2026年08月15日(土) 「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あ なたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのお かげで私は生きのびるだろう」創世12:13
「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あ なたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのお かげで私は生きのびるだろう」創世12:13
アブラハムは導きを受け、カランを出発し、カナ ンの地に入った。そしてネゲブへ向かい旅を続 けていた時に、激しい飢饉に会った。そこで、し ばらく滞在しようとエジプトに下った。飢饉が余 りにも厳しく、命の危険を感じただろうか。エジ プトに下った時、アブラハムは罪を犯してしまった。 保身のために、サラを妹だと偽り、サラにもその 偽りを強要した。そのため、サラはパロの宮廷に 召し入れられる事となる。間一髪のところで主の 介入があり、サラは助け出された。そのアブラハ ムの失敗は、厳しい飢饉が臨んだ時、まず主を 仰ぎ、主の御心を求めず、自分の知恵と判断で、 肉で動いた事だった。 それがエジプト行きであり、間違いであった。まず 主に祈り、頼り、指示を求めるべきであった。私た ちも信仰をもって歩み出した途端、厳しい飢饉で ある試練が臨む。その時に驚き慌ててしまい、主 が吹っ飛んで、自分で何とかしなければと、立ち 騒ぎ、とにかく自分を守ろうとする。右往左往し、 肉の策を考え、行動する。 その結果、失敗してしまい、そして刈り取りをする 事になる。自分で動かずに、「わたしを呼べ」と言 われる主を呼ぼう。どんなにひどい飢饉であって も、主は手だてを持たれ、脱出の道も備えておら れる。「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着い て信頼すれば、力を得る」。今、目の前に急な事 があれば、まず主を仰ごう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 突然の非常事態が起きると、主が飛んで、何と かしなければと、肉で考え、焦り行動してしまう。 サタンも働く。まず主を求め、叫ぼう。繰り返し 学ぼう。 アブラハムは導きを受け、カランを出発し、カナ ンの地に入った。そしてネゲブへ向かい旅を続 けていた時に、激しい飢饉に会った。そこで、し ばらく滞在しようとエジプトに下った。飢饉が余 りにも厳しく、命の危険を感じただろうか。エジ プトに下った時、アブラハムは罪を犯してしまった。 保身のために、サラを妹だと偽り、サラにもその 偽りを強要した。そのため、サラはパロの宮廷に 召し入れられる事となる。間一髪のところで主の 介入があり、サラは助け出された。そのアブラハ ムの失敗は、厳しい飢饉が臨んだ時、まず主を 仰ぎ、主の御心を求めず、自分の知恵と判断で、 肉で動いた事だった。 それがエジプト行きであり、間違いであった。まず 主に祈り、頼り、指示を求めるべきであった。私た ちも信仰をもって歩み出した途端、厳しい飢饉で ある試練が臨む。その時に驚き慌ててしまい、主 が吹っ飛んで、自分で何とかしなければと、立ち 騒ぎ、とにかく自分を守ろうとする。右往左往し、 肉の策を考え、行動する。 その結果、失敗してしまい、そして刈り取りをする 事になる。自分で動かずに、「わたしを呼べ」と言 われる主を呼ぼう。どんなにひどい飢饉であって も、主は手だてを持たれ、脱出の道も備えておら れる。「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着い て信頼すれば、力を得る」。今、目の前に急な事 があれば、まず主を仰ごう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 突然の非常事態が起きると、主が飛んで、何と かしなければと、肉で考え、焦り行動してしまう。 サタンも働く。まず主を求め、叫ぼう。繰り返し 学ぼう。
2026年08月14日(金) 「主はアブラハムに仰せられた。『あなたは、あなたの 生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ 行きなさい』」創世12:1
「主はアブラハムに仰せられた。『あなたは、あなたの 生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ 行きなさい』」創世12:1
「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」と、主 はアブラハムに告げられた。「生まれ故郷、父の家」と は、自分の心の故郷であり、安心できて、居心地の良い 場所、長い間、慣れ親しんだ生活、親しい周囲の人々、 自分の居場所、拠り所だ。 不足が無く、困る事もなく、安全で、常に周囲からの手 助けもあり、生活の基盤が据えられた、安定した場所だ。 一つ所にずっと、とどまれば、経済的基盤もできる。つ まり逆に言えば、そこにいれば、物心共に主に頼らなく ても、生きて行けてしまう。 そこを出るという事は、それらをすべて捨てて、主にの みに拠り頼んで行くという事だ。未知の見た事もない地 へ出ることであり、何があり、何が起きるかもわからな い。身の危険もあるだろう。自分の所有物に頼れず、人 も頼りにならず、自分の知恵も判断も頼れない。 ただ主だけが頼りであり、主の言葉だけが行く道を示し、 照らしてくれる。私たちもどうだろう。「生まれ故郷を 出て」「親族を離れて」、主以外に依存している様々な ものから離れて、主だけを頼って、次の領域に前進せよ と、言われているだろうか。 単に地理的な場所でなく、霊的な領域の事だ。人や物、 自分の知恵、判断への依存から出て、信仰をもって次の 段階へ進めと。その時、主ご自身があなたの故郷となり、 あなたの家となって下さる。あなたは何に深く依存して いるだろう。御霊に探って頂こう。御心へと導いて頂こ う。 ------------- 主は、最善を示し、天に帰るまで常に祝福をもって導い てくださる。強く握っているものは何だろう。よく吟味 したい。主を頼りに歩み続けよう。
2026年08月13日(木) 「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また 彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:15
「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また 彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:15
自分が、どうしても欲しいものがある。経験あるだろう か。どうしてもそれを得たい。しかし、その自分が、喉 から手が出るほど欲しいものが、果たして本当に自分に 必要なものなのだろうか。それを、主に祈り求める事が できるなら大丈夫だ。「欲望」の強い誘惑から守られる。 人の欲は、欲しいと思い始めると、自制が効かなくなる。 ますます欲しくなるばかりで、欲望は際限がない。だが 欲しいものと、必要なものは違う。祈り無しに、単に肉 で自分の欲しいものを求めて行くなら、欲望のとりこに なってしまう。貪欲の罪に陥ってしまう。 今、どうしても欲しいものがあるなら、それが自分に必 要なものかどうかを、主に祈ろう。祈るなら守られ、サ タンの足場を砕いてしまう。そして、もしそれがあなた に必要なものなら、主は必ず与えて下さる。御言葉は言 う。「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また 彼らに病を送ってやせ衰えさせた」。 主がどうであれ、絶対にどうしてもと、どこまでも欲す るなら、主はその強烈な求めを与えられる。が、それに よって、たましいはやせ衰えると。「彼らは、荒野で激 しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた」結果だ。 主の御心を離れて、欲に突き進むなら、主はある時、あ えて与えられる。だがそれを手にして、心は虚しく荒ん で行くことになる。罪の性質だ、際限無い欲望から守ら れるために、今、強く求めているものが、真に自分に必 要かどうかを、主に問おう。 ------------- 欲しいものと必要なものは違う事を覚えていたい。祈り ながらも誘惑の言い訳が次々浮かび、明け渡せない。主 に預けて、主の御心に従えるよう祈ろう。
2026年08月12日(水) 「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。 御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成され るというのですか」ガラテヤ3:3
「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。 御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成され るというのですか」ガラテヤ3:3
主を信じた時は、一方的な恵みによる事だった。何の行 ないも無かった。ただ、主の十字架の身代わりの死を信 じ、救われた。その恵みは、よく理解できるのだが、救 われた後は、行ないで生きてしまう。今までの古い価値 観が根深く培われているためだ。 この世の価値観は、自分の力がすべてであり、自分の努 力、頑張りで勝ち取るものだ。自分を信じて、自分の力 で生きて行く。自力で頑張れ、頑張れと、頑張りが善で、 美徳なのがこの世の教育だ。そのため恵みで救われたが、 その後は自分の力で善行を頑張ってしまう。 祈りも行ないになってしまい、熱心な祈りの行ないや、 犠牲的な献げ物によって、主は愛して下さると思ってし まう。自分の願いが叶えられるために、もっと頑張って 時間と労力をかけて、祈りを積み上げ、もっと信じなけ ればと、信じる事にも自分の頑張りが出て、段々苦しく なる。 信仰生活が辛くなっていたら要注意だ。救いは無代価だ が、その後は、行ないによっていないだろうか。しばし ば陥ってしまう。主の愛顧を得るために、受け入れて貰 うために、何かをするなら、それは律法であり、恵みか ら落ちている。 主に完全に愛され、完全に受け入れられているから、感 謝が溢れて、自発的自由意志で、献げたいと思うのが福 音だ。そして自力でなく、全面的に主に拠り頼む歩みだ。 そこにあるのは苦しく辛い頑張りでなく、そこから救わ れた平安と喜びだ。 ------------- 主の大きな犠牲によって救い出されたのに、すぐに自分 を縛る律法に迷い込む。主の恵みに感謝し、自力に頼ろ うとする時、気づきたい。主に頼って歩みたい。
2026年08月11日(火) 「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちと いっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、 自分たちの頭にちりをかぶった」ヨシュア7:6
「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちと いっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、 自分たちの頭にちりをかぶった」ヨシュア7:6
ヨシュアに率いられた民は、カナンの地に入り、進軍し て行った。アイへの偵察隊が「二、三千人で大丈夫」と。 それで三千人を戦いに出すと、想定外の散々な敗北だっ た。民の心はしなえ、水のようになった。勝利を何の疑 いもなく信じていたので、大変なショックで、動揺した。 主の大きな奇跡でヨルダン川を渡り、エリコ城壁崩壊の 大勝利を収め、勝利に次ぐ勝利だ。大いなる神のゆえで あり、周囲もそれを認め、非常に恐れた。その事がヨシ ュアの拠って立つところだった。この敗北の事実が、そ れらをなし崩しにする。主の御名はどうなるのか。 敵の前での、この敗北は周囲にどうなるのか。敵は恐れ が無くなるではないか。恐くも、何ともない。ヨシュア は、「なぜですか!」と御前にひれ伏し祈った。「大い なる御名のために何をされるのか」と。だが、「大いな る御名」こそが、この敗北を与えた。 全能の神は、「聖い」神だ。「聖さ」に関心を持たれ、 聖さゆえに、罪のあるところに働かれない。聖く無い所 では、むしろ敗北の方が、神の栄光が現われる。妨げは 神の側でなく、民の側にあった。神との間が正しければ、 アイでも勝利していた。 神は、罪を示し、アカンの密かな罪を明かにされた。そ の罪が除かれた時に、再びアイに上り、完全勝利が与え られた。罪は、神との仕切りとなり、平安を失ってしま う。私たちには主の血潮がある。今すぐ主のもとへ行き、 告白しよう。主は赦しを与え、平安を戻し、私たちは赦 された喜びに溢れる。 ------------- もし罪はないと言うなら自分を欺いていると言われる。 十字架による恵みに感謝し、神との間の仕切りになる罪 を告白し悔い改めながら、新しく歩む者でありたい。
2026年08月10日(月) 「・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を 生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた 品性が希望を生み出すと知っているからです」 ローマ5:3
「・・患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を 生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた 品性が希望を生み出すと知っているからです」 ローマ5:3
信仰生活で、私たちは、自分の思い通りにならない事を 何度も経験して来た。願いの進路があるが、目の前で閉 ざされる。プランを懸命に練って始めるが、途中で頓挫 してしまう。どうしても欲しいものがあるのに、与えら れない。したい事があるが、どうやっても道が開かれな い。 又、突如の不意の出来事に遭遇する。「どうしてこんな 事が、自分に」と戸惑い、わけがわからない。数々の思 い通りにならない事態を通る。しかし、振り返ってみる 時にどうだろう。自分の切なる願いが叶わない時には、 もう先が無く、真っ暗に感じてしまうが、年月を経た時 に、叶わなくて良かったと思える。 別の良い道が備えられていた。これで良かったのだと。 願い通りになっていれば、全く別の方向に進んでいて、 今の素晴らしい恵みや祝福、幸せは無かったのだと。 試みを通して、主との深い交わりを得、祈りを知り、真 に御言葉の力を味わった。そして、人生、自分の思い通 りでなく、主の思い通りに歩んでいる事の確信は、何と 平安と喜びだろう。 主が決めて下さった人生を歩む平安は、何にも代えられ ない。希望は、失望に終わる事がない。それは、神の愛 が注がれているからだ。だから、深い悲しみ、痛みの中 に、失望に終わらず、尚も希望を見い出して行く。患難 を喜べるのも、神の愛が、どんな時にも、どんな状況の 中も、共にあるからだ。それを知っている。今までも沢 山経験して来た。 -------------- 自分の思い通りでなくても、神の思い通りの道へ導かれ ることに感謝したい。一つ一つ、慰めや励ましを備え、 わかるように心も整えられて行く。必ず感謝があふれる。
2026年08月09日(日) 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。わたしがあなた がたを休ませてあげます」マタイ11:28
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、 わたしのところに来なさい。わたしがあなた がたを休ませてあげます」マタイ11:28
ある人の証しだ。信仰を持つ前の自分は、自 分の本当の姿を正視できずに、自分を実際以 上に見ていた。常に周囲より優れた者とし、優 越感に浸り、人を見下していた。まさに高慢そ のものであった。そんな自分なので、人の良さ を認める事ができない。認めるなら、シーソー のごとく、相手が上がると、自分が下がる事に なる。 人生は勝ち負けだった。だから、決して自分の 弱さなど認められない。認めたら負けであり、 人に弱みを知られるなら、自分が下位になる。 弱みなど絶対に知られたくない。自分の弱さは 隠す事になる。しかし実際は、弱いもろい人間 であった。優越感と劣等感は表裏一体であり、 優越感に浸れば、必ず裏返しの劣等感に陥る 事になる。 優越感だけを感じる事は出来ない。劣等感か ら妬みで苦しむ事になる。仕事で不振が続き、 成果が出せず、精神的にも追い詰められ、心 身ギリギリの状態になった。そんな時、友人に 誘われ教会へ足を運んだ。もうボロボロで、 疲れきっていた。 スポンジが水を吸い込むように、初めて聞く 聖書の言葉が、ぐいぐいしみ入った。わけが わからず涙が出た。主に出会い、初めて主の 愛を知った。競争社会の中で、肩を張り、突っ 張っていた自分は、初めて心の安堵、平安を 経験した。装う事も背伸びする事も必要く、自 分でおれた。何という救いだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 時に疲れ果ててしまう、身動き取れなくなる。 しかし、主のもとに行く時、休ませて下さる。 状況は、まだ変わらずとも、まず心に平安を 下さる。
2026年08月08日(土) 「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始 めた。『・・そんなことが、あなたに起こるはずはあ りません』」マタイ16:22
「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始 めた。『・・そんなことが、あなたに起こるはずはあ りません』」マタイ16:22
主は、ペテロに「あなたがたは、わたしをだれだ と言うか」と問われると、「生ける神の御子キリス ト」と正しい立派な答えをした。しかしその直後、 主が十字架と復活を話されると、ペテロは主を いさめた。「そんな事が、あなたに起こるはずが ない」と。主の十字架を「そんなこと」と言い、「起 こるはずがない」と否定した。 主はそれを「サタン」といさめられた。十字架を否 定して、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにす れば、主の事を思い、主のために言ったつもりだ った。しかしそれは、人間的な思い、肉の価値観 であり、悪魔の思いと合致し、主のみ思いと正反 対のものだった。本人は良いと思い、正しいと思 ってする事が、実は悪魔に誘導されていて、罪を 犯す事になる。 本人は主のためを思い、正しいと思っているだけ に、ストレートな罪よりもやっかいだ。「あなたは 神のことを思わないで、人のことを思っている」。 悪魔に欺かれ、肉に進む時は、「神の事を思わな いで」神ではなく、目に見える人と、世の事に心 が持って行かれている時だ。思いに神が無く、肉 に流される。 又、人の賞賛、誉れ、人の愛で心を満たそうとす る時、悪魔にだまされてしまう。主からの栄誉よ り、人からよく思われたいとの、肉の思いに引っ 張られる。悪魔は非常に狡猾だ。肉で主を思う と、間違ってしまう。御霊により肉の価値観、悪 魔の攻撃に気づかせられるよう、祈っていよう。 御霊は気づきを与えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 罪を犯すつもりでなく、自分では、良い事に思え るので、やっかいだ。良かれと思っての事なので、 自分では、なかなかわからない。しかし御霊は気 づかせて下さる。交わりの中にいよう。
2026年08月07日(金) 「・・いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何 が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわ きまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」 ローマ12:2
「・・いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何 が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわ きまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」 ローマ12:2
私たちは、必ず試練に会うが、その時に、どっと不安、 恐れ、思い煩いに襲われる。人間は、どうしても悲観的 な方向に思考が向かう。しかし主は、その時にこそ忍耐 が生まれるのだと。その忍耐を十分働かせるようにと。 忍耐とは、漢字を見ると、ただ〃じっと我慢して、忍ぶ という印象を受ける。 しかしそんな消極的な事ではなく、主が、必ず良くして 下さると信じる、積極的な、前向きな事だ。試練を逃げ ずに受け止め、主を仰ぎ、「主は最善をして下さる」 「このトンネルは必ず出る」「ひとり子を与えて下さる ほどに愛されている」と堅く信じて行く時に、不思議に 否定的に向かう自分が変えられ、心平安にされる。 そして霊的成長を遂げて行くと。つまり霊的成長とは、 自分が変えられて行く事にある。例えば対人関係で、相 手とギクシャクする時、合わないと思う。それは相手の 悪い態度のせいで、相手が悪いと。が、実は、自分を変 えたくない。自分は被害者だと思い、相手が悪く、自分 は正しいと思っている。 そうではなく、へりくだろうとする時、自分が変えられ る。御霊の働きだ。自我やプライドが邪魔するだろうか。 しかしへりくだるなら、遙かに良きもの「平安」を得る。 何にも代えられない。「何事でも自己中心や虚栄からす ることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐ れた者と思い」相手を自分よりすぐれた者と思い、御前 にへりくだるなら、変えられて行く。 --------------- 試練のたびに自分は少しも変わらないで否定的な思いの ままだろうか。主を信じ、信仰によって新しくされたい。 いつまでも変えられて行こう。
2026年08月06日(木) 「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケド ニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて・・福音 を宣べさせるのだ、と確信したからである」使徒16:10
「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケド ニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて・・福音 を宣べさせるのだ、と確信したからである」使徒16:10
信仰生活で、主の導きを求める時がある。その時に、 「環境」をよく見る事は大切だ。パウロは二度も環境に より、行く手を阻まれた。「アジアでみことばを語る事 を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通った」 ビテニヤに行こうとしたが、環境により、主のストップ がかかり、トロアスに下った。つまり状況的に、何らか の障害により進めなくなった。東から来て、南も北も閉 じられたので、残りの西に向かった。阻止の理由は、主 のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだった。 もし御霊の阻止がなければ、御心と違う方向へ向かって いた。御霊の阻止は、私たちを正しい方向へ導いてくれ る。私たちにも主のプランがあり、時に行く手にストッ プが入る。自分には思いがあるが、門が開かれず、状況 が整わないなら、それは主の御心ではない。 もし入試、就職試験が不合格なら御心でない。「ノー」 が答えであり、御心は別の所にある。しばしば阻止され ると、導きを失ったように感じ、迷子になった不安、心 細さを覚える。だがそうでなく、そこが御心でないとい う「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。 環境の閉じ開きにより、導きを知れる。門が開かれたな ら、その方向に進めばよい。御心の門は、目の前で、ひ とりでに開いて行く。主が開かれるからだ。断じて自分 で門をたたき割り、進むのではない。必ず目の前で門が、 開かれる。御言葉、祈りによる平安と共に、状況をよく 見ていよう。 ------------ 主の導きによって与えられた地には、必ず平安と祝福が 待っている。目の前は不安であっても、思いを明け渡し、 信仰の目で見ていけるよう祈っていよう。
2026年08月05日(水) 「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを 大いに喜ぶ人は。」詩篇112:1
「ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを 大いに喜ぶ人は。」詩篇112:1
人は、悪い知らせを非常に恐れる。悪い知らせは、日常 に襲いかかる、どう猛なライオンのようだ。恐怖を感じ る。世の人々は、悪い事が起こらないための信心だ。家 内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣・・ひたすら順風 満帆を願う。 ある人は、喜ばしい、幸せな事が続くと、不安でたまら なくなると。このような幸せが続くはずがない、今に、 必ずひどい事が起きると思う。そのため、その喜びの最 中にも、心底から喜ぶ事ができず、不安で仕方がないと。 私たちはどうだろう。恐れや不安のほとんどは、まだ起 きていない事に関する事だ。先の事は全く見えないので、 悲観的にとらえてしまう。このような事態になっても 「悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心はゆるが ない」とある。そして「心は堅固で恐れる事なく、自分 の敵をものともしないまでになる」と。 その心はどんなに平安で、幸せだろう。どうしたらそう なれるのだろう。「主に信頼して」とあり、「主に信頼 する」ことが答えだ。自力により、肉の頑張りによって、 物事に動じない、強い心を持つのではない。主が、状況 をすべてご存じで、掌握されている。 敵をも御手の内にあり、すべての権威を持つ主を信頼す るところから、平安が来る。詩篇に「ハレルヤ。幸いな 事よ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は」とある。 不安定で揺れ動き、移り変わる状況に振り回されるので なく、主に信頼し、「その仰せ」不変の御言葉を握る時 に、平安の中に守られる。 ------------- 自分は主によって救われ、守られていると確信し感謝し て生きる人生は何と幸いだろう。危うく弱い者であって も主の御約束がある。御言葉に立っていたい。
2026年08月04日(火) 「・・彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも 恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出 されるものは、みな、光によって明らかにされます」 エペソ5:12
「・・彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも 恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出 されるものは、みな、光によって明らかにされます」 エペソ5:12
ある人に高齢の母親がいて、家事が困難になり、ヘルパ ーを雇った。ところがそのヘルパーが来るまでに、母親 が家を大掃除するので、余計に大変な事になった。こん な汚ない所に、人を上げられないと。私たちも、どうだ ろう。来客時には、見えない場所に、別の部屋にすべて を押し込んで、外側きれいにするだろうか。 見た目はきれいだが、見えない所は、ぐちゃぐちゃだ。 私たちは、御霊をこのように迎えていないだろうか。応 接間にだけ通し、プライベートな部屋には、入られたく ない。都合の悪い部屋には鍵をかける。きれいな所だけ を見せて、自分の醜い、弱い、汚れた所は見せたくない。 御霊にも隠しておきたいだろうか。これが肉に従って生 きる事だと。「肉に従うなら死に、御霊によって肉の行 ないを殺すなら、生きる」と。御霊によって殺すとは、 御霊の光に。自らの醜い、見たくない姿をさらけ出す事 だ。照らし出していただく事だ。醜い、汚れた、そのと ころに御霊に来ていただく。 「明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら かにされます」「明らかにされたものはみな、光だから です」と。隠されているものは、暗やみだ、しかし明る みに出されたものは、光となる。プライドが邪魔するだ ろうか。だが、心の闇がどんなに深くても、光が射し込 めば、そこはもう闇ではなく、光だ。 ------------- 光に照らされると全てのものが明らかになる。罪を認め る事ができ、悔い改めが与えられ対処していける。全て に光が与えられること、何と感謝だろう。
2026年08月03日(月) 「私には、善をしたいという願いがいつもあるのに、 それを実行することがないからです・・自分でしたいと思 う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なって います」ローマ7:19
「私には、善をしたいという願いがいつもあるのに、 それを実行することがないからです・・自分でしたいと思 う善を行なわないで、かえってしたくない悪を行なって います」ローマ7:19
アダムとエバは、悪魔に誘惑され、主が禁じられた「善 悪の知識の木」から取って食べた。その結果、善と悪が わかるようになったが、善を行う力は無い。それは、善 悪が「わかる」だけで、善に生きる事はできない。悲惨 な事になった。 悪魔が、食べるなら「神のようになり」と言ったが、違 った。善の知識があるが、自分の内に善が住んでおらず、 善は無い状態だ。パウロが苦しみ、「私の内に善が住ん でいないのを知っています」と告白した。善を行なえる と思い、頑張るが、善が住んでいないので不可能だ。 その私たちが、頑張って行なう善とは偽善で、偽善しか できない。真の善は不可能だ。だからこそ、御父は御子 キリストを与えて下さった。どれだけ頑張っても、善は 行なえない事を知る時、祝福の道筋にいる。主に、ギブ アップする事だ。自分の内に善が無い事を知った人が、 初めて真剣に主に頼る。 それ以前には、主に頼る事は出来ない。自分に頼ってい るからだ。何とか頑張れば出来ると思っている。そして 肉は、自分の能力を誇りたい。能力を人に認められたい。 そこそこの無力は認めるが、どん底まで完全無力は、余 りにも惨めで認められない。プライドだ。 しかし、徹底無力を認めた時に初めて、十字架の血潮が 自分のためであり、完全に赦され、おおわれている実感 が来る。その時、自力でなく、御霊により善を行なえる。 ----------- そこそこの努力で一喜一憂しているのではないか。無力 を認め、主に感謝し、御霊に導かれて進みたい。絶望の 中に、十字架の恵みが備えられている事に感謝だ。
2026年08月02日(火) 「モーセとアロンはパロのところに行き、そして言 った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『 わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭り をさせよ。』」出エジプト5:1
「モーセとアロンはパロのところに行き、そして言 った。「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『 わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭り をさせよ。』」出エジプト5:1
モーセが、民をエジプトから救出するために、パ ロに立ち向かう。神の様々な超自然の奇跡によ り、災いの苦痛が臨むと、パロは「私は罪を犯し た」「悪かった」「私のために祈ってくれ」という、 一見悔い改めのような言葉を発するが、その災い が鎮静化するや、すぐに頑固な元の姿に戻る。 これは、それらしき言葉を言うが、心の底では思っ てはいない。真の悔い改めなら、必ず良い実を 結んで行くはずだ。神は「わたしが主であることを、 あなたがたが知るため」に、しるしを行なわれる。 しかし、パロにとっては、様々なしるしが、主を知 る事にはならず、脅しみたいなものだった。だか らその脅しがひくと、再び強情で頑なになった。 元の姿だ。 私たちはどうだろう。もし高慢になっているなら、 神はへりくだるように苦しみを送られる。これは 神の懲らしめの愛であり、放っておかれるほうが 悲惨だ。しかしその苦しみをパロのように単に脅 しに取るなら、確かに悔い改め、反省し、正すの だが、その苦痛が除かれると、すぐに元に戻る。 本当は自分が悪いとは思っていない。 結局、古い肉の自分のままで、何も変わらない。 真の悔い改めに至らないので、実を結ぶ事はな い。しかし、御霊に導かれ、へりくだった、真の悔 い改めは必ず結実して行く。悔いくずおれたたま しいに、御霊は豊かな実を結ばせて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 神のみこころにそった悲しみと、世の悲しみがある と言われている。世の悲しみは単なる後悔だが、 御霊が導かれる時、悔い改め、向きを変えさせて 下さる。御霊に従おう。
2026年08月01日(土) 「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯 しました。私はあなたが私をとどめようと道に立 ちふさがっておられたのを知りませんでした』」 民数記22:34
「バラムは主の使いに申し上げた。『私は罪を犯 しました。私はあなたが私をとどめようと道に立 ちふさがっておられたのを知りませんでした』」 民数記22:34
主は試練を送られると、聖書に繰り返し記されて いるが、私たちは、痛い事、苦しい事は避けたい と思う。痛い目には会いたくない。又、問題が起 きると、スムーズな歩みが阻止される。悩み苦し みのため、先に進めない。そんな苦しみが好き な人などいない。辛い事態を、避けて通りたい と思う。何とか逃れたい。 しかし、愛なる主は、私たちが間違った方向へ 進まないために、行く手に障害物を置かれ、と どめられる。苦しみは、私たちをストップさせる。 うまく行かない事は、不運でなく、たまたまの事 でなく、まさに主の取り扱いだ。主が量って与え られたものだ。偶然は無い。目の前に、立ちふ さがる相手を責めるのでなく、主の取り扱いを 認めよう。 その状況の中で、主からのメッセージを受け取 ろう。何を教え、何に気づかせたいのか。今、 あなたの行く手が阻まれているなら、状況でな く、まずそこに主を認めよう。主が立ちはだか っておられる。その道は、御心と違う方向かも 知れない。主はバラムに「彼らと一緒に行って はならない。その民を呪ってもいけない。祝福 されているからだ」と言われた。しかしそれでも 尚、出て行くバラムに、主の使いが立ちはだ かった。目の前の状況に、主を認め、自分の 思いを退け、主のお心を尋ね求めよう。必ず 正しい道に導き、大いなる祝福を与えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 目の前に歩みをとどめる障害物が来た時には、 主のみこころを求めて祈ろう。今までも、阻止を 通して守られたり、考えさせられたり、沢山の学 びを与えられた。まず祈りに持って行こう。