2025年03月27日(木)

「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て 来る愛を、目標としています」Tテモテ1:5



ある人が、友人と議論になり、言い争いになってしまった。自分は
正しいと思うので強く主張してしまい、それは相手を否定する事に
なってしまった。気まずい嫌な空気のまま別れた。帰宅するが平安
が無い。心はどんより重い。しかし自分は正しく、相手が間違って
いるとしか思えない。だが、全く平安は無い。

教会の奉仕の準備をせねばならず、重い心のまま、とりかかろうと
するが、出来ない。どうしても出来ないので、主の御前に行き、祈
った。その日の出来事も、重い自分の気持ちも、あるがまま主に告
げて行った。洗いざらい感情も吐き出して祈っていると、段々、不
思議に心が落ち着いて来た。冷静になって思い返した時、自分は正
しく、相手が一方的に間違っていると思っていたが、自分にも非が
ある事に気づいた。

まず言い方が悪いし、態度も悪かった。自分を正しいとし、相手を
どんなに傷つけた事だろう。そして何よりも一番に、愛が無かった
事に気づかされた。「この目当てを見失い、わき道にそれて無益な
議論に走り」の通りだ。議論になると、相手に負けたくない、勝ち
たいと思ってしまう。自分の非を御前に悔い改めた。

そしてすぐ相手にも電話をして、詫びた。すると相手は快く受け入
れてくれて、自分も言い方が悪く、つい感情的になってしまったと
謝ってくれた。心すっきりし平安が戻り、喜びが戻った。奉仕の準
備が出来た。どんな時も主のもとへ行こう。正しく、御心へと導き
返して下さる。
---------------
自分を正しいとしたい時には、主の御心から遠く離れていないか気
をつけたい。きよい心と正しい良心・・は御霊に導かれなければ自
分の内にはないものだ。祈り主の下に行こう。


2025年03月26日(水)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、 と主は言われる」ローマ12:19



人から悪口を言われ、批判、中傷、いじわるをされたらどうだろう。
肉は怒りが沸き、報復したいと思う。倍返しで復讐しなければおさ
まらない。人は罪の性質がある。ある人が結婚後、姑とうまく行か
なかった。辛い日々で、何とか祈りにより過ごしていたが、心は重
苦しかった。余りに苦しくて、洗いざらいを御前に吐き出し、祈っ
ていた。

その時、御霊の光に照らされた。姑のいじめをひどいと被害者だと
思っていたが、自分も復讐していた事に気づかされた。巧妙に、日
常の場面〃で仕返しをしていた。御霊に、自らの罪深さを示され、
御前に心から悔い改めた。主の赦しの愛に触れ、平安が与えられた。
その後、不思議に今までと違った感じで接する事ができた。

そのつど祈り、主の助けがあった。楽しくおしゃべりし、笑い合え
るなどと、有り得ない事で、驚くべき主のみわざだった。罪の性質
は、やられると、どうしてもやり返さなくては気が済まない。しか
し、主は、報復するなと言われる。復讐からは何も良いものは生ま
れず、憎しみや敵対心を増幅させるばかりだ。

主は「自分で復讐するな。神の怒りに任せよ」「復讐はわたしのす
ることである。わたしが報いをする」と。そのままではなく、主が
報復すると言われる。私たちのする事は、主にゆだねる事だ。何も
してはならない。主に明け渡してしまい、心平安にしていだこう。
あとは主のなさる事だ。
---------------
仕返しをしたらすっきりすると肉の思いは来るが、本当に心は平安
になるだろうか。ありのままを主に祈りお任せしたい。主の報いに
任せられるよう祈ろう。殺伐とした心を主が守ってくださる。


2025年03月25日(火)

「・・わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、また いのちです」ヨハネ6:63


ある人が開発プロジェクトを進めていた。だが、試行錯誤の中、暗
礁に乗り上げ、行き詰まってしまった。しかしその事業は、主に祈
り、始めた事だった。自分の無力に打ちのめされた。せっぱ詰まり、
御前に、現状を、何もかも打ち明け、祈った。その時、御言葉から
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。

わたしがあなたがたを選び・・実を結び、実が残るため」の言葉が迫
り、主が確かにこの仕事に、自分を選び、任命して下さったと思え
た。導かれた仕事だったが、「自分が〃」と、自分の考えと力に頼
り、行き詰まった事に思いが至った。「あなたはなく、わたしが」、
自分でなく、主が先導しておられる、そこに平安が来て、今一度、
仕事と自身を明け渡した。

すると不思議に、重い鉛のような不安と恐れが消えた。ある教員は、
自分は向いていないのではと悩み、別の道も考えたりして、御前に
ずっと祈っていた。そんな中「この私の力、私の手の力が、この富
を築き上げたのだ、と言わないように」「あなたの神、主を心に据
えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられたのは」の言
葉が非常に迫り、教えられた。

逆に、今までどの局面でも、必ず守られ助けられた事に気づかされ
た。自分の力でなく、主が、成して下さったのだとわかった。様々
な場面がすぐに思い浮かび、感謝でいっぱいになった。今一度新た
にされ、主を心に据えて歩む決心が与えられた。いつも主のもとに
行こう。祈りと御言葉により、新しい力を下さる。
---------------
主に守られ一つ一つの山場を越えられた。祝福はいつも、自分の力
の及ばない場面でのことだった。主が置かれた場所だと感謝して今
を歩みたい。主は共にいてくださる。


2025年03月24日(月)

「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に 謙遜であった」民数記12:3




モーセは、「地上のだれにもまさって、非常に謙遜であった」とあ
り、謙遜の代表のように言われているが、最初からそうではなかっ
た。王子として過ごした40年は、王家であり人々から、チヤホヤも
てはやされた。あらゆる学問を身につけ、言葉にもわざにも力があ
り、文武両道に優れ、地位も能力もある人物だった。

すべてを所有し、自信があり、自分こそが同胞を救える者と思った。
だが皆の理解は得られず、失敗に帰し、その結果ミデアンの地に逃
亡する事となる。見渡す限り何も無い荒野で、モーセは羊飼いとな
った。華やかな王家の王子が、荒野で羊飼いとは、自らの無力に打
ちのめされた。名誉、地位、富、賞賛、輝かしき将来、何もかもを
はぎ取られ砕かれた。

しかし、これこそがモーセの真の財産、宝となった。荒野の試練の
中で、自信満々のモーセは砕きに砕かれ、主の御手の中で、へりく
だった柔和な者へと造り変えられた。神は高ぶる者を退け、へりく
だる者に恵みを授けられる。これは普遍の法則だ。水は決して高い
方へ流れず、低い方へ〃と流れる。

モーセは荒野で練り鍛えられ整えられ、40年後に立てられる。間に
合う器として、民をエジプトから導き出すという大きな使命のため
に。主は、へりくだった者を用いられる。今、もし荒野にいるなら、
主の取り扱いであり、大きな祝福の手前だ。主は、砕き、練り、整
えて下さっている。今いる場で、主に従おう。
---------------
自分の拠りどころとなっているものを失い、手放すときに真の財産
を手にする。何と幸いなことだろう。主から与えられる慰めや、恵
みに気づける。主の近くにおれる。


2025年03月23日(日)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさら ない」詩篇55:22



私たちは、日常生活でくよくよと心配し、思い煩う。この事、あの
事と次から次へと、心配は尽きる事がない。しかし御言葉を見る
と何と言ってるだろう。昔、イスラエルが、モーセに導かれてエジ
プトを出た時に、精鋭屈強のエジプト軍が背後にどんどん迫り、
目の前は紅海という、絶体絶命の危機に陥った。戦闘訓練を受
けたエジプト軍に、戦い方など全く知らない民が、立ち向かえる
わけもない。

前進も後退も出来ず、まさに崖っぷちだ。その時に、主は大い
なる奇跡をされ、海を分け、海の真っ只中に、道を造られた。何
という事だろう。海の中に、道が現れるとは。どんなに絶体絶命の
状況でも、主は、そこに道を造られる。食物も水も無い荒野では、
天からマナを降らせ、岩から水を出された。そして約束の地カナ
ンまで、道中は雲の柱、火の柱で導かれた。

カナンを前にしては、船も橋も無い、とうとうと水の溢れるヨルダン
川の水をせき止め渡らせ、更に難攻不落のエリコの城壁を崩され
た。あの絶対に滅びない、バビロンを滅ぼし、不滅と言われたロー
マも倒された。主に不可能は一つもない。すべては主の支配と主
権の中だ。その全能の主が、あなたを愛し、目を留め、心配して
下さっている。思い煩うな、主に委ねよと言われている。

実は、問題は、問題ではない。問題の中で主を信頼しない事が、
問題だ。目の前の困難を。繰り返し〃心に思い、不安と恐怖に
飲み込まれてしまう。悩みを見続けて、恐れのどん底に陥る。
逆に、それだけ繰り返し、恵みと感謝に目を向けるなら、どんな
に幸いだろう。主に問題を渡し、主の導きに従おう。その時、目
の前に立ちはだかる困難の城壁が崩れ、道が備えられている
事を発見して行く。ありのまま祈り、従えるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
頭では、ゆだねることが大切だと、よくわかるのだが、それが
なかなかできない事が悩みだ。ゆだねるというのは、御心のまま
でOKという事なので、自分の思いが強いと難しい。出来ない事を
認めて、助けを求めて祈ろう。ゆだねる時、平安が来る。


2025年03月22日(土)

「求めなさい。そうすれば、与えられます・・たたきなさい。そう すれば開かれます」マタイ7:7



主を信じた私たちは、祈ることを教えられ、祈りが与えられてい
る。主は「求めよ」「祈れ」と言われている。何でも祈って良い。
しかしある人々は、幾ら祈っても答えられないと言う。祈りに
原則があり、照らし合わせる事は有益だ。まず、罪は祈りを
さえぎってしまう。「あなたの咎が神との仕切りとなり」もし罪が
あれば、主との仕切りになってしまい、祈りが届かない。

悔い改めにより、罪は赦され、主との間の妨げが無くなるので、
交わりが回復する。又、祈りの際の動機を見ておられる。「願っ
ても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪
い動機で」とあり、その願いは、自己中心な動機だろうか。それ
なら答えられると、更に自己中に進み、更に高慢になってしまう。
又、自分の願いと、主の願いが違っている場合がある。自分の
思いが非常に強く、固執してしまう。

主のお心を尋ねよう。主は、祈りを軌道修正して、主の御心に
合致して行くように導いて下さる。又、御心に適っているが、時
がまだ来ていない。更に祈りを積み、忍耐をもって、主を待ち望
む必要がある。忍耐が養われる時だ。又、すでに答えられてい
るが、別の形で答えが来ているので、気づかずにいるかも知
れない。自分は(A)を切望していたのに、(B)の答えが来た。

しかし、(A)しか思いに無いので、祈りが答えられなかったとしか
思えない。しかしそうではなく、(B)が主の御心であり、答えであ
り、自分にとってのベストなのだ。自分の思いとは異なるが、主の
御心と受け取る事が大切だ。主が与え、主が決めて下さった事
だ。その先に、思いを遥かに超えた素晴らしい祝福が備えられ
ている。、自らの祈りを点検してみよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな小さな、些細な祈りも、主はすべて聞いていて下さる。
そして祈りの中で、祈りを実地訓練して下さる。答えられない
祈りからも、そこに主のお心があり、深く学べる。霊的な理解
に繋がり次に進める。主との対話で、祈りの中で教えて下さる


2025年03月21日(金)

「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」 T列王17:1



「彼に・・主のことばがあった」、エリヤは、ケリテ川へ行けとの言
葉を与えられた。そこで烏により養うと。「彼は行って、主のこと
ばのとおりにした」、示された通りにケリテ川へ行くと、そこで主
の言葉の通りに烏により養われた。飢饉で、その川が枯れた時、
「彼に・・主のことばがあった」、ツァレファテへ行け、やもめ女に
より養うと。

「彼は・・出て行った」、主に従い、町へ行った。やもめ女に出会う
と、水とパンを求めた。すると、彼女は極度に悲惨な状況にいた。
何と、最後の一握りの粉でパンを作り、母子で最後の食事をして死
のうとしていると。目の前の人物は、人を養うなど到底不可能だ。
しかし御心に従い、助けを求めなければならない。人間的に考える
なら、その死ぬ前の最後のパンを、自分にくれとなどとは、言えな
い。

しかしエリヤは見える所でなく、情でも、自分の思いでもなく、信
仰に立った。御言葉に従い、まず自分にパンを作り、その後に母子
のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで粉は尽き
ず油は無くならないと。彼女はエリヤの言葉に従った。すると奇跡
が起きて、母子は飢饉のまっただ中で豊かに養われた。それは母子
のためでもあった。

神を第一にして従う時、神の栄光を見る。自分の思いや、見えると
ころが正反対であっても、主の言葉に、信仰によって従おう。「主
のことばがあった」「主のことばのとおりにした」。その時、「主
は生きておられる」ことを知る。
------------
自分の思いと、主の御思いは天と地ほども違うことを覚えていたい。
感情は絶えず揺れている。怖れも不安もすべてを主に注ぎだして祈
り、どんな時にも主を信じて御言葉に従おう。


2025年03月20日(木)

「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それは あなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退け たのであるから」Tサムエル8:7


イスラエルの国は、直接、主によって治められていた。しかし民は、
周囲の国々のように人間の王を求めた。サムエルは老齢であり、息
子たちは主に従っていない。もし敵の攻撃があっても、目に見える
王がいれば戦ってくれる、そのため王が欲しいと。サムエルは、そ
れが気に入らなかったが、まず祈りに持って行った。

私たちも気に入らない事柄も、まず主のもとに持って行く事が大切
だ。民が、人間の王を欲した時に、主は「彼らを治めているこのわ
たしを退けた」と言われた。そして王の持つ権利を知らせよと。
サムエルは、ことごとく民にどんな犠牲を払うかを告げた。息子は
戦いに取られ、娘たちは働かされ、民の畑は取り上げられ、王の家
来たちのものとなる。

そして自分たちの選んだ王のゆえに、主に求めても、その日、主は
答えて下さらないと。極めて厳しい事だ。しかしそれでも尚、民は
どうしても王が欲しいと言い張った。すると主は、彼らに一人の王
を立てよと言われた。人が、主の警告を無視し、どうしても欲しい
と主張するなら、主は与えられる。厳粛な事だ。しかし願いが叶え
られるが、人はやせ衰えると。

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送っ
てやせ衰えさせた」詩106:15喜び無く、心は辛く虚しくなる。
自分の欲望を貫くのでなく、私たちを愛し、最善を備えて下さって
いる主に従う事が、どんなに幸いで喜びと平安の道だろう。それは
主の愛から出ているからだ。今、もし主の警告があれば、従えるよ
う祈ろう。
---------------
自分の思いが強く、御心をと祈りながら、何度大きく逸れてしまっ
た事だろう。主を悲しませ、祝福のないものを手にしても虚しい。
間違っているなら教えてくださいの姿勢で主に明け渡したい。


2025年03月19日(水)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって 来るが、うちは貪欲な狼です」マタイ7:15



主は、人を「裁くな」と同時に「見分けよ」と言われる。裁く事と、
見分ける事は別のことだ。識別し、評価し、判断せよと言われてい
る。「裁くな」と同時に「聖なるものを犬に与えるな」と言われた。
現に犬や豚がいるのだと。それを見分けなければ、真珠を投げるな、
との主の命令に従えない。識別力の行使が必要だ。

又「霊だからといってみな信じるな」と言われている。終末には、
多くの偽預言者が現れる。羊のなりをして来るが、内は貪欲な狼だ
と。何でもかんでも受け入れるのが愛ではない。霊を何でも信じる
な。「鳩のように素直」で、且つ「蛇のようにさとく」あるべきだ
と。では「裁き」についてだが、人を「裁いて」いる時は、自分の
内に密かな優越感がある。上に立ち、相手を見下している。

そして自分は義であり、善なのだ。又、相手の欠点や失敗に快感が
あるなら、それは肉であり、裁きだ。それは「裁いてはいけない」
に反する罪だ。肉は、妬み、憎む相手の失敗を喜ぶものだ。又、肉
は批判が大好きだ。まるでシーソーのように、人を下げると自分が
上がると錯覚する。誰かに対する裁きがあるなら、悔い改めよう。
そして裁きと識別を区別しよう。

偽物を識別せよと言われている。光の御使いに偽装して来る偽クリ
スチャンの識別を祈っていよう。悪魔からであり、彼らの目的は、
盗み、殺し、滅ぼす事だ。御霊によって見分けられるよう、絶えず
祈っていよう。
---------------
何でも受け入れることが求められているように思いがちだが、危険
だと学べる。警戒し祈りが必要だ。実によって見分けられると主は
言われる。蛇のようにさとくを祈りたい。


2025年03月18日(火)

「・・自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐ忘れる聞き手 にはならないで、事を実行する人になります」ヤコブ1:25


賢い人と愚かな人の話が出て来る。各々が家を建て、賢い人は岩の
上に、愚かな人は砂の上に建てた。大嵐が来た時に、賢い人の家は
立ち行き、愚かな人の家は倒壊した。賢い人は御言葉を聞き、愚か
な人は聞かなかったのでない。それならわかりやすいが、賢い人も
愚かな人も、どちらも御言葉を聞いている。

その違いは、賢い人は聞いた御言葉を実行し、愚かな人は実行しな
かった。聞くだけで、実行しないなら、試練の時に、家は倒壊して
しまった。「みことばを聞いても行なわないなら・・自分の顔を鏡で
見て・・立ち去ると、どのようであったかを忘れる」。御言葉を忘れ
てしまうなら、つまり聞かなかった事になる。「自分を欺いて、た
だ聞くだけの者であってはいけない」。

御言葉を聞くだけで、行なわないなら自分を欺いていると。とにか
く多くの御言葉を聞けば、成長するのでなく、幾ら聖書を学んでも、
それを実行しない限り、成長は望めない。そして聖書知識は幾らで
も増えるので「知識は人を高ぶらせ」の通り、人に御言葉の物差し
を向け、人を裁くために使ってしまう。

どうすれば良いのだろう。「律法を一心に見つめて離れない人は、
事を実行する」とあり、御言葉を一心に見つめ続ける時、実行して
行けると。そしてその行ないにより祝福されると。今、目の前に実
行するように示されている事柄があるだろうか。祈って、実行する
ことを始めてみよう。
------------
御言葉を聞いただけで、頭で理解して終わりではないのか、今一度
吟味したい。出来るか、出来ないかより、出来ますように、そうさ
せてくださいと祈りたい。成長していきたい。


2025年03月17日(月)

「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、 歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではない ことを」エレミヤ10:23



ある人の証しだ。主を信じ、救われて以来、デボーション、主との
交わりが非常に大切であることを、ずっと教えられて来た。そのた
め、祈ること、御言葉を通して御声を聞くこと、主は御言葉を通し
て語りかけ、お心を教えて下さることがわかる。信仰生活の生命線
であるとわかる。主との交わりが何より大切だと、よくわかってい
るのに、なかなか祈りの時間を持てないし、聖書も読めない。

ズルズルと1週間が過ぎる。礼拝に行っては、流されていたと気づ
かされ、主と交わりの生活をしたいと思う。だがついダラダラとテ
レビで時間がつぶれ、雑誌は幾らでも読めるのに、聖書が読めない。
好きな事には時間を忘れて夢中になる。なのに主との交わりである、
デボーションの時間は無い。こんな繰り返しに、自分でもいい加減
いやになり、主のもとへ行き祈った。

正直にありのままを打ち明け、助けを求めた。祈っていた時に、御
霊の気づきが与えられたのだ。主を真剣に、本気で求めていない事
に行き当たった。自分でどうにも出来ず、主を求める事が出来るよ
う、助けを求めようと思えた。しかし、これらも祈った祈りの答え
である事に感謝した。祈る事も聖書を読む事も、自分の力では出来
ない。助けを求めて祈る時に、主を経験して行く。

ある人は、なかなか祈れない自分に、助けを求めて祈った。その時、
忙しいから、時間が無いからの理由でなく、祈らなくても、やって
行けると思っている、心の奥の自分に気づかされた。それは高慢で
はないか。気づきを与えられ感謝した。まずありのままを主に祈ろ
う。そこから展開が与えられて行く。
-------------
御霊による気づきは感謝だ。自分の歩みを確かにする力が自分には
ないことを様々な事を通して知らされる。主が歩みを確かにしてく
ださる。なんと感謝な約束だろう。


2025年03月16日(日)

「イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に 向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた」マタイ 14:22



主は、弟子たちを「強いて」強制的に舟で、湖に出された。ご自
身は祈るために、山に登られた。すると弟子たちは、湖で真夜
中に大嵐に会った。プロのベテラン漁師たちが、真っ暗闇で逆
巻く波風に、今にも転覆する小舟で悪戦苦闘した。彼らは、立
ちはだかる問題に、何とか立ち向かおうと悪戦苦闘する、私た
ちの姿だろうか。パニックだ。不安で不安でたまらない。

そんな彼らの元へ「しっかりしなさい。わたしだ」と、主が来て下
さった。「恐れることはない」と。主は、すべての「時」を定めてお
られる。私たちにも、耐えられない試練は一つもなく、主が決め
られた時以上に、長引く試練も無い。目の前の試練にも、すでに
時が定められている。

そして主が舟に乗り込むと「風がやんだ」。あの大嵐がピタリと
止んだ。驚いた彼らは「確かにあなたは神の子」との信仰告白
に至った。舟は無事に目指す地に着いた。主が大嵐の試練を
送られるが、弟子たちはその試みを通して、主が自然界をも支
配する、生ける神である事を知った。その驚きはどんなものだ
ったろう。私たちにも試練が来る。

「強いて」舟に乗せられる。が、その問題に主をお迎えする時、
平安が臨む。つまりその問題を主に「委ねる」ことだ。その時、
主が平安を下さる。そしてその問題を解決に導かれる。重大
な事は「主イエスは神」ということだ。自然界も、私たちの人生
も、目の前の悩みも、支配しておられる主権者だ。「恐れるな」
「わたしだ」と、必ず助け出して下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」、何と力と
いのちに、満ち満ちた言葉だろう。試練が来ると、パニックに
なり、主が飛ぶので、悪戦苦闘となる。「わたしだ」、主がおら
れる。安堵が臨む。


2025年03月15日(土)

「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの 前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた」 マルコ 5:33



女性は12年間、出血が止まらない状態で、どんなに苦しく痛い、
辛い事だったろう。律法では不浄で、礼拝に出れず、宗教的に
も社会的にも疎外されて来た。経済的にも、良い医者がいると
聞けば訪ね、を繰り返した事だろう。悪徳医師にもだまされ、
全財産を使い果たした。だが返って更に悪化し、この先どうす
ればよいのか・・、全く光が見えず、絶望で、もう心身ぼろぼろ
で限界だったろう。

わらにもすがりたい。丁度そんな時、主の噂をあれこれと耳に
し、主の着物にでも触れたなら、自分も直ると信じた。必死の
思いだった。主に触れたその瞬間、血の源が枯れて、ひどい
痛みが直った。奇跡が起きた。驚いたことだろう。恐れいっぱ
いで、隠れていたかった。誰にも知られず、その場を去りたか
った。が、そこで主が「触ったのは誰か」と問われた。じっと群
衆の中に、隠れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、恐れて
震えて歩み出た。

「イエスの前に」出た。どんなに恐ろしく、勇気の要った事だろ
う。「すべての民の前で」主に触れた理由と、いやされた次第を
話した。すべての人の前で告白した。こんな惨めで、辛い、セ
ンシティブな事を大勢の人前で話せるなど、彼女の力ではな
かった。自分を卑しめ、闇に隠れていたのが、彼女は光の中
へと入れられた。

主は、「あなたの信仰が」と、彼女の信仰を認め、「安心して
行きなさい」と、もう恐れも不安も怯える事もない、全き安堵と
平安と自由を下さった。身体だけでなく、心も癒し、救いを与
えて下さった。主が彼女を呼び出し、告白に導かれたのは、
実は彼女自身のためであった。晴れやかな喜びと全き平安に
包み込まれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主は誰が触ったかご存じだったが、自分で名乗り出るように
導かれた。人格と人格の交わりを持たれ、心をもいやし平安
を与えて下さった。いつも主のもとへ行き、余すところなく告げ
よう。「安心して行きなさい」といやして下さる。、


2025年03月14日(金)

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと 思いますか・・行って同じようにしなさい」ルカ10:36



律法学者が主に質問をした。「何をしたら、永遠のいのちを自分の
ものとして、受けられるのか」と。だが「試そうとして」とあり、
真摯にへりくだって、知りたくて質問したのでなく、主への罠であ
った。この学者は答えがわかっていた。律法の専門家なのだから。

すると主は、「律法には何と書いてあるか」と逆に問われた。そし
て「あなたはどう読んでいるか」と。あなたはどのように理解し受
け止めているか、あなたの現実問題としてどうなのか。聞き従って
いるのかと。学者は「神を愛し、隣人を愛すること」と、正しい答
えをした。そこで主は「では、その事を実行せよ」と。

すると学者は「自分の隣人とは誰か」と問うた。その動機が「自分
の正しさを示そうとして」であった。自分を正当化するのは、やま
しいものがあり、取り繕う必要があるからだ。すべての隣人を、愛
せない事はわかっていた。当時のユダヤ人には同胞は隣人だが、外
国人は隣人でなかった。同胞は愛せるが、それ以外は愛せないと、
正直に主に向き合えばよかったが、どこまでも自分を正当化した。

そこで主は、敵を助けたサマリヤ人の話をされた。私たちも、すぐ
に自己正当化してしまう。そして気づかないだろうか。御言葉すら、
自分のために、自分を正当化するために用いてしまう。だが、御霊
が気づかせて下さる。心の闇を照らされる。そして私たちがどうで
あっても、変わらずに愛されている。その主の愛の中で、悔い改め
が与えられる。一歩〃成長に導かれる。何と感謝なことだろう。
-----------
御言葉を読んでいると、いざとなると自分にも出来るような気がす
るが、実際には全く愛のない純粋でない者だ。主の光の前には真の
姿が示される。主の愛に感謝し、御霊による助けを祈りたい。


2025年03月13日(木)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌って いると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25


パウロは祈りに祈り、御霊の明確な示しにより、宣教のためマケド
ニヤに渡った。ピリピの町に行き、川岸の祈り場へ向かい祈った。
宣教を開始し、悪霊を追い出したところ、訴えられて捕らえられて
しまい、投獄となった。むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁された。あ
れほど祈ったのに、何でこんな事に?主の示しに確信もって従った
のに、なぜ?御心を行なっているのに、問題が来て、苦しみが来た。

どうして?ましてや、宣教のために来たのに、投獄の身だ。あの祈
りはどうなった?投獄されてしまって、どうにもならないではない
か。しかし主の計画は着々と進んでいた。パウロとシラスは、これ
らすべてに、主の主権とご計画を信じ、牢獄の中で祈りをし、賛美
した。愚痴と不満では無かった。

むち打たれた激痛の中で、感謝し賛美したのだ。他の囚人たちは、
見た事の無い光景に驚き、大変な衝撃だったろう。そのため地震で
逃亡出来たのに、誰一人動かなかった。看守は、囚人を取り逃がす
と、死刑だったので、自害しようとした。しかし全員そこにおり、
その場で、看守は救われた。何と、彼の全家族も救われた。ピリピ
の教会の核となり、宣教が進められて行った。

主に間違いは無い。一つ〃の事柄がパズルのピースだ。繋がった時
に、主のみわざが現われ出る。あんなに祈り、御心に従ったのに、
なぜこんな事に?との状況だろうか。主は、ご自身の確かなご計画
を進めておられ、紆余曲折の中、間違いのないみわざが進行中だ。
今、思い通りでないかも知れない。しかし主に間違いは無い。信じ
て立とう。
---------------
祈って導かれたなら、愚痴も不平も捨てて、主の最善を信じたい。
主の見ているように見ていけるよう祈りたい。御霊に守られた平安
が来る。今するべきことは、祈りと賛美かも知れない。


2025年03月12日(水)

「おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれん でやるべきではないか」マタイ18:32



王が、Aに6000億を貸した。清算の時になったが、Aは返済不能で、
ひたすら懇願するので、王はかわいそうに思い、赦してやった。そ
して6000億の借金を全額免除にしてやった。Aは借金から解放され
て、どんなに喜び踊ったことだろう。そのAが出て行くと、Bに出
会った。Aは、Bに100万貸していた。

ところがBも100万を返済できず、Aに、必ず返すから、もう少し待
ってくれと懇願した。しかし何とAは赦さず、Bを牢に投げ入れた。
その事に心を痛めた仲間たちは、事の次第を王に報告した。すると
王は怒って、Aを借金を全額返済するまで、投獄した。せっかく王
のあわれみで、免除された借金が、自分に負債のある者を赦さなか
ったばかりに、また負債が返って来た。

Aの免除された6000億は、そのままなのではなく、王が肩代わりし、
その負債を負うのだ。何というあわれみだろう。測り知れない莫大
なあわれみを受けているのに、少しの借金のある人をあわれむ事が
できない。どこまでも自己中心で、これが罪の性質であり、私たち
の姿だ。自分は神に全面的に赦されているのに、人を赦す事ができ
ない。

ここに二つの道がある。自分を変えずに恨みと憎しみを抱いたまま、
辛く生きて行くか。そうではなく、自分が変えられて、主に喜ばれ
る、栄光が現わされる道へ向かうか。岐路にいるだろうか。自分に
はできない。しかし主には可能だ。主は赦す力を下さる。前進を祈
って行こう。
---------------
多くの負債を赦された者なのに、簡単に忘れてしまう。肉の思いの
まま裁いていくとき、赦された罪の大きさに気づきたい。そして赦
されながら生きられる恵みに感謝したい。


2025年03月11日(火)

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに 心を配っておられる」箴言5:21



人は誰しも、自分の道を思い巡らす。先の事を考え、予測し計画を
立て、段取りをする。雨の日のための備えは大切だ。何の考えもな
く、行き当たりばったりが良いのではない。だが一応の計画は立て
るが、その通りにならないのが人生だ。突如の病気になるし、けが
もする。リストラや倒産もある。だがそれらは計画の内に入ってい
ない。つまり何が起こるかわからず、思い通りには決してならない。

ある人の子どもに難病が発覚し、今は治療方が無いと言われた。突
然で驚き戸惑い、パニックで受け入れられず、毎日〃涙が止まらな
かった。「しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主」との
通り、主に向かい、祈り、ひたすら祈る中で、心が整えられて行っ
た。時間はかかったが、受け入れることができたのだ。主のみわざ
で祈りの答えだった。

そして主を信じて、歩み出した時に、一つ〃と主の山の上に備えが
あった。夫も妻も仕事を持ち、上の子たちも、家族が各々自分の道
を行くような家族だった。それが夫も家事をし、上の子たちも進ん
で手伝い、家族に絆が与えられ、強められて行った。感謝な嬉しい
事だった。愛し合う事を学ばせて下さった。心を決め、くびきを負
ったので、沢山の事を学べて、主の愛と真実、そこにある助けを日
毎に体験した。

平安が与えられ「幸せです」と言えた。何が起きようと、主に、行
き当たりばったりは無い。突然の事態に出くわした時、「その人の
歩みを確かなものにするのは主」、主が、確かな歩みへと手を取り
導いて下さる。私たちの人生が「主の目の前に」あるとは、何と平
安だろう。
---------------
自分一人で生きていると思うと、思い通りに行かない事はすべて試
練に思える。主がおられると知っているのは何という平安だろう。
御霊の慰めや励ましがあり、主の備えを見つける。主に信頼しよう。


2025年03月10日(月)

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」ルカ12:25



私たちは、心配な事態が来ると、不安と恐れに取り込まれてしまう。
不安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思もうとしても、不安が泉のご
とく湧き上がり、どうにもならない。経験があるだろうか。周囲か
ら幾ら大丈夫と励まされても、どうしてもだめなのだ。「何も思い
煩うな」との言葉は、頭ではよくわかるのだが、しかし不安にさい
なまれる。

主はそれもご存じで、「明日のための心配は無用」と言われた。明
日の事はいっさい考えず、今日だけを考えればよいと。今、現在、
何か不足してるか?とりあえず飢えていない、身体も守られている。
今日の必要は与えられている。では、常に「今日」の、目の前の必
要は、ずっと与えられて来たのではないか。その「今日」の連続が
一生だ。

まだ見ぬ明日を恐れるより、今日、必要が満たされている事に目を
向け、感謝してはどうだろう。その感謝は、信仰と喜びを与えてく
れる。感謝する時、視点が主に向く。すると主視点となり、心が落
ち着いて来る。主にはご計画があり、一羽の雀さえ忘れられていな
い。目の前に問題があるが、それは災いでは無く、平安と将来と希
望のためのものだ。

その問題を必ず平安の落とし所へと導いて下さる。独り子を与える
ほどに、愛して下さっている。目が、問題から、御言葉へと転じる
時、心が落ち着いて来る。明日の心配は無用と言われる主に、問題
を委ねよう。そしてこの一日だけを考えて行こう。信仰の練習だ。
今日の荷は十分に負えて、その荷は軽いと。
---------------
心配や不安がますます心身を疲弊させていく。不安が来るとき、主
の恵みを数えて感謝にかえていきたい。今日を喜び、一歩一歩主に
支えられて歩もう。今日も明日も主が心配していてくださる。


2025年03月09日(日)

「イエスは・・大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、 ピリポに言われた。『どこからパンを買って来て、この人々に食べ させようか』」ヨハネ6:5



五千人の給食の箇所だ。ピリポは、人々にどうやってパンを食
べさせようかと、主から問われた。彼は頭で計算し、所持金では
無理との答えを出した。常識、見えるところで、不可能との結論
だ。しかしそこには、主への信仰が抜け落ちていた。所持金でも、
自力でも不可能だが、主にとっては、どうだろう。自分には出来
ないが、主には出来る、これが信仰だ。

「人にはできないことが、神にはできる」。「自分には出来ないが、
主には可能」、主はその信仰を求められた。そしてすでに、ご自
身が「しようとしていること」を知っておられた。詩篇記者は言っ
た。軍事力の大きさによっては救われない、人は力の強さにはよ
らない、軍馬も軍勢も救いにならないと。普通、戦争に勝つには、
兵力が勝負だ。100人対10000人ならどうだろう。

どう見ても多い方が有利だ。ところが詩篇記者は、兵力の大きさ
は救いにならないと言う。救いは、主によるのだと。主に信頼し、
主の指示に従って戦う時に、勝利を得る。私たちはどうだろう。
現実生活において、兵力の多い少ないがすべてだろうか。ピリポ
のごとく、見えるところで計算し、結果を出してしまうだろうか。

今、目の前の問題、悩みに、見える所、常識、経験値で判断し、
失望落胆しているだろうか。主が抜け落ちていないだろうか。今、
そのままの気持ちを、まず祈りに持って行こう。主が信仰を与え、
導いて下さる。主は、ご自身がしようとされている事を、すでに
決めておられるのだから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主が、いつも問われる。「それは、あなたには難しく、無理でしょ
う。しかし、わたしには、出来ませんか」と。信仰を試される。そこ
で学ばせ、成長させようと、何度も同じような状況が与えられる。
信仰の一歩を踏み出せるように。


2025年03月08日(土)

「イエスは言われた『そのままにしておきなさい。なぜこの人 を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてく れたのです」マルコ14:5

                                                                                               

マリヤが、主に香油を注いだのだが、それは「埋葬の用意」の
ためだった。主が、今から十字架に向かわれる事を、ただ一
人悟っていた。これが、主の最後の旅である事がわかってい
た。それで精一杯の心を、お献げしたいと願った。すると弟子
たちが憤慨した。300デナリ以上に売れ、貧しい人々に施せる
のにと。300万円の価値だ。

香油を流してしまい、無駄にしたと、マリヤを責めた。だが主
は「マリヤは、わたしの葬りの日のためにしてくれたのだ」と、
マリヤをかばわれた。貧しい人々には、いつでも出来ると。
マリヤの主への愛だった。献げ物は、主への愛の表われだ。
マリヤは自分にできることをしたのだと。主への愛を表す事
ができる。自分にできる事をすれば良いと。

私たちは思うだろうか。もっとお金があれば献げるのに。お金
が無いから献げられないと。今は多忙で、暇が出来たら、時間
を献げようと。しかし、そのようになったとしても、献げるとは限
らない。ある人が証しした。主に献げたいが、どうしても肉が邪
魔をし、献げられない。だが、正直にそのままを祈りに持って行
った。数日後、不注意で、店で財布を落としてしまった。

ああ献げられたのにと、後悔し、ひどく落ち込んだ。ところが
財布が拾われ戻り、びっくり!主をもろに感じ、祈りの答えに
主の愛を感じた。お献げできて平安と喜びが満ちた。自分なり
に主への愛を表させて下さる。又、どうであれ、いつもありのま
まを祈る事ができる。主の愛を新たに知る恵みにあずかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
肉に働いて来るサタンは、祝福を奪おうと、献げることにおいて
妨げて来る。サタンをわきまえていよう。御霊に導かれて、時間、
労力、金銭を献げる時に、晴れやか平安に満たされる。主への
確信が深められて行く。


2025年03月07日(金)

「「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めては いけません。神の国は、このような者たちのものです」 マルコ10:14



親たちは、主に、子どもたちを祝福していただきたく、みもとに連
れて来た。ところが弟子達がそれを叱った。弟子達にとり、幼子は、
所かまわず騒ぎ、うるさく、役に立たず、教えも理解できず、手の
かかる「足手まとい」なだけの者だった。しかし主は、「幼子を来
させよ。止めてはいけない」と、幼子を喜んでみもとに招かれた。

幼子はまず無力だ。ただ「受ける」だけの弱い存在であり、親に依
存している。親がいなければ、一日として生きて行けない。そんな
幼子の無力さ、弱さに対して、主は「神の国はこのような者たちの
もの」と言われた。幼子は力無く、知恵、判断力も無い。ただ受け
ることにより、誰かを頼ることによってのみ生きられる。

自力で生きる事ができない。それを知っている。だからこそ、素直
で、「来なさい」との声に、何のためらいも無く従う。幼子から、
へりくだりを学ばされる。自分を抱いてくれる人の腕では、身も心
も命さえも預けきって、安らかに眠る。主はそんな幼子を、そのま
ま受け止め、愛し、祝福された。そして私たちに、幼子のように神
の国を受け入れる者であれと。

親の腕の中で、何の不安も恐れもなく、安らかに眠る幼子、何とい
う幸せだろう。親に全面的に頼っているからこそ、どんな厳しい中
も、子どもは親さえいれば大丈夫だ。状況は全く関係無い。私たち
も御父に、素直に、全面的にゆだねること、頼ることを、御父は大
変喜ばれる。
---------------
自力の限界や足りなさを認めず、一人で頑張るのではなく、無力を
しり、しっかりと御父に頼る歩みは、なんと大人の歩みだろう。
幼子が親を信頼しているように主に信頼して生きよう。


2025年03月06日(木)

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。 地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」詩篇73:25


詩篇記者は、悪者が繁栄し成功するのを見て、つまずき落ち込んだ。
彼らはとても楽しげで、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさ
そうだ。なぜ悪者が安らかで、富を増しているのか。それに引きか
え、自分は惨めで、苦しみばかりで、何の良い事もない。虚しく心
をきよめている。この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだ。

どうして神を信じない者が栄えるのか、納得が行かない。不満でい
っぱいだ。その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。実は彼の
欲求不満や妬みや文句、様々な悩み問題の原因は、神の近くにいな
かったことによると悟ったのだ。「神の近くにいることが幸せ」な
のだと。本当の問題は、外側の様々な状況ではなく、自分と神との
関係だった。

それが信仰にとって根本的なことだ。私たちも同様だ。愚痴や不平
不満で一杯になる時、人が妬ましく、イライラ状態の時、本当の問
題はその状況でなく、自分と神との関係だと。神から離れているか
ら、平安無く、感謝が無く、心が荒んでトゲトゲしている。それと
は逆に、神と親しい交わりの中にいる時、状況が波風逆巻く中、大
嵐の中でも、表面は揺れ動くのだが、心の奥に、平安が横たわって
いることに気づく。

神の近くにいる事が平安であり幸せだと。その時、主と共に、問題
に当たって行ける。今、主との関係はどうだろう。もし距離がある
なら、立ち返ろう。いこいに戻れと言われる。主からの平安が戻る。
そして、主によって幸せであることができる。
---------------
イライラと心が騒ぐとき、御言葉を開くといつの間にか心は凪いで
いる。主に愛され、守られている自分に立ち返れる。御言葉にいの
ちがあると実感するときだ。あなたのほかにだれをも望みませんと
主を賛美したい。


2025年03月05日(水)

「イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の 出る井戸を見つけた」創世記26:19


イサクが次々と井戸を掘る場面が出て来る。ペリシテ人が、イサク
が多くの家畜の群れ、しもべを持つ事を妬んだ。それでアブラハム
の時代に掘られた井戸をふさいでしまい、イサクに出て行けと言っ
た。彼は、その事でペリシテと争わずに、そこを去った。そしてゲ
ラルの谷間に住み、そこで井戸を掘った。すると湧き水が出た。

ところが、そこでもゲラルの羊飼いたちが、この井戸は自分たちの
ものだと言い張った。又、尚もイサクは争わず、移動して別の所に
井戸を掘った。するとそこでも争って来たので、また、移動した。
そこで井戸を掘った時に初めて争いがなく、主は広い所を与えて、
この地で増えるようにして下さった。

イサクは、何度も理不尽な目に会い、父が掘った井戸を埋められ、
又、自分たちが掘った井戸を奪われ、又、掘っても争って来る。
しかし争う事なく、自分たちが場所を変えては、井戸を掘り続けた。
まさしく「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおど
すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」主の姿であ
った。イサクはへりくだっていた。

井戸は下に下に掘るが、私たちもへりくだる事を学ぶ。下へ、下へ
と、へりくだって行く時に、湧き水が湧く。彼らを追い出したアビ
メレクは、彼らが、素晴らしく祝福される様を見て「私たちは、主
があなたとともにおられることを、はっきり見た」と言った。大き
な証しとされた。へりくだり、従う時に、敵は、主が私と共におら
れることを見る。
---------------
肉は上へ上へと、踏みつけられたら立ち上がり、主の御心に逆らい
争いたくなる。へりくだりを学びたい。恵みと祝福はいつも主が備
えてくださる。感謝して主を見ていたい。


2025年03月04日(火)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ 5:8



信仰人生で、進路について考える局面が必ずある。進学、就職、結
婚、転居・・主の御心を求める事を教えられる。この時に主は御心へ
と導こうとされ、悪魔は反対方向に引っ張る。ある人が突然、転職
の誘いを受けた。今の何倍もの高給で、自身の技能が生かされる場
だ。遠方のため、教会を変わる必要があった。

夫婦で救われ、喜びの教会生活を送っていた。御言葉を学ぶ事や兄
弟姉妹の交わりはこの上なく楽しかった。クリスチャンホームとし
て、大変祝福され、主に従いたいと願っていた。まだ初心者で、導
き等はよくわからず、牧師に相談し、共に祈ってもらった。牧師は
祈り、御言葉を求めた結果、転職に反対した。

今は動かず、信仰の基盤を培われた方が良いと。自分たちもそう思
った。しかし誘惑は強かった。高収入は魅力だが、それより自分の
念願の仕事で、才能が生かされ、思う存分働ける事、才能を認めて
貰えた事が大きかった。とどまるべきだと感じつつ、転職した。し
かし仕事はハードで時に深夜まで。疲れて教会へ行けず、主から離
れてしまった。

後に立ち返れたが、あの時、誘惑に負けてしまったと。私たちにも、
自分の好み、願い、欲望にピッタリ合致するサタンの誘惑が来る。
嫌なもの、苦いものは誘惑になどならない。必ず心惹かれる、魅力
的なものだ。このサタンをふまえて、特に進路や人生の岐路におい
ては、よくよく主の導きを求めよう。祈りによって正しく導かれる。
---------------
主の導きと思えても、巧妙なサタンの誘惑かも知れない。サタンが
誘惑しようと持ってきたものは、魅力的だ。自分の弱さを覚えて祈
りつつ備えていたい。弱さを自覚し主に頼ろう。


2025年03月03日(月)

「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるように なるのです。彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエス に従った」ルカ5:10



ペテロはプロの漁師で、ベテランだった。ずっとガリラヤ湖で漁を
なりわいとし、毎日〃漁をし、漁も湖も熟知していただろう。自負
もあったろう。それが漁には全くの素人の先生が、朝に漁をせよと
言われる。あり得ないが、しかし先生の言う事だからと、その一点
で網を下した。すると目の前で驚くべき奇跡が起きて、聖い畏れで
いっぱいになった。

ペテロは、「主よ、わたしから離れてください」と思わず叫んで、
み前にひれ伏した。人間ではなく、神だとわかった、劇的な事であ
った。「先生」が「主」に変わった。余りにも聖なる、光なる方の
前で、自分の汚れ、罪深さが照らされた。しかし主は「こわがらな
くてもよい」と。罪深さを知り、認める者を、主は愛し慈しんで下
さっている。

何の自信も無い、砕かれたペテロに「これから後、あなたは人間を
とるようになる」と、ペテロを召され、使命を与えられた。ペテロ
は何もかも捨てて、主に従って行った。この世のもので満たされて
いたなら、何もかも捨てて従わない。ペテロの深い心の奥もご存じ
であった。

漁師の彼らに、わかりやすく大漁という方法でご自身を現わされ、
導かれた。「人間の先生」が「神である主」に決定的変化を遂げた、
そのもとなるものは、「でも、おことばどおり」だった。それゆえ
網を下した。確信は無かったし、よくわからなかったが、しかし
「おことどおり」に一歩踏み出した。その一歩が大きな祝福とされ
た。
-------------
主は決して無理強いはされず、求めのある者に語ってくださる。な
んと感謝だろう。そして従えるように恵みを備え、ご臨在を示して
くださる。いつも主が先立って導かれる。主に従いたい。


2025年03月02日(日)

「それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚 いたからである」ルカ5:9



ペテロが徹夜の漁を終え、網を洗っていると、主が、少し舟を出
すよう頼まれた。その後ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろ
して魚をとれ」と言われた。だが、昨夜、どんなに漁をしても一匹
もとれなかった。怠けていたのでなく懸命に働いた。しかし、とれな
かった。その魚が、朝になどいるはずもない。

「わたしたちは、夜通し働きましたが、何もとれませんでした」、持
ち帰る魚獲もなく、落胆で、ぐったり疲労感のみだ。しかし主は、
今一度沖へ漕ぎ出し、網をおろせと言われる。魚などいない。だ
がペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と、物理
的、常識的、経験値では何の期待も持てない中、主の言葉により
網をおろした。

すると、驚くべき大漁だった。奇跡だ。ここで学べる。自分の思い
と御言葉が相反し、相、対立する時があるが、どうだろう。当然の
ごとく自分の思いを通し、御言葉を捨ててしまっているだろうか。
無意識にそうしていて、気づかないかも知れない。主が朝方に
「深みに漕ぎ出し、魚をとれ」と言われたなら、重大な事は、「主が」、
そこに魚を備えられているという事だ。

ペテロは、あり得ない状況の中で、しかし御言葉に従った時に、大
漁を見た。二つの舟が沈みそうな大漁で、皆がひどく驚いた。私たち
も、見える所は不可能だが、御言葉に従った時に、奇跡を見せられて
来た。今、御言葉に促されながらも、ちゅうちょしている事がある
だろうか。自分の思い、経験値、常識と相反するだろうか。信仰に
より一歩を踏み出せるよう祈ろう。一歩を踏み出すと、次に展開し
て行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「見えるところ、常識、自分の思い、経験値」では、無理、有り得
ないだろうか。それは無理だと思えるだろうか。主が動かされ、必要
を備えられている。不信仰が問題だろうか。信仰に変えられて、従
って行けますように。


2025年03月01日(土)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさび で、きず物になり、また盗人が穴を開けて盗みます。自分の宝は は天にたくわえなさい」マタイ6:19


「自分の宝を地上にたくわえるのはやめよ」とあるが、自分の宝と
は何だろう。自分に大切なもの、重要な価値あるもの、生きがい
であり、これが無くては生きて行けない。それが、その人の「宝」
だ。それは金品とは限らない。ある人にとれば、名誉や社会的
地位、才能や仕事、趣味、又、家族や愛する人かも知れない。
プライドかもしれない。自分が非常に執着しているもの。

しかしそれは死後、持って行けない。「私たちは何一つこの世に
持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできない」。パリ
サイ人は、人々の賞賛を得るために、人に見せるために人前で、
自分の力で、善行をしていた。人によく見られるがためであり、
地上に宝を貯えるためだった。それを止めよと。そして「自分の
宝は天にたくわえよ」と。

「天に宝をたくわえる」とは、主を信じ、自分の力でなく、主の恵み
によって生きることだ。それは日々、主の喜ばれる事、主の御心
を尋ね求め、御心を行なって生きることであり、今日の日を天に
繋げて生きることだ。「目が健全なら全身は明るい」、目が健全
とは、二心でなく単一であり、あれもこれもと目移りせず、一心に
一つのものを、すなわち天を見つめること。

もし目が濁っていれば、それはあちこちと目移りし、天には向いて
おらず、それなら全身は暗いままと。地上で執着するものがあれ
ば、目が天に向いて行かないと。自分の宝は何だろう。取り扱っ
て頂こう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
主への渇き、霊的食欲、主を求め、慕い求めることを、一番大切
なものを、地上の宝により、妨げられてしまう。霊的食欲が減退
していたら、御霊の気づきにあずかれるように。自分の宝、偶像
も御霊によって照らされ、取り扱われますよう。