2026年07月11日(土)

「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、それ をこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2


人は誰しも、暗い夜を経験する。厳しい試練の
時だ。辛くて涙が溢れて来る。それは自らの失
敗の結果だったり、悩みの人間関係、経済的苦
境、病気けが、仕事の問題。リストラ、離別・・ま
さに「夕暮れに涙が宿」る。しかし、明けない夜
は無いように、ずっと夜のままではあり得ない。
涙のままでは終わらない。

どんなに辛い夜でも、必ず朝が来る。「朝明け
には喜びの叫びがある」どんな時にも希望が
ある。これは何と慰めだろう。試練には主の定
められた期間がある。試練のまっただ中では、
真っ暗闇が永遠に続くように思えてしまうが、
試練には必ず終わりがある。トンネルは出る。
夜の後に朝は来る。悲しみの後に、必ず喜び
が来る。

逆に、人間は成功が続く時こそが危ない。成功
の中で、自らを律っする事の出来る人はまれだ。
有頂天になり、油断する。順境で、神を求めなく
なる人も多い。神無しで、やって行けるし、十分
幸せになれると思うからだ。必要が無い。人は
平穏無事を求める。しかし、それによって神から
離れるのならどうだろう。主が送られる試練は、
必ず益とされる。

試練の時は、何もかもが光を失い、真っ暗闇に
思える。心は辛く苦しいばかりだ。が、主のよみ
がえりを覚えよう。十字架で弟子達はつまづき、
絶望した。万事休すで、何もかもが終りだ。しか
し、よみがえりで世界は一変した。死から命へ、
暗闇から光へ、溢れる喜びに変った。暗い夜は
必ず明ける。今の苦しみは喜びに変わる。だから
こそ、すべての事に感謝できる。信じていよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
先が見えないトンネルの中は、真っ暗に思えて
しまう。真っ暗な夜は、朝が来るのだろうかと。
しかしよみがえりの主が今、共におられる。
主を信じていよう。必ず目の前の事態を導いて
下さる。


2026年07月10日(金)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は その願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対 する私たちの確信です」Tヨハネ5:14




主は、「求めよ、そうすれば与えられる」と言われ、そ
のため祈り求める。しかしある人は、祈っているのに、
幾ら祈っても答えられないと言う。そんな時、祈りの原
則に照らす事は有益だ。まず「その耳が遠くて聞こえな
いのではない。あなたの咎が神との仕切りとなり・・」も
し罪があれば、主との間の仕切りとなるので、祈りが答
えられない。

それは悔い改めにより、主との間が回復する。又、「願
っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうと
して悪い動機で・・」とあり、その願いの動機はどうだろ
う。自己中心な動機だろうか。そうであれば、それが叶
えられると、更に主と反対方向へ向かう事になってしま
う。

又、自分の願いと、主の願いが違っている場合がある。
一致していない。自分の思いが強くて、それに固執して
しまう事がある。主のみ思いを尋ねてみよう。祈りを軌
道修正して、主のみ思いに合致するように助けて下さる。
又、主の御心に適っているが、答えの時期が、まだ先か
も知れない。忍耐をもって、主の時を待ち望む必要があ
る。

又、別の形で答えられていて、気づかず見えていないか
も知れない。自分はAを切望していたのに、Bの答えが
来たなら、それはBが主の御心であり、思いとは違うが、
自分にとってベストだ。信じ受け取れるよう祈ろう。ま
だ先に豊かな祝福が備えられている。まず主との交わり
の中で、お心を求めて行く時、その願いは叶えられて行
く。
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祈りにより主と交わる中で、主の光に照らされていく。
悔い改めや、御心を求める祈りで、迷いながらも平安を
をもって歩める。祈りのある生活は何と力強いのだろう。


2026年07月09日(木)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを 心配してくださる」詩篇55:22



試練にあって、苦しい時、重荷を主に委ねれば良いのは、
よくわかるのだが、委ねる事ができない。どうしても出
来ないだろうか。「委ねる」とは、石を転がすというよ
うな意味で、主の上に、あなたの重石である重荷を転が
してしまうことだ。

石を転がすと、その転がした石はどうなるだろう。それ
は主の上にあって、もう自分のもとには無い。そのよう
に、主にきっぱりと手放してしまうことだ。すると思い
煩いが消えてしまう。不安が失せて、平安が心に満ちる。
経験した事があるだろうか。重荷が、心配事が、主の手
に渡ってしまうからだ。

ところが、委ねたつもりでも、自分が握っているなら、
いつまでも不安が消えない。平安にならない。主に渡し
た「つもり」で、実は渡していない。どうしてだろう。
自分が手を放してしまうと、すべてが崩壊してしまうと
思うので、放す事ができない。尚の事、自分がしっかり
握っていなければと思う。

つまり主を信じることができない。自分が手放すと、だ
めになってしまうと思う。だから放せない。問題が「信
仰」だろうか。「信じる事ができない」ところにあるな
ら、その事を主に打ち明け、助けを求めよう。自分の思
い通りにしたいとの強い思いがある時も、委ねられない。

委ねると自分の思いが通らないからだ。委ねるとは、
「イエス」でも「ノー」でも、どちらでもOKです、と
の態度だ。その事に強く執着しているなら委ねられない。
御霊に心を探っていただいて、主の助けを求めよう。主
は委ねさせて下さる。
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何とか自分が落ち着く結果をと悩んで、荷をますます重
くした経験がある。そのままの思いを主に祈りたい。委
ねられないと、主に助けを求めよう。


2026年07月08日(水)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためで あり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる 私たちへの教訓とするためです」1コリント10:11



聖書は、信仰者の失敗をありのままに記している。世の
書物なら、都合の悪い事柄は隠ぺいする。だが聖書には、
赤裸々に記されている。アダムとエバは、神でなく、罪
の方を選んだ。そして神から隠れた。ノアは酔っ払って
失敗し、アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の時を待
てずに女奴隷により、イシマエルを産み出した。肉の行
ないで失敗した。

イサクも父と同様に、妻リベカを妹と偽る。ヤコブは父
と兄をだまして祝福を奪い取った。モーセは40歳の時に
殺人を犯し、逃亡した。又、出エジプトの後、荒野で怒
りで岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。

アロンは金の子牛の偶像を作り、罪を犯した。ダビデは
姦淫に殺人の罪を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切っ
て逃亡した。主は、それら失敗をことごとく悔い改めに
導き、赦され、尚も変わらない愛で、愛し続けられた。
どんなに失敗をしたとしても、決して見捨てられない。

アブラハム、イサク、ヤコブは祝福され、モーセは民救
出の大役を果たし、ダビデは詩篇を記し、ペテロは諸教
会のリーダーとして活躍した。失敗の時は、問題の原因
を考えよう。自分のどこの弱さで、自分の何に触れるの
か。高慢、プライド、虚栄心、貪欲・・御霊に内側を探っ
て頂こう。

そうする時、失敗を繰り返す事から守られる。失敗を教
訓とせよと言われている。いたずらに落胆せず、主の全
き赦しを受け取ろう。感謝しよう。主はあわれんで下さ
る。どんな時にも、もう一度やり直すことができる。主
は立て直し、立て上げて下さる。
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犯した罪は主の十字架で赦されるが、何度も繰り返した
くない。自分の失敗をしっかりと見つめて、弱さを自覚
していたい。新しく祈っていける。


2026年07月07日(火)

「すると、彼に次のような主のことばがあった・・彼は ツレファテへ出て行った」T列王17:8



主は、エリヤを一歩〃と導かれた。まず悪王アハブに、
雨が降らない事を告げるようにと。悪王に気に入らな
い事を言えば、その場で打ち首だ。しかしエリヤは主
の命令に従った。どんなに勇気が要った事だろう。一
歩従うと、次の一歩が示された。

ケリテ川へ行けと。そこでカラスを用いて養うと。ア
ハブの攻撃から守り、かくまうためだった。しかし貪
欲なカラスが食べ物など運ぶわけがない。自分が食べ
てしまう。しかしエリヤは信仰により示しに従った。
すると主の言葉の通りに、カラスが運んで来る食物に
より養われた。

その川の水を飲んだが、日照りで遂にケリテ川も枯れ
た。すると次の示しが臨んだ。ツァレファテへ行けと。
そこのやもめにより、養うと。その通りに従うと、やも
め共々、大きな主の奇跡を見る。飢饉の中、やもめが手
持ちの限界、最後の食物をまずエリヤに献げた。

その結果、奇跡が起きて、飢饉の間中、豊かに養われた。
主は一歩づつ示される。御言葉は、私の足のともしび、
道の光だ。暗闇の中で、先も見えずわからない中、御言
葉は進むべき道を教えてくれる。足もとは常に見える。

サーチライトでなく、ともしびだ。一歩〃御言葉により
進める。一歩進むと、次へと展開する。そこで止まるな
ら、次の展開が無い。ずっと先まで知りたく、サーチラ
イトを求めていないだろうか。今、必要な事は、目の前
に示されている一歩を、踏み出す事だろうか。
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ずっとが遠くが見えないと不安を覚えるが、祈りと御言
葉による一歩から始めたい。心も整えられ次へと導かれ
るのを経験する。先を焦らず照らされた一歩に従おう。


2026年07月06日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば・・御怒りを引き起こ したときのように、心をかたくなにしてはならない」 ヘブル3:7



「だれも悪い不信仰な心になって生ける神から離れる者
がないよう」にと、警告し勧めている。不従順になり御
言葉に従わないと、主から離れてしまう。そのために
「今日、御声を聞くなら」と、「今日」が強調されてい
る。せっかく、エジプトを出たのに、不信仰になった民
のようにならないために、明日ではなく、「今日」すぐ
に、主に立ち返るようにと。

悔い改めるべき事があれば、明日に延ばさず、すぐ悔い
改めよう。背後に悪魔が働き、ぐずぐず延ばすよう誘惑
が来る。すると気持ちが萎えて、思いが失せてしまい、
必ず悔い改められなくなる。又、決心すべき事があれば、
「今日」従おう。

明日でもいいや、と思っていると、明後日となり、決心
をぐずぐずしていると、その気持ちが失せる。ある人が、
信仰に一歩前進するよう示された。ぐずぐずしていると、
尚も促しがあったが、従わなかった。するとその思いが
消えてしまった。

祈り、時を経て、主のあわれみにより、再度御霊の示し
が来た時に、即、従った。喜びに満たされ、心から感謝
した。ぐずぐずし、ないがしろにすると、祝福の機会を
逃してしまう事を学んだ。

ある人は、中々祈りの時が持てなかった。ある日、御霊
の強い示しを感じ、即、従った。すると以後ずっと持て
るようになった。御霊の示しに従わないよう、悪魔は強
く妨げて来る。何か示されているなら、すぐに従えるよ
う祈ろう。 
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示しが来ても、ふと立ち上がるだけで、次の用事に気を
取られてしまう。押し流される前に御霊の導きに従おう。
すぐに従えるよう祈ろう。


2026年07月05日(日)

「祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、 少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。 両親はそれに気づかなかった」ルカ2:43



主が12才の時に、ヨセフとマリヤと共に過越の
祭りで、エルサレムに上られた。帰路につくが、
主はまだ、とどまっておられた。1日歩いた後、
夫妻は我が子がいない事に気づき、心配と不
安の一夜の後、翌日都に引き返した。3日目に
都中を探し回り、やっと宮で見つけた時、教師
たちの真中で、話を聞き質問していた。

人々はその知恵と答えに驚嘆した。両親は驚き、
非常に心配し、捜し回ったと告げると、主は、「わ
たしが必ず自分の父の家にいることをご存じなか
ったのですか」と答えた。主は、肉の父と、霊の父
がいる事を明かされた。ヨセフとマリヤは御使い
からの託宣、数々の預言、奇跡による誕生等を
通して、イエスが神の子であることを理解してい
た。しかしいつしか肉親、我が子になっていた。

主は両親に、自身は神から来て、メシヤとして遣
わされた事を思い起こさせようとされた。その時、
両親には意味がわからなかったが、マリヤは心
に留めていた。主は一緒に帰り、両親に仕えら
れた。主は、神の子であるとの自覚の後、仕える
ために帰られた。信仰は、人に仕える事となって
現れる。仕えるとは、へりくだって、互いに人を自
分よりもすぐれた者と思うことだ。

へりくだらなければ、仕えることはできない。又、
主は「必ず自分の父の家にいる」と言われ、両
親は主を、違った場所に探し、見つけられなか
った。自分の肉の思いで主を探すと、見失って
しまう。いつも主を仰いで、御霊の導きの中にい
る時に、「わたしにとどまりなさい」と言われる、
主にとどまる事ができる。

・・・・・・・・・・・・・・
しばしば、主を自分の思いで、自分の思う場所に捜
してしまう。自分の思い通りでありたい。しかしそれ
は肉の思いなので、見つけられない。主に自分の思
いを明け渡して、主の御心を求めて行きたい。


2026年07月04日(土)

「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た・・ 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを 見て、施しを求めた」使徒3:2


ペテロは彼に、「金銀は私にはない」と言った。富
は快く、欲望のままに物を手に入れる事ができて、
快適だろうか。しかしどれほど所有しても、心に決
して満足は無い。幾ら得ても、更に欲する。「十分」
という事が無い。「貪欲」の罪だ。これは底無しで
あり、哀れで悲惨だ。

箴言に「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』
と言う。もう十分だ」と言わない」と。ペテロとヨハネ
に、施しを求める男に、ペテロは「金銀は私には無
い」と答えた。「しかし、私にあるものを上げよう」と。
私たちはどうだろう。何を求めているのだろう。何を
求めて、主のもとにいるのだろう。

実は、自分の欲しいもの、都合良いものを求めて
いるのだろうか。金銭でなくとも、「自己実現」「自分
が成功すること」「人に人格者と思われたい」「生き
がい、充足感が欲しい」無形の金銀だろうか。しば
しば自分が求めているものと、主が意図し、与えて
下さるものとが異なっている。方向違いに求めてい
る。

「しかし私にあるものを上げよう」。私たちが欲しい
ものでなく、主が、必要と思われるもの、最も良い
ものを下さる。「イエス・キリストの名によって歩き
なさい」これを与えて下さるのであり、これこそが
彼にとって、又、私たちにとって、最も必要で、素
晴らしいものだ。主の御心と、自分の心が合って
いるだろうか。主は愛ゆえに、いつも軌道修正し、
主の御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
しばしば御霊の導きでなく、方向違いに求めてし
まう。しかし「わたしにあるものを上げよう」と、主
が良いと思われるものを下さるとは、何と感謝な
事だろう。主の下さるものに、あずかりたい。


2026年07月03日(金)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、 この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろも ろの悪霊に対するものです」エペソ6:12



悪魔は「策略」をもって攻撃して来る。練りに練られた
策略だ。決して考え無しではなく、場当たり的なもので
ない。計画的犯行だ。「落とし穴がある」と知れば、人
は身を引き締め、警戒し、見破ろうとする。通常、罠に
かけるなら、口外する者はいない。しかし「悪魔の策略」
とあり、綿密な作戦があるという事だ。

警告にかかわらず、気にも留めていないだろうか。悪魔
は私達の「感情」に働いて来る。人に腹の立つ言動や態
度をされた時、「言い返せ!報復せよ!」と言う。悪魔
にあおられ、感情がエスカレートし、犯罪にまで至る。
私達は、感情は荒れ狂うが、意志はコントロール出来る。
そのように造られている。

悪魔は私達の「感情」に働き、対人関係が、好き嫌いで
振り回される。人をさばき、憎むと、苦しく平安が失せ
る。背後に悪魔の攻撃が、来ているだろうか。感情はコ
ントロールできないが、意志はできる。意志を向けて、
赦し、愛する事ができるようにされている。

意志を向け、選択する時、主から必要な力が来る。悪魔
が働き、目に見えるのは相手だが、実は、相手への裁き、
憎悪、妬みを起こさせ、罪を犯すよう、悪魔が仕向けて
いる。血肉とは戦っていない。背後の悪魔に気づける
ように。祈っていよう。
-------------
行為の前に、感情に働いてくるサタンを識別していたい。
平安が失せ、苦い気持ちに気づいたら警戒し、御心を主
に祈ろう。主にありのままを告げ助けを求めよう。


2026年07月02日(木)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ るのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこ ろには自由があります」Uコリント3:16


私たちは新生し、新しい性質が与えられた。だが古い性
質、肉も残っている。日常で、容易に肉に流されてしま
う。嫌な相手がいるなら、肉は嫌っていたいし、憎しみ
が湧く。人の言動にカチンと来ると、まず祈るよりも、
一言、言い返したい。スッキリすると思う。

傷つけられると、何倍にもして報復したい。又、主に従
うよりも、好きな事をしたい、楽な方へ流されてしまう。
祈るよりもテレビを観、趣味をし、お喋りをしたい。一
日の終わりには、肉の思いで、いっぱいだ。そのまま眠
りにつき、又、朝になり、その繰り返しだと、どんどん
肉へ流されてしまう。

気づかないまま、知らず〃、主を離れてさまよってしま
う。それをくい止めるのが、主との交わりであり、祈り
と御言葉だ。多忙な中、少しでも主との交わりを持つ時
に、御霊は働かれ、悔い改めが与えられ、赦されて、新
しい力が与えられる。非常に多忙の中も、主に向く時、
霊が新たにされ、生き生きと歩んで行ける。

ある人が、仕事の難題に心身すり減らし、続く深夜帰宅
で睡眠もとれず、疲労はピークに達していた。イラ立ち
が抑えられず、時間も無く、祈りの時も持てていない。
もう限界で、昼休みに屋上の隅で、主との交わりを持っ
た。あるがままを祈り、求めは、叫びとなった。主に触
れて、新たにされたのがわかった。平安が戻り、喜びと
共に、午後の仕事に戻れた。
-------------
忙しい日常でいつも直面する。気づくと自力で走り、肉
の思いにふさがれ、平安がなくなる。主と向き合い交わ
る時間を守ろう。そして生き生きと歩んでいこう。



2026年07月01日(水)

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめ なさい。そうすれば、外側もきよくなります」 マタイ23:26


主は、パリサイ人に対して、極めて厳しい言葉を語られ
ている。「忌まわしいパリサイ人」「偽善の律法学者パ
リサイ人」「目の見えぬ手引きども」「白く塗った墓、
死人の骨や汚れたものでいっぱい」「内側は偽善と不法」
「中は強奪と放縦」「蛇ども、まむしのすえども」と。

主は、彼らを憎まれたのではなく、悔い改めることを望
んでおられた。主が見られるのは内側なので、幾ら外側
ばかりをきよめても、何にもならない。主が喜ばれるの
は、外側をきれいにする事でなく、内側の罪深さ、醜さ、
憎しみ、妬み、高ぶり、偽りを悔い改めることだ。

パリサイ人は内側は関係なく、外側だけを、行ないだけ
を問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外部から見
ることができるが、しかし、自分自身もまた、容易にパ
リサイ人なってしまう。人からどう見られるか、外見が
気になって仕方がない。嫌われたくはなく、良い人に見
られたい。

そのため無意識にも、良い人に振る舞ってしまう。人の
目を気にして、外側を繕ってしまう。それを続けている
と、良い人でも何でもない自分を、良い人だと勘違いし
てしまう。そして、高慢に陥ってしまう。本当の自分は
、妬みや憎しみ、裁き、怒り、イライラでいっぱいだ。

これならパリサイ人と同じだ。主は、私たちを愛して下
さっているので、本当の姿を教えたい。説教や学び、デ
ボーションの御言葉を通して、照らし出して下さる。悔
い改めて、赦し、きよめるためだ。偽善に陥る事から守
って下さるためだ。
-------------
外側を整えることで安心している事を認めたい。本当の
姿が見えなくなってしまう。内側の信仰をいつも新しく
され、主によって生きていこう。