2026年07月18日(土)

「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめら れ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り。貧し い者には福音が宣べ伝えられているのです」 マタイ11:5



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法な結婚
を、間違っていると指摘した。するとヘロデによ
り投獄された。ヨハネは真っ直ぐに正しい事をし、
真実に歩み、罪を犯していない。この投獄は理
不であり、主が、何らかの対処をして下さると思
っていただろう。

しかし幾日経ても、何の音沙汰もなく、何も起こ
らない。イスラエルの王国を打ち立て、王権を取
られるのではないのか。獄中のヨハネは、いか
ばかりの思いであったろう。それで弟子たちに
「おいでになるはずの方は、あなたですか。そ
れとも〜」と主に問わせた。

その時、主は弟子たちに「自分の聞いたり見たり
していることを報告せよ」、つまり目の前の「事実」
を告げるよう言われた。「盲人が見、足なえが歩
き〜」これは、救い主到来の時の預言だ。今、そ
の預言が成就している。幾ら人から聞いても、
ヨハネが自分で受け止めない限り、わからない。
御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合う時に、
御霊が助け、真理がわかるようにされる。

私たちも強い思いや偏見があれば、神が見えず、
わからない。肉の思い、先入観を除いて行く時
に、正しく神が見えて、御心がクリアにされて行く。
目の前のこの事に、過去のあの事に、神が見え
て来る。絶えずサタンと自我の妨害があるので、
主を求めて祈ろう。わかるように助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
正直に、ありのままの思いを告げ、主に向かい、
御言葉を受け止めよう、その時、御霊により必ず
真理を教え導き、少しづつ〃わからせて行って
下さる。求める時に答えて下さる。


2026年07月17日(金)

「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真 な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって・・ 世の光として輝くためです」ピリピ2:15



日々の生活の中で、主が、私たちの思いに働かれ、志を
与えられる。又、御言葉や平安や環境から主の御心が示
される。それが確信できたなら、「行ないなさい」と言
われる。次の御心は、具体的に行なう事だ。祈りの座か
ら立ち上がり、実行する事が大切だ。

一歩踏み出し、従わない限り、何も始まらない。その時
に「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」と。その導き
は、ある時は自分には、とても出来そうもないと思える。
新しい奉仕や仕事、新しいプロジェクトの立ち上げだっ
たり、犠牲を伴う働き、行ないであったり、又、誰かと
の和解、仲直りであったりする。謝罪したり、赦したり
する必要がある。

主からの御心を、実際に行なおうとする時、つぶやきや
疑いが、必ず来ると言っている。わきまえていよう。
でなければ悪魔に欺かれてしまう。どうしてもちゅうち
ょし、二の足を踏んでしまう。「本当に?」「自分の思
いでは?」「やっぱり出来ない、止めよう」「自分には
無理だ」疑いや不安に襲われ、迷いためらう。

しかし、主はそれをもご存じで「つぶやかず、疑わずに」
実行せよと。なぜなら「事を行わせてくださるのは、神
ご自身」なのだから。決心して、踏み出すなら、神の力
が働く事を見せられる。あなたも今、実行するよう、示
されている事柄があるだろうか。

何かの働きか、人との和解か、悔い改めか、新しい前進
か。主の御心は、その事を「つぶやかず、疑わずに」実
行する事だ。悪魔は妨害するので、そうできるよう助け
を祈ろう。
-------------
主に示されても、すぐに従えない。出来ない、やらない
言い訳は常に浮かんでくるからだ。主に与えられた志を
大切に育みたい。従えるように祈ろう。


2026年07月16日(木)

「彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。 私は祈るばかりです。彼らは、善にかえて悪を、私の愛 にかえて憎しみを、私に報いました」詩篇109:4



ダビデは、愛した相手になじられ、真実を向けたにかか
わらず、憎しみで攻撃されるという、辛く苦しい経験を
した。サウル王やアブシャロムによる攻撃、迫害ではな
いかと言われている。どれほどの苦悩であったろう。心
を込めた誠実な愛や、真心は必ず相手に通じると思いた
いが、そうでない場合がある。

その時はどうすれば良いのかを、ダビデを通して学ぶ事
ができる。真心と愛をもって接して来た人々が、敵対し、
立ち向かって来る。邪悪な口と、欺きの口と、偽りの舌
をもって、憎しみの言葉で取り囲み、罵り、なじって来
る。極めて苦しい状況だ。まさに、人間の神に対する態
度そのものだ。

しかし神は、神を捨て、無視し、神に敵対する者を更に
追いかけ、御子まで殺して下さった。その御子を私達は
どう扱ったか。神の愛すら通じないのであれば、罪人で
ある人間同士の愛が、通じなくとも不思議はない。主は
十字架上で、人々の罵りに対してどうされたか。人々の
赦しを御父に祈られた。

ダビデも同じだ。「私は祈るばかりです」。相手に復讐
するのでなく、神に心の内のすべてを打ち明け、神に叫
び、神に知って頂くことができる。神に心の内を叫び祈
ったダビデは、この後一転、賛美と感謝へと変えられて
行く。

今、もしこのような苦しみの中にいるなら、答えは「私
は祈るばかりです」。神に向かい、心の何もかもを打ち
明け、聞いて頂こう。ゆだねて行こう。主は祈りを聞き、
平安に変えて下さる。
-------------
この悲しみ、苦しさ、悔しさを主が全てご存じだと思う
とすっと息がつける思いがする。今はまだ解決の道は遠
くても、主に向いて祈っていける。何と感謝だろう。


2026年07月15日(水)

「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人が いた」ヨハネ5:5



病気の人に「よくなりたいか」と問うと、「よくなりた
いなど当たり前」のように思える。なぜ、主はこんな質
問をされたのだろう。「よくなりたい」という事は、今、
病気だという事だ。その人自身の現状に、しっかり向き
合わさせ、認識させ、自分の本当の願いを確認させるた
めだった。

「よくなることができるか」とは問われていない。あく
までも「よくなりたいか」であり、直りたいかとの本人
の意志に関わる事だ。病気が長期間に及ぶと、失望と諦
めに支配され、もうそこにいる方が楽だったりする。問
われた時に、初めて、人は自分の心の内に光が当てられ、
探られる。

その時、彼の答えは「誰も助けてくれない。皆には介護
者がいるが、自分にはいない。介助者のいる者が先に降
りて行く。自分一人ではどうにもならない」というもの
だった。素直に「はい、よくないたいです」ではなく、
人のせい、環境のせいにした。

私たちも、何度繰り返してもダメで、同じ問題にずっと
悩まされ、どうやっても状況が変わらない時、心が萎え
て、失望し諦めてしまうかもしれない。どうせやっても
ダメだと。もう、そこまでのエネルギーが無い。「本当
に」直りたいのか、変わりたいのか、御言葉に従いたい
のか、主は問われる。しかし彼には、いやされる信仰が
あった。

人依存で、人のせいにしていた自分の状態に気づいた。
「起きて歩きなさい」の言葉を信じた。すがった。信じ
なければ、起きようともしない。起きようとした時に、
主のいやしの力が臨んだ。主は彼の内にあった、彼の信
仰を引き出された。彼はいやされた。あなたにも、問う
ておられる「よくなりたいか」と。
--------------
来る日も来る日も、光の見えない中で、特に主に期待す
ることもなく歩んでいるなら、主の恵みの中で立ち上が
りたい。主に応え、新たな信仰を受けよう。


2026年07月14日(火)

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、 蛇が一番狡猾であった」創世記3:1



悪魔は、行き当たりばったりに攻撃して来ない。徹底した
策を練り込み、挑んで来る。「サタンの策略」とあり、相
当の用意周到の策がある。悪魔がエバを誘惑する時に、そ
れを食べると、目が開け、善悪を知り、神のようになるこ
とを「神は知っている」と言った。

暗に、神は、人が神のようになるのが嫌だから、禁じてい
るのだと。信頼を揺らすように誘う。悪魔は、私たちを不
満へと誘う、と言われるが、罪を犯した時の事を振り返っ
てみよう。そこに不満が無かっただろうか。悪魔は不満
な思いへと誘惑する。

不満が忍び寄ると、感謝も賛美も失せ、恵みが消える。最
近、失敗した状況を振り返ってみよう。対人関係で、イラ
イラし怒りを自制できなかった事、家庭内でトゲある言葉、
悪い態度、その裏に不満が無かったか。悪魔の巧妙な策略
だ。不満という餌で、罪に誘われてしまう。そして喜びと
平安を失う。それは主への不信感、疑いへと進む。

主は愛していると言うが、愛されてなどいないと、ささや
いて来る。愛されているなら、こういう事にはならないと。
知らず〃、疑いが増幅する。悪魔の策略だ。もろに神や御
言葉を否定しては来ない。「ほんとうに?」と巧妙にささ
やく。その悪魔の言葉に乗って行くと、ふっとした疑いが、
断定へといざなわれる。

「あなたがたは決して死にません」と。こんな正反対の事
を堂々と。愛されてなどいないと断定して来る。お腹をす
かしたライオンだとわきまえ、いつも御霊の助けを祈って
いよう。必ず守られ助けられる。
-------------
不満が湧くときこそ主から離れずに、疑いも不満も主に祈
りたい。主との交わりがあれば、どんな時でも守られる。
助けを受け、慰めを受けよう。


2026年07月13日(月)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」 詩篇139:1



対人関係の悩みは、誰しも皆経験する。ある人が、職場
で難しい相手がいた。いつも嫌な思いになり、話すと相
手にトゲを感じる。嫌みを言われ、苦痛でたまらず、憎
しみが湧く。話す事も避けたい。だが自分はクリスチャ
ン、これでよいはずは無い。心重く平安が無い。

その事を主に祈り、牧師にも相談した。すると牧師が一
緒に祈ってくれた。祈りと共に、牧師により、開かれる
御言葉の一つ一つが、心にくい込んで来た。「異邦人の
中にあって、りっぱにふるまいなさい。彼らは・・訪れの
日に神をほめたたえるようになる」

「人がもし不当な苦しみを受けながらも、神の前におけ
る良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれ
る」「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず」御父にすべて委ね
られた主。

十字架上の苦しみの極限状態の中で、「父よ。彼らをお
赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからな
いのです」と祈られた。何をしているのかわからない、
自分のための執り成しだった。自分は何をしているのだ
ろう。十字架により、主のもとへと戻らされた。

自分の内側も照らされ、敵対心、さばく心、報復心と、
愛とはほど遠い思いを示された。だから平安を失ってい
たと。御前に悔い改め、こんな自分がこのまま受け入れ
られ、愛されている事に感謝と喜びが湧いた。その時、
相手の悪い所しか見ようとせず、相手を裁き、責め、ト
ゲを出していた自分に気づかされた。平安に戻された。
------------------
傷ついた言葉や、目の前にいる相手に心が占められてし
まうが、御言葉によって全く違う方へ導かれる。主が全
て知っておられ、最善を気づかせてくださる。


2026年07月12日(日)

「私に悟りを与えてください。私はあなたのみお しえを守り、心を尽くしてそれを守ります」詩篇11 9:34


主に従うためには、御心に従おうとの意識的、
選択が必要だ。オートマチックではない。没個
性、没意志になるわけではない。夢遊病者の
ように、ひとりでに、勝手に従って行けるのでは
ない。「自らの道を顧みて、主のさとしの方へ足
を向けた。急いで、ためらわず、仰せを守った」
との御言葉があり、意識して、御霊の導きの方
を選択し、御霊に拠り頼んで行く必要がある。

主に拠り頼み、行動しなくてはならない。主が、
勝手に私たちを操って、従わされるのではない。
決してない。それならロボットであり、操り人形
だ。又、私たちの意志を無視して、主が代わり
に行動される事も無い。自らの道を顧みてとあ
るが、私たちはどうだろう。日々の生活を、自分
自身を顧みる事は非常に有益だ。

日々の忙しさに、流されているだろうか。主と
の交わりから離れているだろうか。又、主から
の示しを受けながら、引き延ばし、ぐずぐずし
ているだろうか。主のさとしの方へ「足を向け」
る事が大切だ。祈ったのでなく、主の仰せを「守
った」。実際に行動した。

今、主の御心に、自分の足を向け、具体的に行
動するよう導かれているなら、踏み出そう。「急
いで、ためらわずに」とあり、ぐずぐずし、ためら
っていると、必ず従えなくなってしまう。いつしか、
御霊の促しが消えてしまい、大きな祝福を逃して
しまう。今日、足を向けて、主の仰せに従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
今、主に目を向け、示されている事を行なおう。
主との交わりだろうか。具体的になすべき事が
示されているだろうか。意志を向けて、一歩従
おう。次の展開へと導かれる。



2026年07月11日(土)

「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、それ をこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2


人は誰しも、暗い夜を経験する。厳しい試練の
時だ。辛くて涙が溢れて来る。それは自らの失
敗の結果だったり、悩みの人間関係、経済的苦
境、病気けが、仕事の問題。リストラ、離別・・ま
さに「夕暮れに涙が宿」る。しかし、明けない夜
は無いように、ずっと夜のままではあり得ない。
涙のままでは終わらない。

どんなに辛い夜でも、必ず朝が来る。「朝明け
には喜びの叫びがある」どんな時にも希望が
ある。これは何と慰めだろう。試練には主の定
められた期間がある。試練のまっただ中では、
真っ暗闇が永遠に続くように思えてしまうが、
試練には必ず終わりがある。トンネルは出る。
夜の後に朝は来る。悲しみの後に、必ず喜び
が来る。

逆に、人間は成功が続く時こそが危ない。成功
の中で、自らを律っする事の出来る人はまれだ。
有頂天になり、油断する。順境で、神を求めなく
なる人も多い。神無しで、やって行けるし、十分
幸せになれると思うからだ。必要が無い。人は
平穏無事を求める。しかし、それによって神から
離れるのならどうだろう。主が送られる試練は、
必ず益とされる。

試練の時は、何もかもが光を失い、真っ暗闇に
思える。心は辛く苦しいばかりだ。が、主のよみ
がえりを覚えよう。十字架で弟子達はつまづき、
絶望した。万事休すで、何もかもが終りだ。しか
し、よみがえりで世界は一変した。死から命へ、
暗闇から光へ、溢れる喜びに変った。暗い夜は
必ず明ける。今の苦しみは喜びに変わる。だから
こそ、すべての事に感謝できる。信じていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先が見えないトンネルの中は、真っ暗に思えて
しまう。真っ暗な夜は、朝が来るのだろうかと。
しかしよみがえりの主が今、共におられる。
主を信じていよう。必ず目の前の事態を導いて
下さる。


2026年07月10日(金)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は その願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対 する私たちの確信です」Tヨハネ5:14




主は、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われ、そ
のため祈り求める。しかしある人は、祈っているのに、
幾ら祈っても答えられないと言う。そんな時、祈りの原
則に照らす事は有益だ。まず「その耳が遠くて聞こえな
いのではない。あなたの咎が神との仕切りとなり・・」も
し罪があれば、主との間の仕切りとなるので、祈りが答
えられない。

それは悔い改めにより、主との間が回復する。又、「願
っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうと
して悪い動機で・・」とあり、その願いの動機はどうだろ
う。自己中心な動機だろうか。そうであれば、それが叶
えられると、更に主と反対方向へ向かう事になってしま
う。

又、自分の願いと、主の願いが違っている場合がある。
一致していない。自分の思いが強くて、それに固執して
しまう事がある。主のみ思いを尋ねてみよう。祈りを軌
道修正して、主のみ思いに合致するように助けて下さる。
又、主の御心に適っているが、答えの時期が、まだ先か
も知れない。忍耐をもって、主の時を待ち望む必要があ
る。

又、別の形で答えられていて、気づかず見えていないか
も知れない。自分はAを切望していたのに、Bの答えが
来たなら、それはBが主の御心であり、思いとは違うが、
自分にとってベストだ。信じ受け取れるよう祈ろう。ま
だ先に豊かな祝福が備えられている。まず主との交わり
の中で、お心を求めて行く時、その願いは叶えられて行
く。
-----------------
祈りにより主と交わる中で、主の光に照らされていく。
悔い改めや、御心を求める祈りで、迷いながらも平安を
をもって歩める。祈りのある生活は何と力強いのだろう。


2026年07月09日(木)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを 心配してくださる」詩篇55:22



試練にあって、苦しい時、重荷を主に委ねれば良いのは、
よくわかるのだが、委ねる事ができない。どうしても出
来ないだろうか。「委ねる」とは、石を転がすというよ
うな意味で、主の上に、あなたの重石である重荷を転が
してしまうことだ。

石を転がすと、その転がした石はどうなるだろう。それ
は主の上にあって、もう自分のもとには無い。そのよう
に、主にきっぱりと手放してしまうことだ。すると思い
煩いが消えてしまう。不安が失せて、平安が心に満ちる。
経験した事があるだろうか。重荷が、心配事が、主の手
に渡ってしまうからだ。

ところが、委ねたつもりでも、自分が握っているなら、
いつまでも不安が消えない。平安にならない。主に渡し
た「つもり」で、実は渡していない。どうしてだろう。
自分が手を放してしまうと、すべてが崩壊してしまうと
思うので、放す事ができない。尚の事、自分がしっかり
握っていなければと思う。

つまり主を信じることができない。自分が手放すと、だ
めになってしまうと思う。だから放せない。問題が「信
仰」だろうか。「信じる事ができない」ところにあるな
ら、その事を主に打ち明け、助けを求めよう。自分の思
い通りにしたいとの強い思いがある時も、委ねられない。

委ねると自分の思いが通らないからだ。委ねるとは、
「イエス」でも「ノー」でも、どちらでもOKです、と
の態度だ。その事に強く執着しているなら委ねられない。
御霊に心を探っていただいて、主の助けを求めよう。主
は委ねさせて下さる。
----------------
何とか自分が落ち着く結果をと悩んで、荷をますます重
くした経験がある。そのままの思いを主に祈りたい。委
ねられないと、主に助けを求めよう。


2026年07月08日(水)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためで あり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる 私たちへの教訓とするためです」1コリント10:11



聖書は、信仰者の失敗をありのままに記している。世の
書物なら、都合の悪い事柄は隠ぺいする。だが聖書には、
赤裸々に記されている。アダムとエバは、神でなく、罪
の方を選んだ。そして神から隠れた。ノアは酔っ払って
失敗し、アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の時を待
てずに女奴隷により、イシマエルを産み出した。肉の行
ないで失敗した。

イサクも父と同様に、妻リベカを妹と偽る。ヤコブは父
と兄をだまして祝福を奪い取った。モーセは40歳の時に
殺人を犯し、逃亡した。又、出エジプトの後、荒野で怒
りで岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。

アロンは金の子牛の偶像を作り、罪を犯した。ダビデは
姦淫に殺人の罪を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切っ
て逃亡した。主は、それら失敗をことごとく悔い改めに
導き、赦され、尚も変わらない愛で、愛し続けられた。
どんなに失敗をしたとしても、決して見捨てられない。

アブラハム、イサク、ヤコブは祝福され、モーセは民救
出の大役を果たし、ダビデは詩篇を記し、ペテロは諸教
会のリーダーとして活躍した。失敗の時は、問題の原因
を考えよう。自分のどこの弱さで、自分の何に触れるの
か。高慢、プライド、虚栄心、貪欲・・御霊に内側を探っ
て頂こう。

そうする時、失敗を繰り返す事から守られる。失敗を教
訓とせよと言われている。いたずらに落胆せず、主の全
き赦しを受け取ろう。感謝しよう。主はあわれんで下さ
る。どんな時にも、もう一度やり直すことができる。主
は立て直し、立て上げて下さる。
--------------
犯した罪は主の十字架で赦されるが、何度も繰り返した
くない。自分の失敗をしっかりと見つめて、弱さを自覚
していたい。新しく祈っていける。


2026年07月07日(火)

「すると、彼に次のような主のことばがあった・・彼は ツレファテへ出て行った」T列王17:8



主は、エリヤを一歩〃と導かれた。まず悪王アハブに、
雨が降らない事を告げるようにと。悪王に気に入らな
い事を言えば、その場で打ち首だ。しかしエリヤは主
の命令に従った。どんなに勇気が要った事だろう。一
歩従うと、次の一歩が示された。

ケリテ川へ行けと。そこでカラスを用いて養うと。ア
ハブの攻撃から守り、かくまうためだった。しかし貪
欲なカラスが食べ物など運ぶわけがない。自分が食べ
てしまう。しかしエリヤは信仰により示しに従った。
すると主の言葉の通りに、カラスが運んで来る食物に
より養われた。

その川の水を飲んだが、日照りで遂にケリテ川も枯れ
た。すると次の示しが臨んだ。ツァレファテへ行けと。
そこのやもめにより、養うと。その通りに従うと、やも
め共々、大きな主の奇跡を見る。飢饉の中、やもめが手
持ちの限界、最後の食物をまずエリヤに献げた。

その結果、奇跡が起きて、飢饉の間中、豊かに養われた。
主は一歩づつ示される。御言葉は、私の足のともしび、
道の光だ。暗闇の中で、先も見えずわからない中、御言
葉は進むべき道を教えてくれる。足もとは常に見える。

サーチライトでなく、ともしびだ。一歩〃御言葉により
進める。一歩進むと、次へと展開する。そこで止まるな
ら、次の展開が無い。ずっと先まで知りたく、サーチラ
イトを求めていないだろうか。今、必要な事は、目の前
に示されている一歩を、踏み出す事だろうか。
-------------
ずっとが遠くが見えないと不安を覚えるが、祈りと御言
葉による一歩から始めたい。心も整えられ次へと導かれ
るのを経験する。先を焦らず照らされた一歩に従おう。


2026年07月06日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば・・御怒りを引き起こ したときのように、心をかたくなにしてはならない」 ヘブル3:7



「だれも悪い不信仰な心になって生ける神から離れる者
がないよう」にと、警告し勧めている。不従順になり御
言葉に従わないと、主から離れてしまう。そのために
「今日、御声を聞くなら」と、「今日」が強調されてい
る。せっかく、エジプトを出たのに、不信仰になった民
のようにならないために、明日ではなく、「今日」すぐ
に、主に立ち返るようにと。

悔い改めるべき事があれば、明日に延ばさず、すぐ悔い
改めよう。背後に悪魔が働き、ぐずぐず延ばすよう誘惑
が来る。すると気持ちが萎えて、思いが失せてしまい、
必ず悔い改められなくなる。又、決心すべき事があれば、
「今日」従おう。

明日でもいいや、と思っていると、明後日となり、決心
をぐずぐずしていると、その気持ちが失せる。ある人が、
信仰に一歩前進するよう示された。ぐずぐずしていると、
尚も促しがあったが、従わなかった。するとその思いが
消えてしまった。

祈り、時を経て、主のあわれみにより、再度御霊の示し
が来た時に、即、従った。喜びに満たされ、心から感謝
した。ぐずぐずし、ないがしろにすると、祝福の機会を
逃してしまう事を学んだ。

ある人は、中々祈りの時が持てなかった。ある日、御霊
の強い示しを感じ、即、従った。すると以後ずっと持て
るようになった。御霊の示しに従わないよう、悪魔は強
く妨げて来る。何か示されているなら、すぐに従えるよ
う祈ろう。 
-------------
示しが来ても、ふと立ち上がるだけで、次の用事に気を
取られてしまう。押し流される前に御霊の導きに従おう。
すぐに従えるよう祈ろう。


2026年07月05日(日)

「祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、 少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。 両親はそれに気づかなかった」ルカ2:43



主が12才の時に、ヨセフとマリヤと共に過越の
祭りで、エルサレムに上られた。帰路につくが、
主はまだ、とどまっておられた。1日歩いた後、
夫妻は我が子がいない事に気づき、心配と不
安の一夜の後、翌日都に引き返した。3日目に
都中を探し回り、やっと宮で見つけた時、教師
たちの真中で、話を聞き質問していた。

人々はその知恵と答えに驚嘆した。両親は驚き、
非常に心配し、捜し回ったと告げると、主は、「わ
たしが必ず自分の父の家にいることをご存じなか
ったのですか」と答えた。主は、肉の父と、霊の父
がいる事を明かされた。ヨセフとマリヤは御使い
からの託宣、数々の預言、奇跡による誕生等を
通して、イエスが神の子であることを理解してい
た。しかしいつしか肉親、我が子になっていた。

主は両親に、自身は神から来て、メシヤとして遣
わされた事を思い起こさせようとされた。その時、
両親には意味がわからなかったが、マリヤは心
に留めていた。主は一緒に帰り、両親に仕えら
れた。主は、神の子であるとの自覚の後、仕える
ために帰られた。信仰は、人に仕える事となって
現れる。仕えるとは、へりくだって、互いに人を自
分よりもすぐれた者と思うことだ。

へりくだらなければ、仕えることはできない。又、
主は「必ず自分の父の家にいる」と言われ、両
親は主を、違った場所に探し、見つけられなか
った。自分の肉の思いで主を探すと、見失って
しまう。いつも主を仰いで、御霊の導きの中にい
る時に、「わたしにとどまりなさい」と言われる、
主にとどまる事ができる。

・・・・・・・・・・・・・・
しばしば、主を自分の思いで、自分の思う場所に捜
してしまう。自分の思い通りでありたい。しかしそれ
は肉の思いなので、見つけられない。主に自分の思
いを明け渡して、主の御心を求めて行きたい。


2026年07月04日(土)

「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・ 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを 見て、施しを求めた」使徒3:2


ペテロは彼に、「金銀は私にはない」と言った。富
は快く、欲望のままに物を手に入れる事ができて、
快適だろうか。しかしどれほど所有しても、心に決
して満足は無い。幾ら得ても、更に欲する。「十分」
という事が無い。「貪欲」の罪だ。これは底無しで
あり、哀れで悲惨だ。

箴言に「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』
と言う。もう十分だ」と言わない」と。ペテロとヨハネ
に、施しを求める男に、ペテロは「金銀は私には無
い」と答えた。「しかし、私にあるものを上げよう」と。
私たちはどうだろう。何を求めているのだろう。何を
求めて、主のもとにいるのだろう。

実は、自分の欲しいもの、都合良いものを求めて
いるのだろうか。金銭でなくとも、「自己実現」「自分
が成功すること」「人に人格者と思われたい」「生き
がい、充足感が欲しい」無形の金銀だろうか。しば
しば自分が求めているものと、主が意図し、与えて
下さるものとが異なっている。方向違いに求めてい
る。

「しかし私にあるものを上げよう」。私たちが欲しい
ものでなく、主が、必要と思われるもの、最も良い
ものを下さる。「イエス・キリストの名によって歩き
なさい」これを与えて下さるのであり、これこそが
彼にとって、又、私たちにとって、最も必要で、素
晴らしいものだ。主の御心と、自分の心が合って
いるだろうか。主は愛ゆえに、いつも軌道修正し、
主の御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
しばしば御霊の導きでなく、方向違いに求めてし
まう。しかし「わたしにあるものを上げよう」と、主
が良いと思われるものを下さるとは、何と感謝な
事だろう。主の下さるものに、あずかりたい。


2026年07月03日(金)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、 この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろも ろの悪霊に対するものです」エペソ6:12



悪魔は「策略」をもって攻撃して来る。練りに練られた
策略だ。決して考え無しではなく、場当たり的なもので
ない。計画的犯行だ。「落とし穴がある」と知れば、人
は身を引き締め、警戒し、見破ろうとする。通常、罠に
かけるなら、口外する者はいない。しかし「悪魔の策略」
とあり、綿密な作戦があるという事だ。

警告にかかわらず、気にも留めていないだろうか。悪魔
は私達の「感情」に働いて来る。人に腹の立つ言動や態
度をされた時、「言い返せ!報復せよ!」と言う。悪魔
にあおられ、感情がエスカレートし、犯罪にまで至る。
私達は、感情は荒れ狂うが、意志はコントロール出来る。
そのように造られている。

悪魔は私達の「感情」に働き、対人関係が、好き嫌いで
振り回される。人をさばき、憎むと、苦しく平安が失せ
る。背後に悪魔の攻撃が、来ているだろうか。感情はコ
ントロールできないが、意志はできる。意志を向けて、
赦し、愛する事ができるようにされている。

意志を向け、選択する時、主から必要な力が来る。悪魔
が働き、目に見えるのは相手だが、実は、相手への裁き、
憎悪、妬みを起こさせ、罪を犯すよう、悪魔が仕向けて
いる。血肉とは戦っていない。背後の悪魔に気づける
ように。祈っていよう。
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行為の前に、感情に働いてくるサタンを識別していたい。
平安が失せ、苦い気持ちに気づいたら警戒し、御心を主
に祈ろう。主にありのままを告げ助けを求めよう。


2026年07月02日(木)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ るのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこ ろには自由があります」Uコリント3:16


私たちは新生し、新しい性質が与えられた。だが古い性
質、肉も残っている。日常で、容易に肉に流されてしま
う。嫌な相手がいるなら、肉は嫌っていたいし、憎しみ
が湧く。人の言動にカチンと来ると、まず祈るよりも、
一言、言い返したい。スッキリすると思う。

傷つけられると、何倍にもして報復したい。又、主に従
うよりも、好きな事をしたい、楽な方へ流されてしまう。
祈るよりもテレビを観、趣味をし、お喋りをしたい。一
日の終わりには、肉の思いで、いっぱいだ。そのまま眠
りにつき、又、朝になり、その繰り返しだと、どんどん
肉へ流されてしまう。

気づかないまま、知らず〃、主を離れてさまよってしま
う。それをくい止めるのが、主との交わりであり、祈り
と御言葉だ。多忙な中、少しでも主との交わりを持つ時
に、御霊は働かれ、悔い改めが与えられ、赦されて、新
しい力が与えられる。非常に多忙の中も、主に向く時、
霊が新たにされ、生き生きと歩んで行ける。

ある人が、仕事の難題に心身すり減らし、続く深夜帰宅
で睡眠もとれず、疲労はピークに達していた。イラ立ち
が抑えられず、時間も無く、祈りの時も持てていない。
もう限界で、昼休みに屋上の隅で、主との交わりを持っ
た。あるがままを祈り、求めは、叫びとなった。主に触
れて、新たにされたのがわかった。平安が戻り、喜びと
共に、午後の仕事に戻れた。
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忙しい日常でいつも直面する。気づくと自力で走り、肉
の思いにふさがれ、平安がなくなる。主と向き合い交わ
る時間を守ろう。そして生き生きと歩んでいこう。



2026年07月01日(水)

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめ なさい。そうすれば、外側もきよくなります」 マタイ23:26


主は、パリサイ人に対して、極めて厳しい言葉を語られ
ている。「忌まわしいパリサイ人」「偽善の律法学者パ
リサイ人」「目の見えぬ手引きども」「白く塗った墓、
死人の骨や汚れたものでいっぱい」「内側は偽善と不法」
「中は強奪と放縦」「蛇ども、まむしのすえども」と。

主は、彼らを憎まれたのではなく、悔い改めることを望
んでおられた。主が見られるのは内側なので、幾ら外側
ばかりをきよめても、何にもならない。主が喜ばれるの
は、外側をきれいにする事でなく、内側の罪深さ、醜さ、
憎しみ、妬み、高ぶり、偽りを悔い改めることだ。

パリサイ人は内側は関係なく、外側だけを、行ないだけ
を問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外部から見
ることができるが、しかし、自分自身もまた、容易にパ
リサイ人なってしまう。人からどう見られるか、外見が
気になって仕方がない。嫌われたくはなく、良い人に見
られたい。

そのため無意識にも、良い人に振る舞ってしまう。人の
目を気にして、外側を繕ってしまう。それを続けている
と、良い人でも何でもない自分を、良い人だと勘違いし
てしまう。そして、高慢に陥ってしまう。本当の自分は
、妬みや憎しみ、裁き、怒り、イライラでいっぱいだ。

これならパリサイ人と同じだ。主は、私たちを愛して下
さっているので、本当の姿を教えたい。説教や学び、デ
ボーションの御言葉を通して、照らし出して下さる。悔
い改めて、赦し、きよめるためだ。偽善に陥る事から守
って下さるためだ。
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外側を整えることで安心している事を認めたい。本当の
姿が見えなくなってしまう。内側の信仰をいつも新しく
され、主によって生きていこう。