2000年12月30日(土)

『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる』  (ヤコブ4:6)

 スキーやスケート等のスポーツはどうしたら習得できるだろうか。
それは倒れるたびに起き上がる事によってである。
信仰生活も同様だ。倒れては起き上がると言う連続だ。
倒れる時にこう思う。「また倒れた。もうだめだ」。しかし、いつも神は新しい出発を与えて下さる。
罪を許し、失敗を用い、私達を更に強め堅くしてくださる。ダビデは罪を犯したが、許しを求めた。
罪人を教えて下さること、貧しい者を教えて下さること、神を恐れる者にご自身の道を教えて下さることを喜んだ。
私達はプライドのために、もう一度始める事を躊躇する。
しかし、神のみ前にへりくだるなら、神のあわれみは尽きない。
あなたは自分が失敗者のように感じているか。
新しい出発を必要としているか。神のもとへ行こう。
新たなる出発を与えて下さる。神と共に再出発する者にとって決定的な失敗など無い。
へりくだる者に恵みをお授けになる。


2000年12月29日(金)

「神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」(ヨブ13:15)

クリスチャンとして、私達は時に、神のもとに身を避けるが、より神に近くなるようにと、風雨にさらされるのを神が許される事がある。
クリスチャンとして忠実に信仰生活を送っていたのに、ふと気づくと、別段理由はなさそうなのに、大きな試練に会い、困難の中にいる事がある。不安、疑い、恐れに巻き混まれる。
こんなに苦しんでいるのを神は平気なのか。
神は目に留めておられる。特別は目的があるのだ。
神はヨブを何が起ろうと、神にしっかり結びついている人物だと認めておられた。圧倒されるような試練の中での、ヨブの忍耐深い信仰は、祝福を受けているから、神に仕えているだけだというサタンの主張を、粉微塵にしてしまった事だろう。
神はあなたの試練にも、同じ目的を持っておられるかも知れない。
神はサタンの前に、あなたがどんなに忠実な者かを誇っておられる。試練の時にヨブを覚えよ。神はあなたをじっと見守っておられる。


2000年12月28日(木)

『あなたがたも、自分の子がパンを下さいという時に、だれが石を与えるでしょう。』(マタイ7:9)

 息子がパンや魚を求めたときに、愛のある親なら石や蛇を与えたりしない。
主の弟子達が求める時、神は喜んで良い物を与えて下さる。
主は、天の父が弟子達の霊的な必要を満たして下さることに信頼して欲しかったのだ。
ところが時々、主がパンの代わりに石を与えて下さっているように思える事がある。しかし実際は私達が求めたよりも遥かに良い物を与えて下さっている。こんな詩がある。
「大事をなそうとして力を与えて欲しいと神に求めたのに慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。より偉大な事ができるように健康を求めたのに、より良き事ができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の目にひざまづくように、弱さを授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが願い全て聞き届けられた」


2000年12月27日(水)

「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたに身を避ける者のために、それを備えられました」(詩篇31:9)

ある婦人は、神を信じてはいたが、長い間、神を信頼していなかった。
彼女は子供の頃、父親に虐待されていたのだ。この精神的な打撃は心に傷を負わせた。自分を責め、自分が嫌で受け入れる事が出来ず、生きる価値が無いと思っていた。
結婚したが、彼女は夫の愛を信じる事が出来なかった。神の愛も受け入れられなかった。彼女をそんな辛い目に会わせた神を信頼する事が出来なかった。しかし、彼女は薬物やアルコールに逃げたりしなかった。
彼女にクリスチャンの友人が与えられた。その内の一人は牧師で、彼女を慰め励まし、助言してくれた。その時から、神の癒しが始まった。彼女は神に自分を明け渡した。
土台がガラガラと崩れたので、望みである神にすがりついたのだった。
その時、彼女は、神は彼女を傷つかないようにして下さるわけではないが、常に共にいて助けて下さる事を知った。
信頼する時初めて、神が信頼に足るお方だと知る。


2000年12月26日(火)

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさいそうすれば、見つかります。たたきなさい。 そうすれば開かれます』  (マタイ7:7)

母一人子一人で暮らしている婦人がいた。経済的に大変きびしい中にいた。
子供の誕生日が来た時、ケーキを作ったり、ご馳走を作ったりお友達を招いて、お誕生日会をする余裕が無い事を子供に正直に話した。
子供は良くわかってくれた。ただ大好物のお肉が食べたい、お肉の料理を作って欲しいと頼まれた。だが、材料を買う費用もなかった。
母親は泣き出してしまった。
しかし、神のみ前に現状のすべてを打ち明け、子供の為に肉を買うお金を与えられるように祈り求めた。
すると、すぐに訪問者があった。ちょうど親戚から肉をたくさん貰ったからと、近所の人が持って来てくれたのだ。
祈りの答えだった。神が祈りに答えてくださったのだ。
心が喜びで溢れた。
神はいつでも私達の心の叫びを聞いていてくださっている。思い煩わないで、心配しないで、すべての必要を、この神に求めようではないか。


2000年12月25日(月)

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)

あるクリスチャン夫妻が仕事の関係で、イスラエルでしばらく暮らしていた。クリスマスを聖地で迎える。それは、心踊る出来事であった。
ベツレヘムで主の生まれられた場所で、クリスマスをお祝い出来るのだ。わくわくしていた。かつて無い初めての経験に、霊的にすばらしいものになると予想していた。こんな巡り合わせに喜んだ。
そして、大きな期待を持って、聖地でのクリスマスイヴを迎えた。
その礼拝体験自体は楽しいものであったが、しかし、失望した。がっかりした。母国で与えられた霊的ビジョンに優るものではなかった。
そして、気づいた。建物や場所、備品、土地の問題ではない事を。
墓からよみがえられたお方が、そんなものに制約されない事を。逆に、
いつでも、どこでも、信じる者と共にいて下さる事に目が開かれたのであった。
いつでも、どこでも、神が共におられる。そこは聖なる場所なのだ。
飼い葉桶を宿とされた方は、今、私達を住まいとされる。


2000年12月24日(日)

『さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で、夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが…来て』(ルカ2:8)

神にまみえる最高の場所は礼拝堂であり、最高の時は礼拝中だと、
思ってしまう。
しかし、羊飼い達は羊の番をしていた。彼らが神にお会いしたのは、
仕事中であった。
夜番の仕事をしていた。すると主の栄光が当たりを照らし、輝くのを見た。
御使いは、救い主がお生まれになった事、飼い葉桶に寝ている事を告げた。
大勢の天の軍勢が現れ、神を賛美したのであった。
これを見て彼らはイエスを探しに出かけた。私達も神に出会うのは、
日常生活の平凡な仕事の中でだ。
神聖な礼拝の最中に限らず、日常生活の中で、神が見えるのだ。
神は平凡な日常にこそ共にいて下さり、働いておられる。
あなたを愛し、日々配慮しておられる。
大きな事、些細な事の中に、神は働いておられる。
仕事の中で、台所で神に出会う事が出来る。
どんな場所にも神は共におられる。心の目が開かれるように。


2000年12月23日(土)

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は・・私を導かれます」(詩篇二三・一)

イスラエル旅行をすると、よく羊飼いを見る。その
羊飼いを、しっかり観察してみると、羊飼いは一匹
一匹の羊に目を留め、迷子にならないか、ちゃんと
付いて来ているかを、絶えず確かめ、羊達に励まし
の言葉をかけながら、移動させていた。牧羊犬が羊
を追う光景も見た。主人の見守る中、犬が羊を追っ
ていたが、羊を追う事を導く事には大きな違いがあ
る事が見てとれた。その違いを見る時、信仰によっ
て人々を導く事と、人々に強制し、押し付ける事の
大きな相違が浮かんだ。言葉と手本によって、模範
によって、人々を導く事が出来る。又、人々を強制
し、無理やり従わせる事も出来る。自分の考えを押
しつけるやり方だ。主は、強制でなく押し付けでな
く、導かれる。どこまでも導かれるお方だ。私達も
人々に強制するのでなく、人々を私達が示す模範に
よって導こう。


2000年12月22日(金)

『いのちに至る叱責を聞く耳のある者は、知恵のある者の間に宿る』(箴言15:31)

「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたは後で知恵を得よう」
他人の言うことを聞く者には知恵が宿る。過ぎた飲酒や喫煙を、どれだけの人が忠告されている事か。しかし、どんなに健康を忠告されていも、決して止めはしない。同様に私達も他人からの忠告を無視するという愚かさがある。
プライドが妨げるのだ。人の忠告を受け入れるなら、自分より他人の方が立派で優秀だと認めるように感じる。だから受け入れにくい。
ナアマンもそうだった。エリシャの言う事が自分の考えと合わないので腹を立てたのだ。しかし、ついにナアマンはエリシャの指示通りに、ヨルダン川に七回浸かった。すると、らい病はきれいに癒された。
私達は自分のプライドを捨てて、人々からの健全な忠告に耳を傾ける必要がある。
神は人を通しても導かれる。へりくだって、自分にとって痛い言葉に耳を傾ける事ができるように。矯正を受ける事が出来るように。


2000年12月21日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)

 不景気の時だった。ある夫婦は会社が倒産した。夫は妻に言った。「家賃は月末分まで払い込んだ。後500円が手元に残った。これがすべてだ。これから私達はどうすればよいのだろうか。」数年間、貯金で食いつないで来た。もうその貯金も底をついてしまった。
妻は答えた。「何もかも無くなったわね。私達は出来る限りの事は、すべてして来たわ。もうどうにも出来ないわ。すべてを神様にお任せしましょう。」
 翌朝。突然連絡があり、驚くほど高い給料で仕事に迎え入れるというものだった。自分自身を無条件で神様に明け渡し、委ねた時に、神様はみわざをされた。この経験が彼らの霊的生活の転機になった。
自分自身に頼ると、失敗するが、神様に全面的に信頼する時に、守られる事を知った。窮地も神の恵み深い取り扱いであった。より深い霊的生活に成長させるために。どんな時にも、主に信頼出来るように。


2000年12月20日(水)

『あなたは右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」ということばを聞く』(イザヤ30:20)

 ある夫婦が転職を考えていた。おまけに引越しもだった。
将来を考えると妻は不安にさいなまれた。夫との話し合いの後、
夫は、すやすや眠ってしまったが、彼女は全く眠れなかった。
悶々とした時間が過ぎた。
真夜中に彼女は起き上がって、お茶を一杯飲み、心を落ちつけた。
そして聖書を開き、導きを求めて、神のみ前に心を打ち広げ、
不安と恐れをことごとく打ち明けた。
自分の人生を振り返ってみた。人生の転機の度に、門が開かれ、
奇しい神のみわざにより通り抜けてきた。経済的危機、職業選択の困難
難産、あらゆる所を通ったが、神は驚くべき恵みを下さった。
容易な道ではなかったが、そのつど、神を信頼する事を学ばせてくださった。
与えられた環境の中で、命じられた仕事をするために必要なのは、
神への信頼だけだった。自分の人生を神に信頼するなら私達は
悩む必要が無い。


2000年12月19日(火)

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」 (マルコ10:15)

ある高齢のドライバーはもう運転に自信が無くなり、
不安を感じていた。とっさの判断力、とっさの運動
神経にも不安だった。
もうなるべく運転はしないように心がけていたが、
どうしてもやむを得ない所用が出来て、少し遠方へ
運転しなければならなくなった。
孫娘が助手席に乗った。内心不安で、運転技術にも
不安で、孫娘が気がかりであった。彼女は横に座り、
終始朗らかだった。楽しげに話しかけ、ラジオを聞
いたり、景色を見たり、果ては寝入ってしまった。
彼女は一度も不安を持たなかった。祖父を信頼し
きっていて、運転技術への一片の疑問すら持たなか
った。無条件に祖父を信頼し、自らを委ねきってい
る姿を見て、彼は幼子のように信じるという新しい
洞察を得た。
自分も神様に対して、そのような信頼を持ちたいと
願った。特にこれから必ず訪れる変化を迎えるに当
たって心を備えられたいと願った。


2000年12月18日(月)

「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから」(ルカ14:17)

 あなたも忙し過ぎるだろうか。ある人も、あまりにも多忙過ぎて
次から次へと来る人々の要求に応じきれないまま一日が過ぎ去ると
いう日々だった。自分の時間などまったくと言っていいほど無かった。
スケジュールに追われていた。
疲れ果てて逃げ出したくなった。何もかも忘れたいと思うほどだった。
私達は神の御前に自分の心を静めなければならない。
神を知る事の大切な一部は、神の臨在の中に静まる事だ。
聖書に大宴会の事が出てくる。大勢の客が招かれたのに皆、
忙しくて来れなかった。ある人は牛を買ったので。
ある人は畑を買ったので。ある人は結婚したので来れなかった。
どれも悪い事ではない。スケジュールで一杯だった。
しかし、皆、宴会に出席できなかった。神は今日あなたのために宴会を
準備しておられる。
神の宴会に出席するのに必要な時間だけ割けばよいのだ。その後に、
それらの事はすればよい事だ。あなたは神の宴会、デボーションのために時間を取っているか。


2000年12月16日(土)

「人が見るようには見ないからだ。人はうわべをみるが、主は心を見る」  (Tサムエル16:7)

 林を車で走る時、色々な木々を見る。それは驚くほど多様だ。
ある木は高く、ある木は低い。真っ直ぐに伸びた木、曲がった木
色も微妙にみな違う。しかし、木はそれぞれに美しく、素晴らしい。
花々が彩りを添えている。そして、秋には見事な美しい葉をつける。
それらは、神の民に似ている。神は私達すべてを異なったものに造られた。
ある人は背が高く、ある人は低い。ある人は器用で、ある人は不器用。
肌の色も、世界中で異なる。与えられた才能も全く異なる。
大切なのは見える所で無く、私達は全員、神の似姿に造られたことである。
一人一人が独自の美しさを、この世界にもたらしている。
神は私達をありのままに愛しておられる。
不完全さをも全て受け入れてくださる。背が低くても、高くても才能が
どうであれ、私達はありのまま、そのまま神に愛されている。


2000年12月15日(金)

「私の兄弟たち。誰かが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう」(ヤコブ2:14)

小さな女の子が縄飛びをしていた。縄と足で地面
をリズムよくたたいていた。しかし、近づくと、
飛んではいなかった。縄を両手に持って、縄は動
かさず、その場で跳んでいるだけだった。遠くか
ら見ると、縄を跳んでいるかのように見えたのだ
った。歩きながら、信仰を当てはめて考えていた。
信じていると言っても、実際行なわければ、これ
と同じ事ではないか。聖書を読んで、祈りもする
が、必要な行ないをして行けていない。つい先日
も4人の子供の母親が育児の助けのために、祈っ
て欲しいと頼んで来た。祈る事をすぐ約束した。
しかし、自分自身の忙しさにかまけて、その母親
が少しでも時間が持てるよう、子供達を預かると
か、具体的な事を何もしていない自分に気づいた。
信仰深い生活をしているように、見えるだけだと
気づかされた。行ないをもって、神様に従って
行けるよう、みこころを行なって行けるように。
今日、聖霊が、あなたに行なうように、望んでお
られる行ないは何か。


2000年12月14日(木)

「ここのユダヤ人は、果たしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)

車を運転している時、経験した事があるかもしれない。
信号で停車し、前に車が止まっている時、前の車が動き出したら、
無意識に動き出してしまう。信号を確認しないまま、盲目的に
前の車について行く。重大な事故を起こすかもしれない。
この事はいろいろな事に適用できる。
聖書に似かよって、見分けのつきにくい異端。紛らわしいほどに
似ている。また聖書のことばを巧妙に解釈を変えて、違った方向へ導く
宗教的リーダーがいる。それはダイナミックな人物であり
魅力的な話し方をするかもしれない。
自分自信で考えることなく、鵜呑みにしてしまう。
気づかないまま間違ったものを信じてしまう。
唯一の真理である聖書にしっかり立たねばならない。
御言葉に照らして吟味しなければならない。
真のかしらに従っている、教師に従うのは良い事だ。


2000年12月13日(水)

「穏やかな舌はいのちの木」(箴言15:4)

ある新聞の死亡記事に、こんな記事があった。「愛
想の良い修理屋の召天式は今日」。社会を動かし、
影響を及ぼす人物について注目するのでなく、その
記事は、誠実さと人柄と何があっても幸せである事
を知られた高齢の修理工について語っていた。その
会社の社長は話した。「彼の仕事は人々の家に行き
器具類を直す事だった。しかし、彼はむしろ、人々
を直していた。彼を指名して来るお客さんが沢山い
た。それも困った時に。彼は明るく、親しみがあり、
その言葉はいつも親切だった。その言葉は人を癒し
た。私達は色々な仕事に就いているが、最も大切な
仕事は、特に言葉によって人々を慰め、励ます事だ。
しんげんはよく傷つけたり、癒したりする舌につい
て語っている。私達は今日語るすべての言葉を通し
て、キリストを表わしている。不注意な言葉は人を
傷つけ、争いを引き起こす。愛に満ちた言葉は、人
を癒し、建て上げ、新たな生きる力を与える。


2000年12月12日(火)

「あなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます」(詩篇139:10)

ある夫妻は、行った事の無い所へ旅行するのが特に気に入っている。
ある田舎道をドライブした時は、目を見張る紅葉の風景に、道を曲がる
度に、わくわくした。赤、黄、オレンジと素晴らしい光景が次々と
目の前に現れた。次に何が表れるかわからないからこそ旅は魅力的だった。
キリストと共に歩む人生は多くのわくわくさせる事があるが、
それは私達が次ぎに起こることを知らない事による。
時に、がたがた道や、ねじれた道、曲がり角で、不愉快な思いをするかも
知れないが神は、御自身のみこころの道へ、望む所へ私達をご自由に
お導きになる。
パウロは宣教途上、進路を変更せねばならなかった。
「マケドニヤに渡って来て、私達を助けて下さい」との幻を見た時だ。
神が何を望んでおられるかを、祈りを持って待ち望む時、聖霊によって
日々導いてくださる神が愛によって計画されている、あなたの道がある。
その道を歩め。


2000年12月11日(月)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです」(Tヨハネ5:3)

自分の気持ちを言い表す時に、一番正直なのは、
子供だあろう。ある父親が小さな子供を従わせ
ようと必死だった。どうして言う事を聞かなか
ったのかと、聞かれた時、少年は答えた。「
パパ、僕はただやりたくないんだよ!」クリス
チャンである私達も同様だ。しかし、こんなに
素直ではない。本当はただやりたくないなけな
のに、神のみこころに従わない言い訳をする。
ある人は、聖書を読む事、祈る事がなかなか出
来なかった。時間が無いからだと思っていた。
後に、彼は田舎に移り住んだ。期待に胸が膨ら
んだ。自然が素晴らしいからではなく、山のよ
うな時間が出来たからだった。しかし、時間が
出来たのに、聖書を読み、祈る事をしなかった。
本当の問題は、ただそうしたくなかった、と言
う事だった。それに気づき、神をなおざりにし
て来た事を、悔い改めた時、虚しい心を赦しの
愛で満たして下さった。その時、神への愛を新
たにされ、神のみこころを行えるようにして下
さった。


2000年12月10日(日)

「ヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとし、立った。」 (ヨナ1:3)

ヨナはニネベに行きたくなかった。神の命令に従ってニネベに行かず、
船場で反対方向の船に乗った。
神学校で、ある同級生は牧師になるよう、神は求めておられた。
しかし、彼はもっとおもしろい刺激のある事がしたかった。
退屈で平凡な事は、嫌いだった。
卒業の時、証券会社の職が持ち上がった。
彼はそれに惹かれ、そちらの道に進んだ。
投機のプロとして成功した。最近出会った彼は、神に従わなかった
事を後悔していた。いつか神の働きに戻りたいと言った。
彼が神から逃げようとした時、「金儲けの機会」という船がちょうど
そこにあった。そこに飛びのりそして、人生を無駄にしてしまった。
あなたは神から何かの導きを受けているか。
その導きに従え。一人一人にそれぞれのみこころがある。
「はい」と従え。反対方向の船に乗ってはならない。
後悔する。神に従う道を選ぶなら決して間違いがない