされる時に初めて、気づきが与えられる。 御霊によらなければ、わからない。 握っているものは何だろう。「彼らの力とするもの、栄えに満ちた 喜び、愛するもの、心に慕うもの・・」主以外のものなら、偶像にな ってしまう。御霊の気づきが与えられるように。主に明け渡して行 けるよう、祈って行こう。 -------------- これがなければ生きていけないと、頼りにし、すがっているものが 多くある。目に見えるものに頼りながら、主に頼っている事を認め て明け渡したい。主のあわれみに完全に頼って歩みたい。
2026年01月20日(火) 「彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌を もって、私に語ったからです・・彼らは、善にかえて悪を、私の愛 にかえて憎しみを、私に報いました」詩篇109:2
「彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、偽りの舌を もって、私に語ったからです・・彼らは、善にかえて悪を、私の愛 にかえて憎しみを、私に報いました」詩篇109:2
ダビデは真実を向けた相手になじられ、愛するにかかわらず憎しみ で返され、攻撃されるという、辛い苦しい経験をした。サウル王や アブシャロムによる迫害かと言われている。厳しい苦悩であったろ う。愛や真心は通じると思いたいが、そうでない現実がある。その 場合はどうすれば良いかを、ダビデを通して学べる。 誠意と愛をもって接して来た人々が、歯向かい、攻撃して来る。邪 悪な口と、欺きの口と、偽りの舌をもって、憎しみの言葉で取り囲 み、罵り、なじって来る。苦しく辛い状況だ。しかしまさに、人間 の神に対する態度そのものだ。神は、神を捨て、逆らい、敵対する 者を更に追いかけ、御子まで殺して下さった。命を下さったのであ って、これ以上のものは無い。 最高のものを与えて下さった、その御子を私たちはどう扱ったか。 神の愛すら通じないのであれば、罪人である人間同士の愛が通じな くとも不思議はない。主は十字架上で、人々の罵りにどうされたか。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で わからないのです」と、人々の赦しを祈られた。 ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手に復讐するのでな く、主に心の内を打ち明け、叫び、主に知って頂くことができる。 叫び祈ったダビデは、この後、賛美と感謝へと変えられて行く。今、 もし苦しみの中なら、「私は祈るばかりです」。祈ろう。主に聞い て頂こう。受け止めて下さるので、心が落ち着き、平安にされる。 -------------- 心の内を主に祈ろう。主は聞かれている。すぐに状況は変わらなく ても、主が聞いてくださっている事実に心が満ちる。状況を支配し ておられるのは主だ。主を頼り、祈ろう。
2026年01月19日(月) 「イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、 だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちは これを聞いていた」マルコ11:14
「イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、 だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちは これを聞いていた」マルコ11:14
当時、道の野生いちじくは自由に食べていた。主が食べようとされ たが、実が無かった。後日、そのいちじくが枯れていた。これは実 が無く、主が腹を立て、木を枯らしたのでは無い。いちじくは、イ スラエルの象徴だった。「葉のほかに何もない」と言われたが、ユ ダヤ人への嘆きだった。 宗教指導者たちが、メシヤを拒否する事への警告であり、裁きだっ た。細かい儀式は、きっちり執り行なうが、心は神から離れ、大切 なものを見失っている。形式はあるが、中身がない。葉ばかりで実 がない。祈りの家が、強盗の巣になっていた。生きた信仰がない事、 実を結ぶ信仰について教えられた。 私たちはどうだろう。自分が変えられて行っているだろうか。実を 結ぶために、「神を信じなさい」と。山とは、不動だ。動くわけが ない。しかし、信じるなら、山が動くと。主にとり不可能は一つも ない。今、必要なことは「神を信じること」だろうか。信頼するよ うに促されているだろうか。 次に「祈ること」とにかく日常の目の前の一つ一つを、具体的に主 に祈ってみよう。祈りの中で自分が変えられて行く。そして「赦す こと」が言われている。人を恨み、赦さない心が、実を結ぶ事を妨 げてしまう。赦すことは困難で、人には出来ない事を、主はご存じ だ。しかし主には出来ると。 まず、祈りに持って行き、出来ないことを認めて、主に拠り頼み、 取り扱って頂こう。赦す心は恵みによって、与えられる。自分には 無いが、信仰を通して、主から来る。 ----------- 主を信じてからも、自分自身は少しも変わろうとしていないのでは ないか。よく吟味したい。出来ないことは、祈り、素直に従いたい。 自分自身を主に明け渡し、具体的に従っていこう。
2026年01月18日(日) 「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたから である」ヨハネ6:6
「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたから である」ヨハネ6:6
ある人が、最近、物が見えにくいと感じていたが、忙しさもあり、気 に留めなかった。そんな時、コンタクトを落としてしまった。必死に、 懸命に捜すのだが見つからない。尚も捜すが、どこにも無い。「神 様」と、見つけ出せるようにと祈るが、どうしても見つからない。そん な中、「すべての事について感謝しなさい」との御言葉が臨み、「は い、主よ。この事も感謝します」と祈った。 その時に、考えた。出来事の一つ一つに何かの主のご計画がある 事を思い、これだけ捜して見つからないのだから、この事にも何か のお心があると思えた。それで捜すのを止めて、眼鏡店に行った。 平安だった。新しいレンズを処方してもらう時、片方のレンズを見せ るように言われた。 すると、レンズがひどく傷んでいて、そのため見えにくかったと判明 した。目を痛めるところだったと言われ、主に感謝した。私たちに とって、マイナスの出来事、「どうしてこんな事が?」のその中に、主 のご計画があり、御心を見い出して行く。 幾ら祈り求めても、事態が、状況が変わらない時は、何かのご計 画があるのかもしれない。必死で祈るが、何一つ動かない時には、 「この事の中で、教えて下さりたい事は何ですか?」と尋ねてみよう。 尚も、祈り続けよとの励ましか、様々、主のお心を教え、御心へと導 いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ ダビデは「いつまでですか」と何度も祈っている。あるがままの気持ち を告げよう。祈りの答えが長引く中で、目に見えない中で、主との個 人的な関係、信頼関係が深められて行く。ふさわしい時に叶えられ る。
2026年01月17日(土) 「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません・・神の種 がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生ま れたので、罪のうちを歩むことができないのです」Tヨハネ 3:9
「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません・・神の種 がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生ま れたので、罪のうちを歩むことができないのです」Tヨハネ 3:9
「カインのようであってはいけない」とあり、カインになるなと言わ れている。カインは、なぜ、弟アベルを殺害したのか。単なる兄 弟げんかでなく、神への献げ物の事だった。アベルは受け入れら れ、カインは受け入れられなかった。そこで激しく怒った。受け入 れられないからには、間違っていたわけで、悔い改め、献げ直せ ば良かった。 しかし、悔い改める事なく、アベルへの嫉妬となり、嫉妬は憎しみ に増幅した。弟殺害は、まずカインと神との関係が問題だった。 私たちも神の前に正しくない時、罪の性質は、人へと向かい、人 を羨み、妬み、攻撃して行く。妬みは、誰にも根深く巣くう罪だ。祭 司長たちが、主を十字架につけたのも、サウルが身を滅ぼしたの も、ヨセフの兄たちが道をはずしてしまったのも、妬みによる事だ った。 妬みから激しい憎悪へ、それは殺人へと至ってしまう。しかし、神 から生まれた者は、罪の内を歩まないとある。神の種が内にどど まっているからと。神から生まれた人は罪の内を歩めないと。これ は、全く罪を犯さないという意味ではない。私たちは弱さと愚かさ のゆえに、どうしても罪を犯してしまう。 しかし決して犯し続け無いという意味だ。神の種がとどまっていると。 罪を犯すと平安を失うので、そのままでいる事ができない。平安の 無い状態は非常に辛い。主のもとに行き、御霊に導かれ、矯正され、 又、新たにされ平安が戻る。神から生まれているからだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 主は平安を与えたり、取ったりして、御心へと導いて下さる。心が 辛いので、罪を犯したままでいる事が出来ない。悔い改めへと導 き、矯正して下さる。神の種が内にあるとは、何と感謝な事だろう。
2026年01月16日(金) 「すると、神はアブラハム仰せられた。『その少年と、あなたの はしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うこと はみな・・聞き入れなさい』」創世記21:12
「すると、神はアブラハム仰せられた。『その少年と、あなたの はしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うこと はみな・・聞き入れなさい』」創世記21:12
アブラハムは、子が与えられない中、奴隷ハガルによりイシマエル を得た。その後に実子イサクが与えられた。後に、イシマエルが、 イサクをからかうのを見たサラは、ハガルと子どもを追い出すよう、 アブラハムに迫った。この奴隷の子は、私の子イサクと共に、跡取 りになるべきではないと。 サラの感情的な言葉だったが、言い分は正当だった。しかしアブラ ハムにとれば、イシマエルも自分の実子であり、愛する息子だ。そ のため非常に悩んだ。どうすれば良いのか。イシマエルを追い出す 事は忍びない。主の御心は何であり、どうする事が正しいのか、主 に祈った。「神はアブラハムに仰せられた」主は、サラが言う事を 聞き入れよと。 だがイシマエルも一つの国民とする。あなたの子だからと。主から の明確な示しにより、アブラハムは従う事ができた。翌朝早く、パ ンと水の皮袋を与え、ハガルとイシマエルを送り出した。荒野をさ まよい、水が尽きた時、ハガルは子供が死ぬのを見たくないと、離 れて座り、声を上げて泣いた。 しかし主の使いから「あの子を大いなる国民とする」との励ましを 受け、主に目が開かれると、ハガルはそこに井戸を見つけた。そし て「神が少年と共におられたので、彼は成長し」、主はイシマエル をも顧みられた。苦しみの時、悩みの時は、アブラハムのように判 断を主に求めよう。主は御心を示し、導いて下さる。 ------------ 主に祈り、主に導きを求めることが出来るのは何という特権だろう。 主との交わりを密にし、ひとつひとつの祈りを通して主のご愛や配 慮を経験していきたい。
2026年01月15日(木) 「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた」マルコ5:41
「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ』と言われた。 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた」マルコ5:41
ヤイロの娘が、死にかけていた。そのためヤイロは、娘のいやし を求めて、必死の思いで主のもとに来た。ヤイロの切実な願いに、 主が共に出かけられたが、途上で、長血の女性が介入した。主は、 女性に関わられ、手間取ってしまう。差し迫った娘の状況に、ヤ イロはどんなに焦った事だろう。 主が、まだ女性に対応中に、娘が死んだとの知らせが来た。主は その言葉に、間髪を入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」 と御声をかけられた。ヤイロに、見えるところでなく、わたしを 見て、わたしを信じなさい、と言われた。目に見える状況でなく、 神の言葉を信じることであり、それに反する言葉に耳を貸しては ならないと。聞き流せと。 信仰生活で、とても大切な事だ。何でもかんでも、受け入れては ならない。不信仰の言葉、否定的な言葉、信仰を妨げる言葉を、 無視し、退けなければならない。聞いてはならない。「もうダメ だ」「もう手遅れだ」「もうおしまいだ」「やっても無駄だ」 「できっこない」「自分はだめだ」・・否定的な言葉は、受け入 れてはならない。 主は、否定的な状況から目を離して、ご自分に目を向けるように と、ヤイロに御声をかけられた。あなたも今、否定的言葉を聞い て、落ち込んでいるだろうか。御言葉はどう言っているだろう。 目を上げて「ただ信じていなさい」との御声を心に受け取ろう。 御言葉には、霊の力がある。 -------------- 否定的な思いを受け入れていたら、あきらめと絶望だっただろう。 人の思いをはるかに超える主の奇跡がある。主に目を向け、御言 葉を信じて、恐れずに立とう。
2026年01月14日(水) 「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、 死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16
「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、 死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16
当時、エステルが王妃に選ばれていた。モルデカイは、エステルの 伯父であった。そんな時、ハマンの狡猾な策略で、ユダヤ民族に皆 殺しの危機が訪れた。モルデカイは、王妃となったエステルに、王 にあわれみを求めるように伝えた。しかし、王の召しが無いのに、 王のもとに行くなら、誰であっても死刑だ。エステルも命がけであ ったが、王のもとへ行く決心をした。 エステルは黙っていれば、命は助かり、地位も安泰だ。しかし同胞 を救うため、命がけで王に民の救いを求め、見事に民は救われた。 エステルを通して見せられる。今までの経緯がパズルのように埋ま る。捕囚の民として異国で生まれた事、王妃に選ばれた事、それら がこの時のためだった。私たちも生い立ち、成育歴がどんなもので も、今に至るまでのプロセスは、主の摂理であり、主のプランだ。 今、どのように思い通りでない場所であっても、難しい現実であっ ても、今の場で主の御心があり、使命がある。パズルが埋められて 行く。今、置かれた場で、あなたのなすべき事がある。エステルは、 非常に困難な状況で、死を覚悟し、自分自身を全く明け渡した。 そのエステルを、主はユダヤの民の救いのために用いられた。 危急の事態が起きた時、方策や解決手段を捜し回る。しかし解決方 法ではなく、主は全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをさ れる。今の場で主はあなたを用いられる。今の場こそが、主が遣わ された場だ。何かの示しがあるなら従おう。 -------------- いつも目の前の状況の上に働く主の摂理を認めていたい。自分も、 また置かれた場所も主のご計画に加えられている。主に明け渡し、 御心に進もう。
2026年01月13日(火) 「ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、 彼女に言った。『安心してあなたの家へ上って行きなさい・・ 私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた』」 Tサムエル25:35
「ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、 彼女に言った。『安心してあなたの家へ上って行きなさい・・ 私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた』」 Tサムエル25:35
ダビデと部下は、ナバルのしもべ達を助けていた。そこで祝いの 時、ナバルに手元にある物を与えてくれるよう、申し入れた。し かしナバルは、それを侮辱で返した。ダビデは怒り、皆殺しにす るために出陣した。それを知った若者が、ナバルの妻アビガイル に、即、対処するように伝えた。 聞いたアビガイルは、急きょ、パン、ぶどう酒等、多大なる贈り 物を用意し、ダビデのもとに詫びに向いた。事態をしっかり悟っ た、彼女の敏速な行動が、ダビデの報復をとどめる事となった。 時に、的確な判断と、速やかな行動が必要だ。アビガイルは頑迷 な夫に何も伝えず、素早く御心を行なった。手遅れになる前に。 その聡明さは、率直に詫びた事にも表れる。ダビデを見るや、地 に伏して、「このはしためのそむきの罪をお赦し下さい」と謝罪 した。夫のせいにせず、妻としての責任を認めた。何というへり くだりだろう。そして無駄に血を流さないよう、感情的になり復 讐して、つまづきにならないようにと進言した。神の祝福を失っ てしまうと。 神を畏れるダビデは、そこで我に返った。アビガイルを通して、 復讐を止めて下さった主をほめたたえた。彼女の言葉に耳を傾け た、ダビデもまた聡明であった。目の前の事態に、肉の判断でな く、御霊の判断を祈ろう。そして御霊の導きがあるなら、速やか に行動に移そう。時を逃す事のないために。主の栄光を拝するこ とになる。 -------------- 迅速的確に対応するためには、感情的にならず祈り、御霊の導き に従いたい。自力で動くと主の領域まで侵してしまう。主に頼り、 的確に判断できるように祈ろう。
2026年01月12日(月) 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
ある人が子どもの頃、周囲から「良い子」と言われた。自分ではよ くわからなかったが、嬉しく、良い子であろうと頑張り続け、自分 でも良い子だと思っていた。そんな自分が大きくなり、真の自分が 映し出されたのが、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣け」 だった。良い子である自分が、絶対に出来ない事だった。 表には出さないが、人の幸せがひどく妬ましい自分、自分に無いも のを持つ相手に嫉妬する。うわべは優しそうなだけで、思いやりな ど無い自分、心に潜む自己中心の醜い現実を見せられた。真に罪人 であることを知らされ、主のもとに導かれ、救いを受けた。感謝で ならない。御霊が、「罪について」、世にその誤りを認めさせると ある。 御霊によらなければ、罪はわからない。ある人が救われてから、ず っと母親に福音を伝えていた。どうしても救われて欲しい。母親は 親切で情深く、人々のお世話をし続けて来た。どう伝えても、罪が わからなかった。祈り続けた。歳月を経て、母親は高齢に。死期も 近づく中、尚も罪がわからない。 しかしある日のこと。母親を見ると、ベッドに正座して、一人で祈 っていた。「神様、私は罪人だと、ずっと認められませんでした。 私は罪人です。ひどい罪人です。罪を犯して来ました。神様赦して 下さい。イエス様を信じます。天国へ連れて行って下さい」。ただ ただ驚くばかりだった。その翌日、母親は、天に召された。 -------------- 頭でいくら罪を知っていると思っていても、理解できていない事が、 ある時、御霊の助けによってすっと真理に導かれる。主は一番良い 時に導いて、光を当ててくださる。感謝だ。
2026年01月11日(日) 「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、 まどろむこともない」詩篇121:3
「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、 まどろむこともない」詩篇121:3
「都上りの歌」で、都上りの途上だろうか。巡礼者が、大 きな困難の前で立ち止まる中、山に向かい、目を上げて、 私の助けは、一体どこから来るのだろうと。当時の都上り の旅は、今と全く違い、大変なリスクを伴った。途上で病気 になれば、命を落とす。又、強盗や、犯罪に出くわす危険 もある。道中、何があるか知れず、無事に帰れるのかも不 明だ。 そんな中で、何が助けになるのか。助けは、どこから来る のか。その時に「助けは、天地を造られた主」から、との答 えが来る。助けは、主からだ。私たちの一生も旅のようだ。 様々な事が起き、それも突如として、想定外の事だらけだ。 信仰人生は、決して自分の思い通りにはならない。これは 確かだ。しかしその事で、成長、成熟へと導かれ、キリスト のかたちへと変えられて行く。 ある生徒が、試験で不正をしてしまった。つい、でき心だっ た、不安と恐れでいっぱいになった。どうすれば良いのか。 しかし恐くて誰にも言えず、心は暗く沈んだ。思わず、「神 様!」主にすがりついた。「神様ごめんなさい」とあるがま ま祈り、聖書を読んだ時に「山に向かい、目を上げる。助け はどこから来るのか」が、自分に驚くばかりピタリ重なった。 苦しみの山だ。すると「天地を造られた主から」と答えら れ、121篇を読み、安堵が来た。祈りの中で、担任に正直 に告げて、謝ろうと思った。翌日そのようにできた。担任の 対応は暖かく、赦してくれた。喜びが満ちた。「助けは、主か ら」。目の前の問題を、主が助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 困難や苦しみのある時、そのまま主を仰ごう。悩みのまま 主のもとに行き、何もかも告げよう。愛して下さっている。 御声をかけて、慰め、励まし、なすべき事を教えて下さる。 まず主のもとに行こう。
2026年01月10日(土) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神 のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神 のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
主が、ペテロに「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」 と問われた時に、「あなたは、生ける神の御子キリストで す」と正しい立派な答えをした。しかしその時から、主が、 弟子たちに十字架と復活の事を示し始められると、ペテロ は主をいさめた。「そんな事が、あなたに起こるはずがな い」と。 主の十字架を「そんなこと」と言い、「起こるはずがない」と。 主はそれを「サタン」と、いさめられた。主は、十字架を否定 し、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにすれば、主のこと を思い、主のために言ったつもりだった。しかしそれは、人 間による、肉の価値観であり、主のみ思いと正反対のもの であった。本人は良かれと思い、正しいと思ってする事が、 結果的にサタンに導かれていて、罪を犯すことになる。 本人は主のためであり、正しいと思っているだけに、やっ かいだ。酩酊、遊興、敵意。不品行等、ストレートな罪なら わかりやすい。悪魔は巧妙、狡猾だ。「あなたは神のこと を思わないで、人のことを思っている」。悪魔にだまされ、 肉の思いに進む時は、主が飛んでいる。目に見えない主 を忘れ、目に見える人と、世の事に心が奪われている。 流されてしまう。又、人からの賞賛、人からの愛、人から の誉れで心を満たそうとする時、悪魔の誘惑であり、だま されてしまう。目に見えない主からの誉れより、目に見え る人からよく思われたい。悪魔は狡猾だ。祈っていよう。 御霊が気づかせ、軌道修正して下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・ この世、目に見える世界の影響力は凄まじいものがある。 サタンにだまされてしまう。主と御言葉を忘れている時、 サタンにやられてしまう。主に向き、御言葉を握る時、確か に守られる。信仰に立っている。
2026年01月09日(金) 「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」 T列王17:1
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」 T列王17:1
エリヤは、主から命令を受けた。アハブのもとへ行き、ここ2,3 年は雨が降らないと告げるようにと。つまり日照りで、大飢饉にな るという事だ。アハブに告げるのは、大変勇気が要った事だろう。 アハブは極悪王であり、きげんを損ねたなら、即、打ち首もあり得 る。しかしエリヤは信仰に立って、主に従った。 「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」というの が、エリヤの信仰だった。「それから、彼に次のような主のことば があった」。エリヤが信仰に立ち、一歩踏み出すと、次の導きが臨 んだ。一歩従うなら、主は、次の展開を与えられる。「ここを去っ て・・ケリテ川のほとりに身を隠せ」との指示が来た。川の水を飲め、 烏に養わせると。 そこでエリヤはかくまわれた。しかし貪欲な烏が、食物を運ぶのだ ろうか。自分が食べてしまうのでは。その川は大丈夫なのか。だが、 エリヤは、「彼は行って、主のことばのとおりにした」と、更に次 の一歩を踏み出し、主の言葉に従った。すると、主の言葉通りに、 烏が朝夕に、肉とパンを運んで来た。主の奇跡だった。「そこであ なたを養う」との「そこで」が重要だ。 ケリテ川で、エリヤは養われた。ケリテ川でなければならなかった。 主の御心の場にいる事が、最大の安全だ。奇跡をもって養われる。 ケリテ川が枯れると、又、「主のことばがあった」。次々と主は導 かれる。一人のやもめに命じて、養うようにしていると。一歩従う と、次の示しが臨む。今、目の前に示しがあるなら、主に従い、そ の一歩を踏み出そう。 -------------- 主の恵みは尽きることがない。見ずに従う事には大きな不安が伴う が、信仰を持って従いたい。信じて一歩従うときに、次の一歩が見 えてくる。
2026年01月08日(木) 「・・この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たち に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているか らです」ローマ5:5
「・・この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たち に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているか らです」ローマ5:5
御言葉は、どんなに苦しい試練であろうと、必ず「希望」へ至ると 言っている。試練が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、その 練られた品性が希望を生み出すと。患難は主から来る。その患難が、 私たちの人格を練り上げてくれる。そしてその人格は、主の似姿へ と造り上げられる。最後は、必ず希望へと至る。 霊の目で見る時、患難は、大きな祝福だと。しかし、世の価値観で はどうだろう。患難は、不幸な事であり、不運であり、悪だ。その ため、避けたい、逃れたい、受け入れられないものだ。試練の度に、 「何で?」「どうして私に?」となる。ご利益宗教なら、あっては ならない事だ。 悪い事が無いための信心なので、病気やけが、苦境や悩み、問題が 起きるなら、何のための信心かという事になる。別の神に移るだろ うか。しかし御言葉は、全く違う事を言っている。患難を喜ぶと。 私たちの生きる目的は、何だろう。商売繁盛、無病息災、家内安全 だろうか。富を増やすこと、人々から賞賛を受けること、平穏無事 な一生を送ることだろうか。 又、自己実現だろうか。それなら絶対に患難を喜ぶ事はできない。 ましてや患難に希望を見出すことも無い。しかし私たちは、聖霊に よって注がれた神の愛によって、患難さえも喜んで行けるようにし て下さる。御霊の働きだ。患難により、御子のかたちへと造り変え て下さる。何と嬉しい事だろう。 -------------- 主の恵みを知っている者は、どんな場合でも恵みを信じることが出 来る。神の愛が御霊によって注がれているからだ。主に頼り、希望 を繋いでいける。 ★主が与えてくださった新しい年に感謝し、今年も朝毎に主から新 しい力を与えられて歩める恵みに感謝いたします。本年も宜しくお 願いします。