2026年06月06日(土)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのこと を心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるが されるようにはなさらない」詩篇55:22



私たちは、心配症だろうか。とにかく不安でたまらず、
心配する。目の前のあの事、この事、少し先の事、
ずっと先の事・・まだ起きていない事を、あれやこれ
や思い煩い、次々と心配の種は尽きない。最悪の
シナリオが出来上がる。ますます不安が募る。その
不安はモンスターになって行き、飲み込まれてしまう。

しかし状況から目を離し、主に目を向けるならどう
だろう。主は出エジプト時に、前は海、後ろはパロの
追っ手で絶体絶命の時に、海を二つに分け、海の中
に道をつけられた。 何も無い荒野では、天からマナ
を降らせ、岩から水を出された。カナンを前に、行く手
を阻むヨルダン川の水をせき止め、難攻不落のエリコ
の城壁を崩された。

あの絶対的バビロンを倒し、不滅と言われたローマ
帝国も倒された。不可能は一つもない、その主が、あ
なたの事を心配して下さっている。いっさい思い煩う
な、明日の心配無用と言われる。なぜ、あれこれと、
常に思い煩うのだろう。問題が、問題なのではなく、
その中で主を信頼しない事が、問題だ。

目の前の困難を、繰り返し繰り返し煩い続け、問題の
とりことなり、小さな問題をモンスターにしてしまう。自
分で、巨大な手に負えないものにして、自滅しそうだ。
繰り返し〃、主を思い、御言葉を見続けるなら、どんな
に幸いだろう。今一度、目の前の問題を支配されてい
る主を覚えよう。そして「いっさい神にゆだねなさい」に
従えるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
心配、不安、思い煩いを、主のもとに持って行こう。
主に向き合おう。主は、その弱さの底で、信仰に
変えて下さることを経験する。信仰を与えて下さ
る。
http


2026年06月05日(金)

「山地もあなたのものとしなければならない・・カナン人は鉄の戦車 を持っていて、強いのだから・・彼らを追い払わなければならない」 ヨシュア17:18



カナンに入って、それぞれに相続地が割り当てられた。ヨセフは、
マナセとエフライム二人の息子がいた。ヤコブはこの孫たちに特別
な祝福を与えた。ヨセフ族はマナセ族とエフライム族とに分けられ、
特別な地域、広大な地域を割り当てられた。それなのにヨセフ族は
不満で、ヨシュアに文句を言う。民の数が多いので、もっと多くの
土地を欲しいと。

ここに見るように、豊かに恵まれているのに、満足できないで、も
っともっと、と更に欲し、いつも不平不満だらけの人々がいる。そ
の事に対し、ヨシュアは、数が多く、力もあるのだから、自分達で
新しい土地を切り開けと言う。すると「山地を切り開くのは労力が
いる。谷間はカナン人が住んでいて、鉄の戦車を持っているから、
できない」と言い、労力は使いたくなく、ただもらう事ばかりを考
えている。

それに対して、ヨシュアは、数が多くて、力があるのだから、山地
をどんどん切り開いて行けと。カナン人が鉄の戦車を持っているの
であれば、あなたがたは戦い、追い払えと言った。私たちはどうだ
ろう。面倒な事には労力は使いたくなく、ただ文句と不満の生活だ
ろうか。

主が共におられるので、山地もあなたのものとせよ、と。今、あな
たの目の前の山地とは何だろう。「あなたのものとせよ」と、チャ
レンジを与えておられるだろうか。主の示しがあれば、従い、一歩
踏み出そう。主が、与えて下さる。更に豊かな霊的祝福へと導かれ
る。
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自分の目には不可能としか見えない状況の中で、いつも主は信仰を
問われる。主は先立って働かれる。共に進もう。備えられている祝
福を手にしたい。


2026年06月04日(木)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちです」 ヨハネ6:63


ある牧師が、若い時から懸命に働き続け、走り続けて、退任が間近
になっていた。今まで、宣教のため、信徒の成長のために、懸命に
労した。根が真面目で一生懸命だった。そんな中、教会内で分裂が
起きて、ごっそり信徒が出てしまった。衝撃で、意気喪失、心は萎
えて、今までの自分の人生は何だったのかと、燃え尽き症候群に陥
った。

立ち上がれず、うつになってしまった。気力が失せ、聖書を読む事
も、祈る事も出来なくなった。何もできず、日を過ごしていた。気
力が全く湧いて来なかった。そんな時、家族が聖書セミナーに参加
し、喜んで帰宅した。しかし自分は沈んだままだった。家族がセミ
ナーの祝福を伝え、祈りを勧めてくれた。気持ちは乗らなかったが、
喜んでいる家族を見ていて、気力も無いが、聖書を手に取ってみよ
うかと思えた。

パラパラと読むではなく、見ていた。その時「お願いする先に、あ
なたがたに必要なものを知っておられる」の言葉が、スッと心に入
って来た。今の状態を何もかも「知っておられる」事を思った。
そして次節の「だから、こう祈りなさい・・御名があがめられますよ
うに」が、心に響いた。

失敗し、挫折し、こんな状態を通して御名が崇められるようにして
下さると。その時、心に光が射し、希望が湧き、立ち上がる事がで
きた。主の力と、周囲の熱心な執り成しによることだった。残され
た時間、精一杯主に仕えたいと、新しい気力と力が与えられた。
御霊により語られた御言葉には、大きな力がある。
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御霊により語られる御言葉は、目の前がどうであっても今日の歩み
を肯定し、力づけ生き返らせてくださる。御霊により生きよと励ま
す主の声を聞ける。何と感謝だろう。


2026年06月03日(水)

「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの 報いは大きいのだから」マタイ5:12



信仰者は、信仰ゆえの試練があり、苦しみを受ける。試練があると、
御言葉が言っている。しかし自分の至らなさで、自分の欠点ゆえに
問題を引き起こし、苦しみを招くのは、信仰ゆえの苦難ではない。
信仰以前の問題だ。誰でも、失礼な言動、問題行動があれば嫌われ
るし、トラブルが起きる。

しかしそうでなく、クリスチャンという事で、苦しみを受ける事が
ある。迫害されたり、笑われたり、嘲られたり、不当な苦しみを受
ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今
の時代で、日本では、命がどうのは無いかもしれないが、悪口を言
われ、辛く当たられ、馬鹿にされ、仲間はずれにされる。

「ありもしないことで」、それは不当な、理不尽な苦しみだ。だが
それが信仰ゆえの苦しみなら、恥じる事はない。むしろこの事のゆ
えに喜べと。そして主を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおど
りなさい。天においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、
主のために迫害され、辱めを受け、攻撃されたとしても、主との個
人的な交わりがあるので、幸せな人だ。

迫害や苦しみの中でも喜びおどる人々だ。自分の内に喜びがあるか
らだ。どんなに自分が罪深いかを知り、そしてその罪が完全に赦さ
れている事を知っている。どんな愛で、愛されているかを知ってい
て、いかに苦しい時にも、共におられることを知っている。

そして、天において大きな報いがあり、その大きな報いを期待せよ
と。それゆえ迫害の苦難に意気消沈するのでなく、「喜び、喜びお
どれ」と。天は大きな希望であり、天に繋がった今がある。そして
主に従う時、御霊の喜びを下さる。
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昔ほどではないにしても、迫害や反対を受け、思い通りに進めない
信仰生活を経験する。そういう時こそ、主が近くおられる事を知ら
され感謝に溢れる。ますます主に強く繋がり、目を天に向けよう。


2026年06月02日(火)

「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。 あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにさ さげた」創世記22:12


イサクは、アブラハムが25年もの間、待ち続けた約束の子だ。更に
年老いて与えられた、愛してやまない子だ。祈りに祈り、待ちに待
った末である事を思う時、何より大切な宝であり、命だったろう。
そんな時、主からそのイサクを、全焼のいけにえとして献げるよう
に言われた。

「神はアブラハムを試練に会わせられた」と、はっきり言われてい
るように、彼にとり極めて厳しい「試練」だった。「あなたの子、
あなたの愛しているひとり子、イサク」と、アブラハムが、どんな
に愛しているかをご存じだった。なぜなら、最愛の子であると同時
に、約束の子であり、アブラハムの祝福が、この子にかかっていた。

その約束は一体どうなるのか。このイサクにすべてがかかっている。
しかし、主はそのイサクを全焼のいけにえにせよと言われる。彼は
どんな思いだったのか。詳しくは記されていないが、「翌朝早く」
つまり、即、従うべく出かけた。ヘブル書に「彼は、神には人を死
者の中からよみがえらせることもできる、と考えた」とある。

主はイサクをよみがえらせて下さると信じて、彼は献げた。身を切
られるような、一大決心であり、自分自身を献げる事だった。私た
ちはどうだろう。心の中の一番大事なイサクは何だろう。御霊に心
を探って頂こう。
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主は愛するイサクを献げたアブラハムの心を見守ってくださったよ
うに、自分の大切なものを主に委ねていく思いを祝福してくださる。
御霊の助けにより、生活の中で今一度、吟味したい。


2026年06月01日(月)

「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに 思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」 詩篇143:5




信仰人生で、心が弱り果て、打ちひしがれた経験があるだろうか。
ダビデも、心が衰え果てたと言う。厳しい困難に遭遇し、度重なる
プレッシャーに、容量オーバーになり、又、難しい対人関係で傷つ
き、問題に悩み苦しんだ。心がこわばるとは、心が固くなってしま
い、動かなくなる事だ。心の余裕が全く無くなってしまう。

普段なら大した事の無いことが、心に余裕が無いと、受け入れられ
ず、対応出来ない。心が動かない。私たちも、様々な悩みに出会す
時に、心が暗く、重く、ピリピリイライラし、とげとげしくなる。
目の前に起きる事態に、又、人の言葉や態度に、ネガティブな反応
しか出来ない。又、それが自己嫌悪になり、自分を責め、ますます
落ち込んで行く。

又、余りに大きな苦しみなら、心が沈み込んで、どうにもならなく
なってしまう。こんな時、ダビデが、どうしたかが記されている。
昔の日々を思い出し、主のなさったすべの事に思いを巡らした。そ
して、神の御手のわざを静かに考えた。深い絶望感の中で、かつて
の主のみわざや祝福を思い起こした。「静かに考えています」、私
たちも、静かな時と場所が必要だ。

主に向き合い、自分の内を照らされ、主の言葉をしっかりと受け取
る時だ。「あなたに向かって手を差し伸べ」祈りをささげている。
静けさの中で、主と交わり、今までの恵みと祝福を思い巡らし、感
謝をささげ、礼拝をささげる。その時、絶望に打ちひしがれていた
心が少し〃と動き出し、引き上げられて行く。御霊の働きだ。苦し
い時は、今までの主のみわざを静かに考えよう。
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主の恵みとご愛はいつも変わらないのに、私たちの心はもろく落ち
込む。ダビデのように、闇の中で主を見上げ、主が良くしてくださ
った事を思いめぐらそう。喜びの中にまた立てる日を信じよう。