2025年05月09日(金) 「あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っ ている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる」 申命記7:20
「あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っ ている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる」 申命記7:20
主は、国々を「徐々に」追い払うと言われた。すぐに滅ぼすことは できないと。野の獣が増して襲われることのないようにと。主は、 私たちの生まれつきの根深く培われた性質や、習慣を「徐々に」変 えて行って下さると。今すぐに、自分が変わっていなくても、常に、 私たちには希望がある。主が「徐々に」キリストのかたちへと造り 変えて行って下さる。 ある人が、祈って仕事に就いたが、なかなかうまく出来なかった。 どうしてもミスをしてしまう。出来ない事に落ち込んでしまう。先 輩に相談した。すると、すぐには無理で、時間がかかると。時間を かけながら、少しづつ出来るようになれば良いと。主が「徐々に」 と言われた言葉と合致し、平安にされた。 ある人は、やはり同様に、仕事が難しく自分に合ってないのかと、 悩みながらの日々だった。なかなか成果も出ず、悶々の中、祈りに 祈っていた。主に拠りすがりついた。祈りの中で、「徐々に」と教 えられ、少しづつ技量を身につけさせて下さり、必ず出来るように して下さると信じれた。すると結果が出るようになった。 そして、つまずき無く、すべてがスムーズに行っていたら、こんな にも祈り、主に拠りすがることは無かったと感謝した。「野の獣が 増して襲われることのないように」自分が高慢になることから守ら れるためであることも知った。今すぐ変われず、今すぐ出来なくて も、主が必ず「徐々に」成し遂げて下さる。 ------------- 失敗ばかりで、大きなことは何も出来ないが、一つの導きに従い、 御霊の結実をみたなら、自分の中に大きな喜びが生まれる。その 喜びは主が与えてくれる信仰生活の糧だ。大切に味わい歩める。
2025年05月08日(木) 「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう 年寄りですし、妻も年をとっております」ルカ1:18
「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう 年寄りですし、妻も年をとっております」ルカ1:18
夫のザカリヤは祭司であり、妻エリサベツもアロンの家系で、共に 主に従う人であった。だが、大きな悩みがあり、エリサベツは不妊 で、夫婦共に老齢であった。長い間、夫婦で切に祈って来たことだ ろう。突然、主の使いが現われ「あなたの願いが聞かれた」と告げ る。妻に、男の子が与えられると。そして、その子はイスラエルの 人々を神に立ち返らせ、メシヤのために道を備えると。 突如の驚くべき事で、大きな喜びだ。子どもが与えられ、更に、長 く待ち望んだメシヤがもうすぐ来られるとは。しかし、ザカリヤは、 信じる事ができない。状況的に、常識的には考えられない、不可能 な事であり、何によって信じれるのかと、証拠を求めた。すると彼 は、不信仰のため口がきけなくなった。私たちも主の言葉と状況が 相反する時に、信じられないだろうか。 だが、「不可能」の土壌だからこそ、奇跡が起きる。奇跡のために は、「不可能」でなくてはならない。主はザカリヤをおしにされた。 彼はその期間、主を仰ぎ、主の言葉を思い、握りしめ、反すうした 事だろう。不信仰が信仰へと導かれ、子どもが生まれた時には、主 の命令通り「ヨハネ」と名付けるように伝えた。 その途端に「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるように」なっ た。主に従ったからであった。彼は「神をほめたたえた」。目に見 える所と御言葉が相反する時には、主の言葉に立とう。難しければ、 そうできるよう祈ろう。御霊は助けて下さる。「主によって語られ たことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」 。 --------------- 不可能が、奇跡のための土壌とは何と感謝なことだろう。必ず祝福 に代えられる。目の前のことは強い影響があるが、主の御約束を握 り、必ず主のご栄光を拝することを信じ待ち望みたい。
2025年05月07日(水) 「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
「というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じること は、神のみこころだからです」Tペテロ2:15
信仰者である私たちは異邦人の中で生きている。主は、「異邦人の 中にあって、立派に振るまうように」と。ノンクリスチャンは、私 たちの生き方を見ていないようで、しっかり見て、観察している。 主は「立派に振る舞え」と言われる。信仰は、常識を超える事はあ るが、決して主は非常識なお方ではない。愛は礼儀に反する事をし ない。信仰者として法律を、社会のマナーを守って行く必要がある。 人々は聖書は読まないが、クリスチャンという人がどんな生き方を するのか、その生き様を通して、聖書を知る。クリスチャンは「歩 く聖書」と言われる。「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人 々が、渇望しているのが、「愛」「喜び」「平安」ではないだろう か。人が求めるものは愛であり、誰しも愛し、愛されて生きたい。 それが得られないので、他のもので心を満たそうとする。 又、外側からの刺激による喜びしか、世にはない。何か嬉しい事、 楽しい事があるから喜べる。しかし、私たちの喜びは、外側に依存 していない。内側から湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れ、不安、 思い煩いの中にいる世の人々にとって、平安は何と魅力的だろう。 これこそが欲しいものだ。主を第一として、ゆだねて生きる時、こ の平安が与えられる。 又、厳しい試練にあっても、世のものでない「主の平安」を経験す る。それらは内側から湧く。御霊の愛、喜び、平安がある時、私た ちに弱さや失敗はあっても、何かが違うと人々に思わしめる。振る 舞いを見て、神を誉め讃えるようになると。辛い事もあるが、従っ て行こう。報いて下さる。 --------------- すぐに外からの刺激に右往左往してしまうが、主を知り、主の光の 中に招き入れられている。混じりけのない御言葉を求め、従い、変 えられて行きたい。良き証しとされる。
2025年05月06日(火) 「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」 マタイ15:23
「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」 マタイ15:23
カナン人女性が、悪霊につかれた娘のいやしを求めて、主に叫んだ。 「主よ。ダビデの子よ〜」と。しかし主は無言であった。余りにも 叫び続ける女性に、弟子たち皆が閉口し、何とかするよう、主に願 ったほどだ。そんな必死な女性に、主は「イスラエル以外には遣わ されていない」と冷淡に見える対応をされた。女性は異邦人であり 「ダビデの子よ」と言う立場にはないからだ。 実は、主は、彼女を正しい道筋へと導いておられた。女性は決して 引き下がらず、「ダビデの子」をはずし、尚もひれ伏し助けを求め た。次に主は「子どもたちのパンを小犬にやれない」と、拒否され た。しかし実際は、彼女の信仰を試しておられた。それに対し彼女 の反応は「主よ。その通りです」と何と受け入れ、認めたのだ。 怒りや突っぱりや、ひねくれず、不信仰にもならず、諦める事もせ ず、自分は異邦人であり、資格のない事実を、まっすぐに認めた。 彼女のへりくだりだった。そして「小犬でも食卓から落ちるパンく ずはいただく」と。彼女は与えられる資格の無い者だが、主はあわ れみのお方と心底信じた。必ずあわれんで下さると。だから絶対に 諦めず、尚もすがりついて行けた。 主は、拒否されても〃、尚も信じ求める「信仰」を見られた。その 信仰を立派だと賞賛され「願い通りに」と、娘はいやされた。「そ の通りです」と認めるへりくだり、又、まっすぐにどこまでも、主 のあわれみを信じる「信仰」を教えられる。主は、私たちをも、あ われんでいて下さる。どんな状況下でも、あわれみを求める事がで きる。 --------------- 彼女の謙遜で力強い信仰に教えられる。本当に主のあわれみを求め る他に術のない者だ。へりくだり、主の恵みを受け取りたい。 導きを信じて求めていこう。
2025年05月05日(月) 「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずああたの兄弟と仲直りしなさい」マタイ5:24
「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、 まずああたの兄弟と仲直りしなさい」マタイ5:24
ある人が友人と喋っている時に、ひどい言葉が出てしまい、友人を 傷つけてしまった。悪気が無かったというものではなく、醜い自我 から出た事であり、はっきり自分の罪だった。御霊に罪を示され、 御前に悔い改めた。御霊は、友人にも謝罪するよう言われた。しか し自分の自己中による恥ずかしい失敗であり、愚かさであり、プラ イドがひどく傷つく事で、したくない、回避したい事であった。 しかし、これ又、更に醜い自我であり、肉そのものだった。このま までは苦しく、平安も喜びも無い。ついに示しに従い、傷つけた相 手、嫌な思いをさせた周囲の人々にも謝る決心をした。赦してもら えなくても当然だった。だが、勇気を出して詫びた時に、相手は快 く赦してくれた。赦される事の嬉しさ、飛び上がるばかりの喜びを 経験した。 平安が溢れ、心が満ちた。自己中により、人を傷つけ、辛い経験だ ったが、それをも益とし、大きな喜びを下さった。「兄弟に恨まれ ている」事を語っている。何か争い、行き違いがあり、相手に恨ま れているなら、まず「自分の方から」謝罪するようにと。相手の立 場に立ち、考える態度だ。 争いになると自分を正当化したい。相手から謝るならまだしも、こ ちらからなど有り得ないと思う。しかし相手がわだかまっているよ うなら、こちらから行って解決せよと。それは、大切な礼拝を後回 しにしてでも、まず和解を優先と。今、和解すべき相手が浮かぶな ら、祈って行こう。主が力強く導いて下さる。 --------------- 強固な自我がしっかりと自分を守っている。そこを主は礼拝を後に しても和解せよと言われる。自分の思いではなく、主に従えるよう 祈ろう。主が導いてくださる。
2025年05月04日(日) 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての 罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいる なら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての 罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
よく「他人と過去は変えられない」と言われるが、日常生活の中で、 目の前の事でなく、過去を思い、くよくよする事があるだろうか。 普段は目の前の生活に追われ、忘れているが、何かがあると、 過去のあの失敗、この過失、その傷が思い出されるだろうか。 フラッシュバックし、心が暗く、重苦しくなり、落ち込むだろうか。 すでに主の御前に悔い改めたその事は、主の十字架の血潮に よって、完全に赦されている。「御子イエスの血はすべての罪か ら私たちをきよめる」にかかかわらず、又、ほじくり返しては悶 々とする。あの判断ミス、この時の選択の失敗、もしあの時、こ の時、別の選択をしていたらと。又、逃してしまったチャンスに くよくよする。 あの時・・、この時・・こうしていたら、今、自分の人生は全く違っ た結果になっていたのでは・・堂々巡りしては後悔する。しかし、 心の奥にとがめや後悔、不安がある時、前進が出来ない。足を 引っ張られ、感謝と喜びが消されてしまう。過去のその所に主を 認めよう。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出 すことはしない」と主は宣言されている。 罪は完全に赦され、主が思い出さないと。全き赦しを受け止め、 感謝しよう。くよくよの後悔を、きっぱり赦しの感謝に変えよう。 それが主の喜ばれることだ。主の摂理と御心を認め、信仰もっ て受け入れよう。受け入れた時、後ろのものを忘れ、前に向か って、ひたむきに前進して行ける。頭の罪の赦しなら、しっかりと 今一度受け止められるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」「罪を二度と思 い出さない」と主は言われる。自分の記憶に罪はあるが、悔い 改めた罪は、主には真っ白で、二度と思い出されない。主の 視点に絶えず立てるよう祈ろう。
2025年05月03日(土) 「彼は・・『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った』と言 った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た」ヨハネ1:41
「彼は・・『私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った』と言 った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た」ヨハネ1:41
ある人が証しした。若くして結婚し海外転勤となり、見知らぬ地に 住んだ時、隣家の夫妻が大変親切にてくれた。何もわからず不 安の中で、様々必要な店や、諸事務的な対応、近所の様子や 情報を教えくれた。常に、快く対応してくれた。その夫妻がクリス チャンで、よくお茶や食事に招いてくれた。教会で特別集会があ り、誘われると、行きたいと思い夫婦で出席した。 その日、目を閉じた祈りの中「信じたい人は手を上げて下さい」の 招きに、夫婦共に手を上げていた。集会後に知り、双方で驚いた。 隣家の夫妻の愛情に、心が耕されていた。別の人も同じようだっ た。引っ越し先で、隣家のクリスチャン夫妻の親切を受けて、様々 助けてもらい、大変有難かった。教会に誘われた時に、自分は無 宗教と思っていたので、普通なら行かないが、親切の恩義があり、 お返しのつもりで行った。 その日、御言葉はよくわからなかった。しかし教会の人々はやさし く、隣家はずっと温かく接してくれて、聖書はわからないが、嫌で は無いので、続けて通っていた。わからないまま聞いていた、ある 時、突然心に御言葉がぐいぐい入り、罪が示され、悔い改めに 導かれた。主を信じ心に喜びが満ちた。 私たちは、人々を主のもとに連れて行くことができる。主に喜ばれ る、尊い働きだ。愛の行ないも、そのために用いて下さる。誰かを、 主のもとに連れて行けるよう、又、主からの機会を捕らえて、主に 喜ばれる事を行なって行けるよう、まず祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 知人に誘われて、何気なく教会に行ったが、御言葉にとらえられ、 救われたとの証しを、時折耳にする。求めて〃辿りつく人やら様々 だ。聞いたことの無い方を信じることができない。伝えたい人の 名前を挙げて祈ることから始めよう。
2025年05月02日(金) 「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動か ずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ・・恐れてはなら ない。気落ちしてはならない」U歴代20:17
「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動か ずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ・・恐れてはなら ない。気落ちしてはならない」U歴代20:17
ユダ王国がアモン、モアブ、セイルの大軍に攻められ、絶体絶命の 緊急事態となった。ヨシャパテ王は、主を求めて全国に断食を布告 し、民も主を求めた。この大軍勢に当たる力は、自分たちには無い と告白し、主に目を注ぐのみだと。その時、主の霊によりヤハジエ ルが告げた。 「大軍に恐れるな、気落ちするな、この戦いは神の戦い、主が共に いる。あす、彼らに向かって出陣せよ」と。王はその言葉を受け、 民に、主を信じ前進するよう励ました。その時に、賛美隊が軍の先 頭に立ち「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美の声を 上げた。そして戦う前に、すでに得たりと感謝した。 すると主は伏兵により、攻めて来た敵の大軍を襲わせたので、彼ら は打ち負かされた。敵の死体が野に転がり、逃れた者は一人もいな かった。主の奇跡により、大勝利した。出陣の際には、見えるとこ ろは、敵はおびただしい大軍だ。100%勝ち目はない。敗北が見え ていて、恐怖でおののいてしまいそうだ。 だが、見えるとことでなく、主を信じ、賛美の声を上げた時に、実 際に奇跡が起きた。「地のすべての王国が、神がイスラエルの敵と 戦われたと・・聞いた時、神の恐れが彼らの上に臨んだ」。今、困 な問題があるだろうか。それは主の戦いで、主が成し遂げて下さる。 主を信じ感謝を献げ、主の示しに従おう。主は伏兵を備えて、勝利 を下さる。見える所と主の言葉と、どちらに立つだろうか。 --------------- 困難に遭遇するとき、祈り助けを求める以外に何ができるだろう。 困難がすべて感謝に変えられることを信じ、主の御言葉に立とう。 一歩踏み出す前に、主が働かれている。
2025年05月01日(木) 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく 者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方 であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく 者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方 であることとを、信じなければならないのです」ヘブル11:6
ある人が、まとまった費用が必要になり、すぐ返せるからと、よく 考えもせずに、軽い気持ちで金融機関から借金をした。ところが大 きな利息になり、又、諸事情も重なり、返済できず大変な事態にな った。とうとう自分ではどうにも出来なくなり、恥ずかしくて誰に も言えなかったが、牧師に告白し、祈りもせず軽はずみであった事 を悔い改め、一緒に祈ってもらった。 主は祈りに答え、奇跡的に必要を備えて下さり、無事に完済できた。 その事を通して、様々教えられた。すぐに金融機関から借金をせず に、まず祈るべきこと。主は必ず必要を与え、又なすべき事、導き を与えて下さったであろうこと。 「神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あな たがたの必要をすべて満たしてくださいます」の言葉を、頭ではよ く知っているが、自分は信じていない事を思い知らされた。 主が与えて下さることを、信じられないから、自分が動き回り、自 分の思い、判断で行動したこと。主を信頼する事ができない、不信 仰な自分の姿を見せられた。 非常に手痛い、恥ずかしい失敗であったが、主は益として下さった。 この取り扱いを通して、主のあわみによる奇跡を経験して、どんな 状況であれ、祈るなら、主に頼るなら、助けて下さると、今は、信 じることができるようにされた。大きな一歩前進であった。主は、 私たちの内側を照らし、成長へと、手を取って導いて下さる。 --------------- 自力でできる事はまずやってしまおうと動きがちだが、大きな問題 でなくても、日々、祈り、小さな思い煩いもその度に主に渡してい きたい。主に近づき信仰をささげていこう。