2021年09月17日(金)

「そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる」マルコ12:42


献金箱に向かって、座られた主は、人々が献金を投げ入れる様子を
じっと見ておられた。金持ちたちが、次々と大金を投げ入れ、それ
はじゃらじゃらと大きな音で、大金だとわかった。そこに貧しいや
もめが来て、レプタ二つを入れた。レプタは当時の貨幣の最小単位
で、1デナリの128分の1だ。200円位だろうか。僅かなお金だ。

しかし主は、わざわざ弟子たちを呼び寄せて、言われた。この女性
が、どの金持ちよりも沢山献げたのだと。皆は生活が十分できて、
尚も余る中から献げたが、彼女は、今、持っている全部を献げたか
らと。主は、献金額の多い少ないを見ておられない。金持ちは、多
く献げたからといって、困る事は全く無かった。

彼女はレプタを二つ持っていた。その内の一つを主に献げて、一つ
は自分のために使っても良かった。しかし彼女は、主への感謝が溢
れ出て、何もかも全部を献げる行為となった。献金とは献身だ。そ
れは自分自身を主に献げる事であり、彼女は、自分の生涯、自分の
持てる物、自分自身を主に差し出した。主は、明日の必要も満たし
て下さる事を信じていた。主に頼りきった彼女の信仰だった。

主は、彼女のその信仰を見られ、喜ばれ、受け取られた。主は、人
が見るようには見ておられない。人は外側しか見えないが、主が見
ておられるところは異なり、動機を、信仰を、見て下さっている。
主に、お献げしたものを、主は喜ばれ、受け取って下さっている。
何と嬉しい事だろう。主に喜ばれる、献げものを、献げて行けるよ
う祈ろう。
--------------
あちこちに保険をかけて、それでも不安で主に頼ろうとしているの
ではないだろうか。全て献げても主が守ってくださるとの委ねきっ
た姿勢を学ばされる。主に献げよう。


2021年09月16日(木)

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て』」T列王19:11



エリヤは、バアルとの熾烈な戦いで、大々的勝利を遂げた。それを
聞き、怒ったイゼベルがエリヤに、使者を送りエリヤ殺害を伝えた。
するとエリヤはその脅しに怯えて、逃亡した。あれほどの大きな戦
いに勝利したエリヤが、信じられないようだが、霊的勝利の後は、
特に危険と言われている通りだ。

戦いでは、必死に主に拠り頼むが、勝利の後は油断してしまう。サ
タンの攻撃と誘惑が臨む。特に大勝利の後こそ、身を引き締め、慎
み、へりくだって、更に主に拠り頼む必要がある。あの勇敢に戦っ
たなエリヤが、自分の命を救うために逃げたのだ。この事の原因は、
イゼベルの言葉だった。主の言葉よりイゼベルの言葉を受け入れて
しまった。

どの言葉を聞き、どの言葉を拒否するかは重要だ。その言葉に自分
が影響され動かされてしまう。私たちは心にどの言葉を受け入れて
いるだろう。主の言葉か、サタンの言葉だろうか。主はエリヤに十
分な休息を与え、身体の回復を与えられ、ホレブの山に向かわせら
れた。そして山上で、主の前に立つよう命じられた。

激しい大風、地震、火があり、その後に、かすかな細い声があった。
エリヤはその細い御声に耳を傾けた。主はエリヤの思いの間違いを
正し、エリヤに新しい使命を与えられた。死を願ったエリヤだが、
再び、主の使命を遂げるために、立ち上がる事ができた。

スランプ、落ち込み、無気力から脱っするには、まずはしっかり心
身休息し、そして主の御前に行くことだ。御声にじっと耳を傾けよ
う。御言葉により新しい力が湧き出る。今一度、立ち上がらせられ
る。
-------------
祝福された勝利の後のほっとした時に、思わぬサタンの攻撃で深い
傷を受けてしまう事がある。主が必ず立ち上がらせてくれる事を信
じて主の御言葉に耳を澄まそう。


2021年09月15日(水)

「しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て幽霊だと思い、叫び声をあげた。というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである」マルコ6:49



弟子たちは、主から無理やり舟に乗せられ、こぎ出た。すると真夜
中に大嵐に見舞われ、悪戦苦闘していた。その時、湖上を歩いて来
られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見て
おびえてしまった」。主を幽霊だと思った。なぜ、主を幽霊だと思
ったのだろう。「その心は堅く閉じていたから」とある。

心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。心の問
題であった。なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、思いもよ
らず、有り得ない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであ
った」。なぜ、驚きだったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、
人間だとしか思っていなかった。

「パンのことから悟るところがなく」とあり、すぐ前にあった五千
人の給食の奇跡の事だ。その奇跡から何を悟るべきだったのか。
主が、人となられた神であるということだった。しかし主が神だと
は、到底理解できなかった。主を正しく認識していなければ、助け
ようと来て下さっても、受け入れる事ができない。

そんな事ができると思わないからだ。不信仰は、信仰の力を削いで
しまう。主は罪を赦すと言われる。主には出来ると信じるなら、失
敗しても悔い改める時に、喜びと平安で満たされる。だがもし信じ
なければ、恐れと不安の暗闇の中だ。私たちはどうだろう。

問題は、心が閉じていることだろうか。自分の見方でのみ見ている
だろうか。主にはそんな事出来るわけが無いと思っているだろうか。
主に心を開いて行けるよう祈ろう。御霊が助けて下さる。
--------------
見えない目、悟らない心の者だ。自分の常識や期待を反映させてい
る主ではないだろうか。主が教えようとされるものをまっすぐに信
じ、思い込みを日々に正されて、真実な主を知っていこう。


2021年09月14日(火)

「『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』そこで、ヨシュアはそのようにした」ヨシュア5:15



ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、橋も船もないヨルダン川
を、主の奇跡によって渡り、約束の地に入った。しかしすぐさま困
難に直面する。目前に、エリコのそびえ立つ城壁が立ちはだかった。
私たちの人生にも、様々な問題や困難が立ちはだかる。ヨシュアは
非常な困難の中にあった。

そんな時に、目を上げると一人の人が抜き身の剣を手に持ち、立っ
ていた。今にも戦おうとの姿勢だ。驚いたヨシュアは思わず「味方
か敵か」と問うた。味方であって欲しい。しかし相手は、敵とも味
方とも答えず、「主の軍の将」と答えた。敵でないなら、味方では
と思うが、ヨシュアの上に立つ将だと。つまり「あなたでなく、わ
たしがリーダーだ」と。

そこでヨシュアは地に伏し「〜して下さい」と願ったのでなく「何
を告げられるのですか」と、主の御心を問うた。すると「足のはき
ものを脱げ」と。はきものを脱ぐとは、自分の思い、方法、力を
「明け渡して」、主に従えとのことだ。「あなたの立っている場所
は聖なる所」と。主が共におられる場所だ。

「ヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは自分を明け渡して、言
われる通りに、その通りに従った。すると城壁は見事に崩れ落ちた。
今、困難な状況にあるだろうか。だが主は、今の場所は聖なる地だ
と。主の軍の将が来ておられる。はき物は脱いで、主の示しに従お
う。解決のみわざを見る。
------------
主の祝福を受けなければ決して勝利はない。結果を求めて心ははや
るが、聖なる主の御前にへりくだろう。主に自分自身を明け渡し、
祝福を願い従って行こう。


2021年09月13日(月)

「三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた」士師記7:22 




当時、イスラエルは絶えず侵略を受け、苦しい状況にあった。主は
ギデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。呼びか
けに32,000人が集まった。だが、相手は135,000人の大軍で、圧倒
的不利で、到底勝ち目はない。しかしその時、主は極めて不思議な
事をされた。人間的に考えると有り得ない事だ。

何とギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じられた
のだ。最後には、たった300人が残された。そしてその300人で戦っ
た結果、ギデオンが大勝利した。勝利は主から来た。この時、主は
兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で救ったと、自分を
誇るから」と。

この戦いの勝利が人間でなく、主の力によるものと明確にするよう
に、あえて兵士の数を減らされた。私たちは、自分がもっと強けれ
ば、能力があればと思うだろうか。自分に力が無いから、だめなの
だと。しかしもし強ければ、主の働きを自分が奪い、自分を誇り、
自分の栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。

パウロは、第三の天にまで引き上げられるという、特別な経験をし
た。人類の誰も経験した事がない。パウロも、自分を誇る弱さがあ
り、そのため余りにも大きな恵みに、高ぶる事がないように、とげ
が与えられたと言っている。苦しいとげであったが、それによって
高ぶりの罪から守られた。

高ぶりからの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい
啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。こ
の世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という
恵みだろう。弱さの中にこそ、主が働いて下さる。
-----------
すべての力を奪われて、ひとりで問題に向き合わされる時は、ひと
りで主に向き合う大切な時だ。勇気も気力も主から来る。主に身を
委ね、戦いの勝利が主の力によると、主の栄光を拝そう。


2021年09月12日(日)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21


神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を
行わせて下さる。主が、私たちの心に志を下さると。日常で、私達
は、朝起きてから夜寝るまで、様々な思いが次から次へと浮かぶ。
しかし注意すべき事は、すべてが神からのものではないという事だ。

サタンからの思いも、どんどん来るし、自分の肉からの思いも湧き
上がる。様々な思いが混線している。これこそ御心と思うのだが、
主からの思いでは無い事も、しばしば経験する。しかし必ず主から
の思いもある。どう判別して行けばよいのだろう。

まず何よりも祈りが大切だ。サタンによる霊的な事柄の識別は、祈
りによってしかわからない。祈りの中で御霊が働き、御霊が教えて
下さる。その心の思いは、御言葉に合致しているか。御言葉に反し
て導かれる事は決して無い。

その際、注意すべき事は、サタンは光の御使いに変装するので、神
のかたちをとって来る。主からのものに思えてしまう。非常に紛ら
わしい。御言葉を違う解釈で持って来たり、御言葉を薄めたり水増
ししたりする。少し位大丈夫だと誘惑して来る。又、結果オーライ
で、結果さえ良ければ、方法、手段は構わないではないかと思わせ
て来る。

目的のために、手段は正当化されるのだと。しかし主は、目的も手
段も、動機も正しい事をされる。そこに不正があるなら、主からの
ものではない。又、主からの志であれば、祈りの中で不安が失せ、
平安が与えられ、必ず環境が開かれて行く。

・・・・・・・・・・・
主の御声があり、サタンの声や自分の思いがある。よく祈ろう。よ
くよく祈りを積んで、志が変わらなければ、主からのものだ。サタ
ンや自分の思いなら変わって行く。又、環境が閉じられて行く。主
は導かれるので、必ず従いたい決心がある時に、導きがわかる。


2021年09月11日(土)

「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとり もありません。失われるのは船だけです」使徒27;22



パウロは主からローマ行きを示されていた。ローマで主の証しをす
るためだった。それが諸事情あり、パウロの思いとは全く異なり、
囚人としてであったが、イタリヤ行きの船に乗る事になった。出航
したが、途中、風のために進む事ができず、良い港という所に着い
た。

パウロは、もう航海は危険だと判断し主張したのだが、百人隊長に
より、クレテの港へ行き、冬を過ごす事になった。すると何日もの
激しい暴風に会い、船はほんろうされた。積み荷を捨て、船具まで
捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、絶望的であった。身の危
険に最後の望みも断たれようとしていた。

だがパウロは「命を失う者は一人もない。失われるのは船だけ」と
確信に満ちて告げた。主は、信仰人生、失うものは何もないとは言
われない。ヤコブも「私も、失うときには、失うのだ」と言った。
私達は信仰生活で、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」と。

ヨブは、主は与えて下さると同時に、取られるとも証ししている。
しかし、失う事はあっても、必ず私達は御手の中に堅く守られ、信
仰の生涯を全うできる。船を失う事があるかもしれないが、信仰人
生は堅く守られ、確実に安全な島に打ち上げられることを覚えよう。

得る事は嬉しいが、失う事は、嬉しくはなく痛手だ。心痛む。だが
振り返る時、あの時、この時の損失、大きな痛手だったが、それに
より自分自身が練られきよめられ、成長させられた。今の自分があ
る。実際に、いろんな形で損失を通るが、思いを遙かに越えた祝福
に至る。船を失う事はあるかも知れないが、豊かな霊的祝福へと至
る。

・・・・・・・・・・・・
信仰人生は、決して自分の思い通りではない。思い通りには行かな
い。しかし主の御心が成し遂げられて行く。パウロが思いとは違っ
て囚人で、しかしローマに到着したように。主に委ね従う時に思い
通りではないが、主の思い通りに導かれる。それこそベストだ。


2021年09月10日(金)

「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい」マタイ6:32



私たちはどうだろう。いつも先の事が不安でたまらないだろうか。
明日のこの事、来週のあの事、来年の不安、しいては老後の事が不
安でたまらない。大丈夫だと思おうとするが、不安は湧き上がり、
襲って来る。不安と思い煩いで眠れなかった夜を経験しただろうか。

主がおられるから大丈夫と、すべての必要は必ず満たされるからと
励まされても、どうしてもだめなのだ。教理上、頭ではわかるのだ
が、先の事は、目に見えないので、恐れと不安がどうにもならない。
明日の不安と煩いに押しつぶされて、今日を生きる事ができず、今
日の御心を行なう事ができない。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めよ。そうすれば、そ
れに加えて、これらのものはすべて与えられる」とある。神第一に
して行くならば、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと
の、生活の必要はすべて与えられるのだと。そして心も満ち足らわ
せて下さる。しばしば、これの逆をしてしまう。

「これらのもの」を第一にして、ほんろうされ、神が後回しになっ
てしまう。その結果、全く平安が無い。「労苦はその日その日に十
分ある」その日になすべき御心がある。心を集中し、今なすべき事
を行なう時、日々に達成感、喜び、平安が来る。主を第一に軌道修
正して行こう。
------------
目の前に来る刺激によってすぐに揺れ、第二のもの第三のものに流
されてしまう。主を第一にしよう。本当に価値のあるもの、本来の
目的に立ち返ろう。


2021年09月09日(木)

「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた」詩編34:6



ダビデの詩編で、私たちは、どんなに慰められ励まされ、力づけら
れる事だろう。ダビデは、詩篇のこの箇所でまず「私はあらゆる時
に、主をほめたたえる」と言った。「あらゆる時」だ。つまり、喜
び楽しみの時、順境の時だけでなく、辛い、苦しみ悲しみの時も、
「すべての時」だ。

実際ダビデは、この時はとんでもない悲惨な状況だった。サウル王
から理不尽な妬みにより命を狙われ、逃亡中だった。そんな中、窮
地に陥り、何とサウルの敵であるガテ王アキシュのもとに身を寄せ
た。しかしその部下たちがダビデの正体を知っていて、王に告げた。
恐れたダビデは追い詰められ、身の危険を感じ、何と気違いの振り
をした。

気が狂った演技をし、ひげによだれをたらし、屈辱的な、惨めで最
悪だ。アキシュからも追い出され、ほら穴に逃げ込んだ。何という
苦しく辛い状況だろう。その直後に、「私は主をほめたたえる」と
言ったのだ。「私の口には、いつも主への賛美がある」と。順境で
喜びと楽しみの時に、賛美するのは、誰でもする。

しかしそうではなく、恐怖で、惨めで、弱く、窮地の、苦しみのま
っただ中で、ダビデは主への信仰に立って、賛美した。このような
状況では、落ち込み、気力も萎え、愚痴と不満でいっぱいが普通か
も知れない。しかしダビデは主を信頼していた。主は共におられる。

最悪の状況の中で、主を仰いで行った。その時に、主は答えて下さ
った。「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」。私たちも、
主を呼ぶ時、主は答えられる。主を呼び、主は答えて下さる、この
繰り返しの中で、少しづつ〃主への信頼が、確実に着実に深められ
て行く。
-----------
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張ると、ダビデのように主を
信じ抜き、試練を通して、更に豊かな祝福を、主の素晴らしさを味
わい見つめる者となろう。


2021年09月08日(水)

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、『アブラハムよ』と呼びかけると、彼は、『はい。ここにおります』と答えた」創世記22:1



イサクは、アブラハムの宝物だった。そのイサクを全焼のいけにえ
として献げるようにと。はっきりと試練だと言われた。「あなたの
子」と言われ、よその子ではなく、自分自身の実子、「あなたの愛
しているひとり子イサク」と続く。大切な心底愛している子、ひと
り子であり後継者だ。

神の祝福を受け継ぐ子であり、イサクから祝福が全世界に拡がって
行く、この上なく大事な約束の息子だ。そのイサクを献げよと。約
束が、ほごにされてしまうのだろうか。ある日、突然の主の命令だ
った。アブラハムにとって、どんなに厳しい試みだったろう。信仰
人生、最終章の大きな試練だった。しかしアブラハムは従った。

彼はイサクを通しての約束を与えられていたが、ただひとりの子を
献げた。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもで
きる、と考えた」。もしイサクを全焼のいけにえとしてほふったと
しても、神はイサクをよみがえらせて下さると信じた。モリヤの地
まで3日かかる。命令を受けて、翌朝早く出た時から、彼の決心と
信仰は変わらなかった。

現地に近づいた時、若い者たちに、そこで待つようにと言った。
「私と子どもとは、礼拝をして戻って来る」と。「私と息子は戻っ
て来る」と言った。その通りになった。アブラハムも弱さのある人
間で、何度も失敗した。しかし主に従い続け、主との信頼関係が培
われて行った。私たちも様々な出来事を通して、主との信頼関係を
培って下さり、深められて行く。
------------
結果は自分の思いとは違うかもしれないが、神のご計画だけが成り、
それは最善で祝福だったという経験をひとつひとつ重ねて生きたい。
主の山の備えを信じて登っていこう。


2021年09月07日(火)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3


ある人が、仕事上で大きなプロジェクトに関わっていた。だが議論
を詰める中で、自分のプランと異なる意見が出て来て、まさに反対
の意見だった。各々が自分の意見こそはベストと思っているので、
意見が対立し、衝突した。議論になると、自分は正しいと思ってい
るので、イライラし、怒りが出て来る。どうしても相手を打ち負か
したいと思ってしまう。

心は重く、平安が全く無く、辛い。帰宅して、まっすぐ主の御前に
行き、祈りの時を持った。いら立つ心、怒り、人を裁き、責める心
の内も告げて、祈っていた時に、「いつも喜んでいなさい。絶えず
祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」と、よく知ってい
る御言葉が心に浮かんだ。心に響いて来て、主が語りかけておられ
た。

「すべての事について感謝しなさい」、反対する人々を感謝しなさ
いと。腹が立って、感謝など出来ないと思ったが、しかし思い直し
て御言葉に従おうと、感謝しますと祈った。すると不思議に、荒れ
ていた心が落ち着いて行った。主に焦点が合い、心が平安にされた。
自分が変えられた。

「自分が」「自分が」と、主も、人も、突き飛ばして、へりくだり
など全く無く、高ぶっていた姿を見せられた。悔い改めて、主にす
べてを委ねることができた。結果的に、主が豊かに祝福して下さっ
て、そのプロジェクトは大成功をおさめたが、自分が主に取り扱わ
れ、変えられた事が一番嬉しかった。
-----------
心配事に心を煩わせると、ひたすら問題だけに捕らわれてしまうが、
主を呼び不安や思い煩いをうちあける時間が大切だ。主を求めよう。
絶えず御名を呼び求めよう。


2021年09月06日(月)

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」Tヨハネ3:16



兄弟のために命を捨てるとは、字のごとく死ぬ事ではなく、相手に
とって何が最善であるのかを考え、そのために、自分にできる事で
犠牲を払う事だ。そして「神を愛するとは、神の命令を守ることで
す。その命令は重荷とはなりません」とあり、神の命令を守る事は
、愛して行く事は、決して重荷とはならないと。

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの
心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」
。自分には助ける力が与えられているのに、愛の行ないをしないな
ら、そこに神の愛はとどまっていないと言っている。だが真実をも
って愛の行ないをするなら、自らが主のもとにある事を知り、御前
に心を安らかにされる。

そして、心平安にされ、今度は自分が主に願うものをいただけると。
「求めるものは何でも神からいただくことができます」。なぜなら
主の命令を守り、主に喜ばれる事を行なっているからだと。力以上
の事をする必要はないし、できない。そこに無理がかかると、疲れ
て重荷となってしまう。

別の個所で「この女は、自分にできることをしたのです」との言葉
があり、自分に出来る事で、犠牲を払えばよい。労力、富、時間、
与える事のできるものが、与えられている事が恵みだ。主が任せて
下さっているものの中から、愛の献げものを導かれているだろう
か。
-----------
相手にとって最善な事は何か、出来る事はないかと心を寄せる事か
ら始めたい。悪気は全く無いが、関心も無いという日常ではないだ
ろうか。心を向け祈っていこう。


2021年09月05日(日)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛して いる」イザヤ43:4


私たちが、就職試験を受ける時はどうだろう。「何が出来るか」
「どんな資格を持っているか」「何が得意で、どんな能力があるの
か」「秀でたものはあるか」「人が持っていない特技を持っている
か」これらが就職試験で問われ、有利になる。

もし、「何も出来ません」「あれも、これも出来ません」「資格は
何もありません」と言えばどうだろう。この世では、能力のある者、
特技を持つ者、出来る者が尊ばれる。しかし、主の目はどうだろう。
主は何を見ておられるのだろう。「わたしの目には、あなたは高価
で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われる。

何が出来るか、出来ないか、何を持つか、持たないかは、いっさい
関係が無い。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。付加価
値をつけたあなたでなく、今、そのままのあなたの事を言っておら
れる。この世の価値観は、良い子が愛され、悪い子は認められない。

良い子になれば愛される。私たちも、培われた根深い価値観があり、
良い子になれば認められ、受け入れてもらえるのだと思う。そのた
め、クリスチャンになってからも、愛してもらいたくて、主に認め
てもらいたくて、善行を行なおうとする。これは全く間違っていて、
逆行している。

律法の下に身を置く事になり、平安も喜びも失ってしまう。愛をも
らうために善行をするのでなく、すでに100%愛されているから、
その愛に感謝して、善行をする。これが恵みだ。いつもこの恵みに
とどまるようにと。油断をすると律法に陥る。この恵みに目が開か
れるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・
主の愛から離れ、恵みのもとから出てしまうと、自分の力で歩み、
信仰生活が担い切れない重い荷となる。又、自分の力で出来たと
しても、自分を誇り、栄光を自分に帰して行く。ますます主から
離れてしまう。主との交わりの中にとどまり、主に信頼を向けよう。


2021年09月04日(土)

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27



主は、十字架にかかられる前に、弟子たちに平安を残すと言われた。
しかし普通は、今から死ぬ人が、平安は残せない。叉、親が子に、
桁外れの資産を残したとしても、経済的に不安は無いが、心の平安
を残す事は出来ない。又、たとえ身体が強健で、何の問題もなく、
財産があったとしても、心にぽっかり空いた空虚感、心の虚しさは、
誰もどうにも出来ない。

金銭ではどうにもならず、解決できる者はいない。私たちが、心の
底で求めているものは、「平安」だ。そしてその平安のためには、
心の奥底にある、「罪」から来る不安、恐れ、思い煩いが解決され
る必要がある。

ある人には、どうやってもぬぐえない心の傷があった。親から妹を
見るよう頼まれていたのに、見ておらず事故で死なせてしまったの
だ。親も周囲もカウンセラーも、皆が「あなたのせいではない。事
故だったのだ」と言った。しかし幾ら言われても、心の苦しみはど
うにもならなかった。

教会へ行った時に、生まれて初めての言葉を聞いた「それはあなた
の罪です」「しかしキリストはあなたのその罪を負い、十字架で死
なれました」と。十字架の意味を知った。はっきりと罪だと指摘さ
れ、罪を認める事ができ、その罪が赦された事に、長い間の苦しみ
と辛さが、大海のような平安に飲み込まれた。

誰からも、何からも得られなかった平安を、主が与えて下さった。
主だけが、「わたしの平安」と言われるところの、主の平安を与え
て下さる。主のもとへ行こう。

・・・・・・・・・・・・
平安は、自分で幾ら得ようとしても得られない。不安と恐れが増す
ばかりだ。「わたしの平安」と言われる、主が与えて下さる平安は、
この世には無い平安だ。罪が赦されるから得られる平安で、状況は
関係無く、どんな厳しい環境の中でも与えられる平安だ。


2021年09月03日(金)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」Tペテロ5:8




主が、働きを開始される時に、まず悪魔の試みに会われた。悪魔は、
阻止しようと立ちはだかった。私たちも、悪魔の攻撃に会うが、特
に、御心を行なおうとする時にやって来る。激しく阻止しようとす
る。日々の祈りの時はどうだろう。祈りや聖書を読もうとする時に、
妨げが入る。

突然、急ぐ用を思い出す。立ち上がって、その対応をする。ピンポ
ンと宅配が来る、電話が鳴る。眠気に襲われる。その前まで全く眠
くなかったのに。又、様々な思い煩いが脳裏を巡り、時に怒りに支
配される。悪魔の妨害だ。御心を行おうとする時に、妨げが入る。

ある人が、母親を定期的に訪問しては、世話をし、証しの機会を祈
っていた。話を聞く事も、サポートの一環と、聞いて上げていた。
その日も、予定日だったが、なぜか心が重苦しく、気持ちがふさい
だ。行きたくない思いに襲われる。日を変えようかとも思う。しか
し主のために、決めた日程だ。祈り、やはり行こうと決心した。

行くと、母親の愚痴不満、ネガティブな話が延々続いた。いつもは
聞き流せるのに、その日は気がおかしくなりそうだった。限界にな
り、心の内で叫び祈った。すると冷静に穏やかに、人は皆、罪人で
ある事が話せた。罪について話すと、いつも聞かない母親が耳を傾
け、目に涙が。

十字架の贖いをはっきり話せて、母親はその日主を受け入れた。サ
タンが必ず祝福を妨害して来る事を改めて教えられた。悪魔は妨害
し、働く。わきまえていよう。だがその背後に、常に全能の主の主
権と支配があり、守られている。
-----------
常に祝福を取りにサタンがきていると警戒していよう。すぐに混乱
させられ、どれほど弱いかを知っている。弱いからいつも謙遜に、
御言葉を握り、主に頼っていよう。


2021年09月02日(木)

「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた・・わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」イザヤ37:21



ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王のセナケリブが、ユダの町々を
攻め取った。王はラブシャケを送り、ヒゼキヤ王と人々に脅しをか
ける。大軍を伴い、強大な軍隊を誇示し、挑んで来る。「ヒゼキヤ
王は、主が救うというが、ヒゼキヤの言う事にだまされるな、信じ
るな」と信仰を揺るがす。

これを聞いたヒゼキヤ王はどうしたのか。ヒゼキヤは衣を裂き、荒
布をまとって主の宮へ行き、主に祈りを献げ、イザヤにも祈りを要
請した。サタンの私たちへの攻撃も同様だ。私達に挑み、仕掛けて
来る。経済的困難や対人関係の悩み、仕事や様々な問題、信仰ゆえ
の戦い・・が来る。圧倒的な勢力のこの世を前に、自分達の無力を
見せつけられる。

「祈っても無駄だ、何になろう、主を信じてどうなる、しょせん無
力だ・・」。主を信じて立たないよう、この世に妥協して生きるよ
うに誘惑する。そうすれば楽に生きれる、摩擦も生じず、世の成功
も手にできる。サタンだ。このような時に、対抗手段は祈りだ。
ヒゼキヤもイザヤも切に祈った。

祈りに答え、主は奇跡をされた。何と主の使いが、アッシリヤの軍
勢18万5千人を打ち殺したのだ。セナケリブは立ち去った。世に妥
協させようと、耳元に来るサタンの誘惑に気づけるように。祈りに
より立ち向かおう。そして大事な事は、サタンの背後に、全権を持
たれた主の支配があり、サタンも主の御手の中であることを、絶え
ず見ていよう。
--------------
サタンは巧妙に心の中にやって来て、状況だけを見させる。恐怖に
襲われたらすぐに主に祈ろう。サタンに勝利された主がいつも傍に
いる。御霊を通して目を開かせてくださる。


2021年09月01日(水)

「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです」使徒27:24


パウロはローマ行きを、主から示されていた。エルサレムで証しし
たように、ローマでも証ししなければならないと。だが第3次伝道
旅行の後、エルサレムで「除け。生かしておくべきでない」と人々
に殺されそうになり、大混乱、大騒動になった。投獄されてしまい、
ローマ行きは絶望的に思えた。しかし監禁により、返って暗殺者か
ら守られる事になった。

実の無い裁判に見えたが、それは総督のペリクスやフェストに証し
をする機会となった。又、丁度アグリッパ王が総督フェストに会い
に来たため、王にも福音を語る機会となった。そしてパウロは更に
ローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を開く事になった。
パウロの思いとは異なり囚人としてであったが、ローマに向かう事
になった。

その船が幾日も大嵐に会い、激しく翻弄され、死に直面する事態と
なった。しかしパウロは必ずカイザルの前に立つとの、主の言葉を
信じきっていた。船は座礁したが、全員が板や物につかまり、岸に
辿りついた。「こうして、私たちはローマに到着した」。パウロは、
主の言葉通りローマに着き、福音を伝えた。

何があっても、どんな障害があっても、主は必ず御言葉を成就され
る。主が語られた事は100%成就する。あなたは今、途上の紆余曲
折の苦しい中にいるだろうか。「こうして、ローマに到着した」。
必ず、あなたに約束された主の言葉は成就する。信じていよう。主
を信じて続けて前進しよう。
---------------
どんな絶望的な状況であっても、主に祈り、主の御言葉を聞くこと
ができる。恐れてはいけません、計画の中にいるからと語りかけて
くださる。主を信じて、与えられた確信をにぎっていよう。