2026年05月29日(金)

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から 来るのであって、光を造られる父から下るのです」ヤコブ1:17


主イエスが来られた時に、それまでヨハネに集まっていた人気と賞
賛が、どんどん主の方へと移って行った。ヨハネの弟子たちは「み
なあの方のほうへ行きます」と、自分の師を思うがゆえに、いらだ
ち、妬み、寂しさを感じていた。しかし、ヨハネは全く動じること
無く、立派だった。

自分はキリストではないと言明し、主が花婿で、自分は花婿の友人
であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、人
や人の思惑は関係なく、自分と主との間で、喜びと平安を持ってい
た。真に主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネはへ
りくだった人だった。

自分と人を比較するなら、優越感や劣等感に陥る。同期の同僚の昇
進はどうだろう。学生間の成績や人気、又、ライバルの成功はどう
だろう。心穏やかでいられない。プライドが傷つくのだ。人の成功
は、自分の失敗のように感じてしまい、認められない。人が誉めら
れと、自分が、けなされたように感じる。まるでシーソーだ。相手
が高くなると、自分が低くなる。その根っこは高慢だ。

ヨハネはへりくだっていた。人の誉れも成功も、天からのものであ
り、そこに主を認め、その主権を認めた。天からでなければ、何も
受けることはできないと。主が与えて下さるものに感謝し、満足し
た。そこに不平も不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を
認める時、心に揺るぎない平安が臨む。へりくだった人に与えられ
る恵みだ。
--------------
平安に過ごしたくても比較に陥ると途端に苦い思いになる。御霊に
導かれて、新しい価値観に歩めることを、たえず主に感謝していた
い。主を見上げ、力強い御手の下で安んじていたい。


2026年05月28日(木)

「イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を 求め、パンを裂き、人々に配るように・・人々はみな、食べて満腹し た」マルコ6:41



主は奇跡をされる前に、弟子たちに、パンはどれぐらいあるか、見
て来るようにと言われた。弟子たちは、パン五つと魚が二匹ある事
を「確かめた」。みわざを見る前に。まず、現状がどのようである
かを「確かめる」事は大切だ。主は、どんな中から、どのようにし
て下さったのかが明らかになる。まず、自分のありのままを認める
ように導かれる。

「〜ができません」「〜の弱さがあります」「〜を少し持っていま
す」。能力や、持っているものが僅かでも問題無い。そのままを、
主のもとへ持って行く事ができる。ヨハネは「小さい」魚を二匹と
言っている。こんなもの何になろう、何の足しになろう、無いに等
しいと思える。

しかし「ほんの少しの〜がある」それをお献げしよう。主は「小さ
い」ものを用いて、どんなに大きなみわざをされかに驚くばかりだ。
小さく、僅かだからこそ、逆に主の素晴らしい栄光が現われる。主
の御名が崇められる。それを自分が握っているなら、それで終わる。
パン五つと魚二匹のままだ。

だが主のもとに携えるなら、どんな小さなものでも、大きく祝福し
て下さり、周囲の人々をも満腹させて下さる。家庭、学校、職場で、
あなたは用いられ、祝福の器とされる。「五つのパンと二匹の魚」
は、あなた自身だ。あなたの人生を用いて、あなたと周囲の人々を
豊かに祝福される。
--------------
もう少し強い信仰があればとか、こんな僅かなものをと、しまい込
むのは自力で何とかしようとする誤った考えではないだろうか。あ
りのままを認めて、主の呼びかけに応えていきたい。


2026年05月27日(水)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な神の子とな り・・いのちのことばをしっかり握って・・世の光として輝くためで す」ピリピ2:14


私たちは、ほとんどが無名で、有名人では無いし、大きな影響力は
ない。しかし、毎日〃の同じ事の繰り返しの中で、単調かもしれな
い仕事の中で、日々、信仰を実践して行く事ができる。ほとんどの
人々は、同じ事を繰り返す、平凡な毎日かもしれない。会社員は、
毎日同じ時刻に電車に乗り、職場の机に座り、仕事をこなす。

主婦は、毎日、掃除、洗濯、食事作りを繰り返す。しかし、その中
で、いのちの言葉をしっかり握って、日々の地道な毎日の中で、キ
リストと共に生きるなら、必ず周囲にキリストを現して行く。主の
発想や、主の動機、態度、価値観、行ないが生活の中に現われ、御
霊の愛、喜び、平安、寛容、親切・・を現わして行く。

その時に、周囲に主の影響を与えて行く。あなたの置かれている場
所が、どんなに小さくても、目立たない場でも問題ない。仕事がど
んな種類であれ、それも問題ない。今いる場所で、御言葉に忠実に
従って行くなら、主が、あなたを輝かせられる。又、その場がどん
なに暗くても、問題ない。暗ければ暗いほど、光は更に明るく輝く。

環境の問題ではない。環境が悪いと愚痴、不平、不満タラタラでな
く、「つぶやかず、疑わず」その環境の中で、とにかく主を見上げ
て、御言葉に一歩従ってみよう。自分自身が変えられる。心に平安
や喜びが来る。そして、又、次の一歩に従ってみよう。従う者に、
御霊の力が働き、神の栄光が現われて行く。それは周囲に証しとさ
れて行く。
--------------
今いる小さな世界も、主から遣わされている場所として覚えるなら、
つぶやきも主にお渡ししたい。与えられた愛と恵みの光を、周囲に
表せるよう祈り、実践しよう。


2026年05月26日(火)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8



悪魔は偽り者であり、偽りの父だ。嘘つきだ。平然と嘘をつき、私
たちを巧妙に、だます。黒を白、白を黒と言い、何でも有りで、自
由自在だ。真理が無いからだ。絶えず嘘で誘惑し、攻撃して来る。
間違った動機を正当に、良い動機を間違ったものにと混乱させる。
又、9割の真理に、1割の嘘を混ぜて来る。9割がまともなだけに、
識別が非常に難しい。祈っていよう。

又、誘惑は、自分の欲望にピッタリと合致して来るので、自分の肉
の思いと一体化していて、誘惑である事に気づかない。自分の思い
と違っていたなら、わかりやすいが、合致しているので、欺かれて
しまう。エバが、巧妙な誘惑に引っかかってしまったように。酔酒
やギャンブル、妬み、憎しみのような罪なら判別できるが、良い事
で、一見、合法的な事で誘惑が来る。

自己実現、自己啓発はどうだろう。その裏にある動機はどうだろう。
焦点は、神ではなく自己で、自己愛であり自分の栄光だ。又、仕事、
趣味、好きな事、何でも・・、のめり込み、心を奪われ、神よりも大
切なものになっていたらどうだろう。

それらは悪くはなく、良いものだが、時間と労力が取られ過ぎてし
まう。主との交わりが二の次に、おろそかになっていないか。悪魔
の誘惑だ。目的は主から離す事だ。手段は何でもよい。主と距離を
感じているなら、今すぐ立ち返ろう。
--------------
悪い事なら警戒できても、一見、良い事には無防備になってしまう。
どんな時にも主を認め、御霊の導きによって選びとりたい。主と共
に歩んでいこう。


2026年05月25日(月)

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、 かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって 訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」へブル12:11


ある人が、祈りを積み、海外の神学校へ導かれ、入学を果たした。
主の導きであり、すべての必要は与えられると信じての事だった。
だが突如の様々な出費や、想定外の多額の必要が生じ、貯えが底を
ついた。最終学年の進級時に、授業料が払えない。払えなければ退
学だ。御心に従っての事で、主は必要は与えて下さるのでは・・。

必死に祈るのだが、与えられなかった。奨学金の道も模索したが、
開かれない。「導きを信じ、仕事も辞し、郷里を出て来たのに、な
ぜ?」と尚も祈ったが、与えられない。結局、支払い期日が来ても
与えられず、祈りに祈った結果なので、これが主の御心と受け止め、
帰国しようと思った。

しかし職も捨て、貯えも無くなり、これからどうすれば良いのか。
失意しか無かったが、なすすべなく、祈りの中で、今後の事と自分
自身をいっさい、主にゆだねた。どうであれ御心のままでOKですと。
心が落ち着いて、平安になった。するとその直後だった。友人たち
が無名の献金と共に、奨学金が降りた知らせを持って来てくれた。

現地の友人たちが、ずっと様々な方面に奔走してくれていたと知っ
た。驚いて、友人たちの親切が身にしみた。そして何より主に心か
らの感謝を献げた。追い詰められた瀬戸際の中で、信仰を試され、
ゆだねることの意味を教えられた。そしてどんな窮地にも、主の恵
みは十分である事を身をもって知らされた。窮地は、主の働く機会
だ。
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様々な行程を通らせられる。なぜなぜと逃げ出したくなるが、主の
目的があることを信じて、混乱せずに主に委ねたい。必ず主が助け、
一歩、一歩を導き、義の実を結ばせてくださる。


2026年05月24日(日)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であ るあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげな さい」ガラテヤ6:1ー


過ちを犯す人を見る時、いら立ってしまい、そうすれば、
そうなる、自業自得だと、裁いてしまいがちだ。受け入
れ難いと思う。自分にも罪の性質、肉の性質があるか
らだ。しかし主は、もし過ちを犯した人がいるなら、そ
のままにしておかずに、その人を正してあげなさいと。

「御霊の人であるあなたがたは」とあり、まず、自分
自身が、御霊に導かれている必要がある。自分の
心もよく探られ、まず自分の罪を悔い改め、よくよく
祈り、御霊からの言葉、導きを受け取ることが大切
だ。その時、自分の思いや力でなく、御霊がこの対
応を導かれるとの平安が来る。

そして自分自身がよく整えられ、へりくだった「柔和
な心で」が大切だ。真理の言葉で責めるのではなく、
「愛をもって真理を語」れと。その人の立場に立つ時、
自分も罪を犯すかも知れない。ただ責めて、断罪す
るのでなく、自分も弱い者であり、相手を思いやる
気持ちで接する時、御霊が働かれて、相手の心に
届く。

その時、御霊が、相手に罪を示し、悔い改めへと導
かれる。ナタンは神から示され、罪を犯したダビデに
対応した。ストレートに責め立てたのでなく、例え話
を用いて、ダビデに考えさせた。御霊は働き、罪を指
し示された。そしてダビデは悔い改めへと導かれた。
預言者ナタンは用いられた。私たちも、もし御霊の示
しがあるなら、従おう。主が働かれる。

・・・・・・・・・・・・・・・
もし、誰かに助言や忠告するよう示されたなら、よくよく
祈って、自分の内側を探って頂き、整えられて従おう。
反対に、人から指摘や助言を受ける時、まず祈り、へり
くだって、聞く耳を持とう。


2026年05月23日(土)

「ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのこ となど気にかけないでください。あの人は、その名の とおりの男ですから」Tサムエル25:25



サウル王は、執ようにダビデをつけ狙い、ダビデは
逃亡生活を余儀なくされていた。しかしそんなダビデ
のもとに、貧しい人々や王に不満を持つ人々が集ま
り、総勢600人になった。そんな状況で、荒野にいた
時に、ダビデは富裕なナバルに、使いを送り、食糧
を頼んだ。

というのも、ナバルの家畜を彼らが守っていて、それ
を顧みての親切を求めた。ところが愚か者のナバル
は、ダビデを非難し、拒否した。そのため、ダビデは
400人の部下と剣を身につけ、報復に向かった。こ
れをしもべが、ナバルの妻アビガイルに告げた。ダビ
デの使者が挨拶に来たのに、ナバルは彼らを罵った
こと、彼らは実際良くしてくれたこと、このままでは、
主人や一家が皆殺しにされると。

その時、聡明なアビガイルの的確な判断と機転で、事
なきを得た。ダビデに、すぐさま多大の食料を贈り、復
讐を思いとどまるよう、へりくだって、知恵をもって進
言した。ダビデは、アビガイルゆえに、ナバル討伐を思
いとどまった。ダビデは、アビガイルのとっさの知恵あ
る行動が無ければ、肉で復讐していたろう。ダビデは、
アビガイルを遣わした、神を見た。

彼女を通して「今日、あなたを私に会わせるために送
って下さった神」、「悪を行なうのを引き止めて下さっ
た主」と。神がとどめて下さったので、自分は罪から守
られたと。私たちも、御霊が進言し、肉の思いをとどめ
て下さる。そのために、御霊は私たちに語り、促し、又、
人を通しても御心を示される。御霊の進言に従おう。

・・・・・・・・・・・・・・・
祈り心でいたい。事に際し、肉の思いでの判断に従う
と、主の御心と正反対に向かってしまう。自分の利得
か、主の栄光か、祈りにより、御霊の導きを教えて頂
こう。


2026年05月22日(金)

「この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうに しばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激し かったからである」創世記12:10



カナンに入り、ネゲブへと旅をしていたアブラムは、飢饉に遭遇す
る。それを避けるため、エジプトに下った。「あなたの子孫にこの
地を与える」と約束されていたのに、安易にカナンを離れてしまう。
祈らず、主の御声を聞かずにした事だった。エジプト人は、美しい
サライを見て、自分を殺すだろうと恐れた。

そこでサライに妹だと嘘を言うようにと。腹違いの妹であるが、こ
の場合は、故意に妻である事を隠す、嘘であった。主に頼らずに、
嘘で、自分を守ろうとした。主を仰がなければ、次々と肉で進んで
しまう。アブラムが、そんな事をしてサライはどうなるのか。自己
中心、自分勝手な肉の行ないだった。すると、サライはパロの宮廷
に召し入れられた。

パロは、サライのゆえにアブラムを厚遇し、沢山の家畜や奴隷を与
えた。しかしこのサライの危機に際し、主が介入され、パロとその
家をひどい災害で痛めつけられた。主の介入により、サライは難を
逃れ守られた。アブラムと一族は、すべての所有物と共に出された。
信仰の父、信仰の勇者と言われたアブラハムにもこのような失敗が
あった。

飢饉に際して、祈らず、肉の思いと判断でエジプトへ下った。又、
そこでも祈らず、保身に走り、大変な罪を犯してしまった。危機に
際し、まず祈ろう。主が進むべき道を教えて下さる。又、失敗する
なら、そこで主に向き、悔い改め、主の赦しを受けて、向きを変え
て歩んで行ける。
--------------
主から大きな約束を受けていても、危機になれば自分の策を弄して
しまう。肉の思いはいかに頼りないかを学ばされる。主のご計画通
りにはなかなか歩めない者だが、弱さを覚えて主に従いたい。


2026年05月21日(木)

「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、 弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々 に信仰にはいった」使途6:7




初代教会は、聖霊の力強い働きにより、人々がどんどん救われ増え
て行った。そんな中、問題が起きた。ギリシャ語を使うユダヤ人た
ちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情が出た。やもめ達
が、毎日の配給で、なおざりにされていた。そこで12使徒は、弟子
たち全員を集め、この問題の解決に当たる際に、御言葉の奉仕がま
ず一番重要で、最優先である事を伝えた。

つまり、神の言葉を教える事を後回しにして、食卓の事に仕えるの
は良くないと。御言葉の奉仕を最優先にして、全員一致し、問題の
解決に当たりたいと。その結果、御霊と知恵に満ちた、評判の良い
人、7人を選出して、この事態に対応させる事となった。

そしてペテロ達は御言葉の奉仕に専念できるようにした。この事は
全員の承諾を得、一致の中で行なえた。皆に平安があった。問題に
良い解決が与えられた結果、「神のことばは、ますます広まって行
き・・弟子の数が非常に増えて行き、多くの祭司たちが次々に信仰に
入った」。

問題解決だけでなく、更に宣教の前進、結実が与えられた。私たち
も常に問題は起きる。その時に「もっぱら祈りとみことばの奉仕」
の通り、まず祈り、御言葉に聞き、主の導きを求める時に、御心が
示され、良い解決が与えられる。問題の際には、神の言葉をあと回
しにし、自分で考え、動き回るのでなく、「祈りと御言葉」に立と
う。
-------------
問題解決に向かうとき、自分の内は絶えず迷い動揺がある。主の御
言葉と主への祈り無くしては何もで出来ない。御心を求め、それを
実現出来るように祈ろう。


2026年05月20日(水)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、 互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


聖書では、人からの忠告や助言に耳を傾けるようにと言われる。自
分は高慢かどうかが、わかる事柄があると言われる。それは、人の
意見や助言を聞けるかどうかだと。高慢であれば、自分の考えが一
番正しいと思うので、人からの助言や忠告が聞けない。人から教え
を受ける必要を感じない。プライドは自分を高くする。そして他人
はライバルになってしまう。

へりくだっていなければ、人からの助言は聞けない。しかし、へり
くだっているなら、他者の助言に耳を傾けられるので、どんな人か
らでも、教えを受ける事ができ、学ぶ事ができる。そのため謙遜な
人は、ますます成長して行ける。ある役職付きのクリスチャンが、
職場でプロジェクトについて会議をしていた。難しく進まない中
部下が一つの提案をした。

一瞬、良い案だと思ったのだが、自分の口から、否定する意見が出
たのだ。一応その場は終わったが、帰宅しても平安が無かった。心
がざらつき、主の御前に祈った。心を打ち広げ、祈って行った。
すると部下の提案は、素晴らしものであり、それをすぐに受け入れ
られなかったのは、部下からであり、上司である自分のプライドだ
と気づかされた。

御前に悔い改めて、平安にされた。翌日、部下の案を採用する事を、
皆に伝えた。その企画は大成功し、主の祝福を感じた。しばしばプ
ライドは、助言、忠告を阻止する。へりくだって耳を傾ける事に心
を向けよう。
--------------
誰に対しても同じようにへりくだるのは本当に難しい。自分には出
来ないが、そのような者にと主に祈りたい。そして、いつまでも成
長していきたい。主は堅い自我から解放してくださる。


2026年05月19日(火)

「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の 王座をとこしえまでも堅く立てる」Uサムエル7:13


ダビデは、主のためにと神殿建設を願い、祈った。しかし主の答え
は「ノー」だった。そのダビデの願いは退けられたが、他に御心が
あった。ダビデの身から出る、世継ぎの子が建設すると。次世代に、
神殿建設は定められていて、その者が一つの家を建て、主がその王
座を堅く立てると示された。ダビデは神殿建設を求めたが、答えは
「ノー」だった。

私たちも、このような事を経験する。自分の心からの願いに「ノー」
と言われたら、どうだろう。その時に、二つの反応が可能だ。一つ
は思い通りで無い事に、やる気を無くし、又、反抗的態度になるか
も知れない。もう一つは、「ノー」を主のお心と受け入れ、では、
主の御心が遂げられるために、自分は何をなすべきか、どう動くべ
きかを祈り、考える。

ダビデは、「ノー」を受け入れ、息子ソロモンの建設のために、準
備に回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。政
治的、経済的安定がなければ、神殿建設は不可能だ。そのために、
ダビデは諸国の敵と戦い基盤を築いて行った。「主は、行く先々で
勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が連勝を与えられた。

そしてダビデは膨大な戦勝品を、建設資金として主に献げて行った。
自分の思う道が閉ざされた時、ダビデに、ならおう。自分に備えら
れた御心があり、使命がある。それを主に尋ね、従おう。そうする
時、主は大きな祝福を備えていて下さる。
--------------
道が閉ざされても、それが主の導きだととらえ前進できる。なんと
感謝な歩みだろう。主の答えを受け入れよう。本来の道へと新しく
されて、また歩みだせる。


2026年05月18日(月)

「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、 歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのでは ないことを」エレミヤ10:23


信仰生活が長くなるほど、人生は、自分の思い通りにはならない事
を多々経験する。例えば、オリンピックでは、どうだろう。ひたす
ら練習し、これ以上できないほどの準備を積む。心身共に、どんな
に過酷な訓練だろう。すべてを犠牲にして臨む。しかし必ず結果が
出るとは限らない。不測の事態が起きるかもしれない。当日、体調
不調になるかもしれない。

又、余りの緊張で、ミスをし、実力が発揮できないかもしれない。
オリンピックでは、時々目にする。優勝候補の選手が、ミスをして
しまう。自分の計画通りには行かない事を見せられる。私たちも、
どんなに目標を立て、綿密な計画を立てても、その通りにはならな
い事を経験する。

しかしそんな中で、私たちは自分の道を思い巡らすのだが、主こそ
が、その人の歩みを確かなものにする事を教えられて行く。自分の
計画する道が閉ざされた時、その背後に、主の計画があることを覚
えよう。そして、「神がすべてのことを働かせて益としてくささる
ことを、私たちは知っています」、主が、私たちの思いを超えて、
益として下さる。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ
さる」。自分の道を、主にゆだねることが必要だ。そうすれば、主
が成し遂げて下さる。それは、困難な道かもしれないが、主がその
歩みを確かなものとして下さる。
-----------
思い通りに行くのが一番との、強い価値観があることに気づかされ
る。主に委ねられない肉の思いを悔い改めたい。主に結果を委ねて
いこう。晴れても曇っても主の豊かな祝福がある。


2026年05月17日(日)

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、 神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを 用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」エペソ 6:17



信仰生活では、悪魔の攻撃が絶えず来る。24時間中
ずっと来る。「悪魔の策略」と言われ、「策略」を持って
来る。無策なのでなく、練り込まれた用意周到な策略
がある。あなたの弱さに誘惑が来る。驚くほど的確だ。
常に祈りで見張っていなければ、やられてしまう。又、
やられていて、気づかない。

ダビデは、サウル王に激しく妬まれ、ずっと命を狙わ
れた。サウルに対して、何の悪事もしていないのに、
荒野を逃げ回り、日々死と隣り合わせの恐怖だった。
そんな中、サウルを討つ千載一遇の機会が臨んだ。
部下は、今こそ、サウル討伐をと申し出た。今が、神
からの時と。だが、ダビデは動かなかった。主の御心
を第一とした。「主に油注がれた方に手を下すなど、
絶対にできない」と。

主が打たれるから、手出しをしてはならないと。ダビデ
は、罪を犯す事から守られた。そんな信仰者であるダ
ビデが、バテシバと姦淫を犯し、サウルを殺さなかった
ダビデが、罪の無いバテシバの夫ウリヤを殺害した。
部下が命がけで戦闘に出ている中、夕刻に起きるよ
うな怠惰な生活をし、その油断を悪魔に狙われ、つけ
込まれた。

バテシバへの誘惑が来た時に、「主よ!」と助けを求め
て祈れば良かった。罪を犯した後、悔い改めたなら、罪
を重ねずに済んだ。悪魔は策略を練り、巧妙に私たちの
弱い所を襲う。相手は陥れようとして、襲って来るので、
やられてしまう。霊の敵を踏まえて、主に頼り、祈りと御
言葉を身にまとっていよう。
・・・・・・・・・・・・・・

天に帰るまでは、日々絶え間無い、サタンとの霊の戦い
である事を、踏まえていよう。サタンの大きな攻撃の一つ
が、それを忘れさせる事だ。肉で動くよう誘惑される。主を
仰いでおれるよう祈っていよう。


2026年05月16日(土)

「このミカという人は神の宮を持っていた・・その息子 のひとりを任命して、自分の祭司としていた」士師17:5


ミカという人がいた。母親が銀千百枚を盗まれた。
その時、母親は盗んだ者を呪った。だが息子のミカが、
盗んだ事を知ると、何と息子を祝福する。子を愛する
なら、懲らしめるべきだ。溺愛で、一貫性無き自分の
都合次第だ。ミカが銀を返した時、母親は、その銀を
聖別して主に献げると言った。

が、二百枚を献げただけで、その銀で我が子のため
に、彫像と鋳像を作った。主が忌み嫌われる偶像を
作る、それがミカの母親だった。ミカも、自宅に宮を
作り、自分の息子を祭司にしていた。だいたい神の
宮を家に作るなど有り得ないし、息子が祭司になど
なれない。

そんな時、レビ人の若者が来たので、財力で自分の
家の祭司にした。レビ人も、お金に目がくらみ、受け
入れた。祭司は、レビ人でも、アロンの子孫しかなれ
ない。王が無い時、このように霊的にも道徳的にも混
乱し、偶像礼拝がはびこり、秩序は乱れ、カオス状態
だ。これも、周囲の民の偶像礼拝や風習に影響され
た事による。

口では、「主」「神」だが、する事は、神に背いた事だ
った。めいめいが自分の目に正しいと見える事を行
ない、正義も、義も、主の御心も無かった。ただ自分
の損得、自分の都合で、判断もその場〃で変わる。
真理が無い。それは、「王がない」ためだと。人は、王
が無い時に、自分中心に、自分の思いのままに歩む。
私たちも、どうだろう。主に心の王座に来て頂こう。そ
うでないと、正反対に方向を誤ってしまう。
・・・・・・・・・・・・
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の
終わりは死の道である」。自分に都合の良い、肉の
選択は、主の栄光と真逆の結果になってしまう。御
霊の導きに従えるよう祈ろう。


2026年05月15日(金)

「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の 心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、 このような人のことです」マタイ13:19


ある人の証しだ。「主イエスを信じ救われたが、ずっと、神様の事
がよくわからず、漠然としていた。ある時、種蒔きのたとえを学び、
「道ばたの土地」に自分が重なり、自分の心だと気づかされた。御
言葉を聞く事に拒否反応は無く、むしろ良い事と、喜んで聞くのだ
が、頭だけで、決して心に受け入れていなかったと。

強い自我が、受け入れる事をずっとさえぎっていた。「その通りに
したなら、やって行けない」「御言葉はそう言うが、自分はそう思
わない」「人にどう思われるか」「周囲に嫌われたくない、適当に
合わせておきたい」「グレーなら、摩擦がなくうまく行く」・・御言
葉と同時に、自分の思いが必ず来ていた。

その肉の思いの方を受け入れ、御言葉を捨てていた、それが、心で
ずっと起きていた事だと、初めて理解できた。御言葉を受け入れな
いので、自分は全く変わらず、実を結ぶ事も無かった。そのため聖
書も、神もなかなかわからなかった。御言葉を捨てていると気づか
ず、思いもしなかった。御言葉を受け止め、一つ一つ実行する事を
始めた。

その時に初めて、自分の力では御言葉を行なえない事を知らされ、
祈る事を教えられた。祈って、主の助けを求めて行く時に、実行で
きる事も経験した。御言葉を聞く時に、サタンが御言葉を奪う事を
覚えよう。御言葉をスルーさせたり、肉の思いを持って来る。そこ
に気づける事が感謝だ。
--------------
主を知っていても、以前と変わらず不安や思い煩いでいっぱいにな
るとき、御言葉より肉の思いを選んでいることに気づく。主の御言
葉を受け止め、信じて従いたい。


2026年05月14日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し 遂げてくださる詩篇37:5



ある女性が職場で、プロジェクト立ち上げのチーフに抜擢された。
専門的な技量を見込まれての事で、3ケ月ほど、ハードで残業が続
くだろう。今でも、家庭と仕事の両立が手一杯で、重大な責任を負
うのは無理だ。家族にも迷惑がかかる。即、断ろうと思ったのだが、
とにかく祈ろうと思い、御前に静まり御心を求めて祈った。そして
主にゆだねた。

夫に話すと、「してみれば?」と。「え?」意外な返答に驚いた。
専門分野で、良い経験になるのでは。家の事は協力するからと。想
定外に門が開かれたが、しかし仕事内容の不安、自分に出来るのか
との恐れ、更にチームを率いる不安、それらを具体的に祈って行っ
た。その時に「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。わたしがあなたの神だから。あなたを強め、あなたを
助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と御言葉が与えられ、
受ける事にした。すると夫と共に、子どもたちも協力してくれ、近
くの母親まで、時々食事を届けてくれた。親族の愛情に改めて感謝
があふれた。

一日一日と日ごとに、真剣に祈らされた。真剣に主に向き合い、拠
り頼む日々とされた。結果的に成功を収め、主により、更に持てる
ものを引き出された。何よりも、この事態を通して、信仰によって
歩ませられた事、主に近づけられた事が感謝でならなかった。
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大きな問題であればあるほど、心配で委ねられずに悩んでしまう。
不信仰な者だ。主を信頼し、約束の御言葉を信じよう。信じて主の
手に委ねられるよう祈ろう。


2026年05月13日(水)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、 主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


ジョニーという女性の証しがある。水泳の飛び込みに失敗、脊髄を
傷め、何とか命は取りとめた。だが一生身体は動かないとの宣告に、
絶望のどん底で、死を願った。「鏡に映る姿は人間ではない。窪ん
だ2つの眼球は血走ってどんよりし、36キロにやせた身体は、黄疸
で皮膚は黄色く、まるでがい骨だ。太った頭に、歯も薬物治療で黒
く、とても生きて行けない」。

自らの外見に絶望しかなかった。しかし周囲の祈りと暖かい対応に
少しづつ励まされる。時を経る中で「神がどう見ておられるかが重
要で、人がどう見るかは問題ではない」「人でなく、神からの価値
だけを考えよう」との言葉に、自分が神の似姿に造られた事に目が
向いた。この身体、外見、能力、出来る事と出来ない事、自分でど
う見えても、信仰に立とうと決心した。

そして信仰により、自分の事を神に感謝する事にした。するとパズ
ルが埋まるように、すべてのものをふさわしい場所に置くよう導か
れた。更に、より良く神に仕え、より幸せになれるように、神がこ
の身体を与えられたと受け止められた。もしこの出来事が無ければ、
人生最後まで、自己中心に自分の思うがままに、生きただろう。

神が特別に自分に関与して下さった事に感謝できた。今、喜びがあ
り、幸せで、自分を他のものに変えたいと全く思わない。奇跡だっ
た。感謝する事は、今の状況に神を認める事になる。その時、神が
働かれ、状況に関係の無い、御霊の平安が与えられる=つまり道を
まっすぐにされる。そして感謝する事は、サタンの足場を崩してし
まう。
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主に感謝していくとき、つぶやきも不平不満も消えて最善を信じて
いける。全てのことに主を認めていたい。目には見えない主の平安
の中を歩める。


2026年05月12日(火)

「彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。 『主よ。もう十分です・・』」T列王19:4



エリヤはバアルとの熾烈な戦いで、大勝利を遂げた。だが、怒った
イゼベルがエリヤ殺害命令を出す。エリヤはその途端、恐怖の余り
逃亡し、何と死を願った。エリヤは、あれほど一人で勇敢に戦い勝
利したのに、何を怯えるのか?と思うが、霊の敵、相手に極めて激
しい厳しい戦いに、心身消耗しきっていた。

又、霊的勝利の後は、特に要注意だ。勝利に喜び、安堵し、油断し
てしまう。又、高慢になってしまう危険もある。そこに悪魔が牙を
むく。成功の後こそ、身を引き締め、へりくだって、ますます主に
拠り頼む必要がある。あの信仰の勇士エリヤが、怯えた原因は、イ
ゼベルの言葉だった。主の言葉でなく、イゼベルの言葉を受け入れ
てしまった。

聞くべき言葉と、聞き流し、拒否すべき言葉がある。言葉によって、
動揺し動かされてしまう。私たちはどの言葉に聞いているだろう。
主の言葉か、悪魔の言葉か。主はエリヤを責めも、叱りもされず、
休息させられた。深く眠らせ、食事を与え、十分休ませられた。心
身消耗しきっている時は、まず休息が大切だ。

十分な睡眠と食物で、回復したエリヤは、ホレブの山に行き、ほら
穴にいた。主は、山の上で主の前に立つよう命じられた。かすかな
細い声に耳を傾けて行くと、主はエリヤの、自分一人になったとの
思い込みを正し、まだ7千人が残されていると。そして新たな使命
を与えられた。再び、主の使命を果たすために立ち上がる事ができ
た。
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身体の不調な時、疲れている時は心も引っ張られネガティブになる。
気づいたら感謝だ。祈れる。そのままで主に守ってもらおう。また
元気に立ち上がれる。


2026年05月11日(月)

「・・そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのもの がはっきりと見えるようになった」マルコ8:25



ベッサイダで、人々が、主のもとに盲人を連れて来て、触って下さ
るよう願った。主は盲人の両眼につばをつけ、両手を当てられた。
「何か見えるか」の問いに、彼は「人が見え、木のようだが、歩い
ているのが見える」と言った。見えるのだが、はっきりとは見えな
い。人が木のように、ぼんやりとだった。見えるようになりつつあ
るが、十分でなかった。

それで、主がもう一度両手を彼の両眼に当てられた。彼が見つめて
いると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになっ
た。いやされた。主に直接触れられ、ぼんやり見えるようになり、
彼が「見つめて」いた時に、「はっきり」見えるようになった。私
たちはどうだろう。主を、じっと見つめているだろうか。

忙しく、慌ただしくて、じっと見る余裕など無いだろうか。主が、
何だかぼんやりしているのは、そのためだろうか。デボーションも、
なすべき事が気になり、心が座らず、立ったままだろうか。主は彼
の目を開かれたように、私たちの見えない目も開いて下さる。御言
葉により触れて下さり、ぼや〜としていたのが、少しづつはっきり
とさせて下さる。主が目を開いて下さる。

彼は、ぼんやりした中も、失望せず、じっと見続けた。今、まだよ
く見えなくても、求め続けよう。御声に耳を傾け続けよう。時間を
かけながら、主は必ず少しづつ〃はっきりと見えるようにして下さ
る。なすべき事は、主を求め続けることだ。求めよう。御言葉によ
り、ご自身を現わして下さる。
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ぼんやりとしか見えなければついて行く事が出来ない。主のご愛や
聖さをもっと知りたい。求めよう。そして主を信頼し、賛美しなが
らついて行こう。


2026年05月10日(日)

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に 住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者 であることを知るようになる」出エジプト記29:46


出エジプト記は、新王が、民を苦しめるところから始
まる。民は過酷な労働にうめき、叫び、その叫びは
神に届き、エジプト脱出となる。最後は「主の栄光が
幕屋に満ちた」となる。その中で、主は幕屋を作るよ
うに命じ、「わたしのために聖所を造るなら、わたしは
彼らの中に住む」と。

アロンとその子たちを祭司に任命し、聖別し、その所
で、罪のための全焼のいけにえを献げさせるためだっ
た。律法を与えると同時に、その示す罪への解決、罪
のための贖いを備えられた。幕屋は、神が彼らの間に
住むために与えられた。神が、民の間に住むことが、
エジプトから出された目的だと。

「彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住
むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者・・わ
たしは彼らの神、主である」と。脱出させたのは、主が
民と共に住むためだった。「ことばは人となって、私た
ちの間に住まわれた」そして「この方の栄光を見た」と。

「わたしにとどまれ。わたしも、あなたがたの中にとど
まる」、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」と。
「とどまる」=「住む」、主と一つであると。そして将来
の最終的、新天新地で「見よ。神の幕屋が人とともに
ある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」と。
奴隷であった民、罪の奴隷であった私たちが救出され、
主が共に住まわれる。何という大きな光栄、喜びだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私たちを、世から救い出して下さったのは、主が私た
ちと共に住むためであること、主と一つとして下さる
ため。何という喜び、何という驚くべき光栄だろう。


2026年05月09日(土)

「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲も うかと心配したり、また、からだのことで、何を着よう かと心配したりしてはいけません」マタイ6:25



心配事があるだろうか。問題は、次々と起きて、心配
事を抱える。親子、夫婦の悩み、対人関係の苦しみ、
仕事、経済的苦境、様々な悩みで思い煩う。しかし主
は「心配するな・思い煩うな」と言われる。「何も、いっ
さい思い煩うな」と。

なぜ心配無用なのか。心配することで、何かの益にな
るのなら良いが、全く何の益も無い。思い煩ったところ
で何一つ変わらないし、何を成し遂げる事もない。「誰
が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばす
ことができるか」の通りだ。心が真っ暗に落ち込む事で、
何かを変える事ができるのだろうか。

思い煩いは有害無益だ。又、思い煩いは、実際より物
事を大きく見せる。冷静に対処するなら、乗り越えて行
ける事態が、恐れでパニックに陥る。斥候たちが、カナ
ン視察の後、ヨシュアとカレブは大丈夫だ、占領できる、
前進しようと言った。が、民は恐れて怯えて泣き伏した。
私たちも、その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、それ
を繰り返し〃受け入れ続けていると、不安と恐れの要
塞を築き、それを強固にし、モンスターにしてしまう。

自分がそうしてしまっている。モンスターにはとても打
ち勝てず、敗北しかない。不信仰に陥る。しかしそれは
現実ではない。空想上のモンスターであり、自らが描
く最悪のシナリオは成ったためしがない。「祈りと願い
事によって」その不安、この恐れを主に知って頂こう。
「思い煩うなと言われるが、どうにもなりません」と、あ
りのままを、主に祈ろう。引き受けて、助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サタンが、次々と思い煩いを吹き込んで来る。そして
その思い煩いに対して、最悪のシナリオを見せて来
る。それを拒否し、祈りに持って行こう。主に知って
頂くことで、安堵が来る。


2026年05月08日(金)

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りを よくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふとこ ろに入れてくれるでしょう」ルカ6:38



ハドソン・テーラーのよく知られた証しだ。彼は、医師の助手をし
ていた。その医師は、給料をよく渡し忘れるので、その時は言うよ
うにと。それに対し、彼は、その時には、言わずに祈り、主から直
接答えを頂く、信仰の訓練としたいと考えた。

すると、やはりその月、医師は給料の支払いを忘れた。彼は、告げ
ずに祈った。黙ったまま、祈り続けていた。段々食料も減り、底が
ついて来た。そして、とうとう残りが銀貨1つになった。丁度その時
に、貧しい子どもが来た。母親が病気で困っている。手元には銀貨
1つだ。2つあれば、喜んで1つあげるのだが、1つしか無いので、
あげられなかった。

その夜、祈り始めたが「偽善者」との思いが来る。「祈りよりも、
それを与えるべきだ」と。出来ない自分に、神のみに頼る信仰など
無いと知り、惨めになった。しかし結局、子どもに最後の銀貨を上
げて、財布は空になった。だが心はすっきりし、晴れやかになり、
平安で満ちた。その日の夕飯は残り物を食べ、だが翌朝からは、も
う何も残っていなかった。主に拠りすがり、祈り続けた。

すると朝に郵便が来た。封筒を開くと、何と彼が与えたお金の数倍
が入っていた。そのお金が無くなる頃、医師が給料の事を思い出し
てくれた。神は真実であり、生きて働いておられる。「彼らはあな
たに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」「正しい者が見捨てられ
たり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」。主の真実を
見せられる。
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豊かにあれば与えられるものをと、なかなか与えられない者だが、
従う度に、自分自身が主に惜しみなく愛されていることを知らされ
る。与える思いを主は祝福してくださる。


2026年05月07日(木)

「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚 の民に。家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ」 エレミヤ29:4


エレミヤの時代、イスラエルの国はアッシリヤに滅ぼされ、捕虜と
して連行された。しかしそのアッシリヤはバビロンに滅ぼされた。
バビロンは侵攻し、国々を滅ぼし、とうとうユダ王国もバビロンに
捕囚となった。当時のユダは神から離れ、民は偶像礼拝に陥り、堕
落していた。預言者たちは、人々に耳ざわりの良い、心地良い言葉
だけを語り、平安が無いのに、「平安、平安」と言っていた。

だが神の人であるエレミヤは真っ直ぐに、そのまま神の言葉を語っ
た。そのため迫害され苦しめられた。バビロン捕囚まっだだ中の、
暗闇の中で、エレミヤは神の言葉を告げた。その捕囚は、「災い」
としか見えないが、災いではなく「平安・将来・希望」のためのも
のだと。すぐに解放にならないので、その地で落ち着いて、腰を据
えて生活せよと。

そして敵であるその町の繁栄を祈れと。それは自分達の繁栄になる
からと。私たちも苦悩の時、一番欲しい言葉は、即、問題解決、苦
難からの解放だ。しかし口先だけの慰めは、更に傷を深くする。思
い通りでない、かせのような現状を受け入れるなら、その中で神か
らの力、支え、励ましにより歩めると。

現実を受け入れる事が大切だ。いつまでもそのままではなく、「70
年の満ちる頃・・あなたがたを帰らせる」。現状の中で主に従うなら、
そこに「平安」が約束されている。そして神の時に、そこから解放
して下さる。
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困難な場所からの即、解放を祈るが、暗闇の場所にも主の御約束が
与えられる事は感謝だ。示されたなら、この場で主の守りを信じ、
平安を得たい。その時を待ち望もう。


2026年05月06日(水)

「そのとき、イスラエルの王はヨシャパテに言った。『私は変装 して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてくだ さい。』こうして、イスラエルの王は変装して戦いに行った」 T列王22:30


イスラエルのアハブ王は、ユダ王ヨシャパテに、ラモテ・ギルアデ
をアラムから取り戻そうと、誘った。ヨシャパテはアハブの申し出
に乗り、主の言葉を聞くよう要請した。アハブは預言者400人を集
め、伺いを立てると、彼らは上って行くようにと口を揃えて答えた。
預言者ミカヤだけは正反対の預言をした。そしてアハブ王が悪霊に
惑わされている事、殺される事を告げた。

アハブとヨシャパテはアラムと戦う事になり、アハブ王は巧妙に自
分は助かろうと、ヨシャパテに王の服を着せ、自分は変装した。敵
を欺き、自分だけ逃れようとした。だがアラム王の命令は、アハブ
王だけを狙えだった。敵が、ヨシャパテをイスラエル王だと間違い、
戦おうとした時、ヨシャパテは祈った。

すると敵は、彼がユダ王ではないと知り、引き返した。主の関与だ
った。そして一人の兵士が、「何げなく」放った矢が、何とアハブ
王に的中し、彼は傷を負い死んだ。別に彼はアハブを狙ったわけで
はない。主がそうされた。ミカヤの預言が成就した。主の完璧な主
権と支配を見る。

人がどう画策しようと、主の主権のもと、主の御心が成就する。そ
れゆえ、日々の生活も、人生も、自分自身も、主に委ねよう。その
時、あなたへの最善のご計画を一つ違わず、成し遂げて下さる。そ
して、平安に守られる。
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人の思いを超えて主のご計画だけが成る。強い思いがあるなら心を
注ぎだして主に祈りたい。主が交わりの中で導いてくださる。御心
に従いたいとの姿勢でいよう。


2026年05月05日(火)

「彼は地に倒れて、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害 するのか。』という声を聞いた」使途9:4



パウロの以前の名、サウロはキリスト者に激しく敵対し、殺害の意
に燃えていた。それが神の御心、正しい事だと信じていた。エルサ
レムから、執ように追跡し、ダマスコへ向かう。近くまで来た時に、
突然、天からの光が来て、地に倒れた。そして主の御声を聞いた。

「なぜ、わたしを迫害するのか」。倒れた地面から起き上がった時、
目が見えなかった。サウロにとって、何がどうなったのか、根底か
らくつがえされる、衝撃的な出来事だったろう。その後3日間、盲
目の状態で、飲食もしなかった。真っ暗闇の中で、サウロは過去を
思い、今、目の前に起きた事を考え、これから先を考え、祈りに祈
った事だろう。サウロは「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。

主が倒されて、聞かせられた。私たちはどうだろう。全力疾走の時
は、周囲の事は見えないし、自分の事も見えない。行き詰まった時
に、失敗した時に立ち止まる。疾走する私たちにも、主は、立ち止
まらせようと、挫折や失敗、行き詰まりを与えられる。そこには主
のご計画があり、大きな祝福へと導かれる。

もし今、行き詰まって暗黒状態なら、サウロのごとく、主は祈らせ、
主との交わりに入れられたい。自らを振り返り、現在の状況を見据
え、今後について、祈ろう。「そこで、彼は祈っています」サウロ
は真剣な祈りのもと、主が、アナニヤが遣わされ、再び見えるよう
にされた。「目からうろこのような物が落ち」、私たちも暗黒を通
過後、主が目を開き、はっきりと見えるようにして下さる。
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行き詰り、先の見えないような状況の中に主のご計画がある事は、
感謝だ。すぐに主の御恵が見えなくなる者だが、これを主を知る
機会としたい。教えようとされている事を聞こう。


2026年05月04日(月)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめ のある人たちを赦しました」マタイ6:12



人を赦すことは、非常に難しい。ある人が、良かれと思い、多くの
時間、労力を使ってした事を、他者から批判された。それも、陰で
言われた事が、巡って耳に入った。ひどく傷ついて、腹が立って仕
方が無かった。殴りかかりたいほどだった。そんな中、その相手は、
部署替えになり、顔を合わすことも無くなった。

しかし祈りの時に、平安もって祈れなくなった。「私たちの負いめ
をお赦しください。私たちも、私たちの負いめのある人たちを赦し
ました」との御言葉を前に、先に進めないのだ。相手を恨み、赦せ
ない強い思いがある事を示され、胸が苦しくなった。だが怒りでい
っぱいで、赦せない。それなら、自分の負いめも赦されない事にな
ってしまう。

悶々状態となった。赦せばよいのだが、怒りと憎しみ、赦せない思
いが、どうにもなない。辛くてたまらない中、主に、あるがままの
気持ちを、ことごとく打ち明けた、怒り、憎しみ、赦せない思い、
何もかもを吐き出した。「赦せません。いや、本音は赦したくあり
ません。でも、助けて欲しいです」、御前に祈り続けていた。その
時、目の前に主の十字架が迫って来た。

罪の無いキリストが、十字架にかかっておられる。十字架を見続け
ていると、なぜか不思議に「赦してもいい」と思えて来た。意志を
向けて「赦します」と祈った時に、心のつかえが取れて、平安が来
た。自分にはできない、自分ではない、御霊の働きだった。祈りに
持って行こう。御霊の力によって、赦すことができるようにされる。
--------------
憎い思いが湧きおこる度に、相手の罪を再度数えてしまう。主に助
けを求めよう。主が豊かに赦してくださったように、赦せるように
主が解放してくださる。


2026年05月03日(日)

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、 愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あな たにとってはなおさらのこと・・」ピレモン16



「ピレモンへの手紙」は、ローマで獄中にいたパウロが、ピ
レモンに宛てた書簡だ。主人ピレモンの奴隷であった、オ
ネシモが主人のもとで盗みを働いて逃亡した。ローマまで
逃げたが、捕らえられ投獄の身となった。だが、そのローマ
でパウロに出会い、主を信じ救われた。

クリスチャンになったオネシモは、獄中でパウロに仕えて
いた。パウロはオネシモを「獄中で生んだ我が子」と言っ
ている。そして、以前は役に立たない者であったが、今は
「役に立つ者」と。彼は、真に悔い改めたようだ。しかし、
主人ピレモンの奴隷なので、パウロはオネシモを主人ピレ
モンのもとへ帰したいと思っていた。

そこでパウロはへりくだって、ピレモンに、オネシモを赦し
て受け入れてくれるよう執り成している。弁償はすべて自
分がするからと。奴隷であるオネシモは、取り返しのつか
ない罪を犯してしまった。本来なら、逃亡奴隷は死刑だ。
しかし神視点で見ると、全く異なる見方になる。そこに神の
摂理があり「しばらくの間あなたから離されたのは、あな
たが彼を永久に取り戻すため」となる。

何というあわれみで、希望があることだろう。愛なる主の
もとで、人生が全く変わったものとされる。人の失望の時
は、神のご計画の時と言われているが、すべてが主の
御手の中で益と、主の栄光へと導かれて行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
ヨセフも、兄達の悪巧みでエジプトに売られたことを、神
が遣わしたと、神視点に立った。一族の命を救うためと。
神視点に立つ時に、全く違って見えてくる。神視点に
立って見せて下さるように祈ろう。


2026年05月02日(土)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩 篇139:1


ある説教者が、大きな伝道大会の説教を頼まれた。
重大な働きだ。準備のために心整え、祈り始めた。説
教準備をするのだが、上から与えられない。尚も祈り
続けるが、与えられない。期日が迫る中、焦りを覚える。
一日断食祈祷をし、心を主に向けた。その中で、心の
奥が照らされた。

数名による非難と批判を受けて、ひどく傷つき、赦せな
い思い、恨み、憎しみがあった。自分では認めたくなく、
心の奥に封印していた。主の御前に、心底悔い改め、
一人〃の祝福を心から祈った。その時、心がすっきりし
て、晴れやかになった。そして上からのメッセージが与
えられた。大きな喜びと共に、豊かに祝福されてその大
会は終えた。

ある人は、仲の良い親友がいたが、卒業後、別々になり、
それぞれ結婚もして、遠方で会う機会も無かった。それが
教会の合同キャンプで、長年振りに出会い、喜んだ。そこ
で、相手が、大変賞賛を受ける事態があった時、心さわつ
き、動揺したのだ。心が暗くなり、帰宅後、御前に行き祈っ
た。あるがままの思い、気持ちをことごとく告げて、主と交
わった。

すると御霊に照らされ、相手への妬みを示された。親友で
あり、絶対に認めたくない事だった。しかし紛れもなく、以
前から見え隠れしていた感情だった。それを認めて悔い
改めた。心がすっきりと、平安にされて、主に感謝した。自
分で、内にあるものはわからない。御霊に示され、初めて
認識できる。主は私たちを取り扱い、平安へ〃と導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
御霊の光で、初めて心の底が見せられる。自分ではわか
らない。心が何かザラつく時、平安が無い時、御霊の
語りかけだろうか。「聖霊は、すべてのことを教え」て下さり
平安に導かれる。


2026年05月01日(金)

「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。 『・・そんなことが、あなたに起こるはずがありません。』」マタイ 16:22


主が、弟子たちに「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみが
える」と十字架の贖いをはっきりと話された時、ペテロは「そんな
事が起こるはずがありません」と主をいさめた。その時に主は「下
がれ。サタン」とペテロに向かって言われた。その前に、ペテロは
「あなたは生ける神の御子キリストです」とすばらしい信仰告白し
たばかりだ。

主も、この事を明らかにしたのは、人間ではなく、天の父だと言わ
れた。その後にペテロは、今度はサタンの声に聞いている。ペテロ
が、サタンからの思いを受け入れたのは、「神のことを思わないで、
人のことを思っていた」からだった。王となり、ローマ帝国の支配
から解放してくれる主が、死ぬ、殺されるなどと有り得ない、有っ
てはならない事だ。そのため否定した。

私たちもどうだろう。思いを吹き込むサタンにだまされる時は、肉
の思いにいる時だ。その時は、決まって主が意識から飛んでいる。
目に見える所だけを見ている。肉の損得や情や欲望に支配され、神
無しで判断してしまう。サタンにやられてしまう。パウロは「今後、
人間的な標準で人を知ろうとはしない。

かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもう
そのような知り方はしない」と言った。人間的な標準とは、御言葉
でなく、肉の価値観だ。サタンは巧く世の価値観に誘い、方向を誤
らせ道を間違わせてしまう。自分は正しいと思うのでやっかいだ。
主に拠り頼み、祈っていよう。御言葉に立とう。
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見方によって全く違ったものになる。世の価値観のまま、安易な受
け答えをしがちだが、どちらに立っているだろう。御言葉に立ち、
主の御心に添った生き方を祈りたい。