2024年03月29日(金)

「ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込ん で、イスラエルの人口を数えさせた。」T歴代21:1



ダビデはサタンに誘惑されて、人口調査という罪を犯してしまっ
た。人口調査自体は必要であり問題ないが、ダビデはその動機が間
違っていた。人口を事務的に調べるのではなく、ダビデのはそれに
よって、自分の力、自分の業績を誇ろうとする高慢によるものであ
った。

人口に関しても、全ては主のみわざであり、誇るべきは主であっ
た。ヨアブがそれに気づき、止めるよう進言するが、ダビデは聞か
なかった。そしてダビデは、罪を犯してしまった。ダビデの罪の結
果、疫病により7万人が打たれた。自らの罪は自分だけでおさまら
ず、周囲にも影響を及ぼす。

しかしダビデは罪を認め、悔い改め罪の赦しを乞うた。そして、3
日間の疫病という主の懲らしめを、罪の刈り取りを受け入れた。私
たちはどうだろう。主の御手から逃げようとするだろうか。罪の刈
り取りを、まっすぐ受け入れるという態度でなく、言い訳して、責
任転嫁して誰かを責める。

又、別の場合は、ただ自分を責めるばかりで、主に向かない。自分
に目が行くばかりだ。サウルがそうだった。彼は自分のした事を後
悔はするが、決して主のさばきの下に服する事をせず、何と霊媒の
もとへ行き、最後は自害してしまった。しかし、ダビデは、主のも
とへ行き、主の手に陥りたいと願い、主にすべてを委ねた。

私たちもダビデにならおう。罪を犯した時、隠れたり逃げたりせず
に、主のもとへ行き、悔い改めよう。主にお任せして、従って行こ
う。主のあわれみは深く、尽きないのだから。
---------------
常に狙い、そそのかしてくるサタンの恐ろしさと同時に主の十字架
の赦しの有難さを思う。何と感謝だろう。罪を犯したならすぐに主
に行き、悔い改めよう。主の赦しにあずかり生きていける。


2024年03月28日(木)

「ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って 来た。エサウはヤコブに言った。『どうか、その赤いのを、そこの 赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。』」 創世記 25:29



悪魔は飢えた吠えるライオンのように、襲いかかるものを探しなが
ら歩き回っている。獲物を見つけるや、飛びかかろうとしている。
悪魔は非常に狡猾で必ず策略を用いる。特に身体的、精神的疲労状
態にある時に、要注意だ。あなたが疲れている時を、悪魔は狙って
いる。危険にさらされている事を覚えよう。

まず疲れている時は、霊の敵に対しても無防備状態になってしまう
からだ。エサウは野での猟から戻り、ヘトヘトに「飢え疲れてい
る」時に、長子の権と豆を交換した。普段から霊的なものへの関心
がうといところに、飢えと疲れで、長子の権などどうでもよい状態
になった。私達は余りに疲へいすると、判断力を失い、重大な事が
どうでもよくなってしまう。主の言葉や約束など吹き飛んでしま
う。

疲れた時に経験しないだろうか。思考が働かなくなってしまう。エ
リヤはバアルとの戦いで、心身消耗し果て、多大のストレスに疲へ
い状態だった。その上に、イゼベルの預言者殺害命令を聞いた時
に、もう許容量オーバーで限界を越え、主に死を願った。疲れて、
弱る時、気力がなえて失せてしまう。バアルと、し烈な闘いをし、
大勝利を遂げたあのエリヤでさえそうなった。

人は皆、弱い。疲れて弱る時が、悪魔に狙いを定められている事を
まずよく覚えよう。振り返る時、思い当たるだろうか。武具を帯
び、主に拠り頼んでいよう。疲れている時は、要注意、要警戒なの
で、わきまえて主にすがっていよう。
------------
疲れたときは、簡単に思いに来るものに引っ張られてしまう。狭量
になりイライラし反応する。疲れていないだろうか。平安を失った
時は祈り、主と共にいよう。


2024年03月27日(水)

「彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに 信頼し、彼らは恥を見ませんでした。」詩篇22:5



ハドソン・テーラーの証しだ。彼は医者の助手として働いていた。
その医師に、自分はよく給料を渡し忘れるので、忘れたら言うよう
にと言われた。その時、その事を信仰の訓練としたいと思い、言わ
ずに祈り、主から答えを頂こうと決めた。そして案の定、給料を忘
れられた。切に祈った。段々食料も尽きて、残り銀貨1枚となっ
た。その時に、非常に貧しい子どもが来た。母親が病気だ。

しかし銀貨1つしか無い。2つあれば1つ上げるのに、1つなので
上げられないと思った。帰宅し、祈るが「偽善者」との思いが来
る。「祈るよりも与えるべきだ」と。そう出来ない自分に、主にだ
け頼る信仰はないと惨めになった。結局その銀貨を少年に上げた。
財布は空になったが、心はすっきり、晴れやかになり、平安と喜び
で満ちた。

その日の夕飯は残り物を食べた。だが翌朝からは何もなかった。す
ると早朝に郵便が届いた。封筒を開くと彼が与えたお金の数倍が入
っていて、驚いた。そのお金が無くなった頃、医師が給料の未払い
を思い出してくれた。神は真実であり、生きて働いておられる。
「彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。」

ツァレハテのやもめは、飢饉の中、餓死する前に子どもに最後の美
味しい食事をと思った、その最後の一握りの粉をエリヤに献げた。
最後の限界ギリギリのものを献げた、その時に、飢饉の間中、かめ
の粉は食べても〃尽きず、つぼの油は無くならなかった。饑饉のま
っただ中で養われた。真実な主が共におられる。
------------
ご誠実な主は、私達が主に従いたいとの思いを知っていてくださ
る。たとえ小さな行いでも、なかなか前に踏み出せなくても、主に
信仰をささげていこう。主はその叫びを無にされない。


2024年03月26日(火)

「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけ ません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです・・ だから、こう祈りなさい。」マタイ6:7



主は、祈る先にすべての必要をご存じと言われ、何と感謝な事だろ
う。何もかもを知っておられる。では、御父がすでにご存じであれ
ば、祈る必要が無いではないか。だがこれは、ある人々は数珠を繰
りながら、同じ言葉を何度も〃繰り返すが、言葉数が多い者勝ち、
時間が長い者勝ちという事ではないのだと。

その発想が間違いで、祈りの言葉数や時間量の多い者順に聞かれる
のではない。数や量によるのではない。それなら力の勝負になって
しまう。主と私たちの間は「信頼関係」だ。だから同じ言葉の繰り
返しは無用だと。偶像と違い、御父はすでにご存じで、くどくど説
明する必要もない。しかし主は次の節で「だから祈りなさい」と言
われた。

だから祈る必要がないのでなく「祈れ」と。主は祈りを大変喜ばれ
る。御父との交わりだ。子どもに「一生涯の必要はすべて保障する
から、いっさい喋ってくるな」と言う親はいない。親は我が子の言
葉を聞き、対話し、その考えや気持ちを知りたい。それは愛してい
るので、その事が喜び楽しみであるからだ。

御父はあなたの声を聞く事を待っておられる。又、主は必要をご存
じだが、私たちが自分の必要を知らない。真に必要なものを、自分
がわかっていない。的はずれに求め、自分の欲のために求めて気づ
かない。主はそれらを軌道修正し、本当に必要なものへと正しく導
き、自分自身を変え、成長させて行って下さる。
------------
祈るために御前に行くことを主が望んでくださる、何と感謝だろ
う。日常のあれこれをありのままに主に告げながら、祈りは主との
深い交わりとなる。そして最後は御心の通りにと主に手渡せてい
く。


2024年03月25日(月)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かな ものにするのは主である。」箴言16:9




人は自分の道を思い巡らす。将来の事を考え、計画を立て、雨の日
のために備えをするのは良い事だ。家長が家族のために、先の備え
をするのは責任であり、大切なことだ。計画は大切で、行き当たり
ばったり、無計画が良いのではない。しかし一応の計画は立てる
が、その通りにならないのが人生だ。

突然、病気になるし、けがもする、リストラになり、災害に会う、
それらは計画の内に無い。計画を立てる時に、病気や倒産の予定は
無い。何が起こるかわからず、思い通りには決してならない。ある
人の家族が人生途上で事故に会い、障がいを負ってしまった。突然
の事でパニックだった。全く予想もしていない、思いを越えた事で
あった。

しかし、涙、涙の中、祈りに祈り、主に今の事態を明け渡す事がで
きた。すると心が導かれ整えられて行った。祈りに答えられ、現実
を受け入れる事ができるようにされた。平安にされ、そして主を仰
ぎ、主を信じて歩み出した時に、素晴らしく益とされて行った。そ
の困難により、家族の絆が強められた。

信頼し合え、その信頼は深められた。愛し合う事を学ばせられた。
腹を決め、くびきをしっかりと負ったので、沢山の事を学べて、主
の愛と真実を日毎に体験した。心が平安なのでで、「幸せです」と
言えた。何が起きようと、主は、ご自分では、しようとしている事
をご存じだ。

主に行き当たりばったりは無い。ご計画、意図、目的がある。突然
の試練に会う時、「その人の歩みを確かなものにするのは主」。
様々な苦しみに会うが、主が、地に足をつけた確かな歩みへと導い
て下さる。
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先の事はわからなくても全てが主の御手の中にあると知って歩む道
は何と幸いだろう。自分で歩んでいると思うと試練としか思えなく
ても主と共にいれば、そこに必ず主の最善を見つける事ができる。


2024年03月24日(日)

「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、 魚の腹の中にいた。」ヨナ1:17


ヨナは主から、ニネベへ行けとの命令を受けたが、嫌で行きたく
なかった。それで「主の御顔を避けて」丁度そこにいた反対方向
タルシシュ行きの船に乗った。すると主は大嵐を起こされたので、
船は難破しそうになった。くじを引いて災いの原因を知る事になり、
そのくじは、ヨナに当たった。

ヨナは嵐の原因は自分なので、それを静めるために、自分を海に投
げ入れるようにと言う。海に放り込まれたヨナを、主は大きな魚に
飲み込ませられる。ヨナはその魚の腹の中で祈り、悔い改めた。悔い
改めとは、主の方への方向転換で、向きを変える事だ。思考が変わ
り、行動が変わる事だ。

魚から出されたヨナは、今度は主の命令に従った。嫌な行きたくな
いニネベへ行った。言われた通りに御言葉を伝えると、人々は悔い
改めた。そのため主は災いを思い直された。だがヨナは敵が赦され
る事が面白くない。、主に、不満、怒りをぶつける。ヨナの思いで
は、主は味方を守り、敵は滅ぼすべきだ。私達も、自分の思いが強
い時、主が自分の思うように動かれないと、いら立ち、不満と不信
感が募る。

しかしそれは自分の思いの中の神だ。だが、主は、そんなだだっ子
のようなヨナをなだめ、忍耐強く見守られる。お前はだめだとは言
われず、ヨナの気持ちを受け止め、とうごままで備え、愛をもって
導かれる。ヨナと同様、あなたに対しても気持ちを受け止め、愛し
導いて下さる。今、思い通りでないので、不満や怒りがあり、主の
御顔を避けているだろうか。まず主に告げよう。主は、正直な気持
ちを、愛して受け止めて下さる。そして御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
主は、御顔を避けて、御心からそれて、自分の道を行く者であるに
かかわらず、どこまでも〃も、忍耐深く対応し、導いて下さる。ど
こまでも追いかけて下さり、御心をはずれても、ご愛は変わらない。
何というあわれみと慈しみだろう。愛されている。


2024年03月23日(土)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信 じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」ローマ 4:5


ある男性が証しした。入社以後、第一線でバリバリに働いて来て、
どんどん成果を上げ、常に成績はトップだった。順調に昇進も果た
した後、現役を退く年齢となった。高齢となり足腰が弱って来てい
たが、とうとう車椅子となった。人の手を借りなくては、移動も
難しくなった。

今まで続けて来た礼拝出席も、一人では不可能な状況だ。昔はプラ
イドが人一番高く、人に助けてもらうのが嫌だった。人の手を借り
たくなかった。受けるという事が出来なかったのだ。又、頑張る事
が善、美徳と思っているので、受ける事ができない。そこに強いプ
ライドがあった。しかし今は老齢となり、その間に自分自身も様々
な取り扱いを通して、変えられて来た。

これから先、どうすればよいのか、主に切なる祈りを献げていた。
するとそんな中、礼拝出席へのサポートの申し出が来た。主とその
相手に心から感謝して申し出を受けた。祈りの答えであり、主から
の恵みと受け取れたからだ。感謝が溢れた。昔なら、つっ張って、
拒否した事だろう。助けを求める事ができないのが、自分の弱さで
あった。受ける事は上下関係に思えてしまっていた。

今は、主からのものと受け取れて、主とその相手に心から感謝でき、
自分自身も喜びと平安に満ちた。私たちもどうだろう。「自力、頑
張り」が強いと、何の働きもなく、無条件で与えられる恵みが、よ
くわからない。どうしても自分が頑張らなければと思ってしまう。
根深い価値観だ。「有難う」と受け取る事を言われているだろうか。

・・・・・・・・・・・・
「受けること」を学ばせられる。なかなか、受けることが難しい。
頑張ることが善という価値観がある。認められたり、評価される
ので、肉は満足だ。その頑張りが否定されると感じるだろうか。
受けることは、大きな祝福で、御霊の平安と喜びが来る・


2024年03月22日(金)

「 あなたがたは言った。『いや、私たちは馬に乗って逃げよう。』 それなら、あなたがたは逃げてみよ。『私たちは早馬に乗って。』 それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。」イザヤ書30:16


ある人に突如大きな問題が起きた。大変な事になったとパニック
だ。いつも学んでいるようにまず祈るのだが、祈っている最中も、
心は座しておらず、立ってしまっていて、「どうしよう〃どうすれ
ば良いか」と頭はぐるぐる巡り、心臓はバクバクで、方策を懸命に
考えている。祈りではなく、あれこれ〃と頭を巡らすばかりだ。

主を待ち望む事など無く、自分が立ち上がってしまっている。その
ため平安など全く無く、不安で〃たまらない。段々と最悪の結末の
シナリオまで鮮明に浮かんで来る。不安と恐れ、思い煩いでいっぱ
いだ。そんな心が暗く重い数日が過ぎ、余りにも苦しくて、主に叫
んだ。

その時、「やめよ」「わたしこそ神であることを知れ」「立ち返っ
て静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、
あなたがたは力を得る」と語られた。そして自分はまさに「いや、
私たちは馬に乗って逃げよう」と言っている者だと。心騒がせるば
かりで、何とかしようとしている、自分の姿を見せられた。

そのため、何もかもが自分の肩にかかるので、荷は重く、焦り、恐
れ、不安しかない。「やめよ」「静まれ」「わたしが神だ」「わた
しに信頼せよ」と言っておられる。問題に飲み込まれ、問題しか見
えておらず、主が見えていなかった。

口先で祈り、自分が動き回っていたことに気づかされた。祈りにお
いて、主に問題を持って行くように導かれた。不安しか無かった心
に、初めて安堵が与えられた。
------------
祈っても、祈っても気持ちが伴わない。与えられる結果が、自分の
思いと違うのが怖い。平安のない祈りをよく経験する。主に手渡せ
ない事を認めて、その思いを祈っていこう。


2024年03月21日(木)

「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。『ここに、 わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配す るのだ。』」Tサムエル9:17



サウルがイスラエルの王とされる時、まるでパズルが埋まるよう
に、一つ〃の事柄が、的確なタイミングである事に驚く。まずサウ
ルの父親のロバがいなくなった。そのため父親がサウルに言い渡
し、若い者と共にロバを捜しに行かせる。サウルは若者を連れ、山
地を巡り捜すのだが、どうしても見つからない。

それでツフまで来た時に、サウルは父親が心配するからもう帰ろう
と言った。しかし若者が、この町に神の人がいて、彼の言う事は必
ず実現するから、尋ねに行こうと進言する。それでサウルもそれは
いいと、町へ行くと丁度その日、そこに神の人サムエルがいた。彼
は前日に、主から「明日一人の人を遣わすから、油を注いでイスラ
エルの君主とせよ」と告げられていた。

父親のロバがいなくなり、捜し、ツフの地に来た事、若者が神の人
がいる事に気づいた事、丁度サムエルが来ていた事。どれ一つ欠け
ても成就しなかった。「丁度」と、時ピッタリに、一つ〃が不思議
な導きだ。私たちも同様だ。偶然は一つも無い。主の主権と支配の
もと、愛の御手で導かれている。

振り返ると、あの時、この時、あれこれが丁度時ピッタリに繋がっ
て・・と必ず経験している。今、あなたが、今の場所にいること、目
の前の人々、出来事・・すべて主のご計画と配剤だ。主の最善がなさ
れている。今、わからなくても、後にパズルが埋まるように、「ご
計画があり、災いはなく、平安と将来と希望のためのもの」と、わ
かるようにされる。
------------
振り返るとそうだったように、今も主の御手の中だと思うと、まだ
理解できない事にも平安がくる。今どこを生かされているのだろ
う。すべてを主に感謝し今日を喜びたい。


2024年03月20日(水)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下に はいません。」ガラテヤ5:18


ある人が、主を信じ救われた後、"〜ねばならない"の律法にはまり
込んでしまい、頑張って〃、歯を食いしばって律法を行なった。し
かし自分の力と努力なので、油の切れた状態で、苦しくて辛くなっ
て来る。どんどん疲れて来るのだが、これは正しい事とばかり、更
に自分の頑張りで進んで行ってしまう。自分は辛いので、頑張って
いない、

何もしていない人を見ると腹が立ち、裁いてしまう。忙しいマルタ
が、何もせず座っているマリヤに腹を立て、裁いたように。心の内
では人を裁き、喜びも平安も無い。そんな中、先輩クリスチャン
に、それは律法主義で、御霊によって歩む事が大切だと言われた。

行ないでなく恵みによる救いは理解できて、理屈ではわかるのだ
が、どうしても、御霊による歩みがわからない。恵みと言っても、
ちゃんとした行ないをしなければ、としか思えない。その時は、主
の愛、御霊による歩みが頭の知識でしかなく、実際が無かった。ど
うやってもわからず、辛いばかりで、心底、主に助けを求めた。

その時、「わたしの恵みはあなたに十分」の言葉が光のように臨ん
だ。恵みは十分注がれてるよと、主が語って下さった。そして、
「弱さのうちに現れる」のだよと。弱くて良いのだと思った瞬間、
力が抜けて、解き放たれ、平安に包まれた。

おゆだねして行けば良いことで、安堵感でいっぱいだった、そして
主がずっと握り、捕らえて下さっていたことに感謝でならなかっ
た。私たち一人一人も、同様に主が握っていて下さる。
-----------
これでもクリスチャンだろうかと自問自答しながら頑張るならすぐ
に油が切れてしまう。主に頼らず、自分に頼っているなら気づきた
い。主に助けを祈ろう。主の平安と助けが速やかにくる。


2024年03月19日(火)

「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナ リの約束をしたではありませんか・・ただ私としては、この最後の人 にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」マタイ20:13


天の御国が、ぶどう園の労務者を雇う主人に例えられている。早
朝、9時、12時、5時に雇い、早朝の者には「1デナリ」の約束、9時
と12時は「相当のもの」を約束した。そして報酬の段になると、全
員一律1デナリだった。すると早朝の者が不公平だと文句をぶつけ
た。長時間働いたのに同額とは、納得が行かない。5時なら、もう
片付けに入る頃だ。

この世の会社組織で起きたなら、混乱は間違いない。しかしこれは
天の御国の事を言っている。「私は気前がいいので」と主人は、溢
れるばかりに与えたい主人だ。特に5時の者は、働きたくとも誰に
も雇ってもらえず、5時までその日の糧が無い中で、どんなに不安
で心細い事だったろう。それが一転どんなに感謝な事だったろう。

あわれみ深い主であり、天の御国は、成果主義でなく、あわれみが
支配する場所だ。逆に、早朝の者は、1デナリの契約があり、1日
働けば、1デナリが保証されている。何の不安も無かったろう。実
はこれも大きな恵みだ。雇用されたのであり、され無かったらどう
だろう。それが、横を見て比較した途端、何もかも吹き飛んで、不
満と怒りしか無くなった。

比較にほんろうされると、妬みに陥ってしまう。又、動機も明らか
になってしまった。主人のために働く事は、したくない嫌な苦しい
事だった。私たちはどうだろう。嫌々、強いられてだろうか。動機
はどうだろう。今一度、主との交わりの中で、恵みと感謝に立ち返
らせて頂こう。溢れるばかり気前のいい主だ。
-------------
比較に陥ると事実が歪んで見えてしまう。気前の良い主のあわれみ
により救われた者だ。そして、すべての思い煩いを主の上に投げか
ければ深い平安で今日を喜んで生きていける。何という幸いだろ
う。


2024年03月18日(月)

「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、 悪い者から守ってくださるようにお願いします。」ヨハネ17:15



私たち信仰者は世にあって、世で生活しているのだが、この世の者
ではない。しかし禁欲主義でなく、世からの隔離でなく、又、世と
断絶するのではない。だからと言って、世にどっぷり浸かり、世に
埋没し、流されるのでもない。私たちは、この世にあって、この世
の人々と同じように生活する。しかしその原理が異なっている。

どこが違うのだろう。私たちは「神の言葉」が、自分を動かす原理
だ。この世の原理でなく、御言葉がどこまでも基準だ。御言葉に従
い、御言葉の価値観で生きて行く。だから、この世にいるが、世と
は違っている。人々は地のものを求めて生きるが、私たちは天を見
上げて生きる。

主が御父に祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あ
なたの御言葉は真理です」。御言葉が真理だと。自分の内に根本
的、根源的原則が必要だ。確固たるものが無いと、特に日本人であ
る私たちは、周囲と同じである事が善であり、同じだと安心し、違
っていると戸惑う土壌がある。真理なる御言葉に基づいて、思考
し、判断し、行動しなければ、周囲に同調してしまい、いつしか飲
み込まれてしまう。周囲を見て、考えや態度を変えてしまう。

日本には米軍基地や大使館がある。日本国内だが、そこは治外法権
で、本国の法律下にある。同様に、私たちはこの世にいるが、御言
葉が支配する神の国の領域にいる。この世と接触を断つのでなく、
人々を愛し、仕え、交流し、証しをして行く。しかし飲み込まれて
はならない。御言葉に従う時、御霊が助け、正しく導いて下さる。
-------------
世の人と同じように見えても、主に信頼して歩む私たちは、何処に
いても主の御手に守られ力を受ける。価なしに主から受けたものを
また人にも与えられる。主に信頼して歩む日々はなんと感謝だろ
う。


2024年03月17日(日)

「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に知っていただ きなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、 あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれま す」ピリピ4:6



「そうすれば」とあり、「人のすべての考えにまさる神の平安」が
来ると。つまり、平安が来るためには、その前の節の条件を満たす
必要がある。それは「感謝をもって」「願い事を神に知っていただ
くこと」だと。願いは、願いとして、一つ一つ神のもとへ持って行
き、申し上げる。そして、それを神にお任せし、渡してしまうのだ。

その願いが御心にかなっていたなら、成就するし、御心でなければ、
成らない。御心でないなら、止められた方が良いし、「ノー」が答
えだ。「ノー」だという、神のお心が知れる。それは御心が、別の
道にあるという事だ。そして、神に一つ一つ願いと気持ちを持って
行くと、知っていただいた事で、心と思いが落ち着く。

そのために、必ず気持ちを神に告げる必要がある。告げるなら、あ
なたの「心と思い」が平安に守られると言っている。ここで、そう
すれば、「状況が変わる、問題が即、解決する」とは言っていない。
あるいは状況が変わらなくても、心が平安にされると。

今、悩みと問題の中だろうか。神に目を向け、焦点を当て、感謝に
思いを向け、心の願い、気持ちをことごとく、ありのまま余すとこ
ろなく告げよう。御心なら、状況が変えられる。又は、状況は同じ
だが、心が変えられるという事を発見する。環境は変わらないのに、
心に不思議なあんど感が来る。

・・・・・・・・・・・
「何も思い煩うな」とは、何という驚くべき恵みだろう。目の前の
この事、その不安、あの問題、何も、いっさい思い煩うなと。平安
に過ごさせるために、主は十字架で命を捨てて下さった。しかし自
分が次々と不安を取って来て、放さない。そのままを祈ろう。


2024年03月16日(土)

「イエスは答えられた。『もしわたしが洗わなければ、あなた はわたしと何の関係もありません。』」ヨハネ13:8



ある時、主が手ぬぐいを取り、腰にまとわれ、弟子たちの足を
洗い始められた。順番に洗われ、ペテロの番になると、とんで
もない、恐れ多いとばかりに「主が私の足を洗われるのですか」
「決して洗わないで下さい」と、ペテロはそれを拒んだ。当時
はサンダルのようなはき物で、砂やほこりで足が大変汚れた。

彼はその自分の汚ない足を、自分の師に洗ってもらうなどと、と
んでもない、恐縮で申し訳ないと思ったのだ。しかし、それなら
主と何の関係も無くなると言われた。自分の汚い部分を、主に見
せたくないという事になる。醜い部分はおおい隠したい、誰にも
知られたくない。しかし、主はそこをあらわにし、きれいに洗っ
て下さる。そこでこそ、主との関係が深められるのだと。

私たちは見栄えの良いところ、魅力のあるところ、能力のあると
ころを見せたいものだ。人に認められたいし、受け入れられ、評
価されたい。だが、主と私たちの間はそうではない。弱い、醜い、
汚い部分をすべて主に打ち明け、明らかにする時に、赦され、い
やされ、新たに造り変えられて行く。主は弱さを受け入れ、罪を
赦し、傷をいやして下さる。

主に心を開き、心を打ち明けて行こう。主との関係がより親密に
されて行く。この世の価値観は、弱さは悪で、強いことが善だ。
しかし御言葉は正反対で、弱さの中にこそ、主の力が現されると。
自力でなく、主により強くされて行く。又、罪は赦される。日々
に主のもとに行き、汚れた足を洗って頂こう。

・・・・・・・・・・・・
罪を犯すと、主に近づきがたく、離れようとしてしまう。肉は、
少しは、ましになってから近づこうとする。しかし主はありの
まま、そのまま来るようにと招いて下さっている。主の流され
た血潮に頼り、汚れたそのままで行きたい。


2024年03月15日(金)

「人の子よ。わたしが、彼らの力とするもの、栄えに満ちた喜び、 愛するもの、心に慕うもの、彼らの息子や娘たちを取り去る日・・」 エゼキエル24:25



世の人々は災いを非常に恐れ、災いが無いようにと信心する。しか
しまことの神は違う。天の父は悪い人にも良い人にも太陽を上ら
せ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる。だから平等だ。
どうだろう。主を信仰するなら、すべて商売は繁盛、病気やけがは
無く、受験はいつも合格、畑は常に豊作、大金持ちになるなら、誰
も彼もが、皆、信仰するのではないだろうか。

しかし主は、私たちにとり、不都合な事態も備えておられる。思い
通りにならない、辛い事柄が起きる。だがそれは試練であって豊か
な祝福とされる。私達の信仰は、火で精錬される必要があると。
火の精錬により、金や銀から不純物が溶かされる。試練の時に初め
て、自分自身の心があらわになる。順境の時には知ることが無い。

主は心の何もかもをご存じであるが、自分が知らない。その自分の
本当の姿を見せられる。口先と、建前の思いとは異なるものだ。本
音では何を求め、何を慕い、何を頼り、何が喜びなのか。自分の力
としているものは、本当は何なのか。真に愛しているものは、執着
しているものは。平穏な時には決して出て来ない、心の本音が現わ
れ出る。

自らの本当の姿を知る。これに気づき、主の御前に認めて行く時
に、一段階〃成長が与えられて行く。自分の真の姿を知る事は、心
砕かれる、非常に痛い事であるが、それこそが、大きな祝福へと続
く。更に主と近く、親しく歩む者と造り変えられて行く。
------------
主の取り扱いがなければ、どこまでも試練を避けようとする者だ。
自分の本音に光が当たる事は痛いけれど感謝したい。それでも愛
されている事を知れる。主に手渡していける。


2024年03月14日(木)

「この方こそ、私たちの罪のための、ーー私たちの罪だけでなく全 世界のための、ーーなだめの供え物です。」Tヨハネ2:2


ある人が長年第一線でバリバリ働き続けていた。ところが、仕事に
行き詰まり、そこに対人関係も加わり、心身共に体調を崩してしま
い、止むなく休職となった。その時に、ひどい落ち込みに陥った。
仕事が出来ていた時は、自分が価値のある者と思えていたが、出来
なくなった時、自分の価値を認められなくなったのだ。どうしても
受け入れ難い事であった。

成果主義の自分に気づかされた。弁解や言い訳で、自分を取り繕お
うとするが、無駄だった。仕事上の失敗を、自分を正当化し、人の
せいにしようとしている自分、又、人に恨みを根深く持ち、人を赦
せない自分だった。時間がある中、様々考え心探られ、プライドが
高く自己中心の自分の醜さを見せられた。

心苦しくて主の御前に出た。何もかもをことごとく打ち明け、気持
ちをぶつけ、心注ぎ出し祈った。その中で主の十字架が迫り来た。
「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわ
からないのです」その主の祈りが、紛れもなく自分のためである事
がわかった。主の赦しの愛を全身に受け取れた。

そして、主は完全に赦して下さっているのに、自分が自分を受け入
れられないでいる事も示された。自分が赦され、いやされた時に、
人を赦す事ができると知った。何が出来なくとも、このままの存在
を受け入れて、愛し続けて下さっている主の愛が嬉しかった。自分
を裁く事を止めた時、人を受け入れる事ができた。
----------------
罪人の罪のために十字架にかかられた主は、何処までも的外れな私
たちを、罪なしと言って弁護してくださる。何というなぐさめ、感
謝な事だろう。この十字架の事実に立って生きていこう。


2024年03月13日(水)

「・・ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始 めた。そこで民衆は、『神の声だ。人間の声ではない。』と叫び続 けた。」使徒12:21



初代教会が、どんどん宣教に前進していた時に、ヘロデ王が立ちふ
さがった。極悪非道な人物であり、彼は十二使徒の一人ヤコブを迫
害し殺害した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、ヘロデは人
々に取り入るために、次にペテロを殺害しようとした。彼は王であ
り、トップだ、何でも自分の思い通りになると思っていた。しか
し主がそこに関与され、阻止された。

4人1組の兵士、4組の厳重な監視の中、御使いが現われ、鎖が解
かれ連れ出された。ペテロは奇跡をもって救い出され、番兵達を処
刑したヘロデ王は、自分に栄光を帰しているまっただ中で、主に打
たれ、虫にかまれて息絶えた。ヘロデは人々の歓心を買うことに躍
起であった。権力と地位を使い、自分の欲望のまま、思うがままに
振る舞った。

人々から「神の声だ」とほめ上げられ、それに酔いしれ、自分に栄
光を帰した。その結果、高慢のために滅んでしまった。私たちもヘ
ロデから学ぶことができる。主を差し置き、押しのけ、自分が王と
して、心の王座に君臨していないだろうか。それなら欲望のままに
行動してしまう。

ペテロやパウロは人々から崇められ、慕われる時も、「栄光は神
に」の立場を決して崩さなかった。彼らの信仰であった。心の王座
にいるのは、主だろうか、自分だろうか。人の目が気になり、人に
認められたい誘惑が絶えず来る。そんな自分を認め、主のもとへ行
こう。そして、気づく度に御前に明け渡せるよう祈ろう。
------------
多くの恵みや導きに守られているのに、どれだけ主に栄光を帰して
来ただろう。簡単に自分の努力を喜んでしまう。悔い改めたい。こ
の世の賞賛はヘロデのようにすぐに終わる。主に感謝し主に栄光を
帰して歩みたい。


2024年03月12日(火)

「・・神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その 刈り取りもすることになります。」ガラテヤ6:7



創世記によると、主は「種類に従って」植物、草、種のある実を結
ぶ樹を生えさせ、種を蒔いて結実するようにされた。そのため、種
を蒔くと実がなり、蒔いたその結果を刈り取る。御霊のために蒔く
なら、永遠のいのちを刈り取り、肉に蒔くなら、滅びを刈り取るの
は、御言葉の通りだ。例外は無い。

そして主は「種類に従って」実を結ぶよう定められた。蒔いた種の
花が咲き、実がなる。コスモスの種はコスモスの花、かすみ草はか
すみ草が咲く。スミレの種を蒔いて、ひまわりが咲くことは絶対に
ない。「種類に従って」であり、原則だ。では、信仰と不信仰の種
はどうだろう。

信仰の種を蒔くなら、その結果を刈り取る。「神を信じなさい。」
「恐れないで、ただ信じていなさい。」との御言葉を信じているな
ら、信仰の種を蒔き、その通りの結果を刈り取る。「何も思い煩わ
ないで・・願い事を神に知っていただきなさい」の種を蒔くと「そう
すれば、人のすべての考えにまさる神の平安」を刈り取る。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」の種を蒔くと、す
べての必要の満たしを刈り取る。盲人に「そんなことができると信
じるのか」との問いに「そうです。主よ」と主に信頼を向けると
「あなたの信仰のとおりになれ」と言われ、目が開いた。不信仰の
種を蒔けば、その結果を刈り取る。

不信仰の種を蒔いて、信仰の実を刈り取ることはない。「種類に従
って」だ。日々どんな種を蒔いているだろう。信仰が持てないな
ら、自分で頑張らず、まずありのままの心を、主に告げて祈ろう。
主は内側を照らし、修正し、御心へと導いて下さる。
-------------
ただ信じていればと思いながらも、心配でたまらず自分が主の前に
出てあれこれしてしまう。主に怖いですとありのままを祈りたい。
それは信仰だ。信仰の種を蒔こう。主に信仰を向け祈ろう。


2024年03月11日(月)

「『・・鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。』 と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣 いた。」ルカ22:61



私たちも失敗があるだろうか。ペテロは大失敗をしてしまった。主
を否んでしまったのだ。裏切りは大きな罪だ。主に対して取り返し
のつかない事をしてしまった、どんなに後悔しただろう。かつて、
皆が主を捨てても、自分だけは大丈夫と豪語した。自信満々だっ
た。

だがそれは肉の自信であって、自分の力に頼ったものだった。その
自信はもろくも崩れ砕け散った。ペテロは自分の弱さを知らなかっ
たが、主はご存じであった。そして主は、ペテロを今後の教会の指
導者として見据えておられた。そのために、主はペテロを造り変
え、整えるために取り扱われた。もはや自分に頼れないように、主
はペテロの一番の弱点を砕かれた。

サタンのふるいを許されたが、主が、そのまっただ中で守られた。
あなたも失敗しただろうか。ペテロは失敗に号泣した。あなたも失
敗に打ちのめされ、落胆し、もう立ち上がれないと思っただろう
か。主はあなたを御手の中の器として用いるために、その辛い所を
通された。あなたを砕くためであった。

取り扱われたのは、あなたの一番の弱点だろうか。あなたを有用な
器に整えるためであった。砕きは恵みだ。決して自分を誇れないよ
うに、自分に頼らないようにされる。主に拠りすがる者とされるた
めに。失敗をも益として下さる。主のみ頼る者と変えられれる。
-----------
何度も失敗して自分はやっぱり駄目だと思うが、ペテロを守り赦し
愛された主を仰ぐとき、自分は駄目でも主がおられると主に望みを
おいていける。不確かな自分ではなく、主にのみ頼ろう。


2024年03月10日(日)

「イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。 信仰がないのは、どうしたことです。』」マルコ4:40



漁師だった弟子たちは、漁のプロであり、舟の舵取りなど、たやす
い事であった。毎日〃漁に出ているわけで、何の問題も無かった。
湖を渡る時も、自分たちの力で、ゆうに向こう岸に渡れると思って
いた事だろう。しかし、湖の真ん中で嵐に会い、岸に戻る事もでき
ず、あがき、奮闘した。

自力ではどうにもならない状況に直面し、初めて主に助けを求めた。
それまで主の助けを必要とせず、自分たちだけで、間に合ったのだ。
どうにもこうにもならず、自分たちの限界と無力を認めて、「主よ。
助けて下さい」と求めた。すると主は起き上がって、風と湖をしか
りつけられた。

その時、舟が沈没しかけの暴風雨がピタリと止んだ。彼らは嵐に会
って、パニックだった。自分たちの長年の漁師としての経験も、自
負も何の役にも立たなかった。「助けて下さい」の求めで、主は起
き上がり、奇跡をなし、救って下さった。私たちも人生の大嵐に会
う。懸命に舟をこぎ、自分で何とかしようとして、あがきパニック
になる。

様々な悩み問題を自分で解決しようとして、もがいていないだろう
か。「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆる
がない」とあるが、苦難の時は、自分でどうこうするのでなく、ま
ず主に「信頼すること」が答えだ。試練は来るが、その時に、主に
信頼するという道が備えられている。恐れも不安も煩いもありのま
ま告げよう。導きを与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
試練に会った時は、とにかくまずは、動くなと言われる。「やめよ。わたし
こそ神であることを知れ」と。どうしてもバタバタ動き回ってしまい、ますま
す平安が失せる。まず落ち着いて、主を信頼せよと言われる。まず祈れ
と。これが肉は強くなかなか難しい。が、失敗しつつも、まず祈りを覚えよう。


2024年03月09日(土)

「神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、 私たちを練られました・・私たちは、火の中を通り、水の中を通りま した。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」 詩篇 66:10



詩篇記者が、主は、私たちを練られたが、豊かな所へ連れ出され、
と言っている。この世には様々な苦しみがある。経済的苦境、家庭
問題、健康上の恐れ、進路の悩み、又、対人関係で悩む人も多い。
時に被害者になることもあり、いわれのない誹謗中傷に苦しむ事も。

そんな時、「なぜ、私にこんな苦しみが?」と落ち込み、「なぜ?
なぜ?」と辛くてたまらない。そんな時、聖書から「苦しみ」の
意味を見い出せる。まず「罪の結果」としての苦しみがある。ダ
ビデはバテシバとの姦淫とウリヤ殺害の二重の罪を犯し、悔い改
めず、隠ぺいしていた期間、悶々の苦しみを通った。

"1日中うめいて、骨々は疲れ果て、骨髄は夏のひでりでかわきき
った"と。次に、罪とは関係無く、主から「試練」として送られて
来るものがある。主からの訓練だ。"愛する者を懲らしめ"愛ゆえの
鍛錬だ。罪の結果ではない。この時は試練として受け入れる事が、
祝福の秘訣だ。"試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思
いなさい"必ず一段階成長させて下さる。

又、時には理由がわからない苦しみもある。しかし主に無駄は一つ
も無い。耐えられない試練も一つもなく、脱出の道も備えられてい
る。患難は忍耐を生み、忍耐は品性を、品性は希望を生み出す。品
格が造り上げられて行く。今、試練にあるなら、必ず後に「苦しみ
に会ったことは幸せ」と言えるようになる。豊かな所へ連れ出して
下さるので、忍耐を祈って行こう。

・・・・・・・・・・・・
必ず試練は来るが、試練の最中は苦しい。砕かれるので、痛くてたま
らない。火の中、水の中だ。しかし振り返る時、この試練で、あの試
練で、この事、あの事を身を持って教えられ、自分が変えられた。確
実に豊かな所へ連れ出して下さった。


2024年03月08日(金)

「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。 あなたのことばに従ってそれを守ることです」詩篇119:9



悩み、問題にある人が、よく「私、私、私」の状態にあるのが、は
たで見ているとよくわかる。とにかく自分に固執していて、その自
己中心がトラブルの元である事が、第三者にはよくわかる。しかし
自分がその渦中にいると、なかなかわからない。皆は幸せで、自分
は可哀想の自己憐憫、自分に注意を引くための自己主張、自分を認
めて欲しい、自分が評価されたい、とにかく関心が、内に向いてい
て、結局は自分になってしまう。

「どうせ私の事など、誰もわかってくれない」「どうせ〜〜」と屈
折してしまうと、祝福と逆方向へ行ってしまう。これは自己中心
だ。自分に執着し続けると、変わって行けない。肉の性質で、自分
の願望、自分の欲望、自分を喜ばせる事に終始する。主はその中か
ら贖い出して下さった。自己中心にしか生きる事のできない者に、
新しい性質が与えられた。

主に従おうとし、主をお喜ばせしたいと思う心だ。これは以前には
無かったものだ。新しい、御霊に導かれた性質が宿っている。自分
の思いを置いて、主の示される御言葉に一歩従ってみよう。一歩従
う時、次の展開へと導かれる。御言葉を、御霊の導きの方を選択す
る歩みだ。これにより少しづつ〃造り変えられて行く。

「どのように若い人自分の道をきよく保てるか」とあるが、私たち
も皆、霊的には成長途上の若い人だ。主のことばに従う事によっ
て、新しい性質が成長して行く。目の前に示されているみ言葉に、
一歩従ってみよう。
-----------
悩みの中心が自分だろうか。思うようにならない事が原因なら自分
の無力にも気づける。感謝だ。貧しい心をもって主の元に行こう。
主の御言葉で歩める。


2024年03月07日(木)

「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送っ てやせ衰えさせた」詩篇106:15



主は、祈れ、願えと言って下さっている。祈りによって、答えられ
るなら、私たちは喜びに満ちるからと。しかし求めることにおい
て、注意しなければならない。イスラエルの人々は激しい肉の欲望
にかられて、わがままに主に求めた。どうしても、何が何でも欲し
いと、どこまでも自分を通して、せがんで〃求めると、主はその願
うものを、肉の欲望であっても与えられた。

あなたが、どうでもこうでも欲しいと言い張るなら、時として、主
は願ったものを与えられる。しかしながら、それを持っても、魂は
やせ衰えると。激しい欲望にかられて求めて、手には入れたが、心
は決して満たされる事がない。返って心虚しくなる。それほど欲し
いものを得たのに、心の奥は喜びも平安も無く、空虚なのだ。

時に、主は私たちに学びを得させ、教訓を与えるために、私たちに
よくないものであっても、どうしても言い張るなら、与えられる事
がある。そのため、わがままに欲望で求めるのでなく、主の御心に
適ったものを求めるのが一番だ。それこそが自分の思いと違ったも
のであっても、実は自分にとって最善なのだから。

肉の欲望からのものを幾ら得ても、決して心は満たされず、更にや
せ衰えるのは、辛いことだ。私たちの求めを、主のお心に照らし
て、主の喜ばれるものか、主の栄光が現われるものか、よく吟味し
てみよう。自分の思いと主のみ思いが、時に大きく異なる事があ
る。だが従いますの姿勢がある時、主の御心へと必ず導かれる。
----------
魂がやせて空っぽになるなら受け取っても受け取っても満足がな
い。いつも不平を訴えるばかりの荒野の民から学びたい。主はいつ
も最善を備えてくださっている事に心から感謝し、御心を求めよ
う。


2024年03月06日(水)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のた ましいの値うちをはかられる。」箴言 16:2



私たちは、様々な計画を立てる。明日の計画から、生涯の人生プラ
ンまで色々だ。財を築くこと、出世すること、幸せな家庭を築くこ
と、趣味を充実させる事・・財を築く事も、仕事で精一杯努力する事
も、名を上げる事も、全く悪い事ではない。一生懸命、労する事は
良いことだ。大切な事は、それらに突き進ませている、心の内側の
「動機」だ。

なぜ財を蓄えるのか?何のために仕事に邁進するのか?私たちの動
機はとても大切だ。今、立てようとしている計画の動機を、よく探
って頂こう。「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う」が、
「主は人のたましいの値うちをはかられる」。主は動機を見ておら
れる。慈善や、奉仕の計画の動機はどうだろう。自分を喜ばせるた
めだろうか。

自己満足、自己実現、虚栄心、プライド、人からの評価、賞賛のた
めだろうか、それとも主をお喜ばせするためだろうか。御霊に心を
探って頂こう。そして「あなたのしようとすることを主にゆだね
よ」と。一旦握りしめたプランは、固執してしまうだろうか。どう
しても押し通そうとするだろうか。そこに自我はないか。プランと
自我が一つになってしまっている。

又、自分でしようとすると、思い通りにならない時、思い煩い、イ
ラ立ちで平安が失せる。そのプランを「主にゆだねよ」と言われて
いる。まず主に渡すなら、「あなたの計画はゆるがない」。その計
画を主に委ねる時、主が成し遂げて下さる事を見て行く。
------------
自分のプランが絶対だと譲れない時、動機もはっきり見えてくるの
ではないか。間違っているかもしれないと主に明け渡していこう。
柔軟な心で主に委ね、後は平安の中で待ち望みたい。


2024年03月05日(火)

「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と言う。飽くこと を知らないものが、三つある。いや、四つあって『もう十分だ』と 言わない」箴言30:15



「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、愚かで、有害な多
くの欲に陥る」とあるが、金持ちになりたがると、富を幾ら持って
も、決して満足する事がない。幾ら得ても飽くことなく、更に欲す
る。底なしだ。これは富の問題ではなく、「貪欲」という欲望の問
題だ。どれだけ必要が満たされていても、決して満足する事がな
い。

どこまでも富を欲して行く。貪欲の罪だ。蛭の娘がどこまでも、果
てしなく「くれろ、くれろ」と言い、欲望には際限がない。「金持
ちになりたがる」とは、富だけでなく、名誉、地位、人からの賞
賛、野心、人の上に立ちたいとの欲だ。ここに誘惑とわながある
と。絶えず隣人のものを欲しがり、比較しては満たされない心で、
常に欲求不満に陥る。

しかし、主を見上げる時にどうだろう。私たちは何一つ持たずに来
て、何一つ持たずに去る。今、生かされている事が、感謝ではない
だろうか。主は、何も、いっさい思い煩うな、と言われる、主の愛
に囲まれ、必要は必ず備えられ、日々に生きる喜びと平安が与えら
れている。満足は、主からのみ来る。

自分の欲望が満たされ、願いが叶う事が幸せだと思うが、そうでは
ない。決して心は真に満たされず、渇くばかりだ。そうでなく主に
自分を明け渡して行く時に、御霊に支配される。その時、真の心の
満たしを経験する。満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受
ける道だ。
--------------
主のいのちによって与えられた信仰人生、豊かに恵みを備えていて
くださる主を喜んで歩みたい。目の前の物にあれもこれもと反応し
欲の目で見る時には気づきたい。主を喜び歩みたい。


2024年03月04日(月)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇 の世界への支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するも のです」エペソ6:11


サタンは絶えず働いて、私たちの弱い部分を突いて、攻撃して来
る。サムソンもサタンに狙われた。主から力の賜物を与えられたナ
ジル人であったが、サタンがデリラを使い、彼は彼女の誘惑に勝て
なかった。サタンは執ように、私たちにも肉の欲望に働きかける。
少しなら大丈夫と油断してしまう。飲酒やギャンブル、薬物依存症
の人々も、少しなら問題無いと、段々深みにはまって行く。

デリラはペリシテの領主たちに、サムソンの力の秘密を探る事を頼
まれた。サムソンに近づき、直接それを尋ねる。しかし3回もだま
されたデリラは、執ようにサムソンにせがむ。毎日〃「しきりにせ
がみ、責め立てた」ので、サムソンは死ぬほど辛かった。絶対にデ
リラを失いたく無い。せがみ倒されて、ついに髪の毛の秘密を明か
してしまった。

するとその通りに髪をそり落とされ、力が去り、ペリシテに捕まっ
てしまった。「毎日しきりにせがみ」私たちもどうだろう。サタン
から、しきりに攻撃が来ている部分があるだろうか。誰かへの恨
み、憎しみ、赦せない思い、妬みはどうだろう。又、思い煩いや不
安や恐れだろうか。楽しく過ごしている時に、サタンは、その根に
あるものを吹き入れる。

心は暗くなり、同意して行くと平安は失せ、落ち込んで行く。楽し
い時が楽しくなくなり、心重く、喜びの時を奪われてしまう。サタ
ンは弱い箇所を知っていて、的確に突いて来る。日常生活で、サタ
ンが「しきりにせがみ」、しきりに来る部分があるなら、それを主
のもとに持って行こう。主はその所を取り扱い、助けて、平安へと
導いて下さる。
-------------
サタンがしきりに持ってくる憎む思い、思い煩う心配事を主の前に
認めていきたい。問題のないふりをしていると、サタンに警戒も出
来ない。この思いはサタンからかも知れないと吟味し主に祈ろう。


2024年03月03日(日)

「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。 それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝 しよう。」詩篇 28:7



ある人が、経済的必要のため仕事を探すが、なかなか無い中、尚も
祈り続けていた。そんな中で、仕事が見つかり感謝した。主の答え
に喜び、職に就いた。だが、配属部署を示され、その仕事は自分に
は難しいと思ったのだが、やはり非常に困難だった。うまく行かず
に帰宅しては泣いた。何度も涙し、悩んだ。

このまま続けても、自分に向いていないなら、辛いばかりではない
か。今すぐにでも辞めたい。それらを祈りに持って行き、苦しい思
いを告げて祈った。その中で、これは、祈って、主から与えられた
仕事であった事に思いが至った。辛いけれど、主からの場であり、
辞める事は御心でない事がわかった。

そして御心に従うなら、すべてがスムーズに行くはずと思っていた。
しかしそうでなく、御心に従う中で、試練がある事も教えられた。
ペテロたちは、主に「向こう岸に渡ろう」と言われ、御心に従い、
舟を向けた中で、大嵐に会った。もし従わなかったなら、嵐に会わ
なかった。自分の力でなく、主が力であり、主に拠り頼めと語られ
た。

今の場に、主が共におられる確信が来て、心が変えられ明るくなっ
た。日々の仕事の一つ〃を、具体的に祈り、ひたすらすがった。す
ると奇跡が起きて、次々と成果が与えられ、驚いた。周囲も驚き、
素質があったからだとほめられるが、いっさい自分ではない、主か
らのものと証しをして行った。今、悩みがあるなら、とにかくまず
祈りに持って行こう。

・・・・・・・・・・・・・
常に共におられ、ありのまま愛し、慈しみ、心配していて下さる、
このお方の目が、絶えず注がれている。試練を与え、更に主に近
づけて下さる。振り返って試みは非常に苦しく痛いが、必ず更に
主を知るようにと導いて下さった


2024年03月02日(土)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて ください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこ ころのようになさってください」マタイ26:39


主が、御父に祈られた祈りを通して、私たちも学ばされる。主は、
率直な祈りをされた。御心なら、この杯=十字架を去らせて欲し
いと。最初から「わたしの願いではなく、みこころのとおりに」と
優等生の祈りをされたのではなく、この十字架を回避させて欲しい
と願われた。

人々の救いに関しても、十字架でなく、主の何か別のみ思い、方法
があったのかも知れない。主が、去らせて欲しいと祈られた事実は
厳粛だ。そう祈ってよいのであり、祈りは正直で、率直で、真実で
あり、本音である事が大切と教えられる。建前の祈りを幾ら祈って
も通じていない。

自分の本音を打ち明け、交わることが大切だ。ある人が、切実な願
い事を祈っていた。しかし答えられるのかと、不安と恐れがどうに
もならない。御心なら必ず叶えられると、頭では思うのだが、叶え
られると信じる事ができない。信仰が持てない。平安が無い。それ
で、ある時、本心を告げた。幾ら祈っても不安と思い煩いが消えず、
信じる事ができないと、率直にありのままの気持ちを。

すると心の内が照らされ、御心のままには建前で、口先で、どうあ
っても自分の願いを遂げたい、が本心で、その一心だった。それを
示され、御前に認めて行った時に、明け渡せた。自分の思い通りで
なくともOKです、御心のままにと。その時、初めて平安が臨み、主
の最善を信じる事ができた。そこにある主の愛も信じれて、平安と
喜びが満ちた。

・・・・・・・・・・・・・・
いつもありのままを祈るように、心探り、導いて下さっている。
自分で何とかしようとせず、まず、信じられない、不安で仕方が
ない、思い煩ってしまうその思いを告げて行くと、平安へと変え
られて行くから不思議だ、


2024年03月01日(金)

「すべての懲らしめは・・かえって悲しく思われるものですが・・これに よって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11

1

職場、学校、近隣・・難しい相手がいるだろうか。時に対人関係に悩
まされ、悶々状態に陥る。今、目の前に悩みの対人関係があるだろ
うか。状況に振り回されると、アップダウンを繰り返す事になる。
信仰の目で、この問題を受け止められるよう祈ろう。目の前に置か
れた相手は、主の主権のもと、御手の中にあり、主が何かを教えた
いとのお心だ。

これを逃げて、状況を変えても、又、次の悩みの相手が現れる。自
分は変わっていないので、同じ事を繰り返す。受け止めて、取り扱
いにあずかって行く時、次に同じ状況が来た時に、乗り越えて行け
る。ある人が、言われ無き中傷、悪口を言いふらす相手に悩まされ
た。全くの事実無根だった。しかし知らない人々は言われる事を信
じるので、ひどく傷ついた。名誉毀損だ。

聞いた人には話せばわかってもらえるのだが、もう追いつかない
し、いちいち説明するのにも疲れ果てた。傷つくし辛くて、「なぜ
こんなひどい事に?」と涙ながらに祈った。その中で、すべてに主
のご計画がある事を信じ、この事を主に明け渡すよう示され、主に
ゆだねた。すると相手の家族と話すよう示され、家族に相談の形で
話す時を持った。

すると家族は気づかなかったと謝られ、誠実な対応ですぐに動か
れ、その結果、相手が精神的病にある事が判明し、入院治療になっ
た。非常に苦しい試練であったが、信頼を必ず受け止めて下さる主
を、新しく知る感謝と喜びの時とされた。
-----------
全ての事は主から来ていると受け取りたい。辛い困難も何か大きな
意味があるはずだ。相手はどうであれ、主から目を離さないで折々
の導きを受け取ろう。