2001年09月30日(日) 「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから」(イザヤ41:13)
「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから」(イザヤ41:13)
ある女性が鬱病になって、苦しい 状態にいた。家を出る事ができず 人にも会えず、郵便物も見れず、 風呂にも入れなかった。何をする 気力も無かった。しかし、ふとした 時に「恐れるな。わたしがあなたを 助ける」との御言葉が心深く入る のを感じた。その御言葉を繰り返し 繰り返し口ずさみ、心で反芻し、心 の思いとして行った。そして、日常 生活のなすべき事をしようと決心 した。すると、不思議な事が起きた。 神にはおできになると信頼して、 御言葉を信じて立ち上がると、家 事ができたのだ。一つ、又一つと 行なう力が与えられたのだ。神に 目を向ける事が回復の始まりに なった。薬も効き目があるが、神 への信頼は大きな力だ。今、唇 に賛美が与えられて、神に頼り ながら一つ一つ行動を助けられ ている。神に拠り頼み、神の力に よって新しい歩みを見い出す事が 出来る。
2001年09月29日(土) 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています」(ヨハネ10:27)
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています」(ヨハネ10:27)
ある人が田舎で種々の小鳥の声 に興味を持ち、その鳴き声を研 究した結果、小鳥の種類を聞き 分けられるようになった。私達 クリスチャンは神のみ声を聞き 分けることができると神は言わ れる。祈りによって可能だ。 神のみこころを知りたいと祈り 求め、耳を澄ましているなら、 必ず御声が聞こえてくる。答え を下さる。礼拝メッセージ、 デボーション、学び会、信仰書 他の信者、静かな祈りの中で 思いにのぼる・・色々な方法 で必ず示して下さる。しかし、 あなたは忙し過ぎないか。余り にもこの世にどっぷりと浸かっ ていないか。心が鈍くなってい ないか。そのため聞こえにくく なっていないか。この世の騒音 に御声がかき消されるのを、あ なたが許していないか。神は 常に語りかけておられる。問題 は聞く側にある。
2001年09月28日(金) 『もし「なぜそんな事をするのか」という人があったら「主がお入用なのです」と言いなさい』(マルコ11:3)
『もし「なぜそんな事をするのか」という人があったら「主がお入用なのです」と言いなさい』(マルコ11:3)
イエスが宣教活動をされる間、普通の人々 が提供する多くのものを必要とされた。 ペテロは説教のためにボートを提供した。 マルタとマリヤはもてなしを提供した。 マグダラのマリヤやヨハンナやスザンナは経 済的サポートを提供、一人の青年は弁当を提 供し、シモンは十字架を担い、ヨセフは墓を提 供した。あなたは、イエスがご入用の時に何を 提供できるだろうか。イエスは家庭集会のため に家を必要としておられるだろうか。 兄弟姉妹のために送迎の車を必要とされている だろうか。 宣教のための献金だろうか。一人住まいのご老 人を訪問する事だろうか。悩みを聞いてあげる 耳だろうか。苦しみを理解してあげようとする 心だろうか。今日、主はあなたに何を提供する 事を望んでおられるか。祈り求めよ。そして、 あなたは主に何を差し出す事が出来るか。
2001年09月27日(木) それで、あなたは・・・きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)
それで、あなたは・・・きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)
一人の婦人が次々と厳しい試練に襲われた。 自分の人生が崩壊して行くように感じられた。 あまりの事態の大きさに、身体も壊し病気にな てしまった。すべてに混乱し、怒りと不平と不 満、愚痴しかなかった。周囲の心遣いや愛嬢に も心を閉ざし、自分の殻に閉じこもった。 しかし、心は虚しく孤独で、そんな事をしてい ても何も変わらなかった。婦人の交わりに招か れていた。意を決して行ってみた。 霊的に成熟した人々との交わりと祈りの中で、 自分が癒されて行くのがわかった。聖書の学び と祈り、交わりのお陰で、苦しみを乗り越える 事が出来、成長へと導かれた。 神の御心は、主を求める人々と共にいることだ。 あなたは一人では信仰生活を送れない。 きよい心で主を求める人々と共にいる必要があ る。その中でどんな試練の時も必ず乗り越え成 長して行く。あなたは主を求める人々と共にい るか。
2001年09月26日(水) 「それで、あなたは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)
「それで、あなたは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Uテモテ2:22)
一人の婦人が次々と厳しい試練 に襲われた。自分の人生が崩壊 して行くように感じられた。余 りの事態の大きさに、身体も壊 し病気になってしまった。すべ てに混乱し、怒りと不平と不満 愚痴しか無かった。周囲の心遣 いや愛情にも心を閉ざし、自分 の殻に閉じこもった。しかし、 心は虚しく孤独で、そんな事を していても何も変わらなかった。 婦人の交わりに招かれていた。 意を決して行ってみた。霊的に 成熟していた人々との交わりと 祈りの中で、自分が癒されて行 くのがわかった。聖書の学びと 祈り、交わりのお陰で、苦しみ を乗り越える事ができ、成長へ と導かれた。神のみこころは、 主を求める人々と共にいる事だ。 あなたは一人では信仰生活を送 れない。きよい心で主を求める 人々と共にいる必要がある。 その中でどんな試練の時も必ず 乗り越え、成長して行く。あな たは主を求める人々と共にいる か。
2001年09月25日(火) 「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(詩篇23:2)
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」(詩篇23:2)
ある掃除好きの婦人がいた。家が綺麗に 片付いていないと、どうしても気が済まな い。気になるとそれしか頭になく、猛然と 掃除に取りかかるのであった。 家中をピカピカに磨き上げるまで綺麗にし た。ある時は、朝起きるとすぐ窓拭きや床 磨き、時に、夜を徹してありとあらゆる所 を掃除した。家が綺麗でないとイライラし て落ち着かず平安が持てないでいた。 それで平安を得るために常に家事をしてい た。歳と共に、身体が思うように動かなく なった。今まで出来ていた家事が不可能に なった。心が焦り苛立ち、落ち込み掛けた 時、神は語りかけて下さった。家の中の状 態よりも心のあり方が大切だと。 神様との関係が第一に大切だと。真に重要 なものに焦点を合わせて下さった。家事が 思うように出来なくとも、平安に喜びと落 ち着きを持った信仰生活が与えられる。
2001年09月24日(月) 「だから、あすのための心配は無用です。あすの事はあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」(マタイ6:34)
「だから、あすのための心配は無用です。あすの事はあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」(マタイ6:34)
夫を亡くした婦人が、聖書日課とその解き明かし の文章が、一日一日生きて行くその日の糧となった。 日毎の霊の糧に励まされ一日一日を生きて言った。 今日という日は神からの贈り物であり、昨日にしが みつくのではなく、今日をしっかり生きようと励ま されていた。明日の事を考えても、明日があるかど うか分からない。確かな事は今日という日がある事 だ。婦人は結婚生活の素晴らしい思い出はあるが、 過去にしがみついたり、明日に生きれない事をよく わかっていた。人生は一日単位であり、その日一日 を生き、最善を尽くす事が自分に与えられた責任だ。 神はどんな時にも思い煩わないで、祈れと言われる。 一日を生き始めた時、新たな人生を築く事が出来、 大きな目標を達成する事が出来た。私達は今日を生 きているか。これは大切な事だ。多くの人は過去か 未来に生きて、今日をつぶしてしまっている。
2001年09月23日(日) 「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に及んで、感謝が満ち溢れ神の栄光が現れるようになるためです」 (Uコリント4:15)
「すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人に及んで、感謝が満ち溢れ神の栄光が現れるようになるためです」 (Uコリント4:15)
ある夫婦が大変な経済的危機に 陥った。どちらも働いていたが、夫 の会社は倒産し、妻は人員整理で 解雇されてしまったのだ。同時に 起こった事だった。夫妻は途端に 困窮した。しかし「すべての事は あなたがたのためであり・・」 と神は励まして下さった。感謝が 満ち溢れ神の栄光が現われる ようになると、信じて前向きいなれ た。その年も翌年も、夫妻は経済 的に大変な所を通り続けた。数年 後、夫婦共に再び定職に就く事が 出来て、経済的に落ち着いて来た。 そして、その経済的苦難の期間 を振り返った時、大きな恵みに 気づかされた。神様に拠り頼む 事を通して信仰の成長が与えら れ、更に神様との関係が近くさ れ、神様への愛を大きくされてい た。神を喜ぶ者に変えられ、心 に喜びが満たされていた。その 試練に心から感謝する事が出来 た。神は必ずすべての事を益と して下さる。あなたの今の問題 は祝福に変わる。
2001年09月22日(土) 「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」(T列王19:4)
エリヤは精神的に疲れ果てていた。 カルメル山で偶像の戦いをし、極限 まで疲労した。イゼベルが命を狙って 来た。もう精神的に肉体的に限界だ った。そんなエリヤを神は決して責め られないで、食べて眠りなさいと休息 を与えられた。ある婦人は女手一つ で小さな子供を育てていた。働きづ めで、家事と育児に幾ら時間があっ ても足らなかった。身体が疲れ果て もうどうにもならなかった。ある日、 仕事を休み、休息を取る事を決め た。家事も雑用も一切せず、静かに 聖書を読んで祈った。子供に聖書 絵本を読んで、神様の事を話した。 心に潤いが溢れ、平安に包まれた。 神が共におられる事を感じた。新 しくされ、強められた。又、神様へ の愛と人々への関心が心に戻って 来た。私達は体力的にも精神的 にも限界がある。主が弟子達に寂 しい所へ行って休みなさいと言われ たように、しばしば休息が必要で ある。日常の仕事を置いて神と交 われ。
2001年09月21日(金) 「わたしは彼を退けている人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る」(Uサムエル16:7)
「わたしは彼を退けている人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る」(Uサムエル16:7)
一人の女性は常に自信がなかった。自分の 価値を試そうと無駄な努力を続けていた。 実現不可能な高い理想を掲げてしまうのだ。 いつも挫折の連続だった。それでいつも自分 はだめで、人生の落伍者で惨めだった。そん な中、聖書の学びから大きな慰めと励ましを 得た。多くは相応しくない人々だった。アブ ラハムは自分を守るために妻を妹と偽り、 ダビデは姦淫と殺人を犯し、ヤコブは陰険な 陰謀で父と兄を欺き長子の権を自分のものに した。ルツは異邦人だったし、モーセは口下 手で話す事が出来ない指導者だった。ペテロ は一回の漁師だった。。人を作り変え、建て 上げるのは神のみわざでありそれは奇跡だ。 皆弱い。ただの人に過ぎない。ペテロを岩の ごとき信仰の人とすると約束され、そのよう にされた神は、あなたも造り変え、神に役立 つ器と必ずして下さる。弱いあなたをそのま ま神に余すところなく明け渡す事だ。
2001年09月20日(木) 「主がナタンをダビデのところへ遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」(Uサムエル12:1)
「主がナタンをダビデのところへ遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った」(Uサムエル12:1)
ダビデは御心をそれて大きな罪を犯し てしまった。バテシバと姦淫をし、その 夫を殺害してしまった。神は黙っておら れなかった。預言者ナタンを遣わし、ダ ビデの罪を指摘させた。ダビデは罪を示 され、心を刺され悔い改めた。 私達も御心をそれる事がある。自分の好 きな道、思い通りの道に行きたくて、神 の道からそれる。知らず知らず迷い道に 入りこむ。神の御心から外れる。しかし 神はあなたを愛しておられ、見捨てられ ない。神はあなたに牧師、導き手、信仰 の友、教会の兄弟姉妹を送られる。 彼らを通して神はあなたに忠告される。 あなたに今、忠告者が送られているか。 彼の声に耳を傾けよ。神からの御声だ。 彼らは再び、あなたが神の御心の中心へ と戻るのを助けてくれる。あなたは道を それていないか。礼拝でのメッセージ、 学び会での御言葉、あらゆる事を通して 神はあなたに語りかけておられる。
2001年09月19日(水) 「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされないのです」(詩編102:17)
「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされないのです」(詩編102:17)
ある婦人が熟年に達した時、身体の ために運動を始めた。サイクリング 同好会に参加し、だめだったら引き 返そうと、いつも皆の一番後部を走 っていた。ある日の走行は長距離 だった。一人で帰れないので、置い て行かれないようにと必死について 行った。折り返し点まで到着し、 もうクタクタだった。帰りは強風に 向って漕がなければならない。 もう身体は限界で足も動かなくなり、 心臓も高鳴った。「神様、風を静め て下さい。進めません」と祈った。 すると、風は更に強くなった。又、 祈った。「助けて下さい。もう走 れない。」すると、もっと風が強 くなった。突き進む以外に道はな く、祈りに祈りながら必死で突き 進んだ。すると完走できたのだ。 神は祈りに別の形で答えられたの だ。状況を変えるのではなく、漕 ぐ力を与えられた。しばしばあな たの祈りに形を変えて答えられる。 よく答えを見張れ、彼女は達成感 と充足感を与えられた。最善に 答えて下さった。
2001年09月18日(火) 「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇40:2)
「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた」(詩篇40:2)
一人のクリスチャン男性が仕事にのめり 込んで行った。野心があり、仕事でどうし ても成功したかった。仕事上の犠牲はいっ さいいとわず、帰宅は毎日深夜だった。 家族との交わりはほとんど無かった。 しかし、仕事での成功が誇りであり、すべ ての時間と労力を使う事も誇りであった。 優先順位の第一番目になっていた。ふっと 時間ができた時、不安と虚しさが襲ってき た。家族とは隔たりが出来てしまっていた しかし、別の声を聞きたくなかった。 自分の道を突進した。そんな時病で倒れた 静かな時間が与えられた時、自分の間違い にはっきりと気づいた。悔い改め、神に立 ち返る事が出来た。病気は自分の姿に気づ かせ方向変換させてくれた。将来を見据え る助けにされた。神は人生で何が大切かを 見せられた。再び職場に復帰し、労働時間 を減らした。第一のものを第一に、優先順 位が変えられて新しい歩みが始まった。
2001年09月17日(月) 「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって」(Uテモテ4:3)
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって」(Uテモテ4:3)
「聖書はすべて、神の霊感によるもので 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有 益」とあるが、一人の婦人が今までの聖書 の読み方の間違いを正された。 彼女は自分勝手に聖書を読んでいた。 自分の好きな箇所だけを毎日読み、痛い所 都合の悪い箇所はすべて飛ばして読んでい た。聖書を自分勝手な信仰を支えるために 用いたので、聖書から何も教えられないし 戒められる事も、矯正される事も訓練され る事も何も無かった。自分の都合の良いよ うに読んでいただけだった。「聖書は霊感 を受けて」いる事に目を開かれ、御言葉を 自分に合わせるのでなく、自分を御言葉に 照らし出していた。自分の態度が変わった 時、御言葉は生きたものとなった。罪を気 づかせ、神の約束を与え、指針を示し、模 範を示してくれた。自分が変えられるよう 祈り始めた。自己中心の自分ではなく神中 心へと成長させて下さっている。
2001年09月16日(日) 「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い公正を求め・・」 (イザヤ1:16)
「洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い公正を求め・・」 (イザヤ1:16)
日曜日、クリスチャン達は教会へ行く だろう。多くのクリスチャンに、それは 習慣であるかも知れない。しかし、教 会へ行って礼拝しようという努力が無 駄になる事があり、虚しい事がありう るのだ。アモス5:では、不敬虔な生き 方のままで礼拝しようとする人々に、 主が厳しい言葉を語っておられる。 民は偽りの神に従って、神を怒らせて いた。彼らが礼拝しにやって来た時、 神はその偽善を嫌われた。神は民 が礼拝する前に悪事をやめ、善を なす事を習い、公正を求めるべきだ と教えられた。私達は神を礼拝す る前に、罪を告白し赦しを求め、神 に仕えて心を整えなければならない。 日々神と共なる歩みとみこころへの 従順が礼拝への備えとなるのだ。 新しい1週間が始まる時、悔い改め ず過ぎた1週間の罪を持ったまま 始めるか。礼拝で罪を清算し、罪の 赦しに感謝して新たに踏み出すか。
2001年09月15日(土) 「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」(ピリピ3:12)
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」(ピリピ3:12)
「急いで!」「早く!」「早くしなさい!」 「遅れるよ!」これらの言葉が何としば しば口をついて出る事だろう。私達の余 裕の無い生活を表わしている。いつもイ ライラと急いでいる。パウロは成長は一 生かかると言っている。成長はせかされ るものでも、焦るものでもない。神は聖 徒をお造りになるのに時間をかけられる。 クリスチャンの成長は、進んで行くもの なのだ。こんな言葉がある。「熟してい ない果物は、神が熟させていないから食 べるいは早い。しかし、成長途上にあり、 それはそれで良いのだ」あなたは霊的成 長に失望したり、苛立ったりしているか。 神はあなたを完成されていないし、天国 に入るまで完成されるとも思っておられ ない。しかし、更に親しくキリストを知 り、キリストのように形造られて行くの がこの人生における目標だ。必ずゆっく りだが確実に神はあなたを完成へと導い て下さる。
2001年09月14日(金) 「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)
「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」(箴言3:12)
飼い主が犬をしつけたい時に説得しても 無駄である。よくない事をした時は罰を与 えてしつける必要がある。しかし、私達と 神との関係はそうではないはずだ。 信頼関係にあるはずだ。だがもし神の子 達が従わなければ、神は懲らしめを与えら れる。神は神に対する愛のゆえに私達に従 って欲しいと願っておられる。 自発的自由意志で従って欲しいと思ってお られる。私達に不従順がある時、神は私達 にわかるやり方で懲らしめられる。 犬は罰を与えられるから、飼い主に従う。 私達はどうか。罰を与えられるから、従う ことも出来るし、神を愛して喜ばせたいか ら従うことも出来る。あなたの動機はどち らだろうか。私達は、神を愛しているとい うが、神を愛するとはみこころに従う事だ あなたは御心に従う心構えがあるだろうか 神の言われる事に従う事それこそが、神へ の愛を示す事になるのだから。
2001年09月13日(木) 「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねをおって働きなさい」(エペソ4:28)
「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねをおって働きなさい」(エペソ4:28)
神のかたちに造られた私達に「地をはうすべての 生き物を支配せよ」と神は言われた。 地を管理する仕事を神は与えられた。私達自身のた めに、また、家族を養う為に自分の手で働く事を神 は命じておられる。「落ち着いた生活をする事を志し 自分の仕事に見を入れ、自分の手で働きなさい」仕事 は神の与えた祝福である。 正しい態度で行われるなら、楽しく価値あるものだ。 私達は勤勉に働き、神は真実に養って下さる。 あなたの仕事は何か。何であれ勤勉にまた、喜んで行 おう。仕事は呪いと思っている人があるが、決してそ うではない。神が骨折って働きなさいと命じておられ る。そうするなら、あなたは喜びを見い出し、神の恵 みを経験する事になる。神があなたに与えて下さった 仕事にあなたが全力を尽くす事を望んでおられる。 仕事に身を入れて働くなら、外の人々に対してもりっ ぱにふるまう事が出来る。
2001年09月12日(水) 「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)
「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)
こんなよく知られた話がある。建築 中の高い建物の上から、下を歩いて いる人にすぐに知らせなければなら ない事態が生じた。道路は騒音で、 人に呼びかけても聞こえなかった。 それで、硬貨を落としたが、歩いて いた人はそれを拾うと去ってしまっ た。何度か失敗したが、結果は同じ だった。それで、彼は仕方無く大き くない危険でない程度の石を下に落 とした。その石は一人の男に当たり 彼は上を見上げた。かくして作業員 は紙を落とし事態を知らせた。同様 に神は私達に上を見上げさせるため に石を落とされる。ちょっと痛い経 験を与えられる。経済的損失、病気 倒産、対人関係の困難・・。私達の 関心が地上の事のみに注がれている 時、神がご自身に目を留めさせられ るためだ。放っておかれたら私達は この世にまみれ、流されてしまう事 になるだろう。あなたは優先順位が 狂っていないか。第一のものを第一 に!仰向けに倒されない限り、上を 見上げようとしない。
2001年09月11日(火) 「もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです」(ヨハネ16:7)
「もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです」(ヨハネ16:7)
もしイエスがこの地上にずっとおられたら どんな事をされただろう。よみがえりの主は 栄光の体を持ち、物質を超越されているから 閉じた戸を自由に通り抜けられた。思いのま ま好きな所へ行かれた。教会に突然現われ、 もめ事を仲裁されたり、国家間の争いに助言 されたり、中東紛争を解決されたりしたかも 知れない。 しかし、神は更によい方法を選ばれた。 イエスがされずに残された仕事を果たすべく 聖霊を送られたのだ。イエスは同時に複数の 所にいることは出来ないが聖霊には可能だ。 聖霊イエスを信じない罪について悟らせる事 が出来る。信じるように促す事が出来る。 イエスの素晴らしさを教える事が出来る。 一人一人に指針を与え、進路を示し導く事が 出来る。聖霊が来るために主イエスは一時地 上を離れなければならなかった。 今、聖霊が私達のために働いておられる。 その導きに従おう。
2001年09月10日(月) 「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」(詩篇119:15)
「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます」(詩篇119:15)
牛が反すうするのを見た事があるだろうか。 牛はまず自分の胃を草やその他の食物でいっ ぱいにする。それから良く時間をかけて噛む 事に取りかかる。胃から口に戻して噛み、 栄養を十分に吸収し、美味しいミルクに変え るのだ。大変な時間はかかるがよいミルクを 出そうとするなら有効な時間だ。 反すうするとは思い巡らす事にも使われる。 詩篇の記者は神の言われる言葉を読む時、あ きらかに心で反すうしていた。何度も何度も 思い巡らし、瞑想した。注意深く祈り深く読 むなら、罪に対して強められ、神について更 によく知る事を喜びとし素晴らしい霊的な真 理を見つける。そして、日々の生活のための 助言を得る。御言葉に思いを潜めるとは、日 々の生活に聖書を適用することだ。 御言葉を時間をかけて、ゆっくり噛み締めよ う。思いを巡らし、行きつ戻りつ反すうしよ う。聖書は軽食ではない。じっくり味わうも のだ。
2001年09月08日(土) 「だれでもキリストのうちに、あるなら、その人は新しく造られた者です」(Tコリント5:17)
「だれでもキリストのうちに、あるなら、その人は新しく造られた者です」(Tコリント5:17)
最近、自分をあるがまま受け入れない ところから、問題が生ずるという考え 方がある。確かに、自尊心が低すぎる と、能力や勇気や対人関係に問題が出 て来る。しかし、根本的な問題はそこ ではない。別な所にある。エバが善悪 を知る木の実を食べてしまったのは、 自分をあるがまま受け入れていなかっ たからか。明けの明星が神にそむき天 から落ちたのは、劣等感を持っていた からか。それともサタンの誤った自尊 心のゆえか。実は根本的な問題は聖な る神に対する罪だ。私達が良くなって 行くためには、とことん悪い者である 事に気づく必要がある。子供の頃の環 境があわれむべきものであったとして も、環境のせいにするのは間違ってい る。私達は皆、罪を犯し、新生の必要 を認めなければならない。自分自身に ついて一番正しい自尊心を持つ唯一の 方法はイエスがあなたのためにして下 さった事を受け入れること。自分を受 け入れるにはキリストの内にある自分 を思え。
2001年09月07日(金) 「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、我らの避け所である」(詩篇62:8)
「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、我らの避け所である」(詩篇62:8)
ダビデの敵が彼を王位から蹴落とそうと企んで 襲って来た。さぞ彼は恐れ不安に成ったことと思 う。しかし彼は自分の魂は神の御前で静かに落ち 着いていたと証している。そんな混乱と騒ぎの中 で、どうして平静で落ち着いていられたのだろう か。ここに秘訣がある。 彼は神の御前に自らの不安、恐れ、思い煩い、何 もかも打ち明け、心を注ぎ出したのだ。 ある人が非常な悩みの中で落ち込み、気力を失い 疲れ、成すすべなく途方に暮れていた。 神に不平不満つぶやきをぶつけ出した。 突然「神様赦して下さいあなたをまるでカウンセラ ーのようにしています」しかし、心の思いはほとば しり出て神にぶつけざるを得なかった。 すると神は「私はあなたの偉大なカウンセラーだよ」 それなら、神に訴えてよいわけだ。すると問題のま っただ中で心に平安が来たのだ。心を神に注ぎ出す 時は、神は平安で満たして下さる。あなたも神に心 を注ぎ出せ。
2001年09月06日(木) 「聞くに早く、語るには遅く、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19)
「聞くに早く、語るには遅く、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19)
なぜ怒るに遅くしなさいと言われているか。 その最たる理由は神ご自身が怒るのに遅い方だ からだ。そして私達の人生の目標は私達の内に キリストに似た性格が形造られる事であるから だ。怒りが起こった時は悔い改める事だ。 神に対して自分の思い通りにならないゆえに抱 いた怒りを告白し悔い改めるのだ。 神に対する不信仰を悔い改めるという事だ。 あなたの怒りが神と周囲の人に害毒を流してし まったことを悔い改めよ。 これは見えるところによらず、信仰によって歩 むよう委ねる事を意味する。これは、神を求め る者には報いてくださるお方である事を例え物 事が思うように行かない時でも信じる事を意味 する。怒りやすい自分が変えられるのは御霊と 神の御言葉の影響に自分を委ねて行く時だ。 御霊に導かれると、自分の内に新しい自制心が 育まれている事に気づく。 そして御霊に支配される時、罪に対する正しい 怒りを持つ者とされる。
2001年09月05日(水) 「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことであって、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことであって、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)
様々な感情に振り回されそうになる時、 どう対処すれば良いのか。まず、その 感情を認めよ。そんな感情は無いとい う振りをしてはいけない。自分自身と 神に正直であれ。自分の感情を神に告 げよ。詩編でダビデが自分の怒りや不 安や恐れをそのまま神に告げているよ うに、神に告げよ。そして、根本的な 思考パタン、考え方を変える必要があ る。それらの思いの根は、感情ではな く、神についてどう考えるかなのだ。 するべき事は、うわべの感情を取り扱 う事ではなく、考え方を変える事だ。 聖書は心の一新によって、自分を変え よと勧めている。考え方を新たにする なら、感情も自然に変わる。私達の幸 せが神の御手の中にある事とするか、 環境や他人によると考えるかは、基本 的要素だ。問題は、あなたの発想、思 考パタン、考え方が根本的に変えられ なければならないということだ
2001年09月04日(火) 「わたしがそれを望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ1:22)
「わたしがそれを望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ1:22)
すべての人は平等に造られているから 皆、基本的人権を有するという主張は、 誰でも喜んで同意し賛成するだろう。 しかし、すべての人が同じではないし、 一人一人の人生は同じでない事を受け入 れる必要がある。人生の不公平は至る所 に見られる。重度の障害を持つ人もいれ ば、不自由のない人もいる。大酒飲みが 長寿を全うしていれば、小さな子供が病 で亡くなる。一生懸命働いても貧しい人 もいれば資産家に生まれる人もいる。 イエスがペテロに殉教すると言われた時 ペテロはヨハネはどうかと聞いた。 同じでないと不公平に思ったかもしれな い。しかし、主はヨハネがどうなろうと ペテロに全く関係ないと答えられた。 神の主権のうちだ。 ペテロのすべき事は神に従うことだ。 他人を見て不公平を感じる時、見方を変 えイエスを見て、イエスに従え。 人を見れば不満だらけだが、神を見れば 必ず満ち足りる。
2001年09月03日(月) 「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」(ルカ21:3)
「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」(ルカ21:3)
このやもめの銅貨二つは今日に至るまで増え続け ている。多くの神の民がこの婦人の献げ物によって どんなに励まされ力づけられ模範に習う者となった かは天国に行って初めてわかるだろう。 ある人にとっては、もっと金銭を献げるよう励まさ れチャレンジを受けた事だろう。ある人にとっては キリストのために自分自身とその時間、才能を献げ る事だったろう。数え切れない多くの人々がこの自 己犠牲の婦人から益を受けてきた。 永遠の価値だ。ひどく貧しいクリスチャンが犠牲的 に主への愛のゆえに持っているものを献げる時、天 に投資する事になる。また、さして才能のないクリ スチャンが自分自身を献げる時も同じだ。 神は喜んで受けとって下さる。わたし達小さな者が キリストのために果たす役割を過小評価しないよう にしよう。真の億万長者は天国へ行ってはじめてわ かる。一億円献げられなくても、やもめの銅貨は献 げられる。額より動機が遥かに大切。
2001年09月02日(日) 「人々が私に「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ」(詩編122:1)
「人々が私に「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ」(詩編122:1)
教会から文句を言いながら出て来る 人がいるなら、多分その人自身が問 題だ。私達が祝福を期待して礼拝に 集いたいのなら、なすべき心の備え がある。それは神が自分に語って下 さっている御言葉を聞きたいという 心の態度だ。主よ、お語り下さい。 しもべ聞きますとのへりくだった態 度があれば、神は必ず牧師を通して あなたに語って下さる。そして、心 満たされて教会から出て来る事だろ う。しかし、義務感で教会へ行き、 求めもなく、批判的態度なら、あな たは必ず手ぶらで帰るはめになる。 神の家は賛美と祈りの場だ。そこで あなたの霊をきよい思いで満たし、 神の前にひれ伏せ。霊的に養われた ければ、教会へ行くことだ。それも 単なる義務感でなく、御言葉を慕い 求める心を持って。必ず神はあなた に御言葉を与えられる。その御言葉 はあなたの血となり、肉となり、あ なたを培う。御言葉をしっかり求め て教会へ行け。
2001年09月27日(木) 「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)
「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」(Tテモテ4:7)
スポーツ選手がグランドで一人で練習し ていた。短距離の力走を何度も繰り返して いた。朝だったので、グランドの周囲に人 はいなかった。それで、集中して自分の練 習が出来た。最後の練習を終えた時、グラ ウンドから拍手が聞こえた。 近くの小さな女の子が練習を見ていたのだ その事を通して信仰生活の証について教え られた。自分が気づかない時でも人々は私 を見ている。取るに足らないような行動の 中でも、私達は神を表わす事が出きる。 私達の信仰を反映するように行動する事が 大切なのだ。キリストが私達の模範である ように、私達は他の人々の模範だ。 人々は私達がどのように生きているかを見 ている。どんな些細な事でもその人達に影 響を与える。私達が日毎の生活で、御言葉 を生きる事だ。御言葉に従う事だ。 そうするなら自然に周囲への証しとなる。 人々はあなたをよく見ている。キリストに 従う事だ。