2026年11月08日(日)

「ダビデはオルナンに言った。『私に打ち場の地 所を下さい。そこに主のために祭壇を建てたい のです。十分な金額で、それを私に下さい。神 罰が民に及ばないようになるためです』」�T歴 代21:22



ダビデは、自らの人口調査の罪ゆえに、民に神
罰が下る事に対して、主に求めた。罪を犯した
のは自分であり、自分と自分の一家に御手を下
し、民は疫病に渡さないで欲しいと。するとオル
ナンの打ち場に、主のために祭壇を築くようにと
言われた。それで、オルナンに、打ち場で地所を
買いたいと願った。

するとオルナンは、お気に召すよう、お取りにな
るようにと、差し上げると申し出た。しかしダビデ
はそれを断わった。どうしても、十分な金額を払
って買いたいと。人のものを、主に献げるわけに
はいかない。費用もかけずに、いけにを献げた
くないと。犠牲を払わずして、どうしてそれが献げ
物になるのかと思ったからだ。

これは大変重要だ。私たちが主を第一にしない
で、主を信じていると言っても、その信仰は本物
だろうか。主の恵みに応答して行くのが、真の礼
拝であり、そこには必ず犠牲が伴う。私たちはど
うだろう。主を愛していると言いつつ、日々の選
択において、どうだろう。その行動はどんどん自
分軸になり、自らの欲望を遂げて行くだろうか。

楽な方に流され、求めるのは、人と、人からの賞
賛だろうか。選択しているのは世だろうか。自ら
の内側はどうだろう。御霊は気づきを与えて下さ
る。ありのままを認めて、悔い改め、主に従える
よう祈ろう。現状を認識する所から成長が始まる。
愛は必ず犠牲が伴う。しかし必ず豊かな祝福を
受ける。

・・・・・・・・・・・・・・
ダビデは罪を犯したが、悔い改め、自分の責任
から逃げなかった。そして犠牲とは、必ず痛みを
伴うものであり、しかし祝福であることを覚えさせ
られる。




2026年11月07日(土)

「受け入れよ。三年間のききんか。三か月間、あ なたが仇の前で取り去られ、あなたに敵の剣が 追い迫ることか。あるいは三日間、主の剣、疫 病がこの地に及び、主の使いが・・国中を荒らす ことか」�T歴代21:11



ダビデは、主に対して人口調査という罪を犯した。
それは単に人口を数えるということでなく、サタン
に誘惑されての事であった。その動機が自らを
誇ろうとしての高ぶりだった。それは罪であり、そ
の時に、罪の赦しを乞い、主の懲らしめを受け入
れるよう言われた。ダビデは、三日間の疫病を
受け入れた。

それは、非常に辛い事だと。しかし「私を主の手に
陥らせてください。主のあわれみは深いからです。
人の手には陥りたくありません」と答えた。私たち
はどうだろう。主の御手から、逃げようとしないだ
ろうか。主の懲らしめを、甘んじて受けるという態
度でなく、自己正当化して、他を責める。

又、逆に、自分を責めるばかりで、主に向かない。
主ではなく、いつも自分に目が行く。サウルはそ
うだった。彼は自分のした事を後悔はするが、決
して主のさばきの下に服する事をせず、霊媒の
ところへ行き、最期は自害してしまった。

しかし、ダビデは、主のもとへ行き、主の手に陥
りたいと願い、主にすべてを委ねた。私たちもダ
ビデにならおう。失敗した時、罪を犯した時、隠
れたり逃げたりせず、どんな時も主のもとへ行
こう。悔い改め、主におゆだねしよう。そして主に
従おう。主のあわれみは深く、尽きないのだから。

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ダビデは動機が間違っていて、失敗した。サタン
にやられてしまった。失敗した時に、自分では
なく、事態ではなく、主に向こう。赦しがあり、刈
り取りも、共にいて下さり、学びとして下さる。




2026年11月06日(金)

「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、 姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではない ことを、感謝します」ルカ18:11



宮に、パリサイ人と取税人が来て、祈った。祈りの言葉
により、心の内が見えて来る。パリサイ人の意識は、
「人」に向いていて、人に対するものであった。そこに
神は無かった。取税人は、人などそこに見えず、介在せ
ず、ただ「神」だけを見上げていた。あるのは、神と自
分の関係だけだった。神だけを意識していた。

パリサイ人は、「神よ」と言いつつ、実は神ではなく、
人に対する自己意識だけだ。人と自分のみだ。しかし取
税人は、神の前の自分を意識して、自らの罪を認めてい
る。パリサイ人は人と比較して、自分を見ている。自分
の罪の基準が、人によるのだ。だから罪認識が無い。

このようにサタンは常に、人と自分を比較させる。御言
葉の光に自分を照らし出すのではなく、人との比較で、
自分はどうなのかを見せる。それはサタンの誘惑であり、
その罠にはまると、人より優るなら優越感、人より劣れ
ば劣等感となり、上がったり下がったりする。

人の間を行ったり来たりで、真の罪認識に至る事がない。
罪を認める事が無いので、罪が赦される事がない。神に
向かない限り、人は罪を知る事はできない。罪が赦され
るのは、罪人だけだ。罪の無い者の罪は赦されようがな
い。

十字架は犯罪人のためであり、十字架が適用されるのは、
犯罪人だけだ。主の十字架により、罪無しとされる。罪
を人との比較で見ていないだろうか。主に向き、御言葉
に向く時に、御霊の光により教えられる。
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目の前にいる人を常に意識させられるが、比較によって、
自分の誇りや自意識に振り回される。しっかりと主に向
いて、主の光の前で自分を示され、学んでいきたい。


2026年11月05日(木)

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来 ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をして も栄える」詩篇1:3



水路のそばに木がある。その木は何もしないで、そこに
植わっている。木は、そこに立っているだけだ。しかし、
みずみずしく、葉は茂り、決して枯れる事がない。そし
てそこで豊かな実を結んで行く。木は動き回るわけでな
く、何かを頑張るわけではない。しかし、生き生きとし
た葉は生い茂り、実がなる。

水路のそばなので、絶えず、水分が豊かに流れ入るから
だ。それは決して滞る事がない。実がなるのは水路から
の水分による。私たちも実がなるのは、自分で頑張るの
でなく、ただ、主にとどまり続ける事によってだ。又、
木は自分で動く事も、環境を変える事も出来ない。そこ
に立っていて、その場所で実を結ぶ。

私たちも変えられないものを、受け入れて行く事を学ば
される。それは諦めという意味ではない。偶然ではなく、
運にほんろうされているのでなく、主が与えられたもの、
主から来たものとして、受け取り直すのだ。それは諦め
でなく、信仰だ。そこで必ず豊かな実を結ぶ。

あなたは、変える事のできないものを、くよくよと思い
煩い、受け入れられないで抵抗し、悶々としていないか。
それなら、大切な一生を、無益な思い煩いで浪費してし
まう。与えられた場で、遣わされた場で、豊かな実を結
ぶ。変えられないものを受け入れて、歩もう。難しけれ
ば、そうできるよう祈り求めよう。
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前から来るものが全て、主の赦しのもとに来ると受けと
めることが出来たなら、すでに主が備えておられる恵み
を発見するのではないだろうか。信仰の目で見ていよう。


2026年11月04日(水)

「彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あな たが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者 をみな、切り倒したのである」申命記25:18



敵である悪魔は、飢えたライオンのように、襲いかかり、
食い尽くすべきものをるものを捜しながら歩き回ってい
る。獲物を見つけるや、飛びかかろうと構えている。悪
魔は策略を練り、狙っている。特に身体的、精神的疲労
状態にある時に、要警戒だ。あなたが疲れている時を、
悪魔は、虎視眈々と狙っている。

魂が危険にさらされている事をわきまえていよう。まず、
疲れている時は、周囲にも、そして霊の敵に対しても、
無防備状態になってしまうからだ。エサウは野での猟か
ら戻り「飢え疲れている」時に、長子の権と豆を交換し
た。飢えと疲れで、長子の権など、どうでも良いと思っ
たのだ。私達は余りに疲れると、思考力、判断力を失い、
重大な事がどうでもよくなってしまう。

主の言葉や約束など飛んでしまう。疲れた時に経験しな
いだろうか。エリヤはバアルとの戦いで、心身極度に消
耗し、多大のストレスに疲労こんぱい状態だった。その
上に、イゼベルの預言者殺害命令を聞いた時に、もう許
容量オーバーで耐えきれず、主に死を願った。疲れて、
弱る時、気力が失せてしまう。

その前に、バアルと激しい闘いをし、大勝利したあのエ
リヤでさえだ。人は皆、弱い。疲れて弱る時が、狙われ
ている事をまずよくわきまえよう。振り返る時、思い当
たるだろうか。武具を帯び、神に拠り頼んでいよう。疲
れている時は、心して主に拠りすがろう。
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自分が疲れているとき、気づけるよう祈りたい。許容量
がオーバーになると狭量になり、一番主に頼るべき時に
無防備になってしまう。絶えず主に拠りすがっていよう。


2026年11月03日(火)

「イエスは言われた『ああ、愚かな人たち。預言者たち の言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち』キリスト は、必ずそのような苦しみを受けて・・」ルカ24:25


エマオ途上の弟子達は、主のよみがえりを信じず、不信
仰と失望落胆に飲み込まれてしまっていた。そのため、
かたわらを歩き、話しかける方が主だとわからなかった。
主を信じられない時、また、失望にある時、主が見えな
くなってしまう。かたわらにおられる、その主が見えな
い。

しかしこの情景から、私たちがどんなに主が見えない時
も、主はすぐそばにおられる。仮に、自分が主を感じら
れなくても、見えなくても、主はすぐそばにおられ、共
に歩んで下さっている。これは何という慰めだろう。私
たちが感じる時には共におられ、感じられない時には、
おられないのではない。

又、不信仰は、主を見えなくする。「愚かな人たち・・信
じない、心の鈍い人たち」「彼らの不信仰とかたくなな
心をお責めになった」主は不信仰は、はっきりと責めら
れる。それは間違っていると。「信じない者にならない
で、信じる者になりなさい」と。あなたも今、失望落胆
にあるだろうか。不信仰に陥っているだろうか。

しかし一番の問題は、信じようとしない、頑なな、自ら
の心にあるのではないか。不信仰を認めて、悔い改めよ
う。見えない、感じない中も、主の言葉を信じて行こう
とする時、その信仰を喜ばれ、祝福して下さる。その時、
主が導き、今の状況を通して、必ず主の栄光を現わして
下さる。主の素晴らしさを見る。
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ある時は主を近くに感じ、またある時は遠くに思える。
鈍くなっているのは自分自身の問題で、主のご愛も恵み
も変わりなく備えられている。主を真っすぐに見ていた
い。


2026年11月02日(月)

「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を 信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです」 ローマ4:24


「キリストが、よみがえられた」という事は、私たちが
完全に「義」とされたという事だ。神が御子の十字架の
身代わりの死、罪のあがないを受け入れられ、認められ、
そして、御子イエスをよみがえらされた。つまり、神が
御子を復活させたという事は、あがないの死、なだめの
供え物を、神が認められたという事だ。

だから逆に言えば、もし、神がなだめの供え物を認めら
れなければ、もし、私たちを義とされなければ、主イエ
スのよみがえりはなかったわけだ。神が、認められたわ
けで、御前に、正真正銘、私たちは義とされている。何
という恵みだろう。義とは、神との関係が正されたとい
う事であり、罪無しという事だ。

神との関係が正されたとは何と驚くべき事で、感謝な事
だろう。クリスチャンでありながら、義とされている事
には、目をとめていないだろうか。「あなたがたは、な
ぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」とあり、死
人の中に主を探していて、十字架上で死なれた主にとど
まり、よみがえられた主を見ようとしない。そのため、
主の墓の前でウロウロしている。

信仰を持つ以前は、思い煩いと不安、恐れの中にいたが、
今も恐れて生きているだろうか。主はよみがえられ、私
たちは完全に義とされた。罪無しとされている。それゆ
え神との間が正され、回復され、妨げ無い交わりが与え
られている。今、生きておられる、よみがえりの主に目
を向ける時に、力を受ける。
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自分の状態は関係ない。なんと感謝な事だろう。全ては、
神の御約束を信仰を持って受け入れることが、義とされ
る道。神のゆえに喜びがある。


2026年11月01日(日)

「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十 分である。というのは、わたしの力は、弱さの うちに完全に現われるからである』と言われた のです』」�Uコリント12:9



ある人の証しだ。主を信じ、救われたのだが、
"ねばならない"の律法にどんどん入り込ん
でしまい、頑張って、頑張って律法を行った。
自分の力と努力で信仰生活をしているので、
喜びなど全く覚えることなく、辛くてたまらない。
疲れて来るが、しかし、更に自分の頑張りで
進んで行く。

自分は辛くてしんどいので、頑張っていない
人を見ると、腹を立て、裁いて行く。心で人
を裁き、喜びも平安も無い。先輩クリスチャンに、
それは律法主義で、愛ではない、聖書の信
仰ではないと言われた。しかし、愛がわから
ない。頭では、行ないではなく、恵みによる
救いだと理解できて、理屈ではわかるのだが、
どうしても神の愛がわからない。

恵みと言っても、きちんと行ないをしなけれ
ば、としか思えない。その時は、神の愛が頭
の知識でしかなく、神の愛を「信じようと」しな
かった。どうやっても愛がわからず、辛いば
かりで、ギブアップ状態になった。その時に、
「わたしの恵みはあなたに十分」の言葉が、
光のように臨んで来た。

恵みは十分注がれてるよと、主が言って下
さった。そして、「弱さのうちに現れる」のだと。
弱くて良いのだと思った瞬間、力が抜けて、
平安に包まれた。主が、主の愛を信じさせて
下さった瞬間だった。主が握って下さっていた
ことに感謝でならなかった。私たち一人一人
も捕らえて下さっている。

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肉は、どこまでも頑張りに頑張る。しかし限界が
来て、許容量オーバーになる。ギブアップした時
に、主のみわざを見る。恵みによる歩みを経験
させて下さる。