2025年10月21日(火) 「あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを 信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現しま す」ルカ1:20
「あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを 信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現しま す」ルカ1:20
夫のザカリヤは祭司で、妻エリサベツもアロンの家系で、共に神に 従う人たちであった。しかし夫妻には、大きな悩みがあった。エリ サベツは不妊で、夫婦共に老齢だった。長い間、祈りに祈って来た 事だろう。そんな時、突然、主の使いが現われ「あなたの願いが聞 かれた」と告げる。妻に、男児が与えられ、その子は、イスラエル の人々を神に返らせ、メシヤのために道を備えると。 何と驚くべき事だろう。待ちに待った大きな喜びだ。自分たちに子 どもが与えられ、且つ、長く待ち望んだメシヤが来られると。だが、 ザカリヤは信じる事ができない。状況を見るなら不可能であり、何 によって信じれるのかと証拠を求めた。すると、彼は口がきけなく なった。私たちも、神の言葉と状況が相反する時に、信じられない だろうか。 だが奇跡は、常に「不可能」の土壌で起きる。不可能でなくてはな らない。だからこその奇跡だ。主はザカリヤをおしにされた。彼は その期間、主を見上げ、主と交わり、語られた御言葉を思い、考え、 握りしめた事だろう。不信仰が信仰へと変えられて行き、男子誕生 の時には、主の示し通り「ヨハネ」と名付けるように伝えた。その 途端に「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるように」なった。 主に従ったゆえだった。そして彼は「神をほめたたえた」。主がザ カリヤを助け、彼の上にもみわざをされた。「主によって語られた ことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」。 主は、自らの不信仰を認め、主に求める者を必ず導かれる。信仰を 与えて下さり、不信仰を信仰へと導いて下さる。 -------------- とても信じられない、何によって信じられるのかと、まず正直な思 いを主に問いたい。不信仰のままでもいつも主の近くにいよう。与 えられた御言葉に立って、主のお答えを悟れるように祈ろう。
2025年10月20日(月) 「ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。 うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦った りするのです」ヤコブ4:2
「ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。 うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦った りするのです」ヤコブ4:2
人は「羨んでも得られないと争う」とある。欲求が満たされないと、 争うと。問題行動の裏には、不満がある。平安な心が、争いを起こ す事は無い。「妬みや敵対心のあるところには秩序の乱れや、邪悪 な行いがある」と。妬みや憎しみは、相手を攻撃して行く。欲しい ものを得るためには、人殺しまですると。 報道で目にする犯罪や事件も、個人的な対人関係で起きる事も、そ の通りだ。邪悪な行ないがある時、幾ら自分を正当化しても、その 奥には、自分が欲しいものを持つ相手への、妬みがあると。主は、 その時には、自分の力で手に入れるのでなく、主に拠り頼み、祈れ と。「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないか ら」だと。肉の思いと力で、得ようとする時に、そこに神も、祈り も無い。 まず、主に向かう祈りが大切だ。主に求めよと。そして、祈っても 与えられない時は、心の動機を探って頂くようにと。その願いの動 機は何だろう。自分の利得や評判のためか、自分が信仰的だと言わ れる評価を得たい、自分の栄光のためだろうか。未信者の夫が、又、 夫が、救われて欲しい事の動機は、「自分が」楽になれるから、だ ったりするだろうか。 心の底にあるものを、御霊は探り出し、軌道修正して下さる。そし て「すべての良い贈り物は、上から来る」、自分で得るのでなく、 上から与えて下さる。そして主にのみ期待し、望みを置いて行く時 に、心が平安に守られるので、人を羨む事からも守られる。 -------------- 手に入らないと、もっと欲しくなる。羨み欲しがる動機が肉にある から祈れないのではないか。祈らず簡単に得ようとする心を悔い改 めたい。主に祈り明け渡していこう。
2025年10月19日(日) 「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられ ても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな りました」Tペテロ2:22
「キリストは・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられ ても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな りました」Tペテロ2:22
私たち信仰者は「異邦人の中にあって」生きている。そして 人々は、私たちの生き方を見ていないようで、しっかり見て いて、観察している。主は「立派に振る舞え」と言われる。 信仰は常識を超える事はあるが、決して非常識ではない。 「愛は、礼儀に反する事をせず」と。 信仰者として、法律を、社会のマナーを守って行く。人々は、聖 書は読まないが、クリスチャンという人々がどんな生き方をす るのか、その生き様を通して、聖書を知る。信仰者は、歩く聖 書だ。「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人々が、喉から 手が出るほど欲しいものが、「愛、喜び、平安」だ。 「人の望む ものは、人の変わらぬ愛である」とある。 誰しも愛し、愛されて生きたい。それが得られないので、他の もので満たそうとする。又、外側からの刺激による喜びしか、 この世にはない。何か嬉しい事、楽しい事が、あるから喜べる。 しかし、私たちの喜びは、外側の事柄に依存しない。内側から 湧き上がる御霊の喜びだ。又、恐れ、思い煩いにある、世の 人々にとって、平安は何と魅力的だろう。 誰しも欲しい。主に委ねて、主を第一として生きる時に、この平 安に満たされる。それらは内側から溢れる。御霊の実である愛、 喜び、平安がある時に、弱さや失敗はあっても、何かが違うと 人々に思わしめる。私たちの振る舞いを見て、おとずれの日に、 神を誉め称えるようになると。何という報いだろう。すべては自 分の力でなく、御霊による事なので、自分を明け渡して行く時に みわざがなされる。祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ この世では、自分の欲望、願望が叶う時に、幸せになり、満たさ れると思う。しかし、肉の願望は一瞬の快楽だけで、決して満た されない。主の願いを第一にする時に、自分が満たされる。 喜びがある時、それが証しとされる。
2025年10月18日(土) 「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。息子、 娘を生み・・そこで増えよ。減ってはならない」エレミヤ29:5
「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。息子、 娘を生み・・そこで増えよ。減ってはならない」エレミヤ29:5
エレミヤの時代に、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされた。 そして、捕虜として連行された。そのアッシリヤはバビロン により滅ぼされ、バビロンは侵攻し、とうとうユダも降伏、バ ビロン捕囚となった。当時のユダは、偶像礼拝に走り、堕落 していた。 預言者たちは、人々の耳ざわりの良い、心地良い言葉、人 々が欲しい言葉を語り、平安が無いのに「平安、平安」と言 った。だがエレミヤは、真っ直ぐに神からの、痛い言葉を語 った。そのため苦しめられた。敵国に捕囚となる真っ暗な中 で、エレミヤは、それは一見「災い」と見えるが、「平安と将来 と希望」のためのものと。 即、解放にはならないので、その地で腰をすえて、地道に生 活せよと。そして敵である「その町の繁栄を求め、そのため に主に祈れ」、それは自分達の繁栄になると。私たちも苦し い時、一番欲しい言葉が「即、問題解決」「即、解放」だ。しか し口先だけの励ましは、更に傷を深める。私たちも足かせの 苦しい現状を受け入れる時、その中で主の支えに、恵みに より生きて行けるという事だ。 現実を受け入れる事が大切だ。いつまでも苦しみのままでな く、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状を受け 入れて神に従って行こう。そこに「平安」が約束されている。 そして神の時に、かせから解放して下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 厳しい試練を、くびきを、受け入れる時、たましいに安らぎが きて、その荷は負いやすく、軽いと。しかし受け入れられない ので、平安無く、荷は重く、辛い。自分ではどうにも出来ない ので、祈ろう。主が受け入れられるよう、助けて下さる。
2025年10月17日(金) 「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。 あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。 あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17
ある人が、会話の中で、つい攻撃的な言葉が出てしまい、友人を傷 つけてしまった。周囲にも嫌な思いをさせた。悪気は無かったとい うものではなく、醜い自我から出た事であり、はっきり自分の罪だ った。御霊により罪を示され、悔い改めることができた。友人にも 謝罪すべきであった。 しかし自らの愚かさであり、謝る事は恥ずかしく、肉はちゅうちょ した。その時に、尚も罪深い自分を見せられた。しかし、このまま では平安も喜びも無く、心が辛く苦しい。祈りの内に、とうとう傷 つけた相手、嫌な思いをさせた一人一人に謝る決心をした。赦して もらえなくても、当然のことだ。だが勇気を出して詫びた時に、相 手は快く赦してくれ、他の人々も同様だった。 その時、平安に満たされ、心すっきりし晴れやかになり、喜びを経 験した。主が喜ばれる言葉は「ごめんなさい」だ。その罪を赦し、 悔いた心をさげすまれない。ダビデも、姦淫と殺人という重罪を犯 し、隠ぺいしていた。トップであり、その権力ゆえ誰も何も言えな い。そこに、主は預言者ナタンを遣わされた。ナタンは例えを用い ながら、ダビデの罪を真っすぐに指摘した。 ウリヤを殺したダビデは、ナタンも同様にできた。しかしその時、 ダビデは逃げ隠れせず、罪を認め悔い改めた。「私は主に対して罪 を犯した」と。その瞬間、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてく ださった」と。ダビデの罪は赦された。今、もし平安が無く、心悶 々状態なら、主と交わろう。罪があれば、悔い改めよう。赦しを受 けるので、心がすっきりし、平安にされる。 -------------- あれこれと言い訳が湧いてきて、素直に御心に従えない。かたくな な自我を認めさせられる。苦しいが、主はその時を待っていてくだ さる。主を仰ぎ、罪を悔い改め、赦しを受け取ろう。
2025年10月16日(木) 「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、 ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、 ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22
信仰の成長のためには、主の御声を聞く事がどうしても必要で、大 切だ。まず聞かなくては、何も始まらない。「信仰は聞くことから 始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」とある ように。まず御言葉を聞く事から信仰が始まると。そしてその聞き 方が重要だ。種蒔きのたとえにあるように、道ばたの固い土地だと、 つまり自分の事として聞かなければ、他人事、傍観者的態度になっ てしまう。 地が固いので種をはじいてしまい、心に植わらない。種が入らない なら、実を結ぶ事は、全く望めない、素直な心で、祈りをもって 「主よ、お語り下さい。しもべ聞きます」のへりくだった態度で聞 く時に、主の御声が御霊によって、心に響いて来る。聞いた御言葉 を、そのままにしない事が大事だ。ないがしろにしていないだろう か。示された事に従う時に、初めてみわざを見る。 「さとしの方へ足を向けた」「急いで、ためらわずに、仰せを守っ た」「みことばを実行する人になれ」「聞くだけの者であってはな らない」それは自分を欺く事になる。どうすれば実行出来るのだろ う。御言葉を一心に見つめて離れないなら、実行する人になり、そ の行ないによって祝福されると。 いざ従おうとすると、悪魔の妨害が来る。よく経験する。つぶやき や「本当に語られたのか」「大丈夫なのか」疑いがやって来る。 悪魔の妨害をわきまえて、祈りにより、御霊の助けを受け、一歩踏 み出そう。今、従うべき事が導かれているだろうか。 ---------- いざ従おうとする時に、出来ない事を経験する。従おうとしないな ら、それもわからない。出来る、出来ないよりも、出来るようにと 祈りたい。御言葉に誠実に向き合おう。
2025年10月15日(水) 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」 詩篇119:105
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」 詩篇119:105
こんな話を聞いただろうか。ロバを連れた親子がいた。通行人「せ っかくロバを連れているのに、誰も乗らないとは」。父親は、確か に愚かだと思い、息子を乗せた。すると次の通行人「何と親不孝な 息子だ。自分がロバに乗り、父親を歩かせるとは」。言われた息子 は降り、父親をロバに乗せた。すると別の通行人「何てひどい父親 だ。自分が乗って、息子を歩かせるとは」。 そこで親子でロバに乗った。今度は「二人も乗ってひどい。ロバが かわいそう」親子は、もうどうして良いかわからなくなり、二人で ロバをかついだ。「人の語る言葉ばに、いちいち心を留めてはなら ない」とあるが、他人の目を気にして生きると、どこに向かうか、わ からない。あれこれ聞いては迷い、羅針盤を失った船のようだ。 私たちの土台は御言葉だ。人の言葉、世の言葉ではない。御言葉と 人の言葉と、どちらが基盤になり、どちらに聞いているのだろう。 どの言葉を聞いているか、御霊に心を探って頂こう。「キリストの 言葉を、あなたがたの内に豊かに住まわせ・・感謝に溢れて心から神 に向かって歌い」「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのこ とばを心にたくわえました」御言葉は力だ。 主に聞き、御言葉を心にとどめる時、感謝と賛美が湧く。人や世の 言葉に煩わされ、振り回される事から守られる。又、自分が発する 言葉にも注意しよう。人に恵みではなく、害を与えていないだろう か。言葉が御霊に導かれる時に、必ず豊かに実を結んで行く。 ------------ 人の言葉の影響は思っているよりも強い。振り回されないように、 御言葉に立ちたい。主の御言葉が与えられ、従う道があり、主が それを助けてくださるとは何と感謝だろう。御霊に導かれて歩も う。
2025年10月14日(火) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足 させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊 に逆らい、御霊は肉に逆らうからです・・」ガラテヤ5:16
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足 させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊 に逆らい、御霊は肉に逆らうからです・・」ガラテヤ5:16
信仰生活でどうだろう。なかなか自分が、変えられて行かないと 感じるだろうか。私たちは主を信じた時に、新しい性質が与えら れる。その性質は主を喜び、主の御心を行なおうとする。しかし、 同時に古い性質もそのままあって、それは罪の性質だ。自己中心 で、行動する時の動機は自分の損得だ。利得にならない事に関わ りたくない。 新しい性質は、主の御心が第一で、自分の損になっても、御心に歩 もうとする。自分が変わらないと感じるのは、日常生活で、この古 い性質に従ってしまう事が大きい。これが自我であり、この自我が 砕かれないなら、長いクリスチャンでも、自分中心に歩んでしまう。 自分の肉の思いが第一で、自分の思い通りに事を運んで行く。 そのため主が関与され、様々な事態にそうぐうさせて下さる。職場 で、学校で、近隣で、難しい対人関係に出くわす。なぜ、この相手 がいるのか。しかし紛れもなく主が、目の前にその相手を置かれて いる。又、対処の難しい問題を、目の前に置かれる。どうやっても、 うまく対処出来ない。相手が悪い、状況が悪いと思いたい。 しかしどのようにしても、何も変わらない。万策尽きて疲れ果て、 ギブアップし、主のもとへ行く時、自分の問題だと、示して下さり、 自分が砕かれて行く。すると御霊に導かれ、平安が心に来て、様々 教えられて、解決へと導かれて行く。 ------------ 十字架によって救われた後も、一つ一つの取り扱いにより自分を押 し通す古い生き方から変えられて行く。痛いところでも、その中で、 学びたい。必ず主のあわれみだと教えてくださる。
2025年10月13日(月) 「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、 おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこ うではありませんか」へブル4:16
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、 おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこ うではありませんか」へブル4:16
私たちは、どうだろう。自分が弱さを感じる時、又、罪を犯してし まった時、主との距離を感じてしまうだろうか。主から離れている と。悪魔は、私たちが弱っている時に、この時とばかりに攻撃して 来る。「同じ失敗ばかりしているダメクリスチャン」「主のもとへ など、とても行けない。少しはましになって行かなくては」「悪い 証しをしてしまった」「何度やってもダメ」と。 悪魔の言う事に聞いて行くと、主を遠く感じ、落ち込むばかりだ。 しかし悪魔の大嘘だ。主の御座は、「恵みの御座」だ。主は十字架 で、あがないを成し遂げて下さった。私たちの罪は、主になすりつ けられ、自分のもとには無い。主が、すべての裁きを受けて下さっ た。主の御座は、裁きの御座でなく、「恵みの御座」だ。自分のゆ えでなく、ただ主イエスのゆえに、恐れなく、「大胆に」御父に近 づくことができる。 そして私たちの弱さに同情し、とりなしていて下さる。あわれみに 満ちた大祭司だ。「おりにかなった」、他訳では「最も必要な時」 だ。グッドタイミングだ。どんな時も、丁度の時に、助けて下さる と。恵みとは、いっさい行ないによらない、一方的に与えられる愛 顧だ。悪魔と自分の肉は、「少しましになって、御前に出なくては」 と言う。主の御前に出ることを、ためらってしまう。 しかし主の流された血潮のゆえに、その場で「主よ」と、大胆に恐 れなく、近づくことができる。ありのまま近づこう。罪の赦しが備 えられていて、又、弱さはそのまま受け入れて下さる。 --------- もう少し頑張ってからと、主の十字架の恵みから離そうとする悪魔 の声や、肉の思いが絶えずくる。主のご愛を疑わず、弱さのままで 主に近づこう。主が恵みと平安の中に守ってくださる。
2025年10月12日(日) 「エリは言った。『おまえにお告げになったことは、どんなこ とだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げ になったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾 重にも罰せられるように。』」Tサムエル3:17
「エリは言った。『おまえにお告げになったことは、どんなこ とだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げ になったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾 重にも罰せられるように。』」Tサムエル3:17
祭司エリがサムエルを養育していた。ある日、少年サムエ ルに主の御声が臨んだ。そこでエリの指示に従い「お話し 下さい。しもべは聞いております」と答えた。すると、主から のメッセージは、何とエリの家への裁きであった。 「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが、呪いを招くよ うな事をしていながら、戒めなかった罪による」と。非常に 厳しく辛い言葉であった。相手は師であるエリだ。エリに伝 える事を非常に恐れたが、主の言葉をありのまま伝えた。 預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にその通りに民に 語る人のことだ。 どんなに痛い厳しい言葉でも、その通りに語らねばならない。 預言者となるサムエルへの、最初のテストであっただろうか。 私たちも、「しもべは聞いております」と主に向かう時に、罪を 示され、肉の姿を照らされる。心刺される言葉、又、自分の 思いと異なる言葉、矯正の言葉は、聞きたくないだろうか。耳 を閉じたい。 しかし痛い言葉こそが、実は聞くべき祝福の言葉だ。それは 愛の言葉であり、自分が変えられ、成長させられる。主は、 絶えず御声をかけ、慰め励まし力づけて下さる。私たちは 主の言葉によって生きて行く。「しもべは聞いております」との へりくだった姿勢で、耳を傾けよう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 時に主は、痛い、厳しい言葉を語られる。聞きたくないものだ。 しかし痛い言葉を聞かなければ、自分が変えられる事も、矯正 される事も、成長する事もない。それは悲しい。主からの愛 の訓練と受け止め、取り扱いにあずかろう。
2025年10月11日(土) 「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれ る主。私たちの救いであられる神」詩篇68:19
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれ る主。私たちの救いであられる神」詩篇68:19
ある人が、自分では何とも思わず言った言葉が、友人を傷 つけた。友人は、生育歴に様々傷があり、又、少し前にも 深い傷を負っていた。自分も聞いていたのに、何と配慮に 欠けた、自分の愚かさを深く反省した。深い傷はフラッシュ バックとなり、その時の事がありありとよみがえるという。た だひたすら祈った。 友人の心がいやされる事と、赦してもらえるようにと。主のあ われみを切に願い求め、一心に祈り続けていた。この失敗を、 今の状況を、自分自身を、主にゆだねますと、主に明け渡し た。すると祈り終わった時に、不思議が起きた。あれほど苦し くて、辛かった心が、すうーと楽になったのだ。自分でも驚いた。 重苦しさがきれいに消えて、心がすっきりした。 初めての経験だった。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、 あなたのことを心配してくださる」のその通りだった。自分では、 ゆだねる事ができないが、それも、ゆだねさせて下さった。主 のみわざだと思えた。するとその直後に、相手から電話がかか り、いつも通り、普通に接してくれた。突然、以前の事が鮮明に 思い出された、しかし君のせいじゃないからと。 相手も祈っていた時に、「彼の打ち傷によって、私たちはいや された」との御言葉により、傷だらけの主が、自分の傷を「わか っているよ」と言って下さったと。初めて頭でなく、御霊によって 心に響き、心が救われ、いやされたのだと。主のあわれみは 何と深く、言葉に尽くせず、共に主を崇めた。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 重くて、担いきれない荷、そこから思い煩い、心配、焦りでいっ ぱいになる。しかし心配して下さる、主がおられる。肉で、肉を 対処できない。肉を離れて、祈ろう。主のもとに持って行こう。 主が引き受け、助け導いて下さる。
2025年10月10日(金) 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、 かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますます そうしようではありませんか」ヘブル10:25
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、 かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますます そうしようではありませんか」ヘブル10:25
ある人が、厳しい試練にいた。苦しみに打ちのめされた。周囲の人 々は皆、幸せそうに見えて、羨ましくてたまらない。心は落ち込む ばかりで、自分は祝福されていないと感じて、心寂しい。教会へも、 人の集まりに足が向かず、人に会いたくなかった。そんな中、ある 人が、彼女を訪問するよう主に示されて、従った。 その来訪にも、素直になれず、心は屈折状態だ。会いたく無かった が、仕方なくドアを開けた。しかし、もう一人の自分もいた。こん なひねくれた態度の悪い自分を、わざわざ訪ねてくれて、申し訳な い、有難いとの思いがあった。神からの新しい性質の反応だった。 だが、訪問がきっかけで、翌週、教会へ行けた。そして以前のよう に毎週出席できた。御霊の働きだった。ある人は、やはり大きな試 練があり、心身消耗しきっていた。弱り果て、もう考える事も、祈 る事もできなかった。気力が失せ、どうにもならなかった。家族が、 懸命に祝福を伝えて、励ましてくれるのだが、心が動かなかった。 しかし、家族の祈りと励ましによって、御言葉を読む気力とまでは 行かないが、聖書を手に取れた。 パラパラと見ていた。読むのでなく、ぼお〜と見ていた。すると不 思議が起きた。その目に入った御言葉が、心に光が射し込むように、 飛び込み響いて来て、語りかけて来た。御言葉により、今の苦しみ の状況が、ふに落ちたのだ。そこから立ち上がることができた。親 族の励ましに、周囲の祈りに心から感謝した。 ---------- 思い煩っていないと思っていても、深い霧の中にいることがある。 自分の感情の中で閉じてしまわず、信仰の兄弟、姉妹方の祈りと励 ましを受けとろう。主はご存じで助けを送ってくださる。感謝だ。
2025年10月09日(木) 「その人に言われた『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、 あなたを直したのです』」ルカ17:19
「その人に言われた『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、 あなたを直したのです』」ルカ17:19
10人のらい病人が助けを求めて、主のもとに来た。当時らい病は、 汚れた病気との事で隔離されていた。人に近寄る事が許されず、 「私は汚れた者です」と自分で、言わなくてはならなかった。社会 への生活は、すべて閉ざされ、病の苦しみの上に、更に精神的な苦 痛にさいなまれていた。必死の思いで、主のもとへ来ただろう。 大声で「どうぞ、あわれんで下さい」と叫んだ。すると、主はあわ れまれ、彼らをいやされた。主の溢れ出るあわれみ、慈しみだった。 10人いやされたが、1人だけが主のもとへ戻り、溢れる感謝を献げ た。あとの9人は戻って来なかった。病気が完治し、社会に復帰が できて、自由に社会生活が送れる。生けるしかばねであった、彼ら から見れば、何と信じられない、夢のような事だろう。 9人は、何とラッキー、ハピー、万々歳と、世の中へ帰ってしまっ た。彼らにとっては、飛び切りのラッキーであり、そこに神は無か った。しかし感謝するために戻った1人は、まず、神への感謝と賛 美が溢れた。そこに神を認め、神を崇めたのだ。その彼だけに、全 く新しい信仰の人生が始まった。「あなたの信仰が、あなたを直し たのです」。 何と嬉しい事だろう。彼は、主の愛に出会い、主の愛の中を生きて 行く人生が始まった。何が肝心なのだろう。病気が治る事だろうか。 「世の終わりまでいつもあなたと共にいる」その幸いな人生へと招 かれている。苦しい時も喜びの時も、主と共に生きて行けることこ そが、何にも代えられない大きな恵みだ。 ------------ 主と共にある人生は、試練の中にも恵みを見出せる。ラッキー、ハ ッピーと自分視点に立って一喜一憂するよりも、主が共におられ、 主が愛してくださっていると確信して生きる人生は、何と幸いだろ う。
2025年10月08日(水) 「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。 彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず・・」イザヤ37:33
「それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。 彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず・・」イザヤ37:33
ヒゼキヤ王の時代に、アッシリヤ王セナケリブが、ユダの町々を攻 め取った。王はラブシャケを送り、ヒゼキヤ王と民を脅す。強力な 軍隊を誇示し、挑んで来る。「ヒゼキヤは、主が救い出すというが、 王の言う事にだまされるな、信じるな」と、信仰を動揺させて来る。 これを聞いたヒゼキヤは衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、 切に祈り、イザヤにも祈りを要請した。サタンは私たちにも同じよ うに、攻撃を仕掛けて来る。経済的苦境に「そんな大金どこから降 って来るのか」「あり得ない。無理だ」「祈っても無駄だ」「神に もどうにもできない」と、サタンは信仰を動揺させ、挑んで来る。 仕事の悩み、対人関係の問題に「解決など、どこにある」「悩みは ずっと続く」「祈ってもだめだ」と私たちの無力を見せつけ、落ち 込ませる。幾ら祈っても何も変わらない、神を信じて何になると 、思い煩いと不安に飲み込まれる。 サタンは問題を見せて、そびえ立つ城壁に見せる。気力を萎えさせ る。主を見せないよう、問題に目を釘付けにさせる。このような時 にこそ「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、 主は奇跡を行われ、主の使いを遣わし戦わせた。 その結果、アッシリヤは立ち去った。祈りは聞かれた。耳元にサタ ンの攻撃、誘惑が来ているだろうか。気づけるように。祈りによっ て立ち向かおう。助けを求めよう。主が共におられる。 -------------- サタンの声を聞いている事に一刻も早く気づきたい。絶対に起きな い明日を見せてくる。落ち込み平安がなくなる時、主に助けを求め 祈ろう。主を信じ切れるように祈ろう。
2025年10月07日(火) 「パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。 主がモーセを通して言われたとおりである」出エジプト9:35
「パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。 主がモーセを通して言われたとおりである」出エジプト9:35
出エジプトの際に、パロとの戦いの中で、主はモーセを用いて、次 々と奇跡を起こされた。モーセは、奇跡の度に、民を行かせるよう 迫った。主の奇跡により、パロは苦痛が臨むと、「私は罪を犯した」 と言う。「私と私の民は悪者だ」「罪を赦してくれ」「私のために 祈ってくれ」と。一見悔い改めのように見えるが、悔い改めではな い。その苦痛が収まり、ひと息つくや、強情な姿に戻る。 これは、それらしい言葉を口にはするが、心では悔い改めていない。 だから変わることがない。真の悔い改めなら、必ず実を結んで行く。 自分が変えられて行く。そして主が、しるしを行なわれるのは「わ たしが主であることを、あなたがたが知るため」とある。だがパロ にとっては、しるしが、主を知る事にはならず、脅しみたいなもの だった。 その脅しが無くなれば、再び頑なで強情な本来の姿に戻る。私たち はどうだろう。もし高慢なら、へりくだって、主に頼るようにと試 練を送られる。懲らしめは主の愛だ。放っておかれる方が悲惨だ。 だが主の愛によるその試練を、パロのように、単に脅しとするなら、 痛いので神妙になるが、その痛みが去ると、元に戻ってしまう。何 も変わらない。 問題が起きても、常に相手が悪いとしか思わない。それなら決して 成長が無い。自己中心なまなで変わらず、実を結ぶ事がない。だが、 御霊に導かれた悔い改めは、必ず実を結ぶ。砕かれた悔いた心を、 主は豊かに祝福し、実を結ばせて下さる。喜びが与えられ、主の栄 光が現わされて行く。 ------------ 何処に行っても嫌な人に出会ったり、不運ばかりが続くと思える時、 最初にすることは、ここから何を学ぶのかを主に聞くことかもしれ ない。問題しか見られず、なかなか主の御心を学べない者だが、試 練の中で、変えられて行きたい。
2025年10月06日(月) 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6:8
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6:8
神は、イエスの十字架の血潮のゆえに罪を赦し、完全に赦して下さ る。悔い改める時、「二度と思い出さない」と言われ、無罪放免に される。しかし、どうせ赦してもらえるのだからと、罪を犯しては ならない。それは放縦だ。決して恵みを放縦に変えてはならない。 そして罪は赦されるが、必ず刈り取りがある。 警察沙汰を起こした子たちは、施設で辛く厳しい矯正訓練を受ける。 親は、迷惑をかけた人々に頭を下げて回り、破損は弁償し、あらゆ る償いをする。大人の場合も、傷害事件を起こした時、悔い改める なら、完全に主は赦して下さる、しかし法律上の刑罰を受け、刑務 所で償う事になる。 又、憎しみや妬みで人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、 主は完全に赦して下さる。しかし、一度壊れた信頼関係を取り戻す には、多大な労力が要る。罪のもたらす傷や害は、思う以上に深い。 罪の結果は、自分だけにとどまらず、家族や周囲をも巻き込み、大 きな悲しみ苦しみを負わせる。 罪をもてあそんではならない。弱いからこそ、罪から守られるよう、 主にすがり、祈っていよう。逆に御霊のために蒔くなら、周囲の証 しとなり、神の栄光が現われ、人々の救いに用いられる。自身にも 大きな喜びがある。御霊の声に耳を傾け、御霊の方を選択し、導き に従おう。そうできるよう祈ろう。その時、御霊の実を刈り取る。 強情な者なので砕かれ、従えるよう祈ろう。 -------------- 私たちは、いつも何かの種を蒔きながら生きている。無意識に蒔い ても、それを刈り取る。御霊に導かれて、種を正しく蒔くものであ りたい。そして豊かに刈り取る者になりたい。
2025年10月05日(日) 「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに気合わせ、 彼を見てかわいそうに思い、近寄って・・」ルカ10:34
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに気合わせ、 彼を見てかわいそうに思い、近寄って・・」ルカ10:34
当時ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係にあった。そのサマ リヤ人が、通りがかりの負傷したユダヤ人を助けた。サマリ ヤ人の動機は、かわいそうに思う「同情」で、何の下心も無 かった。あわれみとは、かわいそうに思う心+行動だ。同 情だけでなく、行ないが伴う。彼は、傷を負い倒れている人 に、自分に出来る事をした。 まず、関わる事を避けずに「近寄っ」た。携帯していたぶどう 酒は消毒用に、オリーブ油は薬として、適切に手当をした。 予定変更し、自分の家畜で宿に同行、更に一泊し、親身に 介護の上、費用も全額負担した。最後まで、至れり尽くせり だ。愛するとは、犠牲を払う事だ。自らの労力、時間、金銭 を突如の必要のために、彼は惜しまずに献げた。 犠牲を払わずして、愛する事はできない。愛するとは献げる 事だ。そして、彼は自分の用をするために出向き、自らの責 任を果たし、再び帰りに、お世話をした。自分の責任を放って、 人の世話するのではない。自分を最も必要とする家族を顧み ず、人の世話ばかりに走り回るのはおかしい。まず家族へ の責任は果たし、尚且つ、周囲へ、自分に出来る事をして行 くことだ。 御霊が秩序正しく導いて下さる。今、何か御霊の示しがあれ ば「近寄って」、従おう。祭司とレビ人は、関わるのが面倒で 逃げた。言い訳は何でも出て来る。誰が、自分の隣人かで はなく、自分が、隣人になる事が言われている。祈りなくして は出来ない。導きに従えるよう祈ろう。御霊が助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 良きサマリヤ人は、主イエスだ。傷つき倒れた旅人は自分だ。 主は大きな犠牲を払い、助け、いやして下さった。自分を、主 に明け渡す時、御霊によって、御霊の力を受けて、誰かの隣 人とならせて下さる。
2025年10月04日(土) 「・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学び なさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29
「・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学び なさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」マタイ11:29
くびきとは、平らな板に二つ穴を開け、二頭の家畜の頭部 をその穴に入れて、同じ方向へ進ませるためのものだ。そ れが無ければ、あちこちと別方向へ向かい、くびきにより農 作業がスムーズに行く。私たちも、主が与えるくびきがある ので、負うようにと。「わたしのくびきは負いやすく」とあり、 「負いやすい」=「身体にフィットし快適で心地良い」と。 くびきは、その穴にきちんと首を差し入れると、快適で心地 良い。が、それを嫌い、拒み、抵抗してもがくと、首が締め 付けられ、自分で首を絞める事になる。自分の思い通りに しようとする者には、そのくびきは自らを締め付け、苦痛で、 辛いものとなる。あなたにとって、今のくびきはどちらだろう。 主から与えられたくびきを受け入れる時、それは「フィットし て心地良い」ので、平安と喜びをもたらしてくれる。しかし受 け入れない時、喜びも無く、ただ辛くて痛いだけだ。受け入 れる事が難しければ、祈ろう。自分では、なかなか受け入れ られない。祈りによって、主が、受け入れる事が出来るよう に助けて下さる。あなたにとっての、くびきは何だろう。 今の思い通りでない場所か、役割だろうか。又、対人関係 だろうか。受け入れられないなら、苦しいばかりだ。平安も 無い。とにかく主のお心に沿えるよう祈ろう。「わたしのくび き」と言われ、主のくびきだ。もう一方の穴は主が負って下 さっている。受け入れる時、たましいに安らぎが来て、そして その荷は軽いと。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 負うべきくびきを、一人〃にふさわしく与えて下さっている。 主のくびきを負う時に、平安になるのは、今まで経験してき た。くびきを受け入れる事が難しいので、助けを求めて祈ろ う。祈りに答えて、助けて下さる。
2025年10月03日(金) 「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた・・ 全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」 創世記22:2
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた・・ 全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」 創世記22:2
主は、アブラハムに実子イサクを、全焼のいけにえとして献げよと 命じられた。「神はアブラハムを試練に会わせた」とあり、これは はっきりと、主からの試練であると。「約束の子イサクを?」主が、 本当にそんな事を言われるのだろうか?自分の聞き違いでは無いの か?だが平生から主との親しい交わりに生きている、彼にはわかっ た。 これは主の御声であり、主からの命令だ。どんなにか苦しく、辛い 悶々の一晩であったろう。目に入れても痛くない最愛の我が子だ。 それも約束の子で、イサクから全世界に子孫が広がる、その子が死 んだなら、子孫の約束はどうなるのか?しかし彼は、祈りの内に 「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」と信じた。 主はイサクをよみがえらせて下さると。 そして従う決断をした。彼の信仰だった。「翌朝早く」命令を実行 した。御心を確信したなら、すぐ従うのが良い。グズグズしている と、必ず悪魔が来て、狡猾に妨害してくる。従えなくなってしまう。 モリヤの山でアブラハムが刀を取って、ほぶろうとした瞬間、主が 止められた。 「あなたが神を恐れていることがよくわかった」と。主は、イサク の代わりに雄羊を用意されていた。私たちにも、試練を与えられる。 それは信仰のテスト・訓練で、一段階〃成長へと導かれるためだ。 そして、試練の時には「エホバ・エレ」、必ず主の備えがある。 ------------- これは御心と確信が来ても、一刻一刻と思いは迷う。けれど最初の 確信に立ち、最後まで従えるように祈ろう。主の山に備えありだ。 迷いも弱さも主は知っていてくださる。信じて信仰のテストを通ろ う。
2025年10月02日(木) 「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は 直っています。』その人はイエスが言われたことばを信じて、 帰途についた」ヨハネ4:50
「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は 直っています。』その人はイエスが言われたことばを信じて、 帰途についた」ヨハネ4:50
王室の役人の息子が、重病で危篤だった。その役人は主に会うため、 カペナウムから30キロの道を徒歩で来た。主なら、いやす事ができ ると思ったからだ。そうでなければ、30キロ先から来ない。主に、 家に来て息子をいやして頂きたいと願うと、主に「しるしと不思議 を見ないかぎり、決して信じない」と言われた。 再度、どうか来て欲しいと願う。すると「帰って行きなさい。あな たの息子は直っている」と。息子の元に来て欲しいと願ったが、御 言葉を信じて、帰るようにと言われた。私たちもどうだろう。しる しと不思議を見ての信仰だろうか。しるしを願っているかも知れな い。沢山の奇跡を見たなら、信じる事が出来て、信仰が強くなるの ではないかと。 目の前で紅海が分かれるような大奇跡を見たなら、信仰が強くなる と思いがちだ。しかし主は、しるしを見てではなく、「主の言葉を 信じる信仰」へと導かれたい。役人は「帰って行きなさい」と言わ れた。息子は直っているからと。主の言葉だけをもらい、その言葉 を受け取り、信じて帰った。 すると途中でしもべに出会い、息子のいやしを聞いた。主の言葉の 通りではないか。そして良くなった時刻を聞くと、主が「あなたの 息子は直っている」と言われた同時刻である事に、驚いた。彼と彼 の家の者が皆、主を信じた。主の言葉は、必ず100%成就する。主 は、しるしを見ての信仰から、しるしを見ずとも、御言葉を信じる 信仰へと、成長させて行って下さる。 -------------- 信仰生活で起きてくる問題に主ご自身が関与し、心配しておられる ことを信じよう。しるしで癒されて終わりではなく、いつも、私た ちを愛して一緒に生きてくださっている。主の御言葉を信じよう。
2025年10月01日(水) 「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って 来なさい』」マタイ14:18
「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って 来なさい』」マタイ14:18
大勢の群衆が、主の言葉を聞きに集まっていた。男だけでも五 千人だ。昼も過ぎ、弟子たちは主に、皆を解散させ、各自食物 を買わせて欲しいと願った。主は、弟子たちで、食べ物を与え るよう答えられた。すると、ここにはパン五つと魚二匹しか無 いと。 その時、主は「それをここに持って来なさい」と言われた。主 は、それを用いて奇跡をされ、群衆は全員が満腹した。主は、 私たちの手にある物を、主のもとへ携えるようにと。私たちの 持つ物は、極めて微少かも知れない。だが、無きに等しいよう なものでも、それが主の御手に渡る時に、主の栄光を現わすた めに用いられる。 こんな小さなものが、何にもならないと思う。しかし主が用い て下さる。重大な事は、それが、自分の手にあるか、主の御手 に渡っているかだ。そして、又、主は、食物を弟子たちの手に 渡され、彼らが群衆に配った。主が奇跡をされたが、配ったの は弟子たちだ。主は、彼らにその働きを任せられた。 人々に糧を届けるために、あなたも用いて下さる。自らの資源 でなく、人々に与えるものを、主が与えて下さるということだ。 主から渡されたものを、人々に渡して行く。そして人々は満た される。自分からのものではない。 「それを、ここに持って来なさい」自分の持てる物を、自分自 身を主に持って行くだけだ。それだけだ。人々の祝福のために、 用いられるとはどんなに嬉しい事だろう。主のもとに、持って 行こう。 -------------- 自分の手にあるものは、いつもわずかだ。御言葉に従おうとす る時、こんなものが何になろうとの思いが必ず来る。素直に主 の御言葉に従いたい。主を信じ、主に手渡そう。