2024年12月22日(日) 「まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼 している」詩篇 33:21
「まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼 している」詩篇 33:21
神学校を卒業したある若い働き人が、地方に開拓宣教に出た。 田舎の非常に固い地であり、宣教は困難を極め、なかなか人は 来ない。チラシを配っても〃人は来なかった。又、人が来ても、 続かなかった。頭では、田舎伝道は大変だと聞いていたし、理解 していたつもりだが、実際に経験し、もう心が折れそうだった。 そんな中、働きの成果が出たら喜び、出なければ、がっかりした。 人が来れば喜び、来なければ、落胆し、ひどく落ち込む。そん な歳月を経て、ある時、気づかされた。目に見える成果で一喜一憂、 アップダウンし、自分は絶えず気持ちが不安定この上ない。それ なら、常に成果を見つめ、成果を喜びとしているのであり、主を 喜びとしているのでは無いと。 見ているのは成果であって、主ではない。だからひどく落ち込んで しまう。そうでなく、与え主を絶えず仰いで、どんな時にも、主を喜 んで行くなら、どのような状況の中でも、結果がどうであれ、喜び がある事を教えられた。主が与えて下さったものを、祝福を、喜ぶ のでなく、与え主である主ご自身を喜んで行くからだ。 そして主を喜んで行くなら、もし自分の思い通りに事が運ばない としても、そこに不満は無い。主を喜び、信じているからだ。主の ご計画がある事を信じ、主のしようとしておられる事がある事を 信じ、万事が益になる事を信じて行く。そんな中で、主は信仰を 鍛え、更に信仰を強めて行って下さる。今、見ているのは主だろ うか、それとも主の与えて下さるものだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主が与えて下さるものは嬉しい。しかしそこに軸を置くと、与えら れなければ、落ち込み、祝福されていないのではと、さみしくなる。 軸を、決して変わる事のない主ご自身に置けるよう、祈ろう。すべ ての道で、主を認めて行けるよう祈ろう。
2024年12月21日(土) 「私の時は、御手の中にあります。」詩篇 31:15
「私の時は、御手の中にあります。」詩篇 31:15
ダビデもそうだが、ヨセフを通しても、様々な「時」について教 えられる。ヨセフは、父親から特別にひいきされ可愛がられ、 その事で兄たちから、ひどく妬まれていた。そのため、エジ プトに奴隷として、売られる事になった。だが、そこで、大変 良い主人のもとに導かれた。 、ヨセフも忠実に懸命に働き、主人から全信頼を受け、その 家の何もかもを、任せられるまでになった。奴隷の身ながら、 素晴らしい祝福に、ヨセフは、さあ「神の時」だと思ったかも 知れない。しかし主人の妻の誘惑に会い、その事で無実の 罪で投獄された。奴隷より更に悪い囚人となってしまう。 それもヨセフに何の非も無いのに。しかし牢で、主を見上げ、 腐らず、失望せず、自分に出来る事を忠実に行なった。そこ でずっと「忍耐の時」を過ごす。最終的には牢から出され、 総理大臣に任命され、王より全権を任される事になる。長い 忍耐の末に、とうとうヨセフの「時」到来だ。 あなたは今、苦しみや悲しみの「時」だろうか。まさに目の前 が真っ暗で、何の希望も持てない「時」だろうか。しかしヨセフ のように、主のスケジュールがあり、「主の時」がある。主を 信頼して、主を待ち望もう。私たちの信仰が、練り鍛えられる 時であり、強めて行って下さる。あなたへの「時」がある。 今は、先が全く見えないかもしれないが、必ず時満ちて、主が あなたを引き上げられる。主の「時」は完璧だ。間違いが無い。素 晴らしいみわざを見る。最悪の状況の中で、自らの力が尽きるとこ ろにこそ、弱さの中に、主の力が現われる。どの「時」でも、ある がままの思いを、気持ちを主に告げて、受け止めて頂こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰人生で、何事にも、主の「定められた時」がある事を、経験 をもって知る。主の時でなければ、物事は微動だにしない。そし て主の時が来ると、事態が動き、するすると、目の前で開いて ゆく。すべての状況に主を認め、時を待とう。
2024年12月20日(金) 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のための ものです。」ヨハネ11:4
「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のための ものです。」ヨハネ11:4
マルタとマリヤの弟ラザロが、病気で危篤状態であった。そこで姉 妹は、主のもとに使いを送り、ラザロが病気だと伝えた。伝えさえ すれば、愛して下さっているので、主は、すぐに来て下さると思っ たろう。しかし病気が伝えられた時、主はすぐに行かれなかった。 危篤状態なのに、なお2日とどまられた。理由が、マルタとマリヤ とラザロを愛しておられたからとある。 私たちも愛しているなら、心配し、すぐに飛んで行くのではと思う。 だが、主は、病気のいやしより遥かに大きな、死からよみがえらせ るというご計画を持っておられた。私たちも、どうだろう。ずっと 祈り続けているが、なかなか答えられないだろうか。その祈りが、 もし主の御心でないなら、どれだけ祈っても答えられないが、主の 御心に適った祈りは、必ず答えられる。 しかし、主の定められた「時」がある。非常に長く感じられるかも しれない。しかし主が「時」を、すでに備えておられる。「神のな さることは、すべて時にかなって美しい」。それは、しばしば私た ちの思いとは異なり、主の思いは、いつも私たちより高い。その 「時」は、一番美しく神の素晴らしさが現れる時だ。 あなたが祈り続けている、その祈りは一番ふさわしい時に、答えら れる。主の御心にかなった祈りは、必ず答えられる。遅れているよ うに見えるが、その答えを通して、神の栄光が現わされる。失望せ ず、信じて、その祈りを続けよう。主はあなたを愛しておられる。 ----------------- 待たされているのにも主の御心がある。ご計画を信じ、定められた 時を信じ祈っている者を、主は必ず守ってくださる。愛されている。 主の栄光を待ち望もう。
2024年12月19日(木) 「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなた がたが悲しんで悔い改めたからです」Uコリント 7:9
「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなた がたが悲しんで悔い改めたからです」Uコリント 7:9
「悲しんだ」からでなく、「悲しんで悔い改めた」から喜んでいる とある。悲しむ事と、悔い改める事とは別ものだ。悔い改めとは、 心を変える事だ。後悔ではなく、方向変換であり、方向を変えて行 動し、神に立ち返る事だ。心が変えられるので、行ないも変わって 行く。そのため実を結んで行く。 しかし後悔とは、罪自体を悲しむのではなく、罪の結果を悲しむ事 だ。罪は結果が出て来る。秩序の乱れ、混乱、破壊、悪い実を結び、 自分だけでなく、周囲をも巻き込み、苦しめ、悲しませる。結果が、 まずかったことを悔やむばかりだ。結果が、人前にあらわになり、 知られる事が、体裁悪く、恥ずかしい。心底悪いと思っているわけ ではない。だから「世の悲しみは、死をもたらす」と言っている。 「神は、いのちに至る悔い改めを・・お与えになった・・」とあり、い のちに至る悔い改めは、神から与えられるものだ。それは御霊の働 きだ。罪を悔い改める事ができるのは、神の愛、主の十字架の救い と赦しがあるからこそだ。放蕩息子は、財産をもらい受け、父のも とを離れ、したい放題、好き勝手をし、最後には何もかも失った。 使用人にまで愛深い父親を思い出し、自分の愚かさに気づき、「罪 を犯しました。子と呼ばれる資格はありません。雇い人にして下さ い」との言葉をリハーサルし用意した。しかしそれを言う前に、父 親が走り寄り、息子を抱きしめた。無条件で受け入れられたその時 に、彼に、真の悔い改めが起きた。御霊は主の愛により、真の悔い 改めに導いて下さる。 ----------------- 罪が表に出てしまったというだけの後悔罪をでなく、罪を犯したこ とから主に近づき、真の悔い改めに向かいたい。主は正しい方であ っても、あわれみ深い方だ。主に悔い改めよう。
2024年12月18日(水) 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持っ て来なさい。』」マタイ14:18
「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持っ て来なさい。』」マタイ14:18
私たちは、諦め思考、マイナス思考が無いだろうか。物事のネガテ ィブな面ばかりを見てしまう。「こんなに大勢の、圧倒的な未信者 の中で、私が少しぐらい証ししても、何になろう。無力だ。」「こ んな微々たる献金しても、焼け石に水だ。何の足しにもならない」 「こんなに大きな問題に、私が、祈ったところで何になろう。 こんな微力の祈りが何の役に立とう」「私に何ができよう」・・ふっ と心に湧いて、影響を受けてしまうだろうか。 サタンのささやきだ。「無駄だ」「そんな小さなものが何になる」 と失望感、無力感を持って攻撃が来る。少年の5つのパンと2匹の 魚は、幼稚園児のお弁当ぐらいの微々たるものだが、これが何にな る、何にもなりはしないと、はなから否定して、主のもとへ携えな ければ、彼は、主に用いられるという、人生における大きな喜びを 経験できなかった。 又、皆も、この素晴らしい奇跡を見る事は出来なかった。主は、全 能の力を持っておられる。主にできない事は一つもない。「パンが 5つと・・ほかありません」「それをここに持って来なさい」。その 微々たるものを、自分が何が出来ようと思う、あなた自身を、主の もとへ持って来よと。 主は大いに祝福される。献げられたものを用いて奇跡をされる。ど んなに僅かであろうと、小さかろうと、問題無い。主は祝福され、 周りの人々は十分満ち足りて、満腹する。周囲の祝福の器とされる。 微々たるものを用いられる。臆せず主のもとに携えよう。自分でな く、主がどんなお方であるかの問題だ。 -------------- 僅かなものなら、何もしない方がましだと大人の知恵で考えてしま うが、子供の頃なら純粋に、主の御言葉に応答したのではないか。 主に頼り、僅かなものを主にお任せしよう。
2024年12月17日(火) 「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわってい た。彼は生まれながらの足なえた人で、歩いたことがなかった。」 使徒14:8
「ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわってい た。彼は生まれながらの足なえた人で、歩いたことがなかった。」 使徒14:8
ルステラに、生まれつき足なえの男性がいた。生まれてから一度も 歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が 丁度そこに座っていて、じっと耳を傾けていた。彼は全く歩けず、 自分の足に関して、無力で何もできなかった。いかにしても、歩く 事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もできない。だか らこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉 にすがる事ができた。 もし自分に力があれば、さっさと何でも自分でしていたであろう。 彼にはこの言葉しかなかった。すべての望みを託して、信じて賭け た。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そう できた。その信仰に、主の力が働き、奇跡が起きた。かつて、ただ の一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり、歩き出した。 私たちも、自らの徹底無力を知る時こそが、信じる時だ。何の方策 も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。そのどん底 の時に初めて、信仰が働く。信仰を働かせる事ができる。自分の力、 方法に頼っている限り、自分に頼っている限り、主への信仰は無い。 信仰半分、自分の力半分というのはあり得ない。 御言葉があっても、肉は必ず自分の力、方法でやって行く。そこに 信仰の入る余地がない。信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を明 け渡して行く事だ。それゆえ、自らの無力を知る事こそが、大きな 祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。むしろ、主から の恵みだ。 ------------- 自分の知恵や力の及ばない出来事を時に主は送られる。ふり返ると 辛く苦しい時にはいつも、主の完全な守りと支え、導きを受け取っ た。無力は主からの大きな恵みを受け取る時だ。
2024年12月16日(月) 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
ある女性の証しだ。小さい時から人一倍頑張り、塾に通い、成績も 良く優等生で来た。周囲からもほめられ、自分でも、羽目をはずす 事もなく、真面目で良い子だと思っていた。ある時、友人に誘われ 教会に行った。「罪」という事が、わからなかった。自分は真面目 に生活して来て、非行に走った事もなく、法を犯す事もしていない。 しかし友人と午後は一緒に勉強したり、又教会の交わりも楽しく、 ずっと通い続けていた。そんなある日、放蕩息子の箇所の学びがあ った。その時に、弟息子ではなく、兄息子が、まさに自分に重なる 事に愕然とした。家出して行方不明の弟を、心配もせず、軽蔑し、 見下して、そして帰って来た弟を受け入れる父親に、不満を爆発さ せる。誰にも見せる事の無い、自分の内側だった。 ニコニコと、誰にもいい顔をしつつ、実は出来ない子を見下してい た。勉強をしないからだと。自分は正しく、良い人間であり、心の 中では、不良の子たちを冷ややかに裁いていた。そして心の中は、 決して満たされてはおらず、怒りと不満でいっぱいだった。絶えず ストレスを抱えていた。突然、御霊の光で自分の姿があらわにされ、 初めて罪がわかった瞬間だった。 心底自分は罪人であった。頭で聞いていた主の十字架が、まさに自 分のためであると迫り、悔い改めが与えられた。御霊が働かれ、罪 を教え、十字架の意味をわかるようにして下さった。御霊の光によ り、自分も知らない、自分の本当の姿が照らし出し、真理へと導か れる。 ------------- 自分の事として自分の罪に向き合うよう、御霊の示しが来る。本当 に罪人だと心に刺さってくる。主が共におられることを実感して、 へりくだらされる。御霊の示しは祝福だ。
2024年12月15日(日) 「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装する のです」Uコリント11:14
「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装する のです」Uコリント11:14
悪魔の巧妙さは、誘惑する際に、光の御使いに偽装する事だ。 「サタンさえ光の御使いに変装する」つまり神に見せかけ、良い、 麗しい事に見せる。エデンでエバに「神が」「御言葉が」と言い、 クリスチャンと同じ者と思わせる。又、目的のために手段を正 当化させる。目的が正しければ、手段は構わない、結果オー ライだと誘惑する。 子どものためだと道をつけ、実は親自身のエゴで自己満足だっ たりする。家族に楽をさせるためと、金銭的に誤った方向に走 る。これらは悪魔の誘惑だ。誘惑が来ている。主は目的も手段 も、聖く、正しい事をされる。主は人に自由意志を与えられた。 この自由意志は、神も悪魔も関与できない。 悪魔はこの自由意志に触れる事ができず、強制できないので、 巧妙な手段を取る。何度も〃繰り返し〃執ような誘惑で、罪に 引きずり込む。サムソンが、デリラに力の秘密を教えるよう、 毎日〃しきりにせがまれ、サムソンは死ぬほど辛かった。「毎 日」「しきりに」とあり、悪魔は毎日〃、しきりに誘惑して来る。 絶え間なく、執ように来たらどうだろう。 又、欲望を絶え間なく、かき立てられたなら、どうだろう。いつか 必ず行動に移ってしまう。神から離そうと、獲物を狙う悪魔を、 わきまえていよう。悪魔は、行き当たりばったりでなく、思い つきでなく、悪魔は用意周到な「策略」を持って、誘惑して来 る事に心していよう。今、誘惑が来ているだろうか。悪魔 に気づけるように、御霊の助けをいつも祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 悪魔は狡猾巧妙で、心の内を見ていて、これまでの経験経歴 も、弱点すべて知っている。霊的知識も深い。どこを攻撃すれ ばよいかも知っている。しかし主はすでに勝っておられる。神 に従い、悪魔に立ち向かえと。主が絶えず共におられる。
2024年12月14日(土) 「ダビデは、オリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、 その頭をおおい、はだしで登った」Uサムエル15:30
「ダビデは、オリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、 その頭をおおい、はだしで登った」Uサムエル15:30
ダビデが、最も信頼していた議官の一人がアヒトフェルだった。 「私をそしる者が敵ではなく、。それなら私は忍べた。私に向か って高ぶる者が私を憎む者ではない。それなら私は、彼から身 を隠した。そうでなく、お前が。私の同輩、私の友、私の親友の お前が。私たちは、一緒に仲良く語り、神の家に群れと一緒に 歩いて行ったのに」と。 反対者が敵対するのは、通常であり対処できる。しかし味方で あり、同輩、一緒に行動して来た親友の裏切り、敵対は、心裂 かれるように辛い。だがダビデは、目の前に起きる一つ〃の出 来事が、バテシバとの姦淫、その夫ウリヤ殺害の、罪の刈り取 りである事とわかっていた。ダビデは苦しみから逃げずに、正 面から受け止め、主と共に刈り取って行った。 親友が、実子に荷担する裏切りも「アヒトフェルの助言を愚かな ものにして下さい」と主にゆだねた。主に祈り、信頼を主に置い た。自分で対処せず、絶えず祈りに持って行った。息子アブシャ ロムが謀反を起こし、ダビデに敵し、戦いの準備を進めていると 耳に入る。息子とは戦えない。ダビデは逃げる道を選択する。 「ダビデはオリーブ山の坂を登った。泣きながら登り・・彼と一緒 にいた民も皆、頭をおおい泣きながら登った」ダビデは泣いた。 どれほどの心痛だったろう。オリーブ山は主を礼拝する場所だ、 主の御心と受け止めたダビデは、更に主に拠りすがり、主に近 く歩む者とされた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ダビデに学ばされる。姦淫と殺害、その隠ぺいという大罪を犯 したが、悔い改めた。罪は赦されたが、自らが蒔いたものは、 必ず刈り取りがある。ダビデは主と共に刈り取って行った。 それをも訓練とされ益とされ、主のあわれみは尽きず限り無い。
2024年12月13日(金) 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の みこころは何か・・わきまえ知るために、心の一新によって自分 を変えなさい」ローマ12:2
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の みこころは何か・・わきまえ知るために、心の一新によって自分 を変えなさい」ローマ12:2
この世と調子を合わせないために、又、主の御心を知るためには、 御言葉を学ぶ事が非常に大切だ。御言葉により、初めて主の視点 に立った価値観、考え方、とらえ方を知る事が出来る。「御心は 何か」「何が良いことか」「何が神に受け入れられることか」 「何が完全であるのか」を知るのは、御言葉による。 自分の視点は自己中心で、どこまでも自分軸だ。それは古い価値 観であり、非常に根深いものがある。肉の歪んだ見方、とらえ方 をしてしまう。それを矯正してくれるのが、御言葉だ。クリスチ ャンになったからと、すぐに神視点に立った考え方が出来るので はない。御言葉により、少しづつ〃主の見方を学んで行く。 主の価値観を学ぶには、御言葉しかない。御霊に助けられて、少 しづつ学んで行こう。この世の価値観は真逆だ。この世は地のも のを求め、私たちは天を求めて生きる。方向が正反対だ。世の富、 地位、賞賛、成功を求め、私たちは主に喜ばれる事、主の似姿に 変えられる事、天に宝を積む事を求めて生きる。何が起きても 「すべて」の事に感謝する事、益とされる事、ご計画がある事、 主のみ思いは、しばしば自分の思いとは違う事、主の御心のみが 成就する事、最善をして下さる事・・。そんな主の視点に立って、 物事を見て行くためには、御言葉に接っし、親しむ事が不可欠 だ。主の価値観と自分の生まれつきの価値観が、相反するのだか ら。しっかりわきまえる時に、御言葉に頼る事の重大さを知る。 ------------- 長く培ってきた古い価値観によらず、主の御言葉に従い経験する 祝福は、思い煩いの多くの時間から解放してくれる。主に委ねる 事が少しずつ楽にできるようになる。御言葉に頼ろう。
2024年12月12日(木) 「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」 Tペテロ2:6
「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」 Tペテロ2:6
人は被造物なので、必ず何かに頼って生きている。頼らなければ生 きられない。自分は自主独立だと言う人は、自分に頼っている。主 に頼らなければ、必ず何か別のものが、心の拠り所、偶像となる。 富、愛する人、名誉、地位、人の賞賛、仕事・・何かを握りしめ、そ れにより安心を得ている。ザアカイは、富が自分を幸せにし、夢を 叶え、喜びを与え、生涯を保障てくれると信じた。 そのため必死に富を求めた。不正で私腹を肥やし、財を築きトップ に昇りつめた。有り余る富を得たが、罪を犯していたので、心は暗 く、喜びも平安も無かった。同胞からも後ろ指を指され、嫌われ、 軽べつされ、富は決して幸せをくれなかった。心は暗く、空虚で寂 しく孤独だった。一筋の光を、主に求め、望みを主に置いた。 主は、すでにザアカイをご存じで、主をあがき求める心を、見てお られた。ザアカイは人々に阻まれて、主に会えないとわかると、木 に登ってまで、主のもとへ。一途な心を、求めを、主は受け止めて 下さる。「今日、あなたの家に泊まる」と前もって決めておられ 、ザアカイは大喜びで主を招いた、その時、180度変えられ、全く の別人になった。 金の亡者が、財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った人々には 4倍を返すと。主により心は満たされてしまい、富の執着から解放 された。主は、求めを喜ばれ、求める心に、必ず応えて下さる。主 以外のもので、安心を得ているだろうか。主ご自身に向いて行こう。 決して失望させられることが無い。 ------------- 様々な事情があっても、日々、主から慰めを受けていると知ってい る者は、恵みを感謝して生きている。ザアカイのように満たされな いなら、認めて主に求めよう。主は近づいてくださる。
2024年12月11日(水) 「 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを 高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇 37:34
「 主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを 高く上げて、地を受け継がせてくださる」詩篇 37:34
サウル王が罪を犯して、王位を退けられた時に、主により、ダビデ が選ばれた。祭司サムエルが遣わされ、少年ダビデに会った。ダビ デはサムエルから油注ぎを受け、主の霊がダビデの上に激しく下っ た。イスラエルの王と定められていたが、ダビデには厳しい下積み 時代があった。 ダビデは忠実に誠実に、主とサウル王に仕えた。ゴリアテを倒した までは、サウルの愛顧を受け良かったが、ダビデの戦いでの勝利に 次ぐ勝利で、サウルの妬みをかう事になった。女たちが笑いながら くり返し「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌った。こ れがサウルを激怒させた。 「サウルは千を打ち」だけなら良いが、「ダビデが万」が怒りで、 サウルのプライドはズタズタだ。結果、サウルはダビデを憎み、殺 害のためつけ狙うようになった。妬みは、人を変えてしまう。ダビ デは槍を投げつけられた事もあり、いつ殺されるかわからない、絶 えず狙われ、死と隣り合わせの日々は、どんなに恐怖で不安だった ろう。 ダビデはサウル王に対して何も悪い事はしていない。忠実な良い部 下だった。しかしこの期間により、主に拠りすがるダビデは、忍耐 と信仰が練られ培われて行った。サウル殺害の機会があったが、自 分で手を下す事をせず、じっと主を待ち望んだ。この厳しい苦しい 試練を通して、委ねる生き方が培われた。 私たちも、極めて厳しい苦しい状況を通る。それはゆだねる生き方 が、身につけられるためだ。実地訓練であり、通らなければ、決し て身につかないものだ。主に拠り頼んで行こう。主を真に経験して 行ける時だ。 --------------- 試練の時に主に最も近づけられる経験をする。そこで与えられた信 仰は力だ。御霊に導かれたダビデの祈りを詩編から学ぼう。主を頼 り委ねて歩もう。
2024年12月10日(火) 「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すこ とがないように」箴言25:16
「蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すこ とがないように」箴言25:16
蜜は甘くて大変美味しいが、食べ過ぎると身体に悪く、過ぎると害 になってしまう。蜜を食べすぎる事と関連して、「隣人の家に、足 しげく通うな。彼があなたに飽きて、あなたを憎むことがないよう にせよ」との御言葉がある。食べ過ぎる事が害と同様に、隣人の家 に足しげく通う事が、害になると言っている。 どんなに仲が良くても、余りにひんぱんに通うと、相手に迷惑とな り、嫌われるようになる。喜びを与えるはずの交わりが、重荷とな り、嫌になってしまう。隣人と、適切なふさわしい距離を保つ事は 大切だ。近づき過ぎると息苦しくなる。ある人が失敗してしまった と証しした。趣味で意気投合し、ても、楽しく交われる相手に会え た喜びで、足しげく通ってしまった。 最初は楽しかったのだが、余りにも近づき過ぎた結果、相手のプラ イバシーに踏み込んで、傷つけてしまった。その結果、双方傷つい て、離れる事になってしまった。足しげくにならず、食べ過ぎず、 適度のバランスをわきまえる事は大切だ。過不足の無い、ふさわし い距離が大事だ。 又、一番重要な事は、慰めや励ましの心の必要を、人に求め、人に 依存するのでなく、まず主を求め、主に拠り頼むことだ。心の奥底 の必要を、決して誰であれ、人は満たす事ができない。その空洞は、 主にしか満たせない。まず主との交わりを第一にし、次に人との関 係を持つ時に、すべてが秩序立ち、祝福とされ、良い関係に導かれ て行く。 ------------- 人に頼っていくと、ふさわしい距離がわからなくなってしまう。 一人の時間を豊かな主との交わりで、満たされたい。御霊の導きに 従って、更によい関係へと進めたい。
2024年12月09日(月) 「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私 を打つためのサタンの使いです」Uコリント12:7
「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私 を打つためのサタンの使いです」Uコリント12:7
パウロは、辛く苦しいとげが与えられた。とげは、容赦無く突き刺 し、どんなに激しい痛みにさいなまれた事だろう。私たちにも、今、 とげが与えられているだろうか。親子関係や夫婦関係の悩み、対人 関係のいざこざ、厳しい経済的苦境、仕事上の困難な問題、病気や けがの痛み・・様々なとげがある。 パウロは、このとげを去らせて欲しいと、真剣に切に祈った。この とげさえ無ければ、もっと宣教活動に専念できて、スムーズに働け るのにと。私たちも、とげから解放されたい。この痛みを、この問 題を、とげを取り去って欲しい。何とか解決しようとするのだが、 どうにもならない。苦しい対人関係を、何とかしようとするのだが 、ますます感情的にもつれ、問題が絡み合い、溝は深まり悪化する ばかりだ。 経済的問題を何とかしようとするが、尚も想定外の出費がかさみ、 どうなっているのか。パウロは主の御心を知らされた。「高ぶらな いために」与えられていると。サタンからのとげであったが、主が サタンをも利用され、へりくだらせて下さるためだった。そして主 の恵みは十分で、主の力は、弱さの内に完全に現われると。 世の価値観は根深く、強さの中だと勘違いする。が、そうでなく弱 さの中だと。弱さの中に主の臨在があり、主が現われて下さる。だ からこそ、大いに喜んで弱さを誇れと。とげは、へりくだって主に 拠り頼むためであり、頼り続けるためだ。そこに主の力が現される。 自分を明け渡し、主に働いて頂こう。主の栄光を拝する。 ------------- 弱さや苦痛を喜ぶことは出来ないが、祈っても祈っても去らないの は、そこに意味があると信仰によって受け止めたい。わたしの恵み は十分であると私にも語られている。
2024年12月08日(日) 「『あなたがたは、いつまでどっちつかずでよろめいているのか。 もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、 それに従え』しかし、民は一言も彼に答えなかった」T列王18:21
「『あなたがたは、いつまでどっちつかずでよろめいているのか。 もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、 それに従え』しかし、民は一言も彼に答えなかった」T列王18:21
エリヤは、アハブにカルメル山に、全イスラエルと450人のバアル 預言者と400人のアシェラ預言者とを集めるようにと言った。アハ ブはそのように集めた。そこにイスラエルの人々と群衆がいた。 エリヤは、それらの人々に向けて叫んだ。「いつまでどっちつか ずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、 もし、バアルが神であれば、それに従え」と。 心に定まりが無く、その場〃で、カメレオンようにころころ変わり、 自分に都合の良い方に従う。イスラエルは、元々神の選びの民 として、先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であるヤーウェを 知っていた。だが同時に、皆がアハブに従い、バアルやアシェラ への偶像礼拝も、現実に行なっていた。 状況により都合の良いように態度を変えた。「冷たくも、熱くもな い。むしろ、冷たいか、熱いかであって欲しい。なまぬるく、口か らあなたを吐き出そう」との状態だった。ヤーウェを拝み、バアル も拝む、このどっちつかずにより、イスラエルに偶像礼拝が大き くはびこった。国を堕落させ、滅びへと向かわせてしまった。 主に従うのでなく、肉は、自分の欲、体面、都合と、主ではなく、 自分中心に向かう。まず、どっちつかずである事を認め、助けを 求める時、主は従う者へと変えて下さる。主の愛を知り、主ご自 身を知る幸せは何にも代えられない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いつも自らの現状を認める事から祝福が始まる。肉は強く、自 分の思い通りに、好きなように生きて行きたい。払う犠牲にちゅ うちょし、むしろどっちつかずでいたい。本心を認め、助けを求 めて、ありのままを祈ろう。主は導いて下さる。
2024年12月07日(土) 「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中 強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれ た」出エ14:21
「そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中 強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれ た」出エ14:21
モーセが、民を導いて出エジプトを果たし、海辺で宿営していた 時、パロの軍隊が追跡して来た。みるみる内に、そのパロの軍 勢は追いついて来た。前は海で、後ろからは追っ手という、絶体 絶命の危機だ。イスラエルの民は恐怖で、神に叫び、モーセに 文句を言った。 奴隷の苦難から、救い出してもらったにかかわらず、突如の手 の平返しだ。エジプトから連れ出したりして、一体何という事をし てくれたのかと、不平不満をぶちまけた。その時、神は奇跡をさ れ、海の中に道を造られた。そして、安全に無事に、民は紅海を 渡った。 あなたは今、断崖絶壁にいるだろうか、絶体絶命だろうか、神 は必ずあなたのために、道の無い所に道を造られる。「あなた の道は海の中にあり、大水の中にありました。そのため、あな たの足跡を見た者はない」と。その道は、隠されていて見えない。 しかし信仰持って前進すると、道が目の前に現れて来る。海が分 かたれ、道が備えられていたように。 ある人は進路において経験した。受験が想定外の結果で、不合 格だった。希望が断たれ、目の前が真っ暗だ。どうすれば良いの か、祈りに祈った。その時に、道が海の中にあった。目の前に突 然道ができて、留学の道が開かれた。思いを越えた恵みだった。 ある人は、経済的苦境で、進学を断念しようとした時、ある方面 から突然の援助が与えられ、道が造られた。あなたも振り返る時、 海の中に道があった事だろう。これからも主は、道無き所に道を 造り、私たちを安全に導いて下さる。私たちは前進して行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰人生で、幾度も絶体絶命の海の中に道があった。だからこ そ、今がある。信仰が守られ、保たれている。当然ではなく、主 によることだ。感謝しかない。これからも道無き所に、道を造って 導いて下さる。
2024年12月06日(金) 「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石 がパンになるように、命じなさい』」マタイ4:3
「試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石 がパンになるように、命じなさい』」マタイ4:3
主は「御霊に導かれて」、荒野で悪魔の試みに会われた。40日間の 断食後で、まさに限界で、生きるか死ぬかの状態だ。その状態の主 に、悪魔は誘惑して来た。神の子で何でも出来るのだから、目の前 の石をパンに変えて、自分でパンを作れと。「このままでは確実に 死ぬ。神はパンを与えてくれないのでは?」との疑いを吹き込む。 「神に頼っていたら、らちがあかないのでは」「この局面では、自 分で何とかした方がいいよ。出来るのだから」と。「死んだら、人 類の救いも元も子も無いではないか」「とにかく命を保つことが第 一」、あなたにも、こんな誘惑が来るだろうか。「祈りなんて時間 がかかるし、さっさと自分でしてしまえば。 すぐ出来るよ、それでうまく行けばいいじゃない」「結果、オーラ イだよ」「自分でやった方が早いよ。御心にかなった事なんだし」 と。それこそ、今ここで死ねば、元も子もない。自分の使命はどう なるのか。まずはパンを食べて、とにかくは生き延びねば。 神に頼り続けるなら、あたかも餓死するかのように思わせる。「自 分で調達すれば?」神のためなんだからと、自分の判断で動き、自 力で事を行なうように仕向ける。サタンの巧妙な誘惑だ。しかし神 の口から出ることばによって生きる。どこまでも神の言葉の下に自 分を置いて、従うことが信仰だ。 神は必ずパンを与えて下さる。パンが命を造るのでなく、神の言葉 が命を造る。神への信頼を崩そうと攻撃して来る、サタンの巧妙な 誘惑と攻撃ををわきまえていよう。そして祈っていよう。 ------------- ふいに焦らされ、主に頼らず自分で動くように誘惑される。サタン の声を疑って祈ろう。主の御言葉には、いのちと喜びがある。主の 確実な御言葉を蓄えて、真実な言葉に変換したい。
2024年12月05日(木) 「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。 そこでモーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会が集まって いる前でひれ伏した」民数記14:5
「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。 そこでモーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会が集まって いる前でひれ伏した」民数記14:5
モーセは、カナンに12人の斥候を遣わした。そしてその報告を聞い た。10人は、民は強く、巨人たちもいて、城壁は大きい。とても攻 め上れないと、非常に恐れた。それを聞いた民は恐怖で怯え、ひど い不信仰に陥った。その不信仰は全体に伝染した。主の約束された 地にかかわらず、エジプトにいて、エジプトで死んでいたらよかっ たと、恐怖と不満で一杯で、皆でエジプトに帰ろうとまで言い出し た。 更にヨシュアとカレブを殺そうと言い出す。主は「いつまで信じな いのか、わたしを侮るのか」と。つぶやいた民は、カナンに入れず、 荒野で滅びると言われた。するとそれを聞いた民は、今度は「罪を 犯した。とにかく言われた所へ行こう」とカナンへ上って行く。モ ーセは、主が共におられないから、行くなと止めた。 しかし上って行き、ものの見事に敗北する。行けと言われれば行か ず、行くなと言われれば行く。自分の思いがあるばかりだ。民の姿 は自らの姿だろうか。主に従うために「時」がある。時を逸しては、 手遅れだ。後から従おうとしても、もう時遅しだ。民は斥候が戻っ て来た時に、自分の思いでなく、信仰に立つべきであった。 主の約束に立ち、カナンへ入って行くべきだった。頑なにそうせず に後悔するが、時遅かった。主の御声は愛だ。愛による語りかけだ。 主の愛に応答し従って行く時、更に主の愛を知る。今、示しがある なら御声に従おう。従う時、更に神の愛を経験して行く。 ------------- 状況だけを見て、ぱっと決めてしまう。時々の感情で御言葉を忘れ、 右に左に動揺してしまう。一歩、一歩を主に頼り確信の中を歩みた い。祈り御声に従おう。
2024年12月04日(水) 「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住み ます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」 ルツ1:16
「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住み ます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」 ルツ1:16
ナオミ一家は、ベツレヘムがききんになった時に、糧食を求めてモ アブへ移住した。それは異教の地、偶像の地だった。約束の地に、 神のもとに、とどまらずに出て行ってしまった。家族の幸せを求め てのはずが、モアブで夫が死に、二人の息子も死んでしまった。異 国の地で、ナオミの苦労はどんなものだったろう。ききんは辛いが、 遙かに苦しむ選択をしてしまった。 苦しいききんも忍耐すれば、必ず主が助けて下さり、また豊作へと 導いて下さる。私たちもどうだろう。試練は痛く苦しいが、そこか ら逃げて、別の選択をしても、それは結果的に、更に苦しみを増す 事になる。ナオミは、約束の地にとどまるべきだった。私たちも、 主からの試練を逃げないで、避けないで、受け入れる事が一番の祝 福だ。受け入れることは難しいので祈ろう。そうできるよう助けて 下さる。 試練は、私たちの益のためのものだ。その時は、痛く辛く悲しいが、 必ず平安の実を結ぶ。そして、私たちを聖くするためだ。やがて故 郷が豊作であることを耳にし、ナオミは、約束の地に戻ろうと立ち 上がった。肉の行ないには、苦しい刈り取りがあるが、しかし、尚 も主は恵み深く、あわれみは尽きず、嫁のルツという、大きな慰め を与えられた。私たちにも、試練を通して、主からの「ルツ」が与 えられている事を知る。苦しみと共に大きな慰めが、いつも備えら れている。 ------------- 試練はできるだけ避けたいと祈るが、試練の中で経験する主の守り と慰めは最大の祝福だ。主こそ祝福の源だと知れる。試練も主から のものと受け入れられるように祈りたい。
2024年12月03日(火) 「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」 Tサムエル1:10
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」 Tサムエル1:10
当時、士師の時代で、その霊的状態は、暗黒だった。人々は堕落し、 偶像に走り、主の目に悪を行ない、皆が、自分に正しいと見える事 を行なっていた。そんな霊的暗闇の中で、主は、新たな霊的指導者 を起こそうとされた。そのために協力者が必要であり、主はハンナ を見込まれた。ハンナの胎を閉じる事により、彼女の切なる祈りを、 引き出そうとされた。 ハンナは苦境の中にいた。不妊であり、当時、不妊は、神に祝福さ れていないとの迷信があり、周囲の白い目が辛い。もう一人の妻ペ ニンナは、ハンナが夫から愛されている事に、ひどく嫉妬していた。 そのためハンナをいじめ、攻撃していた。ハンナにも、子どもを持 つペニンナに対する、様々な思いがあったろう。 夫にも、ハンナのデリケイトな気持ちは理解されず、孤独な辛い中 にいた。ハンナは、厳しい苦悩により、主のもとに追い込まれた。 「ハンナは立ち上がった」とあり、決意して祈りのために立ち上が った。御前で激しく泣き、嘆き、怒り、痛み、悲しみを何もかも吐 き出した。切なる祈りの中で、「その子を一生あなたにおささげし ます」と、献げる決心へと導かれた。 ハンナは祈り終えた時、すっきりし平安になった。帰宅して食事を した。もう以前の顔ではなかった。私たちも経験する。心を注ぎ出 し祈ることで、状況が変わる前に、まず自分の内側が変えられる。 御父に自分をゆだねるので、状況は同じでも、心が落ち着き、平安 が与えられる。そしてハンナの祈りは見事に答えられ、サムエルが 産み出された。霊的指導者として立てられ、用いられて行った。 ------------- 切なる悲しみを祈り、主に委ねられたとき、悲しみが取り去られる ばかりか、御心にかなった新たな決心が与えられた。悲しみが新し い希望へと変えられて行く。なんと感謝なことだろう。
2024年12月02日(月) 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、 みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、 みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
マルタとマリヤのよく知られている箇所だ。マルヤもマリヤも、主 を大歓迎し、もてなしたいと願った。姉のマルタは、主と弟子たち が、心地良く過ごせるために、きれいに掃除し、料理の献立も、懸 命に考えた事だろう。強いられて嫌々でなく、喜んでした事だった。 しかし、夕食の時刻が迫り、焦り、イライラピリピリして来た。急 がなければ、料理が間に合わない。喜んで始めた事が、重圧となり、 いら立ちとなる。油切れ状態だ。そんな時にマリヤを見ると、何も せず、座っているではないか。なぜ手伝わないのか、腹が立ち、主 に文句を言う。だがマリヤは、何もせず怠けているのでなく、一心 に主の言葉に聞き入っていた。一言も聞きもらすまいとの、真剣さ だった。 そして主はマルタに「どうしても必要なことは、一つだけ」と言わ れた。これ以上に大切な事はないのだと。みことばを聞く事は、非 常に重要な事だ。まず聞かない限り、従う事ができない。何をして 従えば良いかわからない。つまり、みことばを聞く事は、主を愛す ることだ。しかし容易な事ではない。人は、動く方が楽なのだ。 とにかく動く事で、奉仕で、主を愛していると思いたい。 だが、主は、みことばを聞く事が、どうしても必要な、ただ一つの 事と言われた。「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほ んとうにわたしの弟子」「わたしにとどまり、わたしのことばにと どまるなら・・叶えられる」と。まずみことばを聞き、示された通り に従う時に、喜びと平安に守られる。 -------------- 時間がない、祈っている暇はないと、焦ると本気で思ってしまう。 なんと的外れなことだろう。忙しい時ほど祈り、よく主と交わって から動き始めたい。主の平安を受け取ろう。
2024年12月01日(日) 「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」 創世記11:1
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった」 創世記11:1
有名なバベルの塔だ。初めは、全地は一つの言葉だった。 互いに交流し、意思疎通ができた。そんな頃、人々はシヌア ルという住み良い平地を見つけ、定住した。彼らは、神から れんがを作る技術が与えられ、れんがとれき青で、建築物を 作る事ができた。対話もでき、肥沃な地に住み、素晴らしい 建築技術も与えられ、すべては主からの賜物であり、恵みで あった。豊かな祝福であった。 しかし、「その内に彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」 と言い出した。主に感謝し、主を崇め、栄光を主に帰するの でなく、その動機は「自分たちのために」であった。自分の名、 名誉、賞賛と、「自分」が神の位置に着くようになった。神から 与えられた能力を、自分の欲と栄光のために使うようになった。 「自分が」「自分の」自分、自分、これがアダムからの罪だった。 「その内に」とあり、最初は良かったのだが、途中で、方向性が 狂って来た。「我々が散らされるといけないから」と。主はノアと 息子たちに「生めよ、ふえよ。地に満ちよ」と祝福され、地に満 ちて行くようにと。その主への反逆であった。主は言葉を乱し、 意思疎通をしゃ断された。 その結果、塔建築が不可能になり、「彼らは建てるのを止めた」。 主が介入され阻止された。そして人々は全地に散らされた。高慢 による事であった。私たちも、どうだろう。言葉が通じず、気持ち が通じない時、秩序が乱れる時、そこに神を忘れ、「自分が〃」 の高慢がないだろうか。まず主を仰ぎ、主の前にへりくだる時に、 そこには御霊の一致がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「自分が、自分が」になっている時、肉がサタンに誘惑され、耳 を貸している時だ。神に頼らず、自分の思いと力で歩んでいる。 人とまさつを起こし、主と正反対の方向に向かっている。御霊 が、己中心に気づかかせて下さることが感謝だ。