2021年01月18日(月)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」創世記12:1



アブラハムの父テラが、出身地のウルを出て、カナンへと旅立った。
しかしカランまでやって来て、そこに住みつき、そこでテラは亡く
なった。その父を葬ったカランで、アブラハムは主の御声を聞いた。
「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしの示す地へ
行け」と。人間の事情に関係なく、主の一方的な選びと召しであっ
た。

アブラハムは75歳の時に、主の召しに従い、一族と共にカランを出
て、カナンの地を目指した。ただ主の御声に従った。アブラハムの
信仰だった。信仰とは主の御声を聞いて、主に信頼して従うことだ。
「生まれ故郷」とは、自分の心のふるさとでもあり、心地良い場、
居場所、慣れ親しんだ生活、自分の拠り所だ。

そこは安心できて、周囲とも良い交流があり、生活の基盤が据えら
れていて、安定した場所だ。そこにとどまれば、経済的基盤もでき
ている。そこなら、物心共に主に頼らずとも生きて行ける。その安
定した場を出るという事は、それらをすべて捨てる事であり、ただ
ただ主のみに拠り頼むという事だ。非常に大きな決心だ。

見知らぬ地へ向かうので、何が起こるかも全くわからず、身の危険
もあるだろう。持ち物にも頼れず、人も頼りにならず、自分の知恵
も判断も頼れない。ただ主だけが頼りであり、主の言葉だけが行く
道を示し、照らし出す。私たちも「生まれ故郷を出て」、主以外に
大きく依存しているものから離れて、主だけを頼り、前進せよと言
われているだろうか。大きな祝福が備えられている。
-------------
主の他に心に信頼を寄せているものがいくつもある。それなら主の
導き自体がわからないかも知れない。いつでも新しい道に旅だてる
よう身も心も身軽にしていたい。


2021年01月17日(日)

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受け るその時が来ました』」ヨハネ12:23



主は、十字架の死の前に「時が来ました。子の栄光を現わして下さ
い」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるよう
にと。十字架刑など、一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。
「これのどこが栄光?これが神の子なのか?」とこれ以上ない惨め
で哀れな姿、その苦しみが栄光である事を主は知っておられた。

両手両足を釘づけられて、さらされた姿で何の抵抗も出来ない。な
されるがままであり、これこそ無力の極みだ。しかしこれが栄光だ
と言われている。「栄光」と聞くと、大成功、大勝利、喜ばしい事、
失敗の反対を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子
供は良い子、立身出世、商売繁盛・・こういう事が栄光だと思ってい
ないだろうか。

しかし十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で
輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。大成功だけが栄光
なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、
失敗であっても、そこで悔い改めて主に従って行くなら、主はあな
たを通して「栄光」を現わされる。

姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の正反対だ。しかし真摯に悔い改
めたダビデは、主の栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の
人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き
上げられただろう。どんな悲惨な状況であれ、そこで自分自身を明
け渡して、御霊の導きに従おう。主のあわれみは尽きない。

・・・・・・・・・・・
栄光というと、一見ポジティブな事柄を連想しそうだ。病気、経済
的苦境、不合格、問題・・一見、負の事柄が起きると、祝福されて
いないように感じるが、そうではない。その中で、主を第一に、御
声を聞いて従って行く時に、主はご自身の栄光を現わされる。

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2021年01月16日(土)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



主が、五つのパンと二匹の魚で奇跡をされ、大勢の人々を満腹させ
られた。その奇跡を見るや、群衆は大歓声で主をかつぎ上げ、王と
するために連れて行こうとした。その時、主は、ひとり、山に退か
れた。人々は奇跡を見、満腹した時に「まことに、この方こそ世に
来られるはずの預言者」と言ったが、主はその心の内をご存じであ
った。

群衆は主を信じ、従って生きて行きたいと願ったのではなかった。
主について行けばパンがもらえる。生活の心配がなく、ずっと良い
暮らしができる、そのための主であった。私たちも自己充足、自己
実現のために、主について行っているだろうか。何のために主に従
っているのだろう。

何かの利得のためだろうか。主は満腹を下さる。自分の願いが叶え
られ、自分の欲望が満たされる。しかしそれだけなら、自分の願望
が叶えられている間はついて行くが、願望が叶えられず、思い通り
にならなくなると、主を離れる事になる。ついて行く意味が無いか
らだ。主は必ず必要を与えて下さる。必要を与えて下さるのであっ
て、私たちの肉の思い通りに動かれるのではない。

人々が主を「むりやりに連れて行こう」とした時に、主は退かれた。
私たちはどうだろう。今、どこまでも自分の願いを通そうと、むり
やりに主を連れて行こうとの態度だろうか。そうでなく、自分の思
いの方を捨てて、明け渡して、主のみ思いを聞き、主に従おう。そ
れこそが大きな祝福で、消えない満足と喜びの道だ。

・・・・・・・・・・
主に願いが叶えられるのは心地良い。しかしそれのみなら、かしわ
手を打って拝み、ご利益をもらうのと変わらない。自分が変えられ
る事は無い。自我が砕かれ、主に従い、主とひとつに歩み、主の
かたちに変えられ行く恵み、その喜びに目を向けて行きたい。、

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2021年01月15日(金)

「それは、あたなを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」申命記8:2



試練は苦しく、辛い。そのため試練に会うと「なぜ?〃?」と不満、
愚痴、怒りが湧くが、主は、はっきりと「あなたを苦しめ、試み」
と言っている。そして「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること」と、順境も逆境も主からのものだと。
順境の時には喜び、感謝すればよいが、試練を通してしか得られな
いものがある。

「苦しみに会う前には、あやまちを犯しました。しかし今は、あな
たの言葉を守ります」の通りに、人は強情で頑固で、自分を正当化
する者だ。自らの非を認めたくないので、環境や人のせいにする。
しかし苦しみにより砕かれて、自力に頼れないので、主のもとに追
いやられる。主に頼るしか、なすすべが無いところにまで追い込ま
れる。主に拠りすがって行く。へりくだるようにさせられる。

その時、初めて真に主を知る。拠り頼む事の意味を知る、幸いな経
験だ。涙の谷を過ぎる時も、その中で主に従って行くなら、必ずそ
こが泉の湧く所となる祝福とされる。人は皆、試練に会う。思い通
りに行かないから試練だが、その時に二つの選択がある。心を屈折
させ、不信仰に陥る事もできるじ、主からの訓練としてしっかり受
け止める事ができる。

自らの選択だ。そして結果を刈り取る。訓練として受け止めるなら、
測り知れない益を得る。平安の実を結ぶ。後に「苦しみにあったこ
とは、私にとって幸せでした」と必ず言える。苦しみは私達を、更
に主に近づけてくれる。ついには、あなたを幸せにするためだ。
-------------
試練の度に強靭になれと言われるのではなく、主に頼る事を覚えな
さいと言われるのは何と慰めだろう。主は心を用いてくださってい
る。主に訴え、主に祈りながら試練を抜けていこう。


2021年01月14日(木)

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」ガラテヤ5:1


主は、十字架で罪の問題を解決し、すでに私たちを自由にして下さ
った。しかしその自由とは、自分のしたい事を思うようにする事で
はない。それは肉のわがままであって、放縦だ。自由にはルールが
伴い、秩序がある。そして責任が伴う。その上に立って初めて自由
だ。ルールを無視する事が、自由だと勘違いしてはいけない。

魚は水中で自由であり、陸では不自由だ。魚は、水という拘束の中
でこそ自由だ。例えば楽器を演奏する時、楽譜に縛られないだろう
か。しかし譜面通りに演奏すると素晴らしい楽曲を演奏できる。ス
ポーツもルールに従って初めて、持てる力を発揮し、大いに競技を
楽しめる。しばしば生まれつきの価値観は勘違いする。

すべての縛りから解放される事が自由だと。そうではなく、拘束を
受け入れて従う事、つまり戒めに従い、御霊の導きに従うところに、
真の自由がある。例えば、嫌な人がいると、肉は嫌っていたい。愛
したいのでなく、嫌いたいので、嫌う事が、好きなように生きる自
由だと思ってしまう。

しかし人を憎むと平安を失い、苦しく辛く、非常に不自由だ。では、
どうする事が自由なのだろう。愛が無い事を認めて、主に愛を求め
る時に、主は取り扱って下さる。その示しに従う中で、主からの愛
が与えられる。憎むのではなく、愛して行く時に解き放たれ、平安
と御霊の喜びを経験する。自分を明け渡して、御霊に従って行く時
に、自由に、自由にされて行く。
-------------
憎みたいままに憎んでいるなら、わがままな自我に振り回される奴
隷だ。主が与えてくださった御霊に導かれて生きよう。主が自由を
与えてくださる。


2021年01月13日(水)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5



思い煩いに飲み込まれる事があるだろうか。突如の問題が起きて、
不安でたまらない。恐れと心配の深い淵に落ち込んでしまう。心は
重く、真っ暗だ。そんな時、主はどこにおられるだろう。問題が高
い城壁のように立ちはだかり、主は飛んでしまっている。何とかし
なければと、そればかりで、ますます心はずっしりと苦しい。自分
の肩に重荷が、すべてかかっているからだ。重くてたまらない。

しかし「自分が」「自分が」と、自分が先立って動くので、ますま
す主が遠のいてしまう。しかし自分ではどうにも出来ず、空回りす
るばかりだ。どうにもならない、瀬戸際まで来た時に初めて、主を
覚え、主に拠りすがる。主は助けの手をのべて下さる。最初から頼
ればよいのだが、同じ事を繰り返す。自我が強く主に渡せない。

いろんな人々が、委ねればよいとわかるのだがどうしても、委ねる
事ができない。手放す事ができないと。自分が手放すと、事態がだ
めになる、崩壊してしまうと思う。又、自分自身を委ねると、なぜ
か何もかも失ってしまい、自分の思いの道を歩めなくなってしまう
と。そのため自分が握っていなければと、ますます固く握る。

そしてどんどん苦しくなり、窮地に陥ってしまう。自分には委ねる
事ができない事を認めよう。そして主に助けを求めよう。主が委ね
させて下さる。初めて自由にされ、平安と喜びに満ちる。自分の思
いとは違うかも知れないが、思いを遥かに越えた豊かな祝福が備え
られている。
-------------
思ったような解決を願っている時は、お委ねしたつもりでも、また
心配してしまう。狭い視野でがんじがらめの自分を手放して、主の
解決にお任せしよう。


2021年01月12日(火)

「このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです」マタイ20:16



最初この箇所を読んだ時に、自分は早朝の者のように感じるだろう
か。不公平ではないかと。だがこれは地上の事ではなくて、「天の
御国」の事を言っている。御国では、先の者が後になり、後の者が
先になると。地上の国から見ると逆だ。地上の価値観は、先の者が
先で、後の者は後だ。御国の価値観は、地上の価値観と全く異質だ。
すべてが恵みにおおわれ、恵みが支配する世界だ。

地上は恵みでなく報酬の世界だ。働いた分に比例した報酬を得る。
労働を提供した分は、その通りに貰う。そこで御国の価値観とこの
世の価値観が、かみ合わない。この世の価値観では、働きに比例し
ない報酬に腹を立てる。納得が行かない。そしてそれはこの世では
「正しい」ことだ。しかし御国は、全く質を異にする「恵み」の世
界だ。

労働を提供していないのに給料を貰えるのが、恵みだ。この世では、
それでは経済活動が成り立たず、混乱だ。つまり御国とこの世は、
全く別のものだ。主は、きちんと雇用契約通りに、早朝の労務者に
1デナリを支払われた。そして、9時の者からは「相当のもの」と
契約された。溢れるばかりに与える気前の良い主は、他の者にも同
じように良くしてやりたいと願われた。

肉の価値観は、御国の価値観を受け入れ難い。神の国が実力主義、
成果主義でなく、恵みの世界だからだ。培われて来た根深い価値観
と相容れない。しかし5時の者にとればどんなに嬉しく、有難い事
だったろう。家族に持ち帰るものが無く、心暗く沈み、不安でいた
中、どんなに喜び、感謝が溢れた事だろう。御国はあわれみが支配
する場所だ。
-------------
一日中立っていても雇われない者を5時から招き入れて恵みを与え
てくださる。主のあわれみは尽きない。この世の価値観でものを見
るとき、ここに立ち返ろう。


2021年01月11日(月)

「こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう」詩篇43:4



あなたが、最も心の喜びとするものは何だろう?人は皆、自分の心
に幸せを与えてくれるもの、自分を満たしてくれるものを喜ぶ。満
足を与え、幸福感を与えてくれるものを求める。もし、富が自分を
幸せにしてくれて、夢を実現させてくれて、楽しませてくれ、一生
を保障してくれると思うなら、人生に富を求めるだろう。

又、人から認められる事、評価される事、ほめられる事が自分に満
足と喜びを与えてくれるなら、人の賞賛に的を合わせて生きる事に
なる。「何を喜びとするか」で、人はそこに、自分の時間も能力も
労力も注ぐことになる。そしてその思いの通りの人生が築き上げら
れる。無意識ながら、方向性を決めてしまう事になる。自分は何が
喜びなのだろう。

ある宣教師は、力を尽くして宣教活動をし、人が集まれば喜び、人
が来なければ、がっかりし落胆した。目に見える成果に喜び、それ
が無ければ失望する。しかしある時、これなら働きの成果を喜びと
しているのであって、主を喜びとしているのでは無い事に気づかさ
れた。主ご自身ではなく、主が下さるものを喜びとしている。

それなら自分の願いが叶わない時、必ず落胆するし不満になる。
成果でなく、主からの祝福でなく、主ご自身を喜びとして行くなら、
状況や結果に関係なく、変わる事のない喜びがある。主との関係の
中にいる事が喜びなら、何があろうと無かろうと揺るぐ事がない。
主以外の、別のものを拠り所としていないだろうか。
-------------
心が簡単に幸せだと感じるものを見つめ、手に入ると神様感謝しま
すと満足するが、足らず、満たされず、手に入らない時に、主はご
自身を求める本当の幸いな生き方に導いてくださるのではないか。


2021年01月10日(日)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった」マタイ13:4


種は神の言葉であり、耕地でなく、人が行き来する固い道ばたに落
ちた。もし大切な物なら、道ばたに落ちたまま放っておくだろうか。
もし放っておくなら、それは捨てても構わない、どうでもいい物と
いう事になる。道ばたの心は、本心では神の言葉をそんなに大切な
ものとは思っていない事になる。

気に留めていない。関心が無い。だから「悪い者が来て、その人の
心に蒔かれたものを奪って行く」と。悪魔が来て、信じて救われる
ことがないように、心から御言葉を奪い去ってしまう。心に入らな
いという事は、結果的に聞かなかった事と同じになってしまう。そ
うであれば、実を結ぶ事ができず、自分が変えられて行く事もない。

御言葉を聞く態度はどうだろう。主が、出エジプトの際の奇跡で、
激しい雹を降らせるから、今すぐ家畜、野にあるすべてのものを避
難させよと言われた。雹で、人も家畜もみな死んでしまうからと。
その時、主の言葉を恐れた者は、言われた通りに、しもべ達や家畜
を家に避難させた。

しかし、主の言葉を心に留めなかった者は、御言葉をないがしろに
し、しもべ達や家畜をそのまま野に残した。激しい雹はことごとく
を打ち砕いた。主の言葉を畏れるなら、言葉を受け取り、必ず行動
が生まれる。聞き従って行く。

私たちは御言葉をどう聞いているだろう。主の言葉を軽んじて、な
いがしろにし、聞き流しているだろうか。主の言葉には力がある。
愛があり、真実があり、、主のわざを成し遂げて行く。主の豊かな
祝福にあずかる。祈って、御霊に助けられて、御言葉に耳を澄まそ
う。そして御言葉に従おう。

・・・・・・・・・・
御言葉を聞いて、従うなら、100倍の実を結ぶ。まず御言葉が無い
限り、信仰も、結実も無いので、御言葉に向く姿勢は非常に大切だ。
漠然と成長する事はなく、御言葉である種が芽吹き、茎となり実
を結ぶ。聞く態度を助けられて、聞いた言葉に従おう。


2021年01月08日(金)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ5:4



漁師であったペテロが、前夜不漁であったにもかかわらず、朝に
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」との主の言葉
を受けた。しかし朝に魚などいるわけがない。そして更に昨夜は一
匹たりとも捕れなかった。骨折り損で、全くの無駄ではないのか。
しかしペテロは、常識には全く反しているのだが「でも、おことば
どおり、網をおろしてみましょう」と主の言葉に従った。

すると驚くべき大漁だった。なぜ、網をおろそうと思えたのだろう。
ぺテロは舟を降りて網を洗っていた。その時、大勢の群衆が押し合
いへし合いで、主の言葉を聞いていた。だがペテロは無関心に背を
向け聞いていなかった。徹夜の漁で心身疲労こんぱいで、一刻も早
く帰り休みたかったろう。

そんな時、主がペテロに舟を少し出すよう頼まれ、舟から群衆に語
られた。ごった返していた群衆は主の声もよく通り、よく聞けた。
ペテロは自分の持ち舟なので、舟の中で御言葉を聞かざるを得ない
状況だった。主の計らいだった。御言葉にじっくり耳を傾けた事、
それが「でも、おことばどおり」網を下ろす事に至った。

ペテロは、御言葉を聞いた事により変えられた。自分の経験値、自
分の思い、自然界の常識では、魚はいない。いるはずがない。まし
てや昨夜、ベテラン漁師の自分も一匹も捕れなかった。目に見える
ところはすべてが反対方向を向いているが、「でも」御言葉に従っ
た。ペテロは自分軸から主の言葉を軸に従うようにされた。

私たちも、御言葉軸で生かされたい。伝道は難しい。なかなか人は
救われない。しかし主は深みに漕ぎ出して、網を下ろせと言われる。
状況は難しい、でもおことばどおりに、再度網をおろしてみよう。
そして続けよう。
-------------
自分の経験から得たものを簡単に飛び越えられない。でも、そこに
は必ず主の計らいがあるはずだ。主が押し出してくださる。信じて
漕ぎ出そう。


2021年01月07日(木)

「『こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は』と言った。そして主のみこころを求めに行った」創世記25:22



信仰人生に「なぜ?どうして?」と思うことが起きる。穏やかな日
々に、突如の苦しみが臨む事もある。主に従うなら、祝福されるの
ではないのか、なぜこんな苦しみ悲しみに会うのか。経済的苦境、
対人関係の悩み、仕事の問題、病気、離別・・様々な問題を通る。

イサクとリベカ夫婦にも試練があった。40歳で、イサクはリベカを
めとったのだが、リベカは不妊の苦しみを通った。その上、不妊は
当時、神に呪われているという迷信があり、人々から、何か後ろめ
たい事があるからだと中傷され、更に辛い状況だった。そのため、
イサクは自分の妻のために主に祈願した。

苦しい状況にある妻のために切に祈った。主はイサクのその切なる
祈りに答えられた。主は、窮地に陥った者の祈りを聞いて下さる。
私たちも、窮地にはまず祈ろう。リベカは双子を妊娠した。どんな
に喜びであった事だろう。ところが、双子の兄弟がお腹の中でぶつ
かり合い、争うという悩みが襲って来た。

あんなに求めた子供なのに、リベカは不安でたまらず、そんなリベ
カがした事は「そして主のみこころを求めに行った」とある。私た
ちも、喜びの日々から、突然わけのわからない不安な状況に陥った
り、理解不能の事態に遭遇する事がある。そんな時はリベカのよう
に、主のみこころを求めよう。主は祈りに答えて、主のお心を示し
て導いて下さる。
------------
突然の事態でも主に祈ると希望が生まれる。主が聞いてくださり愛
を持って答え、導いてくれるからだ。足りない自力で頑張って生み
だす希望ではない。主に信頼していよう。


2021年01月06日(水)

「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は、今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに」Tサムエル13:13



サウル王は、サムエルが来るまで7日間待てと言われていたのに、
7日間が過ぎてもサムエルが来なかったので、自分で勝手にいけに
えを献げてしまった。しかしそれは祭司しか献げる事のできないも
のだった。人間的になら、サムエルが遅れたのが悪いのでは、そし
て民が離れて行こうとしている中、仕方無かったのではと思えるか
も知れない。

又、アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよとの命令を受けたに
関わらず、自分の思いで、最も良いものを惜しみ、値打ちの無いも
のだけを聖絶した。そしてアマレクに勝利した事で、自分のための
記念碑をも建てた。しかしサウルのした事は、罪であった。それは
占いの罪、偶像礼拝の罪だと言われ、主の御前に大きな背きであっ
た。

サウル自身は、良い事をしたとの自覚しかなかったろう。しかし、
重要な事は、自分が思うことではなく、主が言われた事に従い、そ
れを行なう事だ。自分が良いと思うことではなく、又、主が喜ばれ
るであろうと、「自分が思う」事ではない。ここで自分の思いが入
り、間違ってしまう。主の示しより、自分の考えの方が良いように
思えてしまうのだ。

しかし、それが「主のことばを退けた」ことになり、御言葉を捨て
た事になってしまう。私たちもどうだろう。主が喜ばれるであろう
と、「自分が」思う事を行なってるだろうか。主が最も喜ばれる事
は、主の御声に聞き従うことだ。そのために祈り、御声に耳を澄ま
し、よく聞く事が必要だ。従う時、御霊が助けて、成し遂げさせて
下さる。
------------
善悪を自分で判断している事にまず気づきたい。自分中心にしか見
えない者で、いつも自分のためにが先立ってしまう。自分のために
御言葉や主の導きを求めていないかへりくだり、謙遜に主に聞こう。


2021年01月05日(火)

「しかし、百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒27:11



パウロたち囚人は、船でイタリヤ行きが決まり、百人隊長に引き渡
された。途中で季節的にもう航海は危険なので、パウロは中止を忠
告した。しかし百人隊長はパウロより航海士や船長の判断を信じ出
航した。するとパウロの言葉通りに、暴風で危機的状況になり、な
すすべなく流されるままになった。

激しく翻弄される中で、人々は命の危険を覚え、非常な恐れに襲わ
れ、ついに最後の望みも絶たれようとしていた。その時に、パウロ
は人々を励まし、命を失う者は一人もないと、神の言葉を告げる。
そして紆余曲折ありながら、パウロの言った「頭から髪一筋も失わ
れることはない」の通りになった。

最後は「みな、無事に陸に上がった」。神の言葉のその通りに成就
した。パウロは絶体絶命に見える瀬戸際の中で、目に見える絶望の
状況ではなく、神の言葉の方を信じた。それゆえ信仰により、人々
に告げる事ができた。主が、湖上の小舟で熟睡中、弟子たちは嵐に
ほんろうされた。「黙れ、静まれ」の一言で、荒れ狂う湖が大なぎ
になった。その時に「信仰がないのは、どうしたことです」と言わ
れた。

私たちも人生の嵐に会うと、パニックになり、恐れに飲み込まれて
しまう。主への信仰だけが恐れと不安を消し去る。状況を見るので
なく、御言葉のほうを見ることが信仰だ。今、あなたの目はどちら
を見て、受け入れているだろう。
------------
羅針盤さえない時代の航海で、必ずローマに到着すると主の約束を
信じて絶望の中で励ましを語れるパウロに学ぼう。今年も様々な波
や風が立つが、主を仰ぎながら進める航海は何と幸いだろう。


2021年01月9日(土)

「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」マタイ8:8



ある百人隊長が、主のもとに中風のしもべのいやしを求めて来た。
この隊長は異邦人であり、しもべとは、当時は奴隷であり、奴隷の
ために心を配り、神を畏れる愛情深い人物であった。自分の家に来
てもらう資格もないので、お言葉を下さいと。しもべは直りますか
らと。へりくだった態度であり、そして彼は何より神の言葉は必ず
成就すると信じきっていた。

主は、彼の信仰に「驚かれ」、感心し「このような信仰を見たこと
がない」と言われた。主が驚かれるのは「信仰」だ。立派な善行で
はない。彼も権威の下にあり、権威がよく理解できた。例えば警官
は車を誘導し、止めたり動かしたりできる。又、違反すれば切符を
切られる。運転者はそれに従う。それは、警官に権威が与えられて
いるからだ。

そして軍隊の上官の命令は絶対であり、百人隊長は、更に最たる神
の権威を認めていた。だからその神の言葉の権威も認めた。主は
「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」との言葉
を与えられた。すると丁度その時、しもべはいやされた。神の言葉
には力と権威がある。霊でありいのちだ。神の言葉はすべて必ずそ
の通りに成就する。

私たちはその権威と力のある言葉をどのように聞いているだろう。
ぼんやり聞いて、適当な受け止め方だろうか。祈りをもって真剣に
聞き、語られた言葉に信仰をもって応答する時、主が働かれ、みわ
ざを見る。今、語られていたなら、従おう。

・・・・・・・・・・・
御言葉を素直に、真摯に、信仰もって聞けたらどんなに良いだろう。
それを妨げている、内側にある頑なな岩や、不信仰に気づけますよ
うに。御言葉を聞く事から信仰が生まれるので、土地である、心が
耕されて柔らかくされ、種がしっかり根付いて行きますように。