2024年12月12日(木)

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」 Tペテロ2:6



人は被造物なので、必ず何かに頼って生きている。頼らなければ生
きられない。自分は自主独立だと言う人は、自分に頼っている。主
に頼らなければ、必ず何か別のものが、心の拠り所、偶像となる。
富、愛する人、名誉、地位、人の賞賛、仕事・・何かを握りしめ、そ
れにより安心を得ている。ザアカイは、富が自分を幸せにし、夢を
叶え、喜びを与え、生涯を保障てくれると信じた。

そのため必死に富を求めた。不正で私腹を肥やし、財を築きトップ
に昇りつめた。有り余る富を得たが、罪を犯していたので、心は暗
く、喜びも平安も無かった。同胞からも後ろ指を指され、嫌われ、
軽べつされ、富は決して幸せをくれなかった。心は暗く、空虚で寂
しく孤独だった。一筋の光を、主に求め、望みを主に置いた。

主は、すでにザアカイをご存じで、主をあがき求める心を、見てお
られた。ザアカイは人々に阻まれて、主に会えないとわかると、木
に登ってまで、主のもとへ。一途な心を、求めを、主は受け止めて
下さる。「今日、あなたの家に泊まる」と前もって決めておられ
、ザアカイは大喜びで主を招いた、その時、180度変えられ、全く
の別人になった。

金の亡者が、財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った人々には
4倍を返すと。主により心は満たされてしまい、富の執着から解放
された。主は、求めを喜ばれ、求める心に、必ず応えて下さる。主
以外のもので、安心を得ているだろうか。主ご自身に向いて行こう。
決して失望させられることが無い。
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様々な事情があっても、日々、主から慰めを受けていると知ってい
る者は、恵みを感謝して生きている。ザアカイのように満たされな
いなら、認めて主に求めよう。主は近づいてくださる。


2024年12月11日(水)

「 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを 高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇 37:34


サウル王が罪を犯して、王位を退けられた時に、主により、ダビデ
が選ばれた。祭司サムエルが遣わされ、少年ダビデに会った。ダビ
デはサムエルから油注ぎを受け、主の霊がダビデの上に激しく下っ
た。イスラエルの王と定められていたが、ダビデには厳しい下積み
時代があった。

ダビデは忠実に誠実に、主とサウル王に仕えた。ゴリアテを倒した
までは、サウルの愛顧を受け良かったが、ダビデの戦いでの勝利に
次ぐ勝利で、サウルの妬みをかう事になった。女たちが笑いながら
くり返し「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌った。こ
れがサウルを激怒させた。

「サウルは千を打ち」だけなら良いが、「ダビデが万」が怒りで、
サウルのプライドはズタズタだ。結果、サウルはダビデを憎み、殺
害のためつけ狙うようになった。妬みは、人を変えてしまう。ダビ
デは槍を投げつけられた事もあり、いつ殺されるかわからない、絶
えず狙われ、死と隣り合わせの日々は、どんなに恐怖で不安だった
ろう。

ダビデはサウル王に対して何も悪い事はしていない。忠実な良い部
下だった。しかしこの期間により、主に拠りすがるダビデは、忍耐
と信仰が練られ培われて行った。サウル殺害の機会があったが、自
分で手を下す事をせず、じっと主を待ち望んだ。この厳しい苦しい
試練を通して、委ねる生き方が培われた。

私たちも、極めて厳しい苦しい状況を通る。それはゆだねる生き方
が、身につけられるためだ。実地訓練であり、通らなければ、決し
て身につかないものだ。主に拠り頼んで行こう。主を真に経験して
行ける時だ。
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試練の時に主に最も近づけられる経験をする。そこで与えられた信
仰は力だ。御霊に導かれたダビデの祈りを詩編から学ぼう。主を頼
り委ねて歩もう。


2024年12月10日(火)

「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すこ とがないように」箴言25:16 


蜜は甘くて大変美味しいが、食べ過ぎると身体に悪く、過ぎると害
になってしまう。蜜を食べすぎる事と関連して、「隣人の家に、足
しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないよう
にせよ」との御言葉がある。食べ過ぎる事が害と同様に、隣人の家
に足しげく通う事が、害になると言っている。

どんなに仲が良くても、余りにひんぱんに通うと、相手に迷惑とな
り、嫌われるようになる。喜びを与えるはずの交わりが、重荷とな
り、嫌になってしまう。隣人と、適切なふさわしい距離を保つ事は
大切だ。近づき過ぎると息苦しくなる。ある人が失敗してしまった
と証しした。趣味で意気投合し、ても、楽しく交われる相手に会え
た喜びで、足しげく通ってしまった。

最初は楽しかったのだが、余りにも近づき過ぎた結果、相手のプラ
イバシーに踏み込んで、傷つけてしまった。その結果、双方傷つい
て、離れる事になってしまった。足しげくにならず、食べ過ぎず、
適度のバランスをわきまえる事は大切だ。過不足の無い、ふさわし
い距離が大事だ。

又、一番重要な事は、慰めや励ましの心の必要を、人に求め、人に
依存するのでなく、まず主を求め、主に拠り頼むことだ。心の奥底
の必要を、決して誰であれ、人は満たす事ができない。その空洞は、
主にしか満たせない。まず主との交わりを第一にし、次に人との関
係を持つ時に、すべてが秩序立ち、祝福とされ、良い関係に導かれ
て行く。
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人に頼っていくと、ふさわしい距離がわからなくなってしまう。
一人の時間を豊かな主との交わりで、満たされたい。御霊の導きに
従って、更によい関係へと進めたい。


2024年12月09日(月)

「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私 を打つためのサタンの使いです」Uコリント12:7



パウロは、辛く苦しいとげが与えられた。とげは、容赦無く突き刺
し、どんなに激しい痛みにさいなまれた事だろう。私たちにも、今、
とげが与えられているだろうか。親子関係や夫婦関係の悩み、対人
関係のいざこざ、厳しい経済的苦境、仕事上の困難な問題、病気や
けがの痛み・・様々なとげがある。

パウロは、このとげを去らせて欲しいと、真剣に切に祈った。この
とげさえ無ければ、もっと宣教活動に専念できて、スムーズに働け
るのにと。私たちも、とげから解放されたい。この痛みを、この問
題を、とげを取り去って欲しい。何とか解決しようとするのだが、
どうにもならない。苦しい対人関係を、何とかしようとするのだが
、ますます感情的にもつれ、問題が絡み合い、溝は深まり悪化する
ばかりだ。

経済的問題を何とかしようとするが、尚も想定外の出費がかさみ、
どうなっているのか。パウロは主の御心を知らされた。「高ぶらな
いために」与えられていると。サタンからのとげであったが、主が
サタンをも利用され、へりくだらせて下さるためだった。そして主
の恵みは十分で、主の力は、弱さの内に完全に現われると。

世の価値観は根深く、強さの中だと勘違いする。が、そうでなく弱
さの中だと。弱さの中に主の臨在があり、主が現われて下さる。だ
からこそ、大いに喜んで弱さを誇れと。とげは、へりくだって主に
拠り頼むためであり、頼り続けるためだ。そこに主の力が現される。
自分を明け渡し、主に働いて頂こう。主の栄光を拝する。
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弱さや苦痛を喜ぶことは出来ないが、祈っても祈っても去らないの
は、そこに意味があると信仰によって受け止めたい。わたしの恵み
は十分であると私にも語られている。


2024年12月08日(日)

「『あなたがたは、いつまでどっちつかずでよろめいているのか。 もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、 それに従え』しかし、民は一言も彼に答えなかった」T列王18:21



エリヤは、アハブにカルメル山に、全イスラエルと450人のバアル
預言者と400人のアシェラ預言者とを集めるようにと言った。アハ
ブはそのように集めた。そこにイスラエルの人々と群衆がいた。
エリヤは、それらの人々に向けて叫んだ。「いつまでどっちつか
ずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、
もし、バアルが神であれば、それに従え」と。

心に定まりが無く、その場〃で、カメレオンようにころころ変わり、
自分に都合の良い方に従う。イスラエルは、元々神の選びの民
として、先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であるヤーウェを
知っていた。だが同時に、皆がアハブに従い、バアルやアシェラ
への偶像礼拝も、現実に行なっていた。

状況により都合の良いように態度を変えた。「冷たくも、熱くもな
い。むしろ、冷たいか、熱いかであって欲しい。なまぬるく、口か
らあなたを吐き出そう」との状態だった。ヤーウェを拝み、バアル
も拝む、このどっちつかずにより、イスラエルに偶像礼拝が大き
くはびこった。国を堕落させ、滅びへと向かわせてしまった。

主に従うのでなく、肉は、自分の欲、体面、都合と、主ではなく、
自分中心に向かう。まず、どっちつかずである事を認め、助けを
求める時、主は従う者へと変えて下さる。主の愛を知り、主ご自
身を知る幸せは何にも代えられない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつも自らの現状を認める事から祝福が始まる。肉は強く、自
分の思い通りに、好きなように生きて行きたい。払う犠牲にちゅ
うちょし、むしろどっちつかずでいたい。本心を認め、助けを求
めて、ありのままを祈ろう。主は導いて下さる。


2024年12月07日(土)

「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中 強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれ た」出エ14:21


モーセが、民を導いて出エジプトを果たし、海辺で宿営していた
時、パロの軍隊が追跡して来た。みるみる内に、そのパロの軍
勢は追いついて来た。前は海で、後ろからは追っ手という、絶体
絶命の危機だ。イスラエルの民は恐怖で、神に叫び、モーセに
文句を言った。

奴隷の苦難から、救い出してもらったにかかわらず、突如の手
の平返しだ。エジプトから連れ出したりして、一体何という事をし
てくれたのかと、不平不満をぶちまけた。その時、神は奇跡をさ
れ、海の中に道を造られた。そして、安全に無事に、民は紅海を
渡った。

あなたは今、断崖絶壁にいるだろうか、絶体絶命だろうか、神
は必ずあなたのために、道の無い所に道を造られる。「あなた
の道は海の中にあり、大水の中にありました。そのため、あな
たの足跡を見た者はない」と。その道は、隠されていて見えない。
しかし信仰持って前進すると、道が目の前に現れて来る。海が分
かたれ、道が備えられていたように。

ある人は進路において経験した。受験が想定外の結果で、不合
格だった。希望が断たれ、目の前が真っ暗だ。どうすれば良いの
か、祈りに祈った。その時に、道が海の中にあった。目の前に突
然道ができて、留学の道が開かれた。思いを越えた恵みだった。

ある人は、経済的苦境で、進学を断念しようとした時、ある方面
から突然の援助が与えられ、道が造られた。あなたも振り返る時、
海の中に道があった事だろう。これからも主は、道無き所に道を
造り、私たちを安全に導いて下さる。私たちは前進して行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生で、幾度も絶体絶命の海の中に道があった。だからこ
そ、今がある。信仰が守られ、保たれている。当然ではなく、主
によることだ。感謝しかない。これからも道無き所に、道を造って
導いて下さる。


2024年12月06日(金)

「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石 がパンになるように、命じなさい』」マタイ4:3



主は「御霊に導かれて」、荒野で悪魔の試みに会われた。40日間の
断食後で、まさに限界で、生きるか死ぬかの状態だ。その状態の主
に、悪魔は誘惑して来た。神の子で何でも出来るのだから、目の前
の石をパンに変えて、自分でパンを作れと。「このままでは確実に
死ぬ。神はパンを与えてくれないのでは?」との疑いを吹き込む。

「神に頼っていたら、らちがあかないのでは」「この局面では、自
分で何とかした方がいいよ。出来るのだから」と。「死んだら、人
類の救いも元も子も無いではないか」「とにかく命を保つことが第
一」、あなたにも、こんな誘惑が来るだろうか。「祈りなんて時間
がかかるし、さっさと自分でしてしまえば。

すぐ出来るよ、それでうまく行けばいいじゃない」「結果、オーラ
イだよ」「自分でやった方が早いよ。御心にかなった事なんだし」
と。それこそ、今ここで死ねば、元も子もない。自分の使命はどう
なるのか。まずはパンを食べて、とにかくは生き延びねば。

神に頼り続けるなら、あたかも餓死するかのように思わせる。「自
分で調達すれば?」神のためなんだからと、自分の判断で動き、自
力で事を行なうように仕向ける。サタンの巧妙な誘惑だ。しかし神
の口から出ることばによって生きる。どこまでも神の言葉の下に自
分を置いて、従うことが信仰だ。

神は必ずパンを与えて下さる。パンが命を造るのでなく、神の言葉
が命を造る。神への信頼を崩そうと攻撃して来る、サタンの巧妙な
誘惑と攻撃ををわきまえていよう。そして祈っていよう。
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ふいに焦らされ、主に頼らず自分で動くように誘惑される。サタン
の声を疑って祈ろう。主の御言葉には、いのちと喜びがある。主の
確実な御言葉を蓄えて、真実な言葉に変換したい。


2024年12月05日(木)

「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。 そこでモーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会が集まって いる前でひれ伏した」民数記14:5



モーセは、カナンに12人の斥候を遣わした。そしてその報告を聞い
た。10人は、民は強く、巨人たちもいて、城壁は大きい。とても攻
め上れないと、非常に恐れた。それを聞いた民は恐怖で怯え、ひど
い不信仰に陥った。その不信仰は全体に伝染した。主の約束された
地にかかわらず、エジプトにいて、エジプトで死んでいたらよかっ
たと、恐怖と不満で一杯で、皆でエジプトに帰ろうとまで言い出し
た。

更にヨシュアとカレブを殺そうと言い出す。主は「いつまで信じな
いのか、わたしを侮るのか」と。つぶやいた民は、カナンに入れず、
荒野で滅びると言われた。するとそれを聞いた民は、今度は「罪を
犯した。とにかく言われた所へ行こう」とカナンへ上って行く。モ
ーセは、主が共におられないから、行くなと止めた。

しかし上って行き、ものの見事に敗北する。行けと言われれば行か
ず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりだ。民の姿
は自らの姿だろうか。主に従うために「時」がある。時を逸しては、
手遅れだ。後から従おうとしても、もう時遅しだ。民は斥候が戻っ
て来た時に、自分の思いでなく、信仰に立つべきであった。

主の約束に立ち、カナンへ入って行くべきだった。頑なにそうせず
に後悔するが、時遅かった。主の御声は愛だ。愛による語りかけだ。
主の愛に応答し従って行く時、更に主の愛を知る。今、示しがある
なら御声に従おう。従う時、更に神の愛を経験して行く。
-------------
状況だけを見て、ぱっと決めてしまう。時々の感情で御言葉を忘れ、
右に左に動揺してしまう。一歩、一歩を主に頼り確信の中を歩みた
い。祈り御声に従おう。


2024年12月04日(水)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住み ます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」 ルツ1:16 


                         
ナオミ一家は、ベツレヘムがききんになった時に、糧食を求めてモ
アブへ移住した。それは異教の地、偶像の地だった。約束の地に、
神のもとに、とどまらずに出て行ってしまった。家族の幸せを求め
てのはずが、モアブで夫が死に、二人の息子も死んでしまった。異
国の地で、ナオミの苦労はどんなものだったろう。ききんは辛いが、
遙かに苦しむ選択をしてしまった。

苦しいききんも忍耐すれば、必ず主が助けて下さり、また豊作へと
導いて下さる。私たちもどうだろう。試練は痛く苦しいが、そこか
ら逃げて、別の選択をしても、それは結果的に、更に苦しみを増す
事になる。ナオミは、約束の地にとどまるべきだった。私たちも、
主からの試練を逃げないで、避けないで、受け入れる事が一番の祝
福だ。受け入れることは難しいので祈ろう。そうできるよう助けて
下さる。

試練は、私たちの益のためのものだ。その時は、痛く辛く悲しいが、
必ず平安の実を結ぶ。そして、私たちを聖くするためだ。やがて故
郷が豊作であることを耳にし、ナオミは、約束の地に戻ろうと立ち
上がった。肉の行ないには、苦しい刈り取りがあるが、しかし、尚
も主は恵み深く、あわれみは尽きず、嫁のルツという、大きな慰め
を与えられた。私たちにも、試練を通して、主からの「ルツ」が与
えられている事を知る。苦しみと共に大きな慰めが、いつも備えら
れている。
-------------
試練はできるだけ避けたいと祈るが、試練の中で経験する主の守り
と慰めは最大の祝福だ。主こそ祝福の源だと知れる。試練も主から
のものと受け入れられるように祈りたい。


2024年12月03日(火)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」 Tサムエル1:10



当時、士師の時代で、その霊的状態は、暗黒だった。人々は堕落し、
偶像に走り、主の目に悪を行ない、皆が、自分に正しいと見える事
を行なっていた。そんな霊的暗闇の中で、主は、新たな霊的指導者
を起こそうとされた。そのために協力者が必要であり、主はハンナ
を見込まれた。ハンナの胎を閉じる事により、彼女の切なる祈りを、
引き出そうとされた。

ハンナは苦境の中にいた。不妊であり、当時、不妊は、神に祝福さ
れていないとの迷信があり、周囲の白い目が辛い。もう一人の妻ペ
ニンナは、ハンナが夫から愛されている事に、ひどく嫉妬していた。
そのためハンナをいじめ、攻撃していた。ハンナにも、子どもを持
つペニンナに対する、様々な思いがあったろう。

夫にも、ハンナのデリケイトな気持ちは理解されず、孤独な辛い中
にいた。ハンナは、厳しい苦悩により、主のもとに追い込まれた。
「ハンナは立ち上がった」とあり、決意して祈りのために立ち上が
った。御前で激しく泣き、嘆き、怒り、痛み、悲しみを何もかも吐
き出した。切なる祈りの中で、「その子を一生あなたにおささげし
ます」と、献げる決心へと導かれた。

ハンナは祈り終えた時、すっきりし平安になった。帰宅して食事を
した。もう以前の顔ではなかった。私たちも経験する。心を注ぎ出
し祈ることで、状況が変わる前に、まず自分の内側が変えられる。
御父に自分をゆだねるので、状況は同じでも、心が落ち着き、平安
が与えられる。そしてハンナの祈りは見事に答えられ、サムエルが
産み出された。霊的指導者として立てられ、用いられて行った。
-------------
切なる悲しみを祈り、主に委ねられたとき、悲しみが取り去られる
ばかりか、御心にかなった新たな決心が与えられた。悲しみが新し
い希望へと変えられて行く。なんと感謝なことだろう。


2024年12月02日(月)

「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、 みことばに聞き入っていた」ルカ10:39


マルタとマリヤのよく知られている箇所だ。マルヤもマリヤも、主
を大歓迎し、もてなしたいと願った。姉のマルタは、主と弟子たち
が、心地良く過ごせるために、きれいに掃除し、料理の献立も、懸
命に考えた事だろう。強いられて嫌々でなく、喜んでした事だった。

しかし、夕食の時刻が迫り、焦り、イライラピリピリして来た。急
がなければ、料理が間に合わない。喜んで始めた事が、重圧となり、
いら立ちとなる。油切れ状態だ。そんな時にマリヤを見ると、何も
せず、座っているではないか。なぜ手伝わないのか、腹が立ち、主
に文句を言う。だがマリヤは、何もせず怠けているのでなく、一心
に主の言葉に聞き入っていた。一言も聞きもらすまいとの、真剣さ
だった。

そして主はマルタに「どうしても必要なことは、一つだけ」と言わ
れた。これ以上に大切な事はないのだと。みことばを聞く事は、非
常に重要な事だ。まず聞かない限り、従う事ができない。何をして
従えば良いかわからない。つまり、みことばを聞く事は、主を愛す
ることだ。しかし容易な事ではない。人は、動く方が楽なのだ。
とにかく動く事で、奉仕で、主を愛していると思いたい。

だが、主は、みことばを聞く事が、どうしても必要な、ただ一つの
事と言われた。「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほ
んとうにわたしの弟子」「わたしにとどまり、わたしのことばにと
どまるなら・・叶えられる」と。まずみことばを聞き、示された通り
に従う時に、喜びと平安に守られる。
--------------
時間がない、祈っている暇はないと、焦ると本気で思ってしまう。
なんと的外れなことだろう。忙しい時ほど祈り、よく主と交わって
から動き始めたい。主の平安を受け取ろう。


2024年12月01日(日)

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」 創世記11:1



有名なバベルの塔だ。初めは、全地は一つの言葉だった。
互いに交流し、意思疎通ができた。そんな頃、人々はシヌア
ルという住み良い平地を見つけ、定住した。彼らは、神から
れんがを作る技術が与えられ、れんがとれき青で、建築物を
作る事ができた。対話もでき、肥沃な地に住み、素晴らしい
建築技術も与えられ、すべては主からの賜物であり、恵みで
あった。豊かな祝福であった。

しかし、「その内に彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」
と言い出した。主に感謝し、主を崇め、栄光を主に帰するの
でなく、その動機は「自分たちのために」であった。自分の名、
名誉、賞賛と、「自分」が神の位置に着くようになった。神から
与えられた能力を、自分の欲と栄光のために使うようになった。
「自分が」「自分の」自分、自分、これがアダムからの罪だった。

「その内に」とあり、最初は良かったのだが、途中で、方向性が
狂って来た。「我々が散らされるといけないから」と。主はノアと
息子たちに「生めよ、ふえよ。地に満ちよ」と祝福され、地に満
ちて行くようにと。その主への反逆であった。主は言葉を乱し、
意思疎通をしゃ断された。

その結果、塔建築が不可能になり、「彼らは建てるのを止めた」。
主が介入され阻止された。そして人々は全地に散らされた。高慢
による事であった。私たちも、どうだろう。言葉が通じず、気持ち
が通じない時、秩序が乱れる時、そこに神を忘れ、「自分が〃」
の高慢がないだろうか。まず主を仰ぎ、主の前にへりくだる時に、
そこには御霊の一致がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「自分が、自分が」になっている時、肉がサタンに誘惑され、耳
を貸している時だ。神に頼らず、自分の思いと力で歩んでいる。
人とまさつを起こし、主と正反対の方向に向かっている。御霊
が、己中心に気づかかせて下さることが感謝だ。