2026年01月13日(火) 「ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、 彼女に言った。『安心してあなたの家へ上って行きなさい・・ 私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた』」 Tサムエル25:35
「ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、 彼女に言った。『安心してあなたの家へ上って行きなさい・・ 私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた』」 Tサムエル25:35
ダビデと部下は、ナバルのしもべ達を助けていた。そこで祝いの 時、ナバルに手元にある物を与えてくれるよう、申し入れた。し かしナバルは、それを侮辱で返した。ダビデは怒り、皆殺しにす るために出陣した。それを知った若者が、ナバルの妻アビガイル に、即、対処するように伝えた。 聞いたアビガイルは、急きょ、パン、ぶどう酒等、多大なる贈り 物を用意し、ダビデのもとに詫びに向いた。事態をしっかり悟っ た、彼女の敏速な行動が、ダビデの報復をとどめる事となった。 時に、的確な判断と、速やかな行動が必要だ。アビガイルは頑迷 な夫に何も伝えず、素早く御心を行なった。手遅れになる前に。 その聡明さは、率直に詫びた事にも表れる。ダビデを見るや、地 に伏して、「このはしためのそむきの罪をお赦し下さい」と謝罪 した。夫のせいにせず、妻としての責任を認めた。何というへり くだりだろう。そして無駄に血を流さないよう、感情的になり復 讐して、つまづきにならないようにと進言した。神の祝福を失っ てしまうと。 神を畏れるダビデは、そこで我に返った。アビガイルを通して、 復讐を止めて下さった主をほめたたえた。彼女の言葉に耳を傾け た、ダビデもまた聡明であった。目の前の事態に、肉の判断でな く、御霊の判断を祈ろう。そして御霊の導きがあるなら、速やか に行動に移そう。時を逃す事のないために。主の栄光を拝するこ とになる。 -------------- 迅速的確に対応するためには、感情的にならず祈り、御霊の導き に従いたい。自力で動くと主の領域まで侵してしまう。主に頼り、 的確に判断できるように祈ろう。
2026年01月12日(月) 「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、 世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8
ある人が子どもの頃、周囲から「良い子」と言われた。自分ではよ くわからなかったが、嬉しく、良い子であろうと頑張り続け、自分 でも良い子だと思っていた。そんな自分が大きくなり、真の自分が 映し出されたのが、「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣け」 だった。良い子である自分が、絶対に出来ない事だった。 表には出さないが、人の幸せがひどく妬ましい自分、自分に無いも のを持つ相手に嫉妬する。うわべは優しそうなだけで、思いやりな ど無い自分、心に潜む自己中心の醜い現実を見せられた。真に罪人 であることを知らされ、主のもとに導かれ、救いを受けた。感謝で ならない。御霊が、「罪について」、世にその誤りを認めさせると ある。 御霊によらなければ、罪はわからない。ある人が救われてから、ず っと母親に福音を伝えていた。どうしても救われて欲しい。母親は 親切で情深く、人々のお世話をし続けて来た。どう伝えても、罪が わからなかった。祈り続けた。歳月を経て、母親は高齢に。死期も 近づく中、尚も罪がわからない。 しかしある日のこと。母親を見ると、ベッドに正座して、一人で祈 っていた。「神様、私は罪人だと、ずっと認められませんでした。 私は罪人です。ひどい罪人です。罪を犯して来ました。神様赦して 下さい。イエス様を信じます。天国へ連れて行って下さい」。ただ ただ驚くばかりだった。その翌日、母親は、天に召された。 -------------- 頭でいくら罪を知っていると思っていても、理解できていない事が、 ある時、御霊の助けによってすっと真理に導かれる。主は一番良い 時に導いて、光を当ててくださる。感謝だ。
2026年01月11日(日) 「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、 まどろむこともない」詩篇121:3
「主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、 まどろむこともない」詩篇121:3
「都上りの歌」で、都上りの途上だろうか。巡礼者が、大 きな困難の前で立ち止まる中、山に向かい、目を上げて、 私の助けは、一体どこから来るのだろうと。当時の都上り の旅は、今と全く違い、大変なリスクを伴った。途上で病気 になれば、命を落とす。又、強盗や、犯罪に出くわす危険 もある。道中、何があるか知れず、無事に帰れるのかも不 明だ。 そんな中で、何が助けになるのか。助けは、どこから来る のか。その時に「助けは、天地を造られた主」から、との答 えが来る。助けは、主からだ。私たちの一生も旅のようだ。 様々な事が起き、それも突如として、想定外の事だらけだ。 信仰人生は、決して自分の思い通りにはならない。これは 確かだ。しかしその事で、成長、成熟へと導かれ、キリスト のかたちへと変えられて行く。 ある生徒が、試験で不正をしてしまった。つい、でき心だっ た、不安と恐れでいっぱいになった。どうすれば良いのか。 しかし恐くて誰にも言えず、心は暗く沈んだ。思わず、「神 様!」主にすがりついた。「神様ごめんなさい」とあるがま ま祈り、聖書を読んだ時に「山に向かい、目を上げる。助け はどこから来るのか」が、自分に驚くばかりピタリ重なった。 苦しみの山だ。すると「天地を造られた主から」と答えら れ、121篇を読み、安堵が来た。祈りの中で、担任に正直 に告げて、謝ろうと思った。翌日そのようにできた。担任の 対応は暖かく、赦してくれた。喜びが満ちた。「助けは、主か ら」。目の前の問題を、主が助けて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 困難や苦しみのある時、そのまま主を仰ごう。悩みのまま 主のもとに行き、何もかも告げよう。愛して下さっている。 御声をかけて、慰め、励まし、なすべき事を教えて下さる。 まず主のもとに行こう。
2026年01月10日(土) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神 のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神 のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11
主が、ペテロに「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」 と問われた時に、「あなたは、生ける神の御子キリストで す」と正しい立派な答えをした。しかしその時から、主が、 弟子たちに十字架と復活の事を示し始められると、ペテロ は主をいさめた。「そんな事が、あなたに起こるはずがな い」と。 主の十字架を「そんなこと」と言い、「起こるはずがない」と。 主はそれを「サタン」と、いさめられた。主は、十字架を否定 し、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにすれば、主のこと を思い、主のために言ったつもりだった。しかしそれは、人 間による、肉の価値観であり、主のみ思いと正反対のもの であった。本人は良かれと思い、正しいと思ってする事が、 結果的にサタンに導かれていて、罪を犯すことになる。 本人は主のためであり、正しいと思っているだけに、やっ かいだ。酩酊、遊興、敵意。不品行等、ストレートな罪なら わかりやすい。悪魔は巧妙、狡猾だ。「あなたは神のこと を思わないで、人のことを思っている」。悪魔にだまされ、 肉の思いに進む時は、主が飛んでいる。目に見えない主 を忘れ、目に見える人と、世の事に心が奪われている。 流されてしまう。又、人からの賞賛、人からの愛、人から の誉れで心を満たそうとする時、悪魔の誘惑であり、だま されてしまう。目に見えない主からの誉れより、目に見え る人からよく思われたい。悪魔は狡猾だ。祈っていよう。 御霊が気づかせ、軌道修正して下さる。 ・・・・・・・・・・・・・・ この世、目に見える世界の影響力は凄まじいものがある。 サタンにだまされてしまう。主と御言葉を忘れている時、 サタンにやられてしまう。主に向き、御言葉を握る時、確か に守られる。信仰に立っている。
2026年01月09日(金) 「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」 T列王17:1
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」 T列王17:1
エリヤは、主から命令を受けた。アハブのもとへ行き、ここ2,3 年は雨が降らないと告げるようにと。つまり日照りで、大飢饉にな るという事だ。アハブに告げるのは、大変勇気が要った事だろう。 アハブは極悪王であり、きげんを損ねたなら、即、打ち首もあり得 る。しかしエリヤは信仰に立って、主に従った。 「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」というの が、エリヤの信仰だった。「それから、彼に次のような主のことば があった」。エリヤが信仰に立ち、一歩踏み出すと、次の導きが臨 んだ。一歩従うなら、主は、次の展開を与えられる。「ここを去っ て・・ケリテ川のほとりに身を隠せ」との指示が来た。川の水を飲め、 烏に養わせると。 そこでエリヤはかくまわれた。しかし貪欲な烏が、食物を運ぶのだ ろうか。自分が食べてしまうのでは。その川は大丈夫なのか。だが、 エリヤは、「彼は行って、主のことばのとおりにした」と、更に次 の一歩を踏み出し、主の言葉に従った。すると、主の言葉通りに、 烏が朝夕に、肉とパンを運んで来た。主の奇跡だった。「そこであ なたを養う」との「そこで」が重要だ。 ケリテ川で、エリヤは養われた。ケリテ川でなければならなかった。 主の御心の場にいる事が、最大の安全だ。奇跡をもって養われる。 ケリテ川が枯れると、又、「主のことばがあった」。次々と主は導 かれる。一人のやもめに命じて、養うようにしていると。一歩従う と、次の示しが臨む。今、目の前に示しがあるなら、主に従い、そ の一歩を踏み出そう。 -------------- 主の恵みは尽きることがない。見ずに従う事には大きな不安が伴う が、信仰を持って従いたい。信じて一歩従うときに、次の一歩が見 えてくる。
2026年01月08日(木) 「・・この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たち に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているか らです」ローマ5:5
「・・この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たち に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているか らです」ローマ5:5
御言葉は、どんなに苦しい試練であろうと、必ず「希望」へ至ると 言っている。試練が忍耐を生み、忍耐が練られた品性を生み、その 練られた品性が希望を生み出すと。患難は主から来る。その患難が、 私たちの人格を練り上げてくれる。そしてその人格は、主の似姿へ と造り上げられる。最後は、必ず希望へと至る。 霊の目で見る時、患難は、大きな祝福だと。しかし、世の価値観で はどうだろう。患難は、不幸な事であり、不運であり、悪だ。その ため、避けたい、逃れたい、受け入れられないものだ。試練の度に、 「何で?」「どうして私に?」となる。ご利益宗教なら、あっては ならない事だ。 悪い事が無いための信心なので、病気やけが、苦境や悩み、問題が 起きるなら、何のための信心かという事になる。別の神に移るだろ うか。しかし御言葉は、全く違う事を言っている。患難を喜ぶと。 私たちの生きる目的は、何だろう。商売繁盛、無病息災、家内安全 だろうか。富を増やすこと、人々から賞賛を受けること、平穏無事 な一生を送ることだろうか。 又、自己実現だろうか。それなら絶対に患難を喜ぶ事はできない。 ましてや患難に希望を見出すことも無い。しかし私たちは、聖霊に よって注がれた神の愛によって、患難さえも喜んで行けるようにし て下さる。御霊の働きだ。患難により、御子のかたちへと造り変え て下さる。何と嬉しい事だろう。 -------------- 主の恵みを知っている者は、どんな場合でも恵みを信じることが出 来る。神の愛が御霊によって注がれているからだ。主に頼り、希望 を繋いでいける。 ★主が与えてくださった新しい年に感謝し、今年も朝毎に主から新 しい力を与えられて歩める恵みに感謝いたします。本年も宜しくお 願いします。