2026年09月13日(日)

「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに 婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた」マタイ25:10


祝宴を迎える花嫁の友人である、十人の娘が
出て来る。彼女たちは、花嫁の家に花婿が到
着するのを待っていた。だが、花婿は思いの
ほか遅れて、到着が夜中になった。十人とも、
ウトウト眠ってしまった。すると突然、花婿到着の
知らせが来た。五人は、自分のともしびと一緒に
予備の油を用意していた。ところが他の五人は
用意していなかった。

もう今にも火が消えそうで、油を分けて欲しい
と頼んだ。だが、分けるほども無いので、店に
買いに行くようにと。急ぎ買いに走り、戻ると、
すでに花婿到着で、祝宴の戸が閉じられ、入
れなかった。明暗がはっきり分かれてしまった。
賢い五人と愚かな五人のどこが違ったのか。ど
ちらも、ともしびを持ち、どちらもウトウト眠った。
賢い五人が、居眠りしなかったのではない。

違いは、予備の油を持っていたかどうかだった。
花婿は再臨のキリスト、娘は私たち一人一人だ。
「ちょっと、分けて上げたらよいのに」と思いそう
だが、油は聖霊で、その油は、上げたりもらった
りする事が不可能だ。聖霊を分け与える事など
出来ない。大切な事は、今日の生活を天につな
げたものとして、天に帰り、主にまみえる事を踏
まえて生きる事だ。

それは、この世にいる間、聖霊を求め、聖霊の満
たしを求めて生きる事だ。、地道に日々主と交わり、
主との関係を深めて行く事であり、それが、油を準
備しておく事だ。自分と主との関係を、人からもらっ
たり上げたり不可能だ。普段の生活において、そ
こにしっかり目を留めていよう。

・せjk・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
他者に上げたり、もらったり出来ない、御霊による、
主との個人的関係を深められて行きたい。一日一
日、地道な主との交わりが重ねられ、導かれて行く
ように祈ろう。


2026年09月12日(土)

「私たちは、自己推薦をしているような人たちの 中のだれかと自分を同列に置いたり、比較した りしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分 たちの間で自分を量ったり、比較したりしている のは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12


祭司長や律法学者たちは、常に人の前に生き
ていた。立派な善行をする事で、人々から賞賛
を受け、認められ、評価される事を求めていた。
人からは認められたいが、自分の罪は認めず、
主が救い主である事も認めなかった。私たちも
どうだろう。新生する前は、生まれてからずっと
人との比較の中で生きて来た。

見える所でしか、量れないため、目に見える人
との差異で、自分を量って来た。それしかすべ
が無いからだ。そのため、比較の価値観の中
に生きて来た。救われてからも、培われた価値
観は根深く、主を知りながらも、比較の中に生き
てしまう。そして、どうしても目に見える人からの
賞賛を求めてしまう。人から良く思われたい。嫌
われたくない。好かれたい。

それが強くなると、御言葉ではなく、ひたすら人
から良く思われたい、人を見て動いてしまう。人
から認められて安堵する。それなら基準が御言
葉でなく、人になってしまう。御心からずれてしま
うので、平安な歩みでなく、ますます人からどう思
われているかが気になり、不安と思い煩でいっ
ぱいになる。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたし
はあなたを愛している」の通り、「神に愛されて
いる」その礎から離れず、そこを信じ、そこに立
ち続けよう。そこから比較の解放が始まる。そこ
が不確かだと、人の愛を求めて、迷い出でてし
まう。迷路をさまよう。まず神に愛されている事
を信じ、心を定めていよう。いつもそこに立てる
よう祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目に見えるので、比較は、どこまでも根深い事に
気づく。御霊の気づきを与えられ、与えられて、
少しづつ変えられて行く。世界にただ一人かのよ
うに、主に愛されている事を覚えよう。


2026年09月11日(金)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、 恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、 神の栄光が現われるようになるためです」Uコリント4:15


ある人が、職場で責任者となり、大きなプロジェクトに
関わっていた。だが進める中で、議論が分かれ、自分の
構想と反対意見が出て来た。ぶつかり合い、いら立ち、
怒りが出て来る。自分の考えこそがベストと思っている
からだ。心は重苦しく、平安が無い。帰宅し、主の御前
に行き、主と交わり、祈った。

怒り、人をさばき、責める心をあるがまま告げて、祈っ
ていた。その時に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈
りなさい。すべての事について感謝しなさい」が心に臨
んだ。主の語りかけだった。「すべての事について感謝」
、反対する人々を感謝せよと語られた。

言われる通りに、「感謝します」と祈った時に、不思議
に心が落ち着いてきた、平安になった。結果的に、その
企画は、ベストの形に導かれて行き、成功をおさめた。
主の祝福を感じた。目の前に起きる出来事すべては、主
の主権のもとに、私たちのためであり、素晴らしく益と
される。私たちの成長のためのものだ。

今、目の前に、思い通りにならず、自分にとって妨げと
しか思えない事態があるだろうか。しかし、それが素晴
らしく益となり、自分自身の成長となるように、主が働
かせられる。それを信じて行く時に、どのような難しい
状況の中でも、心には平安を下さる。起きる出来事すべ
てにおいて、主を認めて、感謝して行く時、心が変えら
れて行く。
--------------
全てのことが主を通って来ていると覚えるとき、主の関
与を思い平安になる。問題は問題としてあっても、主が
良くしてくださると信じて待てる。なんと感謝だろう。


2026年09月10日(木)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯し た。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの 罪を見過ごしてくださった』」Uサムエル12:13


サウルとダビデは王であった。だが、二人の最後は大き
く違ったものとなった。双方とも罪を犯したのだが、サ
ウルは神から退けられ、ダビデは祝福へと進められた。
ダビデはバテシバとの姦淫、更にウリヤ殺害の罪を犯し、
サウルは、祭司のみが献げるいけにえを、サムエルを待
てずに献げ、又、アマレクを聖絶せよとの命令に従わず、
最も良いものを残しておいた。

ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対し
て罪を犯した」と言い、サウルはサムエルから罪の指摘
を受けた時に「私は罪を犯しました」と言った。どちら
も言葉にすれば同じだが、ダビデは、「主に対しての罪」
だと、心底の悔い改めだった。

サウルは「しかし、私の面目を立てて下さい」と続き、
「面目を立てて」の方が本心であった。サウルに悔い改
めは無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも私の
目の前にあり」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯
し、あなたの御目に悪であることを行ない」と、逃げ隠
れしなかった。

サウルは罪に向き合う事なく、罪の言い訳に終始し、
兵士や民のせいにした。自分のプライドと名誉回復が重
要な事だった。そのサウルの最期は悲惨なものであった。
ダビデは悔い改め、「主もまた、あなたの罪を見過ごし
てくださった」と罪が赦された。二人共、罪を犯したが、
その行く末は天と地ほどに違ってしまった。
------------------
くり返し罪を犯してしまうが、十字架を思うとき、全て
の罪は主に対するものではないか。言い訳し、取り繕わ
ず主の前に悔い改めたい。赦しの恵みを信じよう。


2026年09月09日(水)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くこと があっても、互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13


私たちは頭では、人を赦すべきとわかっている、よくわ
かっているのだが難しい。ある人が、自分の悪口を言わ
れている事が、巡り巡って入って来た。それが、ニコニ
コと寄って来るような相手で、陰では悪口を言っている
事に、腹が立って仕方が無い。怒りが沸き、赦せない思
いでいっぱいになった。

それが、毎日の祈りの時に、祈れなくなってしまったの
だ。「私たちの負いめをお赦し下さい。私たちも、私た
ちの負いめのある人たちを赦しました」との御言葉に迫
られ、先に進めなくなった。赦せない思いがある所には、
怒りがある。相手を赦せない、怒りと憎しみがある事を
示され、苦しくなった。だが、思えば思うほど腹が立ち、
絶対に赦したくない。

それなら、自分の負いめも赦されないことになる。悶々
状態だ。とにかく、まず祈りに持って行こうと、あるが
まま主に告げて行った。赦したくない、しかしこのまま
で良いはずはない。助けを求めて祈り続けていた。する
と、御霊により、思い起こさせられた。皆、弱さがあり、
罪人であり、完全な人などいないこと。

赦しは、意志による選択であること。意志を向け選択す
るなら、御霊の助けが臨むこと。赦せない思いに縛られ、
主の御心を行なう事ができなくなる事・・、心が少しづつ
落ち着いて行った。祈っていると、不思議に心が変えら
れて行く事を経験した。長い時間を要する事があるかも
知れない。しかしとにかく祈り続けよう。必ず主が働か
れ、導かれて行く。
-----------
出来るか出来ないではなく、赦せるようにと祈ろう。御
心の祈りは必ず叶えられる。された悪がくり返し思いに
来るが流していこう。必ず主が解放してくださる。


2026年09月08日(火)

「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たち のほうが、あなたがたより先に神の国に入っているので す」マタイ21:31



主が二人の息子のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園
に行き、働け」と言われた。兄は「行きます」と言った
が、行かなかった。弟は「行きたくない」と断ったが、
後から悪いと思い、出かけた。「どちらが父の願った通
りにしたか」と祭司長や律法学者達に問われた。彼らは
「後の者です」と答えた。

主を拒否している彼らであったが、そう言ったというか、
言わずにおれなかった。主は、弟息子は取税人や遊女の
ようだと言われた。彼らは律法に従わず、罪を犯してい
たが、ヨハネの悔い改めの教えに聞き従い、ヨハネがメ
シアだと指し示した主を受け入れた。逆に、行くと言い、
実際には行かなかった兄息子は、表向きは道徳的で、立
派な行ないをしているように見える。

しかしそれはヨハネを拒み、彼の言葉を拒み、主を認め
ず受け入れない、彼らの姿であると言われた。私たちも
どうだろう。クリスチャン生活が長くなると、外側、ク
リスチャン的振る舞いができてしまうが、心は、主に入
って欲しくない、主を拒否している領域があるだろうか。

「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」とあるが、
信仰生活どこにおいても「主を認める」のでなく、自分
の思いが強くなっているだろうか。そうなら、主が見え
なくなってしまう。主を認めず、自分が強くなっている
か、心の内を御霊に照らされ、導いていただこう。
------------------
口ではするりと正解を言い、行動はまた別なら、主との
関係はどうなっているのだろう。御霊に示されたなら、
主に従順になりたい。主の御心を行いたい。


2026年09月07日(月)

「・・もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威 によって、これらのことをしているかを話しましょう」 マタイ21:24



主が宮で教えておられた時、祭司長や長老達が、「何の
権威によってこの事をするのか。誰がその権威を授けた
のか」と詰め寄った。逆に主は「バプテスマのヨハネは、
天から来たのか、それとも人からか」と問われた。する
と彼らは論じ合い「神からと言えば、ではなぜ、ヨハネ
を信じないのか。更に彼が、救い主と示すイエスを信じ
ないのか、になる。

人からと言えば、ヨハネを神からの預言者と認めている
群衆の反発が恐い」。そこで彼らは、「天から」とも
「人から」とも答えず、「わかりません」に逃げた。結
局、彼らは真実から逃げて、主にも、自分にも向き合わ
ず、責任を取ることもせず、自分の好きなように、肉の
思い通りに生きて行った。

その時、主は「わたしも、何の権威によってこれらのこ
とをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。主
もご自身を示されなかった。私たちもどうだろう。主を
信じてはいるのだが、人の目を気にし、又、自分の思い
に歩みたくて、示しに従いたくなくて、うやむや、あい
まいにして、ごまかしていたりするだろうか。後回しに
して、決定的な事には触れたくないだろうか。

しかし、それなら、主を知ることもできない。自分のあ
いまいにしている所、逃げている所を気づくだろうか。
御霊の気づきによって、一歩前に進める。今のままでな
く、更に主を知って行きたいとの決心に、答えて下さる。
喜びと平安に進ませて下さる。いつも主は、成長へと招
いて下さっている。
-----------------
認めなければ、責任も取らずに済むので、ずっとあいま
いのままだ。示されたことに目をつぶってしまわず、従
えるよう祈りた。主に心を開いて近づきたい。


2026年09月06日(日)

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、 彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9



アブラムとサライは、子どもに関して、主の約
束を待てなかった。肉の思いと行動で、女奴
隷ハガルにより子どもを得ようとした。だが、
ハガルは妊娠すると、高慢になり、女主人を
見下げるようになった。それに激怒したサライ
は、ハガルをいじめたため、ハガルは辛くてた
まらず逃げた。

一人寂しく、荒野の泉のほとりにいた時に、主
の使いが現われ「サライの女奴隷ハガル」と明
確に現実を見せて「あなたはどこから来て。どこ
へ行くのか」と。ハガルは居場所も自分自身も
見失なっていた。「女主人から逃げている」と
答えた。すると「あなたの女主人のもとに帰り、
彼女のもとで身を低くせよ」と。ハガルは戻り、
へりくだり、女主人に仕える事がなすべき事だ
った。

最も嫌な事であるが、しかしそれが一番幸せで、
平安の道だ。自分の遣わされた場所から逃げて
も、平安無く、真の解放感も無い。私たちも自分
を見失ない、行き詰まる時は、主を仰ぐ事により、
自分を取り戻せる。私たちも、他者や相手に関係
なく、自分と、主との関係が、まず一番重要だ。

主の御心に歩むなら、どんな状況であれ、心は
平安だ。主が平安を与えて下さるからだ。そして
主はハガルも心にかけ、「あなたの子孫は、わた
しが大いにふやすので、数えきれないほどになる」
と祝福を約束された。自分に語りかけられた神と
出会い、恵みを受けたハガルは、サライのもとに
戻った。

・・・・・・・・・・・・・・
まず主と自分の関係が正され、御声に従おうと
する時に、御霊の平安が与えられる。その時、
したくない事をも、行なう力が与えられる。




2026年09月05日(土)

「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべ て与えられます」マタイ6:33



私たちはどうだろう。少し不安があると、どんどん
それが大きく膨らむだろうか。経済的不安は、先
々の事にまで及ぶ。身体的不安はどうだろう。体
調を崩すと、何か深刻な病気ではと、不安でたま
らない。大丈夫だと思おうとするのだが、不安は、
増し、眠れなかった経験があるだろうか。

主がおられ、「すべて」の必要は備えられると、励
まされても、どうしてもだめなのだ。何度も学び、
頭ではわかるのだが、先は見えないので、恐れと
不安がどうにもならない。明日の不安に押しつぶ
され、今日の御心を行なう事ができない。今を生
きることが出来ずに、今日一日をつぶしてしまう。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めな
さい。そうすれば、それに加えて、これらのものは
すべて与えられます」とある。神を第一にするなら、
食べる物、着る物、生活の必要はすべて与えられ
ると。主が与えて下さる。そして何よりも、心を満た
して下さる。よく逆にする。「これら必要なもの」を
第一にして、あくせく走り回り、主が後回しになる。
その結果、思い煩いと不安に支配され、心は重い。

「労苦はその日その日に十分あります」その日にな
すべき御心が備えられている。それは必ずあなた
に出来る事だ。心を集中して、今、出来る事を行な
って行く時、達成感、生きる喜び、平安が与えられ
る。そのために、主を第一にする事が大切だ。もし
修正が必要なら、軌道修正して、従って行こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
神を第一にすると「それに加えて、これらのもの
はすべて与えられる」と。神と全必要のどちらも
与えられる。よく逆にしてしまう。目の前の必要
第一に走り回ってしまう。神第一に。


2026年09月04日(金)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、 いつも主への賛美がある」詩編34:1


ダビデは「あらゆる時に、主をほめたたえる」と言って
いる。「いつも」「すべての時に」と。つまり喜びや楽
しみの時だけでなく苦しみの時、悲しみの時も、「常に」
「すべての時」だ。実際、この時は、非常に苦しい悲惨
な状況だった。サウル王から一方的に妬まれ、ダビデは
サウルから命をつけ狙われ、逃げ回っていた。

そんな中、もう窮地の策で、サウルの敵、ガテ王アキシ
ュのもとに身を寄せた。敵なら来ないだろうと、しかし
その家来たちがダビデの正体を知っていて、王に告げた。
恐れたダビデは追い詰められ、身の危険を感じ、何と気
違いの振りをした。

気が狂った振りをし、ひげによだれをたらし、屈辱的な、
惨めで最悪の状態だ。結局、アキシュからも追い出され、
ほら穴に逃げ込んだ。何と悲惨な状況だろう。その直後
に「私は主をほめたたえる」と言ったのだ。「私の口に
は、いつも主への賛美がある」と。

順境で喜びの時に、賛美するのは、誰でもする。しかし
そうではなく、恐れて、惨めで、弱く、窮地の、苦しみ
のまっただ中で、ダビデは賛美した。このような状況で
は、落ち込んで、気力が失せ、愚痴と不満でいっぱいが
普通だろうか。しかしダビデは主を信頼していた。

主は共におられる。最悪の状況の中で、主を仰ぎ信じた。
その時に、主は答えて下さる。「この悩む者が呼ばわっ
たとき、主は聞かれた」。私たちも、主を呼ぶ時、主は
答えて下さる。主を呼ぶと、主は答えて下さる、この繰
り返しの中で、主への信頼が、絆が、深められて行く。
-------------
主を呼ぶと、主は答えてくださる、だから試練の中でも、
感謝と喜びが湧き上がってくる。この主との絆が、窮地
の中で主への深い賛美となる。主を呼ぼう。


2026年09月03日(木)

「わたしは烏に、そこであなたを養うように命 じた」T列王17:4


私たちは、主に喜ばれたいと願う。何が、主に喜ばれる
のだろう。あれやこれやをお献げすることだろうか。主
が、喜んで下さるのは、自らに備えて下さっている御心
は何か、又、主の、私へのご計画は何かを祈り求め、そ
れを悟り、従って行くことだ。自分が良かれと思うこと
ではなく、主の御心が重要だ。

でなければ、的はずれになってしまう。もし、主の御心
の中にいるなら、それが目立つことでも、誰にも知られ
ないことでも、王としてでも、門番としてでも、又、そ
れが病院のベッドの上だとしても、主の御心に歩んでい
るので、自分自身には、感謝の思いがあり、喜びがあり
平安に守られる。

主を見上げ、自分と主との関係の中で歩んでいるからだ。
エリヤが、主の示しによりアハブ王に、2.3年の間、雨が
降らないと告げた。これから日照りで、大変な飢饉とな
るだろう。アハブの手を逃れさせるために、主は、エリ
ヤに「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と命じられた。

その川の水を飲み、烏に「そこで」あなたを養うように
命じた、と。その主の言葉通りに、烏が朝夕にパンと肉
を運んで来た。普通、烏は食物を運ばない。自分が食べ
てしまう。主の奇跡だった。川が枯れるまで、エリヤは
そこで養われた。「そこで」が非常に大切だ。

御心の中心に、御心の場所にいるなら、すべての必要が
備えられている。エリヤは「行って、主のことばのとお
りにした」。ケリテ川のほとりに住んだ。御心を実行し、
従う時に主のみわざを見て行く。主の御心を求め、その
御心に従えるよう祈ろう。
-------------
日々、自分の希望を叶えるためにはと考え、祈るが、ま
ず主の御心を求めたい。そして、今の場所が「そこで」
あるなら、ますます感謝を深く主に献げて歩みたい。


2026年09月02日(水)

「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられ る。『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、 落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る』」 イザヤ30:15



信仰生活において、時に、突如の出来事が起きて、動揺、
困惑する事がある。あなたも経験しただろうか。平穏な
日々を過ごしている中、突然の非常事態が起きる。沢山
の人々が、突然、降って湧いたような事態に状況に、戸
惑い、呆然とし、しかし主により導かれて行った。

ある女性は、夫がリタイアし、夫婦でゆっくりとした時
を過ごしていた。そんな中、夫が体調を崩し、風邪程度
に思っていたが、具合い悪く病院へ。すると様々な精密
検査へと進み、思ってもみない難病が発覚。平和な中の
突如の事態に、何をどうすればよいのかもわからない、
パニックに。

肉は、何とかしなければと、とにかく動こうとする。大
きな不安と恐れ、焦りに襲われる。最悪のシナリオが描
かれる。しかしいつも学んでいるように、まず祈ろうと、
教会へも祈りをお願いした。主のもとへ行き、洗いざら
い状況も不安も思い煩いも、何もかも打ち明け祈った。

祈り続ける中で、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信
頼せよ。主が成し遂げてくださる」との御言葉が臨んだ。
それに応え、夫のことも自分自身もすべてを主にお委ね
した。すう〜っと気持ちが楽になり、安心感が来た。

その後、病院関係や友人知人、様々な方面から、難病や
病院、施設の沢山の情報、資料が手元に集まり、自分は
何もしていないのに、主のわざに驚いた。最もふさわし
い病院と治療へと導かれた。まさしく主が成し遂げて下
さった。
-------------
必ず主が脱出の道を備えていてくださる事を何度も経験
した。動揺する心を主に向け、祈ろう。目に見えない主
の備えが必ずある。問題のさ中で主が力をくださる。


2026年09月01日(火)

「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、 飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ 去り、荒野の中に宿りたい。あらしとはやてを避けて、 私ののがれ場に急ぎたい。」詩篇55:6



ここではダビデは苦しみと辛さ、重荷のため、逃避した
い、逃げてしまいたいと言っている。私たちも、時に、
どこかに逃げてしまいたいと思うだろうか。その時、ダ
ビデはどうしたのだろう。ダビデの逃避は不可能だった。
自分の状況から逃げることはできず、どんなに深刻だっ
たろう。それは、忍び難い苦しみだった。

自分をそしる者が敵なら忍べたが、「私の同輩、私の友、
私の親友のおまえが」と親友の裏切りに、どんなに心引
き裂かれる思いだったろう。実子にも敵対され、攻撃を
受け、「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」と。ダビデ
は、この苦悩の中で、主に祈った。そして、主に、すべ
てをお委ねした。

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたがたのこ
とを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるが
されるようにはなさらない」と。重荷を主のもとに持っ
て行くなら、主が、私たちに代わって受け取り、心配し
て下さると。経済的苦境、病気、難しい対人関係、夫婦
の問題、育児の悩み、進路・・

自分ではどうにも出来ない難題が与えられている。しか
したまたまでも、成り行きでもない。主のセッティング、
ご計画の中だ。御手が働いている。必ず導いて下さる。
ダビデのように、祈りに持って行き、主に明け渡そう。
そうする時、まず自分の心が落ち着き、平安にされる。
-----------
自分の力ではどうしようもない事を抱え込み、くり返し
考えてしまう。これは重荷だと、主に渡そう。主はこの
苦しみをご存じで、支えてくださる。