2009年03月31日(火)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」ヘブル11:6


ある人が、極めて厳しい経済状態にあった。多額の必要の上に請求書があり、祈りに祈るが、支払い日はどんどん迫って来る。しかし、与えられない。

尚も、祈り続けるが、与えられる気配はなく、恐れと不安が募る。いよいよもって与えられず、不安で一杯になり、主の働きは中断して、世の仕事に出ようかと考えた。

悶々のタイムリミットギリギリの時に、知り合いから電話が入った。祈りの中で、主から示されたので、献げものを振り込んだとの連絡だった。

その額が、何と必要額ほんの少し多い目で、満たされたのだ。もう大喜びで、飛び上がり、全身が喜びに満たされた。その時、ふっと御霊の語りかけが来た。

「どうして喜んでいるのか」「知人が振り込んでくれましたから」「なぜ振り込んだとわかるのか」「知人がそう言いましたから」「なぜ確かだとわかるのか」「彼は信用できますから」

「では、わたしが、何度も、『あなたの祈りを聞いた、何も思い煩うな、恐れるな、栄光の富をもってすべての必要を満たすと』と言った言葉はどうなのか」。

その時、知人の言葉は信じても、神の言葉を信じない不信仰を示された。私たちはどうだろう。誰に頼り、誰の言葉に聞いているのだろう。
不信仰を悔い改め、目に見えない神に、信仰をお献げして行こう。
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目に見えるものだけに呼応しアップダウンを繰り返す。それなら世の人と同じだ。それが人間の悲しい限界でも、私達には信仰がある。常に支え守って下さっている神様に信仰をもって近づこう。


2009年03月30日(月)

『パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した』使徒14:9



ルステラで、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。その人が丁度そこに座っていて、パウロが語る御言葉にじっと聞き入っていた。

彼は自分の足に関して、何の手だてもなく、どうする事もできなかった。どうやっても歩く事は不可能。自らに全く望みを置けない、完全無力の状態だった。

自分で何もする事ができない。だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがった。すがれたのだ。彼にはこの言葉しかなかったのだから。

全望みを置いて信じて賭けた。この言葉がすべてだった。
自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その言葉に拠り頼んだ。信仰が働き、神の力が臨み奇跡が起きた。一度も歩いた事のない彼が、飛び上がって歩き出した。

私達も自らの完全無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。

信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神への信仰は無い。

幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。
信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。

ゆえに、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。
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無力に落ち込むのは、自分に、何かの手だてがあると頑張っているからかもしれない。自分の限界を素直に認めて、謙遜に神様だけに頼りすがる者でありたい。


2009年03月29日(日)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25


パウロは御霊の示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のためにピリピの町へやっ
て来た。
そして、川岸の祈り場へ行き祈った。それから宣教し、悪霊を追い出したが、訴
えられて捕らえられ、投獄されてしまった。

むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁されてしまった。「祈ったのに、何で?」「御霊
の示しに従い、確信もって前進したのに、どうして?」

御心を行なっているのに、問題が来て、苦しみがやって来た。「なぜ?どうし
て?」ましてや、宣教のために来たのに、投獄だ。

あの祈りは何だったのか?投獄されてしまって、身動きもとれない。これでは、
どうにもならないではないか。

しかし、神の計画は着々と前進していた。パウロとシラスは、神の主権とご計画
を信じ、牢獄の中で祈りをし、賛美した。
結果的に、その投獄を通して、看守が救われた。そして、何と全家族も救われた
のだ。ピリピの教会の核となって行った。

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。つながった時に、神
のみわざが見えて来る。「あんなに祈ったのに、どうしてこのように?」との状
況にあるだろうか。

神はご自身のご計画を着々と進めておられる。紆余曲折により、神のみ思いの通
りに、みわざが進行中だ。神に間違いはない。思い煩いと不安、恐れを「すべて
のことについて感謝しなさい」感謝に変えよう。恐れが平安に変えられる。

・・・・・・・・・・・・
主に間違いはない。「なぜ?どうして?」という事態が起きて、その場ではよく
わからないが、パズルが埋まるようにみわざへと展開して行く。投獄が看守と全
家族の救いに繋がったように。目の前の事態も素晴らしいご計画がある。


2009年03月28日(土)

「互いに忍び合い、だれか他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13

対人関係で、ギクシャクしたり、トラブルのあった相手があるだろう。クリスチ
ャンは赦さねばならないと思っているので、しばしば赦した「つもり」になって
いる事がある。

しかし、実際は赦してはいない。相手への恨みつらみを言葉や態度で表わさない。
だが、相手に関わる事に出会うと、感情が出て来るのだ。平静でおれず、苦々し
い感情が出て来る事によってわかる。

相手への怒りがあり、裁いている。しかし、赦すべきと思っているので、言葉や
行動には決して出さない。
それゆえ、表に出ないので、自分でも気づかない。気づかないので、まず認めな
い。赦している「つもり」があるだろうか。

しかし、何かに触発されると、苦々しい感情が出て来るだろうか。まず、赦して
いない自分とその事実をはっきり認める事だ。心の底にある怒り、恨み、憎しみを認めて、悔い改める時、解放される。自由になる。

赦していない事を認める事から解放が始まる。それを認めないなら、罪は無いの
だから、十字架は不要と言っている事になり、赦しも無い。

十字架で罪が赦されるのは罪人だけだ。赦せない心の裏をよく見ると、高慢、わ
がまま、プライド、自己中心がある。

それを認めて、悔い改めよう。そして自分自身が、まずはっきり赦しを受け取ろ
う。赦されるとは何という喜びだろう。真に自分が赦される時、必ず人を赦して
行く。無意識だが、赦していない相手がないか、御霊に探って頂こう。

人を赦して行く時、大海のような平安に満たされ、自分自身が自由にされ喜びに
溢れる。

・・・・・・・・・・・・
赦せないなら「赦せません、赦したくありません」と、正直に主の御前に告げよ
う。そこから次に進んで行く。主が取り扱い、御霊の力によって赦しが与えられ
る。ありのままを認める事から始まる。測り知れない平安が臨む。


2009年03月27日(金)

「しかし今、こどもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか・・私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23



ダビデは病気の我が子のため、断食して癒しを祈り続けたが、願いは叶わず子供は死んでしまった。子供の病気を知った時、ダビデは地に伏し、食事も取らずに祈り続けた。

ダビデの子供への、その強い深い思いを知る家来たちは、子供の死をとても告げられなかった。しかし、家来たちの様子で、その死を知ったダビデは、起きあがり、身体を洗い、着物を着替え、主の宮に入り礼拝した。

そして、食事を取った。家来達は驚いた。子供が生きている間は断食をして泣いて祈ったのに、亡くなると起き上がり食事をするとは。

私達はこのダビデから学ぶ事が出来る。ダビデはいさぎよかった。
自分の願いは願いとして、主に祈るべきだ。しかし、しばしばその結果が自分の願いと異なる事がある。

「ノー」の答えがある。それは、どんなに熱烈な願いでも「ノー」が答えであり、それが主の御心なのだ。それが最善なのだ。

その時は、その「ノー」をダビデのように受け入れる事だ。受け入れる事が、神の主権を認めることだ。今、あなたも「ノー」の答えを受け取っているか。

ノーは決して嬉しくないが、主の御心として厳粛に受け止めよう。
そこで主を新たに知る。その答えはノーだが、霊的にはイエスで、一歩成長して、信仰に前進して行ける。後に必ず良かったと思える。
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様々な祈りの答えがある。すぐに答えられる祈りばかりでなく、別の道への示しが与えられる時もある。主を認め、さらに導きを待ち望むことが祈りの答えであるかもしれない。


2009年03月26日(木)

「お前の弟が来て、だましたのだ。そしておまえの祝福を横取りしてしまったのだ」創世記27:35



イサクは長男エサウに祝福を与えようと、獲物の料理を持って来るようにと言った。
それを聞いた母リベカは弟ヤコブにその祝福をと、視力の衰えているイサクをだました。

イサクはエサウだと思い込み祝福を与えた。そこにエサウが戻り、事の次第を知った。
イサクは激しく身震いし、エサウは大声で泣き叫んだ。

企みを知ったエサウは怒りでヤコブを殺そうとした。それで家におれず、逃亡し叔父の所へ身を寄せるはめになった。

家族が傷つけ合い、バラバラで、皆が不幸だ。どこに問題があったのか。
イサクは「兄が弟に仕える」との神の御心が示されているに関わらず、自らの肉の思いでエサウを偏愛した。

リベカもヤコブを溺愛し、神を信じ、神の主権のもと、神がされる事を待ち望むのでなく、肉で狡猾に画策し祝福を奪った。

ヤコブも神の計画を信じ、委ねるのでなく、父をだまし、自力で奪い取った。
エサウは長子の権利を豆の煮物と引き換えた。

「長子の権利を売った俗悪な者」彼は長子の権利を軽んじた。皆が神を仰ぎ、神に従うのではなく、自己中心に、肉の思いで動き、招いた結果だ。

親子、夫婦、兄弟関係、皆に亀裂が入り、ぐちゃぐちゃだ。神は大きなご計画の中で、これらすべてを益として行って下さったが、しかし、ここで学べる。

肉で、自分の思いで動くのでなく、神の主権を認めて、神を待ち望み、委ねて歩む事がいかに祝福であり、大切かを。
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自分の思いで現状を見て行く時、恐れと不安で一杯になる。神様がして下さる・・の視点に立てますように。起こることの中に神様を見つめて歩めますように。


2009年03月25日(水)

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」ローマ8:7


自分の内に二つの性質があり、新生した時に与えられた新しい性質は、神を喜び、罪を悲しみ、神に従おうとする。神の栄光を求めて行く。神の性質だ。

一方、古い性質、肉の性質は、真反対で神に反抗する。罪を愛し、神に敵対し、自分の栄光を求め、自分が崇められたい。自己主張、自己中心、自己保存、自己貫徹だ。

これは神に反抗し、御言葉に逆らい、逆行する。だから、砕かれる事が重要で大切だ。よく御言葉がわからない、聖書は難しくてわからないという人々に出会う。

それは自分では無意識なのだが、御言葉と同時に、受け入れようとしない心が、むくむくと湧き起こるのだ。

「こんな御言葉実行できない」「こんな事言われても無理」「私にはできない」「こんな事誰もできない、していない」肉の思いが湧き上がって来て、御言葉を阻む。

肉の思いに従うと御言葉を拒んでしまう。御言葉がわかるのは、従おうとの心の態度があって聞くからだ。従おうとしているから、主のお心がわかる。

自らの状態はどうだろう。あくまでも御言葉を自分の思いで量り、捨ててしまっていないか。
又、どこまでも傍観者として聞いていないか。他人事なので、入って来ない。

あなたの聞く態度はどうだろう。御言葉を自分の事として受け取る時、必ず変えられ、成長して行く。
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自分には出来なくても、神様が必ず整えて下さる、必ず変えて下さるからと、御言葉を大切に受け取ろう。そして、御言葉を取りこぼさずに、答えて行こう。


2009年03月24日(火)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」ヨハネ3:19



闇がわかるのは、闇の中に光が照らし出されることによってだ。光が無く、闇だけなら、それが闇という事すら認識できず、わからない。
光によって初めて闇が認識できる。闇の中にいるなら、そこが闇だとわからない。

ベテスダの池で、38年間病気で、池のそばに伏せっている人がいた。主の使いが来て水面を動かすが、その時すぐに池に入れば、どんな病気でも治ったが、入れてくれる人がいないのだと。

その人に主は「よくなりたいか」と問われた。病気の人に、よくなりたいかは不思議な質問だが、私達にも主は問われている「本当に闇から出たいのか」と。

闇の中にずっといると、闇は心地良い。自分は変わりたくないのだ。
自分を変えるには大変なエネルギーが要る。しんどい事はしたくない。楽な方へ流される。

自我は強固だ。あなたにもうすうす気づいている事があるだろうか。
悔い改め、改めなければならない事柄、そのうっすら気づいている事を、まず光の中に出そう。

闇にあるものを、ことごとく光の中に出す事だ。それは主の前に告白し、認める事だ。
「明るみにひき出されるものは、みな、光によって明らかにされます」「明らかにされたものはみな、光だからです」御霊は働いておられる。

心を閉じさえしなければ、拒みさえしなければ、御霊の光はくまなくあなたを照らし出す。
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御霊の促しはあるが「入れてくれる人がいない」からと闇の中で楽々としていないだろうか。
闇から光に移して下さるのは、主だ。よくなりたいとの意志を向けてみよう。


2009年03月23日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



富んだ青年は、主に従いたいとは思っていたが、自分が愛し、慕う、肉の部分が捨てられず、主から去って行った。

信仰生活とは、どれほど聖書を知っているか、奉仕し、善行をしているか、又、献金しているかではない。肉の欲望や肉の思いが、主の御心と相容れない事を知り、人間的な思いから離れ、主の喜ばれる事、主に受け入れられる事、主の御心を求めて行く事だ。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」と言われるように、主の御心は、自分の思いと、大幅に異なっている。主の死の事を聞いたペテロが、そんな事が起こるはずがないと言った時に「下がれ。サタン」と言われた。

「わたしの邪魔をするものだ」と。ペテロの一見主を思う思いは、サタンから来ていて、十字架に敵対していた。

それゆえ「自分を捨て」ない限り、私達は反対方向に間違ってしまう。
なぜなら、人間的な目で見ると、どう見ても目の前の事が正しい、妥当としか見えない。

正しいと思っている自分が、実は肉の中にいるからだ。正しいとしか見えないので、どこまでも肉の思いで神を信じ、肉の手で神をつかもうとする。だから、神がわからない。

正しいと思っている自分に頼らなくなった時に、初めて神に出会う。
自分の肉に一切頼らなくなった時に、神を見い出す。盲人や長血の女や姦淫の女のように、何の手段も無い時にこそ、主に出会う。
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理解しよう、悟ろうと肉に頼っている自分に気付けるように。自分の内には、何もない事をを認めながら、主の御心を尋ねて行こう。肉の思い、捨てるものを主が教えて下さる。


2009年03月22日(日)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11

サタンの特質は偽りであり、偽るので、有ること無いこと、自由自在に思いに吹
き込む。無い事も吹き込むので、これを受け入れて行くと、妄想がどんどん膨ら
む事になる。

被害妄想しかりだ。黒を白に白を黒にする。罠にはまると、ほんろうされてしま
う。「策略」というからには、はっきり欺こうとの意図があるわけだ。

思いに浮かぶ何もかもを信じてはならない。否定的な思い、自分が落ち込んで行
く思い、建て上げるのものでなく、破壊させて行くものを。

又、映画の映像のように思いに映して来る。次々頭に浮かんで来るものを、何も
かもを受け入れてはならない。サタンが吹き込むのであり、自分が思っていると
思わせるサタンの欺きだ。

私達の思いに、次々と映像を送り込む。そして、自分が思っているとしか思わな
い。そう思わせれば、サタンは大成功だ。サタンが朝起きた時から、次々思いと
いう火矢を飛ばしている。朝起きた瞬間から気づけるように。どんな思いが来て
いるだろう。

デボーションを奪われてしまう。先に食事、洗濯、掃除、あの事、この事、次々
と「思い」が来る。その「思い」に従って行くと、1日が終わり、デボーション
が持てなかった事に気づく。サタンだ。

恐れ、非常な怒り、激しい批判、急かすもの、自己憐憫、疑心暗鬼、極度に自分
を責めるもの、又誇るもの、それらの思いは敵からだ。サタンと肉が結託する。

逆に、喜び、平安、安堵、落ち着き、明るさ、信仰的、肯定的、前向き、将来的
それらは御霊からの思いだ。「御霊による思いは、いのちと平安です」

思いをよく見張っていよう。御霊から罪の指摘があれば、きちんと悔い改めるべ
きだ。しかし、暗所に引きずり込むような思い、答えの出ない堂々巡りの議論、
そんなサタンは無視し、余りにしつこい時は、さっさと次の行動に移る事だ。そ
うすれば思いが消える。サタン退散だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
外部からのもの〜テレビ、本、新聞等は、一応警戒するが、自分の内から湧く思
いには無警戒、無防備だ。神から思いやサタンからの思いが混線している事をわ
きまえよう。常に「神様」と呼ばわり、御言葉、賛美、祈りで心満たしていよう。


2009年03月21日(土)

『イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」』ヨハネ5:8

もし人が病気になっても、それが普通であり、正常な状態だと思っているなら、
病気が治ることはない。
病気が治るには、自分が病気だと認識しなければならない。私達も癒されるため
には、自分が病んでいる、この状態はまともではないと認識することが重要だ。

自分の自我や自己中心には目を向けないで、相手の欠点ばかり責めているなら、
いつまでたっても、その状態は改善されず、延々同じ事の繰り返しのままだ。
何の成長もない。

私たちはどうだろう。相手の欠点ではなく、それに反応して相手を攻撃し、責め
る「自分の問題」だと気づき、認めて行く時、変えられて行く。

この人は「池の中に私を入れてくれる人がいない」と、人のせいにしていた。助
けてくれる介助人がいない、だから自分は良くならない。問題は介助人がいない
ことであり、そのゆえだと。

人に依存してしまっていた。人に依存すると無気力になる。うまく行かないのは
人のせい、人が悪い。その、人依存こそが問題だ。

主は「起きて」と言われた、床を取り上げて、自分の足で歩けと。人はいっさい
関係なく、問題は、人に、病気に、依存している「自分に」あると気づき、認め
る時、主のみわざはすでに始まっている。

自分の床って何だろう。自己憐憫、諦め、不満、不信仰、偶像に依存する心・・そ
の床を取り上げて、神を心底頼って歩く事を始めよう。自立とは神だけに頼るこ
と、神依存だ。その時初めて、自分の人生に責任を持ち、喜びもって自分の足で
歩ける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
相手が悪いとしか見えず、ここがサタンの罠で、相手でなく「自分の問題」であ
ることがなかなかわからない。御霊に目が開かれて、目からうろこで、初めて悟
る。自分が変えられ、解放され、心が御霊の喜びと平安で満ちる。


2009年03月20日(金)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ4:15  


思いは要注意だ、すべてが神からのものでなく、世、自分の肉、悪霊からの思い
が混線している。                            
      
地のものとは、世の習慣や価値観だ。一見、善いものに見える。ヒューマニズム
は世界平和や人類愛をうたう。しかし、人間中心であり、神否定、神無しの価値
観だ。神無しで愛と平和を作る。麗しく、好ましいものだけに要注意だ。

肉のものは、生まれつきの性質から出て来る欲望だ。肉の行いは、不品行、汚れ、
好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ・・の類だ。

悪霊のものは、サタンが吹き込んで来る思いであり、悪霊達の動機は神への妬み
だ。妬みは人間の性質に深く巣くっている。私達の心の思いをよく見張って、神
以外から来るこれらの思いを点検する必要がある。

サタンは思いに働く。まず思いを吹き込み、思いから行動へ駆り立て、秩序を乱
して行く。サタンのする事は破壊だ。教会、家庭・・分裂、秩序の混乱には、必
ず神以外の知恵が働いている。よく見張ろう。争いを引き起こし、分裂させる。

神からの思いは下心がなく、見せかけなく純真だ。必ず平安があり、柔和で、あ
われみに満ち、へりくだったものだ。
神以外からの思いには、妬み、敵対心、プライドからの誇り、真理に逆らったも
のだ。神からの思いは、実を結び、祝福となり、栄光が現れる。神以外の思いは、
深刻なトラブルを生み出して行く。
今、問題と混乱があるなら、自らの思いを点検しよう。どこからの知恵で突き進
んでいるのだろう。放っておいてはならない。邪悪な思いはますます膨らむ。神
に正直にそのままを告白しよう。上からのものへと変えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人への羨望、妬み、裁き、敵意があるなら、自分では気づかず、秩序を壊して行
く。自分も平安が無い。まず、それらを認めて、主の御前にそのまま告白しよう。
その時、そこに神が働くことができ、思いが変えられ、自分が変えられて行く。


2009年03月19日(木)

「苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」ヘブル12:15



「苦い根」が自分の内にないだろうか。根だから、土の下に隠れて、外側からは
決して見えない。人の内側深くにあるものだ。

外側はにこやかに柔和で、優しく良い人であり、普通の社会人に見える。しかし、
何かで触発されると、その地中深くにある苦い根が、芽を出して来る。妬み、憎
しみ、批判、さばき、敵対心・・。

何かある時に、事が起こると、その苦みが出て来る。苦い根は、周囲に苦いもの
をまき散らす。周囲を害して行く。周囲を傷つけ、踏みにじり、暗たんたる気持
ちにさせ、恵みを消し去ってしまう。

恵みが吹き飛んで、暗いネガティブな嫌な気持ちにさせられる。そして、苦い根
はそれだけで終わらず、相手の底にもある苦み、嫌なもの、否定的なものを引き
出してしまうのだ。

経験あるだろうか。相手を責めて、攻撃して行くと、相手の中の悪いものが誘発
され、引き出され、双方でどんどん泥沼に落ちて行く。憎しみは、相手の憎しみ
をも引き出す。

逆に相手を受け入れ、愛し、尊び、喜んで行くと、相手の良いものを引き出す。

苦い根は主の御前に持ち出して、断ち切って頂こう。放っておくなら、根ははび
こる。光のもとに出すことだ。普段は隠れているが、事があるごとに出て来る、
苦い根があなたの内にないか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
普段は隠れているが、触発される度に、出て来るものに向き合おう。主は根から
対処して下さる。苦い根は、自分で見て、認めて、主の前に出すなら、主が解決
に導いて下さる。言い訳せず、正当化せず、認めて、悔い改め、捨てよう。


2009年03月18日(水)

『「あなたの父と母を敬え」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです』エペソ6:2

十戒の5番目であり、対人関係の一番最初に来ている。約束が伴い「あなたの神、
主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」。

親は子供に良かれと、子供のためを思い、厳しくしつけをし、叱る。しかし、子
供の側では、親の心がわからず、取り違えて、自分を嫌いだから叱り、自分は愛
されていないから、きつく当たられると思ったりする。

親も親で、子供を思う気持ちと裏腹に、子供を思い通りにしたい、子供のためと
言いつつ、実は自分の思いを通す自我に気づく事は大切だ。そうでないと子供は
歪んでしまう。

子供の側としては、親を敬う事は神の御心だ。神の喜ばれる事であり、「良い」
父と母、「立派な尊敬できる」父と母なら敬えとは言っていない。

「あなたの」父と母だ。時に、暴力を振るう親や、叱ってばかりいる親、口やか
ましい親、過干渉の親がいるかも知れない。もしその親を軽蔑し、見下し、憎む
なら、神との関係にひびが入ってしまうのだ。

神を敬うことができなくなってしまう。「天の父なる神」と「自分の父」が重な
ってしまうのだ。上に立つ権威にも従う事が難しくなる。

親を否定すると、自分を否定する事になり、自己矛盾を起こしてしまう。親を敬
う事は、取りも直さず、あなたの幸せのためだ。

難しければ、そうできるよう、主に祈り求めよう。主は祈りに答えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
御言葉は真理であり、それに従う時、必ず自分が祝福を受ける。平安で心が
満ち、喜びが溢れる。結局、神と自分の関係がすべてだ。御心をそれる時、
自分が神と正しい関係に無いので平安が無い。相手の問題でなく自分の問題だ。


2009年03月17日(火)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラテヤ6:7


思考から行為が生じ、行為から習慣が生じ、習慣から人格を生じ、人格から人生
が生じる。つまり、思考を蒔くと、行為を刈り取り、行為を蒔くと習慣を刈り取
り・・となって行く。

人格が形造られて行くのも、思考が一番の基であり、すべては思考から始まる。
思いが重要だ。何を思って生きているかによって、刈り取るものが決まる。

心の中はどうだろう。いつも不平不満、つぶやきだろうか。又は、いつも思い煩
いに支配されているか。又、批判や非難で一杯か。妬みや憎しみで燃えているか。

それらの種を蒔いているからには、そのような人格を刈り取る。常に姦淫の思い
を抱いているなら、行為へと結実させてしまう。即、行為という事はない。その
前に思いを重ねている。

「すべての事について感謝せよ」感謝の種を、心に蒔き続けているなら、感謝の
実を刈り取る。「いつも喜んでいなさい」喜びの種を蒔き続けるなら、喜びの実
を結ぶ。
これは法則なので、例外はない。朝顔の種を蒔いて、ばらが咲く事が絶対にあり
得ないように、蒔かないものは刈り取らないし、蒔いたものは必ず刈り取る。

思いは大切だ。肉に蒔くなら、ますます自我が肥り、そのような人格を培い、御
霊の導きに従うなら、御霊の実を結んで行く。

何を思って生きているだろう。神を思い、恵みを数え、感謝を献げ続けよう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感謝の種を蒔いて、感謝の実を、信仰の種を蒔いて、信仰の実を刈り取ろう。
「御霊に従う者は、御霊に属することをひたすら考えます」。思いは重大だ。常
に思考している事の実を刈り取る。神を思い、御言葉を思っていよう。選択だ。


2009年03月16日(月)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4:4

「主を」おのれの喜びとせよ、とある。「主が下さるもの」ではない。「主が下
さる祝福や恵み」ではない。

主が下さるものを喜びとしているなら、自分の願いが叶えられなかったなら、必
ず不平不満を持つ。与えてくれない主を責めて、鬱屈する。自分の願いがすべて
だ。

しかし、与え主なる主ご自身を求めているなら、もし願いが叶えられなくても、
落胆はない。自分の願ったものから喜びが来るのでなく、主ご自身から喜びが来
るからだ。
願ったものが与えられたから、喜ぶのでなく、ご自身を喜ぶ事を学んで行く。

10人のらい病人は、9人はらい病が癒された事に、歓喜して世に帰ってしまっ
た。私達も自分の願うものが欲しいばかりで、与え主が眼中にないなら危険だ。

それなら願い事さえ叶えてくれれば、誰でもよい事になる。ある婦人が子供が欲
しくて、それは強烈な願望で、どうあっても絶対に欲しいと思った時に、気づか
された。

願望が余りに強烈になる時、見えなくなり、与えてさえくれれば、誰でもよいと
まで進んで行く事に愕然とした。恵みを何が何でも、もぎ取ろうとしている恐ろ
しい自分に気づいた。
涙が溢れ心から悔い改めて明け渡した。心すっきりし、御心でなければ、もうよ
いと心から思えた。心の隅々まで全き平安になり、執着無くなり、主が喜びとな
った。その後、子供が与えられたのだった。与えられたもの以上に、主に、心か
ら感謝した。   
・・・・・・・・・・・・・・・・
一つ間違えると、神を自分の欲望充足手段に利用してしまう。悲しい。主を喜び
としようと、心を向けて行くので、主のお心がわかり、御心にそって求めること
ができ、その祈りは答えられる。「願い事」ばかりでなく、今日は「与え主」に
心を向けてみよう。


2009年03月15日(日)

「私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ」詩篇43:4

「私の最も喜びとする○○」この○○の中に、何が入るだろう。
建前ではなく本音で、喜びとするものは何だろう。それは極めて重要だ。それが
全生活の、生き方の基盤となっている。
必ずそれに従って動いて行く。物事を決断して行く時に、そのように選択する。

例えば、人からの誉れを求めているなら、人がどう見るかが判断基準になる。神
がどう思われるか、自分がどう思うかでなく、人にどう思われるかを基盤におい
て物事を決めて行く。

求めているものが富なら、絶対に損はしない。損得が判断基準で、すべての場合
に得な方を選択する。神の御心でなく、損か得かで動いて行く。
又、楽な人生を求めているなら、それが正しいか、真実かどうかでなく、とにか
く安楽な道を選択する。しんどい事はよけ、危険は絶対に冒さない。

あなたの日々の生活を振り返るなら、建前ではなく、心の底にあるものによって、
本音によって選択し、決定している事に気づくだろう。

名誉、地位、人、賞賛、理想、自己実現、楽な生活・・求めているものは何だろう。
まず、自分が何を大切にして、何を求めているかに気づいて、認める事から始ま
る。
決して神ではない、神以外のものであると、気づく事は良い事だ。そこから成長
が始まる。悔い改めて、神の御心は何か、何が神に喜ばれる事なのか、神のお心
を求めて行ける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結局は、自分の底の本音に従って、行動している。その本当の自分に気づくこと
からしか始まらない。そこが変わらないと、信仰人生変わらない。自分に向き合
い、認めた時、神が変えて下さる。最も喜びとするものは、何だろう?


2009年03月14日(土)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16

                          
主によっておおいはすでに取り除かれている。問題無い。ところが、私達の側に
おおいがあり遮断してしまうのだ。

何がおおいとなるのか。自分の思い、世の価値観がおおいとなり、神の心が見え
ない。ヴェールがかかっているようだ。自分の思いがあるばかりだ。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり」のように、神の思いは私達の思
いとかなり違う。天と地ほどに違うので、肉の思いの方がしっくりきて、一見ま
ともに、常識的に見えてしまう。

当時の人々には、主より、パリサイ人の方が常識的でまともに見えたろう。「わ
たしは天から下って来たパン」「わたしを食べる者は生きる」などと、頭では理
解不能だ。わけがわからない。「50才にならぬあなたが、アブラハムを見たの
か」とユダヤ人が言ったように。常識では判断つかない。だから肉がまともに見
える。

心の一新によって変えられ、思いが新たにされる事が必要だ。

又、自己中心はおおいとなる。自分中心なため神が見えない。天動説で、自分が
中心で周囲が回っているし、どこまでも自分が回そうとする。それがおおいとな
る。
又、主から目を離し、自分と状況だけを見ると、おおいとなり落ち込んで行く。
自己憐憫の殻に真っ逆さまだ。

主とあなたの間に、おおいとなっているものは何か。御霊に探って頂こう。主に
向いて、明け渡して行く時、そのおおいが取り除かれる。御霊の働きだ。
・・・・・・・・・・・・・
自分は、何がおおいとなっているのだろう。何か、もやがかかっているような状
態なら、御霊によく心を探って頂こう。自分の思い、欲、思い煩い・・示された
ものを明け渡して行こう。まず主に向いて行こう。


2009年03月13日(金)

「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ガラテヤ8:15



人を恨んで憎しみで、がんじがらめになった事があるだろうか。
悶々状態で、相手が目の前にいようといまいと、四六時中、心は拘束され煩悶する。
苦しいのは相手ではなく自分だ。

妬みも同様だ。心が妬む相手に全時間拘束されてしまう。妬みは憎悪へと増幅し、危険なものへと増長して行く。

そして更に憎み、妬む、自分自身が嫌で、自己嫌悪の深い泥沼に陥る。どう生きたいのだろう。煩悶の中にいたいのか、憎しみや妬みから解放され、相手を愛して生きたいのか。これは自らの選択だ。

御霊は愛を与えて下さるが、自分は果たしてそうしたいのか、それを選ぶかどうかだ。解決は、妬みや憎しみを抑え込む事ではなく、ふたをし無い事にする事ではない。

抑え込んでも、厳然とそこに存在するので、事ある度に出て来る。
まず御前に、憎しみ、妬みを認めることだ。悔い改めて、神のもとへ持って行くなら、神がそれを引き受けて、対処して下さる。

出て来る度に、神を呼び、委ね続けることだ。人にはできない事が、神にはできる。
御霊によって、からだの行ないを殺す事は、一瞬一瞬、神にありのままの汚い、醜い自分を見せ、認めて行くことだ。

「明らかにされたものはみな、光」だ。神を頼り、神を選択し続けること、その時、御霊によって打ち勝って行く。
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次々と湧き上がる肉の苦い思いの度に、神様に助けを求めよう。ありのままの思いを告げていこう。それは何度も続くだろうが、必ず神様が触れて下さり、勝利へと導かれる。


2009年03月12日(木)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



この世の価値観でいう「自由」は、本当の自由でなく、放縦でありわがままであり、自己中心だ。放蕩息子は自由を求めて、父親のもとを去った。

何の邪魔もされず、干渉されず、自分の好き放題をして生きる事が自由だと、はき違えたが、それは放蕩であり、そこには「罪」がある。

人が異性と間違った関係を持つ時に言う。自分に正直に自由に生きるのだと。
責任の伴わない自由などあり得ない。自由には責任が伴う。

肉欲に誘惑されて行き着く先は死だ。肉で生き、肉を発散させる事は決して自由なのではなく、それは罪であり、罪の奴隷だ。

大事な事は、御言葉が真理であり、御言葉に従うことから自由は来る。
御霊の自由は御言葉に基づく。嫌な相手に対し、肉は憎んでいたい、憎む事が心地良い。

しかし、新しい自分は異なる。憎む事は不自由だ。憎むなら平安が失せ、苦しみは増し、悶々状態に陥る。

真理に従って、主に心を明け渡し、御霊の支配に委ねて行く時、憎む事ではなく愛する事を選び取る。実は愛する事が自由なのだ。

憎む時、心はがんじがらめだが、愛する時、解き放たれ、平安が満ちる。
真理に従えば従うほど、私たちは自由にされ、平安にされる。

今、心が苦しく悶々状態なら、御霊の導きに従おう。苦しみから解き放たれる。 
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御言葉に頼らないルールでいくら頑張っても、それが良い事であっても自分の奴隷だ。真の自由は、みこころの真ん中を歩む時に来る。神様に触れられ、助けられ、のびのびと今日も歩もう。


2009年03月11日(水)

「割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです」Tコリント7:19



サウルはサムエルから指示を受けた。「先にギルガルに下り、七日間待て。
私が行って全焼のいけにえと和解のいけにえをささげるから」と。

それでサウルはギルガルに下り、七日間待ったがサムエルは来なかった。
戦いは劣勢を極め、民は怯え逃げようとしていた。民をつなぎ止めるため、サウルは祭司にしか献げることのできない、いけにえを献げた。

又、アマレクとの戦いでは、すべてのものを聖絶せよとの命令にも関わらず、最も良いものを惜しみ、値打ちのないものだけを聖絶した。

祭司しか携わる事の出来ない事をするなど霊的資質を問われるが、まず、いけにえがどうのこうの、聖絶する、しないという事ではなく、「主の御声に聞き従わない」という事がサウルの問題だった。

「聞き従うことは、いけにえにまさり」と、御声を聞いて従う事が求められている。私たちはどうだろう。

重要な事は、神のために、「自分が」良いと思うことを行なう事ではなく、「神が」言われる事をよく聞き、行なっていく事だ。

手当たり次第に何か善行をすればよいでは、断じてなくて、神のみこころを行うことが最重要だ。自分の思いで進むと、サウルになってしまう。

大切な事は、自分がどう思うか、どうするかでなく、「神の御声」に聞き、従う事だ。
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一見、良いと思われることの中にも様々な肉の思いが混ざっている。何事も先走って行動するのではなく静まって、謙遜に御声を聞き、従って行きたい。


2009年03月10日(火)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をおまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33



王がAさんに6000億を貸していた。清算の時が来たが、Aは
返済不能で、懇願するので、王はかわいそうに思い、赦し、借金
の6000億を全額免除にした。

そのAが出て行くと、Aに100万の借金があるBに出会った。
Bも返済できず、Aに懇願した。もう少し待ってくれと。しかし、Aは赦さず、Bを牢に投げ入れた。

心を痛めた仲間たちは、事の次第を王に報告した。すると、王は
怒って、Aに借金を全額返すまで投獄した。

せっかく免除された借金が、自分に負債のある者を赦さなかった
ばっかりに、返って来た。

免除された6000億は、そのままでなく、王が肩代わりし、
その負債を負う事になるのだ。

何という王のあわれみだろう。測り知れない莫大なあわれみを受けているのに、人をあわれむ事ができない。

どこまでも自己中心で、これが人間の姿であり、罪の性質だ。
自分は神に赦されているのに、人を赦す事ができない。

二つの道がある。決して自分を変えないで、そういうものだと、誰でもそうだと、根に恨みと憎しみを持ったまま生きて行くか。

そうではなく、自分が変えられて、神に喜ばれる道、栄光が現される道へ向かうか。岐路に立っているだろうか。自分にはできない。

しかし、神にはおできになる。
神は赦す力を与えて下さる。このままか、新たに信仰に前進するのか。あなたの選択だ。
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私には出来なくても、神様には出来る。そう応答して行くことが信仰だ。憎み続けることから解放して下さる神様を信じて、十字架を覚えて、変わって行けますように。


2009年03月09日(月)

「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」マタイ20:15



この箇所は、ペテロの質問への答えの中で語られている。
その質問は「私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってきました。私たちは何がもらえるのでしょうか」だ。

主はそれに答えて「先の者があとになり、あとの者が先になる」と言われた。
金持ちの役人が、富を捨てる事ができず、主のもとを去った出来事のあとに続いている。

それを見てペテロは「自分たちは何もかも捨てて、従っているのだから、何をもらえるのか」と。それを受けて、主はぶどう園の主人の話をされた。

これは天の御国の価値観であり、先の者があとになり、あとの者が先になる、この世の価値観と正反対だ。

労働時間の長さに従い、でなく、逆の順で賃金を払い出した。
1時間、3時間〜12時間まですべて同額だ。この世ではあり得ない。計算が成り立たない。天の御国は、神の恵みが支配する世界だ。

受けるに値しない者に与えられるプレゼントだ。そして「自分のものを自分の思うようにする」神の絶対的な主権の世界だ。

「気前のいい」主人であり溢れるばかりに与えて下さるお方だ。
「天の御国は・・ぶどう園の主人のようなもの」ここでの主役は労務者でなく、ぶどう園の主人だ。
神の御国は、神が崇められ、神の栄光のための場所だ。これが御国の価値観だ。
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神様は、一人でも多くの人に恵みを分け与えたいと思っておられる。先に神様を知ったゆえの喜び恵みに感謝し、惜しみなく与えられる神様を賛美しよう。


2009年03月08日(日)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Tヨハネ3:17

こんな人が目の前にいたらどうだろう。
いつもケチをつける人、何かにつけて文句ばかり言う人、自分の思い込みで決め
つける人、自分の事を喋るばかりで、人の話を聞かない人、いつも自慢する人、
人のあら探しばかりしている人、人の悪口ばかり言う人・・とてもじゃないが、
「好き」になれない。

しかし、聖書に一言も、相手を好きになれとは言っていない。「愛しなさい」だ。
愛する事は、好きになる事ではない。好きになれなくても構わない。好きになれ
ずとも、愛することはできる。

聖書の中で言っている愛は、すべて「意志的愛」だ。感情の愛ではなく、意志の
愛だ。浮き沈みの激しい感情に、愛が依存していたなら、どこへ行くかわからな
い。感情はコントロール不能だ。

しかし、意志はコントロールできる。愛するとは、相手の必要が生じた時に、自
分に出来ることで犠牲を払うことだ。自らの時間、労力、富の一部を献げること
だ。

「塩狩峠」のように命を献げるなどと、大きな事は普通の人生では起こらない。
日常で、目の前の事、小さな事であっても、自分の持っているものを与えて行く
こと、それが愛することだ。

自分にできる事をすればよい。今、具体的に聖霊によって示される事があるだろ
うか。行ないと真実をもって愛するなら、神の御前に心を安らかにされる。

そして大胆に神の御前に出ることができ、求めるものは何でも頂くことができる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛するとは、御霊の示されるままに、自分の時間、労力、富を献げることだ。自
分に出来ることで、少しの犠牲を払うこと。それが行ないと真実をもって愛する
ことであり、神に喜ばれることだ。神に従うので、祈りが答えられて行く。


2009年03月07日(土)

「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:8


エデンの園で、アダムとエバは、食べるなと命じられていた善悪の知識の木の実
を取って食べた。サタンに誘惑されての事だった。

その時に、罪が入った。自分たちが裸である事を知り、いちじくの葉をつづり合
わせて、腰のおおいを作った。

そして主の御声を聞いた時に、御顔を避けて、木の間に隠れた。主は彼らと語り、
交わりを持つ事を喜び、楽しんでおられた。
ところが彼らは隠れた。「あなたは、どこにいるのか」との語りかけに「裸なの
で、恐れて、隠れた」と答えた。隠れた本当の原因は、裸なので、恐れたのでは
なく、罪を犯したから恐れた。

それで神は「裸だと誰が教えたのか」と原因へと向かわせ、そしてはっきりと
「食べてはならないと命じた木から食べたのか」と、罪そのものに言及され、悔
い改めへと導こうとされた。

しかし「ごめんなさい、食べました」の悔い改めでなく、エバへの責任転嫁に及
んだ。しかし、尚も神は、その人間に皮の衣を作り、着せて下さった。動物の血
で罪をおおうものであった。

やがて御子キリストを遣わし、十字架の血潮によって交わりの回復の道を備えて
下さった。血潮のゆえに、罪赦され、隠れる事なく、恐れなく、主との交わりの
道が開かれた。何の隔てもなく交われる、罪人のためにいかばかりの愛だろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
罪を犯した人間を見捨てず、追いかけ、どこまでも追いかけ、至れり尽くせりの
愛を注ぎ、最後は御子まで殺して下さった。今、御霊の語りかけがあれば、促し
に従おう。愛の御声だ。愛されている事がわかる。


2009年03月06日(金)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」 ヨハネ3:30


 
「私は盛んになり」がこの世の価値観だ。毎日しんどい目をして働くのは、より豊かな快適な生活を求めるためであり、自分の才能を開花させて、より自己充足を計りたい、自己実現のためには、時間、富、労力を惜しまない。

「私は、私は、私のために」「私・・私・・」がこの世界だ。しかし、信仰の世界は、そうではなく神中心だ。

それを妨げる、自己中心、自己主張、自己防衛・・それらの自己が衰えて行くほどに、私たちを通して、キリストの香りが現れ出る。

私たちの意志は頑強だ。強固であり、何が何でも思い通りに事を運びたい。
自分の思いが強いのだ。その強い肉の思いを、神の御手の中で、神の思いに沿うものとして、柔らかい心に変えられる。

そのために、しょっ中、思い通りにならない事態を目の前に置かれる。
頑なな意志は、その思い通りにならない事態に、いらつき、怒り、焦り、悶々とする。

神がその頑固な強情な意志を砕き、衰えさせて下さっている。
今、道がふさがれ、すべてが自分の思い通りに行かず、いら立っているなら、神から来ている事を覚えよう。

キリストが大きくなられるためには、あなたは衰えなければならない。
思い通りにならない事態を受け入れて、神に服することが成長だ。
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自分を良く見せたいとは思わなくても、悪くは見られたくない、誤解されたら困る。そして、いつの間にか自分、自分になっている。主が大きくなり、騒がしい自分が衰えて行きますように。


2009年03月05日(木)

「また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます」コロサイ4:12


神が、私たちのために御心を持っておられ、御心を求めよと言っておられるからには、御心を教えて下さるはずだ。

祈り求めよう。神の御心は、神のみことばと必ず一致する。
神は矛盾した事はなさらない。御言葉に反する導きをされる事はない。

具体的に多くの原則が記してあるので、それに従えばよい。聖書に書いていない、個人的、個別的な事柄は、みことばと、祈りによる聖霊の平安と、環境が一致することが原則だ。

よくよく祈って、導きを求めていると、聖書を読んでいる中で、又、礼拝メッセージの中で、聖書の学びの中で、神からの語りかけが、心の耳に聞こえて来る。

そして、よく自分自身も吟味しつつ、自分が、そうする事は神の栄光を現わすか、証しとなるか、周囲のつまづきとならないかも、考えてみるとよい。

動機は大切だ。ジョージ・ミュラーは大きな働きをする時に、神の栄光を自分が取ってしまわないかを、必ず自らの動機を探った。

神の導きは、必ず秩序があり皆にとっても祝福となる。又、神の御心なら、周囲の兄弟姉妹とも一致があり、周囲も平安がある。

自分は確信があるが、よく祈ってくれている人々が反対の場合、突き進まないで、よく祈りを積む方が安全だ。
御心であるが、時期尚早、まだ「神の時」でないのかも知れない。
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確信を持って歩みたい。そのために祈り続けよう。御心ならば力強く、そうでないなら方向を変えてと、あらゆる事を祈りを通して導かれますように。


2009年03月04日(水)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」エペソ4:26



「怒れ、しかし罪を犯してはならない」という意味だ。怒りがすべて罪なのではない。
正しい怒りがある。主はパリサイ人の偽善に、又、神殿が商売の場とされている事にひどく怒られた。

悪や罪を憎まなくては、神を愛する事は出来ない。神を愛するとは罪を憎む事だ。
怒りに二種類あり、正しい怒りと自我から出る怒りがある。

では、怒りはどのように対処すればよいのか。まず、自分の怒りをきちんと認める事だ。
腹を立てているのに、怒っていない振りをしてはいけない。

クリスチャンだからと、怒るべきでないと、自分の怒りを認めない事がある。
とにかく怒っている事実を認める事だ。次にその怒りの原因をよく考えてみる。

なぜ怒っているのか。自我に、プライドに触れるからか。自分の一体何に触れるのか。
自分の名誉、めんつが損なわれるのか。又は、神のため、人のための怒りなのか。

次に、怒りはそのまま表現してはならない。感情的なままで人に対応すると、相手を傷つけ、自分も傷つき、必ず後悔する事になる。

自分の怒りを抑え込む事も、逆に爆発させる事もよくない。まず人ではなく神の御前に行き、ことごとく怒りを神に告げる事だ。
そして、その後、きちんと気持ちを人に告げるよう、御霊に導かれるなら、そうすべきだ。
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どこから来ている怒りなのか、まず神様にすべてを告げて行く時、感情のままに動く事から守られ、怒りの源も明らかにされる。そして次にするべき事を示される。


2009年03月03日(火)

「あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」創世記28:15



兄と父親をだまして祝福を奪い取ったヤコブ。怒った兄はヤコブを殺そうとし、母親の計らいで、おじラバンのもとへ逃亡するはめになった。

遠距離を旅立った。日暮れて野宿する事になる。一人ぼっちだ。
どんなにか孤独で、不安で、恐れに襲われた事だろう。

先を考えても不安で一杯だ。その時、主がかたわらに立たれた。
主は全くヤコブを責められない。一言の非難も無い。アブラハムと同じ約束が告げられた。

「この地を子孫に与え、子孫は地のちりのようになり・・祝福される」と。
そして「わたしはあなたと共にあり、あなたをこの地に連れ戻す」「わたしは、約束した事を成し遂げる」と。

「わたしが成し遂げる」と言われる。自我が強く、狡猾で策略家のヤコブに、更にうわてのラバンを備え、ラバンのもとで苦しい辛い訓練を受ける。

神が配置された環境だ。以前はだましたが、今度はラバンにだまされ、神は侮られる方ではない、必ず自分に返る。

しかし、そこでも尚も所有物を増やし、負けていないヤコブだ。
神はそんなヤコブであるに関わらず、選ばれ、愛された。
愛するがゆえヤコブをとことん取り扱われる。

約束通り、この地に連れ戻された時には、ヤコブは砕かれ、別人だった。造り変えられた。「神が」成し遂げられる。「わたしはあなたとともにおり」神は握った手を決して放されず、あなたを造り変えられる。
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不完全でいびつな者をなおも愛し、必ず約束の地に連れて行って下さる神様を信じて訓練のための御手が今、臨んでいるのなら、みこころのままに従って行こう。


2009年03月02日(月)

「3年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた」Uサムエル21:1



祈っても祈っても、なぜか感触がなく、答えが無いことを経験するだろうか。
又、何か、引き続く状況が目の前にあるだろうか。

そんな時の、鍵をダビデが示してくれている。ダビデは3年間の続くききんの中で、ききんが何とかなるように、「どうか、何とかして下さい」と、祈ったのではなくて、「主のみこころを伺った」。

ダビデはこの事の中に、主の御顔を求め、主の御心を求めた。豊作を求めたのでなく、この事の原因を伺った。

この祈りは主の心にかなったようで、すぐに答えが来た。サウルがギブオン人を殺すという罪を犯していた。盟約を結んでいたに関わらず、サウルは熱心の余り罪を犯した。

その罪を神はお許しにならなかった。そこで、ダビデはギブオン人たちを呼び、彼らが求める通りに、その事の償いを果たした。

「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」罪が示され、その償いをした時に、神は祈りに目を留められた。

罪は祈りの障害となる。罪があるなら、祈りは聞かれない。
「あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないようにした」。熱心に祈っても答えが無い時には、立ち止まって、原因を求め、主の御心を伺おう。

主はその祈りに答えて、御心を示し、祈りを軌道修正し、正しく導いて下さる。祈りを点検しよう。
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答えのない祈りもメッセージだ。祈りすれど手応えのない時、吟味してみよう。神様との正しい関係にあるだろうか。今祈るべき祈りは、悔い改めの祈りかもしれない。御心を示されますように。


2009年03月01日(日)

「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13



あなたも赦せない相手、赦せない心を経験した事があるだろう。怒りと恨み、憎
しみ、妬み、敵対心で、四六時中がんじがらめだ。赦せない相手がいるなら、ど
んなに楽しい最中でも、心に陰を落とし、心が暗くなる。

相手が目の前にいなくても心がずっと囚われている。牢獄の中だ。結局相手に縛
られ、拘束され、苦しいのは相手でなく自分だ。赦せない心は、自らの心をむし
ばみ破壊して行く。回りにも害毒を流して行く恐ろしい罪だ。

又、相手への憎しみと同時に、許す事の出来ない自分が嫌で、自己嫌悪に苦しむ
事になる。相手を憎み、自分も責め、これは悶々たる苦しみだ。

苦しくてたまらないのに、しかし、恨むのを止めたくない自分がいる。これが自
我であり自らの罪だ。どうしたら解放されるのか。ありのまま主の御前に出る事
だ。

止められないのでなく、苦しいのに、罪を断ち切りたくない自分、どうにも出来
ない自我、本当の姿を打ち明けよう。
無力を認めて、赦せない事、そうでなく、本音は赦したくない事、しかし助けが
欲しい事を神に告げよう。助けを求めて祈ろう。

神はその本音の祈りを待っておられる。自分で赦す事は不可能だ。しかし、「そ
れは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」神は必
ず祈りに答えて下さる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
赦せない心は牢獄の中だ。閉塞感で苦しく平安がない。平安が無いという事は、
自分が間違っている。「赦したくない」気持ちを神に告げ、助けを求めよう。助
けて下さる。牢獄から出るなら解放だ。どんなに喜び溢れるだろう。