2026年04月17日(金) 「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダの ベエル・シェバに来たとき・・えにしだの木の陰にすわり、自分の 死を願って・・」T列王19:3
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダの ベエル・シェバに来たとき・・えにしだの木の陰にすわり、自分の 死を願って・・」T列王19:3
エリヤはバアルの預言者たちと熾烈な戦いをし、主の奇跡による大 勝利をした。霊的戦いであり、心身限界の消耗状態にあった。その 後、王妃イゼベルによるエリヤ殺害命令を知り、絶望感で、うつ状 態に陥る。主はそのエリヤを決して責めず、叱咤激励でなく、深い 眠りと食物を与え、十分に休息させる。うつ状態に必要なものは、 まず休息だ。 充分に休息した後、エリヤは再び立ち上がれて、神の山ホレブに向 かう。主はこのホレブで、エリヤに語りかけられた。ほら穴にいた エリヤに、「外に出て、山の上で主の前に立て」と。激しい風、地 震、火が来たが、その中に主はおられなかった。人が思うような、 はっきりした形ではなく、主は「かすかな細い声」で来られた。 耳をそばだて、しっかり聞かなければ、聞こえない細い小さな声だ。 しかし、聞こうと耳を澄ます者には、聞こえて来る。主を仰ぎ、心 を向けて静まる時に、小さな細い御声が聞こえて来る。そこで主は エリヤに語りかけ、「ただ私だけが残った」と言うエリヤのネガテ ィブ思考を正される。「わたしは、七千人を残しておく」と。 エリヤは、自分一人だけ、孤独の中にいると絶望していたが、主の 視点からはそうではない。全く事実は異なる。今、自分に閉じこも って何も見えず、ネガティブにしか考えられないなら、主に正して 頂こう。事実を教えて下さる。まず、耳を澄まして、主の御声に耳 を傾けよう。主は御心を示して導いて下さる。 -------------- エリヤに対する主の御言葉は何という慰めに満ちていることだろう。 主は身体ばかりか、霊的にも養ってくださる。疲れ切ると、何もで きず耳をふさぎたくなるが、耳を澄まそう。
2026年04月16日(木) 「ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた・・ わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたと あなたの子孫に与えよう」創世記13:14
「ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた・・ わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたと あなたの子孫に与えよう」創世記13:14
アブラハムと甥っ子ロトは、共に旅を続けたが、主の祝福により所 有物が非常に増え、同行困難になった。そこで二人は別々に住む事 になり、アブラハムは、まずロトに好きな地を選ばせた。ロトは、 幸せな人生を思い描く時、ヨルダン低地の肥沃で、どこも潤おう豊 かな地が重要だった。 ロトには「環境」「物」が重大な要素で、そこから喜び、幸せが来 ると考えていた。私たちはどうだろう。世の価値観では、富が老後 を保障し、夢を叶えてくれ、幸せにしてくれる。それは偶像だ。主 を信じているのだが、世の価値観に無意識にも影響受されていない だろうか。又、良い仕事や趣味、良い対人関係・・それらが幸せをも たらしてくれると。 ロトは、自分の幸せを求めて選択した地が、結果的に破壊的な滅び の地だった。全てを主に明け渡していたアブラハムは、結局全地を 所用した。彼にとり、自らの幸せは、所有物、環境でなく、神ご自 身にあった。だから「そこは最初に築いた祭壇の場所であるその所 で、主の御名によって祈った」。 彼にとって大切で、重要なものは、主であった。そこに一番の幸せ があった。そして神の約束「あなたを祝福し、あなたの名を大いな るものとし」「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」。主の 約束を見つめ、信じていた。私たちはどうだろう。何が一番大切な のだろう。御霊に探って頂こう。 -------------- 与えられるものではなく、与え主である主を見ていきたい。与えら れている環境も物も主の恵みだ。感謝しよう。それらが主の前に大 きく成らないよう、いつも主を見ていたい。
2026年04月15日(水) 「主はギデオンに仰せられた『わたしはあなたといっしょにいる。 だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう』」 士師記6:16
「主はギデオンに仰せられた『わたしはあなたといっしょにいる。 だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう』」 士師記6:16
ギデオンは、敵であるミデヤン人を逃れ、恐れて酒ぶねに隠れてい た。主は、そんなギデオンに向かって、「あなたのその力で行き、 イスラエルを救え」と告げられた。突然で驚いた彼は、どうして自 分にそんな大それた事が出来よう。とんでもないと。自分の分団は 最も弱く、更に自分は一番若いと。自分には絶対無理と言い訳をす る。 すると、主は「わたしはあなたと一緒にいる。あなたはミデヤン人 を打ち殺す」と。その時、ギデオンは、話しておられうのが、あな たであるというしるしが欲しいと願う。本当に主から出た事なのか 知ろうとした。二度のしるしを求め、確かめた。その事で主による 事と確信した。 弱く怯えて隠れている彼に「勇士よ」と語られ、主は、現在の彼で はなく、先を見据え、勇士として戦うギデオンを見られた。又「あ なたのその力で行き」と言われ、彼がいかに弱く、若くても問題無 い。主が共におられること、主が遣わされることがすべてだ。私た ちもどうだろう。自分の弱さを嘆き、無力におじけ、自分に何がで きようと、ひるんでしまう。 主からの示しに対しても、自分を見るなら、能力は不足、時間も富 も力も何もかも不足だ。しかし「あなたのその力で行け」と言われ る。あなたの力の問題ではなく、どなたが共におられるかの問題だ。 主が遣わされるのなら、必要な力はすべて主から来る。今、あなた にも「あなたのその力で行け」と御声をかけておられるだろうか。 --------------- まず、自分を見るなら無理だとの思いが来るが、弱さを覚えつつも 素直に従う者でありたい。弱さに主の力が与えられる。弱さは、そ のための備えではないか。
2026年04月14日(火) 「皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりに なると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの 島に打ち上げられます」使途27:25
「皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりに なると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの 島に打ち上げられます」使途27:25
パウロは囚人として、海路でローマへ行く事になる。途上で、航海 はもう季節的に危険だと主張したが、皆により、クレテの港に行き、 冬を過ごす事になった。それで出帆すると、案の定、何日もの激し い暴風に巻き込まれ、船はほんろうされた。積み荷も船具も捨てた。 太陽も星も見えない日々が続き、身の危険を感じ、事態は絶望的で あった。最後の望みも断たれようとしていた。 しかしパウロは確信もって「いのちを失う者はひとりもありません。 失われるのは船だけです」と告げた。主は、クリスチャン人生、失 うものは何もない、とは言われない。ヤコブも「私も、失うときに は、失うのだ」と言った。私たちは信仰生活で、様々失うものがあ るだろう。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」 と。 しかし様々な時に、失う事はあっても、必ず私たちは御手の中に堅 く守られ、クリスチャン人生を全うできる。船を失う事がある、と いう事実を覚えよう。だが、パウロたちが救われたように、私たち も必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げられる。普通、得る事は 喜びで嬉しいが、失う事は辛く、痛手だ。 しかし振り返った時、あの時、この時の損失、それにより自身が練 られきよめられ、成長させられ、今の自分がある。あの損失が無け れば、今の自分は無いのではないだろうか。損失は必ず通るが、思 いを遙かに越えた大きな祝福に至る。船を失う事があるが、豊かな 霊的祝福が与えられる。 -------------- 様々な嵐にもまれ、幾度も試練を経験するが、主に望みを置いて歩 みたい。信頼する者を、主が必ず大きな祝福をもって導いてくださ る。主と共に乗り越え、たどり着く陸地を経験したい。
2026年04月13日(月) 「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのため に自分のいのちを失う者は、それを救うのです」ルカ 9:24
「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのため に自分のいのちを失う者は、それを救うのです」ルカ 9:24
神に出会うまでは、私たちは、神無しで生きて来た。そのため、 根深くこの世の価値観が培われている。生まれつきの性質は、どこ までも軸が自分にあって、自分軸で考えてしまい、自己中心だ。し かし肉は、そうしか考えられない。それが普通で、当たり前で生き て来た。だからどうしても、新生した後も「自分のための神」にな ってしまう。 自分が中心軸にいて、自分が幸せになるための神、自分が困らない ための神、自分が助かるための神、その底は、どこまでも「自分」 であって、自分のために、神が存在することになる。しかし、そこ には真の喜びである「御霊の喜び」は無い。自分のための神でなく、 神のための自分だ。自分が中心で、世界が回っているのでなく、自 分の方が、神のために回っている。 自分を中心でなく、主を中心に据える時に、すべての事が正しく秩 序立って、進んで行く。そして試練もあるが、何があろうと、揺る がされることがない。あなたは、自分のために、神があるだろうか。 それとも、神のために、自分があるのだろうか。人は、誰しも心の 底から「喜び」や「平安」を求める。喉から手が出るほど、「喜び」 「平安」が欲しい。 それが、自分の欲望が満たされた時に、喜びが来ると勘違いする。 しかし、それなら、どこまで行っても真の喜びは無く、心はますま す渇くばかりだ。一時の快楽はあるが、決して満たされる事は無い。 自分の欲望第一でなく、主を第一にする時に、主が喜ばれることを 求めて行く時に、初めて、「喜び」と「満足」を経験する。 ----------- 欲望が満たされた時だけ、主が近くにいるように思えるが、それなら いつまでも焦りや不安がつきまとう。何と不信仰だろう。思いを主に 明け渡し、主の御心を祈れるように変わりたい。
2026年04月12日(日) 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがのことを心配してくださるからです」Tペテ ロ5:7
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがのことを心配してくださるからです」Tペテ ロ5:7
私たちはしょっ中、思い煩い、くよくよ心配する。これや、あ れや、次から次と思い煩いは尽きない。しかし、主のみわ ざに視点を向けると励まされる。モーセと民がエジプトを出 た時に、追っ手のエジプト軍精鋭部隊が背後に迫り、目の 前は紅海という絶体絶命の状況に陥った。戦闘訓練を受け たバリバリのエジプト軍に、戦い方など全く知らない民が、 立ち向かえるわけもない。 前進も後退も出来ない断崖絶壁の時に、主は、奇跡により 海を分け、海のただ中に道をつけられた。主はどんなに道 が無いと思われる状況でも、そこに道を造られる。食べ物 の無い荒野では天からマナを降らせ、岩から水を出された。 主の奇跡だ。乳と蜜の流れる地カナンまで導き、カナンを前 には横たわるヨルダン川。 岸に溢れる水に船も橋も無い。主が水をせき止めて渡らせ、 更にエリコの城壁を崩され、勝利を与えられた。あの絶対 に滅びないバビロンを倒され、不滅と言われたローマも倒さ れた。主に不可能は一つもない。すべては主の主権の中だ。 その全能の主があなたの事を心配して下さる。だから何も、 何一つ思い煩うな、主に委ねよと。 実は、問題は問題でなく、問題の中で、主を信頼しない事が 問題だ。問題を繰り返し〃心に思い煩い、問題をモンスター にする。心が不安で裂かれてしまう。逆にそれだけ繰り返し 恵みを思えばどんなに幸いだろう。前の節に「神の力強い 御手の下にへりくだれ」と。「神の力強い御手」がある。へり くだって、委ねるることができるよう、祈ろう。「ちょうど良い 時に、高くしてくださるため」と。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 主は、道無き所に、道を造ることができるお方だ。行き止ま りに見える場面を、何度も通ったが、必ず進むべき道が開 かれた。サタンからの思い煩いに気づけるよう祈っていよ う。
2026年04月11日(土) 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は 重荷とはなりません」Tヨハネ4:21
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は 重荷とはなりません」Tヨハネ4:21
信仰生活で、主に従うためには、まず御言葉を聞くこと、 そして聞いた御言葉を実行する事が大切だ。御言葉に従 おうとの意識的な選択が必要だ。オートマチックではない。 没個性、没意志になるのではない。夢遊病者のように、勝 手に従って行けるのではない。意識して御霊の導きの方を 選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。 主に拠り頼む必要がある。主が、勝手に私たちを操って従 わされるのではない。それなら操り人形であり、ロボットだ。 また、私たちの意志を無視して、主が代わりにされる事も一 切ない。詩篇記者は「自分の道を顧みて、あなたのさとしの 方へ私の足を向けた」と言った。記者は自分の道を顧みた。 日々の中で、自身を顧みる事は大切だ。 主との交わりはどうか。遠ざかっていないか。主の示しに、 ぐずぐずし引き延ばしていないか。まず主のさとしの方へ「足 を向けた」そして「急いで、ためらわず、仰せを守った」と。主 の示しに従い、実行した。今、目の前に、具体的に実行すべ き事を示されているだろうか。 「足を向けよう」そして「急いで、ためらわず」とあるように、す ぐに行動しよう。優柔不断で、ぐずぐずしていると、必ずでき なくなってしまい、従えないままに終わる。大きな祝福を逃し てしまう。示されている事があるなら、足を向けて、急いで、 ためらわず一歩踏み出そう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 意志を向けて、みことばに従う時に、豊かな祝福にあずかり、 喜びが与えられる。従うことが鍵だ。サタンはその意志に 攻撃して来る。人の意志はどうにも出来ないが、従わせない ように誘ってくる。祈っていよう。
2026年04月10日(金) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようには なさらない」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配して くださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようには なさらない」詩篇55:22
幼児が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、キャンディを握 りしめ、手が出ないと泣き叫ぶ。キャンディを放すと、手が出るよ と言うが、絶対に嫌だと泣くばかり。滑稽な光景だが、私たちも同 じようだろうか。心がザラつき、悶々と辛く苦しい。その時は、何 かを握りしめている。憎しみや妬みか、裁く思いか、自分を通した い肉の思いか。 憎しみや妬みは、相手でなく自分が苦しむ事になる。平安が無く、 喜びが無い。キャンディを放すなら、ボックスから手が出て自由に なる。憎しみや妬み、赦せない思いを手放す時、心は解放され、喜 びと平安が戻る。しかし強い自我は、放したくない。苦しいのに、 憎んでいたいし、妬んでいたい。罪の性質だ。 「放す事が出来ません」「したく無い者です」と自分の姿を認める 事から始まる。ある人が子どもの難病を、どうしても受け入れられ ないでいた。「なぜ?自分の子が?」と涙は溢れ、グルグル思いは 回り、苦しく、主に対して反抗している自分がいた。悶々の心は辛 くてたまらず、とうとう、もう限界だった。 ギリギリの中、行き詰まり、煮詰まり、ギブアップした。助けて欲 しい。自分自身も子ども、将来も、何もかもを明け渡した。その時、 状況は何も変わらないのに、心に初めて不思議な安堵が臨んだ。何 にも代えられない平安だった。心がすうーっと落ち着いた。委ねら れないで握っている状態なら、その事を主に告げて、ありのままの 心を正直に祈ろう。 -------------- 祈っても握りしめなかなか主に渡せない。何が怖くて主に手渡せな いのか、ありのままを祈ることから始めたい。全てを主にお任せし たい。主が心配してくださる。
2026年04月09日(木) 「主は・・窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろに されなかったからです」詩篇102:17
「主は・・窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろに されなかったからです」詩篇102:17
信仰生活で、突如の問題や危急の事態が様々起きる。とっさに、自 分で何とかしようとしてしまう。が、どんな時にも、とにかく「わ たしを呼べ」と言われる、主を呼ぼう。ある人が二階の窓拭きをし ていた。その時に、誤って手がすべり、窓の網戸を落としてしまっ た。網戸は真っ逆さまに落下。 瞬間「神様!助けて!」と叫んだ。その下は、隣の会社の駐車場で、 いつも車が並んでいる。息が止まりそうに、おそるおそる下に目を やると、車がズラーッと並んでいる中で、何と落ちた場所だけ車が 無く、空いていた。隣はベンツだった。胸をなで下ろし、思わず 「神様!感謝します!」と感謝した。 ある人は、寒さの中で、子供達に防寒具を買うお金が無かった。主 に頼り、祈っていた。そんな折り、宣教師たちが教会で、施設の子 どもたちを招待して、クリスマス会を開いた。知人の女性スタッフ が、楽しいからと、一緒に彼女の子どもたちも連れて行ってくれた。 最後に全員にくじで豪華プレゼントが振る舞われ、子どもたちもく じを引いた。 すると当たったのは、二人共、とても暖かい上等の防寒具で、それ がサイズもそれぞれピッタリだった。もうびっくりし、大喜びし、 主に感謝した。困難時には、「何とかしなければ」と焦り、自分で 考え、動き回ってしまう。そうすると、重荷がすべて自分の肩に、 ずっしりとかかり、苦しくてたまらない。主のもとに、祈りに持っ て行こう。 -------------- 「神様、助けて」と祈りながら、同時に自分も動いてしまう者だが 、どうにもならないとき、祈りの先には必ず尊い主の答えが待って いる事を経験する。どんな時にも主に助けを求め続けたい。
2026年04月08日(水) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々 のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々 のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、 私たちは知っています」ローマ8:28
信仰人生で、「なぜ?どうして?」という事態が起きる。何が、ど うなっているのかわからない。辛く苦しいばかりだ。しかし、エレ ミヤ29:11にあるように、主は私たちに決して災いを与えられない。 それは、「平安」と「将来」と「希望」のためのものだと。その渦 中ではわからないが、後に、パズルがつながるように、主のご計画 を知ることになる。 「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」 とあり、すべての出来事に、主の支配と主権がある。「雀の一羽で も、あなたがたの父のお許しなしには、地に落ちることはありませ ん」。目の前の出来事は、御父の許しの中で起きている。理解を越 えた、わけがわからない事態に遭遇するが、ローマ8:28の通り、主 は「すべてのこと」を益とされる。 そこに主の関与がある。しばしば自分を中心に置くので、自分が思 う通りの益、自分が思う最善と勘違いするが、そうではなく、主が 私たちのために備えて下さる最善だ。それは、自分の思い通りにな るのではなく、「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」 ように、御子のかたちへと変えられる益で、最善だ。 自分の弱さや失敗があったとしても、そこで「すべてのことを働か せて益としてくださる」の信仰に立つ時、主が働かれ、御子のかた ちへと、変えられて行く。主のかたちに似せられて行くとは、何と 光栄な事だろう。そこに神の栄光が現されて行く。 ------------ 自分に全ての決定権があるなら、常に心配し疑いながら生きてしま う。主が愛して、益となるようにご計画されている。現状は主の想 定通りなのかもしれない。主に導かれて歩もう。
2026年04月07日(火) 「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ 出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べ させるのだ、と確信したからである」使徒16:10
「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ 出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べ させるのだ、と確信したからである」使徒16:10
私たちが主の導きを求める時、「環境」をよく見て行く事は重要だ。 パウロが二度も環境により、行く手を阻まれた。「アジアでみこと ばを語る事を禁じられたので・・」ビテニヤに行こうとしたが、スト ップがかかったので、トロアスに下った。東から来て、南も北も閉 じられたので、西に向かう事になった。 主のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだった。環境を閉じな がら、御心の方向へと導かれた。もし御霊の阻止がなければ、御心 と違った方向へ向かっていただろう。私たちにも主のプランがあり、 行く手にストップがかかる。自分にはプランがあるが、しかしどう しても門が開かれず、状況が整わないなら、それは主のストップだ。 入試類が不合格なら、主の御心は別の道だ。「ノー」という答えだ。 しばしば私たちは、ストップがかかると、導きを失ったように感じ、 道に迷ったような不安、心細さを覚える。しかしそうでなく、そこ が御心ではないという「導き」だ。次の導きを祈って、「待て」ば よい。 パウロたちは、あちこち閉じられ、トロアスに導かれた。そこで幻 により、マケドニヤへの導きを確信した。御心の門は、目の前で、 ひとりでに開いて行く。主が開かれるからだ。自分でこじ開けて進 むのではない。必ず目の前で開かれて行く。御言葉、祈りによる平 安と共に、状況をよく見ていよう。 --------------- ふり返ってみると、あの時、この時の閉ざされた意味が、今はわか る。今、閉ざされたように思えても、そこに主のご計画がある事を 信じ、明日を神様に委ねて祈っていよう。
2026年04月06日(月) 「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は 直っています。』その人はイエスが言われたことばを信じて、 帰途に着いた」ヨハネ4:50
「イエスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は 直っています。』その人はイエスが言われたことばを信じて、 帰途に着いた」ヨハネ4:50
王室の役人が、主のもとに来た。ヘロデ王の宮廷官吏で、地位も名 誉も資産もあった。しかしそれらも、何の役にも立たない事態が生 じた。息子が病気で死にかけていたのだ。財もどうにもならず、医 者も直せず、絶体絶命の窮地にいた。主の噂を聞き、この方ならと、 30キロの距離を必死の思いでやって来た。 息子のいやしを願うと、主は「あなたがたは、しるしと不思議を見 ないかぎり、決して信じない」と答えられた。「あなたがたは」で あり、彼だけでなく、周囲の人々への言葉でもあった。ただ奇跡を 求め、喜ぶのではなく、主が救い主である事を信じ、主に信頼する 事を求められた。 彼は、続けて息子のいやしを願ったが、「主よ」に変わっていた。 それに応答し、主は「帰りなさい。あなたの息子は直っている」と 告げられた。彼は、主の言葉を「信じて」、帰途についた。彼にと り、まず息子が直る事だけがすべてであり、信じる信じないなど、 どうでも良いことだった。しかし、主は、彼を主を信じる信仰へと 導かれた。 御言葉を信じ、従い、帰って行くと、途中で息子が直った事を聞い た。御言葉を聞いた同時刻である事を知り、彼も彼の家族も皆、信 じた。息子の危機を通して、主は、一家を主を信じる信仰へと導か れた。神の言葉は必ず成就する。従う時に、その度に、信仰が強め られて行く。今、目の前に示されている言葉に従おう。 -------------- 見てから信じる信仰から、御言葉を信頼し、従う信仰へと成長した い。示された御言葉を大切にし、今朝一歩、従おう。主が備えてい てくださる栄光を拝していこう。
2026年04月05日(日) 「・・だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに 赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13
「・・だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに 赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13
主を信じて新生した後も、古い性質があり、人を赦すことは、 難しい。過去の対人関係に、いつまでもこだわって敵対心を 抱き、相手を憎み、がんじがらめになっているだろうか。肉は、 決して赦したくない。傷つけられた相手に対する恨み、苦々 しい思いが尾を引いてしまう。赦せない思いは、相手への憎 しみと増幅して行く。そうなると、絶えず相手の事ばかり考え、 仕返しをしたい思いでいっぱいになる。 一番の問題は、そうなると心を主に向けられなくなる事だ。こ れは大問題だ。心から主が飛んでしまい、相手のことでいっ ぱいになる。結局、憎む相手にコントロールされ、支配されて いる事になる。悶々で平安は無い。こんな人生で良いのだろ うか。相手を赦さない心は、苦い根が生えて、どんどんはびこ り、周囲にも害毒を流してしまう。気をつけよと。 「だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が 芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりす ることのないように」と。赦さない心、憎しみ、裁く思いを悔い 改めないまま持ち続けると、自分自身を害し、手がつけられな くなって行く。 解決は赦すことだ。自分が解き放たれ、自由にされる。しかし 自分の力では、どうやっても出来ない。ありのままの心を祈り に持って行き、主に助けを仰ごう。人に出来ない事が、主には できる。主は助けて下さる。祈りに答えて下さる。多くの人が 赦せない相手を、赦すように取り扱われて来た。 ・・・・・・・・・・・・・・ 人を赦すことは難しい。傷つけられた相手への赦せない思い、 憎しみ、恨みに囚われてしまう。人には出来ないが、主により 可能であり、主のみわざだ。解放して下さる。主に取り扱って 頂こう。
2026年04月04日(土) 「私は主の前に心を注ぎ出していたのです・・私はつのる憂 いといらだちのため、今まで祈っていたのです」Tサムエル 1:15
「私は主の前に心を注ぎ出していたのです・・私はつのる憂 いといらだちのため、今まで祈っていたのです」Tサムエル 1:15
信仰人生で、時に「どうしてこんな事が?」と思うような試練 が臨む。辛くて苦しいばかりだ。そんな時には、どうすれば 良いのか。ハンナを通して学ぶ事ができる。ハンナはつの る憂いといらだち、苦しみ、悲しみを、主に持って行った。 「私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです」。不妊の 悲しみ、迷信で周囲に白い目で見られる辛さ、加えてペニン ナの執ようないじめがあり、深く傷つき、怒りが湧く。 「なぜ?どうして?」との思いの丈を、御前に心を注ぎ出した。 「くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった」その祈り は、うめきとなった。主の御前に、心を砕いて、真実をもって 祈る時、私たちは必ず変えられる。試練こそ、主に、真実に 近づく機会だ。試練の苦しみの中にいた、ハンナは変えら れて行った。それは「心を注ぎ出した」時からだった。悩み、 苦しみをことごとく吐き出し、激しく泣き、長く祈った。 その後、祭司エリから「安心して行きなさい。願いが叶えられ るように」との言葉を受けた。その時に、ハンナはすっかり平 安になった。帰って食事ができて、顔は、もはや以前の暗い 表情ではなかった。苦しみ、悲しみ、煩い、すべてが消えて、 安らかになり輝いた。新しい歩みが始まった。 その解決はどこから来たのか。「主の前に心を注ぎ出した」こ とによる。そこから平安へと導かれた。霊的暗黒時代に、ハン ナの祈りによって、指導者サムエルを生み出すという、主の ご計画であった。ハンナは用いられた。私たちも苦しみの背 後には、何かの主のご計画がある。御前に心を注ぎ出して 祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・ 主のご計画により、ハンナから苦しみにより、祈りを引き出し、 祈りを与え、サムエルが生まれた。今の目の前の苦しみも、 まず祈りに持って行こう。主のプランは深く、豊かな祝福へ と結実して行く。
2026年04月03日(金) 「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうって おいたので、敵の物笑いとなっているのを見た」出エジプト32:25
「モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうって おいたので、敵の物笑いとなっているのを見た」出エジプト32:25
モーセがシナイ山に上ったその間、モーセは不在となるが、神がわ からなくなってしまった民は、何とアロンに偶像の神を造るように 頼んだ。周囲の民と同じように、目に見える偶像の神を求めたのだ。 人間は目に見えない神よりも、肉眼で見える、形のある神を求める。 それは、木や石や金で造ったいわゆる偶像の神だが、しかしそれだ けでなく、金銭、仕事、趣味、人、名誉や地位、人からの賞賛・・も 偶像になる。目に見えない神を信頼できず、確かな手応えのある、 目に見えるものを求める。アロンは、モーセを助けるためにそこに 置かれた。だから、モーセ不在中の出来事に際し、主からの力を受 け、民を治めるべきであった。 ところが民の言いなりになってしまった。アロンは鋳物の子牛の像 を造り、彼らは「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあな たの神だ」と言い、礼拝した。主はモーセに「すぐ降りて行け。民 が堕落してしまったから」と。神の栄光を現わすべき聖なる民が、 神でないものを崇め、礼拝し、神を辱めてしまう。 私たちも、目に見える彫像は拝みはしないが、心の奥で、神よりも 大切にしているものは、どうだろう。神よりも愛し、神よりも信頼 しているもの、それが偶像だ。「このむさぼりが、そのまま偶像礼 拝なのです」と、偶像礼拝は、心の欲望、貪欲にあると。心の内は どうだろう。主ご自身で、心満ち足らわせて下さる。求めて行こう。 -------------- 目に見える手応えがあるうちは気づかないが、無くなると喜びも失 せ、また次を求めてしまう。心の内の偶像は何だろう。主が与えて くださる喜びは、試練の中でも変わらない。主に求めよう。
2026年04月02日(木) 「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、 私を打つための、サタンの使いです」Uコリント12:7
「・・そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つの とげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、 私を打つための、サタンの使いです」Uコリント12:7
パウロは正しいと信じ、キリスト者を迫害していた。その尋常でな い熱心は神のためと信じての事だった。その中、突然の主の介入に より、180度転換し、命を賭けて宣教の生涯を全うする事に。パウロ は大使徒で、第三の天に引き上げられ、特別な恵みを経験した人物 だ。あらゆる面で秀でた人で、信仰により、何でも出来る人物のよ うに見える。 ところがパウロには、とげが与えられていた。もっと主の働きがス ムーズに出来るようにと、そのとげを除いて欲しいと祈りに祈り、 切なる祈りを献げた。しかし、答えは「ノー」だった。「わたしの 恵みは、あなたに十分である。わたしの力は弱さの内に完全に現れ る」というものだった。 この世の価値観と真逆だ。この世では、強い事が良いこと、能力が あり、力があり、できる事が善であり、弱さは忌むべきもので、受 け入れがたいものだ。しかし、主は、弱いことが良いことで、弱さ の中でしか、神の力は現れないと。培われた価値観と真逆だ。 自分が弱い者であることを認め、日々に、主に拠り頼んで行く事が、 大きな祝福を受ける道であり、それは平安と喜びに歩める事だと。 プライドが妨げるだろうか。自分の弱さを知り、主の御前に認める こと、それが信仰生活の秘訣だ。その時、主が、くびきを共に負っ て下さることを経験して行く。喜びと平安を持って歩める。 -------------- そのままで主に受け入れられているのに、自分が一番ありのままを 受け入れられないのかも知れない。自分の力で主のあわれみや恵み を曇らないよう、主に感謝し、主に頼って歩みたい。
2026年04月01日(水) 「主の使いは、・・『あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』 と尋ねた。彼女は答えた。『私の女主人サライのところから逃げ ているところです。』」創世16:8
「主の使いは、・・『あなたはどこから来て、どこへ行くのか。』 と尋ねた。彼女は答えた。『私の女主人サライのところから逃げ ているところです。』」創世16:8
サライは、子どもができない中、夫アブラムの子を、奴隷により 得ようとした。当時の風習であり、肉には良い策だと思えた。ア ブラムも、サライによる提案という事で受け入れた。しかしハガル に子どもができた時に、ハガルは奴隷ながら、優越感でサライを 見下げるようになった。 肉で事を行なうと、必ず問題と秩序の乱れ、混乱を引き起こす。 肉の手で何かを得たとしても、正しく所有する事ができない。自分 を見下すハガルに、サライは怒り、いじめで報復した。ハガルはそ の仕打ちが、余りにも辛くて荒野に逃げた。しかし御使いが現われ、 サライのもとへ帰り、へりくだって仕えるようにと。 そして主により、子孫が大いに増やされる事を告げた。ハガルとイ シマエルにすれば、自らの意志の及ばない事であり、自分で選んだ 道ではない。ハガルは奴隷であり、どうにもできず、これは彼らの 責任ではない。しかし、状況に対して責任はないが、それに向かう 態度と行動は自らの責任となる。主は彼らを顧みられた。 サライのこの事による教訓は、肉の考え、判断、決定は必ず問題が 生じ、悩みを引き起こす事だ。人間的に最善と思える方法が、必ず しも御心なのではない。又、親しい人からの、御霊によらない肉の 助言が罠となった。そこから大きく道がそれる事がある。聞くべき は、まず主であり、判断と決定の際には必ず主を仰ぎ、主によく祈 り、導きを求めよう。 -------------- いかに自分の最善が主の導きに勝っている事か。祈っていても肉の 手でつかみ取ってしまう。そこでまた争いが起きる。主に祈り、御 言葉に照らして、よく悟れるように主に助けを求めよう。