2025年12月28日(日)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについ て、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある人が、高度成長期で、まさに企業戦士であり、懸命に
がむしゃらに働いた。ハードな仕事に、とうとう過労で心身
に異常をきたした。不眠となり、薬に頼るようになり、不安
や孤独感に襲われ、しばし休暇を取った。そんな時、友人
に誘われて教会へ行った。そこでの初めて聞く賛美歌が、
なぜか心にしみ入った。語られる聖書の言葉が、心に響い
た。

だが、わらにもすがりたい、一心であっただけで、何もわか
ってはいなかった。罪人と言われても全くわからなかった。
ある時、「こんな状態の自分は、だめ人間」と口から出た。
その時「それは恵みで、感謝な事ですよ」と言われ、だめだ
からこそ、神の力を知れると。すると、何とムッとし、怒りが
わいたのだ。

だめ人間という事に、他人から、その通りだと言われた事に、
憤然とする自分。口では言うが、心では全く思ってなどいな
い。その時に、自分のプライドがあぶり出された。自分の力で
必死に頑張って来て、プライドが人一倍高く、そのプライドの
せいで、神を認められない。神など必要としない。

恐るべき高慢であり、それこそが罪であると示された。人よ
り優位に立ちたい、勝ちたい、評価され、認められたい、今ま
での人生、そのためにだけ生きて来たのだと、愕然とした。
いつも人との競争だった。それらを御前に認め、告白した時
に、生まれて初めて、心底の安堵を経験した。主が触れて下
さったと感じた瞬間だった。

・・・・・・・・・・・・・・・
罪は自分ではわからない。自分の肉と合致しているからだ。
何とも思っていない。御霊の光に照らされる時に、初めて知る。
大変痛いが罪を知る事は感謝で、主の十字架の意味を真に
知らされて行く。赦しの愛を経験して行く。


2025年12月27日(土)

「主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使 いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているの を見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ」民数記22:31


預言者バラムが、モアブ王バラクから、イスラエルの民を
呪うように頼まれた。バラク王は、バラムに使者を送る。バ
ラムは、主に御心を求めると、「呪うな、行くな」と示されて、
その頼みを断った。ところがバラクは再度、今度は大勢の、
位の高いつかさ達を遣わし、多くの金銀を提供すると言った。

バラムは、金銀の満ちたバラクの家をもらっても、主の言
葉にそむく事はできないと答えた。しかし、バラムは心では、
金銀の満ちたバラクの家を欲っした。そのため、すでに主
から、「ノー」と示されたにもかかわらず、「主が何かほかの
ことをお告げになるか、確かめ」てみると言う。バラムは口
では、「ノー」だが、心は「イエス」だった。そして自分の心は
決まっていた。

主の「彼らと共に行け。しかし、わたしが告げることだけを
行なえ」との指示に従って、出かけた。すると途上で、突然、
剣を持った主の使いが現われ、バラムの行く手に立ちふさ
がった。ろばは、よけたのだが、バラムは、ろばを打った。
抗議するろばと、言い争っていると、主がバラムの目を開
かれた。すると剣を持つ主の使いが見えた。主が「敵対し
て出て来たのはわたしだ」と、反対方向へ向かっているか
らだと。

バラムは、主の言葉に忠実ではなかった。私たちも、主の
御心にそれている時、主がたちふさがり、道をふさがれる。
正しい道に戻すためだ。今、もし道がふさがれていたら、立
ちはだかれているのは、主だ。反対方向に向いているから
だと。それは主の愛であり、主の計らいだ。方向を軌道修
正しよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
これまでを振り返っても、自分が、進もうとした道が閉ざされ
た事を何度も経験する。後の日に、それは御心の道でなく
反対方向であった事がわかる。閉ざされるのは、真の御心
へと導かれる主の愛だ。


2025年12月26日(金)

「『・・どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。』 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうち に返り、その子は生き返った」T列王17:22



大飢饉の中、エリヤが示され、ケリテ川から移った先は、ツァレフ
ァテの未亡人だった。養いてが、烏から、未亡人に変わったが、何
と、彼女は微量の粉と油だけがあり、子どもと最後の食事をして、
死ぬのだと言う。そこに突然エリヤが現われ、非常識な無理な要求
をした。まず私のために、パンを作るようにと。そうするなら、飢
饉の間中、かめの粉は尽きず、そのつぼの油は無くならないと。

エリヤの言葉に従った。すると何と奇跡が起きて、飢饉の間、粉と
油は尽きず、息子に食べさせ、自分も養われた。飢饉のまっただ中
で、命が永らえた。ところが、その後息子が重病で死んでしまった。
エリヤは、その子が生き返るように、主に切に祈った。主は、エリ
ヤの願いを聞かれ、その息子は生き返った。

生き返った息子を、彼女に返した時に、彼女は、エリヤが神の人で
あり、主の言葉が真実であることを、「今、知った」と言った。そ
れ以前は、あの壺と油の奇跡を見ても、まだよくはわかっていなか
ったが、息子の死を通して、身をもって確信したのだ。信仰が動か
ぬ確かなものとされた。

大きな試練であったが、主と主の言葉が真実である事を、真に知る
素晴らしい機会とされた。あなたも経験あるだろうか。今後も試練
の中で「今、知った」と、更に信仰を確かなものにして下さる。厳
しく辛い試練を通して、霊の目が開かれて、新たに主を知る。
-----------
試練が来ると最初は動揺するが、必ず、主に信頼するなら失望はな
いと感謝で終わる。辛く苦しい試練も新しく主を知る時としたい。
信仰から信仰へと進んで行きたい。


2025年12月25日(木)

「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなた は神から恵みを受けたのです』」ルカ1:30


突然、御使いが現れて、マリヤに「おめでとう」と言った。「おめ
でとう」は「喜べ」だ。「喜べ。恵まれた方。主が共におられる」
と。しかし突然の事に、マリヤは非常に戸惑った。更に御使いは続
けて「神から恵みを受けた。みごもって、男の子を産む。名をイエ
スとつけよ」と、驚くべき救い主誕生を告げた。

マリアは、「まだ男の人も知らないのに、どうして」と問うて行く。
マリヤの質問に、御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方
の力があなたをおおう。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の
子と呼ばれる」と。それは聖霊によるのであり、神にとり不可能は
一つも無いのだと。その時、マリヤは「私は主のはしためです。

お言葉とおり、この身になりますように」と、信仰に立ち、その身
を主に全く明け渡した。自分自身も、生涯も明け渡した。これは簡
単な事では無く、大変な事であった。マリヤは、これからどうなる
だろう。ヨセフは、聖霊により、みごもったなどと、どうして信じ
られるだろう。結婚前に身ごもったなら姦淫罪だ。姦淫罪は石打ち
の刑だ。それこそ死刑になる。夢見ていたヨセフとの幸せは、崩れ
去ってしまう。

しかし、マリヤは御言葉を受け入れ、従う選択をし、決心をした。
「いと高き方があなたをおおう」、御霊がマリヤの恐れ、不安をお
おい、人々からの中傷や批判、裁きや誤解からおおうと。私たちも、
主に献げた一生は、真に恵まれた一生とされる。主が共におられる、
御霊の喜びの一生とされる。
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私たちも主に呼びかけられ、主に従う選択をすることができた。様
々な問題の中も、主の力がおおい、主が導いてくださる。何と祝福
された一生だろう。マリヤの純粋な信仰に習いたい。


2025年12月24日(水)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、 信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15


今の時代は、とにかく忙しい。又、巷には情報が溢れ返っている。
容易に振り回されてしまう。「あなたに助言する者が多すぎて、あ
なたは疲れている」とあるが、情報過多で、混乱してしまう。又、
職場では、スピードを要求される。次から次へと仕事をこなさねば
ならず、余りにも多忙過ぎるだろうか。

そのため、主の御前でも、心が座れずに、立ってしまっている状態
だろうか。次々と目の前に起きる様々な事態に反応し、心が騒ぎ、
ざわざわする。そんな中で、主は「静まれ」と言われる。事が起き
た時に、「動き回るな、まず静まれ」と。静まる事は難しい。肉は、
突発事態が起きた時に、まず何とかしようとする。動き回ってしま

うだろうか。しかしどうにもならないので、不安にさいなまれ、思
い煩いでいっぱいになる。心重くなり、落ち込んでしまう。しかし、
「やめよ」、ストップ、「静まれ」と、主は言われる。まず主を意
識し、主を仰ぎ、「静まる」事が無ければ、祈りが無ければ、自分
の思いで判断し、行動してしまう。どのような問題であれ、まず祈
ろう。

問題を主の御前に持って行き、御言葉を求め、主のみこころを求め
よう。祈ろう。主は、不安な心を落ち着かせて下さる。そして指針
を与えて下さる。御声をかけ、なすべき事を示される。事が起きた
時、まず自分の思いが出てしまう中で、まず静まって「わたしこそ
神であることを知れ」と言われる。
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不安や思い煩いで落ち着かないときは主に祈り、心の内の心配事を
主に全て告げたい。肉の感情に支配される事から主が守ってくださ
る。忙しい生活だからこそ、知恵も力も主から受け取ろう。


2025年12月23日(火)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、 もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生 きるのです」ローマ8:13



信仰生活で、なかなか主に従えない事を経験する。その時に肉の頑
固さ、頑なさを思い知らされる。主に従う事を肉が妨げる。時に、
主は「祈れ」と促されるが、肉は「また、時間のある時に」と無視
し、聞き流す。主は「時を生かして用いよ」と言われるが、肉は
「今は、好きな事をしたい、自由に楽しみたい」と言う。

主から「今、この時をとらえて、祈りなさい」と言われるが、肉は
「疲れてるから、また後で。今は、休んでいたい」と。楽な方へ流
されてしまう。「すべての事について感謝しなさい」肉は「すべて
の事など、難しい」そして良い事があった時には、らい病をいやさ
れた9人のように感謝は無く、喜びではじけて、自分の道に行って
しまう。

又、試練の時には愚痴と不満で一杯になり、肉は何と主に逆らう事
だろう。主に敵対し、御心に逆らう。自分を喜ばせて、自分の思い
通りに歩みたい。御霊に、主の御言葉に、導かれなければ、どこへ
向かうかわからない。自己中心に生きようとする肉の性質が、絶え
ず自分の内にある事をよくわきまえて、御霊に拠り頼んでいよう。

自分の力ではどうにもならない。御霊に拠り頼むなら、主の喜ばれ
る道を選び取れる。御霊によって歩めとあるように、明け渡して歩
めるよう、祈ろう。今日も、目の前の一つ一つを祈ろう。御霊によ
って歩めるよう助けて下さる。
--------------
感情のままで歩むと、どうなるかは既に経験済みで、イライラと渇
いていくばかりだ。一つ一つの御霊の導きに従おう。出来ないから
祈れる。助が必要になる度に新しい光に照らされる。


2025年12月22日(月)

「悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、 パンになれと言いつけなさい』」ルカ4:3


悪魔は、荒野で主を攻撃した。40日断食後、まさに生死の限界ギリ
ギリの主に、「あなたは神の子なのだから、石をパンに変える事が
できる。パンを自分で作ればいいではないか」と誘惑した。「この
ままでは必ず死んでしまう、神はパンを与えてくれないのでは?」
との疑いを吹き込む。

「神に頼っていたら、与えられないよ」「自分で何とかしないと」
「人類を救うのに、今、死んでしまっては、それこそ元も子も無い
よ。生き延びなければ」。あなたにもこの誘惑が来ていないだろう
か。「神に頼っていたら、らちがあかないよ。祈りなんて時間がか
かるし、さっさと自分でしてしまえば。すぐ出来て、スムーズに行
くよ、それでうまく行けばいいじゃない。結果オーライだよ」。

「自分でやった方が早いよ。御心にかなった事なんだし」ここで死
ねば、自分の使命はどうなるのか。どうあっても、パンを食べて、
とにかく生き延びねば。神に頼っているなら、あたかも餓死するか
のように錯覚させる。「自分で調達すれば?」神のためなんだから
と、自分の判断で動き、自分の力で事を行なうように仕向ける。

悪魔の罠があり、巧妙な誘惑だ。どこまでも神の言葉の下に自分を
置いて、従うことが信仰だ。神はパンを与えて下さる。パンがいの
ちを造るのでなく、神の言葉がいのちを造る。神への信頼を崩そう
として来る、悪魔の攻撃を見抜けるように。祈っていよう。
--------------
自分でした方が早いと無意識のうちに動いてしまう。祈らずにしよ
うとするのは、信仰を試みられているのかも知れない。悪魔の誘惑
があると警戒しよう。主に頼り、主のパンを祈りたい。


2025年12月21日(日)

「サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に 口づけして言った。『主が、ご自身のものである民の君主と して、あなたに油をそそがれたではありませんか』」Tサム エル10:1



民は、サムエルに王が欲しいと求めた。サムエルは祈った。
主は、王を持つ事のリスクを告げられたが、民は、強く欲し
た。それで主は、聞き入れ、サウルを民の王に定められた。
サウルとサムエルの出会いが、実に絶妙だ。サウルの父
親の雌ロバがいなくなり、サウルが捜しに出る。あちこちと
捜し回り、ツフにまで至る。

しかし見つからないので、帰ろうとすると、連れの者が、丁
度この町に、神の人がいるから聞こうと提言する。サウル
は同意し、町へ入ると、娘たちがいたので尋ねた。すると
その神の人は、丁度今日、町に来て、今からいけにえを
献げるところで、すぐに行けば、会えると言った。それで
進んで行くと、ピッタリのタイミングで、サムエルに会えた。

サムエルは、その前日に、一人の人を遣わすから、君主と
するよう、御告げを受けていた。雌ロバ捜しから始まる、一
つ〃の出来事が、まるでパズルが埋まるように、すべてが
ピッタリだ。どれかが、少しでもズレたなら、実現しない。あ
なたも、時や事柄が、ピッタリのタイミングで運んだ経験が、
幾つもあるだろう。

それはまさに主であり、主が働かれ、導いておられる。主の
導きは、外側の環境からもわかる。今、導きを求めている
なら、環境もしっかり見ていよう。御言葉と祈りによる平安と、
環境を通して、御心へと導かれる。御心なら、自分で門を開
くのでなく、必ず主が目の前で、門を開かれ、前進して行ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず導きを求めて主に祈ろう。主は、その祈りに答えて
御心の道に導いて下さる。御言葉に目を留めよう。主が先立
たれるので、状況を見ていよう。「ひとりでに」目の前に、門が
するすると開いて行く。


2025年12月20日(土)

「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』 ・・火のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:11



エリヤは、バアルの預言者との戦いで、大勝利を遂げた。
だが、その後イゼベルが発した、エリヤ殺害の脅しに、恐
怖で逃亡した。し烈な霊の戦いに勝利したエリヤだったが。
勝利後は、特に危険と言われる通りだ。悪魔の攻撃が来る。
大勝利の後こそ、身を引き締め、慎み、へりくだり、更に主
に拠り頼む必要がある。

あの信仰と祈りで、大胆に戦った勇者エリヤが、自分を救
うために逃げ出した。激烈な戦いに、心身消耗しきったエリ
ヤだが、この事の原因は、イゼベルの言葉だった。主の言
葉より、イゼベルの言葉を受け入れてしまった。どの言葉を
聞き、どの言葉を拒否するかは、重要だ。その言葉に自分
が動かされてしまう。

私たちは、どんな言葉を受け入れているだろう。主の言葉
か、ネガティブな悪魔の言葉か。主はエリヤを眠らせ、食
事をとらせ、十分な休息を与えられた。身体の回復を与え
られ、ホレブの山に向かわせ、山の上で主の前に立つよ
う命じられた。激しい大風、地震、火の後に、かすかな細い
声があった。

エリヤは、その細い御声に耳を傾けた。主は、エリヤの思
い込みの間違いを正し、新たなる使命を与えられた。死を
願っていたエリヤが再び、主の使命のために立ち上がる
事ができた。スランプ、無気力から脱出するためには、主
の御前に静まり、細い御声にじっと耳を傾けることだ。主と
の霊の交わりから、新しい力が湧き上がる。今、一度立ち
上がらせて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
サタンからのネガティブな声を、受け入れると、不安、思い
煩い、恐れで落ち込んでしまう。すぐに主を仰ぎ、主に向か
おう。そこに祈りが入る時、サタンの攻撃誘惑から守られる。
この世にいる間は、ずっと霊の戦いだ。まず主に行こう。


2025年12月19日(金)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上も ない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じる・・」 ヤコブ1:2



信仰人生で私たちは、様々な試練を受ける。必ず苦しみがあり、困
難があり、それは御言葉も、はっきり言っている。聖書には「試み」
「試練」「患難」「刈り込み」「懲らしめ」「訓練」「鍛錬」「苦
しみ」「悲しみ」と、数限りなく出て来る。「主はその愛する者を
懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」
と、受け入れるすべての子に、必ず試練はあると。

そのため逃げたり、避けるのでなく、真っすぐに向き合う事が重要
だ。「試練を軽んじず」「弱り果てず」だ。苦難にあっては「耐え
忍ぶ」事が大切だ。苦しみの中でこそ「忍耐」が培われる。ヤコブ1:3
苦しみにも種類がある。◆ヨブが受けた理由のわからない苦しみ。

◆善を行なう中で受ける、理不尽な不当な苦しみTペテ2:19◆成長の
ための訓練としての苦しみヘブル12:7◆自分が犯した罪ゆえの苦しみ
・刈り取り◆主のために受ける苦しみ。ピリピ1:29。自分の罪が原因
の苦しみは、罪を悔い改めるべきだ。その苦しみは罪を教え、悔い
改めに導くためだ。蒔いたものを刈り取る事が、祝福の道だ。

刈り取りは訓練とされ、それをも益とされる。他の苦しみでの御心
は、忍耐する事だ。その苦しみにより、私たちは練られ、鍛えられ、
聖められる。苦しみにより必ず一段階成長して行く。あなたにも今、
苦しみがあるだろうか。罪ゆえなら悔い改め、そうで無ければ忍耐
し、何を教えられているかを、祈り求めよう。ヤコブ1:5試練は、後に、
必ず平安な義の実を結ぶ。
---------------
ふり返ると、辛くて苦しい時が最も主を近く感じていたと言える。
主は試練の中で決して一人にはされない。必ず傍らにいて励まし慰
めを備えて導いてくださる。さまざまな試練を、逃げずに主と共に
通りたい。


2025年12月18日(木)

「・・神のみこころは何か・・何が良いことで、神に受け入れられ、 完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を 変えなさい」ローマ12:2                 


「力の限り、心を見張り、見守れ」とも言われる。心が大切だ。自
分の心をしっかり見張れと。自分の心を見張るなど、ほとんどしな
い。私たちに与えられた自由意志のため、主もそこに立ち入れない。
心の態度は自分の選択であり、選択の結果が現われ出る。主は、あ
なたの態度を支配されず、自由意志を尊重される。

信仰人生、問題は次々と起きる。対人関係の悩みは、誰しも経験す
る。苦しい状況を逃れたい。職場を変わろうか。相手が変われば、
良いのにと思う。又、目の前の問題は、時間を置けば何とかなるか
と、環境、相手、時間の問題にしたいのだが、最大の問題は、自分
の心の態度だ。ヨセフは厳しい試練を受けた。兄たちの妬みで、エ
ジプトに売り飛ばされ、異国で苛酷な状況に陥る。

更に無実の罪で投獄されるが、そこで失望や無気力にならず、腐ら
ず、主を見上げ、御心を求めて行く。すると模範囚となり、監獄長
に認められる。「主はヨセフと共におられ、彼に恵みを施し、監獄
の長の心にかなうように」と、主がされた。が、そこには、主の御
前に、ヨセフの正しい態度があった。

その時、〃に主の御心を求め、その御心に自分を沿わせ、従った。
環境がいかに悲惨でも、心屈折せず、投げ出さず、真っ直ぐに主を
信じ、仰いだ。ヨセフは心腐らせる事もできた。だが絶えず主を見
上げ、御心を求め、主に従った。私たちもどんな辛い時も、主を仰
ごう。主を求めよう。導いて下さる。
-------------
先がわからないと不安でじっとしていられない者だ。何が良い事か、
考えることも出来ない。ただ主に頼っていよう。主の喜ばれる事を
尋ね、主の最善に進めるように祈ろう。


2025年12月17日(水)

「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の 中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子で す。』と言った」マタイ14:32



弟子たちは、夜中に湖で嵐に会い、波風逆巻く中で、悪戦苦闘して
いた。戻れる距離でなく、まさに立往生だ。困難のため前に進めず、
四苦八苦している状況だ。私たちも、こんな状況に陥る事がある。
悩み問題に、どうしてよいかわからず、方策尽きて、行き詰まる。

主は「ひとりで山にのぼられ」、山で、弟子たちのために執り成し
ておられた。いつも私たちのために、祈っていて下さる。そして、
大パニックになっている「彼らのところへ行かれ」た。「しっかり
しなさい。わたしだ。恐れることはない」と御声をかけられた。

私たちもよく恐れる。目の前の問題や状況を恐れ、人が気になり、
人を恐れ、将来のあれこれを恐れ、恐れでいっぱいだ。そんな私た
ちにも「恐れることはない」と、ずっと御声をかけ続けて下さって
いる。なぜ恐れるのだろう。それは、常に愛し、常に共にいて下さ
る、主を見失うからだ。常に共にいて下さる主が、わからない。

目の前の状況に飲み込まれてしまうと、状況しか見えず、主が見え
なくなる。心が騒ぎ、恐怖で怯える。今、目の前の苦しい状況に、
不安と恐れ、思い煩いでいっぱいだろうか。主は「わたしがともに
いる」と、「恐れるな」と言っておられる。

主が舟に乗り込まれた途端、風が止んだ。自然界も主権を持ち、支
配される真の主だ。状況は関係無く、主を見て、御言葉を受け取る
時、心の嵐がおさまり、心に平安が臨む。
--------------
不安や恐ればかりを見ていると、どんどん否定的な感情に飲まれて
しまう。主を見上げていこう。不安のままで主が支えてくださる。
主の御約束に立っていよう。


2025年12月16日(火)

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。 どんなことでも、神にはできるのです」マルコ10:27



主のもとに一人の青年が来た。資産家で、若くして名誉も地位も尊
敬も得て、家庭を持ち、すべてを持っていた。しかし心に何かが足
りず、満たされていなかった。幸せを絵に描いたような彼だが、心
には、どうにもならない虚無があった。そのため主に問うた。何を
すればよいのかと。

主は青年を愛し、導こうとされた。十戒の戒めを教えられると、彼
は、戒めは守っていると答え、何がまだ必要なのかと。すると主は、
持ち物を売り払い、貧しい人に施せと。自分の富、力、思い、プラ
イド、そういう固く握りしめているものを、教え導こうとされた。
すると、青年は顔を曇らせ悲しんで去った。

悲しんでとあり、反発したのでなく、自分には財産を献げる事が出
来ないとわかった。戒めを守っており、隣人を愛していると言った
が、困っている人に施せない。肉は強烈な力があり、捨てられない。
富、名誉、地位、力、プライドも、決して捨てられない。それが御
霊の満たしを妨げている。

主はそこを教えようとされた。財産は献げたなら、又、豊かに与え
て下さる。しかし、主は「それは人にはできないこと」だと。自我
は強固で、自分では、出来ない事を教えようとされた。だからこそ、
主がおられ、主には救いがある。「神にはどんなことでもできる」
と。

人には不可能だからこそ、主に求めよと。求めるなら、主が献げる
事ができるよう、従えるように助けて下さる。主のもとを去るので
なく、主に、更に近づき、「わかるのですが、無理です。できませ
ん。でも助けて欲しいです」と求めよう。
--------------
何をしたら救われるかと、いつの間にか自分で頑張って落ち込んで
しまう。主の恵みが見えなくなっている事に気づきたい。出来ない
ので助けてくださいと祈れる事は感謝だ。


2025年12月15日(月)

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしている ことをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き・・」 マタイ11:4



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法を、はっきりと間違ってい
ると指摘した。その結果、投獄された。ヨハネは正しい事をしたの
であり、何の罪も犯していない。投獄は理不尽だ。主は正義なる方、
御前に正しく、真実に歩んだのであり、主が、対処して下さると思
ったろう。だが投獄後、幾日過ぎても何も起きない。

王国を打ち建て、王権を持つ方ではないのか。牢獄で、孤独な中に
いるヨハネの思いは、どんなものだったろう。それで弟子たちに
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも〜」と問わせ
た。不信仰というのではなく、更に確信を深められたかった。

主はその時に、弟子たちに「自分の聞いたり見たりしていること
を」、
つまり、あなた方が見た「事実」を告げよと。「盲人が見」これは、
救い主のしるしであり、旧約預言の成就だ。そして主の語った言葉
や、わざそのものが証しであると。主はヨハネを「来るべきエリ
ヤ」「預言者よりすぐれた者」「ヨハネよりすぐれた人はいない」
と認め、高く評価し、受け入れておられる。

裁き主をイメージしたヨハネ、主は十字架で贖いをし、罪を赦され
る救い主、赦し主であられた。私たちも自分の期待する、主のイメ
ージがあるだろうか。ヨハネは直接主に問うた。私たちもわからな
い時は、直接主に聞こう。「わかりません。教えて下さい」と。主
はその求めに答え、助け、導いて下さる。
--------------
しなければならない事や、してはいけない事だけに気を取られ、い
つしか主がどのような方であるか分からなくなる時がある。日々、
主よ教えてくださいと尋ね、新しく主を知っていきたい。


2025年12月14日(日)

「そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『・・あ の預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとし たら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか ・・』」U列王5:13



将軍ナアマンは、王に重んじられ、連戦連勝で名を馳せて
いた。名誉も地位も得ていたが、彼には苦悩があった。らい
病を患っていた。回復の望みは無く、悪化の一途だ。どん
な犠牲を払っても治りたい。その時に、捕虜のユダヤ人娘
から、らい病をいやしてくれる預言者がいると聞いた。

そこでナアマンは、エリシャを訪ねる事になる。が、出て来
る事もせず、使いの者に、ヨルダン川で7度身を洗えば、
いやされると伝言された。ナアマンは怒りで立ち去る。エリ
シャが会いもせず、手を置いて祈りの儀式も無く、川で身を
浸すなど、有り得ないと怒り爆発だ。ナアマンのプライドが
ひどく傷ついた。

地位のある自分が、エリシャに軽くあしらわれた事に、又、
汚い川で民の面前で身を浸すなど、屈辱でしかない。自分
の思いと全く違った方法を、受け入れる事ができなかった。
しかしエリシャは、いやされる方法をはっきりと示している。
だがナアマンは、プライドがあり、自分の思いと違うゆえに、
譲れない。丁度そんなところに、しもべたちが進言した。

去ろうとしていたナアマンだったが、聞く耳を持ち、主に従
おうと、ヨルダン川で、言われた通りにした。すると完全に
いやされた。私たちも「プライド」や「自分の思い」が、妨げ
ていないだろうか。他者に、目下に、耳を傾ける、へりくだ
った態度はどうだろう。そこには溢れる祝福が備えられて
いる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
ナアマンは、しもべの進言に耳を傾けた。主は、進言をも
用いて導いて下さる。私たちにも、今、進言が来ていない
だろうか。耳を傾けるかどうかで、天と地ほどに違って来る。
へりくだって聞いてみよう。


2025年12月13日(土)

「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて、それを悟る人 のことで、その人はほんとうに実を結び・・」マタイ13:23



種まきの例えで、種は御言葉で、土地は私たちの心だ。礼
拝で、全く同じ御言葉を聞いて、豊かな実を結んで行く人々
と、全く益を受けない人々がいる。それは、土地である心が
問題だと。私たちの心の態度はどうだろう。御言葉を拒む
気は全く無く、聞く事は好きなので、自分は御言葉をよく聞
いていると思ってしまう。

幾らでも聞くのだが、しかし右から左に抜けて、心に留めず、
傍観者的に聞く。映画を観ているように、他人事だ。その時、
悪魔が御言葉の種を奪うので、聞かなかったのと同じにな
る。心に何の痕跡も残さない。又、岩地に落ちるとは、大変
感動し、涙を流して聞く。しかし心の中には、頑強な自我と
いう岩が存在し、それが妨げるので、根ざす事ができない。

そのため、迫害や試練が来ると、立ち行けず枯れてしまう。
御言葉に感動し、涙して聞くだけでは、根ざせない。従う時
に初めて、岩である自我が砕かれて行く。いばらは芽をふ
さぐように、御言葉をふさぐ。伸びようとする芽を、おおって
枯らす。世の楽しみ、富への執着は、芽生えた信仰をふさ
いで枯らす。

心で握りしめているもの、愛する偶像は、神から私たちを
離してしまう。自分は大丈夫と思うが、一番大切なものを
見失って行く。絶えず自らの状態を点検しよう。聞いた御
声に従おう。その時必ず実を結ぶ。信仰人生で、実を結
んでいるなら、御言葉を正しく聞いたという事になる。

・・・・・・・・・・・・・・・
みことばを聞いても、行なわないなら、聞いたみことばを
すぐに忘れてしまうと。種が、土地に植わらなければ、実
を結べない。まず目の前の御霊に示される御言葉に、一
歩従えるよう、助けを求めて祈ろう。


2025年12月12日(金)

「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる 邪悪な行ないがあるからです」ヤコブ3:16




他の箇所では、憤りは残忍で、怒りは沸とうする。しかし妬みは、
誰も、どうにも出来ないものだと言っている。妬みは、激烈な破壊
力を持つものだ。そして、それは誰の内にもあり、又、自分の内に
あるのに、気づかない難儀なものだ。カインは献げ物の事で、激し
い妬みが弟アベルに向かい、弟を殺害した。

ヨセフは父親の偏愛により、兄たちのひどい妬みを買い、兄たちに
より隊商に売られた。サウルは、女たちから大きな賞賛を受けるダ
ビデを妬み、憎しみは狂気へと高じて行く。兄息子は、放蕩三昧を
したあげく、父から愛で迎え入れられる弟を妬み、激しい怒りで震
えた。主は、祭司長たちに妬まれ、妬みのゆえに引き渡された。

ぶどう園の早朝の労働者も、5時の労働者を妬んだ。「あらゆる労
苦と仕事の成功は、人間同士の妬みによる」とある。妬みは強烈な
エネルギーとなり、妬みが動機で、様々な分野に成功を収めさせる。
しかしそれは非常に虚しいと。私たち自身の、あれこれの動機に
「妬み」は、なかっただろうか。密かな競争心、張り合いが、見え
隠れするだろうか。

その「妬み」はどこから来るのか。よく探り、主に取り去って頂く
よう祈ろう。祈りは答えられる。祈り求めるなら、主は取り扱い、
解決して下さる。主を見上げる時、主の溢れる愛と慈しみ、賜物が、
紛れもなく自分に、注がれている事に目が開かれる。御霊によって、
妬みから解き放たれて行く。
-----------
相手に非がなく、正しく優れている事で湧いてくる妬みは、なんと
邪悪な罪だろう。その妬みが簡単に内に湧いてくる事を認めていた
い。上からの賜物に感謝し、光の方へ向かおう。


2025年12月11日(木)

「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も 住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」 ルツ1:16


ユダの地が厳しい飢饉に見舞われた時に、エリメレクとナオミは、
異教、偶像の地モアブに移住した。夫のエリメレクはそこで亡く
なり、二人の息子マフロンとキルヨンはモアブの女性と結婚し、
それがオルとルツだった。ナオミは、ほっと安堵したのも束の間、
その二人の息子も亡くなってしまった。異国の地で、ナオミ、ルツ、
オルパの三人が残された。

ナオミは故郷が豊作になったと聞き、帰郷を決意する。二人の嫁を
思い、モアブの実家に帰るよう勧める。だが、ルツの堅い決心は変
わらず、姑ナオミについて行く。ルツにとれば、ユダは異国の、全
く見知らぬ地であり、異教のモアブ人であり、どんなに厳しい状況
だったろう。しかしルツの堅い決心は揺るがなかった。それは、真
の神に従う決心だった。

先の事は全くわからないが、最善をして下さる神を信じ、ナオミと
生きて行く決心だった。この世は、商売繁盛、家内安全、無病息災
・・平穏無事、問題が無い事のための宗教だ。しかし、ルツは厳しい
苦難がわかっていて、神に従う道を選択した。どんなに神をお喜ば
せした事だろう。「彼に信頼する者は、決して失望させられること
がない」。

ルツはこの後の人生、素晴らしい祝福に入れられ、報いられる事に
なる。ボアズとの結婚、子どもを授かり、そのひ孫はダビデだ。ル
ツ自身もイエス・キリストの系図の中に名を残す。今、選択を迫ら
れていたら、主の道を選ぼう。後悔の無い、豊かな報いがある。
--------------
先の見えない生活は本当に不安だ。でも、私たちも神がどのような
方で、これまでに何をしてくださったかを知っている。最善を成し
てくださる神を頼り、悲観せず前進したい。




2025年12月10日(水)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を 受ける道です」Tテモテ6:6



バプテスマのヨハネの弟子たちは、今まで師であるヨハネに寄せられ
た、皆の関心と人気が、主イエスに向かう事をひどく妬んだ。我が師
びいきのゆえだ。しかし、ヨハネはそうでは無かった。「人は天から
与えられるのでなければ、何も受けることはできない」と、全主権
が、主にあることを認め、受け入れていた。主が与えて下さるもの
を、受けるばかりだ。

別の人に、人気と関心が集まるなら、それも主のなさる事であり、自
分がどうこう言う事ではない。ヨハネは、自分に与えられた場所、地
位、能力、使命をわきまえ、すべてにおいて満足していた。「満ち足
りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」。私たちはどう
だろう。誰かが成功すれば、ほめられれば、心穏やかでは無いだろう
か。

ある人はシーソーだと言った。誰かがほめられると、自分がけなされ
るように感じる。自分が上がると、人が下がり、優越感を感じる。ど
こまでも人が基準だ。「満ち足りる心を伴う敬虔」、これは御霊から
来るものだ。肉の内には無い。主を知る以前は、自分を量る手段が、
目に見える他者しか無い。必然的に、人との差異で自分を量って生き
て来た。

そのため他者との比較が、新生後も、根深く培われている。御霊はそ
のつど気づかせて下さる。「わたしの目には、あなたは高価で尊
い」、自分の賜物があり、使命がある。主の視点と価値観に立つ時、
見方が変わる。御霊に導かれ、不満が感謝と平安に変えられて行く。
--------------
主と自分との関係を見ていれば、備えられている恵みに感謝して歩め
るのに、周囲を見てしまう。心が穏やかでいられない時には、気づき
たい。主のご愛と主の御約束を覚えていよう。


2025年12月09日(火)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ 私の神であられますから」詩篇143:10


新生した私たちは、主のみこころに従って行く。そのみこころを知る
ために、絶えずアンテナを張り、御声に耳を澄ます。状況も、しっか
りと見て行く。だが、主の御声が、聞こえなくなる事がある。なぜ聞
こえないのだろう。自分の強い思いがあり、心がその思いで一杯な時
は、聞こえない。自分の思いが、みこころを悟る事を妨げてしまう。

今、御声が聞こえにくいなら、肉の思いを、遂げようとしていないだ
ろうか、御霊に探って頂こう。又、なすべき事がわかるのだが、自分
のプランで一杯な時は、従えない。その時は、祈りで自由に自分の気
持ちを、主に告げよう。詩篇記者は、思い煩い、嘆き、悲しみ、苦し
み、怒り・・何もかもを、主に吐き出している。

その中で、主は、みこころの方向へと導いて下さる。又、心の願いは
告げよ、と言われる。願いは、願いとして主に告げるべきだ。それが
御心と合致するなら、叶えられる。だが、すべてが叶えられるのでは
ない。主のみ思いと、合わない時には、叶えられない。それは、その
方が良いのだ。

自分の思いよりも遙かに高く深い、「主の最善」を信じ、受け入れ
て行く事だ。主がゲッセマネで、「わたしの願いではなく、みここ
ろのとおりに」と祈られ、受け入れて行かれた。自分を捨てて、従
う時、主ご自身を知る事ができ、主との関係が、更に深められて行
く。
--------------
自分のありのままの思いを祈った後、御心が成りますようにとの祈
りで深い平安が来る。自分の思いではなく、主の最善に進みたいと
祈ろう。肉で動くことから守られる。


2025年12月08日(月)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、 主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



人生で対人関係は不可欠だが、しばしば問題が起きる。今、現在、
悩まされているだろうか。人生の悩みの多くの部分が対人関係だと
言われるが、近隣や職場に、難しい相手がいて思い悩み、振り回さ
れる。目の前に起きている、この問題は、不運なのでなく、悪魔に
ほんろうされているのでなく、主から来ている。

まず環境さえ変わればと思うのだが、この問題に主を認めよう。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」「そうすれば、主
はあなたの道をまっすぐにされる」と。紛れもなく、主が、目の前
に難しい相手を置かれている。それは、あなたの祝福と成長のため
だ。

主は、目的と計画と意図をもって、あなたの前に、他の人でなく、
その人を置かれた。沢山の事を学ばせて下さり、自分自身を変えて
行って下さる。ある人は、ひどくお節介な隣人が、苦痛でたまらな
かった。頼みもしないのに世話を焼かれ、大きなお世話なのだが、
そう思う自分も嫌で、自己嫌悪に陥る。その事を祈りに持って行き、
日々に祈り続けていた。

ある時、ついにキレて、爆発する瞬間、「神様!」と助けを求めて
叫んだ。すると「すみません。いつも色々して頂いて」との言葉が
出て驚いた。相手は心開き、仲良くなってしまった。すると相手は
悩みを打ち明けて来て、良い関係とされた。

自分も苦しかった心が、平安にされた。目の前の事態に「主を認
め」て、主に拠りすがろう。主は、道をまっすぐに=平安にして下
さる。貴重な経験、学びを得て、後の日に感謝とされる。
---------
目の前の状況に飲まれてしまうが、全てを主が支配しておられるな
ら、それだけで平安がくる。全ての事に主のご計画があることを心
に留めたい。必ず、よい方向へと導かれる。道は真っすぐにされる。


2025年12月07日(日)

「神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ。』と仰せられ た。彼は『はい。ここにおります。』と答えた」出エジプト3:4


主は、モーセを、民をエジプトから救い出すリーダーとして
選ばれた。モーセが「今、行け。あなたをパロのもとに遣わ
す」と言われた時、彼の戸惑いは、どんなものだったろう。
「何を今さら?この80歳の老人が?」かつて血気盛んな40
歳の時。自分こそはと、同胞イスラエルを救うべく事を起こ
したが、失敗した。

同胞の拒絶に会い、ミデアンへ逃亡。そこで遊牧生活40年
を経た。羊飼いの長い歳月に、かつての野心も失せていた。
家庭も持ち、平凡だが平穏な日々に、それなりの幸せも感
じていただろうか。このまま人生を全うしたい。しかも今や、
エジプトでの地位も、力も、人脈も、財力も何も無い。年とっ
た羊飼いに何が出来よう。

ひどく困惑し尻込みするモーセに、主もそれは承知の上だと、
説得して行かれる。羊飼いの杖を手に取り、しるしを行なう
ように言われた。モーセは説得され、手に「神の杖」をもって
エジプトへ戻る事になる。仕事で使う羊飼いの杖が、今や
神の杖とされた。その杖により、神が、奇跡をなされる。

「あなたの手にあるものは何か?」それは普段使い慣れた
羊飼いの杖だ。主は、すでに「あなたの手にあるもの」を用
いられる。その手にあるものを、主に明け渡そう。そうする
時、それを、主の栄光のために用いて下さる。あなた自身
と、あなたの手にあるものを、「はい、ここにおります」と、主
に献げよう。それをきよめて、神と人々のために大いに用い
て下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
無いものではなく、今、手の中にあるものを、用いて下さる。
自分の手にあるものは、何だろう。御霊は示して下さる。主
にお献げするなら、聖めて用いて下さる。自分にも喜びと
される。


2025年12月06日(土)

「・・どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさば く王を立ててください」Tサムエル8:5


サムエルがいた時代に、イスラエルは王を求めた。他の国
々に王がいるように、自分たちも王が欲しいと。しかしイス
ラエルの王は「主」だ。主ご自身だ。イスラエルの民の望み
は、主を退けて、主以外に、王を求めたいとの行為だ。主を
捨てるなら、必然的に、「めいめいが自分の目に正しいと見
えること」を行なう事になる。

つまり「正しいと見えること」とあり、正しい事だが「自分の目
に」が重大な問題だ。主の目にでなく、自分が王になる。自
分が基準でルールになる。主の御心から離れた生き方にな
る。イスラエルの歴史はずっとそうだった。主を捨てて、偶像
に仕えては、敵の攻撃に苦しみ、主に叫び求めて、救い出さ
れる。

そして主に立ち返るや、又、すぐに偶像に仕える、その繰り
返しだ。私たちはどうだろう。自分の目に正しい、と見える事
に歩んでいないだろうか。主の言葉に聞かず、御言葉と祈
りにより判断するのでなく、自分の思いで判断するだろうか。
又、御言葉に目を留めはするが、自分に都合の良い御言葉、
心地良い御言葉だけを選んでいないか。

それこそ、自分の目に正しいと見えることだ。痛い御言葉こ
そが自分を変え、建て上げてくれる、自分に必要な御言葉
だ。今、目の前に問題があるなら、自分の思い、つまり自
分の目に正しいと見えることがあるが、御言葉に=主の目
に正しいことに、従ってみよう。豊かな祝福にあずかって行く。

・・・・・・・・・・・・・・・・
肉は、自分の目に正しいと見えるから、やっかいだ。自分
の思いを進め、これが最善の道と思えてしまう。人の目に
はまっすぐに見える道が、その終わりは死の道だと。主を
仰ぎ、御言葉に聞こう。真実の道に導かれる。


2025年12月05日(金)

「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して 何もすることはできません」ヨハネ14:30



悪魔は攻撃して来るが、主に許可された限界内でしか働けない。ヨ
ブ記にあるように、「持ち物はいいが、身はいけない」次に悪魔が
挑戦して来ると「身はいいが、いのちには触れるな」。主は「〜ま
で」との限度を定めておられる。ユダは、主イエスを裏切り、銀
貨30枚で売ってしまった。主は無実の罪で捕らえられ、悪魔がユダ
に思いを入れた。

「悪魔は・・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」
と。ユダは主を裏切り、主は十字架にかかられた。神は悪魔を阻止
する事も可能だが、悪魔が働く事を許され、その悪魔すら、神の決
定的御旨成就のために用いられた。神は全知全能で、全主権を握っ
ておられる。悪魔は、主を十字架の無残な死に追い詰めたが、結果
的に十字架は人類の贖いという金字塔を打ち立ててしまった。

もう誰も、悪魔すら、後戻りが出来ない。ペテロも悪魔にやられた。
自分の弱さを知らず、自信満々で、命を捨ててでも、従って行ける
と思い、豪語した。しかし、主が捕らえられた時、保身に走り、呪
いをかけて誓ってまで、知らないと主を否み、裏切ってしまった。
しかし主はそれをも予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えてお
られた。

「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」
悪魔のふるいだと。ユダは悔い改める事が無く、ペテロは悔い改め
た。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを徹底的に知らされた。悪
魔は働くが、神が全主権を握っておられ、その事をも益と用いて勝
利へと導かれる。
--------------
サタンの攻撃や誘惑を日々受けるが、そこには主の目的と主の執り
成しがあることを覚えていたい。自力で太刀打ちできないのは、経
験済みだ。謙遜になり、主に助けを求め、主に支えられて勝利しよ
う。


2025年12月04日(木)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから 『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」 イザヤ書30:21



主の御心にそって、人生を歩む事が大きな祝福だ。自分にも喜びが
満ち、周囲にも主の栄光を現わして行く。御心を求め、御心に従っ
て行く事が、信仰人生で重要な事柄だ。問題は、自分の思いが強過
ぎると、御心を受け取り損ねてしまう事だ。自分の強い思いが、主
のお心を知ることを、さえぎってしまう。そのため、まず右でも左
でも、御心のままでOKですと、自分を明け渡す時、9割方解決だ。

必ず御心は示される。よく祈り、御言葉に向かい、状況を見張って
いよう。指導者に助言を求める事は有益だ。彼らの御言葉の知識と
多くの経験が、初心者を失敗から守ってくれる。目を開き、耳を澄
ましていると、主が情報を送られる。多くの人々の体験をを耳にす
る。導きを求めていた時に、時ピッタリに、その事に関する様々な
情報が目の前に来たと。

ある人は伴侶が重病発覚で、パニックだが、しかし何をどうすべき
かを祈り続けていると、不思議に様々な情報が各方面から寄せられ
た。そしてなすべき事が示されて行ったと。主は導いて下さる。導
きの主だ、原則として、一つの光が与えられた時、その光に沿って
進めばよい。

万一間違っていたら、主が止めて下さる。どうであれ、主に従いた
いとの心がある時、主は導いて下さる。導きを受けたなら、信仰に
より一歩を、勇気を持って踏み出す事が大切だ。すると次の一歩が
示される。もし踏み出さなければ、そこでそのまま停止となる。
一歩踏み出すと、次々と導かれて行き、主と共に前進して行ける。
------------
主の導きがあることは何と心強い事だろう。祈りながら主の導きを
見張り、待とう。止められたならそれも感謝だ。強い自分の思いを
主に明け渡せる。祈りながら主の導きに従おう。


2025年12月03日(水)

「ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子 ・・を打ち殺した・・こうしてサウルは死に、彼の三人の息子も、彼の 全家も、共に死んだ」T歴代10:2



サウル王は、ペリシテとの戦いで、主に逆らった不信の罪のために
死んだ、と記されている。が、それ以前に主に従う事をしていなか
った。アマレクとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との命令に
対し、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。

主の言葉に従わず、主を退けたので、主もまた、サウルを王位から
退けられた。サウルは罪により、主との関係が絶たれてしまった。
その時に、サウルは「罪を犯しました、しかし、私の面目を立てて
下さい」と願った。これは罪の悔い改めではない。サウルにとり、
何より重要なのは、体面だった。自分の面目を守ることしか、頭に
無かった。

私たちも、罪によって、人前で面目を失う事が恐いだろうか。人は
関係なく、罪とは、神と自分の間のことだ。サウルはペリシテとの
戦いで、主に伺ったが、主はいっさい答えられなかった。それで霊
媒へと向かった。まず主との関係が大切で、その関係が修復されず、
悔い改めが無いのに、伺いを立てても、答えが無いのは当然だ。

主との関係が、損なわれているのに、自分本位に願ってもどうにも
ならない。「主に尋ねなかった」と言われ、つまり尋ねた事になら
なかった。ダビデは姦淫、殺人の罪を犯したが、真実に御前に悔い
改め、完全に赦された。サウルに悔い改めは無かった。悔い改めに
より、神との間は完全に回復される。今、あなたと、神との関係は
どうだろう
--------------
御声を退け、滅びに向かっていくサウルに学べる。主は、いつでも
悔い改める道を示してくださる。くり返し失敗する罪人であっても、
赦しがある。主の恵みと導きを常に覚えて、主に応えていきたい。


2025年12月02日(火)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられた とおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」 コロサイ2:7



私たちは、ともすると無いもの、持っていないものを数えがちだろ
うか。あれが無い、これも無い、あれもこれも持っていないと。
しかし、無いものでなく、今、あるものを感謝して行くこと、その
時、恵みに、恵みが増し加えられて行く。母親を失い、人生の虚し
さに、鉄道自殺を図った田原米子さんは、何とか一命を取りとめ、
両足と片腕を失い、片手の指3本だけが残った。

その身体を見て、今度こそ絶対に死のうと決意した。しかし病室を
訪ねた宣教師によって救いに導かれた。神に出会った時、「3本し
かない」指が、「3本もある」に見方が180度変わった。「ない」か
ら「ある」へ。「3本しか」と「3本も」の違いで、人生が変わっ
てしまった。結婚し、子どもも出産した。

子供を育てるために、主は3本の指を残して下さった、何と有難い
ことかと。祈りにより、日々に天からの知恵とアイデアを与えられ、
日々チャレンジ精神で、何もかもを3本の指で成し遂げて来た。主
の恵みは十分であり、主の力は、弱さの中に完全に現われる。私た
ちの日常はどうだろう。「ない」「ない」と嘆いてばかりだろうか。

あれも無い、これも無い〜。不満と愚痴だらけだろうか。恵みを数
えてみよう。あれも、これもある〜、何と豊かに与えられている事
だろう。そこに焦点を当てなければ、あるものも見えない。感謝が
見えない。感謝して行く人に、主は更に感謝すべき事を増し加えて
下さる。ますます感謝が見えて来る。
--------------
不幸は見えやすく、幸せは見えにくい。恵みを数え、感謝しながら
生きよう。信仰によって見るなら、既に手にしている恵みに感謝が
溢れてくる。平凡な一日だと思いがちだが実は輝いている。悔い改
めたい。


2025年12月01日(月)

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯した からですか。この人ですか。その両親ですか」ヨハネ9:2


何か問題が起きる時、必ず「なぜ?」という問いが心に湧き上
がる。登校拒否や、出社拒否や、様々な問題に出会す時、答え
を見つけたい、理由を探し出したい思いに駆られる。理由捜し
に必死になる。「なぜ?」「どうして?こんな事が」又、
「ああしていたら」「こうしていたら」違った結果になってい
たのではと、自分を責めてしまう。

又、自分が余りにも辛いと、耐えられず、自分以外のところに
原因を捜し出そうとしてしまう。犯人探しになってしまう。弟
子たちも盲目の人を見て、犯人探しをした。「この人が盲目な
のは、この人が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。
しかし、主は「誰のせいでもない。神の栄光が現れるため」と
言われた。

私たちが人生で出会う苦しみが、すべて理屈で解明できるのなら、
それは人間の範囲内、人間の次元内で、人が神の下でなく、上に
立つ事になり、神を動かす人生になってしまう。しかし、全主権
は主にあり、人生で、時に「どうしてこんな事が」と思うような、
突如の苦しみを経験する。苦しく辛くてたまらない、わけのわか
らない所も通る。

だが、あれが悪い、これのせい、誰が、かれがと、犯人探しをし、
非難するのでなく、主の栄光が現われ、主の素晴らしさを知るた
め、との信仰に堅く立とう。どんな苦しみ痛みも、その事で、主
ご自身を更に深く知り、主のご愛を知る事とされる。
-----------
まず原因を探し安心しようとするが主を認めなければ、何処にも
平安がないことをよく経験する。主を認めよう。主の御手から来
ている試練だ。この中で主がご自身を表してくださる。