2026年06月21日(日) 「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地 を掘って、その主人の金を隠した」25:18
「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地 を掘って、その主人の金を隠した」25:18
1タラントのしもべは、タラントを地に隠した。だが1タ ラントは少額ではない、6千万円相当と言われている。 彼は減らす事を極力恐れた。もし商売に失敗したら、 泥棒に盗まれたら、主人の怒りが恐い。減らすまい と必死だった。そのため地に埋めた。しかし帰還した 主人は、そのまま返した彼を、怠け者と叱責し、追い 出した。 失敗して減らすよりは、そのままなら、よいのではと 思いそうだが、主人の思いは全く違う。彼は、本心は 主人にいっさい関わりたくない。5と2タラントの者が儲 けたのは、とにかく主人を喜ばせたい一心だった。そ こには主人への信頼があった。一生懸命に働いた結果、 万一失敗しても、主人は受け入れてくれると。だから 失敗を恐れず、自由に思いきり商売できた。 そのため非常に良い結果を得た。埋めた彼は、主人 理解が間違っていた。厳しい冷酷なひどい人だと。そん な主人のために何もしたくない。私たちはどうだろう。 神理解が、神観が間違っていないだろうか。罰を与え る恐い方だろうか。常に要求され、取り立てる神であ り、恐いから従っているのだろうか。 神の最大の賜物は、キリストを与えて下さった愛だ。 御父と私たちは、その愛の信頼関係にある。主人は しもべに期待し、失敗のリスクも自らが背負った上で、 信頼し、タラントを預けた。「主人の喜びを共に喜ん でくれ」と、喜びを共にするためだった。御父の大きな 深い愛と信頼を受け取る時、精一杯応えようとしない だろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 決して少額ではない1タランとを、主人はしもべを愛し 信頼したからこそ、ゆだねた。主が信頼して与えて 下さったタラントを、今一度しっかり受け取り直し、喜 んで、お献げして行きたい。
2026年06月20日(土) 「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」 箴言16:18
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」 箴言16:18
ダビデは、高慢の罪から守られるように、それらに支 配されないようにと、絶えず、主に祈り求めていた。そ のため、主はダビデの祈りに答えて、ダビデを高慢か ら守られ、主と人に仕えて行けるようにされた。クリス チャンともなれば、偉そうにするのは、恥ずべき事な ので、表だってはしないし、又は、自慢したりしない。 誰しも「いえいえ、私などは」と腰を低くし、末席に座る。 しかし、心の中はどうだろう。人と比較しては、心の中 で、人を裁いたり、見下したり、自分を誇るだろうか。 自分はそのように愚かではない、自分ならそのように はしないと。それなら、高ぶりの罪だ。又、神の言葉 に対してはどうだろう。「主よ。お話ください。しもべは 聞いております」と、「み声に従います」の姿勢で、へ りくだって、御言葉の下に自分を置いているだろうか。 都合の良い言葉、思い通りの言葉だけを取るだろうか。 「自分の都合の良いことを言ってもらうために、気まま な願いをもって」御言葉に対するなら、御言葉の上に 自分を置く事になり、自分が主人になる。自分が取捨 選択し、都合の悪い御言葉は捨て、都合の良い御言 葉は取る。 又、御言葉をどのように受け取っているだろう。例えば、 「わたしはあなたを愛している」を「そう思えない、感じ ない」と受け入れないなら、高慢になっている。又、「必 要をすべて満たす」を「状況はそう見えない、思えない」 と御言葉を捨てるなら、やはり高慢だ。あるがままを主 に祈り、助けを求めよう。御言葉をそのまま受け取るこ とが、へりくだることだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ みことばをその通りに思えない、信じられないなら、 まず主にありのままを祈ろう。思えない、信じられないと。 助けて欲しいと。自分で幾ら思い込もうとしても、それも肉 なので堂々巡りだ。主にありのまま祈ることから始まる。
2026年06月19日(金) 「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分 からいのちを捨てるのです」ヨハネ10:18
「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分 からいのちを捨てるのです」ヨハネ10:18
信仰人生で大きな苦しみ、厳しい試練、様々な試みに出会う。一つ 一つの試練は量って与えられた杯で、御父からのものだ。目の前の 状況でなく、背後の主を見ることが必要だ。その試練に反抗し、反 発することは、剣を振り上げ向かって行くことだ。ペテロが主が捕 えられた時、兵士に剣で向かった。 「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲 まずにいられよう」と。今、目の前にある試練は主から来ている。 主イエスは、ゲッセマネの園で血の汗を流し祈られた。その祈りの 中で、十字架を父の御旨と厳粛に受け入れ、従われた。嫌々、渋々 仕方無しにではない。「だれも、わたしからいのちを取った者はい ません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた」主は、 罪を負い、自ら命を捨てる事を選択された。自分からであった。 だから、主は命を取られるのでなく、自ら捨てられた。だから試練 に飲み込まれてしまうのでなく、試練の中でコントロールができた。 二つの選択がある。嫌々の態度で、試練にほんろうされ、不平不満 で一杯で、苦しいばかりだろうか。 試練を受け止め、くびきに頭を入れ、しっかり負うなら、くびきは 辛く苦しいものでなく、心地よく平安が来ると。「わたしのくびき を負って、わたしから学びなさい」と。試練を受け入れるなら、誰 もあなたを損なう事が出来ない。悪魔の働く隙と足場を無くしてし まう。受け止められるよう祈ろう。助けて下さる。 ------------- ふり返ると、主のご愛や深い慰めを経験したのは、いつも試練を通 してだった。試練はただただ辛いものではなく、主を通してくる事 を知っているのは感謝だ。信仰の目で見ていこう。
2026年06月18日(木) 「この方について・・話すべきことをたくさん持っていますが、 あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です」 へブル5:11
「この方について・・話すべきことをたくさん持っていますが、 あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です」 へブル5:11
私たちは、堅い食物を敬遠するだろうか。しかし堅い食物は大人の 物であり、経験により、良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練さ れた人々のものだと。世の人と同様に、クリスチャンも願いが叶う 事は嬉しく、心地良い。辛い、苦しい事は好きでなく避けたい。思 い通りの事は大歓迎で、そうでない事は受け入れ難い。 しかし思い通りでない事により、私たちは砕かれ、練られ、鍛えら れ、大きく成長して行ける。つまり、主が私たちを砕き、成長させ られる時には、思い通りでない事態を置かれる。振り返る時、どう だろう。どうにもならない、瀬戸際のギリギリの状況下で、全身で 主を叫び求めたのではなかったか。主に向かい、心の底から叫び、 拠りすがる事によって、一歩一歩成長させて下さった。 信仰人生で霊的成長を望むなら、痛い事を決して逃げるな、避ける なと言われる。様々な痛み、苦しみにより、霊的な感覚が、訓練さ れるのだと。霊的な感覚が鍛えられ、養われ、培われて行くのは実 地訓練、経験によると。苦しみの中で、あがき求める中で、御霊か らのもの、悪魔からのもの、肉の思い、これらがクリアにされて行 く。 実地訓練によって、悪魔の働きを識別する事を学んで行ける。経験 によって身について行く。今までわからなかったものが、見えて来 る。頭でなく、身をもって経験する事によってだ。苦しみを通して、 見分ける感覚が鍛えられる。霊的成長を願うなら、困難から逃げな い事、そして主の取り扱いにあずかる時に、一段階〃、成長へと導 いて下さる。 ------------ 苦難を通して、不安を主に明け渡す事を学び、心配事で埋まってい た心に主が平安を満たしてくださる事を経験する。順境では献げら れない感謝だ。成長したい。主のご愛を深く知る機会とされる。
2026年06月17日(水) 「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、 あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚 かなことをしました」歴代T21:8
「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、 あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚 かなことをしました」歴代T21:8
ダビデはサタンに誘惑され、負けてしまい人口調査の罪を犯した。 「サタンがダビデを誘い込んで」とあり、単なる国勢調査ではな かった。国の人口を調べる事は悪くないし、必要な事だ。なぜ罪 だったのか。それは軍事力を調べるものだった。へりくだって、 主の恵みと主の力に拠り頼むのではなく、兵力により、自分の力を 誇るための高ぶりであった。 ダビデが「大きな罪を犯した」と言ったが、それは重大な罪だった。 ヨアブは主に対する罪と悟り、人口調査をやめるようダビデに進言 した。しかしダビデはヨアブを退け、断固、強行する。人間的計算 や、軍事力に頼るなら、神無しで歩む事であり、信仰は必要無くな る。 ダビデの心の奥に潜む、自分はいかに力があるかを、兵力で量り、 誇ろうとする思いであった。そこに自力に頼む野心があり、自分を 誇る高慢があった。サタンの誘惑の根本は、主が王か、自分が王か という事だ。アダムとエバにエデンの園で、サタンの誘惑が臨んだ。 その真の問題点は「それを食べると、あなたが神のようになり」だ った。 自分は神になる。つまり自分が主となり、自分の思い通りに、好き なように生きて行くのだと。私たちにもこのサタンの誘惑が絶えず 来る。自分の思い、自分の力、自分の利得、「自分」「自分」がサ タンの誘惑だ。へりくだって、主を王として従えるよう祈ろう。主 は取り扱い、助け導いて下さる。 ------------ 主を知っていても、自分の思い通りは心地よく、自分が王になりた い者だと自覚していたい。サタンの誘惑に常にくる。高慢に気づけ るよう祈り、へりくだっていたい。
2026年06月16日(火) 「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼ととも におられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐 れた」Tサムエル18:14
「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼ととも におられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐 れた」Tサムエル18:14
サウル王は、ダビデが連戦連勝で、女たちの人気の的で「サウルは 千を打ち、ダビデは万」と歌った事で、ダビデへの嫉妬、被害妄想 は、ダビデへの殺意となった。サウルは、息子ヨナタンと家来全員 にダビデ殺害を宣言した。それを聞いたヨナタンは、ダビデを何と か助けようとする。 「自分と同じほどにダビデを愛した」と、ダビデがゴリアテとの戦 いに勝利した時に、ヨナタンは、単に人間的な好意でなく、信仰に よりダビデと結びついた。二人の友情は、主を中心としたものだっ た。ダビデに父サウルの殺害予告を知らせ、身を隠すよう告げた。 ヨナタンは、実父と親友のはざまで、どちらも愛し、どんなに苦し かった事だろう。 しかし父である王に直言した。ダビデはサウルに益となる事、良い 事しかしていない。彼に対して罪を犯さないで下さいと。どんなに 勇気が要っただろう。だがヨナタンは、その事が言える立場にいた。 そしてヨナタンは、ダビデの事をよく知り、良き理解者であるから、 サウルにとりなす事ができた。主の喜ばれる事に従い、自分の置か れた場所で、自分に出来る事をした。 逃亡の日々、絶えず死と隣り合わせであったダビデには、ヨナタン はどんなに力となり、慰めであったろう。主からの助けであり備え であった。私たちも、ヨナタンから学ばせられる。又、主が自分を 置かれた場で、自分にしか出来ない事が、与えられている。祈って いよう。主が示しを与えて下さる。 ------------- サウルのような妬みや隣憎しみも隣合わせだ。その度に悔い改め、 いつも主と正しい関係でいたい。与えられる祝福や導きに感謝し、 自分に与えられた導きに、素直に従いたい。
2026年06月15日(月) 「あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし・・アラムと レマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」 イザヤ7:4
「あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし・・アラムと レマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」 イザヤ7:4
ユダのアハズ王の時、アッシリヤの脅威が臨んだ。その時にアラム と北王国イスラエルはアハズに同盟を求めるが、アハズがそれを拒 んだため、アハズに攻撃をしかけようとした。この時、アハズ王と ユダの民は恐れて「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐよう に動揺した」。 しかし、イザヤは、主から言葉を受け、「気をつけて、静かにして いなさい。恐れてはならない。心を弱らせるな」と。静かに主に頼 るように、それは起こらない、あり得ない、落ち着いているように と語る。だがアハズ王は、イザヤによる主の言葉に従わず、御言葉 を退け、アッシリヤに頼り、援助を求めに走る。 アラムも北王国もアッシリヤによって、滅ぼされるのだが、しかし アハズ王のユダも滅亡への道をたどる事になる。私たちはどうだろ う。突然の大事態が起きた時、驚き慌ててしまうだろうか。アハズ のようにパニックになり、主から離れて、肉の思い、方策に頼り、 方向違いに走るだろうか。今、動揺する事態があるだろうか。 主は言われる。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなら ない。この事態に心を弱らせてはならない」恐れずに、主を信ぜよ と。「信じなければ、長く立つことはできない」。まずは動き回ら ず、静かにせよと。とにかくまず主を仰ぎ、落ち着こう。主が進む べき道を示して下さる。主が示された道へ進もう。そこに救いがあ る。 ------------- 状況に動揺し、林の木々が風に揺らぐように・・思いは悪いことば かりに傾く。間違えないようにしたい。拠って立つのは主の御言葉 だ。御言葉を信じてしっかりと立っていよう。
2026年06月14日(日) 「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べ よ。妻をめとって、息子、娘を生み・・そこでふえよ」 エレミヤ29:5
「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べ よ。妻をめとって、息子、娘を生み・・そこでふえよ」 エレミヤ29:5
エレミヤの時代に、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、 捕虜として連行された。だが、そのアッシリヤは、バ ビロンに滅ぼされた。ユダ王国もバビロンによって侵 攻され、ついにユダもバビロン捕囚となった。当時の ユダは神から離れ、民は堕落し、偶像礼拝の罪に陥 っていた。 それなのに預言者たちは、心地良い言葉だけを語っ た。平安が無いのに「平安、平安」と。だが神の人エレ ミヤは真っ直ぐに真実を語った。そのため非常に苦し められた。バビロン捕囚の真っ暗な、絶望的な中で、 エレミヤは神の言葉を告げた。それは「災い」としか 見えないが、「平安と将来と希望」のためのものだと。 将来と希望があると。すぐに解放にならないので、そ の地で腰を据えて生活するようにと。そして敵である その町の繁栄を祈れ、それは自分達の繁栄になるか らと。私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は「即、問 題解決」「即、悩みの解放」だ。だが口先だけの励ま しは、更に傷を深くする。 そうでなく、かせの、辛い現状を受け入れる時、その 中で、主からの支え、励ましにより前進して行ける。 現実を受け入れる事が大切だ。いつまでもそのまま ではなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。 現状を受け入れ、主に従って行く時に、そこに「平安」 が約束されている。そして神の時に、いろんな形で解 放して下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 主にあって、すべての事が「平安、将来、希望」へと 繋がる。どんな中にも、「希望」があるとは何と感謝 な事だろう。主の主権と支配があるからだ。試練を 受け止める事が難しいが、祈ろう。助けて下さる。 http:/
2026年06月13日(土) 「苦しみに会った事は、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71
「苦しみに会った事は、私にとってしあわせでした。 私はそれであなたのおきてを学びました」詩篇119:71
この世界では、信心は、病気、けが等悪い事が起き ないため、良い事のためだ。商売繁盛、家内安全・・ 受験はすべて合格、畑は豊作、商売は大儲け・・それ が願いだ。そのための信心だ。しかしまことの神へ の信仰は違う。受験は合格も、不合格もある。不合 格は祝福されていないのではない。 豊作も不作も通る。だが主に在る時、すべて祝福へ と結実して行く。必ず試練があり、その苦しみのプロ セスにより、主の似姿へと変えられて行く。試練を通 して、いかに自我が強く、自分の思いが強く、自己中 心であるかを知らされ、砕かれて行く。苦しみにも様 々ある。自らの罪の結果としての苦しみ、人から受け る理不尽な苦しみもある。 主は試練として、苦しみを与えられる。もし自分の非 による苦しみなら、悔い改める時に、完全に赦される。 だが蒔いたものは、必ず刈り取る。蒔き刈りの法則 がある。ダビデも姦淫と殺人を犯した時に、悔い改め て、罪は完全に赦された。しかし厳しい刈り取りがあ った。痛い刈り取りがあるが、主のあわれみは尽き ず、それすら訓練として、更に私たちの益のために、 用いられる。 主と共に、主に導かれて刈り取って行く事が祝福とさ れる。主の尽きないあわれみと、慈しみを知る時とさ れる。試練があるが、信仰者は必ず乗り越えて行け る。一つ一つの試練により成長して行ける。忍耐が培 われ、信仰を強くされて行く。忍耐が練られ、品性が 生み出される。必ず後の日に、「苦しみに会ったこと は、しあわせでした」と言えるようになる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 負の出来事が起きると、祝福されていないように思え て、寂しく感じるだろうか。周囲は皆、幸せそうに見える。 しかし状況や感情でなく、み言葉に立とう。苦しみから 霊的学びを得て、祝福へと導かれて行く。
2026年06月12日(金) 「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、 人についてだれの証言も必要とされなかったからである」 ヨハネ2:25
「イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、 人についてだれの証言も必要とされなかったからである」 ヨハネ2:25
多くの人々が、主の奇跡を見て驚き、主を信じた。だが、主は「ご 自身をお任せにならなかった」とある。任せるとは、信頼する、委 ねる、心を与えるという意味だ。最初の奇跡が、カナで行なわれ、 以後、主は数々の奇跡をされた。それらを見た人々は主を信じた。 しかし主は奇跡を見て信じた人々に、ご自分を、任せられなかった。 主は、人の心をすべてご存じだった。奇跡に心動かされ信じても、 その感動は一時的なもので、感情は必ず冷める。奇跡だけを求める なら、試練の時に必ずつまずき、離れ去る。土の薄い岩地に落ちた 種は、土が薄いため、すぐに芽が出たが、試練が来ると枯れてしま った。 御言葉を聞いて感動の涙を流して信じるが、自分に都合の悪い事態 が起きると身を引く。軸が自分にあり、自分が中心なので、自分に 得るものが無いなら離れ去る。主は奇跡をされる時、御言葉によっ て行なわれた。主の口から語られる一つ一つの言葉によって、みわ ざが成された。しかし人々は奇跡の方に夢中になる。 出エジプトを経験したイスラエルは、あれほどの主の超自然を見た にかかわらず、すぐに荒野でつぶやいた。荒野でも奇跡を見続けた のに、結局、不信仰で滅んでしまった。主を信じるとは、主の言葉 を信じることだ。御霊により語られた言葉を心に信じ受け入れ、そ して御言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。 ------------- 目に見える奇跡は何も起こらず、苦しい試練はそのままでも、主の 恵みは日々変わらない。御言葉により主とかたく繋がり、御言葉を 信じて立っていよう。
2026年06月11日(木) 「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を 明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、 その場所で横になった」創世記28:11
「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を 明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、 その場所で横になった」創世記28:11
ヤコブは、父と兄をだまして祝福を奪ったが、兄の激しい怒りに、 身の危険のため逃げようと、遠く伯父のもとへと旅立った。何も無 い広い原野で、野宿となった。今後どうなるのか、大きな不安恐れ に襲われ、又、家族を離れ、どんなに寂しく孤独だったろう。主が、 そんな彼のかたわらに立たれた。 そして「あなたの子孫は地のちりのように多くなる。わたしはあな たと共にあり、どこに行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連 れ戻す」と約束された。だが結果的に、その連れ戻すとの約束の成 就に、20年を要した。驚くほど長い歳月だ。「主の時」は長い。 私たちは誰しも、待つ事が非常に難しい。しかし主は、歳月をかけ ながら、地道に私たちを砕き、鍛え、練り、造り上げられる。延々 と時間がかかる。しかし主に無駄な時間は無い。今日の1日は、砕 き、練り、きよめられる途上にある。必ず時は満ちる。環境が少し づつ変化する。 ヤコブも20年後に状況が変化した。ラバンや、その息子達が好意的 で無くなり、態度が違って来た。もめ事が起きそうだ。そんな時に 「生まれ故郷へ帰れ」と、主の示しが来た。約束は100%必ず実現す る。ヤコブは非常に辛く苦しい20年を通り、砕かれ練られ、厳しい 訓練を受けた。 私たちにも、無駄は一つも無く、すべては私たちのためだ。信仰に よって目の前の事態に当たろう。そしていつもすぐかたわらに、主 が立っておられる事を覚えよう。 ------------- 待つ時間に少しの無駄もないとは、何と感謝な事だろう。不完全な 自分を見ては不安になるが、主が共にいて最善に導き、時をかけて 整えてくださる。感謝したい。
2026年06月10日(水) 「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘の がけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」 ルカ4:29
「立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘の がけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした」 ルカ4:29
主が、故郷ナザレに行かれ、安息日に会堂で教えられた。御言葉を 読まれ、「わたしの上に主の御霊がおられる・・貧しい人々に福音を 伝えるようにと。捕らわれ人には赦免を、盲人には目を開かれ事を、 虐げられている人を自由にし」奇跡のみわざだ。 「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現し た」と。何千年前からの預言が、今日実現し、メシアが今ここにい ると。何という喜びだろう。人々は、主から出る恵みの言葉に驚き、 感動し、主を誉め讃えた。だが同時に「ヨセフの子ではないか」と 冷ややかに蔑む。ナザレは小さな村で、主は、普通のヨセフの子、 大工としか見えず、とても信仰の対象などでは無かった。 そのため主からの言葉を聞く事ができなかった。ただの「ヨセフの 子」「大工」の言葉は、人々に冷水を浴びせ、萎えさせ、恵みを奪 い、消してしまう。メシヤとして受け入れないので、御言葉が聞け ず、信仰が生まれる事が無かった。預言者は誰でも自分の郷里では 歓迎されないと、主は人々の不信仰を嘆かれた。 私たちもどうだろう。自分の価値観、肉の思い、判断で、御言葉に 対応すると、決して受け入れない。「そんな事、あり得ない」「無 理、不可能」「世の中でやって行けない」。肉の判断に気づけて、 御言葉に立てるよう、御霊の気づきが与えられるよう祈っていよう。 世に調子を合わせていないだろうか。 ------------- 救われていても古い思い込みや価値観で、少なければ感謝より不満 が湧き、世に引っ張られては不安になってしまう。その時に気づき たい。御言葉は何と言っているのか、主の言葉を聞こう。
2026年06月09日(火) 「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この 暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪魔に対 するものです」エペソ6:12
「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この 暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪魔に対 するものです」エペソ6:12
対人関係で、問題が起き、争いが起きた時にどうだろう。相手に腹 を立て、責めたり恨んだりしてしまうだろうか。しかし「私たちの 格闘は血肉に対するものではなく」とある。「悪霊に対するもの」 だと。いっさい人間とは戦っていない。人間の背後に潜む悪霊との 戦いだ。ところが悪霊は目に見えない。 そこでどうしても、目に見える、目の前の相手に焦点が行く。相手 を憎んでしまう。今、人に腹を立てたり、憎んだりしているなら、 背後のサタンの攻撃と誘惑が来ている。人を憎むよう恨むように誘 惑されている。それに同意し、乗ってしまうと、自分の罪となる。 「悪魔の策略に対して立ち向かえ」とあり、サタンは策略を練って 攻撃して来る。行き当たりばったりはない。明確な目当てがあり緻 密な計算がある。目的は、神から引き離すことだ。どんな手段であ れ、神から離せば成功だ。苦しい病気や、又、悩みの対人関係に遭 遇したらどうだろう。 「神が愛なら、こんな事になるはずがない。愛されてなどいない」 とサタンがささやき、疑心暗鬼にさせる。又、逆に順境が続くと、 自分で生きて行けるので、主に頼る必要が無く、知らず知らず、主 から離れてしまう。順境の時の神離れだ。自分は離れていると思っ ていないので、気づかない。 又、成功すると自分の力だと錯覚し、自分を誇り、栄光を自分に帰 してしまう。策略を練って襲って来るサタンの識別を祈っていよう。 御霊が気づきを与えて下さる。 ------------- 現実にいつも直面している問題だ。あらゆる苦い思いの背後にいる 悪魔に一刻も早く気づきたい。相手の土俵に入らずに守られる。主 に助けを求め、警戒していよう。
2026年06月08日(月) 「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた です」詩編39:7
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた です」詩編39:7
詩篇記者は、病にあり、苦しみの余りに「なぜですか、なぜ自分が こんな目に、会わなければならないのか」との不満がうっ積してい た。しかし、舌で罪を犯してはならないと、口に口輪をはめた。だ が、黙していると、ストレスが更に内攻し、うっ屈し、今にも爆発 しそうだった。それを彼は人にでなく、主に向かい、主にぶつけた。 心の中の本音を吐き出し、気持ちを正直にありのまま告げた。人生 は、いかにはかなく虚しいかと。心の内をことごとく吐き出した時、 信仰が戻って来たのだ。この虚しい人生において、望みをかけられ るのは何かと、見上げたら、その時に、主を見い出した。「私の望 み、それはあなたです」と。 そして、本音を主にことごとく吐き出し、告げた後、「私は黙し、 口を開かない」と言っている。同じ、「口を開きません」だが、 最初の多大なストレスに陥り、口輪をはめたのとは異なる。「あな たがそうなさった」と、主を見い出し、すべてにご計画がある事を 認め、それを受け入れ、すべてを主に委ねたのだ。 私たちも本音の気持ちをことごとく告げて、初めて、主からのプラ ンを受け入れる事が出来る。苦しい時、心の内を、悶々の思いを、 主にすっかり吐き出そう。すべて受け止めて下さる。そうするなら、 心にすっきりと平安が来て、「あなたが、そうなさった」と受け入 れる事が出来る。主に向かうと、心が変えられて、導かれて行く。 ------------- 主との交わりで本音をことごとく告げた後は、愚痴や不満が消え、 平安に変わる経験をする。この事も主から来ていると、もつれた心 が安らいでいく。
2026年06月07日(日) 「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴ら した。民が角笛の音を聞いて、大声でときのをあげ るや、城壁がくずれ落ちた」ヨシュア6:20
「民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴ら した。民が角笛の音を聞いて、大声でときのをあげ るや、城壁がくずれ落ちた」ヨシュア6:20
約束の地カナンを目前にして、ヨシュアと民の前に、 ヨルダン川の水がとうとうと流れ、溢れ返っていた。 今、あなたの前に、ヨルダン川が、そびえ立ったエ リコの城壁が、大きな問題が立ちはだかっている だろうか。主はその問題を必ず導いて下さる。まず、 第一に「身をきよめよ」と言われる。 身をきよめるとは、御霊によく心を探って頂いて、御 心にそれた罪があれば、悔い改める事だ。自分の思 い通りにしたい頑固な意志、赦さない心、従おうとし ない態度・・御霊に導かれるままに、まず主に告白し よう。エリコ攻略のために、主は不思議な方法を示さ れた。町の回りを1度回り、7日目は7度回り、ときの 声を上げる。何だか不可解な方法だ。 しかし民が言われた通りに、ただ従順に従った時、 エリコの城壁は崩れ落ちた。人間的考えの入る余地、 人間的な力はいっさい無かった。ただただ主の御力 であり、主の奇跡であった。祈り、御声を聞いて、示 される事に、言われた通りに従おう。今、あなたの前 に、そびえ立っている難しい問題があるだろうか。 まず、「あなたの身をきよめなさい」。今、御霊に心を 探って頂こう。罪があるなら悔い改めよう。そして、 御声に耳を傾け、従うべき御心に従おう。その時、 目の前の難題に、主が働かれ、主のみわざを見る。 その城壁が崩れ落ちるのを目の当たりに見る。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 目の前に難題がある時、主とじっくり交わろう。思い の丈を打ち明け、祈り、御言葉に耳を傾けよう。祈り 続けて行く時に、御言葉を心に語りかけて下さる。 示されたことに従う時、導かれて行く。
2026年06月06日(土) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのこと を心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるが されるようにはなさらない」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのこと を心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるが されるようにはなさらない」詩篇55:22
私たちは、心配症だろうか。とにかく不安でたまらず、 心配する。目の前のあの事、この事、少し先の事、 ずっと先の事・・まだ起きていない事を、あれやこれ や思い煩い、次々と心配の種は尽きない。最悪の シナリオが出来上がる。ますます不安が募る。その 不安はモンスターになって行き、飲み込まれてしまう。 しかし状況から目を離し、主に目を向けるならどう だろう。主は出エジプト時に、前は海、後ろはパロの 追っ手で絶体絶命の時に、海を二つに分け、海の中 に道をつけられた。 何も無い荒野では、天からマナ を降らせ、岩から水を出された。カナンを前に、行く手 を阻むヨルダン川の水をせき止め、難攻不落のエリコ の城壁を崩された。 あの絶対的バビロンを倒し、不滅と言われたローマ 帝国も倒された。不可能は一つもない、その主が、あ なたの事を心配して下さっている。いっさい思い煩う な、明日の心配無用と言われる。なぜ、あれこれと、 常に思い煩うのだろう。問題が、問題なのではなく、 その中で主を信頼しない事が、問題だ。 目の前の困難を、繰り返し繰り返し煩い続け、問題の とりことなり、小さな問題をモンスターにしてしまう。自 分で、巨大な手に負えないものにして、自滅しそうだ。 繰り返し〃、主を思い、御言葉を見続けるなら、どんな に幸いだろう。今一度、目の前の問題を支配されてい る主を覚えよう。そして「いっさい神にゆだねなさい」に 従えるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 心配、不安、思い煩いを、主のもとに持って行こう。 主に向き合おう。主は、その弱さの底で、信仰に 変えて下さることを経験する。信仰を与えて下さ る。 http
2026年06月05日(金) 「山地もあなたのものとしなければならない・・カナン人は鉄の戦車 を持っていて、強いのだから・・彼らを追い払わなければならない」 ヨシュア17:18
「山地もあなたのものとしなければならない・・カナン人は鉄の戦車 を持っていて、強いのだから・・彼らを追い払わなければならない」 ヨシュア17:18
カナンに入って、それぞれに相続地が割り当てられた。ヨセフは、 マナセとエフライム二人の息子がいた。ヤコブはこの孫たちに特別 な祝福を与えた。ヨセフ族はマナセ族とエフライム族とに分けられ、 特別な地域、広大な地域を割り当てられた。それなのにヨセフ族は 不満で、ヨシュアに文句を言う。民の数が多いので、もっと多くの 土地を欲しいと。 ここに見るように、豊かに恵まれているのに、満足できないで、も っともっと、と更に欲し、いつも不平不満だらけの人々がいる。そ の事に対し、ヨシュアは、数が多く、力もあるのだから、自分達で 新しい土地を切り開けと言う。すると「山地を切り開くのは労力が いる。谷間はカナン人が住んでいて、鉄の戦車を持っているから、 できない」と言い、労力は使いたくなく、ただもらう事ばかりを考 えている。 それに対して、ヨシュアは、数が多くて、力があるのだから、山地 をどんどん切り開いて行けと。カナン人が鉄の戦車を持っているの であれば、あなたがたは戦い、追い払えと言った。私たちはどうだ ろう。面倒な事には労力は使いたくなく、ただ文句と不満の生活だ ろうか。 主が共におられるので、山地もあなたのものとせよ、と。今、あな たの目の前の山地とは何だろう。「あなたのものとせよ」と、チャ レンジを与えておられるだろうか。主の示しがあれば、従い、一歩 踏み出そう。主が、与えて下さる。更に豊かな霊的祝福へと導かれ る。 ------------- 自分の目には不可能としか見えない状況の中で、いつも主は信仰を 問われる。主は先立って働かれる。共に進もう。備えられている祝 福を手にしたい。
2026年06月04日(木) 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちです」 ヨハネ6:63
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちです」 ヨハネ6:63
ある牧師が、若い時から懸命に働き続け、走り続けて、退任が間近 になっていた。今まで、宣教のため、信徒の成長のために、懸命に 労した。根が真面目で一生懸命だった。そんな中、教会内で分裂が 起きて、ごっそり信徒が出てしまった。衝撃で、意気喪失、心は萎 えて、今までの自分の人生は何だったのかと、燃え尽き症候群に陥 った。 立ち上がれず、うつになってしまった。気力が失せ、聖書を読む事 も、祈る事も出来なくなった。何もできず、日を過ごしていた。気 力が全く湧いて来なかった。そんな時、家族が聖書セミナーに参加 し、喜んで帰宅した。しかし自分は沈んだままだった。家族がセミ ナーの祝福を伝え、祈りを勧めてくれた。気持ちは乗らなかったが、 喜んでいる家族を見ていて、気力も無いが、聖書を手に取ってみよ うかと思えた。 パラパラと読むではなく、見ていた。その時「お願いする先に、あ なたがたに必要なものを知っておられる」の言葉が、スッと心に入 って来た。今の状態を何もかも「知っておられる」事を思った。 そして次節の「だから、こう祈りなさい・・御名があがめられますよ うに」が、心に響いた。 失敗し、挫折し、こんな状態を通して御名が崇められるようにして 下さると。その時、心に光が射し、希望が湧き、立ち上がる事がで きた。主の力と、周囲の熱心な執り成しによることだった。残され た時間、精一杯主に仕えたいと、新しい気力と力が与えられた。 御霊により語られた御言葉には、大きな力がある。 ----------- 御霊により語られる御言葉は、目の前がどうであっても今日の歩み を肯定し、力づけ生き返らせてくださる。御霊により生きよと励ま す主の声を聞ける。何と感謝だろう。
2026年06月03日(水) 「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの 報いは大きいのだから」マタイ5:12
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの 報いは大きいのだから」マタイ5:12
信仰者は、信仰ゆえの試練があり、苦しみを受ける。試練があると、 御言葉が言っている。しかし自分の至らなさで、自分の欠点ゆえに 問題を引き起こし、苦しみを招くのは、信仰ゆえの苦難ではない。 信仰以前の問題だ。誰でも、失礼な言動、問題行動があれば嫌われ るし、トラブルが起きる。 しかしそうでなく、クリスチャンという事で、苦しみを受ける事が ある。迫害されたり、笑われたり、嘲られたり、不当な苦しみを受 ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今 の時代で、日本では、命がどうのは無いかもしれないが、悪口を言 われ、辛く当たられ、馬鹿にされ、仲間はずれにされる。 「ありもしないことで」、それは不当な、理不尽な苦しみだ。だが それが信仰ゆえの苦しみなら、恥じる事はない。むしろこの事のゆ えに喜べと。そして主を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおど りなさい。天においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、 主のために迫害され、辱めを受け、攻撃されたとしても、主との個 人的な交わりがあるので、幸せな人だ。 迫害や苦しみの中でも喜びおどる人々だ。自分の内に喜びがあるか らだ。どんなに自分が罪深いかを知り、そしてその罪が完全に赦さ れている事を知っている。どんな愛で、愛されているかを知ってい て、いかに苦しい時にも、共におられることを知っている。 そして、天において大きな報いがあり、その大きな報いを期待せよ と。それゆえ迫害の苦難に意気消沈するのでなく、「喜び、喜びお どれ」と。天は大きな希望であり、天に繋がった今がある。そして 主に従う時、御霊の喜びを下さる。 ------------- 昔ほどではないにしても、迫害や反対を受け、思い通りに進めない 信仰生活を経験する。そういう時こそ、主が近くおられる事を知ら され感謝に溢れる。ますます主に強く繋がり、目を天に向けよう。
2026年06月02日(火) 「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにさ さげた」創世記22:12
「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにさ さげた」創世記22:12
イサクは、アブラハムが25年もの間、待ち続けた約束の子だ。更に 年老いて与えられた、愛してやまない子だ。祈りに祈り、待ちに待 った末である事を思う時、何より大切な宝であり、命だったろう。 そんな時、主からそのイサクを、全焼のいけにえとして献げるよう に言われた。 「神はアブラハムを試練に会わせられた」と、はっきり言われてい るように、彼にとり極めて厳しい「試練」だった。「あなたの子、 あなたの愛しているひとり子、イサク」と、アブラハムが、どんな に愛しているかをご存じだった。なぜなら、最愛の子であると同時 に、約束の子であり、アブラハムの祝福が、この子にかかっていた。 その約束は一体どうなるのか。このイサクにすべてがかかっている。 しかし、主はそのイサクを全焼のいけにえにせよと言われる。彼は どんな思いだったのか。詳しくは記されていないが、「翌朝早く」 つまり、即、従うべく出かけた。ヘブル書に「彼は、神には人を死 者の中からよみがえらせることもできる、と考えた」とある。 主はイサクをよみがえらせて下さると信じて、彼は献げた。身を切 られるような、一大決心であり、自分自身を献げる事だった。私た ちはどうだろう。心の中の一番大事なイサクは何だろう。御霊に心 を探って頂こう。 -------------- 主は愛するイサクを献げたアブラハムの心を見守ってくださったよ うに、自分の大切なものを主に委ねていく思いを祝福してくださる。 御霊の助けにより、生活の中で今一度、吟味したい。
2026年06月01日(月) 「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」 詩篇143:5
「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」 詩篇143:5
信仰人生で、心が弱り果て、打ちひしがれた経験があるだろうか。 ダビデも、心が衰え果てたと言う。厳しい困難に遭遇し、度重なる プレッシャーに、容量オーバーになり、又、難しい対人関係で傷つ き、問題に悩み苦しんだ。心がこわばるとは、心が固くなってしま い、動かなくなる事だ。心の余裕が全く無くなってしまう。 普段なら大した事の無いことが、心に余裕が無いと、受け入れられ ず、対応出来ない。心が動かない。私たちも、様々な悩みに出会す 時に、心が暗く、重く、ピリピリイライラし、とげとげしくなる。 目の前に起きる事態に、又、人の言葉や態度に、ネガティブな反応 しか出来ない。又、それが自己嫌悪になり、自分を責め、ますます 落ち込んで行く。 又、余りに大きな苦しみなら、心が沈み込んで、どうにもならなく なってしまう。こんな時、ダビデが、どうしたかが記されている。 昔の日々を思い出し、主のなさったすべの事に思いを巡らした。そ して、神の御手のわざを静かに考えた。深い絶望感の中で、かつて の主のみわざや祝福を思い起こした。「静かに考えています」、私 たちも、静かな時と場所が必要だ。 主に向き合い、自分の内を照らされ、主の言葉をしっかりと受け取 る時だ。「あなたに向かって手を差し伸べ」祈りをささげている。 静けさの中で、主と交わり、今までの恵みと祝福を思い巡らし、感 謝をささげ、礼拝をささげる。その時、絶望に打ちひしがれていた 心が少し〃と動き出し、引き上げられて行く。御霊の働きだ。苦し い時は、今までの主のみわざを静かに考えよう。 --------------- 主の恵みとご愛はいつも変わらないのに、私たちの心はもろく落ち 込む。ダビデのように、闇の中で主を見上げ、主が良くしてくださ った事を思いめぐらそう。喜びの中にまた立てる日を信じよう。