2026年10月04日(金) 「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたな くななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしな さい。』と言われた」マルコ3:5
「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたな くななのを嘆きながら、その人に、『手を伸ばしな さい。』と言われた」マルコ3:5
主の周囲には、パリサイ人がいて、主の振る舞 いをじっと見ていた。安息日に弟子達が、麦畑 を通りがけに、穂を摘んだ。するとその事で、パ リサイ人は主を非難した。その後、主が会堂に入 られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサ イ人の視線は、片手のなえた人にじっと注がれた。 しかし、それは主を陥れようとするためであり、 安息日にその人をいやすなら、主を訴えるためだ った。手のなえた人をも利用しようとする、何と 冷ややかな心だろう。自分達を正当化するため の手段であり、一片の憐れみも、同情もない。 そして、その手のなえた人がいやされた、素晴ら しいみわざを見ても、何の感動もなく、主を葬り 去る相談を始めるのだった。 私たちも気をつけなければ、形は違うが、「自分 は正しい」視点のみに立つ時、パリサイ人にな ってしまう。主は、彼らのそんな態度の原因を 「その心の頑ななのを嘆き」と、心の頑なさによ ると言われた。彼らの心は固くなり感覚を失って いた。愛や憐れみに無感覚だった。主を抹殺す 計画にまで及んで行く。 頑なになるのは、心に生える「苦い根」を引き抜かず、 はびこらせ、熟するまで育て上げてしまう。引き抜くと は悔い改める事だ。あなたの心にも「苦い根」が巣くっ ていないだろうか。憎しみ、妬みの根はどんどん育ち、 殺意になって行く。実際、彼らは妬みで主を十字架に つけた。一方、主は、愛と憐れみの心で一杯であった。 同じ「じっと見る」目が何と対極にある事だろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 主は、その人に「手を伸べよ」と言われた。私た ちも、弱さ、不安、恐れ、痛みで、出せない、引 っ込めたままの手があるだろうか。主は回復と いやしを与えて下さる。
2026年10月03日(土) 「あの人は盛んになり私は衰えなければなりま せん」ヨハネ3:30
「あの人は盛んになり私は衰えなければなりま せん」ヨハネ3:30
主イエスの登場により、バプテスマのヨハネへの、 人々の人気や賞賛が、どんどん主の方へと移っ て行った。そんな中、ヨハネの弟子たちは「みな あの方のほうへ行きます」と、自分の師をひいき に思うがゆえに、いらだち、妬み、寂しさを感じて いた。しかしヨハネは、いっさい動じる事なく、立 派だった。自分はキリストではないと言明した。 主が花婿で、自分は花婿の友人であり、花婿の 声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、 自分と主との間で、喜びをもって主に仕えてい た。そこに人がどうのこうのは無かった。真っ直 ぐに主を仰ぎ、主に仕える者は、喜びに満たさ れる。そして、ヨハネは謙遜だった。人と比較す るなら、必ず優越感と劣等感に陥る。同期の同 僚の昇進はどうだろう。 又、ライバルの成功は?学生間の成績や人気 はどうだろう、心がざわついてしまう。プライドが 傷つくのだ。人の成功は、自分の失敗のように 感じ、認められない。人がほめられると、自分 がけなされたように感じる。シーソーで、相手が 高められると、自分が低くなる。それらは心に ある高慢から来る。 ヨハネはへりくだっていた。人の誉れも成功も、 天からのものであり、そこに神を認め、主権を 認めた。そして神が下さるものに感謝し、満足 していた。そこに不満はない。すべての事柄に、 人ではなく、主の主権と支配を認める時、心に 揺るぎない平安が与えられる。へりくだった人 に与えられる恵みだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 心のざらつき、落ち込み、重苦しさ、様々な負 の思いと感情が、比較によるプライドや高慢から 来る。御霊によるへりくだりはどんなに自由と 平安で、解放だろう。まず祈ろう。導かれる。
2026年10月02日(金) 「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、 それはあなたです」詩篇39:7
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、 それはあなたです」詩篇39:7
ここの詩篇記者は、病気であり、苦しみの中で「なぜで すか、なぜこんな目に会うのか」との不満がうっ積して いた。しかし、「私は舌で罪を犯さないために」「私の 口に口輪をはめておこう」と。ひたすら沈黙を守った。 しかし黙していると、ストレスがどんどん内攻し、悶々 状態になり、煮詰まり、爆発しそうだった。 それを彼は、人にでなく、主にぶつけた。心の中の本音 を吐き出し、気持ちをことごとく告げた。人生は、はか なく虚しいと。私の一生は無いも同然であり、人はみな、 盛んな時にも全く虚しいと、心の内を吐き出した時に、 信仰が戻って来た。この虚しい人生で、望みをかけられ るのは、何かと。そして見上げた時に、主を見い出した。 「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、そ れはあなたです」と。そして本音を、主に余すところな く告げた後、「私は黙し、口を開きません」と言ってい る。同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、スト レスに陥ったのとは異なる。「あなたがそうなさった」 と、主がこの身の上に起こされたと、ご計画がある事を 認め、それを受け入れ、服した。 目の前の事態や状況、境遇を、主から出たものと、御手 によることと、受け入れることが、「私は黙し、口を開 きません」ということになる。神のご計画を信じるから だ。必ず自分のために益とされる。周囲は皆、幸せそう、 自分だけどうして?と、自己憐憫に陥るのでなく、「あ なたがそうなさった」と信仰に立ち、受け止めて行こう。 その時に、主の愛を知ることになる。 ------------- 私たちは日々に失望しやすいが「あなたがそうなさった」 と信仰で受け止めていく時、同じ状況の中にも備えられ ている恵みに気づけるのではないか。主を認めていよう。
2026年10月01日(木) 「アラム王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、 尊敬されていた・・この人は勇士であったが、ツァラア トに冒されていた」�U列王5:1
「アラム王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、 尊敬されていた・・この人は勇士であったが、ツァラア トに冒されていた」�U列王5:1
将軍ナアマンは、次々と戦いに勝利する勇者であり、王 から地位と名誉を受け、特別待遇を受けて来た。しかし、 どうにもならない悩みがあった。らい病に冒されていた。 神はナアマンをあわれまれ、一人の捕虜の少女を備えら れた。その少女により預言者エリシャの存在を伝えられ る。 そしてナアマンはエリシャのもとを訪れることになる。 しかしエリシャは、使いの者に救いの方法を伝言しただ けだった。ナアマンは、挨拶にも出て来ないエリシャに プライドがひどく傷ついた。自分が軽く扱われたことが 怒りの原因だった。 神の目から見れば、らい病よりも、自分の惨めな状態を 認められない、このプライドの方が問題であった。主は このプライドを砕こうとされた。私たちもどうだろう。 プライドゆえに、素直に、主に聞き従えない問題がある だろうか。すでに導きを与えられているのに、へりくだ る事ができない。 ナアマンは、しもべの進言に耳を傾け、主より示された 一歩に、へりくだって従った時に、全きいやしが与えら れた。この事を通して、ナアマンは「イスラエルのほか、 世界のどこにも神はおられないことを」知った。測り知 れない恵みにあずかった。 あなたも今、プライドが問題だろうか。妨げとなってい るだろうか。へりくだって、一歩を踏み出すよう導かれ ているだろうか。プライドを脱ぎ捨て、主に従えるよう 祈ろう。大きな祝福が備えられている。 ------------- 辛いですと人に言えない弱さを抱えていても、主には言 える。主の前にはいつも真っすぐに向かっていたい。へ りくだり、主の祝福を受け取ろう。