2026年03月05日(木) 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・ もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」 ヨハネ15:1
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き・・ もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」 ヨハネ15:1
植物の世話をすると、剪定の大切さがよくわかる。時に応じ、刈り 込みをすると、たわわな実を結び、きれいに花が咲く。つまりもっ と多くの実を結ぶ。枝や葉に余分な養分が流れるのを防ぐので、そ の分が実に行き、立派な実を結ぶ。同様に信仰生活においても、主 は刈り込みをされる。 私たちの出っぱっている所を刈り込まれる。それはプライド、虚栄 心、わがままか、貪欲・・かも知れない。はさみで刈り込むので、必 ず痛い。苦痛を伴う。高慢なら、プライドが傷つく事態が臨む。そ れはあなたをへりくだらせ、もっと柔和にするためだ。主が刈り込 んでおられる。目の前にある痛い事態は、もっと豊かな実を結ばせ るためだ。 自らのどこが反応し、どの部分が痛いのか。そこが刈り込みの必要 な場所だ。もし剪定が無ければ、高慢で自己中心で、思い通りにな らなければ周囲に当たり散らす、大きな子どものままだ。又、落ち 込むだけの、同じ歩みを繰り返す。そして、願う進路が閉ざされる 事がある。自分は、その道こそが最善と思うが、道が閉ざされる。 それも刈り込みだ。その時は、別の開かれた道を進めばよい。閉ざ された事が、後に、最善のご計画であった事を知る。その事で、必 ず思いを超えた豊かな実を結ぶ事になる。後に刈り込みが感謝だっ たと、必ず思える。 -------------- 思い通りに事が進み、何にも妨げられなければ、どれ程高ぶってい る事だろう。主は目的にそって刈り込まれる。今の痛みを通して、 豊かに実を結ぶ者に整えられる。主を信じていよう。
2026年03月04日(水) 「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の 思いを遠くから読み取られます」詩篇139:1
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の 思いを遠くから読み取られます」詩篇139:1
大勢の群衆が、主の周囲に群がった。「多くの人々が、主の行なわ れたしるしを見て、御名を信じた」しかし「主は、ご自身を彼らに お任せにならなかった」。つまり、多くの人々が主を信じたが、主 は、彼らを信じておられなかったと。大勢が群れをなして、主を追 うのは、主を求めてでは無い事をご存じだった。 利得を求めて、主を追った。「あなたがわたしを捜しているのは、 パンを食べて満腹したから」と、自分の欲しいものが、得られるが ためだった。信じたと言っても、自分の都合次第で、願望が叶えら れている間は、ついて行くが、叶えられなければ、主から離れ去る。 この世の御利益信仰と同じだ。 利用価値があるから信じているだけで、価値が無くなれば、即、捨 てるか、別のものに移る。主を追いかける、多くの群衆はそうだっ た。裏切ったユダも、主がローマ帝国を倒し、天下を取るとの思い がはずれ、自分の思い描いた主でない事に失望した。そのため主を 捨てた。私たちは、何のために、主につき従っているのだろう。主 は、私の心をすべてご存じで、何もかもを見ておられる。 逆にそれは、誰にもわからない苦しみ、悲しみの時、何という慰め だろう。御前にありのままおれる。主は、信頼に足る信仰を探して おられる。信頼できる信仰に、ご自分を任せようと思っておられる。 主を利用するのでなく、主に自らを明け渡して、つき従おうとする 信仰を探し求めておられる。ご自身を任せられるなどと、何という 驚くべき事だろう。 -------------- 主が与えてくださる折々の慰めや励ましにより、具体的な主の心配 りを経験する。あれもこれもと祈りつつも、私を知り、心配してく ださる主に、自分自身を明け渡し、豊かに用いて頂きたい。
2026年03月03日(火) 「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組み はあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見ら れ」詩編139:15
「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組み はあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見ら れ」詩編139:15
私たちは皆、偶然に生まれたのではない。両親からでもなく、主が 「私の内臓を造り、母の胎の内で、私を組み立てられた」。主によ る事だ。奇しい事をなさり、恐ろしいほどだと。私たちを造られた のは、主だ。ここに、あなた個人への主の愛とご計画がある。そし て主のご計画は、あなたの人生全般に及んでいる。 人生に起きる一つ〃の出来事に、主の愛とプランが織りなされてい る。私たちの頭の毛さえも、みな数えられている。又、心の中もご 存じだ。思いを読み取られ、言葉が舌にのぼる前に、ことごとく知 っておられる。その目で、信仰により、人生を見てみよう。 「何でこんな事が?」「何で、私に?」と思える、苦しい事態が起 きる。しかし私の益のため、ご自分の聖さにあずからせるための試 練であり、「訓練された人々に平安な義の実を結ばせる」必ず実を 結ぶと。それゆえ大事な事は、その出来事の中で、何を教えて下 さりたいのか、主からのメッセージを尋ねることだ。 主には一つの無駄も無い。目の前の出来事の中に、主の意図と目的 がある。「知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜し げなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」願うなら 主は教えて下さる。胎の内から、すでにあなたへの生涯のプランが あり、使命がある。主との交わりの中で、祈りの中で、主に求め、 教えて頂こう。 -------------- 理解できない状況のとき、迷うときは原点に立ち返ろう。ここに は主の意図と目的があり、全て益で愛ゆえだということ。胎児のと きから見守られている。何と心強いことだろう。
2026年03月02日(月) 「サタンが、あなたがたを麦にようにふるいにかけることを願って 聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくなら ないように、あなたのために祈りました」ルカ22:31
「サタンが、あなたがたを麦にようにふるいにかけることを願って 聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくなら ないように、あなたのために祈りました」ルカ22:31
人は皆、失敗する。注意していてもミスしてしまう。それは人間で あり、完全無欠でないからだ。あなたも、信じられない失敗をした だろうか。大切な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。何度転んでも 立ち上がって、再び主に従って行ける。人生では、転んで、倒れて しまう事がある。深い挫折を通る。つまずいた事の無い人はいない だろう。 主は時に、人がつまずく事を許され、深い海の底を通される。しか し必ず立ち直らせて下さる。ペテロは、主を裏切るという、取り返 しのつかない大失敗をした。命をかけても、主に従うという決心が、 現実を前にもろくも崩れ去った。主を否定してしまったのだ。しか し主により、主の愛により、見事に回復され、後に力強い主の証人 とされ、殉教した。 ダビデも姦淫と殺人という大失敗をした。しかしそれで人生が終わ ったのではなかった。ダビデも罪赦され、回復を与えられた。私た ちも皆、信仰が試される。時に失敗する。自分に絶望し、無力を思 い知らされる。だからこそ、自力では生きて行けず、主に拠りすが る事を身をもって知る。 それこそが「立ち直った」という事だ。自分の力が砕きに砕かれて、 初めて兄弟たちのために、間に合う器として用いられる。主は失敗 をも、挫折をも益として、建て直し、建て上げて下さる。何よりも 霊的に成長させて下さる。 -------------- くり返し失敗し転ぶが、主が赦しなおも立ち上がらせてくださる。 何というあわれみだろう。罪を犯してしまったとしても、対処法を 間違えず主に悔い改めよう。
2026年03月01日(日) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望 を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:17
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望 を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:17
新生したクリスチャンには、新しい性質と古い性質がある。 未信者の時は、古い性質のみだが、新生した者には、主 を喜び、主に従おうとする新しい性質がある。しかし古い 性質も残っているので、そっちに従えば、何十年の信仰者 でも、肉のクリスチャンのままという事になる。 つまり、外側は幾らでも演じれるのだが、心は怒り、妬み、 憎しみ、敵対心が渦巻いている。又、御霊に従おうとする クリスチャンも、妬みや貪欲、敵対心に動かされる、これ は肉にいる時であり、肉に従うと、そのようになる。背後の 悪魔が誘惑、攻撃する。御霊に従う時は、主の潤いや温 もりを現して行くが、同じ人が肉に従うと、きつい言葉や怒 り、イライラした不機嫌な態度が出る。 これでもクリスチャンかという状態になる。同じ人が御霊に 従う時と、肉に従う時は別人のようだ。自分の内に、不平 不満、愚痴、思い煩い、裁き等が出ている時は、肉に歩ん でいる事になる。つまりその時は自力で、自分の思いに従 って歩んでいる。主を見上げ「自分にはできません。従うこ とができません」とありのままを認め、祈る事が大切だ。 その時、自力でなく、御霊が助けて下さって、御霊の中へと 導いて下さる。御霊の中にいると、喜びと平安が湧き出で、 自然に主に喜んで頂きたいとの気持ちになる。このどちら もが、天に帰るまで、自分の中にある。絶えず主に助けを 求め、御霊に明け渡しながら、従って行く時、「御霊によっ て歩め」に従って行ける。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 肉の欲望を満足させないためには、御霊によって歩む 必要がある。御霊による歩みでないなら、肉によって歩 むことになる。御霊による歩みを祈り求めよう。主は祈 りに答えて取り扱い、導いて下さる。