2025年12月14日(日)

「そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『・・あ の預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとし たら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか ・・』」U列王5:13



将軍ナアマンは、王に重んじられ、連戦連勝で名を馳せて
いた。名誉も地位も得ていたが、彼には苦悩があった。らい
病を患っていた。回復の望みは無く、悪化の一途だ。どん
な犠牲を払っても治りたい。その時に、捕虜のユダヤ人娘
から、らい病をいやしてくれる預言者がいると聞いた。

そこでナアマンは、エリシャを訪ねる事になる。が、出て来
る事もせず、使いの者に、ヨルダン川で7度身を洗えば、
いやされると伝言された。ナアマンは怒りで立ち去る。エリ
シャが会いもせず、手を置いて祈りの儀式も無く、川で身を
浸すなど、有り得ないと怒り爆発だ。ナアマンのプライドが
ひどく傷ついた。

地位のある自分が、エリシャに軽くあしらわれた事に、又、
汚い川で民の面前で身を浸すなど、屈辱でしかない。自分
の思いと全く違った方法を、受け入れる事ができなかった。
しかしエリシャは、いやされる方法をはっきりと示している。
だがナアマンは、プライドがあり、自分の思いと違うゆえに、
譲れない。丁度そんなところに、しもべたちが進言した。

去ろうとしていたナアマンだったが、聞く耳を持ち、主に従
おうと、ヨルダン川で、言われた通りにした。すると完全に
いやされた。私たちも「プライド」や「自分の思い」が、妨げ
ていないだろうか。他者に、目下に、耳を傾ける、へりくだ
った態度はどうだろう。そこには溢れる祝福が備えられて
いる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
ナアマンは、しもべの進言に耳を傾けた。主は、進言をも
用いて導いて下さる。私たちにも、今、進言が来ていない
だろうか。耳を傾けるかどうかで、天と地ほどに違って来る。
へりくだって聞いてみよう。


2025年12月13日(土)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて、それを悟る人 のことで、その人はほんとうに実を結び・・」マタイ13:23



種まきの例えで、種は御言葉で、土地は私たちの心だ。礼
拝で、全く同じ御言葉を聞いて、豊かな実を結んで行く人々
と、全く益を受けない人々がいる。それは、土地である心が
問題だと。私たちの心の態度はどうだろう。御言葉を拒む
気は全く無く、聞く事は好きなので、自分は御言葉をよく聞
いていると思ってしまう。

幾らでも聞くのだが、しかし右から左に抜けて、心に留めず、
傍観者的に聞く。映画を観ているように、他人事だ。その時、
悪魔が御言葉の種を奪うので、聞かなかったのと同じにな
る。心に何の痕跡も残さない。又、岩地に落ちるとは、大変
感動し、涙を流して聞く。しかし心の中には、頑強な自我と
いう岩が存在し、それが妨げるので、根ざす事ができない。

そのため、迫害や試練が来ると、立ち行けず枯れてしまう。
御言葉に感動し、涙して聞くだけでは、根ざせない。従う時
に初めて、岩である自我が砕かれて行く。いばらは芽をふ
さぐように、御言葉をふさぐ。伸びようとする芽を、おおって
枯らす。世の楽しみ、富への執着は、芽生えた信仰をふさ
いで枯らす。

心で握りしめているもの、愛する偶像は、神から私たちを
離してしまう。自分は大丈夫と思うが、一番大切なものを
見失って行く。絶えず自らの状態を点検しよう。聞いた御
声に従おう。その時必ず実を結ぶ。信仰人生で、実を結
んでいるなら、御言葉を正しく聞いたという事になる。

・・・・・・・・・・・・・・・
みことばを聞いても、行なわないなら、聞いたみことばを
すぐに忘れてしまうと。種が、土地に植わらなければ、実
を結べない。まず目の前の御霊に示される御言葉に、一
歩従えるよう、助けを求めて祈ろう。


2025年12月12日(金)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる 邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:16




他の箇所では、憤りは残忍で、怒りは沸とうする。しかし妬みは、
誰も、どうにも出来ないものだと言っている。妬みは、激烈な破壊
力を持つものだ。そして、それは誰の内にもあり、又、自分の内に
あるのに、気づかない難儀なものだ。カインは献げ物の事で、激し
い妬みが弟アベルに向かい、弟を殺害した。

ヨセフは父親の偏愛により、兄たちのひどい妬みを買い、兄たちに
より隊商に売られた。サウルは、女たちから大きな賞賛を受けるダ
ビデを妬み、憎しみは狂気へと高じて行く。兄息子は、放蕩三昧を
したあげく、父から愛で迎え入れられる弟を妬み、激しい怒りで震
えた。主は、祭司長たちに妬まれ、妬みのゆえに引き渡された。

ぶどう園の早朝の労働者も、5時の労働者を妬んだ。「あらゆる労
苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによる」とある。妬みは強烈な
エネルギーとなり、妬みが動機で、様々な分野に成功を収めさせる。
しかしそれは非常に虚しいと。私たち自身の、あれこれの動機に
「妬み」は、なかっただろうか。密かな競争心、張り合いが、見え
隠れするだろうか。

その「妬み」はどこから来るのか。よく探り、主に取り去って頂く
よう祈ろう。祈りは答えられる。祈り求めるなら、主は取り扱い、
解決して下さる。主を見上げる時、主の溢れる愛と慈しみ、賜物が、
紛れもなく自分に、注がれている事に目が開かれる。御霊によって、
妬みから解き放たれて行く。
-----------
相手に非がなく、正しく優れている事で湧いてくる妬みは、なんと
邪悪な罪だろう。その妬みが簡単に内に湧いてくる事を認めていた
い。上からの賜物に感謝し、光の方へ向かおう。


2025年12月11日(木)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も 住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」 ルツ1:16


ユダの地が厳しい飢饉に見舞われた時に、エリメレクとナオミは、
異教、偶像の地モアブに移住した。夫のエリメレクはそこで亡く
なり、二人の息子マフロンとキルヨンはモアブの女性と結婚し、
それがオルとルツだった。ナオミは、ほっと安堵したのも束の間、
その二人の息子も亡くなってしまった。異国の地で、ナオミ、ルツ、
オルパの三人が残された。

ナオミは故郷が豊作になったと聞き、帰郷を決意する。二人の嫁を
思い、モアブの実家に帰るよう勧める。だが、ルツの堅い決心は変
わらず、姑ナオミについて行く。ルツにとれば、ユダは異国の、全
く見知らぬ地であり、異教のモアブ人であり、どんなに厳しい状況
だったろう。しかしルツの堅い決心は揺るがなかった。それは、真
の神に従う決心だった。

先の事は全くわからないが、最善をして下さる神を信じ、ナオミと
生きて行く決心だった。この世は、商売繁盛、家内安全、無病息災
・・平穏無事、問題が無い事のための宗教だ。しかし、ルツは厳しい
苦難がわかっていて、神に従う道を選択した。どんなに神をお喜ば
せした事だろう。「彼に信頼する者は、決して失望させられること
がない」。

ルツはこの後の人生、素晴らしい祝福に入れられ、報いられる事に
なる。ボアズとの結婚、子どもを授かり、そのひ孫はダビデだ。ル
ツ自身もイエス・キリストの系図の中に名を残す。今、選択を迫ら
れていたら、主の道を選ぼう。後悔の無い、豊かな報いがある。
--------------
先の見えない生活は本当に不安だ。でも、私たちも神がどのような
方で、これまでに何をしてくださったかを知っている。最善を成し
てくださる神を頼り、悲観せず前進したい。




2025年12月10日(水)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を 受ける道です」Tテモテ6:6



バプテスマのヨハネの弟子たちは、今まで師であるヨハネに寄せられ
た、皆の関心と人気が、主イエスに向かう事をひどく妬んだ。我が師
びいきのゆえだ。しかし、ヨハネはそうでは無かった。「人は天から
与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、全主権
が、主にあることを認め、受け入れていた。主が与えて下さるもの
を、受けるばかりだ。

別の人に、人気と関心が集まるなら、それも主のなさる事であり、自
分がどうこう言う事ではない。ヨハネは、自分に与えられた場所、地
位、能力、使命をわきまえ、すべてにおいて満足していた。「満ち足
りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」。私たちはどう
だろう。誰かが成功すれば、ほめられれば、心穏やかでは無いだろう
か。

ある人はシーソーだと言った。誰かがほめられると、自分がけなされ
るように感じる。自分が上がると、人が下がり、優越感を感じる。ど
こまでも人が基準だ。「満ち足りる心を伴う敬虔」、これは御霊から
来るものだ。肉の内には無い。主を知る以前は、自分を量る手段が、
目に見える他者しか無い。必然的に、人との差異で自分を量って生き
て来た。

そのため他者との比較が、新生後も、根深く培われている。御霊はそ
のつど気づかせて下さる。「わたしの目には、あなたは高価で尊
い」、自分の賜物があり、使命がある。主の視点と価値観に立つ時、
見方が変わる。御霊に導かれ、不満が感謝と平安に変えられて行く。
--------------
主と自分との関係を見ていれば、備えられている恵みに感謝して歩め
るのに、周囲を見てしまう。心が穏やかでいられない時には、気づき
たい。主のご愛と主の御約束を覚えていよう。


2025年12月09日(火)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ 私の神であられますから」詩篇143:10


新生した私たちは、主のみこころに従って行く。そのみこころを知る
ために、絶えずアンテナを張り、御声に耳を澄ます。状況も、しっか
りと見て行く。だが、主の御声が、聞こえなくなる事がある。なぜ聞
こえないのだろう。自分の強い思いがあり、心がその思いで一杯な時
は、聞こえない。自分の思いが、みこころを悟る事を妨げてしまう。

今、御声が聞こえにくいなら、肉の思いを、遂げようとしていないだ
ろうか、御霊に探って頂こう。又、なすべき事がわかるのだが、自分
のプランで一杯な時は、従えない。その時は、祈りで自由に自分の気
持ちを、主に告げよう。詩篇記者は、思い煩い、嘆き、悲しみ、苦し
み、怒り・・何もかもを、主に吐き出している。

その中で、主は、みこころの方向へと導いて下さる。又、心の願いは
告げよ、と言われる。願いは、願いとして主に告げるべきだ。それが
御心と合致するなら、叶えられる。だが、すべてが叶えられるのでは
ない。主のみ思いと、合わない時には、叶えられない。それは、その
方が良いのだ。

自分の思いよりも遙かに高く深い、「主の最善」を信じ、受け入れ
て行く事だ。主がゲッセマネで、「わたしの願いではなく、みここ
ろのとおりに」と祈られ、受け入れて行かれた。自分を捨てて、従
う時、主ご自身を知る事ができ、主との関係が、更に深められて行
く。
--------------
自分のありのままの思いを祈った後、御心が成りますようにとの祈
りで深い平安が来る。自分の思いではなく、主の最善に進みたいと
祈ろう。肉で動くことから守られる。


2025年12月08日(月)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、 主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



人生で対人関係は不可欠だが、しばしば問題が起きる。今、現在、
悩まされているだろうか。人生の悩みの多くの部分が対人関係だと
言われるが、近隣や職場に、難しい相手がいて思い悩み、振り回さ
れる。目の前に起きている、この問題は、不運なのでなく、悪魔に
ほんろうされているのでなく、主から来ている。

まず環境さえ変わればと思うのだが、この問題に主を認めよう。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」「そうすれば、主
はあなたの道をまっすぐにされる」と。紛れもなく、主が、目の前
に難しい相手を置かれている。それは、あなたの祝福と成長のため
だ。

主は、目的と計画と意図をもって、あなたの前に、他の人でなく、
その人を置かれた。沢山の事を学ばせて下さり、自分自身を変えて
行って下さる。ある人は、ひどくお節介な隣人が、苦痛でたまらな
かった。頼みもしないのに世話を焼かれ、大きなお世話なのだが、
そう思う自分も嫌で、自己嫌悪に陥る。その事を祈りに持って行き、
日々に祈り続けていた。

ある時、ついにキレて、爆発する瞬間、「神様!」と助けを求めて
叫んだ。すると「すみません。いつも色々して頂いて」との言葉が
出て驚いた。相手は心開き、仲良くなってしまった。すると相手は
悩みを打ち明けて来て、良い関係とされた。

自分も苦しかった心が、平安にされた。目の前の事態に「主を認
め」て、主に拠りすがろう。主は、道をまっすぐに=平安にして下
さる。貴重な経験、学びを得て、後の日に感謝とされる。
---------
目の前の状況に飲まれてしまうが、全てを主が支配しておられるな
ら、それだけで平安がくる。全ての事に主のご計画があることを心
に留めたい。必ず、よい方向へと導かれる。道は真っすぐにされる。


2025年12月07日(日)

「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられ た。彼は『はい。ここにおります。』と答えた」出エジプト3:4


主は、モーセを、民をエジプトから救い出すリーダーとして
選ばれた。モーセが「今、行け。あなたをパロのもとに遣わ
す」と言われた時、彼の戸惑いは、どんなものだったろう。
「何を今さら?この80歳の老人が?」かつて血気盛んな40
歳の時。自分こそはと、同胞イスラエルを救うべく事を起こ
したが、失敗した。

同胞の拒絶に会い、ミデアンへ逃亡。そこで遊牧生活40年
を経た。羊飼いの長い歳月に、かつての野心も失せていた。
家庭も持ち、平凡だが平穏な日々に、それなりの幸せも感
じていただろうか。このまま人生を全うしたい。しかも今や、
エジプトでの地位も、力も、人脈も、財力も何も無い。年とっ
た羊飼いに何が出来よう。

ひどく困惑し尻込みするモーセに、主もそれは承知の上だと、
説得して行かれる。羊飼いの杖を手に取り、しるしを行なう
ように言われた。モーセは説得され、手に「神の杖」をもって
エジプトへ戻る事になる。仕事で使う羊飼いの杖が、今や
神の杖とされた。その杖により、神が、奇跡をなされる。

「あなたの手にあるものは何か?」それは普段使い慣れた
羊飼いの杖だ。主は、すでに「あなたの手にあるもの」を用
いられる。その手にあるものを、主に明け渡そう。そうする
時、それを、主の栄光のために用いて下さる。あなた自身
と、あなたの手にあるものを、「はい、ここにおります」と、主
に献げよう。それをきよめて、神と人々のために大いに用い
て下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
無いものではなく、今、手の中にあるものを、用いて下さる。
自分の手にあるものは、何だろう。御霊は示して下さる。主
にお献げするなら、聖めて用いて下さる。自分にも喜びと
される。


2025年12月06日(土)

「・・どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさば く王を立ててください」Tサムエル8:5


サムエルがいた時代に、イスラエルは王を求めた。他の国
々に王がいるように、自分たちも王が欲しいと。しかしイス
ラエルの王は「主」だ。主ご自身だ。イスラエルの民の望み
は、主を退けて、主以外に、王を求めたいとの行為だ。主を
捨てるなら、必然的に、「めいめいが自分の目に正しいと見
えること」を行なう事になる。

つまり「正しいと見えること」とあり、正しい事だが「自分の目
に」が重大な問題だ。主の目にでなく、自分が王になる。自
分が基準でルールになる。主の御心から離れた生き方にな
る。イスラエルの歴史はずっとそうだった。主を捨てて、偶像
に仕えては、敵の攻撃に苦しみ、主に叫び求めて、救い出さ
れる。

そして主に立ち返るや、又、すぐに偶像に仕える、その繰り
返しだ。私たちはどうだろう。自分の目に正しい、と見える事
に歩んでいないだろうか。主の言葉に聞かず、御言葉と祈
りにより判断するのでなく、自分の思いで判断するだろうか。
又、御言葉に目を留めはするが、自分に都合の良い御言葉、
心地良い御言葉だけを選んでいないか。

それこそ、自分の目に正しいと見えることだ。痛い御言葉こ
そが自分を変え、建て上げてくれる、自分に必要な御言葉
だ。今、目の前に問題があるなら、自分の思い、つまり自
分の目に正しいと見えることがあるが、御言葉に=主の目
に正しいことに、従ってみよう。豊かな祝福にあずかって行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
肉は、自分の目に正しいと見えるから、やっかいだ。自分
の思いを進め、これが最善の道と思えてしまう。人の目に
はまっすぐに見える道が、その終わりは死の道だと。主を
仰ぎ、御言葉に聞こう。真実の道に導かれる。


2025年12月05日(金)

「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して 何もすることはできません」ヨハネ14:30



悪魔は攻撃して来るが、主に許可された限界内でしか働けない。ヨ
ブ記にあるように、「持ち物はいいが、身はいけない」次に悪魔が
挑戦して来ると「身はいいが、いのちには触れるな」。主は「〜ま
で」との限度を定めておられる。ユダは、主イエスを裏切り、銀
貨30枚で売ってしまった。主は無実の罪で捕らえられ、悪魔がユダ
に思いを入れた。

「悪魔は・・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」
と。ユダは主を裏切り、主は十字架にかかられた。神は悪魔を阻止
する事も可能だが、悪魔が働く事を許され、その悪魔すら、神の決
定的御旨成就のために用いられた。神は全知全能で、全主権を握っ
ておられる。悪魔は、主を十字架の無残な死に追い詰めたが、結果
的に十字架は人類の贖いという金字塔を打ち立ててしまった。

もう誰も、悪魔すら、後戻りが出来ない。ペテロも悪魔にやられた。
自分の弱さを知らず、自信満々で、命を捨ててでも、従って行ける
と思い、豪語した。しかし、主が捕らえられた時、保身に走り、呪
いをかけて誓ってまで、知らないと主を否み、裏切ってしまった。
しかし主はそれをも予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えてお
られた。

「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」
悪魔のふるいだと。ユダは悔い改める事が無く、ペテロは悔い改め
た。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを徹底的に知らされた。悪
魔は働くが、神が全主権を握っておられ、その事をも益と用いて勝
利へと導かれる。
--------------
サタンの攻撃や誘惑を日々受けるが、そこには主の目的と主の執り
成しがあることを覚えていたい。自力で太刀打ちできないのは、経
験済みだ。謙遜になり、主に助けを求め、主に支えられて勝利しよ
う。


2025年12月04日(木)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」 イザヤ書30:21



主の御心にそって、人生を歩む事が大きな祝福だ。自分にも喜びが
満ち、周囲にも主の栄光を現わして行く。御心を求め、御心に従っ
て行く事が、信仰人生で重要な事柄だ。問題は、自分の思いが強過
ぎると、御心を受け取り損ねてしまう事だ。自分の強い思いが、主
のお心を知ることを、さえぎってしまう。そのため、まず右でも左
でも、御心のままでOKですと、自分を明け渡す時、9割方解決だ。

必ず御心は示される。よく祈り、御言葉に向かい、状況を見張って
いよう。指導者に助言を求める事は有益だ。彼らの御言葉の知識と
多くの経験が、初心者を失敗から守ってくれる。目を開き、耳を澄
ましていると、主が情報を送られる。多くの人々の体験をを耳にす
る。導きを求めていた時に、時ピッタリに、その事に関する様々な
情報が目の前に来たと。

ある人は伴侶が重病発覚で、パニックだが、しかし何をどうすべき
かを祈り続けていると、不思議に様々な情報が各方面から寄せられ
た。そしてなすべき事が示されて行ったと。主は導いて下さる。導
きの主だ、原則として、一つの光が与えられた時、その光に沿って
進めばよい。

万一間違っていたら、主が止めて下さる。どうであれ、主に従いた
いとの心がある時、主は導いて下さる。導きを受けたなら、信仰に
より一歩を、勇気を持って踏み出す事が大切だ。すると次の一歩が
示される。もし踏み出さなければ、そこでそのまま停止となる。
一歩踏み出すと、次々と導かれて行き、主と共に前進して行ける。
------------
主の導きがあることは何と心強い事だろう。祈りながら主の導きを
見張り、待とう。止められたならそれも感謝だ。強い自分の思いを
主に明け渡せる。祈りながら主の導きに従おう。


2025年12月03日(水)

「ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子 ・・を打ち殺した・・こうしてサウルは死に、彼の三人の息子も、彼の 全家も、共に死んだ」T歴代10:2



サウル王は、ペリシテとの戦いで、主に逆らった不信の罪のために
死んだ、と記されている。が、それ以前に主に従う事をしていなか
った。アマレクとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との命令に
対し、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。

主の言葉に従わず、主を退けたので、主もまた、サウルを王位から
退けられた。サウルは罪により、主との関係が絶たれてしまった。
その時に、サウルは「罪を犯しました、しかし、私の面目を立てて
下さい」と願った。これは罪の悔い改めではない。サウルにとり、
何より重要なのは、体面だった。自分の面目を守ることしか、頭に
無かった。

私たちも、罪によって、人前で面目を失う事が恐いだろうか。人は
関係なく、罪とは、神と自分の間のことだ。サウルはペリシテとの
戦いで、主に伺ったが、主はいっさい答えられなかった。それで霊
媒へと向かった。まず主との関係が大切で、その関係が修復されず、
悔い改めが無いのに、伺いを立てても、答えが無いのは当然だ。

主との関係が、損なわれているのに、自分本位に願ってもどうにも
ならない。「主に尋ねなかった」と言われ、つまり尋ねた事になら
なかった。ダビデは姦淫、殺人の罪を犯したが、真実に御前に悔い
改め、完全に赦された。サウルに悔い改めは無かった。悔い改めに
より、神との間は完全に回復される。今、あなたと、神との関係は
どうだろう
--------------
御声を退け、滅びに向かっていくサウルに学べる。主は、いつでも
悔い改める道を示してくださる。くり返し失敗する罪人であっても、
赦しがある。主の恵みと導きを常に覚えて、主に応えていきたい。


2025年12月02日(火)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられた とおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」 コロサイ2:7



私たちは、ともすると無いもの、持っていないものを数えがちだろ
うか。あれが無い、これも無い、あれもこれも持っていないと。
しかし、無いものでなく、今、あるものを感謝して行くこと、その
時、恵みに、恵みが増し加えられて行く。母親を失い、人生の虚し
さに、鉄道自殺を図った田原米子さんは、何とか一命を取りとめ、
両足と片腕を失い、片手の指3本だけが残った。

その身体を見て、今度こそ絶対に死のうと決意した。しかし病室を
訪ねた宣教師によって救いに導かれた。神に出会った時、「3本し
かない」指が、「3本もある」に見方が180度変わった。「ない」か
ら「ある」へ。「3本しか」と「3本も」の違いで、人生が変わっ
てしまった。結婚し、子どもも出産した。

子供を育てるために、主は3本の指を残して下さった、何と有難い
ことかと。祈りにより、日々に天からの知恵とアイデアを与えられ、
日々チャレンジ精神で、何もかもを3本の指で成し遂げて来た。主
の恵みは十分であり、主の力は、弱さの中に完全に現われる。私た
ちの日常はどうだろう。「ない」「ない」と嘆いてばかりだろうか。

あれも無い、これも無い〜。不満と愚痴だらけだろうか。恵みを数
えてみよう。あれも、これもある〜、何と豊かに与えられている事
だろう。そこに焦点を当てなければ、あるものも見えない。感謝が
見えない。感謝して行く人に、主は更に感謝すべき事を増し加えて
下さる。ますます感謝が見えて来る。
--------------
不幸は見えやすく、幸せは見えにくい。恵みを数え、感謝しながら
生きよう。信仰によって見るなら、既に手にしている恵みに感謝が
溢れてくる。平凡な一日だと思いがちだが実は輝いている。悔い改
めたい。


2025年12月01日(月)

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯した からですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2


何か問題が起きる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上
がる。登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答え
を見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。理由捜し
に必死になる。「なぜ?」「どうして?こんな事が」又、
「ああしていたら」「こうしていたら」違った結果になってい
たのではと、自分を責めてしまう。

又、自分が余りにも辛いと、耐えられず、自分以外のところに
原因を捜し出そうとしてしまう。犯人探しになってしまう。弟
子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目な
のは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。
しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と
言われた。

私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で解明できるのなら、
それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の下でなく、上に
立つ事になり、神を動かす人生になってしまう。しかし、全主権
は主にあり、人生で、時に「どうしてこんな事が」と思うような、
突如の苦しみを経験する。苦しく辛くてたまらない、わけのわか
らない所も通る。

だが、あれが悪い、これのせい、誰が、かれがと、犯人探しをし、
非難するのでなく、主の栄光が現われ、主の素晴らしさを知るた
め、との信仰に堅く立とう。どんな苦しみ痛みも、その事で、主
ご自身を更に深く知り、主のご愛を知る事とされる。
-----------
まず原因を探し安心しようとするが主を認めなければ、何処にも
平安がないことをよく経験する。主を認めよう。主の御手から来
ている試練だ。この中で主がご自身を表してくださる。