2026年08月08日(土)

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始 めた。『・・そんなことが、あなたに起こるはずはあ りません』」マタイ16:22



主は、ペテロに「あなたがたは、わたしをだれだ
と言うか」と問われると、「生ける神の御子キリス
ト」と正しい立派な答えをした。しかしその直後、
主が十字架と復活を話されると、ペテロは主を
いさめた。「そんな事が、あなたに起こるはずが
ない」と。主の十字架を「そんなこと」と言い、「起
こるはずがない」と否定した。

主はそれを「サタン」といさめられた。十字架を否
定して、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにす
れば、主の事を思い、主のために言ったつもりだ
った。しかしそれは、人間的な思い、肉の価値観
であり、悪魔の思いと合致し、主のみ思いと正反
対のものだった。本人は良いと思い、正しいと思
ってする事が、実は悪魔に誘導されていて、罪を
犯す事になる。

本人は主のためを思い、正しいと思っているだけ
に、ストレートな罪よりもやっかいだ。「あなたは
神のことを思わないで、人のことを思っている」。
悪魔に欺かれ、肉に進む時は、「神の事を思わな
いで」神ではなく、目に見える人と、世の事に心
が持って行かれている時だ。思いに神が無く、肉
に流される。

又、人の賞賛、誉れ、人の愛で心を満たそうとす
る時、悪魔にだまされてしまう。主からの栄誉よ
り、人からよく思われたいとの、肉の思いに引っ
張られる。悪魔は非常に狡猾だ。肉で主を思う
と、間違ってしまう。御霊により肉の価値観、悪
魔の攻撃に気づかせられるよう、祈っていよう。
御霊は気づきを与えて下さる。

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罪を犯すつもりでなく、自分では、良い事に思え
るので、やっかいだ。良かれと思っての事なので、
自分では、なかなかわからない。しかし御霊は気
づかせて下さる。交わりの中にいよう。


2026年08月07日(金)

「・・いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何 が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわ きまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」 ローマ12:2



私たちは、必ず試練に会うが、その時に、どっと不安、
恐れ、思い煩いに襲われる。人間は、どうしても悲観的
な方向に思考が向かう。しかし主は、その時にこそ忍耐
が生まれるのだと。その忍耐を十分働かせるようにと。
忍耐とは、漢字を見ると、ただ〃じっと我慢して、忍ぶ
という印象を受ける。

しかしそんな消極的な事ではなく、主が、必ず良くして
下さると信じる、積極的な、前向きな事だ。試練を逃げ
ずに受け止め、主を仰ぎ、「主は最善をして下さる」
「このトンネルは必ず出る」「ひとり子を与えて下さる
ほどに愛されている」と堅く信じて行く時に、不思議に
否定的に向かう自分が変えられ、心平安にされる。

そして霊的成長を遂げて行くと。つまり霊的成長とは、
自分が変えられて行く事にある。例えば対人関係で、相
手とギクシャクする時、合わないと思う。それは相手の
悪い態度のせいで、相手が悪いと。が、実は、自分を変
えたくない。自分は被害者だと思い、相手が悪く、自分
は正しいと思っている。

そうではなく、へりくだろうとする時、自分が変えられ
る。御霊の働きだ。自我やプライドが邪魔するだろうか。
しかしへりくだるなら、遙かに良きもの「平安」を得る。
何にも代えられない。「何事でも自己中心や虚栄からす
ることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐ
れた者と思い」相手を自分よりすぐれた者と思い、御前
にへりくだるなら、変えられて行く。
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試練のたびに自分は少しも変わらないで否定的な思いの
ままだろうか。主を信じ、信仰によって新しくされたい。
いつまでも変えられて行こう。



2026年08月06日(木)

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケド ニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて・・福音 を宣べさせるのだ、と確信したからである」使徒16:10



信仰生活で、主の導きを求める時がある。その時に、
「環境」をよく見る事は大切だ。パウロは二度も環境に
より、行く手を阻まれた。「アジアでみことばを語る事
を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った」

ビテニヤに行こうとしたが、環境により、主のストップ
がかかり、トロアスに下った。つまり状況的に、何らか
の障害により進めなくなった。東から来て、南も北も閉
じられたので、残りの西に向かった。阻止の理由は、主
のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだった。

もし御霊の阻止がなければ、御心と違う方向へ向かって
いた。御霊の阻止は、私たちを正しい方向へ導いてくれ
る。私たちにも主のプランがあり、時に行く手にストッ
プが入る。自分には思いがあるが、門が開かれず、状況
が整わないなら、それは主の御心ではない。

もし入試、就職試験が不合格なら御心でない。「ノー」
が答えであり、御心は別の所にある。しばしば阻止され
ると、導きを失ったように感じ、迷子になった不安、心
細さを覚える。だがそうでなく、そこが御心でないとい
う「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。

環境の閉じ開きにより、導きを知れる。門が開かれたな
ら、その方向に進めばよい。御心の門は、目の前で、ひ
とりでに開いて行く。主が開かれるからだ。断じて自分
で門をたたき割り、進むのではない。必ず目の前で門が、
開かれる。御言葉、祈りによる平安と共に、状況をよく
見ていよう。
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主の導きによって与えられた地には、必ず平安と祝福が
待っている。目の前は不安であっても、思いを明け渡し、
信仰の目で見ていけるよう祈っていよう。


2026年08月05日(水)

「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを 大いに喜ぶ人は。」詩篇112:1



人は、悪い知らせを非常に恐れる。悪い知らせは、日常
に襲いかかる、どう猛なライオンのようだ。恐怖を感じ
る。世の人々は、悪い事が起こらないための信心だ。家
内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣・・ひたすら順風
満帆を願う。

ある人は、喜ばしい、幸せな事が続くと、不安でたまら
なくなると。このような幸せが続くはずがない、今に、
必ずひどい事が起きると思う。そのため、その喜びの最
中にも、心底から喜ぶ事ができず、不安で仕方がないと。

私たちはどうだろう。恐れや不安のほとんどは、まだ起
きていない事に関する事だ。先の事は全く見えないので、
悲観的にとらえてしまう。このような事態になっても
「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるが
ない」とある。そして「心は堅固で恐れる事なく、自分
の敵をものともしないまでになる」と。

その心はどんなに平安で、幸せだろう。どうしたらそう
なれるのだろう。「主に信頼して」とあり、「主に信頼
する」ことが答えだ。自力により、肉の頑張りによって、
物事に動じない、強い心を持つのではない。主が、状況
をすべてご存じで、掌握されている。

敵をも御手の内にあり、すべての権威を持つ主を信頼す
るところから、平安が来る。詩篇に「ハレルヤ。幸いな
事よ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」とある。
不安定で揺れ動き、移り変わる状況に振り回されるので
なく、主に信頼し、「その仰せ」不変の御言葉を握る時
に、平安の中に守られる。
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自分は主によって救われ、守られていると確信し感謝し
て生きる人生は何と幸いだろう。危うく弱い者であって
も主の御約束がある。御言葉に立っていたい。


2026年08月04日(火)

「・・彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも 恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出 されるものは、みな、光によって明らかにされます」 エペソ5:12



ある人に高齢の母親がいて、家事が困難になり、ヘルパ
ーを雇った。ところがそのヘルパーが来るまでに、母親
が家を大掃除するので、余計に大変な事になった。こん
な汚ない所に、人を上げられないと。私たちも、どうだ
ろう。来客時には、見えない場所に、別の部屋にすべて
を押し込んで、外側きれいにするだろうか。

見た目はきれいだが、見えない所は、ぐちゃぐちゃだ。
私たちは、御霊をこのように迎えていないだろうか。応
接間にだけ通し、プライベートな部屋には、入られたく
ない。都合の悪い部屋には鍵をかける。きれいな所だけ
を見せて、自分の醜い、弱い、汚れた所は見せたくない。

御霊にも隠しておきたいだろうか。これが肉に従って生
きる事だと。「肉に従うなら死に、御霊によって肉の行
ないを殺すなら、生きる」と。御霊によって殺すとは、
御霊の光に。自らの醜い、見たくない姿をさらけ出す事
だ。照らし出していただく事だ。醜い、汚れた、そのと
ころに御霊に来ていただく。

「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら
かにされます」「明らかにされたものはみな、光だから
です」と。隠されているものは、暗やみだ、しかし明る
みに出されたものは、光となる。プライドが邪魔するだ
ろうか。だが、心の闇がどんなに深くても、光が射し込
めば、そこはもう闇ではなく、光だ。
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光に照らされると全てのものが明らかになる。罪を認め
る事ができ、悔い改めが与えられ対処していける。全て
に光が与えられること、何と感謝だろう。



2026年08月03日(月)

「私には、善をしたいという願いがいつもあるのに、 それを実行することがないからです・・自分でしたいと思 う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なって います」ローマ7:19



アダムとエバは、悪魔に誘惑され、主が禁じられた「善
悪の知識の木」から取って食べた。その結果、善と悪が
わかるようになったが、善を行う力は無い。それは、善
悪が「わかる」だけで、善に生きる事はできない。悲惨
な事になった。

悪魔が、食べるなら「神のようになり」と言ったが、違
った。善の知識があるが、自分の内に善が住んでおらず、
善は無い状態だ。パウロが苦しみ、「私の内に善が住ん
でいないのを知っています」と告白した。善を行なえる
と思い、頑張るが、善が住んでいないので不可能だ。

その私たちが、頑張って行なう善とは偽善で、偽善しか
できない。真の善は不可能だ。だからこそ、御父は御子
キリストを与えて下さった。どれだけ頑張っても、善は
行なえない事を知る時、祝福の道筋にいる。主に、ギブ
アップする事だ。自分の内に善が無い事を知った人が、
初めて真剣に主に頼る。

それ以前には、主に頼る事は出来ない。自分に頼ってい
るからだ。何とか頑張れば出来ると思っている。そして
肉は、自分の能力を誇りたい。能力を人に認められたい。
そこそこの無力は認めるが、どん底まで完全無力は、余
りにも惨めで認められない。プライドだ。

しかし、徹底無力を認めた時に初めて、十字架の血潮が
自分のためであり、完全に赦され、おおわれている実感
が来る。その時、自力でなく、御霊により善を行なえる。
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そこそこの努力で一喜一憂しているのではないか。無力
を認め、主に感謝し、御霊に導かれて進みたい。絶望の
中に、十字架の恵みが備えられている事に感謝だ。


2026年08月02日(火)

「モーセとアロンはパロのところに行き、そして言 った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『 わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭り をさせよ。』」出エジプト5:1



モーセが、民をエジプトから救出するために、パ
ロに立ち向かう。神の様々な超自然の奇跡によ
り、災いの苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯し
た」「悪かった」「私のために祈ってくれ」という、
一見悔い改めのような言葉を発するが、その災い
が鎮静化するや、すぐに頑固な元の姿に戻る。

これは、それらしき言葉を言うが、心の底では思っ
てはいない。真の悔い改めなら、必ず良い実を
結んで行くはずだ。神は「わたしが主であることを、
あなたがたが知るため」に、しるしを行なわれる。
しかし、パロにとっては、様々なしるしが、主を知
る事にはならず、脅しみたいなものだった。だか
らその脅しがひくと、再び強情で頑なになった。
元の姿だ。

私たちはどうだろう。もし高慢になっているなら、
神はへりくだるように苦しみを送られる。これは
神の懲らしめの愛であり、放っておかれるほうが
悲惨だ。しかしその苦しみをパロのように単に脅
しに取るなら、確かに悔い改め、反省し、正すの
だが、その苦痛が除かれると、すぐに元に戻る。
本当は自分が悪いとは思っていない。

結局、古い肉の自分のままで、何も変わらない。
真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事はな
い。しかし、御霊に導かれ、へりくだった、真の悔
い改めは必ず結実して行く。悔いくずおれたたま
しいに、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
神のみこころにそった悲しみと、世の悲しみがある
と言われている。世の悲しみは単なる後悔だが、
御霊が導かれる時、悔い改め、向きを変えさせて
下さる。御霊に従おう。


2026年08月01日(土)

「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯 しました。私はあなたが私をとどめようと道に立 ちふさがっておられたのを知りませんでした』」 民数記22:34


主は試練を送られると、聖書に繰り返し記されて
いるが、私たちは、痛い事、苦しい事は避けたい
と思う。痛い目には会いたくない。又、問題が起
きると、スムーズな歩みが阻止される。悩み苦し
みのため、先に進めない。そんな苦しみが好き
な人などいない。辛い事態を、避けて通りたい
と思う。何とか逃れたい。

しかし、愛なる主は、私たちが間違った方向へ
進まないために、行く手に障害物を置かれ、と
どめられる。苦しみは、私たちをストップさせる。
うまく行かない事は、不運でなく、たまたまの事
でなく、まさに主の取り扱いだ。主が量って与え
られたものだ。偶然は無い。目の前に、立ちふ
さがる相手を責めるのでなく、主の取り扱いを
認めよう。

その状況の中で、主からのメッセージを受け取
ろう。何を教え、何に気づかせたいのか。今、
あなたの行く手が阻まれているなら、状況でな
く、まずそこに主を認めよう。主が立ちはだか
っておられる。その道は、御心と違う方向かも
知れない。主はバラムに「彼らと一緒に行って
はならない。その民を呪ってもいけない。祝福

されているからだ」と言われた。しかしそれでも
尚、出て行くバラムに、主の使いが立ちはだ
かった。目の前の状況に、主を認め、自分の
思いを退け、主のお心を尋ね求めよう。必ず
正しい道に導き、大いなる祝福を与えて下さる。 

・・・・・・・・・・・・・・・
目の前に歩みをとどめる障害物が来た時には、
主のみこころを求めて祈ろう。今までも、阻止を
通して守られたり、考えさせられたり、沢山の学
びを与えられた。まず祈りに持って行こう。