2022年07月07日(木)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中に とどまります」ヨハネ15:4



自分のプランや予定が、思い通りに行かずに、イライラして怒りが
湧いたり、又、失望して落ち込んだりした経験があるだろうか。目
の前に障害や妨害が出てくるのだ。ある人がある時、職場でイライ
ラ〃が募り、怒りがこみ上げ、腹が立って仕方がない。抑えられな
いほどのイラ立ちに襲われた。

部下の調査書の期限は遅れる、ミスはある。上司の言動に腹が立
つ、
プロジェクトはなかなか進まない、すべてがストレスで我慢がなら
ない。平安が全く無い。そんな中、昼休みに会社近くの河原に出
た。
一人になり、主と交わった。

御前に静まり、祈りつつ怒りやイラ立ちの原因を考えた。すると、
状況や相手がどうのでなく、「自分」の思い通りにならないから、
イラ立っている事に気づかされた。「自分」が問題ではないか。自
分で自分を窮屈にしている。自分の思い通りにしたいという強烈な
自我に行き着く。

そのため平安も喜びも失い、主から離れていたと。御前に悔い改
め、
今一度自分をゆだねた。主のみ思いがなりますようにと祈った。昼
休憩が終わる頃には、あれほどのイライラピリピリが消えて、心は
すっきりして、平安にされていた。

日常でどうだろう。イライラするのは、自分の思い通りでないから
だろうか。そして自分で、どうこうしようとしている時だろうか。
主のもとへ行き、主と交わろう。そこから新しい力が来る。
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自分の思いが通っている時には気づかないが、行き詰まり、主に気
づかされるときが感謝だ。変わっていける。絶えず主に繋がり、主
に喜ばれる方へ、御霊の実を結んでいこう。


2022年07月06日(水)

「・・すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行 って住んだ」T列王17:5


カルメル山でのバアルとの壮大な闘いの前に、主はエリヤをケリテ
川に退かせられた。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と。アハブ王
から守り、そして人のいない場所で、充分な主と交わり、霊的養
い、
整えを与えるためであった。

密室での主との交わりが、まさに働きのため、又、信仰生活のため
の土台で、原動力だ。植物は根が下に強く張っていなければ、上に
伸びて行けない。人に隠れた密室での交わりは、その根に当たる。
色々な人々が証しをしている。

激務で仕事に追われていた中、過労で倒れてしまい、入院の事態
に。
最初はガックリ落胆してひどく落ち込んだが、主からの静かな時間
だと気づけた。主の前に座るようにと。目の前の事に追われ、デボ
ーションは、後回しに、二の次になっていた。

それが、主との幸いな交わりの時とされ、主に立ち返れた。休養が
必要となり、寝床で天井を見ている間に、一番大切なものは何なの
か、人生このままで良いのかと、立ち止まる時とされ、優先順位を
正される時とされた。私たちも、時にケリテ川が与えられる。

病気のケリテ川や、失意のケリテ川、失敗のケリテ川、別離のケリ
テ川、悩みや問題のケリテ川、悲しみや痛みの中で、しっかり主と
向き合い、交わろう。主を仰いで、御声を聞こう。主はそこで豊か
な霊の養いを下さり、必要を与えて下さり、新しい力を下さる。
御言葉を与えて下さる。
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信仰人生の中でしっかりと主を仰ぐ時を与えられる。御言葉を聞
き、
祈り、真剣に御霊の声に耳を傾ける時。それぞれのケリテ川で、主
は豊かに養われる。新しい力を受けとろう。


2022年07月05日(火)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来 なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28



現代はストレスの時代と言われているが、私たちも無意識にもスト
レスを受けているものだ。学生は勉強が、会社員は仕事が、職場で
の対人関係が、主婦は家事がストレスだろうか。又、悩みや困難を
抱えると大きなストレスとなる。どうする事も出来ない悩みを抱え
る時、身体まで壊してしまう。

重荷に苦しむのは、重くて担いきれないからだ。対処できる荷な
ら、
重荷とならない。人生で時にこの重荷を経験する。そのような中、
主が、「すべて」「重荷を負っている人は」「わたしのところに来
なさい」と言って下さるのは、何と良い知らせだろう。

「わたしがあなたを休ませてあげます」と。数え切れない人々が主
のもとへ行き、その通りに休ませて頂いた。ある人が、突如の重い
病の発覚。ショックで途方に暮れた。茫然自失で、どうして良いか
わからない、なすすべの無い中、「わたしのところへ来なさい」と
の主の言葉に、祈りに持って行こうと、主のもとへ行った。

ポツリポツリと、暗い心の内を告げ、大きな不安や恐れを、あるが
まま告げて行った。心を打ち明け、注ぎ出し、主に助けを求めて祈
っていると、不思議に、あんなに押しつぶされそうだった心が、落
ちついて来て、自分でも驚いた。そしてこの事を、主に明け渡し
て、
すべてお委ねした。

主にすべて知って頂き、受け止めて頂いた事で、心が落ち着いた。
そうしていると、色々な情報があちこちから寄せられ、良い医師と
出会いがあり、治療の道筋が導かれて行った。共に負って下さる主
と共に、治療に向き合える幸いに心から感謝した。
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主に委ねたつもりでも次々と新しい不安が来る。不安に心が安まら
ないと主は遠くに思えてしまうが、実は今こそ主と最も近い。傍に
いて聞いてくださる主に、何度も訴え少しずつ重荷を渡していこ
う。


2022年07月04日(月)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方 ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださ います」Tヨハネ1:9



ある人が、以前に犯してしまった罪を悔い改め、主の十字架の血潮
により赦して頂いた。その時は平安になるのだが、しばらくする
と、
その罪が思い出され、悶々とする。又、悔い改めて、ほっとするの
だが、又、罪を思うと苦しくなる。そんな事を繰り返していた。段
々と、それがサタンの攻撃である事を気づかされて行った。

そして自分は罪が完全に赦された事を、しっかり受け取っていない
から、サタンから思いの火矢が来るとすぐに動揺し、混乱してしま
う事を。根本的に、信じ切れていない不信仰を示された。「自分の
罪を言い表すなら・・その罪を赦し」はっきりと赦すと言ってい
る。

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」「た
とい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くな
る」
「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たち
から遠く離される」そして「イスラエルの咎は見つけようとして
も、
それはなく、ユダの罪も見つけることはできない。

わたしが残す者の罪を、わたしが赦すからだ」。主が赦して下さっ
た罪は、見つけようとしても見つけられないと。自分がどう感じる
かでなく、自分の感覚でなく、御言葉を真実として、御言葉に立と
う。
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サタンはいつも自分だけを見せようとする。真実は罪は十字架によ
って赦されているということ。主の犠牲だけがそれを成し得る。心
から感謝して受け取ろう。そして恵の光の中を歩もう。


2022年07月03日(日)

「彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持 って、彼の前方に立っていた」ヨシュア5:13



モーセに導かれ、出エジプトを果たした民は、厳しい荒野を経た。
そして次のリーダーヨシュアのもと、ついに約束の地カナンに入っ
た。だが、すぐに最初の難関に直面する。エリコの頑丈な城壁が、
目の前にそびえ立っていた。私たちの人生においても、様々な困難
が行く手に立ちはだかる。ヨシュアは厳しい状況に直面していた。

そんな時に、一人の人が抜き身の剣を手に持ち、前方に立っていた。
今にも戦おうとの気配だ。驚いたヨシュアは思わず「あなたは味方
か敵か」と問うた。まず、どうしても、敵・味方で考えてしまう。
しかし相手は、敵とも味方とも言わず「主の軍の将として来た」と
答えた。敵でないなら、味方ではと思うが、そうでなく「軍の将」
ヨシュアの上に立つ将だと。

「あなたでなく、わたしがリーダー」だと。するとヨシュアは地に
伏し拝み、「〜して下さい」との願いではなく「何を告げられるの
ですか」と、主の御心を問うた。すると「あなたの足のはきものを
脱げ」と言われた。自分の思い、考え、方法、自分の力を「脱いで、
明け渡して」、主に従うようにと。「あなたの立っている場所は聖
なる所」と。主が共におられる場所だ。

「そこでヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは言われた通りに、
はきものを脱いで、自分の思いや力を、いっさい明け渡して、主に
言われた通りに従った。するとエリコの城壁は目の前で見事に崩れ
落ちた。私たちも今、エリコの城壁が立ちはだかっているだろうか。
苦しい、困難な状況にあるだろうか。しかし主が目の前におられる。
自分が立ち向かうのでなく、そうでなくへりくだって、はき物を脱
いで、主の示しに従おう。目の前で、城壁が崩れ落ちるのを見る。

・・・・・・・・・・・・
ああして〜、こうして下さい〜に、なりがちだが、「何を告げられ
るのですか」の祈りは大切だ。主は、私に対して、何を思い、どん
な御心を持っておられるのか、主に問おう。示された御心に従う時、
主のみわざを見せられ、新たに〃主を知って行ける。


2022年07月02日(土)

「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しい さばきをしてくださいます」ルカ18:8



ある町に神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。この人は
裁判官だが、人を人とも思わない人物だと。まず神を恐れないため、
人を人と思わない事になる。やもめが、裁判を求めて、ひっきりな
しに訴えて来るのだが、同情や思いやりのかけらも無い。必死であ
り、せっぱ詰まった辛い事情があるであろうに、何とも思わず、何
も感じない。眼中に無いかのようだ。

しかし、やもめが余りにもひんぱんに来るので、迷惑であり、仕事
にも差し触るので、うるさいから裁判をする事にした。裁判が実現
したのだが、それはあわれみの心や愛情からではなく、うるさくて
仕方が無いからの理由であった。こんなどうしようもない裁判官で
も、執拗に願い続ければ、裁判になった。

そうであれば、ましてや私たちを独り子を与えるほどに愛して下さ
っている神が、私たちの訴えを、正しい裁きをつけずに放置される
わけがないと。そういう事を言っている。「ましてや神は」がキイ
だ。とんでもない人物と神を対比させている。この人物は、あくま
でも自己中心な理由だったが、神はそうでなく、どこまでも私たち
を愛して、私たちの最善を考え、正しい裁きをして下さると。

だから失望せずに祈り続けよと。大事な事は、祈り倒せば良いので
なく、祈る相手がどのようなお方かという事だ。神は最善以下をさ
れない。すみやかに正しいさばきをして下さる。だから、答えが遅
れていても、必ず「神の時」に答えが来るので、「失望せずに」祈
り続けよと語られている。

・・・・・・・・・・・・
主は、執ような祈りに、うるさいから答えて下さるのでなく、愛し
慈しんでいて下さるから、答えて下さる。先も見通しておられ、何
もかもご存じだ。今、祈っている祈りを引き続き祈ろう。最善の時
に答えを下さる。「失望してはならない」を心に刻もう。


2022年07月01日(金)

「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、た ゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え・ ・」イザヤ40:28



私たちは、時に心身疲れ果ててしまう。「若者も疲れ、たゆみ、若
い男もつまずき倒れる」とあり、どんなに活力みなぎった若者も、
疲れ、倒れてしまうと。そんな時、どうすれば良いのだろう。次の
節に鷲の事が出て来る。鷲は翼をかって高く舞い上がる。そしてど
んなに高く上っても疲れる事が無い。それは自力で舞い上がるので
は無いからだと。

鷲は、じっと風の流れを待っている。じっとただ待つ。そして気流
が来た時に、その上昇気流に合わせて、それに乗じて、一気に舞い
上がる。だから自分の力は必要無い。そのため新たに舞い上がるた
めに必要な事は、「主を待ち望む」事だと。自分でどうこうする事
ではない。

そこには思い煩いも不安も、焦りも、急く事も、慌てる事もなく、
ただじっと風を待てばよい。それは御霊の導きを待つことだ。御霊
の導きが来たなら、鷲が気流に乗ってかけ上がるように、御霊の導
きに従う。そして自力ではなく、主にゆだねて従うことだ。主に明
け渡して、主の力に任せるので、疲れることなく、たゆむことがな
い。

しかし気流に乗るのでなく、自力で舞い上がろうとしたらどうだろ
う。気流に乗る事なく、翼をバタつかせているなら、疲れ果ててし
まう事が目に見える。主を待ち望む者は、新しい力を得る。今、主
を待ち望もう。御霊の導きが来たら、すぐ従おう。そうできるよう
祈ろう。
------------
自力でしなければと思うと心はそわそわ騒がしく、主の御声を聞く
ことができない。心が静まるように祈ろう。焦りも恐れも主に委ね
て主の時を待ち望もう。