2026年09月21日(月) 「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。 『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞 いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ」 ヨハネ21:7
「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。 『主です。』すると、シモン・ペテロは、主であると聞 いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ」 ヨハネ21:7
人は、自分の姿にきちんと向き合わない限り、自分が変 わる事はないと言われる。見たくないので、目をそらし、 逃げるなら、自身が何も変わらない。主の指示により、 ガリラヤに戻った弟子たちは、なすすべなく、以前して いた漁に出た。しかしベテラン漁師が、一匹も捕れなか った。 すると岸辺から「食べる物がありませんね」という声が 聞こえた。弟子たちは「はい、ありません」と現実を認 めた。主を裏切ったペテロは深い痛手を負い、これなら 出来ると唯一自信のある漁をするが、全く魚がとれない。 挫折感、屈辱感、空虚感はどんなものだったろう。 無力を認めた時、「舟の右側に網をおろせ」との声が聞 こえた。何だかわからないが、その声に従い、網をおろ すと、何と驚くべき大漁だった。網を引き上げられない ほどの、おびただしい魚だった。ヨハネが以前の全く同 じ光景を思い出し、主だと直感した。 「主です」の声に、ペテロは湖に飛び込み、主のもとへ 行った。陸地に上がった時、炭火があり、魚とパンがあ った。それを見たペテロは、主を裏切った時の、あの炭 火が脳裏に浮かんだだろう。 主は、ペテロに三度「わたしを愛しますか」と問われ、 ペテロは「私の心を見て下さい、主はすべてご存じです」 と答えた。砕かれたペテロがそこにいた。主の愛はその ペテロを見事に回復させた。 ------------------ 無力感や空虚感が自分にある事をなかなか認められない。 自分の力では無理だとわからされるときが感謝だ。無力 の岸辺で主が声をかけてくださる。希望のひかりがある。
2026年09月20日(日) 「私の喜びが満たされるように、あなたがたは 一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志 を一つにしてください」ピリピ2:3
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは 一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志 を一つにしてください」ピリピ2:3
ピリピの教会で、ユーオデヤとスントケは、主の ために歩んでいたが、仲違いをしていた。そこで パウロが、主に在って一致するように、と言って いる。一致を妨げるものが「自己中心」と「虚栄」 だ。そのため、へりくだって、互いに人を自分より すぐれた者と思うようにと。 人は、自分に関わりの無い事では、公平で寛容 でおれるが、いざ自分に関係して来るや、防御 態勢に入り、相手に攻撃的になってしまう。これ 自己中心による。又、誰かの言葉が、自分のプ ライドやメンツに触れ、傷つこうものなら、怒りを 燃やし、相手を攻撃するか、内攻して恨み、敵 対心を抱く。あなたの心に苦い思いがあるだろう か。それは自己中心、虚栄心、プライドによるだ ろうか。 御霊によく探って頂こう。苦い根をそのままに置 いてはならない。その根は心に巣を作り、根を張 り、はびこってしまう。どんどん根は生長し、強い 憎しみに増幅してしまう。すぐに主のもとに行き、 十字架の血潮できよめて頂こう。庭に雑草がど んどんはびこるが、草刈りをし、根から引き抜くよ うに、罪の苦い根を、小さい内に、引き抜いてし まおう。 主に告白し、悔い改めにより、引き抜かれて行く。 何かのざらつく思い、心が暗く、重く、平安が失 せた時には、すぐ御霊に照らして頂こう。主の御 前に、自分の心の内を、ことごとく打ち明けよう。 自己中心や虚栄に気づかせて下さる。それを認 めて、悔い改めて歩む時、そのつど平安が戻る。 赦されて〃、心新たに喜び持って歩んで行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「自己中心」と「虚栄」とある。心がザラつく時、平安が 失せる時、主に向かおう。自分、自分になっている。苦 い根を、そのつど悔い改め、明け渡そう。いつも共に いて助け、導いて下さる。
2026年09月19日(土) 「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエス は、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向 けられた」ルカ9:51
「天に上げられる日が近づいて来たころ、イエス は、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向 けられた」ルカ9:51
ドラマで、正義のヒーローが出て来て、極悪人を 懲らしめると、見ていてスッキリする。気持ちが良 い。主がエルサレムに向かおうと、十字架の決 意を固め、御顔をまっすぐに向けられた。サマリ ヤを通過するが、宿泊か食糧か、準備のため使 いを先に送られた。しかしユダヤに反目するサマ リヤでは、主を受け入れず、協力もしなかった。 その時、弟子たちが「私たちが天から火を呼び 下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。 義憤に思ったか、敵は裁かれてしかるべきだと。 ところが、主は彼らを戒められた。人の思いと神 のみ思いは大きく異なる。主がエルサレムに向 かわれるのは、多くの苦しみを受け、十字架に かかるためだ。 神のあり方を捨てられ、ご自分を無にして仕え、 自分を卑しくし、すべての罪を身に引き受け、贖 いを成し遂げるため、御父に徹底して従われる ためだ。しかし、弟子たちにはわからず、理解で きず、その前には、この中で誰が一番偉いかと 議論していた。主は一番小さな者が一番偉いのだ と、諭された。 主がまっすぐ御顔をエルサレムに向けられたよう に、私たちの進む道も、十字架の道だ。自分の肉 を遂げるのでなく、自分を捨て、自分の肉の思い でなく、主の御心に歩む道だ。御霊に導かれた新 しい道だ。肉はあらがう。自我は強固だ。しかし御 霊に助けられ、主に従う時、主とひとつだ。何にも 代えられない喜びと平安がある。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 古い性質はどこまでも強固だ。サタンは、強力に 肉へと誘惑する。自分の思いを遂げたい。しかし 御霊の助けがある。祈ろう。祈りは聞かれ、御霊 の方を選んで行ける。
2026年09月18日(金) 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は 彼のために、神に熱心に祈り続けていた」使徒12:5
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は 彼のために、神に熱心に祈り続けていた」使徒12:5
教会を迫害するヘロデ王は、ヤコブを殺害した。それが、 ユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸 ばした。ペテロをも捕らえ、処刑しようとした。だがペ テロに、奇跡が起きて、御使いにより牢から救い出され た。 「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けていた」その 答えだった。奇跡がなされた。教会ではヤコブの時も、 ペテロの時も同様に熱心に祈った。だがヤコブは処刑さ れ、ペテロは救い出された。「なぜ?」と思う。これは ヤコブとペテロ各々に対する、主のご計画であり、召し だ。 ヤコブは殉教によって、主の栄光を現わし、ペテロは更 に福音宣教の使命が与えられていて、その事で主の栄光 を現わして行く。ヘブル11章にも、ある人々は「ししの 口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、 戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と。奇跡に次ぐ奇跡 により進軍して行った。 同時に別の人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎ りで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」 と殉教して行った。結果的に正反対に見えるば、どちら もが「信仰によって」歩んだ。パウロは「生きるにも死 ぬにも、私の身によってキリストがあがめられること」 を求めた。 一人〃に備えられた、神のご計画が全く違う。隣の人と 比較ができない。比較は何の意味もなさない。いつも主 と自分の関係の中で、自分に備えられた御心を祈り、行 なって行くことが、喜びもって歩める道だ。 ----------- 同じように祈っていても、一人一人に対する答えがある 事が感謝だ。どのような答えであっても、自分にとって の最善に導かれていく。感謝して祈り続けたい。
2026年09月17日(木) 「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがた ではなく、実に、神なのです」創世記45:8
「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがた ではなく、実に、神なのです」創世記45:8
ヨセフは、年寄り子で、父親に特別に可愛がられ、兄た ちの強い妬みを受ける。その兄たちの悪意により、エジ プトへの隊商に奴隷として売られた。家族から離れて、 異国の地へ。ヨセフはどんなに不安で、寂しく、恐れた 事だろう。紆余曲折があり、ヨセフの境遇はアップダウ ンするが、絶えず主を見上げ、主に拠り頼んでいた。 劇的にも、主のご計画により、ヨセフはエジプトの総理 大臣となる。大飢饉が起きて、兄たちが、エジプトに豊 富に貯えられた食糧を買いに来た。ヨセフは、兄たちだ とわかったが、彼らにはわからなかった。その中で、や り取りがあったが、ヨセフは気持ちが溢れ、ついに兄た ちに自分の事を明かした。 「私はヨセフです」と。兄たちが、実際、自分を売った が、別の見方をした。「神が」、ヤコブ一族の命を救う ために、自分を先にエジプトに遣わされたのだと。だか ら心を痛めないようにと。すべてが神のご計画だと、状 況を信仰により、け取り直している。「あなたがたは、 私に悪を計ったが、神はそれを良いことのための計らい とされた」と。 兄たちが、自分に悪を計ったと、明確に言う。故意の悪 意だと。しかし神は、人の悪さえも、摂理のもと、すべ てを働かせて益とされる。後にその意味がわかる。あな たも、人からの悪意によって、傷つけられただろうか。 不当な、理不尽な扱いを受けただろうか。神はそれを、 あなたのために善い事とされる。豊かな祝福とされる。 信じていよう。 ------------------ その時は辛い、悲しいばかりでも、それによって主のも とに近づけられた経験はないだろうか。人の悪さえ善に 計らわれる主のご計画が背後にある。それを信じていよ う。
2026年09月16日(水) 「神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と 仰せられた。彼は「はい、ここにおります」と答え た」出エジプト3:4
「神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と 仰せられた。彼は「はい、ここにおります」と答え た」出エジプト3:4
何も無い荒野で、長年、羊を飼っていたモーセが、突然 主から召しを受ける。「あなたをパロのもとに遣わす」 と。苦難のイスラエルをエジプトから連れ出せと。モー セは、「私が?」「なぜ?」と思ったろう。「私はいっ たい何者なのでしょう。民をエジプトから連れ出さなけ ればならないとは」と。 何で、一介の羊飼いの自分が、そんな大それた事を、と。 モーセはもう80歳で、又、以前王子だった時に、自分こ そはと、民を救出しようとして失敗している。この老人 に今さら何を?今の自分には何の力も無い。能力も地位 も影響力も人脈もない。だが、主は、尻込みするモーセ に「わたしはあなたとともにいる。 これがあなたのためのしるしである」と約束され、たた み込むように説得して行かれる。「わたしがあなたと共 にいる」この事が「しるし」だと。「しるし」とは、証 拠であり、保証だ。これ以上の保証がどこにあろう。神 が共におられる、これが現実であるとは、何と最強であ る事だろう。モーセは、民をエジプトから救い出す事、 これが使命であり、このために生まれて来た。 神はモーセを用いられた。私たちも同様だ。「わたしが あなたを遣わす」の通り、一人〃に神からの使命が与え られている。そのために生まれた。モーセと同様に、自 分は一体何者と思うが「わたしが共にいる」との保証が ある。神が成し遂げられる。神に呼ばれたなら、「はい、 ここにおります」と答えよう。 ------------------ 「私が?」と思う者を主が必要とされるなら、従いたい。 何気ない普通の日常の中で、主が声をかけられる。耳を 澄まして「はい、ここにおります」と応答したい。
2026年09月15日(火) 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去 られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい だれのものになるのか」ルカ12:20
「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去 られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい だれのものになるのか」ルカ12:20
ある金持ちが、豊作の時に言った。「倉を取りこわして、 もっと大きいのを建て、穀物を全部そこにしまっておこ う」。これから先何年分も貯められたから、さあ、もう 安心だ。食べて飲んで楽しもうと。しかし神は「今夜、 お前の命は取られる。お前が用意したものは、誰のもの になるのか」と。 これから思う存分楽しもうとしていた金持ちは、その夜、 亡くなった。金持ちの上に、更に豊作で、倉の上に更に 大きな倉だ。だが、貧しい人々に分け与えようとの思い は全く無かった。ひたすら自分、自分、どこまでも「自 分」であった。すべて自分の所有物だった。しかし重大 な間違いは、彼が、自分がいつか死ぬ事、神の前に立つ 事を、全く考えていない事だった。 彼には、「神」も「死の備え」も皆無だった。そのため 神は、彼を「愚か者」と言われた。富を、どう使うかに よって、自分には何が大切で、何に価値を置いているか を表わす。自分は何が大事なのだろう。命は、神の御手 に握られている。もし、神の御前に生きていたなら、こ の豊作の与え主である、神にまず感謝を献げたろう。 次に、神より与えられた豊かな作物を、どう用いて行け ば良いかを祈っただろう。神の望まれる通りに、管理し、 用いて行く。そこに大きな喜びと平安があり、それが神 の前に富むということだ。又、もし富が少ないとしても 「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」 と言われる主が、常に共におられることを覚えよう。 ------------------ 人のいのちは、財産や持ち物にはないという事を、よく わきまえていたい。物に頼っているならいくらあっても 不安だ。主の恵みに感謝して日々主と共に歩みたい。
2026年09月14日(月) 「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売 をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラン ト預かった者も、さらに二タラントもうけた」 マタイ25:16
「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売 をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラン ト預かった者も、さらに二タラントもうけた」 マタイ25:16
主は、私たち一人〃に全く異なった賜物を与えておられ る。能力も異なるので、「おのおのその能力に応じて」 とある。五タラント、二タラント、一タラントと画一で はない。皆が、違っている。重要な事は、皆に必ずタラ ントが与えられている事だ。各々能力に合った働きが備 えられている。 自分に与えられた賜物で、主に仕える時に、喜びと生き がいとなり、主の栄光が現わされる。よく陥る間違いが、 自分の賜物と、人のものを比較してしまう事だ。比較し た途端、人のものが良く見えて、自分のものが色あせて 見える。そうすると、迷路に迷い込み、自分の賜物の 素晴らしさがわからなくなる。取るに足りないと思えて しまう。 人を羨み、妬み、自分に与えられた賜物に感謝もなく、 喜びもない。磨くどころか、不満、愚痴だらけだ。そし て主人が戻り、彼らと「清算をした」。主が来られる時、 清算をされる。五タラントと二タラントもうけた者に全 く同じ賞賛だ。五と二に何の差も無い。そしてどちらも 「わずかな物」に忠実だったと。 五タラントも僅かな物と。その額は関係無く、「忠実」 である事に言及している。主が見られるのは「忠実」だ。 「小さな事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり」、 忠実は小さな事で量られる。誰も見ていない所での忠実 は、主に対する忠実だ。主が見られ、主と共に喜ぶ大き な恵みにあずかる。 ------------------ それぞれに時間、健康、富など、主が信頼して任せてく ださった多くのものが手の中にある。無いものではなく 、与えらている恵みの中で、主の信頼に応えたい。
2026年09月13日(日) 「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに 婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」マタイ25:10
「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに 婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」マタイ25:10
祝宴を迎える花嫁の友人である、十人の娘が 出て来る。彼女たちは、花嫁の家に花婿が到 着するのを待っていた。だが、花婿は思いの ほか遅れて、到着が夜中になった。十人とも、 ウトウト眠ってしまった。すると突然、花婿到着の 知らせが来た。五人は、自分のともしびと一緒に 予備の油を用意していた。ところが他の五人は 用意していなかった。 もう今にも火が消えそうで、油を分けて欲しい と頼んだ。だが、分けるほども無いので、店に 買いに行くようにと。急ぎ買いに走り、戻ると、 すでに花婿到着で、祝宴の戸が閉じられ、入 れなかった。明暗がはっきり分かれてしまった。 賢い五人と愚かな五人のどこが違ったのか。ど ちらも、ともしびを持ち、どちらもウトウト眠った。 賢い五人が、居眠りしなかったのではない。 違いは、予備の油を持っていたかどうかだった。 花婿は再臨のキリスト、娘は私たち一人一人だ。 「ちょっと、分けて上げたらよいのに」と思いそう だが、油は聖霊で、その油は、上げたりもらった りする事が不可能だ。聖霊を分け与える事など 出来ない。大切な事は、今日の生活を天につな げたものとして、天に帰り、主にまみえる事を踏 まえて生きる事だ。 それは、この世にいる間、聖霊を求め、聖霊の満 たしを求めて生きる事だ。、地道に日々主と交わり、 主との関係を深めて行く事であり、それが、油を準 備しておく事だ。自分と主との関係を、人からもらっ たり上げたり不可能だ。普段の生活において、そ こにしっかり目を留めていよう。 ・せjk・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 他者に上げたり、もらったり出来ない、御霊による、 主との個人的関係を深められて行きたい。一日一 日、地道な主との交わりが重ねられ、導かれて行く ように祈ろう。
2026年09月12日(土) 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの 中のだれかと自分を同列に置いたり、比較した りしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分 たちの間で自分を量ったり、比較したりしている のは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
「私たちは、自己推薦をしているような人たちの 中のだれかと自分を同列に置いたり、比較した りしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分 たちの間で自分を量ったり、比較したりしている のは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
祭司長や律法学者たちは、常に人の前に生き ていた。立派な善行をする事で、人々から賞賛 を受け、認められ、評価される事を求めていた。 人からは認められたいが、自分の罪は認めず、 主が救い主である事も認めなかった。私たちも どうだろう。新生する前は、生まれてからずっと 人との比較の中で生きて来た。 見える所でしか、量れないため、目に見える人 との差異で、自分を量って来た。それしかすべ が無いからだ。そのため、比較の価値観の中 に生きて来た。救われてからも、培われた価値 観は根深く、主を知りながらも、比較の中に生き てしまう。そして、どうしても目に見える人からの 賞賛を求めてしまう。人から良く思われたい。嫌 われたくない。好かれたい。 それが強くなると、御言葉ではなく、ひたすら人 から良く思われたい、人を見て動いてしまう。人 から認められて安堵する。それなら基準が御言 葉でなく、人になってしまう。御心からずれてしま うので、平安な歩みでなく、ますます人からどう思 われているかが気になり、不安と思い煩でいっ ぱいになる。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたし はあなたを愛している」の通り、「神に愛されて いる」その礎から離れず、そこを信じ、そこに立 ち続けよう。そこから比較の解放が始まる。そこ が不確かだと、人の愛を求めて、迷い出でてし まう。迷路をさまよう。まず神に愛されている事 を信じ、心を定めていよう。いつもそこに立てる よう祈っていよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 目に見えるので、比較は、どこまでも根深い事に 気づく。御霊の気づきを与えられ、与えられて、 少しづつ変えられて行く。世界にただ一人かのよ うに、主に愛されている事を覚えよう。
2026年09月11日(金) 「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、 恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、 神の栄光が現われるようになるためです」Uコリント4:15
「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、 恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、 神の栄光が現われるようになるためです」Uコリント4:15
ある人が、職場で責任者となり、大きなプロジェクトに 関わっていた。だが進める中で、議論が分かれ、自分の 構想と反対意見が出て来た。ぶつかり合い、いら立ち、 怒りが出て来る。自分の考えこそがベストと思っている からだ。心は重苦しく、平安が無い。帰宅し、主の御前 に行き、主と交わり、祈った。 怒り、人をさばき、責める心をあるがまま告げて、祈っ ていた。その時に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈 りなさい。すべての事について感謝しなさい」が心に臨 んだ。主の語りかけだった。「すべての事について感謝」 、反対する人々を感謝せよと語られた。 言われる通りに、「感謝します」と祈った時に、不思議 に心が落ち着いてきた、平安になった。結果的に、その 企画は、ベストの形に導かれて行き、成功をおさめた。 主の祝福を感じた。目の前に起きる出来事すべては、主 の主権のもとに、私たちのためであり、素晴らしく益と される。私たちの成長のためのものだ。 今、目の前に、思い通りにならず、自分にとって妨げと しか思えない事態があるだろうか。しかし、それが素晴 らしく益となり、自分自身の成長となるように、主が働 かせられる。それを信じて行く時に、どのような難しい 状況の中でも、心には平安を下さる。起きる出来事すべ てにおいて、主を認めて、感謝して行く時、心が変えら れて行く。 -------------- 全てのことが主を通って来ていると覚えるとき、主の関 与を思い平安になる。問題は問題としてあっても、主が 良くしてくださると信じて待てる。なんと感謝だろう。
2026年09月10日(木) 「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯し た。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの 罪を見過ごしてくださった』」Uサムエル12:13
「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯し た。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの 罪を見過ごしてくださった』」Uサムエル12:13
サウルとダビデは王であった。だが、二人の最後は大き く違ったものとなった。双方とも罪を犯したのだが、サ ウルは神から退けられ、ダビデは祝福へと進められた。 ダビデはバテシバとの姦淫、更にウリヤ殺害の罪を犯し、 サウルは、祭司のみが献げるいけにえを、サムエルを待 てずに献げ、又、アマレクを聖絶せよとの命令に従わず、 最も良いものを残しておいた。 ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対し て罪を犯した」と言い、サウルはサムエルから罪の指摘 を受けた時に「私は罪を犯しました」と言った。どちら も言葉にすれば同じだが、ダビデは、「主に対しての罪」 だと、心底の悔い改めだった。 サウルは「しかし、私の面目を立てて下さい」と続き、 「面目を立てて」の方が本心であった。サウルに悔い改 めは無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の 目の前にあり」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯 し、あなたの御目に悪であることを行ない」と、逃げ隠 れしなかった。 サウルは罪に向き合う事なく、罪の言い訳に終始し、 兵士や民のせいにした。自分のプライドと名誉回復が重 要な事だった。そのサウルの最期は悲惨なものであった。 ダビデは悔い改め、「主もまた、あなたの罪を見過ごし てくださった」と罪が赦された。二人共、罪を犯したが、 その行く末は天と地ほどに違ってしまった。 ------------------ くり返し罪を犯してしまうが、十字架を思うとき、全て の罪は主に対するものではないか。言い訳し、取り繕わ ず主の前に悔い改めたい。赦しの恵みを信じよう。
2026年09月09日(水) 「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くこと があっても、互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くこと があっても、互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13
私たちは頭では、人を赦すべきとわかっている、よくわ かっているのだが難しい。ある人が、自分の悪口を言わ れている事が、巡り巡って入って来た。それが、ニコニ コと寄って来るような相手で、陰では悪口を言っている 事に、腹が立って仕方が無い。怒りが沸き、赦せない思 いでいっぱいになった。 それが、毎日の祈りの時に、祈れなくなってしまったの だ。「私たちの負いめをお赦し下さい。私たちも、私た ちの負いめのある人たちを赦しました」との御言葉に迫 られ、先に進めなくなった。赦せない思いがある所には、 怒りがある。相手を赦せない、怒りと憎しみがある事を 示され、苦しくなった。だが、思えば思うほど腹が立ち、 絶対に赦したくない。 それなら、自分の負いめも赦されないことになる。悶々 状態だ。とにかく、まず祈りに持って行こうと、あるが まま主に告げて行った。赦したくない、しかしこのまま で良いはずはない。助けを求めて祈り続けていた。する と、御霊により、思い起こさせられた。皆、弱さがあり、 罪人であり、完全な人などいないこと。 赦しは、意志による選択であること。意志を向け選択す るなら、御霊の助けが臨むこと。赦せない思いに縛られ、 主の御心を行なう事ができなくなる事・・、心が少しづつ 落ち着いて行った。祈っていると、不思議に心が変えら れて行く事を経験した。長い時間を要する事があるかも 知れない。しかしとにかく祈り続けよう。必ず主が働か れ、導かれて行く。 ----------- 出来るか出来ないではなく、赦せるようにと祈ろう。御 心の祈りは必ず叶えられる。された悪がくり返し思いに 来るが流していこう。必ず主が解放してくださる。
2026年09月08日(火) 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たち のほうが、あなたがたより先に神の国に入っているので す」マタイ21:31
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たち のほうが、あなたがたより先に神の国に入っているので す」マタイ21:31
主が二人の息子のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園 に行き、働け」と言われた。兄は「行きます」と言った が、行かなかった。弟は「行きたくない」と断ったが、 後から悪いと思い、出かけた。「どちらが父の願った通 りにしたか」と祭司長や律法学者達に問われた。彼らは 「後の者です」と答えた。 主を拒否している彼らであったが、そう言ったというか、 言わずにおれなかった。主は、弟息子は取税人や遊女の ようだと言われた。彼らは律法に従わず、罪を犯してい たが、ヨハネの悔い改めの教えに聞き従い、ヨハネがメ シアだと指し示した主を受け入れた。逆に、行くと言い、 実際には行かなかった兄息子は、表向きは道徳的で、立 派な行ないをしているように見える。 しかしそれはヨハネを拒み、彼の言葉を拒み、主を認め ず受け入れない、彼らの姿であると言われた。私たちも どうだろう。クリスチャン生活が長くなると、外側、ク リスチャン的振る舞いができてしまうが、心は、主に入 って欲しくない、主を拒否している領域があるだろうか。 「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」とあるが、 信仰生活どこにおいても「主を認める」のでなく、自分 の思いが強くなっているだろうか。そうなら、主が見え なくなってしまう。主を認めず、自分が強くなっている か、心の内を御霊に照らされ、導いていただこう。 ------------------ 口ではするりと正解を言い、行動はまた別なら、主との 関係はどうなっているのだろう。御霊に示されたなら、 主に従順になりたい。主の御心を行いたい。
2026年09月07日(月) 「・・もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威 によって、これらのことをしているかを話しましょう」 マタイ21:24
「・・もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威 によって、これらのことをしているかを話しましょう」 マタイ21:24
主が宮で教えておられた時、祭司長や長老達が、「何の 権威によってこの事をするのか。誰がその権威を授けた のか」と詰め寄った。逆に主は「バプテスマのヨハネは、 天から来たのか、それとも人からか」と問われた。する と彼らは論じ合い「神からと言えば、ではなぜ、ヨハネ を信じないのか。更に彼が、救い主と示すイエスを信じ ないのか、になる。 人からと言えば、ヨハネを神からの預言者と認めている 群衆の反発が恐い」。そこで彼らは、「天から」とも 「人から」とも答えず、「わかりません」に逃げた。結 局、彼らは真実から逃げて、主にも、自分にも向き合わ ず、責任を取ることもせず、自分の好きなように、肉の 思い通りに生きて行った。 その時、主は「わたしも、何の権威によってこれらのこ とをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。主 もご自身を示されなかった。私たちもどうだろう。主を 信じてはいるのだが、人の目を気にし、又、自分の思い に歩みたくて、示しに従いたくなくて、うやむや、あい まいにして、ごまかしていたりするだろうか。後回しに して、決定的な事には触れたくないだろうか。 しかし、それなら、主を知ることもできない。自分のあ いまいにしている所、逃げている所を気づくだろうか。 御霊の気づきによって、一歩前に進める。今のままでな く、更に主を知って行きたいとの決心に、答えて下さる。 喜びと平安に進ませて下さる。いつも主は、成長へと招 いて下さっている。 ----------------- 認めなければ、責任も取らずに済むので、ずっとあいま いのままだ。示されたことに目をつぶってしまわず、従 えるよう祈りた。主に心を開いて近づきたい。
2026年09月06日(日) 「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、 彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、 彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9
アブラムとサライは、子どもに関して、主の約 束を待てなかった。肉の思いと行動で、女奴 隷ハガルにより子どもを得ようとした。だが、 ハガルは妊娠すると、高慢になり、女主人を 見下げるようになった。それに激怒したサライ は、ハガルをいじめたため、ハガルは辛くてた まらず逃げた。 一人寂しく、荒野の泉のほとりにいた時に、主 の使いが現われ「サライの女奴隷ハガル」と明 確に現実を見せて「あなたはどこから来て。どこ へ行くのか」と。ハガルは居場所も自分自身も 見失なっていた。「女主人から逃げている」と 答えた。すると「あなたの女主人のもとに帰り、 彼女のもとで身を低くせよ」と。ハガルは戻り、 へりくだり、女主人に仕える事がなすべき事だ った。 最も嫌な事であるが、しかしそれが一番幸せで、 平安の道だ。自分の遣わされた場所から逃げて も、平安無く、真の解放感も無い。私たちも自分 を見失ない、行き詰まる時は、主を仰ぐ事により、 自分を取り戻せる。私たちも、他者や相手に関係 なく、自分と、主との関係が、まず一番重要だ。 主の御心に歩むなら、どんな状況であれ、心は 平安だ。主が平安を与えて下さるからだ。そして 主はハガルも心にかけ、「あなたの子孫は、わた しが大いにふやすので、数えきれないほどになる」 と祝福を約束された。自分に語りかけられた神と 出会い、恵みを受けたハガルは、サライのもとに 戻った。 ・・・・・・・・・・・・・・ まず主と自分の関係が正され、御声に従おうと する時に、御霊の平安が与えられる。その時、 したくない事をも、行なう力が与えられる。
2026年09月05日(土) 「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべ て与えられます」マタイ6:33
「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべ て与えられます」マタイ6:33
私たちはどうだろう。少し不安があると、どんどん それが大きく膨らむだろうか。経済的不安は、先 々の事にまで及ぶ。身体的不安はどうだろう。体 調を崩すと、何か深刻な病気ではと、不安でたま らない。大丈夫だと思おうとするのだが、不安は、 増し、眠れなかった経験があるだろうか。 主がおられ、「すべて」の必要は備えられると、励 まされても、どうしてもだめなのだ。何度も学び、 頭ではわかるのだが、先は見えないので、恐れと 不安がどうにもならない。明日の不安に押しつぶ され、今日の御心を行なう事ができない。今を生 きることが出来ずに、今日一日をつぶしてしまう。 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めな さい。そうすれば、それに加えて、これらのものは すべて与えられます」とある。神を第一にするなら、 食べる物、着る物、生活の必要はすべて与えられ ると。主が与えて下さる。そして何よりも、心を満た して下さる。よく逆にする。「これら必要なもの」を 第一にして、あくせく走り回り、主が後回しになる。 その結果、思い煩いと不安に支配され、心は重い。 「労苦はその日その日に十分あります」その日にな すべき御心が備えられている。それは必ずあなた に出来る事だ。心を集中して、今、出来る事を行な って行く時、達成感、生きる喜び、平安が与えられ る。そのために、主を第一にする事が大切だ。もし 修正が必要なら、軌道修正して、従って行こう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神を第一にすると「それに加えて、これらのもの はすべて与えられる」と。神と全必要のどちらも 与えられる。よく逆にしてしまう。目の前の必要 第一に走り回ってしまう。神第一に。
2026年09月04日(金) 「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、 いつも主への賛美がある」詩編34:1
「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、 いつも主への賛美がある」詩編34:1
ダビデは「あらゆる時に、主をほめたたえる」と言って いる。「いつも」「すべての時に」と。つまり喜びや楽 しみの時だけでなく苦しみの時、悲しみの時も、「常に」 「すべての時」だ。実際、この時は、非常に苦しい悲惨 な状況だった。サウル王から一方的に妬まれ、ダビデは サウルから命をつけ狙われ、逃げ回っていた。 そんな中、もう窮地の策で、サウルの敵、ガテ王アキシ ュのもとに身を寄せた。敵なら来ないだろうと、しかし その家来たちがダビデの正体を知っていて、王に告げた。 恐れたダビデは追い詰められ、身の危険を感じ、何と気 違いの振りをした。 気が狂った振りをし、ひげによだれをたらし、屈辱的な、 惨めで最悪の状態だ。結局、アキシュからも追い出され、 ほら穴に逃げ込んだ。何と悲惨な状況だろう。その直後 に「私は主をほめたたえる」と言ったのだ。「私の口に は、いつも主への賛美がある」と。 順境で喜びの時に、賛美するのは、誰でもする。しかし そうではなく、恐れて、惨めで、弱く、窮地の、苦しみ のまっただ中で、ダビデは賛美した。このような状況で は、落ち込んで、気力が失せ、愚痴と不満でいっぱいが 普通だろうか。しかしダビデは主を信頼していた。 主は共におられる。最悪の状況の中で、主を仰ぎ信じた。 その時に、主は答えて下さる。「この悩む者が呼ばわっ たとき、主は聞かれた」。私たちも、主を呼ぶ時、主は 答えて下さる。主を呼ぶと、主は答えて下さる、この繰 り返しの中で、主への信頼が、絆が、深められて行く。 ------------- 主を呼ぶと、主は答えてくださる、だから試練の中でも、 感謝と喜びが湧き上がってくる。この主との絆が、窮地 の中で主への深い賛美となる。主を呼ぼう。
2026年09月03日(木) 「わたしは烏に、そこであなたを養うように命 じた」T列王17:4
「わたしは烏に、そこであなたを養うように命 じた」T列王17:4
私たちは、主に喜ばれたいと願う。何が、主に喜ばれる のだろう。あれやこれやをお献げすることだろうか。主 が、喜んで下さるのは、自らに備えて下さっている御心 は何か、又、主の、私へのご計画は何かを祈り求め、そ れを悟り、従って行くことだ。自分が良かれと思うこと ではなく、主の御心が重要だ。 でなければ、的はずれになってしまう。もし、主の御心 の中にいるなら、それが目立つことでも、誰にも知られ ないことでも、王としてでも、門番としてでも、又、そ れが病院のベッドの上だとしても、主の御心に歩んでい るので、自分自身には、感謝の思いがあり、喜びがあり 平安に守られる。 主を見上げ、自分と主との関係の中で歩んでいるからだ。 エリヤが、主の示しによりアハブ王に、2.3年の間、雨が 降らないと告げた。これから日照りで、大変な飢饉とな るだろう。アハブの手を逃れさせるために、主は、エリ ヤに「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と命じられた。 その川の水を飲み、烏に「そこで」あなたを養うように 命じた、と。その主の言葉通りに、烏が朝夕にパンと肉 を運んで来た。普通、烏は食物を運ばない。自分が食べ てしまう。主の奇跡だった。川が枯れるまで、エリヤは そこで養われた。「そこで」が非常に大切だ。 御心の中心に、御心の場所にいるなら、すべての必要が 備えられている。エリヤは「行って、主のことばのとお りにした」。ケリテ川のほとりに住んだ。御心を実行し、 従う時に主のみわざを見て行く。主の御心を求め、その 御心に従えるよう祈ろう。 ------------- 日々、自分の希望を叶えるためにはと考え、祈るが、ま ず主の御心を求めたい。そして、今の場所が「そこで」 あるなら、ますます感謝を深く主に献げて歩みたい。
2026年09月02日(水) 「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられ る。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、 落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」 イザヤ30:15
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられ る。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、 落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」 イザヤ30:15
信仰生活において、時に、突如の出来事が起きて、動揺、 困惑する事がある。あなたも経験しただろうか。平穏な 日々を過ごしている中、突然の非常事態が起きる。沢山 の人々が、突然、降って湧いたような事態に状況に、戸 惑い、呆然とし、しかし主により導かれて行った。 ある女性は、夫がリタイアし、夫婦でゆっくりとした時 を過ごしていた。そんな中、夫が体調を崩し、風邪程度 に思っていたが、具合い悪く病院へ。すると様々な精密 検査へと進み、思ってもみない難病が発覚。平和な中の 突如の事態に、何をどうすればよいのかもわからない、 パニックに。 肉は、何とかしなければと、とにかく動こうとする。大 きな不安と恐れ、焦りに襲われる。最悪のシナリオが描 かれる。しかしいつも学んでいるように、まず祈ろうと、 教会へも祈りをお願いした。主のもとへ行き、洗いざら い状況も不安も思い煩いも、何もかも打ち明け祈った。 祈り続ける中で、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信 頼せよ。主が成し遂げてくださる」との御言葉が臨んだ。 それに応え、夫のことも自分自身もすべてを主にお委ね した。すう〜っと気持ちが楽になり、安心感が来た。 その後、病院関係や友人知人、様々な方面から、難病や 病院、施設の沢山の情報、資料が手元に集まり、自分は 何もしていないのに、主のわざに驚いた。最もふさわし い病院と治療へと導かれた。まさしく主が成し遂げて下 さった。 ------------- 必ず主が脱出の道を備えていてくださる事を何度も経験 した。動揺する心を主に向け、祈ろう。目に見えない主 の備えが必ずある。問題のさ中で主が力をくださる。
2026年09月01日(火) 「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、 飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ 去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、 私ののがれ場に急ぎたい。」詩篇55:6
「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、 飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ 去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、 私ののがれ場に急ぎたい。」詩篇55:6
ここではダビデは苦しみと辛さ、重荷のため、逃避した い、逃げてしまいたいと言っている。私たちも、時に、 どこかに逃げてしまいたいと思うだろうか。その時、ダ ビデはどうしたのだろう。ダビデの逃避は不可能だった。 自分の状況から逃げることはできず、どんなに深刻だっ たろう。それは、忍び難い苦しみだった。 自分をそしる者が敵なら忍べたが、「私の同輩、私の友、 私の親友のおまえが」と親友の裏切りに、どんなに心引 き裂かれる思いだったろう。実子にも敵対され、攻撃を 受け、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」と。ダビデ は、この苦悩の中で、主に祈った。そして、主に、すべ てをお委ねした。 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたがたのこ とを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるが されるようにはなさらない」と。重荷を主のもとに持っ て行くなら、主が、私たちに代わって受け取り、心配し て下さると。経済的苦境、病気、難しい対人関係、夫婦 の問題、育児の悩み、進路・・ 自分ではどうにも出来ない難題が与えられている。しか したまたまでも、成り行きでもない。主のセッティング、 ご計画の中だ。御手が働いている。必ず導いて下さる。 ダビデのように、祈りに持って行き、主に明け渡そう。 そうする時、まず自分の心が落ち着き、平安にされる。 ----------- 自分の力ではどうしようもない事を抱え込み、くり返し 考えてしまう。これは重荷だと、主に渡そう。主はこの 苦しみをご存じで、支えてくださる。