2001年09月30日(日)

「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから」(イザヤ41:13)

ある女性が鬱病になって、苦しい
状態にいた。家を出る事ができず
人にも会えず、郵便物も見れず、
風呂にも入れなかった。何をする
気力も無かった。しかし、ふとした
時に「恐れるな。わたしがあなたを
助ける」との御言葉が心深く入る
のを感じた。その御言葉を繰り返し
繰り返し口ずさみ、心で反芻し、心
の思いとして行った。そして、日常
生活のなすべき事をしようと決心
した。すると、不思議な事が起きた。
神にはおできになると信頼して、
御言葉を信じて立ち上がると、家
事ができたのだ。一つ、又一つと
行なう力が与えられたのだ。神に
目を向ける事が回復の始まりに
なった。薬も効き目があるが、神
への信頼は大きな力だ。今、唇
に賛美が与えられて、神に頼り
ながら一つ一つ行動を助けられ
ている。神に拠り頼み、神の力に
よって新しい歩みを見い出す事が
出来る。


2001年09月29日(土)

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています」(ヨハネ10:27)

ある人が田舎で種々の小鳥の声
に興味を持ち、その鳴き声を研
究した結果、小鳥の種類を聞き
分けられるようになった。私達
クリスチャンは神のみ声を聞き
分けることができると神は言わ
れる。祈りによって可能だ。
神のみこころを知りたいと祈り
求め、耳を澄ましているなら、
必ず御声が聞こえてくる。答え
を下さる。礼拝メッセージ、
デボーション、学び会、信仰書
他の信者、静かな祈りの中で
思いにのぼる・・色々な方法
で必ず示して下さる。しかし、
あなたは忙し過ぎないか。余り
にもこの世にどっぷりと浸かっ
ていないか。心が鈍くなってい
ないか。そのため聞こえにくく
なっていないか。この世の騒音
に御声がかき消されるのを、あ
なたが許していないか。神は
常に語りかけておられる。問題
は聞く側にある。


2001年09月28日(金)

『もし「なぜそんな事をするのか」という人があったら「主がお入用なのです」と言いなさい』(マルコ11:3)


 イエスが宣教活動をされる間、普通の人々
が提供する多くのものを必要とされた。
ペテロは説教のためにボートを提供した。
マルタとマリヤはもてなしを提供した。
マグダラのマリヤやヨハンナやスザンナは経
済的サポートを提供、一人の青年は弁当を提
供し、シモンは十字架を担い、ヨセフは墓を提
供した。あなたは、イエスがご入用の時に何を
提供できるだろうか。イエスは家庭集会のため
に家を必要としておられるだろうか。
兄弟姉妹のために送迎の車を必要とされている
だろうか。
宣教のための献金だろうか。一人住まいのご老
人を訪問する事だろうか。悩みを聞いてあげる
耳だろうか。苦しみを理解してあげようとする
心だろうか。今日、主はあなたに何を提供する
事を望んでおられるか。祈り求めよ。そして、
あなたは主に何を差し出す事が出来るか。


2001年09月27日(木)

それで、あなたは・・・きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)


 一人の婦人が次々と厳しい試練に襲われた。
自分の人生が崩壊して行くように感じられた。
あまりの事態の大きさに、身体も壊し病気にな
てしまった。すべてに混乱し、怒りと不平と不
満、愚痴しかなかった。周囲の心遣いや愛嬢に
も心を閉ざし、自分の殻に閉じこもった。
しかし、心は虚しく孤独で、そんな事をしてい
ても何も変わらなかった。婦人の交わりに招か
れていた。意を決して行ってみた。
霊的に成熟した人々との交わりと祈りの中で、
自分が癒されて行くのがわかった。聖書の学び
と祈り、交わりのお陰で、苦しみを乗り越える
事が出来、成長へと導かれた。
神の御心は、主を求める人々と共にいることだ。
あなたは一人では信仰生活を送れない。
きよい心で主を求める人々と共にいる必要があ
る。その中でどんな試練の時も必ず乗り越え成
長して行く。あなたは主を求める人々と共にい
るか。


2001年09月26日(水)

「それで、あなたは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)

一人の婦人が次々と厳しい試練
に襲われた。自分の人生が崩壊
して行くように感じられた。余
りの事態の大きさに、身体も壊
し病気になってしまった。すべ
てに混乱し、怒りと不平と不満
愚痴しか無かった。周囲の心遣
いや愛情にも心を閉ざし、自分
の殻に閉じこもった。しかし、
心は虚しく孤独で、そんな事を
していても何も変わらなかった。
婦人の交わりに招かれていた。
意を決して行ってみた。霊的に
成熟していた人々との交わりと
祈りの中で、自分が癒されて行
くのがわかった。聖書の学びと
祈り、交わりのお陰で、苦しみ
を乗り越える事ができ、成長へ
と導かれた。神のみこころは、
主を求める人々と共にいる事だ。
あなたは一人では信仰生活を送
れない。きよい心で主を求める
人々と共にいる必要がある。
その中でどんな試練の時も必ず
乗り越え、成長して行く。あな
たは主を求める人々と共にいる
か。


2001年09月25日(火)

 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(詩篇23:2)


 ある掃除好きの婦人がいた。家が綺麗に
片付いていないと、どうしても気が済まな
い。気になるとそれしか頭になく、猛然と
掃除に取りかかるのであった。
家中をピカピカに磨き上げるまで綺麗にし
た。ある時は、朝起きるとすぐ窓拭きや床
磨き、時に、夜を徹してありとあらゆる所
を掃除した。家が綺麗でないとイライラし
て落ち着かず平安が持てないでいた。
それで平安を得るために常に家事をしてい
た。歳と共に、身体が思うように動かなく
なった。今まで出来ていた家事が不可能に
なった。心が焦り苛立ち、落ち込み掛けた
時、神は語りかけて下さった。家の中の状
態よりも心のあり方が大切だと。
神様との関係が第一に大切だと。真に重要
なものに焦点を合わせて下さった。家事が
思うように出来なくとも、平安に喜びと落
ち着きを持った信仰生活が与えられる。


2001年09月24日(月)

「だから、あすのための心配は無用です。あすの事はあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」(マタイ6:34)



 夫を亡くした婦人が、聖書日課とその解き明かし
の文章が、一日一日生きて行くその日の糧となった。
日毎の霊の糧に励まされ一日一日を生きて言った。
今日という日は神からの贈り物であり、昨日にしが
みつくのではなく、今日をしっかり生きようと励ま
されていた。明日の事を考えても、明日があるかど
うか分からない。確かな事は今日という日がある事
だ。婦人は結婚生活の素晴らしい思い出はあるが、
過去にしがみついたり、明日に生きれない事をよく
わかっていた。人生は一日単位であり、その日一日
を生き、最善を尽くす事が自分に与えられた責任だ。
神はどんな時にも思い煩わないで、祈れと言われる。
一日を生き始めた時、新たな人生を築く事が出来、
大きな目標を達成する事が出来た。私達は今日を生
きているか。これは大切な事だ。多くの人は過去か
未来に生きて、今日をつぶしてしまっている。


2001年09月23日(日)

「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に及んで、感謝が満ち溢れ神の栄光が現れるようになるためです」 (Uコリント4:15)

ある夫婦が大変な経済的危機に
陥った。どちらも働いていたが、夫
の会社は倒産し、妻は人員整理で
解雇されてしまったのだ。同時に
起こった事だった。夫妻は途端に
困窮した。しかし「すべての事は
あなたがたのためであり・・」
と神は励まして下さった。感謝が
満ち溢れ神の栄光が現われる
ようになると、信じて前向きいなれ
た。その年も翌年も、夫妻は経済
的に大変な所を通り続けた。数年
後、夫婦共に再び定職に就く事が
出来て、経済的に落ち着いて来た。
そして、その経済的苦難の期間
を振り返った時、大きな恵みに
気づかされた。神様に拠り頼む
事を通して信仰の成長が与えら
れ、更に神様との関係が近くさ
れ、神様への愛を大きくされてい
た。神を喜ぶ者に変えられ、心
に喜びが満たされていた。その
試練に心から感謝する事が出来
た。神は必ずすべての事を益と
して下さる。あなたの今の問題
は祝福に変わる。


2001年09月22日(土)

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)

エリヤは精神的に疲れ果てていた。
カルメル山で偶像の戦いをし、極限
まで疲労した。イゼベルが命を狙って
来た。もう精神的に肉体的に限界だ
った。そんなエリヤを神は決して責め
られないで、食べて眠りなさいと休息
を与えられた。ある婦人は女手一つ
で小さな子供を育てていた。働きづ
めで、家事と育児に幾ら時間があっ
ても足らなかった。身体が疲れ果て
もうどうにもならなかった。ある日、
仕事を休み、休息を取る事を決め
た。家事も雑用も一切せず、静かに
聖書を読んで祈った。子供に聖書
絵本を読んで、神様の事を話した。
心に潤いが溢れ、平安に包まれた。
神が共におられる事を感じた。新
しくされ、強められた。又、神様へ
の愛と人々への関心が心に戻って
来た。私達は体力的にも精神的
にも限界がある。主が弟子達に寂
しい所へ行って休みなさいと言われ
たように、しばしば休息が必要で
ある。日常の仕事を置いて神と交
われ。


2001年09月21日(金)

  「わたしは彼を退けている人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る」(Uサムエル16:7)


 一人の女性は常に自信がなかった。自分の
価値を試そうと無駄な努力を続けていた。
実現不可能な高い理想を掲げてしまうのだ。
いつも挫折の連続だった。それでいつも自分
はだめで、人生の落伍者で惨めだった。そん
な中、聖書の学びから大きな慰めと励ましを
得た。多くは相応しくない人々だった。アブ
ラハムは自分を守るために妻を妹と偽り、
ダビデは姦淫と殺人を犯し、ヤコブは陰険な
陰謀で父と兄を欺き長子の権を自分のものに
した。ルツは異邦人だったし、モーセは口下
手で話す事が出来ない指導者だった。ペテロ
は一回の漁師だった。。人を作り変え、建て
上げるのは神のみわざでありそれは奇跡だ。
皆弱い。ただの人に過ぎない。ペテロを岩の
ごとき信仰の人とすると約束され、そのよう
にされた神は、あなたも造り変え、神に役立
つ器と必ずして下さる。弱いあなたをそのま
ま神に余すところなく明け渡す事だ。


2001年09月20日(木)

「主がナタンをダビデのところへ遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」(Uサムエル12:1)


 ダビデは御心をそれて大きな罪を犯し
てしまった。バテシバと姦淫をし、その
夫を殺害してしまった。神は黙っておら
れなかった。預言者ナタンを遣わし、ダ
ビデの罪を指摘させた。ダビデは罪を示
され、心を刺され悔い改めた。
私達も御心をそれる事がある。自分の好
きな道、思い通りの道に行きたくて、神
の道からそれる。知らず知らず迷い道に
入りこむ。神の御心から外れる。しかし
神はあなたを愛しておられ、見捨てられ
ない。神はあなたに牧師、導き手、信仰
の友、教会の兄弟姉妹を送られる。
彼らを通して神はあなたに忠告される。
あなたに今、忠告者が送られているか。
彼の声に耳を傾けよ。神からの御声だ。
彼らは再び、あなたが神の御心の中心へ
と戻るのを助けてくれる。あなたは道を
それていないか。礼拝でのメッセージ、
学び会での御言葉、あらゆる事を通して
神はあなたに語りかけておられる。


2001年09月19日(水)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされないのです」(詩編102:17)


ある婦人が熟年に達した時、身体の
ために運動を始めた。サイクリング
同好会に参加し、だめだったら引き
返そうと、いつも皆の一番後部を走
っていた。ある日の走行は長距離
だった。一人で帰れないので、置い
て行かれないようにと必死について
行った。折り返し点まで到着し、
もうクタクタだった。帰りは強風に
向って漕がなければならない。
もう身体は限界で足も動かなくなり、
心臓も高鳴った。「神様、風を静め
て下さい。進めません」と祈った。
すると、風は更に強くなった。又、
祈った。「助けて下さい。もう走
れない。」すると、もっと風が強
くなった。突き進む以外に道はな
く、祈りに祈りながら必死で突き
進んだ。すると完走できたのだ。
神は祈りに別の形で答えられたの
だ。状況を変えるのではなく、漕
ぐ力を与えられた。しばしばあな
たの祈りに形を変えて答えられる。
よく答えを見張れ、彼女は達成感
と充足感を与えられた。最善に
答えて下さった。


2001年09月18日(火)

「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇40:2)


 一人のクリスチャン男性が仕事にのめり
込んで行った。野心があり、仕事でどうし
ても成功したかった。仕事上の犠牲はいっ
さいいとわず、帰宅は毎日深夜だった。
家族との交わりはほとんど無かった。
しかし、仕事での成功が誇りであり、すべ
ての時間と労力を使う事も誇りであった。
優先順位の第一番目になっていた。ふっと
時間ができた時、不安と虚しさが襲ってき
た。家族とは隔たりが出来てしまっていた
しかし、別の声を聞きたくなかった。
自分の道を突進した。そんな時病で倒れた
静かな時間が与えられた時、自分の間違い
にはっきりと気づいた。悔い改め、神に立
ち返る事が出来た。病気は自分の姿に気づ
かせ方向変換させてくれた。将来を見据え
る助けにされた。神は人生で何が大切かを
見せられた。再び職場に復帰し、労働時間
を減らした。第一のものを第一に、優先順
位が変えられて新しい歩みが始まった。


2001年09月17日(月)

  「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって」(Uテモテ4:3)


「聖書はすべて、神の霊感によるもので
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有
益」とあるが、一人の婦人が今までの聖書
の読み方の間違いを正された。
彼女は自分勝手に聖書を読んでいた。
自分の好きな箇所だけを毎日読み、痛い所
都合の悪い箇所はすべて飛ばして読んでい
た。聖書を自分勝手な信仰を支えるために
用いたので、聖書から何も教えられないし
戒められる事も、矯正される事も訓練され
る事も何も無かった。自分の都合の良いよ
うに読んでいただけだった。「聖書は霊感
を受けて」いる事に目を開かれ、御言葉を
自分に合わせるのでなく、自分を御言葉に
照らし出していた。自分の態度が変わった
時、御言葉は生きたものとなった。罪を気
づかせ、神の約束を与え、指針を示し、模
範を示してくれた。自分が変えられるよう
祈り始めた。自己中心の自分ではなく神中
心へと成長させて下さっている。


2001年09月16日(日)

「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い公正を求め・・」 (イザヤ1:16)

日曜日、クリスチャン達は教会へ行く
だろう。多くのクリスチャンに、それは
習慣であるかも知れない。しかし、教
会へ行って礼拝しようという努力が無
駄になる事があり、虚しい事がありう
るのだ。アモス5:では、不敬虔な生き
方のままで礼拝しようとする人々に、
主が厳しい言葉を語っておられる。
民は偽りの神に従って、神を怒らせて
いた。彼らが礼拝しにやって来た時、
神はその偽善を嫌われた。神は民
が礼拝する前に悪事をやめ、善を
なす事を習い、公正を求めるべきだ
と教えられた。私達は神を礼拝す
る前に、罪を告白し赦しを求め、神
に仕えて心を整えなければならない。
日々神と共なる歩みとみこころへの
従順が礼拝への備えとなるのだ。
新しい1週間が始まる時、悔い改め
ず過ぎた1週間の罪を持ったまま
始めるか。礼拝で罪を清算し、罪の
赦しに感謝して新たに踏み出すか。


2001年09月15日(土)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」(ピリピ3:12)


「急いで!」「早く!」「早くしなさい!」
「遅れるよ!」これらの言葉が何としば
しば口をついて出る事だろう。私達の余
裕の無い生活を表わしている。いつもイ
ライラと急いでいる。パウロは成長は一
生かかると言っている。成長はせかされ
るものでも、焦るものでもない。神は聖
徒をお造りになるのに時間をかけられる。
クリスチャンの成長は、進んで行くもの
なのだ。こんな言葉がある。「熟してい
ない果物は、神が熟させていないから食
べるいは早い。しかし、成長途上にあり、
それはそれで良いのだ」あなたは霊的成
長に失望したり、苛立ったりしているか。
神はあなたを完成されていないし、天国
に入るまで完成されるとも思っておられ
ない。しかし、更に親しくキリストを知
り、キリストのように形造られて行くの
がこの人生における目標だ。必ずゆっく
りだが確実に神はあなたを完成へと導い
て下さる。


2001年09月14日(金)

「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)


 飼い主が犬をしつけたい時に説得しても
無駄である。よくない事をした時は罰を与
えてしつける必要がある。しかし、私達と
神との関係はそうではないはずだ。
信頼関係にあるはずだ。だがもし神の子
達が従わなければ、神は懲らしめを与えら
れる。神は神に対する愛のゆえに私達に従
って欲しいと願っておられる。
自発的自由意志で従って欲しいと思ってお
られる。私達に不従順がある時、神は私達
にわかるやり方で懲らしめられる。
犬は罰を与えられるから、飼い主に従う。
私達はどうか。罰を与えられるから、従う
ことも出来るし、神を愛して喜ばせたいか
ら従うことも出来る。あなたの動機はどち
らだろうか。私達は、神を愛しているとい
うが、神を愛するとはみこころに従う事だ
あなたは御心に従う心構えがあるだろうか
神の言われる事に従う事それこそが、神へ
の愛を示す事になるのだから。


2001年09月13日(木)

  「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねをおって働きなさい」(エペソ4:28)

  
 神のかたちに造られた私達に「地をはうすべての
生き物を支配せよ」と神は言われた。
地を管理する仕事を神は与えられた。私達自身のた
めに、また、家族を養う為に自分の手で働く事を神
は命じておられる。「落ち着いた生活をする事を志し
自分の仕事に見を入れ、自分の手で働きなさい」仕事
は神の与えた祝福である。
正しい態度で行われるなら、楽しく価値あるものだ。
私達は勤勉に働き、神は真実に養って下さる。
あなたの仕事は何か。何であれ勤勉にまた、喜んで行
おう。仕事は呪いと思っている人があるが、決してそ
うではない。神が骨折って働きなさいと命じておられ
る。そうするなら、あなたは喜びを見い出し、神の恵
みを経験する事になる。神があなたに与えて下さった
仕事にあなたが全力を尽くす事を望んでおられる。
仕事に身を入れて働くなら、外の人々に対してもりっ
ぱにふるまう事が出来る。


2001年09月12日(水)

「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)

こんなよく知られた話がある。建築
中の高い建物の上から、下を歩いて
いる人にすぐに知らせなければなら
ない事態が生じた。道路は騒音で、
人に呼びかけても聞こえなかった。
それで、硬貨を落としたが、歩いて
いた人はそれを拾うと去ってしまっ
た。何度か失敗したが、結果は同じ
だった。それで、彼は仕方無く大き
くない危険でない程度の石を下に落
とした。その石は一人の男に当たり
彼は上を見上げた。かくして作業員
は紙を落とし事態を知らせた。同様
に神は私達に上を見上げさせるため
に石を落とされる。ちょっと痛い経
験を与えられる。経済的損失、病気
倒産、対人関係の困難・・。私達の
関心が地上の事のみに注がれている
時、神がご自身に目を留めさせられ
るためだ。放っておかれたら私達は
この世にまみれ、流されてしまう事
になるだろう。あなたは優先順位が
狂っていないか。第一のものを第一
に!仰向けに倒されない限り、上を
見上げようとしない。


2001年09月11日(火)

  「もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです」(ヨハネ16:7)

  
 もしイエスがこの地上にずっとおられたら
どんな事をされただろう。よみがえりの主は
栄光の体を持ち、物質を超越されているから
閉じた戸を自由に通り抜けられた。思いのま
ま好きな所へ行かれた。教会に突然現われ、
もめ事を仲裁されたり、国家間の争いに助言
されたり、中東紛争を解決されたりしたかも
知れない。
しかし、神は更によい方法を選ばれた。
イエスがされずに残された仕事を果たすべく
聖霊を送られたのだ。イエスは同時に複数の
所にいることは出来ないが聖霊には可能だ。
聖霊イエスを信じない罪について悟らせる事
が出来る。信じるように促す事が出来る。
イエスの素晴らしさを教える事が出来る。
一人一人に指針を与え、進路を示し導く事が
出来る。聖霊が来るために主イエスは一時地
上を離れなければならなかった。
今、聖霊が私達のために働いておられる。
その導きに従おう。


2001年09月10日(月)

  「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」(詩篇119:15)


 牛が反すうするのを見た事があるだろうか。
牛はまず自分の胃を草やその他の食物でいっ
ぱいにする。それから良く時間をかけて噛む
事に取りかかる。胃から口に戻して噛み、
栄養を十分に吸収し、美味しいミルクに変え
るのだ。大変な時間はかかるがよいミルクを
出そうとするなら有効な時間だ。
反すうするとは思い巡らす事にも使われる。
詩篇の記者は神の言われる言葉を読む時、あ
きらかに心で反すうしていた。何度も何度も
思い巡らし、瞑想した。注意深く祈り深く読
むなら、罪に対して強められ、神について更
によく知る事を喜びとし素晴らしい霊的な真
理を見つける。そして、日々の生活のための
助言を得る。御言葉に思いを潜めるとは、日
々の生活に聖書を適用することだ。
御言葉を時間をかけて、ゆっくり噛み締めよ
う。思いを巡らし、行きつ戻りつ反すうしよ
う。聖書は軽食ではない。じっくり味わうも
のだ。


2001年09月08日(土)

「だれでもキリストのうちに、あるなら、その人は新しく造られた者です」(Tコリント5:17)


最近、自分をあるがまま受け入れない
ところから、問題が生ずるという考え
方がある。確かに、自尊心が低すぎる
と、能力や勇気や対人関係に問題が出
て来る。しかし、根本的な問題はそこ
ではない。別な所にある。エバが善悪
を知る木の実を食べてしまったのは、
自分をあるがまま受け入れていなかっ
たからか。明けの明星が神にそむき天
から落ちたのは、劣等感を持っていた
からか。それともサタンの誤った自尊
心のゆえか。実は根本的な問題は聖な
る神に対する罪だ。私達が良くなって
行くためには、とことん悪い者である
事に気づく必要がある。子供の頃の環
境があわれむべきものであったとして
も、環境のせいにするのは間違ってい
る。私達は皆、罪を犯し、新生の必要
を認めなければならない。自分自身に
ついて一番正しい自尊心を持つ唯一の
方法はイエスがあなたのためにして下
さった事を受け入れること。自分を受
け入れるにはキリストの内にある自分
を思え。


2001年09月07日(金)

「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、我らの避け所である」(詩篇62:8)


 ダビデの敵が彼を王位から蹴落とそうと企んで
襲って来た。さぞ彼は恐れ不安に成ったことと思
う。しかし彼は自分の魂は神の御前で静かに落ち
着いていたと証している。そんな混乱と騒ぎの中
で、どうして平静で落ち着いていられたのだろう
か。ここに秘訣がある。
彼は神の御前に自らの不安、恐れ、思い煩い、何
もかも打ち明け、心を注ぎ出したのだ。
ある人が非常な悩みの中で落ち込み、気力を失い
疲れ、成すすべなく途方に暮れていた。
神に不平不満つぶやきをぶつけ出した。
突然「神様赦して下さいあなたをまるでカウンセラ
ーのようにしています」しかし、心の思いはほとば
しり出て神にぶつけざるを得なかった。
すると神は「私はあなたの偉大なカウンセラーだよ」
それなら、神に訴えてよいわけだ。すると問題のま
っただ中で心に平安が来たのだ。心を神に注ぎ出す
時は、神は平安で満たして下さる。あなたも神に心
を注ぎ出せ。


2001年09月06日(木)

 「聞くに早く、語るには遅く、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19)


 なぜ怒るに遅くしなさいと言われているか。
その最たる理由は神ご自身が怒るのに遅い方だ
からだ。そして私達の人生の目標は私達の内に
キリストに似た性格が形造られる事であるから
だ。怒りが起こった時は悔い改める事だ。
神に対して自分の思い通りにならないゆえに抱
いた怒りを告白し悔い改めるのだ。
神に対する不信仰を悔い改めるという事だ。
あなたの怒りが神と周囲の人に害毒を流してし
まったことを悔い改めよ。
これは見えるところによらず、信仰によって歩
むよう委ねる事を意味する。これは、神を求め
る者には報いてくださるお方である事を例え物
事が思うように行かない時でも信じる事を意味
する。怒りやすい自分が変えられるのは御霊と
神の御言葉の影響に自分を委ねて行く時だ。
御霊に導かれると、自分の内に新しい自制心が
育まれている事に気づく。
そして御霊に支配される時、罪に対する正しい
怒りを持つ者とされる。


2001年09月05日(水)

「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことであって、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)

様々な感情に振り回されそうになる時、
どう対処すれば良いのか。まず、その
感情を認めよ。そんな感情は無いとい
う振りをしてはいけない。自分自身と
神に正直であれ。自分の感情を神に告
げよ。詩編でダビデが自分の怒りや不
安や恐れをそのまま神に告げているよ
うに、神に告げよ。そして、根本的な
思考パタン、考え方を変える必要があ
る。それらの思いの根は、感情ではな
く、神についてどう考えるかなのだ。
するべき事は、うわべの感情を取り扱
う事ではなく、考え方を変える事だ。
聖書は心の一新によって、自分を変え
よと勧めている。考え方を新たにする
なら、感情も自然に変わる。私達の幸
せが神の御手の中にある事とするか、
環境や他人によると考えるかは、基本
的要素だ。問題は、あなたの発想、思
考パタン、考え方が根本的に変えられ
なければならないということだ


2001年09月04日(火)

 「わたしがそれを望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ1:22)

 
 すべての人は平等に造られているから
皆、基本的人権を有するという主張は、
誰でも喜んで同意し賛成するだろう。
しかし、すべての人が同じではないし、
一人一人の人生は同じでない事を受け入
れる必要がある。人生の不公平は至る所
に見られる。重度の障害を持つ人もいれ
ば、不自由のない人もいる。大酒飲みが
長寿を全うしていれば、小さな子供が病
で亡くなる。一生懸命働いても貧しい人
もいれば資産家に生まれる人もいる。
イエスがペテロに殉教すると言われた時
ペテロはヨハネはどうかと聞いた。
同じでないと不公平に思ったかもしれな
い。しかし、主はヨハネがどうなろうと
ペテロに全く関係ないと答えられた。
神の主権のうちだ。
ペテロのすべき事は神に従うことだ。
他人を見て不公平を感じる時、見方を変
えイエスを見て、イエスに従え。
人を見れば不満だらけだが、神を見れば
必ず満ち足りる。
 


2001年09月03日(月)

「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」(ルカ21:3)


 このやもめの銅貨二つは今日に至るまで増え続け
ている。多くの神の民がこの婦人の献げ物によって
どんなに励まされ力づけられ模範に習う者となった
かは天国に行って初めてわかるだろう。
ある人にとっては、もっと金銭を献げるよう励まさ
れチャレンジを受けた事だろう。ある人にとっては
キリストのために自分自身とその時間、才能を献げ
る事だったろう。数え切れない多くの人々がこの自
己犠牲の婦人から益を受けてきた。
永遠の価値だ。ひどく貧しいクリスチャンが犠牲的
に主への愛のゆえに持っているものを献げる時、天
に投資する事になる。また、さして才能のないクリ
スチャンが自分自身を献げる時も同じだ。
神は喜んで受けとって下さる。わたし達小さな者が
キリストのために果たす役割を過小評価しないよう
にしよう。真の億万長者は天国へ行ってはじめてわ
かる。一億円献げられなくても、やもめの銅貨は献
げられる。額より動機が遥かに大切。


2001年09月02日(日)

「人々が私に「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ」(詩編122:1)


教会から文句を言いながら出て来る
人がいるなら、多分その人自身が問
題だ。私達が祝福を期待して礼拝に
集いたいのなら、なすべき心の備え
がある。それは神が自分に語って下
さっている御言葉を聞きたいという
心の態度だ。主よ、お語り下さい。
しもべ聞きますとのへりくだった態
度があれば、神は必ず牧師を通して
あなたに語って下さる。そして、心
満たされて教会から出て来る事だろ
う。しかし、義務感で教会へ行き、
求めもなく、批判的態度なら、あな
たは必ず手ぶらで帰るはめになる。
神の家は賛美と祈りの場だ。そこで
あなたの霊をきよい思いで満たし、
神の前にひれ伏せ。霊的に養われた
ければ、教会へ行くことだ。それも
単なる義務感でなく、御言葉を慕い
求める心を持って。必ず神はあなた
に御言葉を与えられる。その御言葉
はあなたの血となり、肉となり、あ
なたを培う。御言葉をしっかり求め
て教会へ行け。


2001年09月27日(木)

  「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)

  
 スポーツ選手がグランドで一人で練習し
ていた。短距離の力走を何度も繰り返して
いた。朝だったので、グランドの周囲に人
はいなかった。それで、集中して自分の練
習が出来た。最後の練習を終えた時、グラ
ウンドから拍手が聞こえた。
近くの小さな女の子が練習を見ていたのだ
その事を通して信仰生活の証について教え
られた。自分が気づかない時でも人々は私
を見ている。取るに足らないような行動の
中でも、私達は神を表わす事が出きる。
私達の信仰を反映するように行動する事が
大切なのだ。キリストが私達の模範である
ように、私達は他の人々の模範だ。
人々は私達がどのように生きているかを見
ている。どんな些細な事でもその人達に影
響を与える。私達が日毎の生活で、御言葉
を生きる事だ。御言葉に従う事だ。
そうするなら自然に周囲への証しとなる。
人々はあなたをよく見ている。キリストに
従う事だ。