2026年02月19日(木)

「彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。 星を数えることができるなら、それを数えなさい』さらに仰せ られた。『あなたの子孫はこのようになる』」創世記15:5



アブラハムはどんな状況の中で、神を信じたのだろうか。75才で主
の召しに従い、カナンに移り住んだ。原住民との闘いの日々だった。
子どもができず、しもべエリエゼルを、相続人にと考えていた。そ
んな時に、神はアブラハムを外に連れ出し、満天の星を見せられた。
そして子孫が、このようになると約束された。

その時、彼は神の約束を信じた。現に子どもはおらず、まだ何も見
ておらず、常識では、到底受け入れ難い事だった。しかし、アブラ
ハムは神ご自身を信じた。状況でなく、見える所でなく、神ご自身
の方を信頼した。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じた」。

望み得ない時に、望みを抱くからこそ、信仰だ。目に見えないから、
信仰であって、目に見えたなら、信仰は必要ない。それは全く目に
見えない。人間的な実感など何もない。状況を頼り、状況を幾ら見
ても信仰など起きて来ない。状況からの、目に見える結論は「不可
能、絶対にあり得ない」だ。どこから信仰が来るのか。

望み得ない状況から、いかに望みが湧き上がるのか。それは約束の
言葉だ。神が語られた約束の言葉を、そのまま受け取り、受け入れ
る時、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と。信
じる私たちも、アブラハムと同じ祝福を受ける。彼が100才の時に約
束の言葉が成就した。神は必ず約束を実現される。状況でなく、神
の言葉を見続けていよう。
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神に与えられた多くの約束がある。御約束に生きよう。御約束を信
じ確信するとき、はじめて平安が来る。望みえない時に待ち望める信
仰を求めたい。


2026年02月18日(水)

「ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人たちさえ、ヨハネ のバプテスマを受けて、神の正しいことを認めたのです」ルカ7:29


                         
罪深く、天国から最も遠いと言われた取税人たちが、ヨハネのバプ
テスマを受けた。それは神に従い、神を認めるという事だった。最
も信仰深いと見られていたパリサイ人、律法学者たちはヨハネのメ
ッセージを受け入れず、ヨハネのバプテスマを拒んだ。神を認めな
いということだ。目の前で主の言葉を聞き、奇跡を見ても、尚且つ
主を拒んだ。

どこに問題があったのだろう。それは彼らの心にあって、心が頑な
で、自分のメガネでしか見ない。人は誰しも、自分の都合の良いよ
うに物事を見、都合の良い事だけを聞くと言われる。そんな独断と
偏見が多かれ少なかれあるが、それが非常に強く、自分のメガネに
合わないなら、決して信じない。固い土地は御言葉をはじき返す。

自分のメガネを正しいとする時、御言葉の入る余地はない。私たち
はどうだろう。偏見で物事を見ていないだろうか。又、パリサイ人
たちは、外側は立派に見え、戒めを守っていたが、そこに心は無か
った。愛とあわれみは無く、つまり本質的には、何も行なってはい
なかった。決して戒めを行ない得ない、自分を知り、悔い改める事
から始まる。

そこに神の恵みと力が働く。御言葉の下に自分を置き、へりくだっ
て主に頼る時、心は大海のような平安を得る。恵みの世界は、何と
パリサイ人の世界と異っている事だろう。喜びと安堵でいっぱいだ。
------------
主の恵みと平安に支えられているはずの信仰生活も、絶えず何かに
遮られて、恵みが見えなくなる危険がある。目に見えない信仰によ
る喜びを失わないよう、弱さを覚えていたい。


2026年02月17日(火)

「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は 忠告を聞き入れる」箴言12:15



人の助言を聞く事について、聖書で色々と言われている。そしてそ
れにより、自分は高慢かどうかを量れると。へりくだっている人の
特徴は、誰からでも、教えを受ける事ができ、他者の意見を聞くこ
とができる。プライドが高いと他人の言う事は聞けない。自分が正
しいと思うので、聞く耳がない。

又、高慢なら、常に人と比較し、競争するので、絶対に自分の弱み
は見せられない。知られたくないので、自分の弱点は隠す。だから
真からの交わりができない。当たり障りのない、表面上の会話しか
できない。しかしまず主は、弱いままの私たちを愛し、すでに受け
入れて下さっている。主の恵みが十分で、弱さの中にこそ神の力が
現れる。そのため強くなる必要がない。

弱さを認められないのは、自分のプライドがある。ある人の部下が、
会議で、難しいプロジェクトに、非常に良い案を提示した。だが理
屈をつけて、退けたのだ。しかし心重く平安無く、帰宅後、御前に
ありのままを祈った。御霊は示された。自分も素晴らしい案だと思
った。しかし部下による案なので、素直に受け入れられなかったの
だ。自分のプライドだった。はっきりと示され、心から悔い改めた。

この事に、主の栄光が現わされるように、祈った。心が平安にされ
た。翌日、その部下に、素晴らしい案で、君の案で行こうと伝えた。
するとそのプロジェクトは素晴らしく祝福され、チーム皆で喜べた。
何か心に固い、突っ張るものがあるだろうか。プライドのありかを、
御霊は照らして下さる。
--------------
どうしても自分は正しいと思いがちだ。いつもは気づかずにいるが、
主の取扱いによって、気づかされる。感謝して御霊の導きに従おう。
感情に流されず、正しい判断を選びたい。


2026年02月16日(月)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの 泉はこれからわく」箴言4:23


普通に生活していて、自らの心を見張るという、発想など無い
かも知れない。しかし、ここで「力の限り」自分の心を見張り、
見守れ」と言っている。霊の敵であるサタンは、あなたの心に、
敵の思いを吹き入れようと朝から晩まで、必死に働いている。
見張っていないなら、気づく事なく、サタンにやられて、ほん
ろうされてしまう。

又、人間中心のこの世の価値観も凄まじい勢いで、攻撃して来
る。見張っていなければ、テレビや新聞、雑誌の、神無しの価
値観に、気づかないまま影響を受けてしまう。「力の限り」見
張り、心を守れと言っている。又、「思い」が重要なのは、行
動の前に、まず、思いがあり、行動は思いから生まれて来る。

思いが、行動となり、行動が習慣となり、習慣が人格を形造り、
人格は人生を形造る。一番の基が「思い、思考」だ。ネガティ
ブな思いに支配されると、ネガティブな言動、行動が生まれ、
ネガティブな人格が形成されて行く。この大切な「思い」の部
分に、「神の言葉」が刻まれたなら、どうだろう。

御言葉に基づいた、行動が生まれて行く。自分の思いと行動が、
神の価値観、神のみ思いへと形造られる事になる。そのために
どうしても、祈りと御言葉が必要だ。神の言葉から離れないで、
絶えず御言葉を口ずさみ、「力の限り」心を見張っていよう。
今、サタンからの思い煩い、妬み、嫌な思いが来ていないか。
祈りで、主に持って行こう。
--------------
一日中様々な思いが湧いては消える。意識していなければネガ
ティブな思いに引っ張られていく。一つでも御言葉に照らして
思いを切り替えたい。ありのままを祈り平安を得たい。


2026年02月15日(日)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くこと があっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを 赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロ サイ3:13



日常生活で、どうしても人に傷つけられ、又、自分も傷
つける事が起きてしまう。完全な人など、一人もいない
からだ。皆が、弱さや未熟さを抱えている。そして、人
は、罪赦された罪人であり、この世にいる間、肉の性質
がまだある。そのため、どうしても傷つ合う事なしには、
生きられない。

生きている以上、人から傷を受けるし、自分も気づかず
に人を傷つけている。そのため、主は、赦し合うことの
大切さを言われた。赦せない思い、憎しみは、平安を奪
われ、主との関係を妨げてしまう。「それは人にはできな
いことです。しかし、神にはどんなことでもできます」。祈
りから始めて行こう。

一家で、ユダヤ人をかくまい、ナチス強制収容所で、姉
を亡くしたコーリー・テンブームは、戦後、収容所の中で
いかに主が働かれたかを、各国で証しをして回った。ド
イツでの集会後、握手を求める人々の列に、最愛の姉
を虐殺した人物を見た。一瞬、心臓が止まり、時間が
停止したかのように感じた。

「赦せない」「主よ。出来ません。助けて下さい」と心で叫
んだ。「手を差し出しなさい」との主の示しに、赦しを説き
ながら、自分は出来ない。しかし最後の瞬間、意志で、
手を延べた。その時、天から赦しが降り注ぎ、抱き合った。
心が満ちた。人を赦すことは、人間には出来ない。しかし、
主にはできる。主はみわざをして下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
赦せない思いは、自分が苦しい。赦す事は、なかなか出
来ない。難しい。まず主に祈ろう。祈り続けよう。自分に
は出来ないが、主が取り扱って下さる。主が出来るよう
に導き助けて下さる。


2026年02月14日(土)

「『さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほ ふって、何もかも整いました。どうか宴会にお出かけくださ い。』」マタイ22:4



たとえ話で、王が、王子の婚宴に人々を招待する箇所だ。
結婚披露宴であり、人生での大きな喜びと幸せの場所だ。
大ご馳走が用意され、そこに招待される。当時、王宮での
祝宴は、入口で全員に礼服が与えられた。人々は着替え
て祝宴に出た。その中、一人私服の者がいた。自ら、王の
礼服を拒んだ。

これは王に対する侮辱で、非常に失礼な行為だ。外の暗
やみに放り出された。礼服とは、主イエス・キリストの贖い
による義の衣だ。神は、キリストの代価により「義」を用意
された。私たちがする事は何もなく、受け取るのみだ。この
礼服を不要と拒み、私服のまま、御前に出る事は、自分の
義に頼む事だ。礼服を着るとは、主イエスを信じる事であり、
王の愛顧に感謝する事だ。

元々選ばれも、招かれもしなかった者が、主の祝宴に入れ
られるとは、特別な恵みと大きな憐れみによる。主が招いて
下さるから、私たちは無代価で救いにあずかれる。もし自分
の何かにより選ばれるなら、御前に出る事は不可能で、絶
望しかない。信仰により生きるとは、主の祝宴にあずかる事
だ。祝宴とは、第一に喜びだ。喜びに入れて下さった。救わ
れた私たちは、どうだろう。

恵みが、「当たり前」になっていないだろうか。すると倦怠と
なり、喜びや感謝が、日々の感動が消える。不平不満愚痴
でいっぱいになる。礼服を着ていない者になっていないだろ
うか。祝宴に入れられ、どんなに驚くべき恵みで、感謝な事
か、どんな所から救われたのか、救われていなかったら、ど
うなっていたのか、今一度恵み覚え、恵みを数えよう。

・・・・・・・・・・・・・・
肉は、自分の思いと自分の力で、歩もうとする。自分が認
められ、評価されたい。それなら御霊の実を結ぶ事がない。
主に従い、明け渡して歩む時、恵みと喜びを経験して行く。


2026年02月13日(金)

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの 罪は赦されました。」と言われた」マルコ2:5


中風の人が、四人の友人にかつがれて、主のもとに連れて来られた。
しかし大勢の群衆で、戸口から入る事ができない。どうすれば良い
のか。絶対に退けない彼らは、屋根をはがして、床をつり下ろした。
御言葉を語っておられた主は、この中風の人に、「子よ。あなたの
罪は赦されました」と、まず罪の赦しを宣言され、その後、中風を
いやされた。

主は、そこまでして求める姿に、彼らの「信仰」を見られた。信じ
なければ、屋根をはがしてまで求めない。私たちはどうだろう。病
気を治して欲しい、経済的必要を与えて欲しい。受験は合格で、畑
は豊作で・・現実の生活が、順調に行くことが願いだ。目に見えない
罪の赦しなど、余り関心が無い。

世の人々が求めるように、家内安全、商売繁盛、無病息災、求めは、
平穏無事な生活だ。しかし病気は治っても、また病気になる。そし
ていつか必ず死を迎える。人生で、最も大事な事は、罪が赦されて、
主との交わりに生きることだ。そこに真の生きる喜びがある。

律法学者が心の内で、神以外に、誰が罪を赦す事など出来ようと、
つぶやいた。罪の赦しは目に見えない。しかし中風のいやしは目に
見える。主は、中風の人をいやす事によって、その癒しを通して、
主こそが罪を赦す権威を持っていること、メシヤであることを明ら
かにされた。
----------------
罪の赦しは目に見えなくても、現実にこの世に到来している。身体
の癒しも祈るが、何より罪が赦され、主と共に歩める日々が感謝だ。
主に知恵も助けも求めながら、心健やかに養われている。


2026年02月12日(木)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで 行ない、ご自分の栄光を現わされた」ヨハネ2:11



カナの婚宴でのこと、途中でぶどう酒が切れてしまった。祝宴での、
ぶどう酒は大変重要なもので、切れてしまうなど、主催者側の大失
態だ。花婿花嫁の顔がつぶれてしまう。手伝っていたマリヤは、
「イエスに向かって」、ぶどう酒がありませんと求めた。マリヤは
慌てず、立ち騒がず、店に買いに行かせず、動かずに、まず主に求
めた。

誰に求めるかが、最も重要だ。そして「ありません」と認める事は
大切だ。私たちはどうだろう。喜びや平安が無いなら、そのまま主
に求めることだ。心に満たしが無いなら、「ありません」と求めよ
う。作り笑いはできるが、作り喜びはできない。無いものは無い。
自分が一番よく知っている。有るふりをせず、無いことを認めて、
主に求めよう。主は与えて下さる。

この時の、主の答えは、「わたしの時はまだ来ていません」だった。
一見、非常に冷たい答えのように見えるが、しかしマリヤは、主が、
必ずこの事態を引き受け、善処して下さると信じていた。信じたの
で、手伝いの人たちに「あの方が言われることを、何でもしてあげ
てください」と頼んだ。主の時に、動かれる。

主は「水がめに水を満たしなさい」と、手伝いの者に命じ、その水
をぶどう酒に変えられた。それも良いぶどう酒に。主はマリヤの求
めに応じて、奇跡をして下さった。私たちも、突如の事態が起きる。
主が飛んで、パニックになりがちだが、まず、主に向かって祈ろう。
そして主の示しに従おう。主の栄光を現わして下さる。
------------
少しのことでも動揺し、不安になってしまうが、主はそれを栄光を
あらわす所としてくださる。自分の想定を超えた答えが与えられる
事を信じて、主の御言葉に従おう。


2026年02月11日(水)

「サウルは・・言った。『霊媒をする女を捜して来い。私がその女 のところに行って、その女に尋ねてみよう』」Tサムエル28:7



ペリシテがイスラエルと戦おうと陣を敷いた。サウルはそれを見て
恐れおののき、恐怖の余り主を求めたが、主からの答えは無かった。
なぜ答えが無かったのか。サウルは、主の言葉に従わずアマレクを
聖絶しなかった。又、ダビデを殺害しようとし、ダビデについた沢
山の祭司達を殺していた。罪を犯しながら、悔い改めなかった。

やり直せたにかかわらず、悔い改めずに罪を重ねて行った。サウル
は主を拒み、主は、もうサウルに答えられなかった。ペリシテの大
軍に恐れをなした時、サウルは悔い改めの無いまま、主に助けを要
求するほど高慢になっていた。その結果、霊媒に頼る事となり、罪
に、更に罪を重ねて行った。

主がサウルを去り、サウルの敵となられたこと、王位がダビデに移
ること、サウルも息子たちも、イスラエルの陣営も、ペリシテの手
に渡されること、それを聞くとサウルは「倒れて、地上に棒のよう
になった」。戦いの結果、息子たちは殺され、サウルも死に、多く
の民も死んだ。ダビデは対照的だ。彼も大罪を犯したが、悔い改め
た。主の赦しを受け取り、信仰の生涯を全うした。

私たちも古い性質があり、弱さがあり、どうしても罪を犯してしま
う。しかし主の十字架の血潮がある。罪を認め、悔い改めて歩む時、
完全に赦してきよめて下さる。「赦されている」、ここに立つ時、
何度でもやり直す事ができる。どんな時も、前に進んで行ける。
--------------
罪を犯したときには御霊の平安がなく、悔い改めに導かれる。これ
は感謝だ。素直に主に悔い改めたい。すぐに高慢になりへりくだれ
ない者だが、罪を認めて、認めて、主から離れずに歩みたい。



2026年02月10日(火)

「イエスは、『来なさい。』と言われた」マタイ14:29



嵐吹きすさぶ中、湖上を歩いて来られた主に、ペテロが「私に水の
上を歩いてここまで来いと、お命じになって下さい」と願った。主
の言葉があれば、水の上を歩けると信じた。ペテロの信仰だ。する
と主は「来なさい」と。主の言葉を頂いたペテロは、舟から出て水
の上を歩き出した。通常はあり得ない事で、不可能だ。

しかしペテロは歩いた。なぜ歩けたのか。それは、「来なさい」と
の主の言葉だった。その主の言葉に従うと、歩く事ができた。もし
主の言葉が無ければ、ペテロは、沈んだろう。主の言葉と、ペテロ
の信仰による従順が一つになった時に、奇跡が起きた。私たちも、
信仰人生は、この世で水の上を歩くようなものだ。そんな私たちの、
確固たる基盤は、主の言葉だ。

私たちは御言葉によって生きている。主からの言葉に従って行く時、
どんな困難な中も、前進して行ける。逆に前進しないなら、主のみ
わざにあずかれず、主を知るという、祝福も経験できない。ペテロ
は、主から目を離した途端、恐くなり沈みかけた。しかし水上を確
かに歩いた。主以外の誰もした事の無いことだ。そして即座の主の
助けも経験した。

恐怖の中、「主よ!」の叫びに「すぐに」手をつかまれた。これら
は、舟の中にいた弟子たちには、経験できない事だった。私たちも、
信仰人生で、奇跡のわざをして下さる時、信仰を働かせなければ、
踏み出せない「水上歩行」を与えられる。あなたも、今、そんな時
だろうか。
--------------
奇跡のような輝やかしい日々でなくても、主の御言葉に立てば、い
つも喜び、祈り全てのことに感謝できる。信仰はいつも従順へと導
かれる。主に従いたい。



2026年02月09日(月)

「そして、弟を連れてあの方のところへ出かけて行きなさい」 創世記43:13




ヨセフは、父親の偏愛で、兄たちから妬みを買い、隊商に奴隷とし
て売られ、エジプトへ。波瀾万丈、紆余曲折の末、ヨセフはエジプ
トで奴隷から総理大臣となった。当時、大飢饉の中、宰相ヨセフは、
大豊作時に穀物を貯えていた。それでヨセフのもとへ食糧を求め、
人々が来る中、何と兄たちがいた。ヨセフはシメオンを人質にし、
弟ベニヤミンの同行を要求し、食糧を持たせ帰らせた。

その食糧が尽きた時、再度食糧入手のために、ヨセフのもとへ行か
ねばならない。父親ヤコブはベニヤミンを手放せない。だがシメオ
ンが捕らわれ、食糧のためにベニヤミンを同伴するしかない。ユダ
が、二人を必ず連れ戻ると強く説得する。ヤコブは決意する。「私
も失う時には、失う」のだと。これはヤコブが、砕かれ、主にいっ
さいを明け渡した信仰の言葉だ。

ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言
った。主は取られ、又、与えて下さる。すべては、主の御手の中で
あるとの信頼だ。ヨセフを失い、ラケルと死別したヤコブには、ベ
ニヤミンが命だった。だが握りしめていたベニヤミンを主に渡した
時に、ヨセフをも取り戻した。更に再度家族が一つにされ、飢饉の
中、命も救われた。

ある人は、不安と恐れにさいなまれ、どうにもならない中、偶像で
ある宝を握りしめているからだと示された。切なる祈りの中で「失
う時には、失うのだ」の言葉で覚悟ができた。すると吹っ切れて、
心が楽になり、あれほどの不安が消えた。今、手の中のものをゆだ
ねるように、言われているだろうか。
--------------
様々な取扱いによって握りしめていたものを示される。失うことも
主の御心の中だと明け渡していきたい。祈りつついると主が心を整
えてくださるのを経験する。主の平安を受け取りたい。


2026年02月08日(日)

「神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれ なかった・・『民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き 返すといけない』」出エジプト13:17



民が、約束の地に向かうが、近道があった。しかし、その
近道には行かせず、「荒野」へと導かれた。それは、民が
戦いを見、恐れてエジプトに引き返さないように、との配慮
であった。長年の奴隷生活で、戦闘訓練など皆無の民が、
ペリシテとの戦いなど不可能で、恐怖で引き返してしまう
だろう。

私たちの価値観に、楽な道、平坦な道、順境を好み、近道、
迅速が善との思いが無いだろうか。とにかく平穏無事であっ
て欲しい。苦しみ、困難は避けたい。しかし主は近道でなく、
あえて荒野の道を通される。主が、苦しい道を行かせられる。
主に不可能はなく、今すぐに、一気に祈りの答えを下されば
良いのに。延々時間がかかり、遠回りをさせられる。

自分の思いと全く違う道へ行かせられる。しかしそこを通っ
てこそ、忍耐や信仰が培われ、練られ、主のご愛や真実を
真に経験する。明け渡しへと導かれる。苦しみの中でこそ、
主を深く知れる。成長させられる。そしてその通り道には、
雲の柱火の柱が伴い、必ず行くべき道が示される。

荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火
の柱が照らした。道中決して「民の前から離れなかった」。
今、荒野なら、主のご計画だ。祝福へと導かれる。主を信じ、
従って歩もう。片時も離れず共におられる。

・・・・・・・・・・・・・・
信仰人生長くなるほど、信仰生活は自分の思い通りではなく、
思い通りにはならない事を知る。そして自分の思いでなく、神
の御心が最善である事も知らされて行く。苦しい道だとしても
「後の日に」、感謝に変えられる。


2026年02月07日(土)

「・・神のみこころにかなう願いをするなら・・聞いてくださる・・ 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願った その事は、すでにかなえられたと知るのです」Tヨハネ5:15



ある人が、屋外の仕事があり、晴れるようにと祈った。する
と大雨だった。又、別の時に、病気で伏せっていたが、友人
が「信仰があれば、絶対に病気は治る。疑わないで信じて、
神に祈ろう」と言った。しかし祈ったが、病気は治らなかった。
その人には「信仰」がなかったのか。

絶対に疑わないで信じる、という事に欠けていたのか。「信
仰」を、疑わないで「思い込むこと」と勘違いしてはいけない。
とにかくちょっとでも疑う事なく、疑いを打消して〃、必死に
思い込むことが、信仰なのではない。それなら、いわしの頭
も信心からと同じだ。思い込みは、信仰ではない。又、自分
で都合の良い御言葉を取って来て、約束が成就すると「思
い込むこと」は信仰ではない。

それは決して成就しないので、自分でもわかるが。信仰とは、
主のお心、ご意志がすべてであり、自分の思いを捨てて、主
の御心を求めて行くことだ。自分が良かれ、これが最善と思
うことが、多々ある。しかし自分の思いと、主のみ思いは、か
なり違っている事を経験する。「わたしの思いは、あなたがた
の思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるか
らだ」とあり、かなり異なるということだ。

私たちの遙か先をも見通しての御心のため、私たちの理解を
越えている。自分の思いとは、大幅に違う。「初めに神」「神か
ら発し」の通り、「初めに自分」「自分から発し」では無い。御心
は、「神によって成り、神に至る」そして主の栄光が現れる。祈
りは、自分の思いに気づかせ、主の御心へと軌道修正してく
れる。主の御心に適うので、その祈りは聞かれる事になる。

・・・・・・・・・・・・・・
願いは祈れと言われ、その願いを祈って行くと、自分の思いか
ら出たものは気づかせ、軌道修正して下さる。祈りにより、御
心へと導いて下さる。御心に適った祈りへと導かれるなら、その
祈りは叶えられ、すでに得ている事になる。


2026年02月06日(金)

「『ナオミに男の子生まれた。」と言って、その子に名をつけた。 彼女たちは、その名をオペデと呼んだ。オペデはダビデの 父エッサイの父である』」ルツ4:17


ベツレヘムの飢饉で、ナオミ夫妻はモアブに移住。そこで夫と息子
を亡くした。故郷が豊作になり、帰郷を決意する。その時に主を信
じる嫁のルツが、自分に同行してくれた。その時から、ナオミはル
ツの将来の事をよく考え、祈った事だろう。ルツは生計のために落
穂拾いに出る。

すると所有者のボアズが、親切にしてくれた。それを聞いたナオミ
は、ボアズは親戚で、誠実で信頼でき、ルツを託す事のできる人物
と判断した。ナオミはルツに指示を与え、ルツはその通りに行動し、
ボアズに買い戻しを願った。するとボアズは、更に近い親戚が、買
い戻しの権利を放棄するなら、自分が買い戻すと。

ナオミはボアズが、主の御心の相手であり、この事が成就すると信
じた。それで「この事がどうおさまるか、わかるまで待つように」
と。後は主がされるから、ただ待てと。私たちも、学ばされる。ま
ずよく祈り、示された事を行なう。示されたなら、尚も祈り続ける
のでなく、行動する事が大切だ。そしてその後は主を待てと。

人は、待つ事が難しい。動く方が楽なので、どうしても動こうとす
る。目に見えない主をじっと待つ事は困難だが、今、あなたも、主
にゆだねて待つ時だろうか。ナオミと、故郷を出て主を選び従った
ルツは、素晴らしい栄誉にあずかった。異邦人ルツが救い主の家系
に入れられ、生まれた息子オペデは、ダビデの祖父となった。
--------------
ある程度の見込みがないと不安で、なかなか安心して結果は待てな
い。でも目には見えないが、背後に主がおられる。信仰をもって待
ち望もう。主の御心は必ずなり、喜びの結果を受け取れる。


2026年02月05日(木)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった 間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



主の死後、二人の弟子が、なすすべなく故郷に引き揚げる途上だ。
イエスご自身が、かたわらを歩かれたが、彼らには、それが主だと
わからない。なぜ、わからないのだろう。目がさえぎられていた。
主は、現に、かたわらにおられるのだが、こちらの目のせいで見え
ない。

目をさえぎるものが数々ある。失望落胆、悲しみ、絶望、この世の
価値観、思い煩い、不安、多忙、ネガティブ思考、悩み・・これらは
主を見えなくし、主を見失ってしまう。あなたも今、この状態にあ
るだろうか。そんな意気消沈し、絶望した弟子たちに、主は、どう
されたのか。

主は、御言葉を語られる。彼らは、なぜ主だとわかったのだろう。
主に目が開かれたのだが、どのように開かれたのか。後で気づくの
だが、道々話して下さっていた間、御言葉を聞いていた時に、心が
暖かくなって行き、赤々と心が燃えた。主と出会う時、心が燃やさ
れて行く。内側から力づけられる。

心に何かを感じた弟子たちは、もっと聞きたい、もっと知りたいと
の「求め」が湧き上がった。分かれ道に来た時、主に一緒に泊まる
よう、無理やり頼み込んだ。主はそのまま行かれる予定を、「求め」
に応じてとどまられた。一緒に泊まった時に、主を親しく知った。

さえぎられていた目が、主により開かれ、同行者が主だとわかった。
御言葉によって主がわかった。御言葉が重要だ。今も主はかたわら
におられる。御言葉によって知れると。御声に耳を傾けよう。御言
葉により、目が開かれて行く。
--------------
意気消沈しとぼとぼと歩く傍らに主がおられるところに希望がある。
御言葉を開き、祈りつつ御声を聞こう。必ず導かれる。苦しみや思
い煩いで曇りがちな気持ちのままで、御言葉を開こう。


2026年02月04日(水)

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした ・・『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪 のとがめを赦されました」詩篇32:5



ダビデ王は、部下たちが命がけで戦っている中、夕方に起き出すと
いう怠惰な生活だった。そこに悪魔の誘惑が来て、バテシバと姦淫
を犯してしまった。その時に、主に助けを求め、叫べば良かったが。
すると妊娠し、それを隠すために、策略により夫ウリヤを殺害した。

自分は王あり、すべて意のままであり、誰も物言える者はいない。
罪を隠し通した。しかし人の目には隠せても、主の目には裸であり、
主は見ておられた。隠していた間、激しい苦悶にうめいた。主の御
手だ。「1日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄はひでりでかわきき
った」。心はカラカラにかわいて苦しんだ。

しかし主はあわれみ、預言者ナタンを遣わされた。例え話をした。
富者が貧者の大切な唯一の子羊を奪った話に、ダビデは「そんな男
は死刑だ!」と激しい怒りで叫んだ。人の事はわかるのに、まさに
自分だと気づかない。自分に密かな罪があり、その罪が赦されてい
ない時、他者に対して非常に厳しくなる。糾弾する。

自分が主の赦しを受け取っていないと、他者を責めてさばく。なぜ
か。無意識に、自分の罪が、自分を責め、それが他者に向かう。
ダビデは即、悔い改めた。見える所で水浴するバテシバも悪い、ウ
リヤに対しても努力はした、言い訳が出そうだが、いっさいしなか
った。

ダビデに、自由と喜びと平安が戻った。主は豊かに赦して下さる。
主の赦しを受け取る時、他者を赦す事ができる。主の血による赦し
を受け取ろう。安堵と平安にされる。
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罪にはいつも言い訳があるが、主の御前にごまかす道はない。また
罪を犯さずに生きることも出来ない。ただ恵みにより主に赦されて、
赦しを受け取る道がある。何というあわれみだろう。


2026年02月03日(火)

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでに なりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝み にまいりました」マタイ2:2



主が、ベツレヘムで誕生された時、東方の博士たちが、星に導かれ
て、エルサレムにやって来た。そして「ユダヤ人の王はどこに」と
聞いた時に、ヘロデ王は恐れ惑った。新しい王が誕生するなら、ヘ
ロデ王は、自らの地位が危うくなる、恐れ惑うのはわかる。しかし
「エルサレム中の人も王と同様であった」。なぜ人々も、恐れ惑う
のか。

彼らは、一応の生活が安定し、成り立っている。今の安定を乱され
たくない。別にヘロデなど、どうという事なく、王として認めてい
ない。逆らうと身に危険が及ぶから、表面上従っている。脅威でも
何でも無かった。しかし新しい王の誕生は、実に脅威だった。非常
な恐れと不安を抱いた。神からの王なら、真の王であり、真実に従
わなくてはならない。大変な動揺と不安を覚えた。

私たちは、アダムからの古い罪の性質が宿っている。それは自分が
王であり、主人だ。自分の思い通りに生きる。誰にも干渉されたく
ない。自分の上に「主」を置くのは嫌だ。ヘロデになら、形だけで
あり、自分が王だ。しかし真の王は違う。そして今の生活を乱され
たくない。私たちはどうだろう。

命を捨てられた主を前に、自分は決して変わりたくない、王であり
続けるだろうか。主に、心の王座に来て頂くだろうか。心の奥の本
心はどうだろう。あるがままを主に告げて、主に祈ってみよう。主
は受け止め、愛し、導いて下さる。
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明け渡すことに強く抵抗するのは、自分自身が王であろうとするか
らだ。認めていきたい。ただ支配するだけの方ではなく、身をもっ
て私たち救い、いのちを与える事のできる王に明け渡していきたい。


2026年02月02日(月)

「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何も することはできません」ヨハネ14:30



悪魔は、私たちを罪に誘い、攻撃する事ができる。しかし主に許さ
れた限界内でしか出来ない。ヨブ記にあるように「持ち物はいいが、
身はいけない」と。次に悪魔が襲って来た時には「身はいいが、命
には触れるな」と。主は、悪魔の、私たちへの攻撃に限度を定めて
おられる。それ以上は不可能だ。ユダは主イエスを裏切り、銀貨30
枚で売ってしまった。

主は、無実の罪で捕らえられた。悪魔が、ユダの心に思いを入れた
とある。「悪魔は・・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れ
ていた」。悪魔のしわざだった。イエスは十字架にかかられ、死な
れた。主は悪魔を阻止出来たが、悪魔が働く事を許容され、その悪
魔すら、決定的な御旨成就のために用いられた。

主は全知全能で、全主権を握っておられる。悪魔は、主を十字架の
無残な死に追いやったが、結果的に、人類の贖いという金字塔を打
ち建ててしまった。もう引き戻せない。誰も悪魔も、どうする事も
出来ない。ペテロも、悪魔にやられた。主が捕らえられた時、保身
に走り、主を否定し裏切ってしまった。

しかし、主は、予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられ
た。「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられ
た」サタンのふるいだと。ユダは悔い改める事なく、そこで主に頼
る事なく、自害した。しかしペテロは悔い改めた。粉々に砕かれ、
自らの弱さを徹底的に思い知らされた。悪魔は働くが、尚も主が、
その上におられ、その事を、勝利へと導かれる。
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日々、様々に平安を奪ってくるものの背後には、この世の支配者、
悪魔の働きがあるが、全ては神を通してくることを覚えるとき、
心は守られる。主に頼っていよう。


2026年02月01日(日)

「・・その木は、いかにも好ましかった。それで女はその実 を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べ た」創世記3:6


エデンの園で、悪魔に誘惑され罪を犯したエバは、アダム
も罪に引き込んだ。罪を犯したアダムに、主は悔い改めの
機会を与えようとされ、「あなたは・・食べたのか」と問われ
た。「食べた」か「食べていない」の「はい」か「いいえ」の答
えになる。しかし、エバに責任転嫁し、言い訳をした。「この
女がくれたので、私は食べた」と。

つまり「私は悪くない。この女がくれなかったら、食べなかっ
た。だから、くれた女が悪い」その上「あなたが置いたあの
女」と主のせいにした。あなたが女を置いた、だからあなた
が悪い。自分は被害者となる。しかし、主が食べてはいけ
ないと命じられた。それを食べたのだから、どう弁解しようと、
自分の罪だ。「食べました。ごめんなさい」と悔い改める事
ができた。

しかし、認めない。私たちもどうだろう。罪を犯した時に、言
い訳をし出すなら、数限りなく出て来る。驚くばかりだ。人の
せいにするという、根深い肉の性質がある事をわきまえて
いよう。「女のせい」「主のせい」「相手のせい」「あの人、こ
の人のせい」「状況のせい」と。「私は悪くない」「私は疲れ
ていたのだ」のだと。しかし、それは紛れもなく「私の罪」だと
認めよう。

誰かがくれたとしても、食べたのは私だ。主の言葉に従い、
食べない選択もできた。拒否する事ができた。「私の罪」と
認める時に「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよ
めます」赦しを受け取れる。「しかし、あなたが赦してくださる
からこそあなたは人に恐れられます」。主の血潮による
豊かな赦しを受け取れる。

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不都合が起きると、人のせい、状況のせいにしたくなる。自
分の罪だと認める事が難しい。しかし主を仰ぎ、とにかくあり
のままを祈ろう。弱さもご存じで、主のあわれみは尽きず、
御心へと導いて下さる。まず祈ろう。