2009年04月30日(木)

「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」詩編6:9 

 

ダビデは、サウル王に妬まれ、命をつけ狙われる。女たちの「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」の言葉に、サウルは怒りと嫉妬の炎が燃え上がった。

それ以来、ダビデは逃げ回る事になる。サウル王から殺されかけ、勿論敵からも命を狙われ、息子の謀反により、息子からも狙われる。
ダビデ自身が病にも陥り、もう状況は周囲からは攻撃受け、自分自身も弱り、絶体絶命の窮地だ。

非常なる悩みと苦しみの中にいた。ダビデこそは神の心にかなった人だった。信仰もって人生を歩むなら、悩みが無くなるのではない。悩みや問題は必ず来る。
私達は苦しくてたまらず、とにかくその問題が無くなる事を願う。

状況が変わる事を願う。問題が問題なのだと思ってしまう。
しかし、そうではない。問題は、何ら問題ではない。苦しみの中でこそ、神が神であられる事を身をもって知って行く。

ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、泣いて泣いて嘆いた。
苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。

「主よいつまでですか、あなたは」と、ありのままの気持ちを神にぶつけ、順境の時には決して経験出来ない恵みだ。
何とかしようともがき、走り回るのではなく、問題をすべて神に持ち出せ。

自分で当たると空回りだ。心を注ぎ出し、神に寄りかかるのだ。神との近い交わりを経験し、祈りは聞かれる。
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28日、29日は、スタッフ帰省等で県外へおりました。出先から配信の予定でしたが、出来ず、申し訳ありませんでした。


2009年04月27日(月)

「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」詩編39:9




この詩編記者は、病にあり、大きな苦しみの中で「なぜこうなのか、どうしてこんな目に」との不満が鬱積していた。

「しびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいて」いた。
嘆きがあり、又、今にも、つまづき倒れそうで不安で一杯でもあった。

しかし、舌で罪を犯してはいけないと、気をつけようと、口に口輪をはめた。
しかし、ひたすら沈黙し、口を抑えていると、心の痛みは激高し、ストレスが更に内攻し、爆発しそうだった。

それを彼は人にでなく、神にぶつけた。心の中の本音を吐き出し、気持ちを神に告げた。
人生は、はかなく虚しい、私の一生は無いのも同然と。
心の内をことごとく吐き出した時、信仰が戻って来たのだ。

この虚しい人生での望みをかけられるのは何かと、見上げた時、神を見い出した。「私の望み、それはあなたです」と。

そして、本音を神にことごとく告げた後、「私は黙し、口を開きません」と言っている。
同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、ストレスに陥ったのとは、全く異なる。

「あなたがそうなさったからです」と、すべてに神の計画がある事を認め、それを受け入れ、すべてを神に委ねたのだ。
私達も本音をことごとく神に告げて、初めて、神の計画を受け入れる事が出来る。神に吐きだし、気持ちを告げよう。
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吐き出す相手は、人ではなく、まず神様であることを覚えよう。辛く苦しい時、うっかり口から出す言葉で更に自分自身も傷ついていく。悲しい時も、嬉しい時も神様と話そう。


2009年04月25日(土)

「レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った」U歴代12:1

ユダのレハブアム王は勢力を増し、国を治めるようになると、主を求める事を止
めた。主により確立された王位を、自分の力で得たものと勘違いした。

不信の罪に陥って行った。これは、人が、どんな時に神を離れるかの、典型的な
例だ。苦しい試練の中では、人は、神に向かい、必死で神をあがき求める。神に
拠りすがる。苦しみは人を神に追いやる。

試練の時は、むしろ神に近い。人が神を離れるのは、順境の時だ。神に頼る必要
がないので、自分の力を誇り、高ぶってしまう。自分の力だと錯覚し、慢心して
罪を犯してしまう。試練でなく、成功の時に、人がよく倒れてしまうのはこのた
めだ。

エジプト王シシャクがエルサレムにまで攻め上って来た。その時、預言者が「あ
なたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャク
の手に渡した」と主の言葉を伝えた。神から出た事であった。

すると王はへりくだり「主は正しい」と言った。彼らの悔い改めをご覧になり主
は裁きを撤回された。今、あなたの目の前の問題に「自分は正しい」としていな
いか。自分の力を誇り、高ぶっていないか。

「主は正しい」とへりくだって、悔い改める時、いかなる状況であれ、救いを与
えて下さる。高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられる。

成功で霊的に倒れた人は少なくない。成功し、強くなる時、自分の力によるとの
高ぶりの誘惑が来る。自分を誇りたい、まさに悪魔の誘惑だ。成功の時こそ慎み、
栄光を神に帰し、ますますへりくだるべきだ。

・・・・・・・・・・・・
神が与えて下さったものを、自分が得たと勘違いしてしまう。自分を誇り、サタ
ンにやられてしまう。今、与えられているすべてものは、神によると、今一度へ
りくだり、感謝を献げよう。


2009年04月24日(金)

『「主よ。この人はどうですか。」・・「・・あなたに何のかかわりがありますかあなたは、わたしに従いなさい」』ヨハネ21:22



ペテロは、主に御声をかけられ、主に従って行こうとした時に、ヨハネのことが非常に気になった。それで、ヨハネはどうですかと、主に問うた。
すると、主はヨハネとあなたは関係無い。ヨハネでなく、わたしを見て、わたしに従えと言われた。

あなたにも、特に気になる相手がいるだろうか。
心の底で、絶えず比較している。ある人に親友がいて、ずっと共に歩んで来た。
ある時、その親友が功績をあげ、皆からの賞賛を受け、注目の的となった。

その時に、心が穏やかでなくなり、ざらつくのを感じた。
心が辛くなり、帰宅後すぐに、主の御前に静まった。
心の内を洗いざらい告げ、祈っていると、御霊は心を照らし出して下さった。

自分では決して認めたくないので、見もせず触れもしなかったが、心の奥に厳然と、以前から親友への嫉妬が巣くっていた事を。それを認め、心から悔い改めた。
心がすっきりし、解放された。比較から、羨望や妬みが生じ、優越感や劣等感にさいなまれて行く。

妬みが高じると、いつしか憎しみになって行き、心を腐らせてしまう。
ペテロは横でなく、上を見上げ、主だけを仰いで行ったので、使命を全うできた。殉教の死にまで、従い抜くことができた。
「あなたは、わたしに従いなさい」とあなたも御声を聞くだろうか。
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人と自分は、全く違うと知っているのがクリスチャンだ。人を見て心がざらつく時、主を見上げよう。人との比較の中から、主が引き上げて下さる。


2009年04月23日(木)

「すべての事について、感謝しなさい」Tテサロニケ5:18



一人の女性が、その週の礼拝で、「すべての事について感謝しなさい」のメッセージを聞いた。神は独り子を与えて下さったほどに愛していて下さるし、神には完璧なご計画があるし、一羽の雀さえ、神の許しなしには地に落ちない、全主権と支配が神にあるなら、すべての事が感謝だと思えた。

その週に、特に苦手な運転をしていた時に、知らずに、狭い行き止まりの路地に入り込んでしまった。方向変換もUターンもできず、そのままバックする事になり、狭くてギリギリだ。

角がどうしても曲がれない。何度も切り返して、ガガーッ!と大きな音を立てる。
その内、人々が何事かと出て来る。ますます焦って、頭に血がのぼり、わけわからなくなり、どうにもならない。パニックになり、神様!と一瞬心を静めた。

神に心を向け、「神様、バックできない事を感謝します。助けて下さい」と祈った。
その瞬間、心が変えられ、心静まり平安になり、落ち着いてゆっくりと、祈りながら対処できた。

すると、何と、うまく抜け出すことができたのだ。しかし、その事より、神が働いて下さったこと、神の愛を知れたことが嬉しく、喜び溢れた。
すべての事が主権の中で起きている事、ご計画があり、最善以下の事は決してされない事、感謝する事はその神を認める事だ。
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すべてのことに感謝できるのが、神様を知っている私達の特権だ。感謝する時、共にいて下さる神様をおぼえる。今日も目の前から来るものを喜んで受け取っていこう。


2009年04月22日(水)

「わたしの栄光・・を見ながら、このように十度もわたしを試みて聞き従わなかった者たちは・・先祖たちに誓った地を見ることがない」民数記14:32


ヨシュアとカレブ以外の民たちは、斥候の言い分を信じ、不信仰に陥った。民はみな巨人であり、自分たちはいなごのように見えた。自分たちは攻め上れない。

あの民は自分たちよりも強いからと。民たちは大声で叫び、泣き明かし、エジプトの方が良かった、エジプトへ帰ろうと言い出した。

ヨシュアとカレブは信仰に立ち、上って行こう、彼らは自分たちのえじきとなると言った。乳と蜜の流れる地カナンは、神の約束の地だ。今、目の前にある。神は約束を成就して下さる。

それは必ず与えられる。それを受け取るのに必要なものは「信仰」だけだ。
しかし、自らの不信仰が門を閉じてしまった。向きを変えて荒野へ出発することになり、結局、ヨシュアとカレブ以外は約束の地に入ることができなかった。

神は与えていて下さる。だのに、受け取る事ができなかった。巨人がいたからではない。自分たちがいなごのようであったからではない。「信仰」が無かったからだ。

私たちも、目の前に巨人がいるだろうか。恐れさせ、落胆させ、気力をくじく巨人だろうか。
この不信仰ゆえに賜物を受け取れなかった民を思い出し「ぜひとも、上って行って占領しよう。

「必ずできるから」と信仰を献げて前進しよう。主を信じて、約束のものを受け取ろう。
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神様に頼ることが一番確かなのに、恐れや不安に襲われた時、それ以外のものに頼ってしまう。
経験や、知恵や人の言葉、それらが御約束の言葉より大きくなっていないだろうか。御言葉に、信仰に立とう。


2009年04月21日(火)

「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」マタイ14:32



弟子たちの舟は、ガリラヤ湖で強い逆風に会った。
幾ら懸命に漕いでも、舟は前に進まず、漕ぐのをやめたら、逆風に押し流されてしまう。

弟子たちはもう必死で、死にもの狂いで、片時も気をゆるめられず、逆風と悪戦苦闘しながら舟を漕いでいた。
それが夕刻から深夜未明まで続いた。私たちもこのような状況に遭遇することがある。

人生の逆風だ。幾ら漕いでも前に進まない。解決なく、苦しみが続き、休むことができず、心身消耗しきって、へとへとに疲れ果てる。
そんな時に、ずっと様子を見ておられた主が近づいて来られた。

しかし、彼らは深夜の海上で、向こうから来る人影を幽霊だと思い、恐怖の叫び声を上げた。「しっかりしなさい。わたしだ」と、主は御声をかけられた。

結果的に、主が、彼らの舟に乗り込まれた時に、逆風がピタッとやんだ。
私たちは思うようにならない中で、右往左往し、必死に何とかして自分を救おうとする。

自分を救おうと、ただただ自分の事に精一杯で、思い煩いと不安に飲み込まれて、「わたしだ」と近づいておられる主がわからない。
解決は、舟の中に主をお迎えすることだ、その時、ピタリと風がやんだ。

問題のまっただ中に主に来て頂くこと、自分で何とかしようとせず、主を認め、無力な自分を認め、問題を主にお委ねすることだ。
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無力な自分をすぐに忘れて右往左往する。いつも些細な事でも主に委ね、明け渡して行く事を覚えていたい。何でも祈り、いつも主と語りながら今日を生きたい。


2009年04月20日(月)

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に・・私たちのたましいは主を待ち望む」詩編33:18



祈りには、失望することなく、忍耐をもって祈り続けることが必要な面がある。まず第一に、「求めること」が必要だ。

まずもって祈らなければ、何も始まらない。
「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」願い始める時、その祈りがなかなか聞かれない事を経験する。

聞かれないのは、悪い動機ではないかと、動機を探るが、特にとがめは無い。しかし、祈り続けることに疲れてしまって、途中で祈りをやめてしまったりする。

神はしばしば「待つ」ことを教えられる。
聖書には何度も何度も「主を待ち望め」と出て来る。
すぐに祈りの答えを得たなら、「待つ」必要はない。

逆に言えば、忍耐を養われ培われる事がない。
なぜ、神は待つことを学ばせられるのか。一心に答えを待つためには、確信が必要だ。

確信の無いものを待つことはできない。そして、主への揺るぎない信頼が必要だ。信頼が無ければ、待つことはしない。そして、希望が必要とされる。

待ち続けるためには、本物の信仰が要る。神は、私たちの内に、本物の信仰を練り鍛え、培おうとしておられる。

そのために、神だけを信じて、見える所がいかに逆行していようと、期待と望みを神にだけ置いて待ち続ける、そのような状況を作られる。
今、神は、あなたにも本物の信仰を培おうとしておられるのではないか。
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祈りが答えられる時、待っていた時の意味がわかるだろう。待つ間も神様はともにいて下さる。疑いが信頼へと変わり、固い思いが砕かれ、整えられるため待たされているのかもしれない。


2009年04月19日(日)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14

祈りは聞かれるが、聞かれない時は、「ノー」の答えか、あるいは尚も祈り続け
よということだ。ノーの答えの一つに、「動機」が間違っていることがある。

動機は非常に大切だ。動機が間違っていたなら、決して聞かれる事はない。ある
婦人が赤ちゃんが欲しいと神に願い祈っていた。ところが、祈り続けるものの、
幾ら祈っても祈っても答えがない。

与えられないと、ますます願望と執着は強くなり、委ねて行く事とは逆に向かい、
どんな事をしても絶対に与えられなきゃ嫌だと思った。しかし、余りの気持ちの
強さに、このまま行けば、仮に与えてくれるなら、偶像でも何でもよいとまで行
き着く事になると、愕然とした。

自分が神の上に立って、指図しようとしてる態度、何がなんでも、神から恵みを
もぎ取ろうとしている、欲望のために神を利用する、恐るべき自分の姿に気づか
された。号泣の中で心から悔い改めた。

何もかも神に明け渡し、心すっきりし、平安にされた。もう子供はいいと思えた。
そう思えるほど、心が喜びと平安で満たされていた。

その後、御心のままにと委ねていたら、数年して、医師からは妊娠できない身体
と言われていたのに、神は赤ちゃんを与えて下さった。

喜びであり感謝であったが、何よりも、いかに自我が強く、自己中心であるかを
示され、気づけたこと、間違った心が正され、平安と喜びに満たされたこと、そ
の事が感謝でならなかった。
神が取り扱って下さり、隔てが除かれ、神ご自身との交わりが何よりも喜びとさ
れた、その事が嬉しかった。

・・・・・・・・・・・・
もし、祈りがずっと聞かれないままなら、動機もよく探ってみよう。動機が間違
っているなら、御霊が気づきを与え、祈りの軌道修正をして下さる。そして、御
心にかなった祈りへと導かれ、その祈りは答えられる。


2009年04月18日(土)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11  

エステル記で、ハマンは王に重んじられ、家来は皆、ハマンにひれ伏した。しか
し、モルデカイがそうしないので、ハマンは憤りに満たされた。

そこでモルデカイの民族を根絶やしにする事を画策した。王にうまく取り入り、
動かし、ユダヤ民族皆殺しの、王の命令を取り付けた。

サタンが、この邪悪なハマンを通して、神の計画をつぶし、阻止しようと働いた。
ユダヤ民族皆殺しの勅令が出された。

モルデカイは祈り、王妃エステルに、王にあわれみを求めるよう伝えた。エステ
ルは、召されないで王のもとへ行く者は死刑、そして、自分はこの30日間王に
召されていない。しかし、命をかけるので、自分のために、民に断食の祈りを頼
んだ。

祈りがなされた。ハマンのまずの標的はモデルカイであり、殺害すべく柱まで用
意した。神は祈りに答え、介入された。

王を不眠にし、年代記を読むようにしむけ、モデルカイの手柄を見つけさせた。
結局、神が、ハマンが裏で仕組んだ邪悪な企みを、明るみに出し、明らかにされ
た。

モルデカイ殺害のための柱に、ハマン自らがかけられる事になった。邪悪な企み
は自らの身に返った。サタンの陰湿な企みは、神が明るみに出される。隠れたも
のは明らかにされる。

祈りがなされ、神はモルデカイに知恵を与え、なすべき事を示し、エステルは命
を献げ、行動し、サタンは打ち破られた。陰での邪悪な行ない、陰口や批判は必
ず、神が明るみに出される。サタンを見破り、真理に、光に、愛に歩もう。

・・・・・・・・・・・・
サタンは神の計画を壊そうと、攻撃して来るが、神は切なる祈りに答えて、働か
れる。知恵を与え、指針を与え、なすべき事を示される。争い、分裂、トラブル
の背後にサタンが働いている。真の敵をよく識別できるよう祈ろう。


2009年04月17日(金)

「わたしの民は二つの悪を行った。 湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」エレミヤ2:13



「わき水の泉であるわたしを捨てて」民は神を求めること、頼ることを止めてしまった。自力で、自分の思い通りに生きる事を好み、神を捨てて歩み始めた。

湧き水を捨てるため、心は乾いて、カラカラだ。そのために、こわれた水ためを、自分たちのために掘って行く。それはこれさえあれば、カラカラの心が満たされると思うものだ。

仕事、地位、名声、趣味、異性、金銭、学問、ギャンブル、酒、薬物、グルメ、旅行・・それらはすべてこわれた水ためだ。
次から次と対象を変え、様々なものを追い求める。

それは心が渇いているからだ。満たされていないからだ。
水ためが壊れているので、幾ら水をためても、どんどん流れ出てしまう。

決して心が満たされることはない。どうしてそうなるのか。
湧き水を捨てたからだ。湧き水なら、幾ら汲んでも、尽きることなく湧き出る。
多くの人がもっと収入があれば、素敵な異性がいれば、暖かい家庭があれば、生きがいのある仕事があれば・・幸せになれるのにと考える。

しかし、そうではない。それは壊れた水ためであり、真の幸せは湧き水である神を求めて生きることだ。神に満たされる時に、渇きがピッタリと止む。
尽きる事のない湧き水を得たからだ。方向違いに、壊れた水ためを求めていないだろうか。
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淋しい時、失望落胆の時も、いつも神様とともにいることの出来る人は、自分を見失うことも内側から渇くこともない。尽きない水を、いつも神様に求め、受けるからだ。


2009年04月16日(木)

『彼らは寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った』ルカ8:24

                    
            
弟子達は自力で舟をこいでいた。プロのベテラン漁師であった彼らは、舟を自由自在に操作する事が出来た。

しかし、突然の突風に会い、プロの腕でもどうにもならない。
水をかぶり、身に危険を感じる状況に陥った。このままでは沈没の危機に追い込まれて、舟の中でぐっすり眠っておられる主に助けを求めた。

主は最初に「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。主のお言葉だ。主が言われたからには、必ず向こう岸へ渡れる。
天地がひっくり返っても主の言葉は成し遂げられる。それゆえ、主は嵐の中も平安に熟睡しておられた。

主は起き上がられ、ひと言葉で、ピタッとなぎになってしまった。驚き恐れた弟子たち。「向こう岸へ渡ろう」の御言葉に立つべきであった。途中何があろうと渡れるのだ。

又、舟に主がおられるのに、右往左往だ。
私達も、主に頼らなくても十分やって行けるので、普段は主を無視して、ともの方へ追いやっていないか。

そして何か事があると、主が吹っ飛んでパニックになる。
普段はわからず、主に頼らず自分で舟をこいでいる部分を、試練の時に明らかにされる。
自分で舵取りしている所を、気づかされるだろうか。

自分で何とかしようとしている、その所を主に委ねよう。
主が乗り出され、問題を解決に導いて下さる。
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主が必ず解決して下さると本気で信じているだろうか。ああしなければ、こうしなければと動く前に、主に尋ねてみよう。これでいいのでしょうか、平安ありませんと。そこから、主が、正しい道を示してくださる。


2009年04月15日(水)

 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6                         

 

人は皆、プライドで生きている。男性は仕事や地位に格別高いプライドを持っている。母親は子供に自分の夢を託し、子供により自分のプライドを満たそうとするかも知れない。

プライドは、子供の人生を奪い取ってしまう。様々な対人関係で、プライドとプライドが衝突し、火花を散らし、争い、怒りや憎しみが起こる。

妬みや敵対心、争いは、実はプライドから発生している。
プライドは神の中に自分の価値を見るのでなく、自分の能力や功績によって、自分の価値を量ろうとする。

それは順調に行っている時は、優越感に浸り、うまく行かないと劣等感に落ち込む。プライドは優越感と劣等感を行き来して、心休まる時が無い。一生平安と安堵の無い、虚しい人生だ。

パリサイ人は、徹底してプライドに生きた人達だ。彼らの正しい行ないの動機は、愛とあわれみではなく、プライドだった。

主キリストは、プライドとは何の関係もなく、徹底して愛とあわれみに生きられた。様々な事態の中で、プライドが砕かれ、へりくだった者とされる。主はご自分を無にしてへりくだって仕えられた。

私たちは自分で自分を無にする事も、砕く事もできない。
主の取り扱いだけが、自分を変えてくれる。今、問題があるだろうか。プライドが砕かれるためではないか。 
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プライドのために、どれだけ傷つけ、傷ついているだろう。砕かれずに成長はあり得ない。起こる問題の中で自分の内を照らされ、あいまいにせず主に明け渡していこう。


2009年04月14日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・」エレミヤ29:11



ジグソーパズルをした事があるかも知れない。一つ一つのピースが埋まるべき所に埋まると、素晴らしい絵が完成する。感動ものだ。

一つ一つのピース自体だけを見ると、断片でわけがわからない。
しかし、それぞれのはまるべき場所にふさわしくはめ込んで行くと、見事な絵が出来上がる。

一つのピースとして無駄なものはない。全ピースが欠く事なく必要だ。私達の日常に起こる一つ一つの出来事も、「なぜ?」「どうして?」と戸惑う事が多い。
理解できず、わけがわからない事がある。

しかし、それら一つ一つの出来事に、神の計画と意図がある。ピースが埋まって、序々に全体が見えて来ると、どのような絵かが、明らかになるように、時の経過と共に、主のお心がわかって来る。

教えようとして下さっている事がわかる。
一つ一つ出来事を、後で考え合わせた時に、ピタッとはまって解き明かされる事を、経験した事があるだろう。

一つ一つがつながって、主の言わんとしておられる事が見えて来る。
一つとして無駄な出来事は無い。今、試練の中だろうか。今、理解は出来ないが、それは主の御手から来ている。

一羽の雀さえ父のお許しなしには地に落ちない。神のなさる事は、時にかなって美しい。
今はわからないが、信仰によって受け入れよう。それがベストだったと、後でわかる。
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理解できない事の中にいるのは不安だろう。でも全てが神様の御手から来ていると私達は知っている。それはわざわいではなく、との約束の御言葉がある。信仰によって今日も平安に守られますように。


2009年04月13日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24



信仰生活の中で、無意識ゆえ、なかなか気づかないが、古い価値観、生まれつきの価値観が成長を阻んでいる事がある。

御言葉によらない、自分の理想や、自分の生まれつきの好み、考え方だ。
ストレートな欲望や肉ならまだわかりやすい。
それらは、霊と肉の葛藤はあるが、祈りに持って行ける。

祈りに出して行ったなら、それは必ず聞かれて行く。ストレートな悪は、よくわかる。
だが、理想や、自分の良かれと思う思いも、同じく肉であり、神から離れている。
その自分が良いと思う思いを、判断や行動の土台に据えているなら、御心と正反対の方向へ向かってしまう。

主がこれから苦しみを受け、殺されると話された時、ペテロが「そんなことが起こるはずがない」と否定した。
その時、主はペテロに向かって「下がれ。サタン」と言われた。
ペテロの考え、良かれと思った思いは、サタンからのものだった。

培われた価値観や自分が良いと思う考えは、御言葉に基づかなければ、敵に利用されて反対方向へ向かう。
だからそれに引き続いて、「自分を捨て」と言われた。
自分が良かれと思う、思いを捨てなければ、主について行けない。

ストレートな肉ではなく、良いと思う思いが曲者だ。自分の思いを捨てて、主のみ思いを求めて行こう。
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まがい物、にごった思いを識別するためには、上からの純真な御心を知らなければならない。間違えやすく迷いやすい思いを、一つ一つ神様に尋ねて行こう。一見、良い事の後に言われた主の「自分を捨て」は大きな警告だ。


2009年04月12日(日)

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30


時に予想もしない事態に遭遇する。マリヤがそうであった。ある日突然、御使い
が現れ、驚くようなメッセージを告げた。

マリヤがみごもると言う。男の子が生まれるので、名をイエスと付ける事、その
子は神の子であり、ダビデの家系から生まれると預言されていた救い主であると。

しかし、マリヤはその言葉に応答し、どうして処女の自分にそんな事が、と尋ね
た。大きな戸惑いであったが全面拒否でなく、まず受け止めて対応した。

御使いは答えた。聖霊が臨み、神の力におおわれる。不妊のエリサベツにすでに
奇跡がなされている。神に不可能はない。これらの言葉を聞いた時、マリヤは
「おことばどおりこの身になりますように」と身を差し出した。

結婚前にみごもるなら姦通の罪として死刑だ。ヨセフの立場はどうなるのか。聖
霊により妊娠したなどと信じられるわけがない。信頼関係も壊れ、婚約も破綻す
るだろう。死をも覚悟の上での告白であった。

マリヤは神の言葉に身をもって応えた。救い主の母となる恵みが実現したのは
「私は主のはしためです」とへりくだり、「この身になりますように」と応答し
たゆえだ。

私達も突如の事態には、悲観的、否定的にならずに、主からのものと、まず前向
きに受け取ろう。そして「自分の思い通りに」でなく「お言葉の通りに」と身を
委ねよう。その時、神の素晴らしいご計画をあなたの上に実現させて下さる。

・・・・・・・・・・・
神の御心が示されたなら、「この身になりますように」と献げられるよう、祈ろ
う。今、御心が示されていて、従えないなら「従いたくありません」とまず祈ろ
う。そうするなら、神が次の展開へと導いて下さる。


2009年04月11日(土)

「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」ヨハネ21:4


主を裏切ってしまったペテロの心は、どんなものだったろう。主に顔向けができ
ない、どんな顔をして会えばよいのか。暗たんたるものだったろう。

深い痛みと後悔、虚しさの中にあった。暗く重い心でなすすべなく、かつて捨て
た網をもう一度取り、漁に出たが魚は一匹もとれない。

かつてはプロのベテラン漁師であり、追い打ちをかけられるように、ますます惨
めで、無力で、どん底だった。

そんな時、主の方から語りかけが来た。「食べる物がありませんね」正直に自分
の現状を認めて告げた。「はい、ありません」

まさに実情だ。そして、これがいつも回復への秘訣だ。自分には無い事を、無力
であることを、主の御前に正直に告白し、認める事だ。

愛が無い、真実が無い、能力が無い・・。その時「右側に網をおろしなさい」との
指示が臨んだ。彼らは、ただ言われる通りに従い、網を右側に下ろした。

すると網が引き上げられないほどの大漁だった。主の御声に従う事が大切だ。無
力で構わない。無力のまま、御声に従う時、神の力が臨み、みわざを見る。

主の方からご自身を現わし、ペテロを回復させて下さった。「主よ。あなたはい
っさいのことをご存じです」と、ペテロは「いっさい」を、何もかもを主に明け
渡した。
主はペテロを回復させ、聖霊に満たし、再び主の大いなる働きのために立てられ
た。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
これまでの信仰人生も、今までの失敗も、自らの無力と哀れと惨めさも、「いっ
さいのことをご存じ」でいて下さる方が、愛し慈しんでいて下さる。この方が共
に歩んで下さるとは、何という嬉しさだろう。


2009年04月10日(金)

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れなのためであるかも知れない」エステル4:14

                        
         
エステルは王妃であり、ユダヤ人の危機に知らぬ顔をし、黙っていれば、命は助かり地位も安泰だ。

しかし、彼女は同胞を救うため、自らの命をかけて、王に同胞の民の救いを求めた。エステルを通して学ぶ事が出来る。

捕囚の民として異国で生まれたのも、王妃になったのも、この時のためかも知れない。ユダヤ民族を救うために、神のすべての配剤のもと、過去も現在も何もかもを導き、今の場所に置かれた。

私達も生い立ち、成育歴が皆、異なる。しかし、それがどのようなものであれ、今に至るまでの過程は、神の摂理であり、完全なご計画だ。

今、どのように自分の思い通りでない場所であっても、困難な現実であっても、今の場所で神の御心があり、ご計画がある。

今、置かれた所であなたのなすべき使命がある。
エステルは大変難しい状況で、死を覚悟して、自分自身を全く神に明け渡した。
その明け渡したエステルを、神はユダヤ民族の救いのために用いられた。

危急の事態が起きた時、方策や解決手段を捜し回る。
しかし、方法ではなく、神が全く明け渡した人を通して、ご自身のみわざをされる。

今の場であなたへの使命がある。今の場所は、神が遣わされた場だ。あなたにしかできない働きがある。
神の視点に立ち、なすべき事を祈っていよう。
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人知を超えて、そのポジションに置かれているのだから、そこに神様の祝福は注がれている。ストレスや、挫折もあるけれど恵みと支えを信じて今日も生きて行こう。


2009年04月09日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10



この「やめよ」の意味は、他の訳では「静まって、わたしこそ神であることを」になっている。

「静まって」という意味は、言葉を発せず、黙ってという意味ではなく、自分で立ち、動き回るなという意味だ。人間的な力に頼るなという事だ。

危急の時、突然の事態発生の時、どうするだろう。
まず驚き慌て、パニックになり、走り回り、自分を救うための、できうる限りの対処をし、その後、神を思い出すだろうか。

又は、神に祈る事は一応祈るが、対応は自分の力でしているだろうか。
又、すべてを委ねてのつもりだが、後ろの橋を焼き尽くせず、万一の場合の逃げ道を残しているか。

つまりは、信じきれないので、委ねきれない。全部を明け渡すことはできない。いざという時のためにと、一部を握って取っておく。

結局は自分の力でしている事になる。目に見えないものを信じるのは勇気がいる。
今一度よく静まって、自分の心を探ってみよう。本当は何に頼っているのだろう。

人は被造物なので、必ず何か頼らねば生きて行けない。
もし神に頼らなければ、間違ったものに頼ることになる。自分に頼り、人に頼り、物に頼ることになる。

正しく神に頼ればどんなに幸いだろう。その時、神が神であられることを、真に知って行く。自らの心を吟味してみよう。
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トラブルが起きた時、一番欲しいものはなんだろう。即刻の解決だろうか。人の励まし、人の同意、助言を求めて右往左往する。目の前のものにすがりつくのをやめよう。静まって最善の解決が神様から来る事を信じよう。


2009年04月08日(水)

「それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました」詩編143:4



身体的にも精神的にも霊的にも、人には限界がある。
身体を余りに酷使すると病気になり、心も極度の圧迫が来ると病気になる。

心身、目一杯使うと消耗する。ストレスが余りにも続いて、許容量オーバーになると、心が衰え果てることを経験する。

それは、対人関係で悩んだり、様々な問題に苦しんだりする時だ。こわばるとは心の余裕がなくなってしまう事だ。

普段なら、平気で乗り越えられ、何の問題にもならない事が、心に余裕が無いので受け入れられない。心がすさんで、ピリピリし、いらいらし、とげとげしくなる。

心が否定的になり、人の言葉や態度への反応もネガティブになる。イライラして仕方がない。又、それが自己嫌悪になり、そんな自分が嫌で受け入れられず、ますます落ち込んで行く。

これは霊的補給ができていないので、ゆとりを失っている状態だ。
ダビデはこの後、「昔の日々を思い出し、神のなさったすべての事に思いを巡らし、御手のわざを静かに考える」事によって、再び引き戻され、引き上げられている。

今、あなたがイライラし、余裕が無いなら、同じようにすればよい。霊的補給が必要なのだ。

今までの溢れる恵みと感謝を一つ一つ思い起こしてみよう。
神に心を向けてみわざを思い起こす時、御霊に触れ、心が新たにされる。落ち込みから、賛美と感謝に変えられる。
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御手のわざを静かに考える事は、とても大切だ。立ち止まり静まって神様と交わろう。必ず潤いと喜びは戻ってくる。神様の導きに、また自分を委ねる事が出来るようにされる。


2009年04月07日(火)

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10



主を信じる人々がクリスチャンだが、一体、自分は「何のために」信仰しているのか、立ち止まって、よく考えてみる必要がある。

もし、信仰が、自分が求めている何かを得るための「手段」なら、自分の欲しいものを得たなら、もう信仰は不要になる。

又、手段であるなら、何が何でも欲しければ、別に、他の手段でも良いわけだ。
サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。

欲しいものを何でも上げるよと、その誘惑に乗ってしまう。
目的のものを得たいだけであり、別に誰がくれようと、構わないのだから。

しかし、主にとっては、御父を礼拝する事は、手段でなく「目的」であられた。このところが肝心だ。

もし信仰が、より良い人生とか、より高尚な生活、道徳的生活、人格者になること、心の満たしや自己実現のための手段だとするなら、神が自分の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必ず失望する。

神の愛を疑い、神から離れ去る事になる。形だけ礼拝していても、心には何の喜びもない。実質、得るものが何も無いのだから。

しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜びを失う事はない。

状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰しているだろう?何かを得るための手段だろうか。
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神様は手段でもなければ、有意義な自己満足の対象でもない。神様は礼拝を、献げるべきお方だ。私を造られ、そして私の将来の全てを支配しておられる。自分の目的ばかりで信仰が右往左往していないだろうか。


2009年04月06日(月)

「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」Uコリント11:29



非常に強く見える人、自分の力で強く生きている人は、本当は強いのではない。
実は、自分が弱い人間である事を認める事が恐いし、辛い。弱さなど絶対に認め
たくない。

又、自分の弱さは、決して人に知られたくない。人に弱いと思われる事を極度に
恐れる。自分は弱くないと、倒れ崩おれそうな自分に、必死に言い聞かせながら
生きている。弱さは忌むべきものとの価値観が根深くある。

プライドのなせるわざだ。人間は皆、弱い。そういう人は、弱さを人前にあるが
まま出して、自らの弱さを受け入れて、喜んで生きている人を見ると、強烈な憎
しみを抱く。
その人を前にすると、頑張っている自分が崩れ去り、否定されてしまうからだ。

ある人が、主を知る以前、弱さを隠さず、生き生きと自然体で、喜んで生きてい
るクリスチャンが羨ましくてたまらず、妬みは憎しみとなり、いじめたと告白し
た。

人は心の底では常に不安で恐れている。しかし、無力で惨めな自分の真の姿を見
たくない。余りにも惨めなのだ。

いつも突っ張って生きている。しかし、神は弱いままで良い、あるがままで良い
と言われる。惨めな自分を認めた時に、心砕かれ、自由な世界が広がる。

何と肩から力の抜けた安堵と大海のような平安の世界だろう。自由な世界だ。そ
して、弱ければ弱いほど、神の力が働き、更に神を知れるとは何という恵み。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「突っ張って、頑張って来たんだね。辛かったね。荷を下ろしていいんだよ」と
主が今日も語りかけて下さっている。「弱いままで、そのままでいいんだよ」と、
抱いて下さっている。主の御胸の中に、丸ごと自分をあずけて、深い安堵と平安
を頂こう。


2009年04月05日(日)

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩篇36:9

                         

人から自分の欠点や、弱点、気になる部分を指摘された時、心の何かに触れて、
ザラッと、又は、ムカッと来るだろうか。

カチン!と来て、怒りが湧く時などは、まさにその指摘が余りにも的確で、的を
射ているからだ。当たっているのだ。その通りなのだ。そこに強烈な自我が潜む。

もろに自我にぶつかる。そこを決して見たくないので、逆に、相手に向かって行
く。食ってかかったり、言い返し、相手を攻撃する行動に出る。

まさに自分の触れたくない、認めたくない、固い、頑なな部分があるという事だ。
弱さは見たくない。認めたくない。しかし、そこにしっかり目を留める事が大切
だ。

何度も同じパタンで起きているはずだ。痛い部分で、見たくない、避けたい所だ。
しかし、そこがサタンに足場を与えてしまう。

プライド、虚栄心、体面、貪欲、妬み、何に触れるのかよく心探ろう。自らの弱
さをはっきりと認め、その事を神の御前に置いているなら、人から何か言われて
も何も感じない。解決するからだ。

自分の内の見たくないものをこそ直視しよう。御霊の光で照らし出される。ある
人は隠れたプライドや劣等感をきちんと認めた時、自由にされ喜びが来た。

自分の内にあるものを知る時、癒しが来る。人に指摘されて傷つく、そこの部分
を、はっきりと主の光のもとに出そう。

・・・・・・・・・・・・・・
光のもとに出して、初めて癒しが来る。認める事から始まる。ムッと来る所、痛
い所に向き合おう。触れる何かが潜んでいる。そこから解放され自由にされると
は何という喜びだろう。主に従う時、心が自由に、自由にされて行く。


2009年04月04日(土)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめ」Tヨハネ1:9

      
                         
ある人が、長年、父親との確執があり、父親を恨み、憎み、悶々状態だった。
神を信じた後、その事が取り扱われた。

苦しみの中にいた。憎み続けて苦しくてたまらないのは相手でなく、自分なのだ。
心が、どうにもならず、がんじがらめだった。

まさに牢獄の中にいた。二四時間、囚われの身であり、父親が目の前にいようと、
いまいと関係ない。楽しい時にも、ふっと思いがよぎるだけで心が沈み暗くなっ
た。囚人そのものだ。

神の御前に、この事を差し出し、祈った。聖霊は心に示された。あの時、ああで、
この時こうで、こうなったのは、父親のせいだと思っている事。それで父親を恨
み、赦せないと思っている事。

しかし、父親を責めていれば、自分を見なくて済む事も。そして、父親がどうで
あれ、その父親を憎む事は、自分の側の問題であり、それは紛れもなく自分の罪
である事を。

それがわかった時、どうであれ父親を憎む事自体は、自分の罪と、神の前に自ら
の罪を認め、悔い改めた。その時、涙が溢れ、心が溶かされて行くのを感じた。

神の赦しを実感し、心が穏やかになり、平安になった。そしてあの憎しみと苦し
みが不思議に消えた。相手に関わらず、自分の感情、思いは自分の責任だ。それ
を認めて、悔い改める事が、責任を取るという事だ。 

・・・・・・・・・・・・・・
相手にも非があった時、相手が悪いから、自分の心が苦しい、相手のせいで自分
が辛いとしか見えないが、そうではない。相手でなく、自分に相手への苦い思い
があるからであり、自分の問題だ。でなければ、自分は平安であるはずだ。自分
と神の問題であり、そこに気づく時、解放されて行く。


2009年04月03日(金)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3



ピリピの教会で、ユオデヤとスントケは、共に主のために歩んでいたが、二人の間はうまく行っていなかった。

それで主に在って一致するようにと、パウロは言っている。一致を妨げるものが「自己中心」と「虚栄」だ。

交わりの中で、色々な出来事が生じるが、自分に関係の無い事は、おおらかに、フェアで寛容でおれるが、いざ自分と自分の利害に直接関わって来るや、おおごとだ。

神経過敏になり、自分を守る態勢に入り、がっちりガードし、相手を責め、攻撃的になってしまう。これは「自己中心」によるものだ。

又、誰かの言葉が、自分のプライドや虚栄心、めんつに触れたりするなら、大変だ。
プライドでも傷つこうものなら、激怒して反撃に出るか、内向し
て執念深く恨み、憎しみと敵対心を持つ。

あなたの心にざらつく思いやイラ立ち、苦い思いが出て来たら、自己中心、虚栄、プライドでないか、御霊によって心探って頂き、よく吟味しよう。

苦い根をそのままにしてはならない。その根は心に巣くって、どんどんはびこってしまう。
すぐに十字架の血潮できよめて頂こう。罪の苦い根を、小さい内に、次々と根本から引き
抜いて行こう。

心に平安が失せた時には、すぐ御霊に照らして頂こう。赦されて、平安が戻る。
苦い根をはびこらせてはならない。命取りになる。
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苦い根をそのままにしているなら、御霊の促しすら聞き分けられなくなる。私達は、放っておけばすぐに自分中心、自分、自分におちいる者だと、覚えていよう。謙遜になれますように。


2009年04月02日(木)

「もし自分の心に責められなければ、大胆に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます」Tヨハネ3:22          

       

心にとがめが無いから、恐れなく大胆に求める事ができ、そして祈りは答えられ、手にする事ができる。

それは「なぜなら、神の命令を守り、神に喜ばれることを行っている」からだ。
御心を行っているから、神の御前に心を安らかにしておれる。

その前の箇所に、愛すること、人を思いやることが出て来る。
富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、心を閉ざすなら、自分自身が困った時に、どうして心責められずに、御前に出ることができよう。

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」と言っている。

人の苦しみには知らん振りをし、自分の苦しみは祈り求めるが、それでは自分自身が心とがめ、御霊によって祈ることができない。

ことばと口先だけでなく、行ないと真実をもって愛して行く時、自分自身が平安なので、自分が困った時も確信もって大胆に神に求めることができる。

キリストはご自分の命を与えて下さった。あなたも、あなたの富、時間、労力の一部を、困っている人、必要としている人に与えることが、愛する事であり、神に喜ばれることだ。その時、求めるものは何でも頂ける。

今、困っている兄弟に真実をもって愛するように、示されているなら、従おう。「神に喜ばれることを行なっているからです」
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私達は、いつでも祈れる、どんな事でも祈れる。けれど、自分の事ばかりで、示されながらも困窮してる人から目を背けてはいないだろうか。そこに手を差し伸べることが出来るよう祈る者になりたい。


2009年04月01日(水)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」震源16:3


                       

今、あなたの計画、しようとしている事があるだろうか。それを、一旦主に明け渡して、委ねよと。神のためでなく、自らの欲望によるものかも知れない。

それが神の御心なら、きよめられて返って来る。そして、堅く揺るがないものとされる。神から出た計画でなければ返って来ない。

それは御心ではなかった事になる。「主にゆだねる」とは、“自分は”ああして、こうしよう。これこれの町に行き、商売をしてもうけよう、という事ではなく、“主は”私を通して何をしようとされているのか、主の御心は何か、を見い出して行くことだ。

発想の転換だ。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」神の御心だけが成就する。

肉の計画は立ち行かず、途中でストップする。成就して行かない。まず確信が来ない。それは状況が変わる度に、心は揺れ動き、風に吹かれて揺れ動く海の大波のようだ。

どんなに完璧に計画したとしても、人の計画は挫折する。
しかし、神の御心との確信があれば、見えるところ何があろうと、心の底に動く事のない平安がある。

状況がどうなろうと、その平安は揺るがない。そして、どんなに不可能に見えても、神が、道無き所にも道を造られ、その計画は成就する。今、しようとしている事を神に献げよう。     
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しようとしている事を神様に尋ねているだろうか。これなら大丈夫と肉の思いで立ち動く前に、些細な事も祈り、委ねるようにしたい。今日も神様とともに歩んでいこう。