2009年05月31日(日)

「なぜあなたは、兄弟の目のちりを目につけるが、自分の目の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3


主は正しいさばきをせよ、実によって見分けよと、識別と正しい判断は重要だ。
ここでの裁きは、自我から出る裁きのことだ。

「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木だ。大きな頑丈な丸太
だ。「ちり」は目にすら見えないほどの極小のものだ。

他人の小さな欠点は見えるが、自分の目にある丸太は見えない。なぜあの巨大な
丸太が見えないのか不思議だが、自分中心に、自分の色メガネをかけた見方、判
断をするからだ。

自分は正しいと思い込むと、暗闇に入り、何も見えなくなる。自分の都合の良い
善悪の判断になる。アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神
によってでなく、自分で善悪を判断するようになった。

そのため、自分の目が曇り、偏見があれば、その目で見るものは、歪んで偏って
見える。すべて悪いのは相手で、自分は正当化して行く。そして、自分で気づか
ない。

しばしば、裁く相手と同じものが、自分の内にある。だからこそ強く反応し、反
発する。無ければ気にならない。裁いている相手の問題は、実は自分の問題だ。

「自分の目には梁があるではありませんか」人を裁くという大きな丸太がある。
「自分の梁には気づかない」自分を正しいとしているので、気づかない。

主は私たちを裁かずに、自らが私たちの罪を負い、十字架にかかり裁きを受けて
下さった。ここに救いと癒しがあり、この主の愛と赦しの中で、自分の梁に気づ
かされる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
人には厳しく、自分には甘い、都合の良い二つの物差しを持っているので、なか
なか自分の梁が見えない。御霊の光、御言葉の光に照らされて初めて自分の梁が
わかる。梁を認め、悔い改める時、梁が除かれる。用いられる器とされて行く。


2009年05月30日(土)

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」Tペテロ3:15




信仰と宗教心は違う。良い事があるよう、災いが無いよう、神に、家内安全、無
病息災、商売繁盛を願うのは、信仰ではなく単なる宗教心だ。

信仰を持っていなくても、誰でも願う。信仰とは、神が与えて下さった約束を信
じる事だ。アブラハムが、何も見えない中、神が子孫を与えるとの約束を信じた
ように。

神の約束を、どんな中でも、何一つ見えない中でも、信じて行く事が信仰だ。現
状がどんなに悲惨で、厳しくても、それにも関わらず、神が語って下さった御言
葉を信じて行く事だ。

それゆえ私達はどんな状況の中でも、状況でなく、信仰によって歩んでいるので、
何があっても「大丈夫だ」と言える。絶望は無い。どんな時にも希望がある。

その信仰や希望について、説明を求める人には、語る備えをしていよう。難しく
考えずに、主にどんなに励まされ、助けられ、又、喜びや力をを与えられている
か、どんなに感謝しているか、素直に語れば良い。それこそ生きた証しだ。

「ただし、優しく、慎み恐れて」とあるように、「自分は正しい」に立つと相手
の上に立つので(自分では見下しているつもりは無いのでやっかいだが)、相手
に届かない。
へりくだって、優しく語れるように。優しさこそが人の心を捕らえて、神のもと
へ導いて行く。

決して押しつけがましくなく、謙遜に、心にある希望と喜びを語って行こう。愛
や優しさは、御霊からのものであり、御霊の助けと導き無くして不可能だ。

日々主と交わり、「説明を求める人」質問して来る人に、いつでも証しできるよ
う、祈って備えていよう。チャンスは突然に来る。

・・・・・・・・・・・・・・
主との生き生きとした、交わりの中にいよう。難しい事を話してもわからない。
どんなに嬉しいか、主がどんなに良くして下さったかを語ろう。それが生きた証
しだ。「愛、喜び・・このようなものを禁ずる律法はありません」喜びは否定がで
きない。


2009年05月29日(金)

「わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます」ルカ11:9


祈りは、よく学校だと言われる。祈りは祈りの実践により、学んで行くものだか
らだ。実地訓練を施して下さる。祈りは、実際祈る中で、教えられて行く。

主は、「求めよ」と言われ、「あなたがたのものにならないのは、願わないか
らだ」と言われる。私たちは求め続けるべきだ。

しかし、私たちは実際問題、多くの祈りが聞かれ、又、聞かれなかった祈り、と
いうよりは「ノー」の答えの祈りも多く経験する。御心は一つであり、「人の心
には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」の通りだ。

「ノー」は、答えであり、厳粛な神のご意志だ。「ノー」の答えの中に、神の御
旨がある。その「ノー」を通して、神の御心を知り、神を更に新たに知る事がで
きる。

そして、もし祈らなければ、「ノー」という答えも知る事は出来なかった。「イ
エス」であれ「ノー」であれ、神のお心が示されたのであり、神のご計画が成っ
た。その神に触れ、み思いを知る事が、平安と喜びに至る。

祈りの答えが、しばしば自分の思いと違う。しかし、主が祈られた「できますな
らば、この杯を過ぎ去らせて下さい」の祈りが、もしその通りに答えられていた
ら、どうなっていたのだろう。

「ノー」の答えが最善であった事を、後になって知る。そして、必ず平安を見い
出す。主の答えは完璧だ。どんな時も、自分にとって最善をして下さる。主を信
頼し、続けて祈って行こう。

又、その祈りは御心に適っているが、まだ「時」でない場合がある。「神のなさ
ることは、すべて時にかなって美しい」。ピッタリのタイミングがあり、周囲も
神の栄光を見る。神の美しさが現される。祈り続けよう。

・・・・・・・・・・・・・・
祈りがあるから、「ノー」もキャッチできるのであり、学べる。祈りがなければ、
気づかぬまま、沢山の恵みが漫然と通り過ぎて行くばかりだ。最善をして下さる、
神様視点に立って、今日も祈り心で歩もう。恵みをキャッチさせて下さる。


2009年05月28日(木)

「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」Tペテロ5:6


私達は今、自分のいる場所に不満だろうか。自分にはもっと能力があり、今の場
では発揮できないとの不満。

もっと自分は良い地位にいるべきであり、ここは本来の場所ではない、ふさわし
くない、ここは不当だと。なぜ自分より能力が劣る者が、上の地位にいるのか。

こんな単調な仕事より、自分はもっとレベルの高い仕事ができるのに。様々な不
服があるだろうか。しかし、今の場こそが、それこそが神が備えられ、私達を砕
いて下さる場所なのだ。

昇進出来ない職場、自分の時間が取られ、自分の事は何もできない親の介護や育
児、心煩わされる難しい隣人、進学・就職・結婚生活が全く自分の思い通りに行
かない状況であるかも知れない。

何一つ思い通りにならない悶々の状況、そこでこそ、神はあなたを練り鍛え、訓
練し、砕かれる。状況を見るのでなく、霊の目で神の御手をしっかり見よう。

神の主権によってそこに置かれている。信仰によって捕らえよう。あなたの固い
殻を砕き、あなたが心底依存し、執着しているものから解放するためだ。

本来の場所でないと高ぶる自らに、いいや、そこがあなたの場所だと砕かれる。
高ぶりを認め、へりくだろう。その場で、砕かれ造り変えられる。へりくだるそ
の時、そのままでなく、今度は主が高めて下さる。大きな祝福が臨む。

・・・・・・・・・・・・
痛い事、自我に触れる事が目の前に置かれる時、自分の自我のありかがわかる。
何に依存し、何に執着しているのだろう。プライド?自分の満足?自分の欲望?
そこを明け渡して行けますように。そこを自由にし、平安にして下さる。


2009年05月27日(水)

“ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」”ヨハネ13:8

主は、弟子たちの足を順番に洗われ、ペテロの番になった時、ペテロはそれを拒
んだ。

当時は、洗足は卑しい仕事であり、靴でなくサンダルのようなはき物なので、歩
くと足が大変汚れた。その自分の汚い足を洗って頂くなど、大変な驚きで、とん
でも無いことであった。

私たちにもあるだろうか。自分の汚い部分を人に見せたくない、絶対に知られた
くない。醜い部分は隠したい。人に知られるのが恐い。嫌だ。

しかし、主はそこをあらわにしなければ、主と何の関係も無くなると言われた。
そこでこそ、主との関係が新たにされ、深められると。

私達は自分の良いところ、出来るところを見せたいものだ。人に認められたいし、
評価されたい。賞賛が欲しい。

しかし、主と私達の間はそうではない。罪を、又、弱い、醜い、汚い部分をすべ
て主に広げ、あらわにする時に、赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主
はあなたの罪、あなたの弱さを、そんな事は知った上で、受け入れ愛して下さっ
ている。

自分が鍵を握る奥まった部屋を主に開こう。そして握っているものを明け渡して
行こう。主との関係が親密にされて行く。弱さに神の力が現れ、強くされて行く。

弱さを隠す事が、主との関係をシャットアウトし、自分が拒んでいる。「決し
て」洗わないでと、言っている自分がいないか。又、逆に、余りにも罪深く、洗
った頂く価値もないと尻込みしているか。

「その愛を残るところなく示された」どんな時も、何があっても、最後まで愛し
通して下さる。決して見捨てられない、主の愛を今日も覚えよう。

・・・・・・・・・・・・・・
ユダの足も洗われ、これから三度否むペテロの足も洗われた。ペテロは信仰が無
かったからでなく、弱さのゆえに失敗した。私たちの弱さをご存じの上で愛して
下さっている。日々足を洗って頂こう。関係が深められるとは何と感謝。


2009年05月26日(火)

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません」ヨハネ3:27

ヨハネの弟子達は、人気が師のヨハネから主イエスに移るのを見て、嫉妬した。
妬みは誰しも持つやっかいな感情だ。

人が賞賛を得ると妬む。ライバルの成績が良いと妬み、先に出世されると強烈な
嫉妬を感じる。妬みは根深く巣くう罪だ。

主を十字架につけたのも、ユダヤ人指導者の妬みであり、カインはアベルを妬ん
で殺害し、サウルがダビデを殺そうとしたのも妬みのゆえだ。

ヨハネの弟子達も同様であった。それに答えたヨハネの言葉が、私たちへの解答
だ。「人は天から与えられなければ、受けることはできない」。

人々が主のもとへ行くのは、神の御心ゆえだと。神がそうしておられるからだと。
そして、自分はその主を証しするために来たのだと。

結婚式での主役は花嫁花婿だ。介添人は彼らより目立ってはいけない。礼儀に反
する。引き立て役だ。花婿の友人は、花婿が花嫁を迎えるのを見て喜ぶ。ヨハネ
は、皆が主イエスのもとへ行く事を喜ぶと言った。

ヨハネは主イエスがキリストだと証しをし、それが自らに与えられた使命であり
務めであると悟っていた。「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」ヨ
ハネにはその使命こそが、天からのものであり、恵みであった。そこに満足と喜
びがあった。

自我は自分が常に主役でありたい。人の上に立ち、賞賛を得たい。しかしそこに
真の満足は無い。主が崇められる時に初めて、自分に満たしが来る。今、「自分
が」「自分が」の状態だろうか。

今一度、自らの場、与えられた分をわきまえよう。分を越えず、又、うぬぼれず、
卑下せず、自分に与えられたもので精一杯歩もう。神はそれを喜んで下さる。

・・・・・・・・・・・・・・・
すべての良き贈り物は上から来る。又、与えられていないものもある。受けるも、
受けざるも、すべては「天から」の霊的視点にしっかり立ち、そこから決して動
かずにいよう。そこに平安と安堵と喜びがある。


2009年05月25日(月)

「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」ヨシュア5:14

ヨシュアは偉大な大指導者モーセの後を引き継いで、リーダーとなりカナンに入
った。

今やモーセはいない。自らがモーセに代わり、エリコ陥落に向けて、民を率いて
戦いが始まる。ヨシュアにとって、非常なるプレッシャーと多大なる不安、恐れ、
心配の中にいた事だろう。

その時に一人の人が抜き身の剣を持って立った。思わずヨシュアは「私の敵か、
味方か!」と問うた。自分を助けてくれるのか、それとも立ち向かい、攻撃して
来るのか。

その人は敵とも味方とも言わず「主の軍の将」だと言った。敵でも味方でもなく、
将だと。自分というものが根深くある私達は、いつも自分を中心に考えてしまう。
「自分の」敵なのか、味方なのか。

信仰生活にしても同様だ。私の信仰・・私の霊的生活・・私の霊性・・。底が厳
然と「私」なのだ。持って生まれた肉の性質だ。

しかし、そうではなく、主が将であり、主がリーダーであり、その主の戦いを助
けるのがヨシュアであり、私という事だ。「私のための神」「私の」ではなく、
まず初めに「神が」おられ、「神のための私」だ。

主が将でなく、自分が将となるゆえに、あらゆる思い煩いと不安、落ち込みに襲
われる。すべてが自分の肩にかかって来るからだ。主が将となり、あなたの家庭、
仕事、信仰を、今の重荷を導かれる。
今必要なのは、主をあなたの将とする事ではないか。

・・・・・・・・・・・・・・
自分のために、神があるのではなく、神のために自分がある。自分が神に何を求
めるかでなく、神は私に何を求めておられるのか、そこに視点を変えてみよう。


2009年05月24日(日)

「ヨナは、主のみ顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3


ヨナは神の命令に大不満だった。なぜあんな宿敵のもとへ。

逃げたい時には、なぜかそこに、丁度反対行きの船があるものだ。好都合に反対
行きの船があった。渡りに船、ヨナは逃げた。

嫌な事は逃げる事が出来たが、結局、それは主の御顔を避ける事になる。主との
間の平安を失ってしまう事になる。

信仰生活には、嫌な事、したく無い事、避けたい事があるものだ。肉は逃れてし
まいたい。幾らでも逃げる事はできるが、そして一時的な肉の解放感は得られる
が、決して御霊の平安は無い。

経験あるだろう。ある人が主の御心でないと感じつつ、高給と地位の誘惑に負け
て転職した。まず平安を失い、少しつづ主から離れ、全く離れてしまった。感謝
な事に悔い改めて立ち返る事ができたが。

信仰生活のすべてが、神の配剤にあり、必要ゆえに与えられている。それを通し
て砕き、成長させようとのご計画がある。

人は自我の固い殻があり、したい事だけをしたいものだ。放っておかれると、自
分の好きなように生きる。肉だ。しかし逃げるなら成長を逃す。

今、目の前に、逃げたい事態があるか。ヨナは自分中心にしか見ていないため、
神の心がわからなかった。しかし、自らの自我に気づき、悔い改めて、主の器と
して用いられた。逃げるか、それとも向き合って主に従うか。選択だ。

・・・・・・・・・・・・・・・・
嫌な事から逃げるなら、主の御顔を避けることになる。しばしの肉の解放感はあ
るが、平安を失う。逆に、肉はしたくないが、主に助けを求め従うなら、何にも
代えられない平安と喜びに満たされる。平安の中で、主の御顔を仰いで行ける。


2009年05月23日(土)

「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき」ルカ15:20 



弟息子は、莫大な父の遺産を要求し、湯水のごとく放蕩し、すべてを無駄にした。
しかし彼が無駄にしたのは、自分自身だった。

自分を損ない、傷つけボロボロにしてしまった。自分のした事であり、すべて自
分の責任だ。彼はどん底まで行き突き、絶望した。どんなに自分が無力で、惨め
で貧しく、盲目で裸であるかを思い知った。

実は自分自身の姿は皆そうなのだが、自分をだましだまし生きている。自分の惨
めさを決して見たくないし、認めたくないので、仕事、愛する人、富、名誉、地
位、様々なものに走り、心を何とか埋めようとごまかしている。

自分ではどうにもならない、絶体絶命の壁にぶち当たった時に、初めて自分の本
当の姿を知る。

弟の帰還で兄の本性もあらわになった。初めからあったものが現われ出たに過ぎ
ない。

ある人が「自分の本音に気づいた。自分が愛していたのは他人ではなく、他人の
中に実は自分を愛していた」と言った。

惨めで哀れで、裸である事実を人は知らないまま生きている。目が開かれてそれ
に気づく事からすべては始まる。

痛いが、それこそが実は大きな祝福だ。自らの惨めさが、いかばかりかを知っ
た時に、かわいそうに思い、走り寄って抱いて下さっている神を、そのご愛を真
に知る。惨めを知る事が大きな祝福への一歩だ。

・・・・・・・・・・・・・・
自分に全く愛が無いと知る時、ギブアップする時、愛が無いまま、一方的に愛し
て下さっている主に出会う。心が喜びで満たされる。無い所にこそ、満たしを得
る恵みの世界だ。惨め、哀れ、裸を知れば知るほど、主の愛、あわれみにおおわ
れて行く。


2009年05月22日(金)

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」ルカ1:30

  
                         

神に用いて頂ける事は、素晴らしい恵みだ。「あなたは・・恵みを受けた」の通りだ。
私達は、その恵みに戸惑い、様々思い煩い、不安になり、尻込みするだろうか。

「私になんて、とんでもない」「私になど出来るはずがない」「絶対無理・・」と、新しい仕事、環境、何かの領域に進む時に、自分には力量が無い、ふさわしくない・・と卑下して退いてしまう。しかし、神の恵みであり、恐れる事はないと言われる。

そして「どのようにして、そんな事が」の答えに「聖霊があなたの上に臨み」と、自分の力でなく「聖霊によって」と言われる。
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」。

あなたに、今、新しい場所、地位、働きがあるなら、それは神の恵みであり、「主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように」と主に身をお委ねする事だ。

不可能が一つもない主が成し遂げて下さる。
ある看護師の婦人に、婦長という大任の打診が来た。自分の力量では到底無理と戸惑い、主のお心を求めて祈った。

すると「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを守る」と力強く語られ、委ねて引き受けた。大きな祝福と用いられた。
-----------------------
自分を見ると出来ないと思ってしまう。神様が与えて下さる仕事、ポジションなのだから、必ず御霊によって力を受け、そこに神様の祝福が注がれる。自分を見ないで、おことばどおりになりますようにと 素直に委ねて行けますように。


2009年05月21日(木)

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って彼に言われた「よくなりたいか」』ヨハネ5:6


ベテスダの池で、38年病気で伏せっている人に、主は「よくなりたいか」と聞かれた。
38年もの間、病気だった人が、今、突然健康体になったなら、当然働いて、社会生活をして行かなくてはならない。

仕事を探し、住まいを探し、突然様々な責任が生じて来る。大きな喜び反面、厳しい現実になるかも知れない。私たちも日常で、変化を好まない面があり、現状に甘んじていれば楽だと思うところがある。

霊的状況に関してどうだろう。主は「よくなりたいか」と問うて下さっている。
自分の弱さを直視したくなくて、惨めさを認めたくなくて、突き詰めるのが恐い。

痛くて突き詰めたくない。底の部分をあいまいにしていたい。はっきりさせたくない。
はっきりさせるなら、従って行こうと決心するなら、払うべき犠牲にうすうす気づいている。

その犠牲は困る。心の底に、もやっ〜とした曖昧な部分を残していないか。
そこには触れず、見ようとせず、ふたをしている。主に従っては行きたいが、そこそこで、と思う。

しかし、それなら同時に神も、もやっ〜として見える事になる。どっちつかずになる。
突き詰めると困るので、自分が曖昧にしている。もっと生き生きした満ち溢れた喜びの信仰生活に進みたくないか。

「よくなりたいか」と主は常に問いかけて下さっている。強制される事はなく、そうしたいかと問われる。私たちの選択だ。
----------------------
変わりたくない、良くなりたくない部分が自分の内にないだろうか。本当に変わりたくないから、ずっと蓋をして曖昧にしている部分だ。主の問いかけに、まずその部分を認めていこう。


2009年05月20日(水)

「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」T列王19:12  



 バアルとの戦いで大勝利をしたエリヤだったが、イゼベルのエリヤ殺害の脅しに怯えて、逃れた。霊的大勝利の後は、特に危険と言われている通りだ。サタンの攻撃と誘惑も来る。

大勝利の後こそ、返って身を引き締めて、へりくだって神に拠り頼む必要がある。あれほどの信仰と祈りで戦った勇敢なエリヤが、恐怖で、自分の命を救うために逃げた。

そもそものこれらの原因は、イゼベルの言葉だ。神の言葉より、イゼベルの言葉を受け入れてしまった。

どの言葉を聞き、どの言葉を拒否し、どの言葉を受け入れるかは非常に重要だ。その言葉に大きな影響を受ける。私たちは心に、どんな言葉を入れているだろう。

神はエリヤを眠らせ、食事をとらせ、十分な休息を与えられた。
エリヤに身体の回復を与えられ、ホレブの山に向かわせ、その山の上で主の前に立つように命じられた。

激しい大風、地震、火の後に、かすかな細い声があった。エリヤはそのかすかな細い御声に耳を傾けた。神はエリヤの思い込みの間違いを正し、エリヤに新たなる使命を与えられた。

落ち込んで死を願っていたエリヤが再び、神からの使命を遂げるために立ち上がる事ができた。
落ち込み、スランプ、無気力から脱出するためには、よく身体を休め、心身の休息が大切だ。

そして、何と言っても、神の御前にじっと静まり、細い御声に耳を傾けることだ。神との交わりから、新しい力が湧き出る。
-----------------------
大きな祝福の後、必ずサタンが来る。ほっとした虚脱状態の中をかき乱されてしまう。よく警戒して、聞くべき言葉だけに耳を澄まそう。祝福の余韻の中でも主の御声に耳を澄ま
そう。


2009年05月19日(火)

「ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」1列王17:2



エリヤがアハブに雨が降らない事を宣言した後、神はケリテ川に行き、身を隠せと命じられた。カラスによって養うからと。カラスに自分の命の糧がかかっているなど、何と心もとない不安な事だろう。

これはカラスに頼るのでなく、神の御言葉に、神の約束に頼るという訓練だ。
私たちも訓練を受ける。何に頼って生きているのだろう。富か、生活の安定した保障か、人か、健康な身体か。

そうではなく私たちの頼るは神であり、神の約束だ。御言葉を信頼して生きる時、どんな状況の中でも生きて行ける。

又「身を隠せ」から人の目に見えない、密室での神との交わりの大切さを教えられる。
華々しい事、目立つ事、目に見える成功は誰しも大好きだが、人に見えない地道な事は好まない。

根が、見えない地中に張ってこそ豊かな実がなる。大木の根は地中深く張り巡らされている。
隠れた主との交わりこそが、生き生きとした歩みの原動力だ。隠れた所で神の養いがある。

ある人が突然の入院となり、病室でイラ立っていた。今まで懸命に準備した、目前の企画に自分が参与できない事に、神に反抗的になっていると気づかされた。

悔い改めた時に、主との静かな豊かな交わりの日々とされた。心に平安と喜びが満ちた。
ひたすら駆け回っていた毎日、主が幸いな交わりに引き戻して下さった。そして病室で、企画のための祈りの奉仕が出来た。
------------------------
静まって神様との交わりを持っているから、人目につかない働きや人に仕えることが出来る。それを支えるのは、目に見えない根の所でしっかりつながっている神様の御言葉だ。


2009年05月18日(月)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」Uコリント7:10



モーセが、民をエジプトから救い出すために、パロと掛け合う。
神の様々な超自然のみわざにより、苦痛が臨むとパロは「私は罪を犯した」「悪かった」「私のために祈ってくれ」という一見悔い改めの言葉を発するが、その災いが鎮静化するや、再び頑固な姿に戻る。

これは、それらしき言葉は発するが、心の底ではそう思ってはいないという事だ。
真の悔い改めなら、必ず実を結ぶはずだ。神は「わたしが主であることを、あなたがたが知るため」にしるしを行なわれる。

しかし、パロには、様々なしるしが、主を知ることにはならず、脅しみたいなものであった。
だからその脅しが退けば、再び強情になった。私たちはどうだろう。神の愛により、もし高慢に歩んでいたなら、へりくだるように苦しみを送られる。

これは神の愛であり、放っておかれる方が悲惨だ。しかし、その苦しみをパロのごとく単に脅しのように取るなら、確かに悔い改め、反省し、自らを正すのだが、その苦しみが無くなると、元に戻ってしまう。

成長なく古い自分のままだ。何も変わらない。真の悔い改めに至らないから、実を結ぶ事がない。
自分は悪いと思わないが、苦痛を回避したいだけか、それとも自らの罪を認め、悔い改めているのか。真の悔い改めは必ず実を結ぶ。御霊は豊かな実を結ばせて下さる。
----------------------
悔い改めは、これからの祝福のためだ。豊かに実を結ぶ者として整えられ、変えられたい。弱さゆえに繰り返す過ちはあるだろうが、今、自分の悔い改めの動機は何だろう。よく吟味してみよう。


2009年05月17日(日)

『主の使いは彼に言った。「・・敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ」民数記22:32

私たちは誰しも、痛い目に会う事、苦しみ、問題は回避したい。苦しい目には会
いたくない。

又、思い通りにならない事が生じると、順調な歩みを阻止される。問題に阻まれ
て、先に進めなくなってしまう。苦しみや悩みが、好きな人などいない。そこで、
痛くて辛い事態を、避けて通りたいと思ってしまう。

何とか逃れたいと思う。しかし、神は、私たちが間違った方向へ進まないために、
行く手に障害物を置かれる場合がある。私たちを立ち止まらせるためだ。

運が悪かったのではなく、たまたまそうなったのではなく、神の取り扱いだ。不
運なのではない、又、そこに関わっている相手を責めるのではなく、そこに神の
取り扱いを認めることだ。人のせいでも、環境のせいでもなく、そこに神を認め
よう。

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教えたいのか、何に気づか
せたいのか。何を言っておられるのか。

今、あなたの行く手が阻まれているなら、状況がどうのでなく、まずそこに神を
認めよう。神が立ちはだかっておられる。その道はもしかしたら、違うのかも知れない。

神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪ってもいけない。祝
福されているからだ」と言われたに関わらず、出て行くバラムに、主の使いが立
ちはだかった。

目の前の状況に神を認め、自分の思いでなく、神の御心を尋ね求めよう。そうす
るなら必ず正しい道に導いて下さる。  

・・・・・・・・・・・・・
時に、自分では御心と思っているが、反対方向に向かっている事がある。神が立ちはだかって止めて下さる。もし神の介入が無ければ、間違った方へ進んでいただろう。ストップがかかれば、よくよく祈ってみよう。御心が別の方向にあるのかも知れない


2009年05月16日(土)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道者3:1

                 
信仰生活で、段々わかって来る事の一つが、すべてにおいて「時」があるという
事だ。様々な出来事の中で、経験して行く。

「神の時」がある。すぐ決断すれば、手に入れられたのに、ぐずぐずしたために
機会を失ってしまったり、又、もうしばらく待てば、すべてにおいて栄光が現わ
れる「時」が満ちるのに、待てないで自分で動いて、失敗してしまったり。

厳粛な「神の時」というものがあることを、経験の中で知る。

私たちの教会の会堂建設は土地もかなりの値段であったが、神の「今」と言う御
声を聞き、信仰と祈りによって前進した。見事に会堂が建ち上がった。すべての
面において完璧に「神の時」であった。その前でも、後でも建たなかったろう。

ある人が話した。「うちの教会では、時期的に土地の値段が急落し、まさに買い
得で、今だ!チャンス!これを逃したら、こんな好機は二度と無いと思えた。見
える所では、早く、早くと心急く。

しかし、牧師は『時』では無いと頑として動かない。価格ではなく、牧師が見据
えていたのは、教会の一致であった。一致のために、まだ祈りが必要、時が必要
と。
やがて時満ちて、土地購入に至った。土地の高騰で、大変な額であったが、献金
の方が満たされ、素晴らしい神の栄光を見た。牧師に脱帽でした」神の栄光が現
わされる、神の「時」がある。

良い企てであっても、神の時ではなく、機が熟さなければ成功しない。良い企画
だが、何かがギクシャクし、うまく行かず、時期尚早、「時」ではなかったと学
ばされた事がないだろうか。

すべての事に、「時」がある事をしっかり覚えるなら、焦る事なく失望する事な
く、神を待ち望める。
又、「神の時」を祈る時、強烈な「自分の時」がある事に気づく。「自分の思い
通りの時」「自分の願う時」があり、強い自我に気づかされる。明け渡して行こ
う。
あなたの、その祈りも最も美しい時に叶えられる。「神のなさることは、すべて
時にかなって美しい」時を待とう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最も完璧で、美しい「時」がある。それ以前でも、以後でもない。まさに神の時
だ。神の時でなければ、何一つ動かない。全く動かない。どんなに焦っても、急
いてもどうにもならない。神の時には、目の前で自然に門が開いて行く。神を待
とう。


2009年05月15日(金)

「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした」Uコリント1:9




私たちは、なかなか自分の弱さを認められない。認めているつもりでも、全面無力など決して認めたくない。少しぐらいの力を残しておきたい。少しぐらい認めて欲しい。

徹底無力など余りにも惨めで認められない。なぜなら、人前で弱さを見せたくないし、人に自分の弱みを知られたくない、その事が証拠だ。もし、無力を認めていたなら、人前でもありのままおれるはずだ。

無力を認めたくない、拒否している事が問題で、そうであれば、神に頼る事ができない。
無力でない人が、神に頼ることは不可能だ。信仰とは神に頼ることだと、頭ではわかるのだが、頼る事はできない。

なぜならどこまでも自分を認めて欲しい、力を誇りたい、肉の自分がいるからだ。人は徹底無力になった時に初めて神に頼る。正直に自分の姿を見る時に、苦しみが真に恵みだとわかる。

自らをへりくだらせ、徹底的に無力であることを、認めさせてくれるのは苦しみしかない。
御霊が苦しみを通して、自らの無力を認めるようにさせて下さる。これは大きな恵みだ。

パウロは、非常に激しい耐えられないほどの圧迫を受け、命さえも危うくなり、そこで自分を拠り頼まず、神を真に拠り頼むようにされた。
無力を認めたくない者が、変えられるのは、恵み以外の何ものでもない。
---------------------
無力なら、祈り続け頼るしかない。祈りはするが実際は自力で動き回っていないだろうか。前から来るものを通して、自分の無力さ、弱さ、罪深さに気づいて行けますように。


2009年05月14日(木)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかしもし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13



誰しも外部から見ていると、よくわかる。人の事は冷静に見ることができるので、見えるのだ。いつも問題を起こす人の特徴がある。それは「私、私、私」だ。

どこまで行っても、ただ「私」なのだ。「私」しか無い。「私」がすべてだ。強烈な自我がある。私はああで〜こうで〜、強固な自分があり、自分の思いがあり、誰にも触れさせない、御霊にすら触れさせない、恵みに自分で心閉ざしている。

だから問題なのだとでも、言おうとするなら、激怒だ。
「自分のことをわかってくれない」となる。すべてをシャットアウトして、自分の殻にこもる。誰も入る事を許さない。人の事はわかるが、自分も同様だ。

肉は、強烈な自己愛だ。自分から一歩も出ない。自分で自己憐憫の殻にこもってしまう。自分自身もどうだろう。「私」「私」だろうか。そここそが問題だ。

常に「私」が問題で、トラブルメーカーだ。自己愛から、自分の殻から出て、御言葉に一歩従ってみよう。御霊に従う時、心に平安が広がる。御霊によって、生き生きと真に生きて行く。自分が変えられて行く。

自分が変えられるのは、御言葉に従う事によってだ。自我の殻が破られて行く。一歩一歩を自我に従う選択でなく、主の言葉に従う選択をするなら、必ず変えられて行く。
心に喜びと平安を経験し、主のみわざを見て行く。
---------------------
「私」を自分で守る事をやめ、「私」を全て主に明け渡せるなら、何と世界が変わるだろう。今日、示された御言葉はなんだろう。まず従ってみよう。


2009年05月13日(水)

あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」ローマ6:16



コ−リ−・テンブ−ムは、迫害されるユダヤ人を家にかくまったため、政治犯として捕らえられ、姉と共にドイツの強制収容所に送られた。
そこでは過酷な労働と圧迫の中、日々100人を越える人々が死んで行った。

身体の弱い姉もその収容所で亡くなった。書類上のミスで、奇跡によりコーリーは生き延びて、その収容所を出た。戦後そこでの体験、主の愛と奇跡を世界中で講演して回った。

ドイツでの講演の後、握手を求めて通路を歩いて来る人々の中に、かつての収容所での残忍非道な女看守を見た。残虐な仕打ちを受けた相手だ。身体中が凍りついた。

「主よ。彼女だけは無理です。絶対に赦せません」心も凍りついていた。
その相手は言った「私は主を信じました。私を赦してくれますか」私には出来ません。

主よ!見上げたその瞬間「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです」の御言葉が臨み、全身を包み溶かされた。

「あなたを赦します」コーリーの「選択」だった。
赦さずに憎み続ける道と、古い自分に死に新しい御霊の導きを選び取る道、常に二つの道が目の前にある。

自我は自分を、姉を、虐待した相手を憎んでいたい。赦さない。しかし御霊は赦される。
二つの道の選択だ。「できません、助けて下さい」と叫ぼう。
その時、選択できるようにして下さる。従順の奴隷となって義に至るように、助けて下さる。
--------------------
いつもどちらかを選択しながら生きている。感情のまま、思いのまま、葛藤せずに歩き、失敗ばかりしているかもしれない。けれど忘れずに神様に助けを求めよう。自分の内にはない義の道へ必ず導いて下さる。


2009年05月12日(火)

「しかし、私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩篇73:28



詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者は安らかで、富を増している。

それに引きかえ、自分は惨めで、苦しみばかりで、何のよい事もない。
この足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだ。どうして神を信じない者が栄えるのかと。
不満で一杯だ。その彼が、神の聖所に入り、光が与えられた。

実は彼の不満や妬みや愚痴や、様々な悩みの原因は、神の近くにいなかったことによると悟ったのだ。本当の問題は、様々な事柄や状況ではなく、自分と神との関係だった。

それが信仰にとって根本的なことだ。私たちも同様だ。愚痴や不平で一杯になる時、イライラ状態の時、本当の問題はその状況でなく、自分と神との関係だ。

神から離れているから、平安無く、喜び無く、心が荒んでイライラしている。
それに反して、神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに波風逆巻いても、大嵐の中でも、心は霊の喜びと平安に守られる。

神の近くにいる事が幸せであり、問題が問題でなくなる。一番大切なことは、神との関係だ。
今、神との関係はどうだろう。神から離れていたなら、すぐに立ち返ろう。平安が戻る。そして、状況に関係なく、どんな中でも、幸せであることができる。
--------------------
神様にしっかりと向き合っているなら心が守られる。辛いのは決して周りの状況ではない。どんな中であっても神様に慈しみと、哀れみ、助けを求めて行けると知っている事が幸い。


2009年05月11日(月)

「キリストの中に根ざし・・あふれるばかりに感謝しなさい」コロサイ1:7



サタンは策略をもって挑んで来る。策略とは、普通伏せていて、明かさないものだ。「サタンの策略」と明かされているからには、相当の策略があるという事だ。

エバが蛇に誘惑された時に、蛇は、エバの目が開け、善悪を知り、神のようになることを、神は知っていると言った。
つまり、神はそうさせたくないから、禁じているのだと疑いを起こさせ、不服な思いに誘惑した。

サタンは私たちにも不満を持って誘惑する。不満は大きな誘惑だ。あなたが罪を犯した時の事を振り返ってみよう。そこに不満が無かったか。

罪の裏に不満が見え隠れする。不平で心が支配されてしまうと、感謝も賛美も失せ、恵みが消えてしまう。不満と感謝の同居はない。

最近失敗した状況を振り返ってみよう。対人関係においてギクシャクした事、家庭、学校、職場でのトラブル、イライラして怒りを自制できなかった事、きつい言葉、悪い態度、その裏に不満が無かったか。

不満はサタンの策略だ。不満という餌で、罪に誘われてしまう。
即、喜びと平安を失ってしまう。敵の策略である事をわきまえよう。
「神に従い、悪魔に立ち向かえ」そうすれば、悪魔は逃げ去る。

心に不満がむくむくと湧くなら、サタンに気づき、サタンに立ち向かい、神に感謝を献げよう。神が働かれ、サタンは逃げ去り、感謝が見えて来る。不満が感謝に変えられる。
---------------------------------
感謝できない心がすでに、サタンに引き込まれている。繰り返す失敗の根っこに感謝できない高ぶりはないだろうか。むくむくと不満がわき上がる時、それを神様に持っていこう。


2009年05月10日(日)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミヤ33:3

ある女性がチームで仕事をしていた。あるプロジェクトで、皆で、案を持ち寄る
が、なかなか良いものがなかった。

ある日の早朝、突然アイデアがひらめいた。それをすぐリーダーに電話すると、
「それで行こう!」と決定になった。即、皆が集まり、その案に従って準備をし
た。
しかし、思った以上に準備が大変である事が判明し、時間には迫られ、皆のイラ
イラはつのり、ピリピリして、張り詰めた空気になり、一発触発状態だった。

誰かが何か言おうものなら、不満が爆発しそうだ。リーダーが余りの大変さに、
つぶやいた。早朝出勤して、食事もしていないと。

女性は、自分が責められているように感じて、内心「それが私のせいなわけ?」
と、ムッとなった。思わずキツい言葉を発しそうになり、その瞬間、自我だ!と、
心で「神様!助けて」と心で叫び、呼ばわった。

すると、口から出た言葉に、自分が驚いた。「ごめんなさいね。私がこんな案を
出したばかりに、皆に忙しい思いをさせて」。

すると、リーダーが、ハッとした表情で「いやいや、君のせいじゃないよ。こん
なに素晴らしい案を出してくれたんじゃないか」皆が「そうよ、そうよ。あなた
は何も悪くないよ」。

その瞬間、その場の空気が完全に一変した。荒んだ状況が、暖かい思いやりと、
温もり、潤いで満ちた。
職場に神が働かれた。皆で、和気あいあいと助け合って、その仕事は成し遂げら
れた。どんな時も、助けを求めて、主に呼ばわろう。主は働かれる。

・・・・・・・・・・・・
イライラ、トゲトゲの荒んだ状況の時に、誰かがへりくだると、その場に御霊の
潤いと温もりが現れる。自我は王様だが、主にすがり、呼ばわる時、主の助けが
臨む。祈る事、求める事は、自分にはできませんとの表明だ。主が出て下さる。


2009年05月09日(土)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:17

ある母親の経験だ。忙しく慌ただしい朝の準備の時に、子供が宿題をどこに置い
たかわからない。どうしても、今日提出しなければならない。

登校時刻が迫って来る。母親も仕事に出なければならない。幾ら探しても無い。
母親はイライラし、怒りが湧いて来る。いつも前日に準備するように言っている。

「何で、前もってちゃんと準備しないのよ!」腹が立って仕方がない。時間が無
い。その間も時はどんどん過ぎる。子供は泣きべそをかいている。

「すべての事について感謝しなさい」がふっと頭に浮かぶ。この事も感謝なんだ
と思う。しかし、一方では怒りがおさまらない。

子供を責め立てている。感謝だという気持ちと、同時にいら立ちが交錯する。い
よいよタイムリミットとなり、もうギブアップで、「神様!この事態を感謝しま
す!」と信仰を向けた。

すると、子供が「あった!」と叫んだ。思いもかけぬ所に置いていた。真に主を
感じた瞬間だった。一見マイナスの、不都合な出来事の背後に、必ず神の素晴ら
しいご計画がある。

感謝する事は、その事柄に神を認めることであり、それは、その事態を受け入れ
る事であり、信仰を献げることになる。神はその信仰に働かれるから、神のみわ
ざを見て行く。

不信仰はすべての道を閉ざしてしまう。今、目の前に非常事態があれば「感謝で
きませんが、感謝します」と、神を認め、受け入れて行こう。素晴らしいみわざ
を見ることになる。

・・・・・・・・・・・・・
神は正直な祈りに答えて下さる。口先だけの感謝でなく、感謝できないなら、ま
ず「感謝できません」と告白しよう。しかし、御言葉は感謝せよと言うので、自
分には出来ないが、感謝を「選択」しますと、信仰を献げよう。


2009年05月08日(金)

「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」申命記8:2



人の内側は、言葉によって表われ出る。主は「心に満ちていることを口が話す」と言われた。
心にあるものは、必ず出て来る。人の語る言葉によって、霊的な状態を知ることができる。

しかし、通りいっぺんの付き合いでは、本音が出ることはまずない。長い時間を過ごすなら、あるいは出て来るかも知れない。
だいたいは、表向き、外側を意識して内側を隠し、人は言葉をコントロールしている。

普段は、一応礼儀正しく振る舞える。コントロールの範囲内だ。
しかし、試練の時に、人は必ず本音が表われ出る。圧迫が来た時、問題が来た時、繕いきれないので、その余裕がないので本音が出る。

本当の内にある姿だ。霊的状態もあらわになる。荒野で民は本性が現われ出た。主は私達の真の姿をご存じだが、自分自身が自分の本当の姿を知らない。

主は建前のきれい事でなく、その本音こそを受け止めて下さっている。試練の時に出る反応が自分の真の姿だ。どうであれ、そのまま主の御前に行こう。

あるがままを主に告げよう。自らの姿を認めて行く時、悔い改めが与えられ、新たにされる。
そして、あるがままを愛して下さっている主を真に知る。

自らの真の姿を認めて行かない限り、成長はない。
痛く辛いが、必ずそこに真の平安と喜び、自由が備えられている。
-------------------------------
自分の正体を一番知らないのが自分かもしれない。内にある罪、誘惑に弱い部分、握って離せないもの。試練と共にあらわになっていく事が必要だ。そこに主がいて下さる。荒野も感謝だ。


2009年05月07日(木)

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたはこれら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4




主は「気をつけて、静かにしていなさい」と言われる。何か事が起きた時に、まず「主の前に静まれ」と。困窮事態に陥った時、私たちはどうするだろう。

驚き慌て、心騒ぎ、パニックになり、とにかく何とかしようと走り回るだろうか。主が飛んでしまって、主に頼らずに、自分の力、知恵、判断で、焦り、動き回り、何度失敗した事だろう。

対人関係で、もつれた時も、肉の感情に任せて言葉を発してしまう。
無思慮な、不用意な言葉で、更に関係を悪化させてしまい、取り返しのつかない事になる。何度後悔した事だろう。

何か起こると、焦り、何とかしなければと、神から離れて、肉で動いてしまう。又、祈るには祈るが、口先だけになり、神を待ち望むことをせず、祈った途端、自分で動き回り、失敗する。

まず神の御前に静まり、神の御声を聞こう。事態を主の御前に持って行き、祈り、委ね、ひたすら御心を尋ねよう。

ユダは敵対して来る隣国に恐れていた。しかし、主は敵対勢力の燃える怒りを「木切れの煙る燃えさし」と、恐れる必要がないと言われた。

あなたは、今、心騒ぐ事態があるだろうか。思い煩いや不安、又、怒りやいら立ちの中にいるだろうか。
感情に任せて動かずに「気をつけて、静まり」祈りに持って行き、主の御心を尋ねよう。
------------------
何ごとかが起こった時に、待つ事、静まる事には信仰が必要だ。ここに主がおられ、全てにご計画があり、それは益となり・・心弱らせる前に静まり、まず祈ろう。


2009年05月06日(水)

「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(ピリピ2:16)



私達は、ほとんど皆無名で、有名人ではないし、影響力はない。
しかし、毎日の同じ事の繰り返しの中で、単調な同じ仕事の中で、信仰を実践して行く事ができる。

ほとんどは同じ事を繰り返す、平凡な毎日だ。しかし、その中で、いのちの御言葉をしっかり握って、日々キリストと共に生きるなら、必ず周囲にキリストを現して行く事ができる。

主の発想や、態度、価値観、行ないが生活の中に現れ、御霊の愛、喜び、平安、寛容、親切・・を表して行く。その時、周囲に影響を与えて行く。

あなたの置かれている場所が、どんなに小さくても、目立たない場所でも問題ない。
仕事がどんな種類であれ、それも問題ない。

今いる場所で、御言葉に忠実に従って行くなら、主が、あなたを輝かせられる。
又、その場がどんなに暗くても、問題ない。暗ければ暗いほど、光は明るく輝く。

環境の問題ではない。環境が悪いと愚痴、不平、不満タラタラでなく、「つぶやかず、疑わず」その環境の中で、とにかく主を見て、御言葉に一歩従ってみよう。

自分自身が変えられる。心に平安や喜びが来る。そして、又、次の一歩を従ってみよう。従う者に、御霊の力が働き、神の栄光が現われて行く。それは周囲に証しとされて行く。
------------------
大事件に遭遇する時には、信仰を働かせよう、頑張ろうと思うだろう。しかし、いつもの日常、些細な場面が人生の大半だ。今、ここで御言葉を生きて行こう。御言葉に従う時必ず周囲に主の栄光が現れる。


2009年05月05日(火)

「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです・・」ヨハネ8:44



サタンは嘘つきだ。偽りの父であり、私たちを巧く騙す。
黒を白、白を黒と、何でも自由自在だ。真理がない。絶えず嘘で誘惑し、攻撃して来る。
間違った動機を正当に、良い動機を間違ったものにと混乱させる。

又、半分の真理に、半分の嘘を混ぜて来る。半分まともなだけに識別しずらい。又、誘惑は自分の欲望にピッタリと合致してやって来るので、自分の思いと一体化しているので、しばしば気づかない。

自分の思いと違っていたら、わかりやすいが、欺かれてしまう。エバが見事に誘惑に引っかかったように。

酔酒やギャンブル、妬み憎悪のようなストレートな罪なら簡単に判別できるが、良い事で、一見合法的な事で誘惑して来る。自己実現や、自己啓発、見た目には罪に見えない。

しかし、その動機の裏に自分の栄光が隠れている。目が向き続けているのは、どこまでも自己であり、根は自己愛だ。

又、趣味や、仕事、好きな事、それらは悪くなく、良いものだが、そこに落とし穴があり、時間が取られ過ぎて、霊的な事柄への時間が取れず、少しづつ、霊的食欲が減退させられて行く。

「すべてのことはしてもよい。しかし、すべてのことが有益とはかぎらない」罪ではないが、有益でもない事で、ダラダラと時間を浪費し、神との交わりの時間が圧迫される。
誘惑に要注意だ。判断の基準は、それをする事で霊的食欲が増進するか、減退するかだ。
-----------------
良い事であっても、悪い事でも霊的な時間が減り主から目をそらせれば、サタンの策略は成功だ。どちらでもいい。今、祈れているだろうか。御言葉に向き合う時間はどうだろう。
邪魔しているものに、気づいていけますように。


2009年05月04日(月)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから・・主は、きょうののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう」Uサムエル16:12



シムイという男がダビデとすべての家来たちに向かって、石を投げつけ、呪いの言葉を吐いた。「出て行け、出て行け」とウリヤ殺害の罪を罵倒した。

「血まみれの男、よこしまな者、主がサウルの家の血をおまえに報いた」と、盛んに呪った。「首をはねさせて下さい」という部下に、「主が命じられたのだから、彼に呪わせよ。放っておけ」とダビデは部下に報復を許さなかった。

神からの懲らしめ、訓練と受け取り、甘んじて受けた。
「私の子さえ、私の命を狙っている。この者としてはなおさらだ」、シムイどころか、実子のアブシャロムさえ自分に敵対している。

それゆえシムイの呪いも、神から出たものと受け取った。
信仰に立った、何とへりくだった、心と態度だろう。
「主は私の心をご覧になり、今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」。

ダビデから大きく学ぶ事ができる。どのような悲惨な状況の中でも、状況を変えようと、もがくのでなく、神の前に正しい心で、神のお心に適った心でいるなら、
それをも主が良い事への計らいとして下さる。

ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計ったが、神はそれを良いことのための計らい」とされた通りだ。相手の悪意すらも、あなたのために祝福と変えられる。

神の御前に正しい心で、神を見上げてとどまっていよう。神が報いて下さるしあわせを、必ず見ることになる。
----------------------
喜びであっても、苦しみであっても、前から来るものは全て神様からのものだ。懲らしめ、訓練も、へりくだって受け取り、御心は何かに焦点を当てていこう。神様の恵みは、いつもともにある。


2009年05月03日(日)

「主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください・・救いは主にあります」詩編3:7

ダビデは、バテシバとの姦淫の罪、ウリヤ殺害の罪を悔い改め、完全に赦された
が、自ら蒔いたものは、刈り取らねばならなかった。

実子アブシャロムが、自分に歯向かい、謀反を起こした。ダビデにとってどんな
に痛い、辛い事であったろう。

他でもなく、自分の子供が敵対して来るなど、どんなにか苦しく、心裂かれるよ
うな痛みであったろう。

彼は、武力により、鎮圧しようと思えば出来たが、そうせずに主に委ねて、自分
が去り、戦いにならぬよう、逃げる道を選択した。

祭司ツァドクとエブヤタルも、契約の箱をもってエルサレムを出ようとしたが、
ダビデが止めた。

理由は、「主の恵みにかなうならば、私を連れ戻して下さるだろうし、もし主が
心にかなわないと言われるなら、その時も私に、主が良いようにして下さる」。
それで、彼らはエルサレムに帰り、とどまった。

ダビデは、罪を犯す以前の、信仰によって歩むダビデだ。自分で自分を守ろうと
せず、自分でどうにかしようとせず、自分に関する事を、すべて主に委ねている。
ダビデの信仰だ。

そして、武力で立ち向かうのでなく、神のもとに行き、神に頼り、祈り、神に求
めている。

「私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えて下さる・・私
を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない」。
私達も問題が起こる時、なすべき事は、自分で動かず、まず主に呼ばわる事だ。

・・・・・・・・・・・・・・
ダビデは苦しみや痛みの中で、主に告げ、主に訴え、主に叫び、主に心の内の思
いや感情をことごとく知って頂いた。そして指針を求め、判断を求め、助けられ
た。目の前の問題、心の痛みを、まず主に告げよう。「聖なる山から答えて下さ
る」


2009年05月02日(土)

「主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ」Tサムエル24:18

ダビデはサウルに妬まれ、そのため命までつけ狙われ、追い回された。ダビデは
常に身の危険に逃げ回り、それは非常なる苦難であった。

ある時、ダビデがほら穴の奥にいると、何とサウルが用を足すために入って来た
のだ。ずっとダビデの悲惨な苦しみを見続けて来た部下は、今こそが、主が与え
たチャンスだと、ダビデに訴える。

主がダビデにサウルを渡された。この時を逃せばもう二度とチャンスは無いと。
ダビデにも、そのような思いが脳裏を駆け巡っただろう。

こんな状況は偶然には有り得ない。もしかして、主が正しく、今までの祈りに答
えて与えて下さったのではないか。きっとそうに違いない・・。

何の悪い事もしていないのに、命を狙われ、辛い逃亡の生活。それもいつ殺され
るかわからない、死と隣り合わせの非常なる恐怖と不安の日々。チャンスだ。心
に葛藤があったろう。
しかし、ダビデはサウル殺害を思いとどまった。主に油そそがれた方に、手を下
すなど絶対にできないことだと。

「主が」油注がれた、と「主に」目を向けたからだ。ダビデの中心はいつも
「主」であった。
このような苦境の中でも、どこまでも中心は「主」であった。だからダビデは王
として用いられた。

苦しい時、自分の事でいっぱいで、自己憐憫に陥りそうになる。しかし「主」に
目を転じ、「主」を中心にするなら、そこで、主が見ておられるように、状況を
見るように、変えられて行く。

その時、判断が守られ、又、状況は変わらないが、心には不思議な、主の平安を
経験する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
自分に目を向け、自分中心に状況を見るなら、まず自分に都合の良いように判断
してしまい、主の御心からそれてしまう。主のお心は?御言葉はどう言っている
のか?まず自分と状況から目を離し、目を「主」に転じよう。


2009年05月01日(金)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」箴言14:12



罪には快楽が伴う。罪はどす黒くて、苦いのでなく、大変甘くて、快適で、楽しい。
そうでなければ、罪になど誘惑されないし、これほど多くの問題は起こらない。

罪が苦いなら、誰が誘惑されよう。罪は甘い誘惑だ。
甘いから誘惑され、ひっかかって行く。よく心得ていよう。悪魔の策略だ。

肉に歩んでいながら、心地良いので、一見何の問題も無いし、幸せなのだ。
平安と勘違いする。万事うまく行っていると錯覚させる。
みこころに反していながら、気づかない。サタンはストレートに来ない。

それなら策略など要らない。策略とあるからには、狡猾巧妙、一見「まっすぐに」見えるから要注意だ。

最初は良いが、悪魔にだまされて歩んで行くと、必ず悲惨な結果に行き着く。
必ず人を傷つけ、自分も傷つく。それは死の道だ。

それだけでなく、蒔いたものは必ず刈り取る。蒔いたものに責任を取らねばならない。
これは原則なので例外は無い。神から離れて、御心に反しているのに、別に、楽しく順調なので、0Kと思ってしまうが、それは欺かれていて、悪魔の罠だ。

後で思い知り、苦しい刈り取りをする事になる。
悪魔の罠にはまると、人の目には、万事0K、うまく行っていると見える。

これが策略だと心していよう。幾ら心地良くても、きっぱり方向変換しよう。
その先は死だと、神が言われる。偽りの平安でなく、真の平安の道へ、神は手を取って導いて下さる。
--------------------
心地よく、順調に行く時、神様に頼りたずねる事もなく傲慢になって行く。自分はサタンに惑わされやすい者だということを常に覚えていよう。この道は御心の真ん中なのだろうか、と常に神様に聞いて歩もう。